魔法の非接触キー?を買わされた話

 ついに、というか、とうとう、ここ半年以上、全国で唯一新型コロナの「感染者ゼロ」で踏ん張ってきた岩手県から昨日の29日、感染者が出てしまいました。国内全体では、1日当たりの感染者が初めて1000人を超え、29日は過去最多の1261人。東京都で250人の感染者が出れば、大阪府も過去最多の221人、愛知県で167人、福岡県で101人と100人を超えてしまいました。

 ということを書いていたら、今、速報で、30日午後の東京都の感染者が367人とついに300人の大台を初めて超してしまいました。

 キリがないですね。もう「第2波」が来たと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 それでも、週刊現代は「第2波は来ない」と断言していますし、米大統領もブラジルの大統領も、そして、この間の都知事選候補の一人も「コロナは単なる風邪」と豪語していました。ベラルーシの大統領は「コロナはウオッカとサウナで治る」と、本人が感染しても全く動じることなく、無症状のまんま回復したといいます。

 何だかよく分かりませんね。渦中にいると、本人だけが状況を全く理解できないのと同じです。やはり、真相は何カ月か何年か経たないと分からないのかもしれません。

 となると、人それぞれの個性は態度で現れます。こんな御時世だというのに、マスクをしないで街中を平気で歩いている人がいれば、とにかく人を避けて家に閉じこもっている人もいます。

 私の周囲にいる友人知人も千差万別です。「三密なんか気にしてられるか」と言って夜の街に繰り出して飲み歩いている人もいれば、社内でフェイスシードをして神経質そうにビクビクしている人もいます。

 そんな中で、今日一緒にランチに行った小早川君は、どちらかと言えば後者で、「これは必需品だぜ」と鍵のようなものを見せびらかすのです。

それが、上の写真です。

 正式名称は分かりませんが、「非接触キー」とか何とか呼ばれているらしく、これでドアのノブを開いたり、エレベーターの階の番号を押したりして、とにかく、感染しないように、他人が触ったものに接触しないようにするキーだというのです。

 なんじゃこれ!? ですよね?

 そんな話をしているうちに、会社の近くで、彼がそのキーを買ったという店を通り掛かりました。

 「おお、ここで買ったんだよ。君も買ったら?あ、そうだ、もう一つ、息子の分も買って行くよ」と言って、銀色のキーを持って、レジに行きました。

 戻ってくると、彼は「あれっ?まだ買ってないの?迷ってるの?駄目だねえ」と言う始末。お店の回し者かと思いましたが、値段は660円。まあ、ブログに載せるために、ただそれだけのために買うのもいいか、と思い直し、いつの間にか、私もレジに走っておりました(笑)。

 私が金色のキーを買ったものですから、小早川君は「金色を選ぶとは欲深いな。湖に斧を落とした木こりが、悩んでいたら、神様が出てきて、『お前が落とした斧は、金色の斧かね?それとも銅色の斧かね?』と尋ねる話知っているか?」とまで、言うのです。

 そこまで言いますかねえ?

 まあ、折角買ったので、会社のエレベーターで、早速このキーを使ってみました。

 玩具みたいなもんです(笑)。まさにSFの世界です。経済の需要と供給の世界なので、こんなものが売られ、買う人がいるということでしょう。けど、まさか、こんな時代が来るなんて思ってもみませんでしたよ。

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

「川越城本丸御殿」訪問記=日本100名城

世間の皆様と同じように4連休でしたが、雨が降り続いて、どうも外に出る気がしませんでした。一体いつになったら梅雨は終わるんでしょうか?こんな長いのありましたかね?(調べたら、梅雨明け最短は、2018年の6月29日。最遅は1982年の8月4日だとか)

 家に閉じこもり、本を読んだり、録画した番組ばかり見てましたが、今日は思い切って川越城に行ってみることにしました。

川越・藏の街通り

 実は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」と「続 日本100名城」(学研)の公式ガイドブックを買ってしまい、パラパラめくっているうちに、やはり、「100名城」ぐらい生きているうちに行っておかないと、と思ってしまったからなのです。

川越のシンボル「時の鐘」

 日本では、山城、城址、城郭、国宝・重文の現存12天守をひっくるめて「城」とすると、全国で3万あるとも5万あるとも言われています。一生のうちで全てを回るのは、まあ、大変というか難しいことでしょう。

 私はこれまで50以上のお城を回ってますが、そろそろ、残された時間も有限になってきたので、名城に絞って行きたくなりました。

 ということで、まずは自宅近くの関東近辺のお城は取り急ぎ、日帰りで行ってみようかと思ったのでした。

 川越は、通訳ガイドの研修で行って以来、多分、6、7年ぶりです。昔の記憶を頼りに行ってみましたが、すっかり忘れてしまっておりました。これではガイドになりませんね(笑)。

 でも、観光地らしく、案内地図があちこちにあったおかげで、迷子、いや迷い人にならずに行けました。

最初に目指したのは、川越城本丸から北西に位置する東明寺です。

ここは、歴史に名高い「河越合戦(夜戦)」が1546年春に行われた激戦地です。

 ここは、小田原の北条氏康率いる軍勢8000が、関東の反北条連合軍8万を夜戦で打ち破った古戦場です。この「東明寺口の合戦」では、扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定が討ち死にし(病死の説も)、扇谷上杉氏が滅びて、関東の国衆の多くが北条方の傘下になった歴史的戦争でした。

 詳しくは、上記に書かれております。北条氏康は、川越城に立て籠もる義弟北条綱成以下3000の兵を加勢に出陣したわけです。

 関東連合軍(関東管領の山内=やまのうち=上杉憲政、古河公方=こがくぼう=足利晴氏など)の8万の数は疑わしいという説がありますが、とにかく、関東一円が、北条氏の支配下に決定的となった歴史的な戦なのです。

 河越(川越)夜戦の激戦地、東明寺は、一遍上人の時宗だったんですね。知りませんでした。先日、時宗総本山清浄光寺(遊行寺、神奈川県藤沢市)にお参りに行ったばかりですから、不思議な御縁を感じました。

 この日はたまたま、どなた様かの法事があり、境内の本堂からお経が聞こえてきました。ここの御本尊様は、虚空蔵菩薩でした。

 河越合戦から約半世紀後の1590年、小田原北条氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円(主に武蔵国)は、三河出身の徳川家康に委任されたことは御案内の通りです。

 東明寺まで、JR川越駅から歩いて30分という話でしたが、50分ぐらい掛かり、結構それだけで疲れてしまいました。

 しかし、これからが本番です。川越城本丸御殿を目指します。(結局、東明寺から20分は掛かりました)

 途中で、川越城中ノ門と堀があったので見学しました。

 川越市内は、今ではすっかり商店街と住宅街になってしまいましたが、ここのお堀だけは歴史的遺産として残すことが決まったといいます。

 見ていると、往時が偲ばれ、きらびやかな商店が並ぶ観光地・川越が、実は、城下町だったことがこのお堀で分かります。

 中ノ門堀の仕組みは、上記の通りです。

 川越市役所の前に銅像があり、「あの人かな?」と思ったら、やはり、太田道灌でした。

 太田道灌は1456年、主君扇谷上杉持朝の命で、父道真(資清)とともに、河越城を築いた人です。(続いて、太田道灌は、岩槻城も築城したと言われていましたが、最近は、そうではなかったという異説が有力になっているようです。岩槻にあった太田道灌の銅像、あれは何だということになりますが…)

 翌57年には、古河公方に与する房総の千葉氏を抑えるために、武蔵国豊嶋郡に江戸城も築きます。

 後に関東の覇者となった家康が、この江戸城を拠点としたので、太田道灌を特別に英雄視したと言われています。でも、当たっていることでしょう。

 扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌はあまりにも優秀だっため、主君上杉定正は自分の地位が脅かされるのではないかと不安と疑念を抱き、ついに道灌を謀殺してしまうからです。

 先日、お城に関連したテレビ番組を見ていたら、ある若い美人の女性タレントさんが、「江戸城ってどこにあるんですか?」と聞き、お城好きで知られる落語家から「皇居ですよ」と教えられると、「えー、知らなかった」と叫び、その落語家も見ていた私ものけぞって驚きました。

 皇居が江戸城だったことを知らなければ、明治維新も知らないだろうし、戦前まで言われていた宮城も知らないだろうし、徳川将軍も知らなければ、まさか、太田道灌のことも知らないだろうなあ、と思わず確信してしまいました。

 さて、話が脱線しているうちに、川越城本丸御殿に到着しました。

 川越は、昔から何度も行ったことがありますが、お城に行くのは何と今回が初めてです。この本丸御殿の近くに野球場があり、広い駐車場もあり、その辺りに昔、駐車したこともありましたが、当時は城にはさほど興味がなかったので、ここに本丸御殿があることなぞ、知るよしもなし。

 入るのに検温と消毒と、それに名前と電話番号まで書かされました。(本丸御殿、市立博物館、市立美術館の3館共通券で370円)体温36度4分。

 上の写真は、本丸御殿に移築された家老詰所です。

 明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていたのが、昭和62年に川越市に寄贈され、ここに移築されたとか。

 中では、御家老連中が真剣な表情で、評定しておりました。幕末は、三浦半島やお台場などの警備を川越藩は一手に任されるのですから、大変な重役です。

 中庭もなかなか風情があってよかったです。江戸時代にタイムスリップ。

 本丸御殿から少し南に位置する高台にあった川越城富士見櫓跡です。

 川越城は、天守がなかったらしく、この富士見櫓が藩内で一番高い建物だったそうです。昔は、ここから富士山がよく見えたそうです。

鳥良商店のユーリンチー定食858円

 川越城本丸御殿のあと、道路をはさんで隣りの川越市立博物館と同美術館を覗いてきました。それぞれ、かつては二の丸、三の丸があった所です。再び、三度、検温、消毒、名前と電話番号を明記。

 川越藩は、隙を伺う伊達藩などの東北に睨みを利かせる要所となる親藩ですから、代々の藩主は老中になるなど幕閣の逸材を輩出しました。

 特に有名な人は、三代将軍家光の小姓も務めたこともある、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)です。野火止用水や川越街道を整備したり、川越祭りを始めたのもこの人だといいます。

 彼は、何と言っても、中年の頃、島原の乱のために出兵し、最後は総大将として乱を平定しています。戦後、この功績で忍藩から3万加増されて6万石の川越藩に移封されたわけです。

 松平信綱の墓は、小生も子どもの頃からよく行ったことがある臨済宗妙心寺派の平林寺(埼玉県新座市)にあります。昔は、私の母校・東久留米第四小学校(廃校)からこの寺まで歩く「歩行会」があったり、友だちの誕生会があったりして、広い境内の野原でシートを敷いて飲食したり、鬼ごっこをしたりしていましたが、HPを見たら、今は、飲食は、禁止されているようです。

 世の中、世知辛くなりましたねえ。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

「Go to トラブル」じゃなかった「Go to トラベル」キャンペーンの舞台裏

 今日から始まる「Go to トラブル」じゃなかった「Go to トラベル」キャンペーン。一転して「キャンセル料」を払うだの、「東京だけ除外」するなど、混乱のスタートです。しかも、割引対象の観光事業者未定のまま見切り発車とは驚きです。

 そもそも、1兆3500億円もの巨額の国民の税金をこの観光キャンペーンにかける価値はあるのかしら、と素朴な疑問を抱いていたら、その「ワケあり」について、今日発売の文春砲が暴いてくれました。有力政治家と観光業界との切っても切れない「持ちつ持たれつ」の濃厚接触関係です。江戸時代の代官と出入りの商人との間で交わされる「越後屋ぁ、お前も悪やのお~」という情景が浮かびます。

 特に、文春によると、自民党幹事長の二階俊博氏をはじめ自民党議員37人が、観光業界から少なくとも約4200万円の献金を受けていたといいます。「Go To トラベル」キャンペーンの実現を率先した二階幹事長は1992年から30年近く全国旅行業協会の会長を務めているといいますから、これでは「見え見え」じゃありませんか。

 菅義偉官房長官も、「子分」の黒岩神奈川県知事や森田千葉県知事に対して、キャンペーンを推進するよう圧力をかけたのではないかという疑惑も報じています。他の有力議員が、感染拡大が続いている首都圏の千葉、神奈川、埼玉もキャンペーンから除外するべきだと主張したのに対して、菅氏は、気に食わない小池百合子都知事に対抗するため、最後まで「東京だけ除外」を貫き通したといいます。

 これは、文春が書いているだけですが、何で新聞は書かないんでしょうかね?文春砲を読まなかったら、このドタバタ悲劇の舞台裏がさっぱり分かりませんでしたよ。

 二階氏(和歌山)も菅氏(神奈川)も観光業界から献金を受け取った自民党議員も国民が選出したわけです。

 その国民ですが、キャンペーンだから割引を利用して旅行に行く、東京発着はキャンペーンから除外されたからキャンセルする、当然、キャンセル料は、税金で負担してもらう、というのはあまりにも情けないというか、どうも大変失礼ながら、浅ましく見えてしまいます。何で最初から、丸々、自腹を切って、旅行を楽しもうとしないんでしょうか?

 まあ、個人個人、色んな複雑な事情を抱えているわけですから、第三者の他人からとやかく言われる筋はない、と言われればそれまでですけどね。

 私自身は、今の日本の政治風土というか世間の風潮には違和感を覚え、生きているだけで息苦しさを感じています。

土用の丑の日は「竹葉亭」木挽町本店のうな丼

7月21日、今日は土用の丑の日。

 長期入院を余儀なくされている方もいらっしゃるというのに、大変申し訳ございません。本日は、一世一代の懸け、といいますか、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、お昼に豪華「うな丼」を食して参りました。

 そんじょそこらの「うな丼」ではありませんよ。な、な、何と、竹葉亭です。

 スーパーやファミレスやファストフード店の「うな丼」ではありません、念のため。

 しかも、竹葉亭の中でも、銀座支店ではありません。木挽町本店です。分かったかああ?頭が高いぜよ…

 ははあああ、御意。

 竹葉亭は慶応2年、江戸は大富町(東京・新富町)で創業の老舗です。日本を、いや世界を代表するうなぎ店でしょう。

 私もうなぎは大好きですから、調布先生のお導きもあり、色々なうなぎ店を行脚したものです。

 思い出深いのは、十三世片岡仁左衛門が贔屓にしていた「小満津」(京橋から現在東高円寺に移転)、十一代将軍家斉の寛政年間創業の「野田岩」(麻布飯倉本店と日本橋高島屋店)、浅草の「色川」(文久元年創業)、築地「宮川本廛」、神保町の「なかや蒲焼店」、関内「わかな」、小江戸川越の「いちのや」(天保3年創業)、浦和で最も古い「山崎屋」(創業文政年間頃)…。

 まだ、行ったことはありませんが、一度行ってみたい老舗は、重光葵が贔屓にした日本橋の「伊勢定」、評判高い駒形の老舗「前川」、そして何よりも神楽坂の「たつみや」。ここはジョン・レノンがヨーコに連れられて入った店ですからね。

完食 写真を撮るのが難しかった 赤羽村長の苦労が分かりました

 肝心なお味ですか?

 いやあ、グルメ雑誌でもテレビでもないので、野暮なリポートはやめときましょう(笑)。

 竹葉亭は、他店と比べると上品な味付けだと思います。個人的には、表が少しカリッとして中がふんわりと焼いた「野田岩」が一番の好みですが。

 以前は、と言っても6、7年ぐらい前までは、うな丼ならランチで1200円ぐらいで食べられましたが、今は、高騰してしまい、夢のまた夢です。

 今、竹葉亭木挽町本店の昼メニュー「うな丼」(B)は、3520円です。…明日から当分、立ち食いソバになりそうです。

またもや感染者

 月曜日に出勤したら、社内でまたコロナ感染者が出たという話が伝わって来ました。今回は私の職場とはフロアが違いますが、どうも会社全体で緊張感が見られません。昨日の日曜日に消毒を済ませたらしいのですが、あんまり甘く見たら、また感染者が出てくるんじゃないのでしょうか。

 緊張感があるのは、高齢者が多い我々の部署ぐらいです。他の皆んなは、何処か他人事のような振る舞いですが、よく言えば、実に冷静でパニックにならずに落ち着いているという言い方もできるかもしれません。

 でも、人間は痛い目に遭わなければ分かりません。重症化して死者でも出れば、社内でもパニックになるかもしれませんが、それでも慣れて、また普段と変わらない生活を送ることでしょう。懲りないのです。「嗚呼、今日は一人で済んだかあ」で終わり。代わりは他に何人もいますから。

いわし定食 1050円

 それにしても、最近の政治のドタバタ、アタフタぶりには目を覆いたくなります。特に、「Go toキャンペーン」か、「強盗キャンペーン」かよく知りませんけど、ここ1週間、200人前後の感染者を輩出している東京を対象から除外したり、赤羽国交相が、団体や高齢者の旅行を控えるよう命じたり、迷走しています。どんな基準なのか、よく分かりませんが、首都圏の神奈川、千葉、埼玉は東京と同じような増加傾向ですし、大阪だって、昨日19日は89人とこれまでの2番目に多い感染者を記録していますから、東京だけ除外するのは辻褄が合わない気がします。

 今朝の東京新聞1面トップに出ていた共同通信の調査(7月17~19日)によると、22日開始予定の観光支援事業「Go to トラベル」キャンペーンを全面的に延期するべきだとした人が62.7%に上ったといいます。私も延期するべきだと思っています。

 Go toキャンペーンは、頭が良い若き高級官僚が考えつきそうな話ですが、同じ税金を使うのなら、まず最初に医療従事者やワクチン開発に投入すべきではないでしょうか。東京女子医大病院は、看護師にボーナスを支払わないとかで、400人もの大量の看護師が退職するという騒ぎになっています。創業者一族である吉岡理事長の施設充実化に多額の原資を掛ける余裕があるなら、職員の一時金に回すべきたという看護師側からの主張です。目下、「経営者側」から歩み寄りもあり、今後の事態に変化がありそうですが、世間に悪い印象を与えてしまった感があります。

 本当に毎日、暗い、苦々しいニュースばかり聞かされます。

 「ボーヨー、ボーヨー」(前途茫洋)と中原中也のように呻きたくなりますよ。

米国差別の構造=そして誕生日メッセージ御礼申し上げます

あまり個人的な話を書くことは気が引けますが、昨日は誕生日で、予想もしなかった多くの家族親戚友人知人の皆さんから多くの祝福メッセージを頂きました。有難いですね。お一人おひとりの名前は茲では書けませんが、本当に感謝申し上げます。

 ただ、フェイスブック(FB)もやっているせいで、強制的に誕生日が通知されてしまい、本当に甚だご迷惑のことだったと存じます。だからFBは嫌いなんですよ(苦笑)。

 FBは個人情報満載ですから、勿論、実年齢はバレてしまいます。昨日の誕生日は、私にとって大変特別でした。皆さん御案内の通り、私はビートルズ・フリークです。彼らが1967年に発表したアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」に収録されている曲「When I’m 64」があるからです。1967年ですから、今から実に53年前。当時、アルバムは高くて買えませんでしたから、最初はラジオで聴きました。ビートルズと言えば、ロックですが、この曲は、ポールの作品で、影響を受けた1930年代のジャズ風の明るい曲です。

 今から何年も先の話だけど、歳を取って髪の毛が薄くなっても、君はバレンタインや誕生日を祝ってくれるのかなあ。ワインのボトルで。僕が64歳になった時に。君も同じように歳を取っていることだろう。孫たちが膝にまとまりついているかな。ーといった内容です。

 実に53年間、私も何百回も聴き続けてきましたからね。ついに、その歳になってしまいました!

 そんな特別な誕生日に娘夫婦が自宅に招待してくれて祝ってくれました。婿殿は米国人。ハーフの孫はもうすぐ1歳8カ月で可愛い盛りです。ビートルズの「When I’m 64」の再現です。まさに正夢です。

婿殿の誕生プレゼント

 婿殿は、かなり高価な日本酒「越王」を奮発して買ってくれました。日本語があまり出来ず、かなりシャイな性格なのですが、一緒にお酒を飲むと、やっと少し饒舌になり、こちらの質問にも色々と応えてくれました。こんなに深くしゃべったのは初めてぐらいです。

 例えば、小池都知事が口癖のように言っていた”Stay home” は和製英語ではないか? Stay at home が正しいのではないか? もしかして、Stay the home が正しいのかもしれない…。小生の愚問に丁寧に答えてくれました。こういう時に、身近にネイティブさんがいると便利ですね(笑)。

 彼によると、やはり、Stay home が一番正しい。「外に出ないでください」というニュアンスが強くなる。Stay at homeだと、「特定の家に留まるように」と限定される。at は場所が限定される。at the restaurant のように。Stay the home は間違い。home にtheは付けない。theを付けるとしたら、the house になる…まあ、こういった感じです。

 日本人、いや外国人にとっては、英語の冠詞や前置詞が一番難しいものです。

 例えば、It’s nice to talk to you.と It’s nice to talk with you.の違い。前者のtoだと、「貴方とお話ができて光栄です」と丁寧になりますが、後者のwith だと、「君とおしゃべり出来て楽しかったよ」とお互いの立場が対等に近いニュアンスだというのです。こういうのなかなか外国人は分かりませよね。

 今、米国で一番話題になっているのが Black lives matter(黒人の命こそ大切)運動です。黒人のジョージ・フロイド氏がミネアポリスで警察官に圧死させられて全米、全世界でこの運動が広がりました。婿殿は黒人ではありませんが、米国内ではヒエラルキーの上位に属さないので、差別については、大変よく理解できるというのです。

 米国の階層は、白人、ヒスパニック、アジア系、黒人ぐらいの区別しか日本人の多くはできませんが、彼によると、もっともっと複雑でした。白人の中でも差別意識があり(それらは職業や住居などに表れる)、「支配階級」の一番トップは、アングロサクソン系、次がドイツ系、その次がフランス系辺りじゃないかといいます。同じ白人でも後から来たイタリア系や英国と長い間戦争していたアイリッシュ系は下に見られる。ポーランドやハンガリーなど東欧系も同じように見られる。でも、ロシア系は国力があるので、かなり上のランクだそうです。そして、ユダヤ系はやはり、上位ではありません。

 続いて、ヒスパニック。ラティーノと呼ばれることもあります。ヒスパニックの中でもスペイン系は白人なので、白人系に属してかなりの上のランク。同じヒスパニックでも米国に近いメキシコ系はまだましですが、その下がペルーやコスタリカなどの南米系、その下がホンジュラスなどの中米系、最後はプエルトリコなどカリブ海系のヒスパニックなんだそうです。なぜなら、カリブ海系は肌の色が黒い人が多いからです。彼は「結局、見た目で判断されます」。(そう言えば、英国人は植民地の現地人とほとんど結婚しませんが、スペイン人は現地人との混血が進んだ。そのため、肌の白いヒスパニック系が多くなったといいます)

 続いてアジア系は、「エイジアン」の一言でお終い。米国人は、日系と韓国系と中国系が全く区別できないから「エイジアン」の一括りで、多くの米国人は、アジアの国の文化も理解しようとしないし、区別しようともしないといいます。東南アジアもエイジアンですが、インド人は、エイジアンとは言わず、インディアンと別のカテゴリーになります。これも、インド人の肌がやや黒いからです。

 黒人は、アフリカンですが、例えば、アルジェリア系、エジプト系、コンゴ系は民族も宗教も文化も全く違うのに、全部いっしょくたんで、区別しようとしないそうです。

 ロサンゼルス出身の婿殿が、差別問題で印象的だった事件の一つは、2013年2月に起きた「クリストファー・ドーナー事件」だというのです。クリストファー(クリス)・ドーナーは黒人で、ロス市警の優秀な警官でしたが、同僚の白人女性警官の不正を告訴したら、逆に解雇されたというのです。彼は「人種差別だ」とすっかりキレてしまい、ロス市警の家族ら3人を殺害し、山小屋に逃亡したところを見つかり、銃撃され、最後は警察によって爆死させられた可能性が高いという事件です。

 この間は、ロス市警は黒人と見れば、怪しいと銃撃して、誤射で何人かの黒人が亡くなったといいます。そこで、街では、「僕はクリス・ドーナーではありません。どうか撃たないでください」と大きくプリントしたTシャツが黒人の間で飛ぶように売れたそうです。

 いやあ知りませんでしたね。婿殿はこういう治安の悪い米国が嫌になったことが、日本に来るきっかけになった一つだったようです。「米国では、車のスピード違反が白人だったら、警官は『今度は気を付けなさい』で終わってしまうが、黒人ではそうはいかない。日本は平気で何処でも安全に歩き回れるけど、ロスでは絶えず緊張して外に出なければならない。いつ、何処からか銃弾が飛んで来るか分からず、心が休まらなかった」と打ち明けてくれました。

効くのかしら「補中益気湯」?

 ついに、とうとう私の会社の社員から新型コロナ感染者が出ました。

 私がこの事実を知ったのは、今朝の新聞ですよ。まるで「マスコミ辞令」ですね。知らぬは本人なりけり、です。昨日は社内の部署で一切話題にならなかったので、知っていた人はごく一部だったと思われます。でも、会社が会社なので、灯台下暗しです(苦笑)。

 感染した人は、九州の現場に行って罹ったので労災かもしれません。でも、発症が早すぎるので、東京で罹った可能性もあります。恐らく彼は今、自宅待機か、病院にいるのかもしれませんが、その人の部署は、私と全く同じフロアで、すぐ近くなので、……(そう、この後、何と書けばいいというのでしょうか?)

 とにかく、あまり甘く見ないことにしています。

 昨日16日は、東京での感染者が286人と過去最大を記録しました。国内で622人です。もう第2波がやってきたのか、「夏は落ち着く」と言っていた専門家の予測が間違っていたのか、真実は、後世にならなければ判明しないことでしょう。今の時点で後付け解釈はするべきではないと思っていますが、事実、感染は拡大しています。

 7月16日現在、日本国内での感染確認総数は2万4443人、死者998人となっていますが、米国では1日の感染者が6万人前後と、驚くほど桁違いです。昨日の東京新聞に、6月1日と7月14日の感染者の比較が出てました。それによると、アリゾナ州では6月に感染者が187人だったのが7月は4274人。死者は11人から92人に。テキサス州では感染者が593人から1万0745人、死者が6人から87人に増加。フロリダ州では、感染者667人から9194人、死者が9人から113人と激増したというのです。音信不通になったテキサス州に住む友人の安否が心配です。

 これでは、トランプ大統領の再選は黄信号、いや赤信号が灯りそうです。

 また、我が身を振り返って、「コロナは単なる風邪」と主張する人はいますが、自分として「危ない」と気を引き締めて、細心の注意を払っていきたいと思ってます。従って、まだ、友人たちとの居酒屋談義は再開できていません。残念ですが、周囲に迷惑掛けたくありませんからね。

 もう一つ、一部の医療関係者の間で「コロナに効く」と評判の漢方の「補中益気湯(ほちゅうえっきとう)」をやっと入手できました。都心のドラッグストア(はっきり言ってマツモトキヨシ)では売っていなかったのですが、自宅近くのドラッグストア(はっきり言ってウエルシア)には売っておりました。4378円。サプリメントも効くかどうか分からないし、これも本当に効くかどうか分かりませんが、まあ、気休めにはなるでしょう(笑)。箱の裏の効能には「体力虚弱で元気がなく、…疲労倦怠、病後衰弱、食欲不振」などと書いてあります。そうですね、最近、疲れが取れず、ブログなんか書いているせいで、目、首、肩、腰が痛く、満身創痍で元気がないので、この薬をのめば効果あるのかしら?

 そうそう、効能には最後に「感冒」としっかり書いています。信じる者は救われる?