初のブラジル料理、そして共同通信出身が首相補佐官になるとは!

銀座ブラジル料理「バッカーナ」のステーキ・ランチ1320円

 このブログを熱心にお読み頂いているAさんから「『銀座のランチ』を楽しみにしています」とのメールを頂き、「他の記事はつまらんのかなあ」と内心、しょげつつ本日もまずは銀座のランチの話題をー。

 コロナ禍で海外旅行ができないので、せめて世界各国の料理を銀座で食べ歩きしている、という話をいつぞや書きましたが、昨日はブラジル料理に挑戦してみました。多分、私自身、ブラジル料理は今回生まれて初めて食したかもしれません。

 とはいっても、ランチメニューにあったのは「ステーキ・ランチ」のみでした。150グラムと300グラムがあり、私は勿論、150グラムの方を選びました。ステーキですからね、残念ながらブラジルらしい独特の料理とはいえませんでした。サラダ・バーがあり、選び放題、食べ放題でした。レタスのほか、トマトやブロッコリーやコーンやピクルスやポテトサラダまであり、それに加え、カレーまでありました。御代わり自由。空腹の時にこの店を選べば良いかもしれません。

ステーキ・ランチ 左上がビーフカレー、それにブラジルのマテ茶

 でも、カレーはお米が外米なのかちょっと…という感じで、カレールーも少し甘ったるくて、正直いただけませんでした。肉も堅かったなあ…。これは個人的感想で、超有名店にケチをつける意図は全くありません、ということを断っておきます。

◇共同通信出身が首相補佐官に

 さて、昨日29日の閣議で、共同通信社・前編集局論説副委員長の柿崎明二氏(59)を10月1日付で首相補佐官に起用するというニュースが飛び込んできました。加藤勝信官房長官は「政治・行政分野の報道活動に従事するなど幅広い知識と経験を有しており、適任だと首相が判断した」と起用の理由を説明しましたが、「いかがなものか」です。

 柿崎氏は菅義偉首相と同じ秋田県出身ということが決め手になったようです。地元紙の秋田魁新報(電子版)も「メディア出身者が国会議員を経ずに首相補佐官に起用されるのは初めてだ」と、おらが故郷出身者が出世して手放しの喜びようですが、何か引っ掛かりますね。

 そもそも、メディアというものは、権力を批判してこそ存在意義と価値があるものです。権力者側に立つのではなく、虐げられた弱者の立場に立って物事を俯瞰して考えてこそ、メディアです。たとえそれが青臭い書生論で、建前に過ぎないと言われようが。

 となると、メディアから国家権力の中枢に潜り込むということは、監視され取り締まられる側から、一挙に監視し取り締まる側になるということで、180度違うコペルニクス的転回と言えるのです。これまでさんざん政府や政権を批判してきたのに、持論や思想信条や宗旨まで変えて、まさに変節したことになります。

 私自身は政治部記者をやったこともないし、柿崎氏を知っているわけではなく、共同通信には何人かの友人・知人がおり、個人的な恨みもやっかみも何もないのですが、寅さんのように「それをやっちゃあ、おしめえよ」と言いたくなります。

 私はテレビのワイドショーの一部は不愉快になるので見ないようにしていますが、コメンテーターとして出演した柿崎氏は、いつもは体制べったり派で安倍政権の代弁者と言われた時事通信社出身の田崎史郎氏とは正反対の意見を述べていたのに、最近は、田崎氏に同調して政権寄りの発言が増えてきたと聞きます。まさに、官邸入りを見越していた、と批判されても仕方ありませんね。

 こんなこと書いても、何の足しにもなりませんが、菅政権の政策に少なからず影響を与える首相補佐官は、共同出身だということを国民は一時も忘れてはいけません。

 

「首相動静」熟読のお薦め

 菅義偉首相の一日(動静)を見てみると、出張の日を除いて、普段は朝6時半ころにはお住まいの東京・赤坂議員宿舎を出て、官邸内を散歩して、永田町のザ・キャピトルホテル東急内のレストラン「ORIGAMI」や虎ノ門の「The Okura Tokyo」ホテル内のレストラン「オーキッド」などで朝食を取ってから、執務に入ることが多いようです。菅首相は「朝型人間」なんですね。

 朝食は,お一人や秘書官と取ることもあれば、何と竹中平蔵東洋大教授とも密談されることもあります。夜は、麻生太郎首相(当時)とは違って、あまり高級料亭で会食されることはないようです。目を引いたのは、9月28日 西大井の迎賓施設「志高荘」で似鳥昭雄ニトリホールディングス会長らと会食したことでしょうか。この志髙荘というのはあまり聞いたことがないので、調べてみました。

 志高荘は、「日経不動産マーケット情報」誌によると、ニトリが2017年に、東芝の迎賓館「東芝会館」を買い取ったもので、敷地面積は6422平方メートル。2階建ての和風邸宅は、1941年に日本コロムビアの三保幹太郎社長(当時)の私邸として建築され、1953年に東芝に譲渡されたといいます。ニトリの買収価格は不明ですが、地元不動産業者によると、土地だけで35億円は下らないといいます。

 へー、面白いですね。当時、上場二部落ちしてしまった東芝に対して、ニトリは31期連続増収増益を記録し、飛ぶ鳥を落とす勢いの家具チェーンでしたからね。何か、「平家物語」の諸行無常…の文句が思い浮かびます。

 ついでながら、日本コロムビアの三保幹太郎社長が気になって調べたら、広島県出身で日本産業=日産コンツェルンを創業した鮎川義介(満洲の二キ三スケの一人)の懐刀と言われた人で、満州重工業開発の理事を務めた方だったんですね。まあ、戦前の富裕層は桁違いです。この三保幹太郎の子息が慶応大学を出てジャズミュージシャンになった三保敬太郎(1934~86)です。彼がラジオでDJをやっていた番組を昔よく聴いたことがあります。レーサーでもあり、事故死したレーサー福沢幸雄(1943~69、福沢諭吉の曾孫で、歌手小川知子との恋仲が週刊誌に書きたてられたことを覚えています)とは慶応幼稚舎以来の親友だったんですね。酒に酔って階段から転落したことが原因で51歳の若さで亡くなっていたことまでは知りませんでした。

 首相動静から飛躍して色々と調べていくと、発展して、色んな興味深い事が出てくるものです。我ら国民の代表で最高権力者である首相の動向を毎日、熟読すれば、思わぬことまで色々と出てきます。是非、お読みになることをお薦めします。

 何? 新聞取ってない? 嗚呼…、何をか言わんや…

英語翻訳は難しい=深い悩みに苛まれて生き抜くしかない

 昨日、携帯のiPhoneのソフトウェア・アップデートを行ったところ、普段なら30分ぐらいで終わるのに今回は、iOS14.01にバージョンアップしたせいか、1時間半も掛かってしまいました。

 バージョンアップしたら、最初の画面まで変わり、これまで見かけないアプリも勝手にインストールされていました。それは、「翻訳」アプリで、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、韓国語など10カ国語の翻訳ができます。

 ちょっと、試してみたら、まあまあ、なかなかの出来でした。人工知能(AI)か、ビッグデータか知りませんが、昔と比べてかなり精度が上がっていました。でも、英語和訳は、私はかなり難しいと思っています。中学生でも分かる簡単な英語でも、真逆な意味になることがあるからです。

 例えば、No kidding.  普通なら、「まさか」とか「冗談でしょ?」という意味なのですが、最近では「全くその通りです」と肯定の意味で使われているのです。

 もう一つ、Tell me about it.  普通なら「それについて私に教えてください」という意味なのですが、「もう分かったからいい加減にしてくれ」という使い方もあるのです。真逆ですね。

 You’re so beautiful. も素直に取ってもいいのですが、会話の中で、発音や身振りを交えれば、かなりの正反対の真逆のニュアンスを皮肉を込めて意味することすらできます。これはAIではまだできないでしょうね。

 何と言っても、英語の難しさは、単語の少なさにあると思います。日本語の「私」は、僕、俺、乃公、吾人、あっし、てまえ、おいどん、わし、あたい、自分…まあ、いっぽいありますが、英語なら「I」だけです。ということは、Iには、僕から自分までさまざまな「私」を含んでいることになります。AI翻訳機はそのうち、そこまで微妙なニュアンスを翻訳できるようになるかもしれませんが、もう少し時間が掛かると思います。

 さて、話は変わりますが、最近、ボケーと生きていたら、このブログのサイトから広告が消えていたことに昨日、気が付きました。IT技師長のM氏に調べてもらったら、8月9日あたりに「テーマ」をアップデートした際、PHPが書き換えられて広告がなくなってしまったというのです。昨日すぐ復活してもらいましたが、1か月半無駄にしてしまいました。

 この渓流斎ブログは2017年9月15日、gooブログから独立して、新しく自分のサイトを開設して以来、皆さまにとって目障りな広告をリンクすることにしました。これは、サーバー代とドメイン代の足しにするもので、皆さまのご理解とご協力を賜りたいと存じます(笑)。宜しくお願い申し上げます(広告をクリックして頂くと0.1円から0.5円ぐらいの収入が入ってくるようです。自分でクリックしたら違反となり、チャラになってしまうようです)。

 また話が変わりますが、このブログに、個人的ながら「最近心配事が絶えない」と書いてしまいましたが、どなた様からも御下問がないので正直に打ち明けたいと思います。まず、先月から高齢の母親が入院したこと、その前に高校時代の旧い友人が軽微ではない病気で、週に3回通院するようになってしまったことでした。まだありまして、小学校時代の旧い旧い友人が脚を骨折し、3カ月の入院を余儀なくされており、大学時代の旧い友人もホームヘルパーなしでは普通の生活をするのに困難を来すようになっていることでした。周囲の親しい人たちが次々と不自由な生活を強いられているのに、私は、持病以外は至って健康で(変な表現)、いまだに田舎から都心まで電車通勤して仕事を続けることができ、たまーには夜の街でお酒を呑んだりして、少し後ろめたい気分にもなっているのです。

 さらに、最近、三浦春馬さん、竹内結子さんといった端から見れば売れっ子で経済的には何ら不自由のないと思われる私より若い有名俳優が自殺してしまうので、衝撃を受けてしまいます。コロナ禍で仕事がなくなって生活に困っている無名の舞台俳優がそれこそ何千、何万人もいるというのに、です。もしかして、売れているとか経済的に恵まれいるとはいっても、本人の悩みは深く、そんなものでは満たされないのかもしれませんが。

 「生老病死」というのは、仏教思想から人間の理(ことわり)だということは頭では分かってはいますが、どうも心配事は軽減することなくまとわりつき、思想も哲学も宗教も「救い」にはならないのではないか、と私は詰ったりしたくなります。「お前には修行が足りないからだ」と言われそうですが、勉強すればするほど悩みは深くなります。

 電車に乗れば、老若男女、スマホの画面に熱中していて、何をやっているかと思えば、ゲームをやっています。ゲームが悪いという意味ではないのですが、車内で私のように仏教書や哲学書を読んでいる人間はこの何十年もお目にかかったことがありません。

 私も書物を棄てて、ゲームに熱中すれば救われるのでしょうか?ーいや、そうは思いませんね。やはり、心配事や深い悩みに苛まれながら、重い十字架を背負うようにして、毎日、歩み続けていくしかないことでしょう。仏教的な諦念かもしれませんが、与えられた生命を全うして生き抜くしかないでしょう。やはり、自殺は御法度です。

 

1940年代のジャズ・ヴォーカルが気になる

学生時代は、音楽が趣味で、1日16時間ぐらい聴いても飽きませんでした。

聴いていたのは、主にロックで、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリン、クイーン、ディープ・パープル、クラプトン、イーグルスといった王道のほか、1950年代のプレスリーなどの初期ロックンロール、60年代のマージービート、70年代のプログレ、グラムロックなどです。

思い起こせば、子どもの頃は歌謡曲、10代~20代はロック、30代はモーツァルトなどクラシックばかり、40代はジャズやボサノヴァ、シャンソン、それ以降は玉石混交といった感じで色んなジャンルの音楽を聴いてきました。

 そして今は、ほとんど聴かなくなりました。(あらま)サウンド・オブ・サイレンスです。特にうるさいロックは年のせいか付いていけなくなりました(苦笑)。せめてブルーズです。BBキングはやはり素晴らしい。でも、若い頃は、高齢者が聴くものだと敬遠していたジャズなら、年を取ったせいか琴線に触れます。

 ということで、今は少しジャズにはまっています。そのジャズの中でもヴォーカルです。40代にジャズを聴いていた頃は、ビル・エヴァンスに始まり、パーカー、コルトレーン、マイルス、コールマン、フリューベック、ペッパー、ブレーキー、ウエス…といわゆるジャケット買いで色々聴きまくりました。フリージャズとなるとついていけなくなりましたが、ヴォーカルは、フイッツジェラルドやヘレン・メリル、ビリー・ホリデーぐらいしか聴いていませんでした。(昨年はジュリー・ロンドンに熱を入れましたが)

 今回、はまったジャズは、1930~40年代ジャズです。きっかけは、成瀬巳喜男や小津安二郎らの戦前の映画を観ていたら、結構、BGMや効果音としてジャズが使われていたことです(敵性音楽になる前)。また、先日観た「ミッドウェイ」は1942年を再現した戦争映画でしたが、作品の中で、当時流行のジャズが使われていました。そして、毎週日曜日の朝に、ゴンチチの司会進行でNHK-FMで放送されている「世界の快適音楽セレクション」をよく聴くのですが、その中で「えっ?この曲いい。でも、何の曲かなあ?」と思った時、大抵は、私が生まれる前の戦前の1930~40年代に流行ったジャズだったりしたからでした。

 この中で特に、気に入ったのが、女性1人、男性3人のコーラスグループThe Pied Pipersパイド・パイパーズ(The Night We Called It A Dayなど)でした。全盛期は、戦時中から戦後にかけての1940年代です。トミー・ドーシー楽団の専属コーラスグループとして活躍しました。

 トミー・ドーシー(1905~56)は、ジャズ・トロンボーン、トランペット奏者で、楽団のリーダーでもあり、若きフランク・シナトラがこの楽団に所属して飛躍したことは有名です。が、勿論、私はパイド・パイパーズもドーシー楽団も今回初めて知りました。

 パイド・パイパーズの紅一点、ジョー・スタッフォードは独立して、1952年、ソロとして「ユー・ビロング・トゥ・ミー」をヒットさせ、米国と英国のチャートで首位になり、全英シングルチャートでは女性アーティストによる初の第一位のレコードになりました。

 この「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、日本でも大ヒットして、江利チエミや新倉美子らがカバーしています。新倉美子(1933~)は、何と新国劇の看板俳優・辰巳柳太郎の長女で、ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズを学び、歌手、映画女優として活躍しましたが、1957年に結婚を機に芸能界を引退してしまいます。私はまだ物心がつく前でしたから、道理で知らなかったはずです。今ではユーチューブなどで、彼女の唄う姿が見られますが、「こんな人がいたのか」と驚くほど清楚な美人で、大変魅惑的で、英語の発音もほぼ完ぺきです。(彼女の写真や動画も著作権があると思われ、このブログに引用できないのが残念です)

 パイド・パイパーズをスッポティファイで聴いているうちに、ジョニー・マーサー(1909~76)唄う「accentuate the positive」という曲を知りました。戦時中の1944年公開映画「Here comes the waves」のためにマーサー自身が書いた曲だそうで、スタンダードになっています。マーサーは作詞、作曲もする歌手で、キャピタル・レコードの共同設立者ということでジャズ界の大御所です。多くのミュージシャンがカバーしている名曲Come Rain or Come Shineなども作詞しています(作曲はハロルド・アーレン)。恥ずかしながら、最近知ったのですが…。

 あのポール・マッカートニーが1975年にマーサーと共作しようと提案しましたが、時既に遅く、マーサーは病床についていて辞退したそうです。ポールはその後、先程の「accentuate the positive」をダイアナ・クラールのピアノなどをバックに唄いましたが、その姿がユーチューブでも観られます。ビートルズ「ホワイトアルバム」に収録されている「ハニー・パイ」などを作詞作曲しているポールは、アマチュア・ジャズマンだった父親の影響で結構、1930~40年代のジャズもかなり聴いていて、曲作りに影響を受けていたのです。

 今ではもう1日16時間も音楽を聴く気力も体力もないですが、たまにはゆっくりとジャズ・ヴォーカルに浸ってみたいと思う今日このごろです(わー、陳腐な終わり方!)

驚異的な菅内閣の支持率とコロナ感染マップ

 9月16日に発足した菅政権の支持率がメディア各社の調査で、60%~70%台という高さには驚かされました。新就任ということで「ご祝儀」もあると言われていますが、それにしても、異常な高さです。

 このままの報道を信じて受け入れた国民は「菅内閣はとても良い内閣だ」「仕事ができる期待できる政権だ」と思い込みそうです。でも、菅政権は「安倍政権を継承する」と訴えており、安倍政権末期の支持率は20%台のところもありました。そして菅首相は、当時は安倍政権の要の官房長官でした。支持率のアンケートの仔細を見る国民は少ないと思いますが、「支持する」人の理由として、「他にふさわしい人がいないから」というが結構多いのです。

 あまり皮肉を書いても、サイトが閉鎖されてしまうかもしれないので、「もしかしたら、菅政権は、大化けして、北朝鮮の拉致被害者と北方領土を返還してもらうような日本史に残る大仕事をするかもしれない」と書いておきます。

 今回の菅政権の目玉の一つが、デジタル庁の創設だと言われています。しかし、これも仔細に観察してみると、国民すべてのマイナンバーと銀行口座とのデジタル登録を完遂して、国民一人一人の資産を把握して、税金徴収を確実にすることが目的ではないか、と思えてきました。ま、これも富裕層と資産家に関係がある話で、皆さんには関係ないですね(失礼な!)。富裕層は飛び切り頭が良くて、賢いですから抜け道を考えることでしょうが…。

 そうでなくても、今は、ドコモ口座やゆうちょ銀行などの不正引き出し事件が多発しているわけですから、デジタル庁は、是非ともネット・セキュリティーの強化の方に力を入れてもらいたいものです。ハッカーとのいたちごっこが半永久的に続くと言われていますから、それこそ、ネット・セキュリティーにヒト、モノ、カネを投入してもらいたいものです。国家事業が、ハッカーされてはお話になりませんからね。

 さて、会社の同僚から面白いスマホのアプリを教えてもらいました。

 「News Digest」というアプリで、新聞社やテレビ局や通信社から提供されたニュースがあるのは、類似アプリによく見られるのですが、下の一番右の「コロナ・防災」をクリックすると、地図が出てきて、全国の新型コロナウイルスの感染場所が「〇」人と数字が出てきて、状況が一目で分かるのです。ちなみに、私が働く会社近辺の銀座を見てみると、某有名デパートでも3人の感染事例があったことが初めて分かりました(消毒済みらしいですが)!

 コロナ感染状況は、全国をカバーしているので、皆さまのお住まいのお近くの感染状況も把握できることになっています。

 また、コロナだけでなく、火事や交通事故など現場情報までもが出てきます。これは、どうも読者からの「投稿」によるようです。

 この「News Digest」というのは初めて聞くので調べてみたら、JX通信社という会社が運営しているようです。主要株主も公開されていて、テレビ朝日やフジテレビのほか、共同通信さんもメインの株主のようです。一方、主要取引先(ということは、ニュースを購入契約している相手ということか?)として、NHKのほか民放キー局、新聞社は朝日、読売、中日、産経、日経はQUICK、そして、もちろん共同通信さん。大手と言われるメディアで取引していないのは、スポーツ新聞(報知、日刊、スポニチ、サンスポ)と夕刊紙(東京スポーツ、日刊ゲンダイ、夕刊フジ)と毎日新聞と時事通信ぐらいでしょうか。

 ということで、何で、私が共同通信にさん付けしたのか、事情通の皆さんなら斟酌できるかもしれません。

 ネットニュースの世界も日進月歩ですから、動きは速いですね。ニュース・アプリと呼ばれるものはあまりにも沢山あるので、迷ってしまいます。でも、パイは限られているので、そのうち淘汰されることでしょう。

「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺

龍口寺の五重塔

 ブログ、ちょっとご無沙汰してしまいましたが、巷では4連休(敬老の日、秋分の日)の真っ最中です。

 コロナ禍とはいえ、こんなチャンスを逃して家に閉じこもっているのも何なんで、以前から計画していた鎌倉の日蓮宗寺院巡りを決行してきました。

 平安末期から鎌倉時代にかけてのこの時期は、日本史の中で最も瞠目すべき時代かもしれません。浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗と次々と鎌倉仏教と呼ばれる新宗教が生まれたからです。

 時代は公家社会から武家社会に移り変わり、戦乱と飢饉と疫病が流行り、社会的に不安定な時代で、多くの民衆が救いを求めたからに他ならないことでしょう。

 古都・鎌倉にはこれら鎌倉仏教の寺院がいまだに多く残っているのでお参りするのに最適です。

本覚寺 本堂

 今回は取り敢えず、日蓮宗の寺院に絞ってみました。JR鎌倉駅からほど近い所に主要寺院が集中していて参拝しやすいからです。

 まずは、永享8年(1436年)に創建された本覚寺です。鎌倉駅東口を出て若宮大路を渡り、郵便局の細い道を進むとすぐ到達します。駅から5分ぐらいでしょうか。

 本覚寺については、上の写真の看板の説明にある通りです。拝観は志衲。

本覚寺

 上の説明文にある通り、二代目住職日朝上人が、甲斐の身延山から日蓮聖人の遺骨をこの地に納めたことから「東身延」とも呼ばれています。

本覚寺

 本覚寺は、もともと源頼朝が戎神を祀った戎堂でした。

 上の写真の八角形の建物は近年復興したものですが、配流先の佐渡から戻った日蓮がこの戎堂に滞在していたといわれています。

日蓮上人辻説法跡

 次に向かったのが「日蓮上人辻説法跡」です。本覚寺から、車がクラクションを鳴らしてくる小町大路を北進して、迷わなければ歩いて3分ほどで行けます。

 現在の鎌倉は、道が狭く車が多いという、人に優しくない、あまり「いけ好かない」所になってしまいましたが、当時は車なんかないので、この程度の道幅でも十分機能していたことでしょう。

 そして、この辻説法跡は、市内でも最も人通りが多い繁華街の一つだったはずです。安房から出てきた日蓮がここで辻説法を始めたと、上の看板に書かれていますが、石碑などがある場所は鉄の柵で囲まれて入れないようになっていました。信徒にとって、ここは「聖地」だからという理由です。

 念じれば、日蓮聖人が辻説法している姿が浮かび上がってきそうな歴史的スポットでした。(と思ったら、日蓮は辻説法などしなかった、という説もあるようです。何だかよく分かりません)

妙本寺

次に向かったのが「妙本寺」です。迷わなければ、辻説法跡から歩いて7~8分で行けます。拝観志衲。

妙本寺の縁起については、上の説明文に書いてある通りですが、もともとは、頼朝の重臣・比企一族の屋敷跡でした。

 源頼朝が成立させた鎌倉幕府は、関東の御家人、つまり坂東武者によって支えられました。現在、埼玉県比企郡として名前を残す比企能員(ひき・よしかず)を始めとする比企一族も、有力御家人の一つでした。その当時の御家人の勢力がどれくらい大きかったのか、この妙本寺、実は比企一族の屋敷跡の広大な敷地を訪れて初めて分かりました。やはり、現地を見なければ分かりませんね。あまりにもの広さに圧倒されました。

妙本寺

 しかし、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。乱から逃れ、辛うじて生き残った末子の比企能本(ひき・よしもと)が日蓮聖人と出会い、屋敷を献上して1260年に法華堂を創建したのが、この妙本寺の始まりだと言われています。

妙本寺 祖師堂

 鎌倉の有力御家人を調べてみると、北条氏などによって滅ぼされたのは、比企能員(ひき・よしかず)だけではないんですね。石橋山の戦いで頼朝の危機を救った梶原景時も、奥州合戦で活躍した畠山重忠も、侍所初代別当だった和田義盛も、評定衆の三浦泰村も安達泰盛も、ほとんどやられて、生き残ったのは足利氏ぐらいじゃないかと思わせるぐらいです。

 「いざ、鎌倉」と何かあれば駆け付けた坂東武者のイメージが強った鎌倉時代でしたが、北条執権の全盛時代は、ほとんど関東武士は淘汰されてしまっていたんですね。

常栄寺 (ぼたもち寺)

次に向かったのが、「常栄寺」、別名「ぼたもち寺」と呼ばれています。拝観志衲。

 日蓮は、法華経を広めるために、「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」と他の宗派を激しく断罪し、災害や疫病の蔓延などに無策な幕府も批判したことなどから、刑に処されることになります。市中引き回しされた上、刑場の瀧の口へ向かう途中で、一人の老婆が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げたことから、この寺が創建されたという言い伝えがあります。

妙法寺 総門

 次に向かったのが妙法寺です。

 常栄寺から八雲神社を通ると、車の往来の激しい通りに出て、迷わなければ10分ほどで着きます。

妙法寺 本堂

 妙法寺は、鎌倉の寺院を訪れるとしたら、最もお薦めしたい寺院の一つでした。拝観料300円。土日、祝日のみ開門のようですので要注意。

 妙法寺は、上の説明文にある通り、日蓮聖人が安房から鎌倉に入り、最初に草庵を結んだ由緒のある寺院で、信徒には欠かせない聖地でした。

妙法寺 苔石段

 境内は奥行きがあって、意外にも広く、上の写真のように、有名な苔の石段があり、息を切らして登って行かなければなりません。

妙法寺

 石段を登った中腹に、このような「松葉ケ谷御小庵跡」があります。登るだけで、結構、修行になります。

 当時は、飲み水や食べ物はどうしていたのだろう、と思いを馳せました。

妙法寺

 このまま下に降りようとしましたが、この「松葉ケ谷御小庵跡」の上に護良(もりなが)親王のお墓があるというので、お参りしなければなりません。また、息を切らせて急こう配の石段を登って辿り着きました。

 妙法寺は、後醍醐天皇の皇太子、護良親王の菩提を弔うために、その子息である日叡上人が中興の祖と言われています。

安国論寺

 次に向かったのが、安国論寺です。妙本寺から数分です。拝観料は100円以上となっていました。

 ここで、日蓮聖人が、あの有名な「立正安国論」を執筆したと言われています。

 コロナ禍の現在、国家だけでなく、世界中の人々の安寧を、ここでもお祈りしました。

長勝寺

 次に向かったのが、長勝寺です。安国論寺から横須賀線の踏切を渡って、歩いて5分ほどです。拝観志衲。

長勝寺 本堂

 長勝寺も、妙法寺、安国論寺と並び、日蓮聖人が松葉ケ谷で結んだ三大草庵の一つだと言われています。

 この地の領主・石井長勝が日蓮聖人に帰依して、日除と名乗り、弘長3年(1263年)に邸内に法華堂を建てたのが始まりだと言われています。

長勝寺 日蓮聖人像

 この日蓮聖人像は特に有名なんだそうです。

 さて、他にも日蓮宗寺院はたくさんありますが、この長勝寺を最後に鎌倉駅近くの日蓮宗寺院巡りは打ち止めにし、バスで鎌倉駅に戻りました。長勝寺から駅まで歩いても30分か40分ぐらいでしょうけど、少しズルしました(笑)。

小町通り とんかつ「小満ち」

 寺院巡りをしている間は、ほとんど人がいないので快適でしたが、鎌倉駅に戻ると驚くほどの人、人、人。ほとんどの人たちは、若宮大路や小町通りを通って、鶴岡八幡宮へ参拝するものと思われます。コロナ禍なのにどうしたことでしょう。4連休なので、アヴェック(死語)も家族連れも繰り出したのです。東京・表参道の竹下通りのような混雑でした。

 バスから降りて、私が目指したのは、小町通りにあるとんかつ屋さんの「小満ち」です。川端康成、里見敦、小林秀雄ら鎌倉文士のお気に入りの店だったらしいので、物見遊山気分で行ってみたのです。(そう言えば、鎌倉文士は有名ですが、浦和画家を知らない人が多いですね。関東大震災後に芸術家たちが郊外に移転し、「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が流行ったのです)

 昼時だったので、店内は混雑していて、しばらく外で待たされました。

 注文したのはかつ重(1000円)とグラスビール(400円)で、税込み1540円。とんかつは、今まで食べた中で、一番上品で優しい味でした。実に旨い。いつかまた来た時は、とんかつ定食にチャレンジしようかと思いました。

龍口寺

 最後に向かったのは、鎌倉時代の処刑場、龍の口です。

 鎌倉駅から江ノ電に乗って、江ノ島駅で降りて、数分の所にあります。

龍口寺

 鎌倉駅から江ノ島までの江ノ電は、めっちゃくちゃ混んでいました。30分ぐらい掛かったでしょうが、満員で、ずっと、ぎゅうぎゅうといった感じでした。コロナ禍なのに、こんなんで大丈夫なんでしょうか?

龍口寺

 処刑場跡に建てられたのが、龍口寺です。拝観志衲。

 日蓮聖人がここで処刑されようとする寸前、雷鳴が光る奇跡が起こり、聖人の処刑が中止された法難の地ですが、ここに改めて寺院が創建されたのです。

龍口寺 本堂

 詳しい龍口寺の縁起については、上の看板の説明文に書かれていますので、ご参照ください。

龍口寺

 どういうわけか、龍口寺に建てられた日蓮聖人の像は、他と比べて、柔和で穏やかな感じがします。

 処刑されようとした地なのに、何とも不思議です。

龍口寺

 な、何と、龍口寺には五重塔がありました。

 上の説明文にある通り、明治末に建てられたようですが、信仰の深さを感じました。

龍口寺
龍口寺

 最後に龍口寺境内にある「御霊窟」をお参りしました。

 龍の口法難の際、日蓮聖人が囚われて、一晩、この洞窟に幽閉されたといいます。人、ひとりが立ってもいられないほど狭い洞窟で、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 熱烈な信徒の皆様から怒られるかもしれませんが、ここで歴史上に実在した人間日蓮に出会えたような気がしました。今回は、随分、中身が濃いお参りができました。

 帰りは、生まれて初めて、龍口寺から程近い湘南江ノ島駅から湘南モノレールに乗って大船駅まで行って、帰宅しました。江ノ電は混んでいましたが、湘南モノレールは空いていてゆったり座れました。

 心配事ばかり多い毎日でしたが、お参りすることで、ほんの少しだけ心が和らぐことができました。

 合掌

 南無妙法蓮華経

【追記】2023・2・1

 比企能本が創建した妙本寺。ここは、あの中原中也が海棠の咲く花を見ながら、小林秀雄に「ボーヨー、ボーヨー」と溜息をついたお寺でした。小林秀雄が「どういうこと?」と聞くと、中也が「前途茫洋」と応えた、あの有名寺院だったとは!

今は昔、元首相邸は大使館に近衛歩兵第3連隊はTBSに

平林寺前「たけ山」うどんランチ1000円

 竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読了しました。明治大正の歴代首相や有力者、元老らが住んでいたお屋敷などが、今、どうなっているのかも書かれていましたので、備忘録として列記しておきたいと存じます。(順不同で全て現在の東京都内の話に絞り、既に知っていることは省略=笑)

 ・麹町区永田町(千代田区永田町)西郷従道(隆盛実弟、陸軍中将、海軍大将)邸⇒(中略)国会議事堂

 ・早稲田・彦根井伊藩下屋敷⇒東京専門学校(早稲田大学キャンパス)

 ・築地・旗本戸川安宅(やすいえ)邸⇒大隈重信(肥前藩士、首相、侯爵)邸⇒(中略)料亭「新喜楽」(芥川・直木賞選考会場)

 ・築地・海軍大学校⇒(中略)築地市場(豊洲に移転しても健在)

 ・京橋区木挽町(中央区銀座8丁目)逓信大臣官邸⇒(中略)銀座中学校

 ・麻布区桜田町(港区元麻布)後藤新平(満鉄総裁、東京市長など歴任)邸⇒満洲国大使館⇒中華民国大使館⇒中華人民共和国大使館

 ・麹町区下二番町(千代田区二番町)加藤高明(尾張藩士族、帝大首席卒業、首相。岩崎弥太郎の長女と結婚し、「三菱の大番頭」の異名、伯爵)邸⇒ベルギー大使館

 ・神田一ツ橋(千代田区一ツ橋)文部省⇒(中略)毎日新聞社東京本社

 ・赤坂区一ツ木町(港区赤坂)近衛歩兵第3連隊⇒(中略)TBS、赤坂パークビル

 ・内山下町(千代田区内幸町)鹿鳴館⇒華族会館⇒(中略)日比谷Uー1ビル

【その他の逸話】

・戦前、霞が関といえば、海軍省があった海軍のことを指していた。陸軍は三宅坂と言ったように。戦後は、霞が関といえば中央官庁の別称となり、三宅坂は、本部があった社会党を指すことがあった。

・頭が大きかった桂太郎(長州藩士、陸軍次官、台湾総督、内大臣、首相、公爵)の脳は1600グラムもあった。一方、夏目漱石は1425グラム。

・三菱合資会社地所部(現三菱地所)が開発した駒込の六義園(旧・柳沢吉保別邸)近くの高級住宅地「大和郷(むら)」の初代名誉村長は若槻禮次郎(松江藩士族、帝大首席卒業、憲政会、首相、男爵)、村長は俵孫一(北海道庁長官などを歴任した内務官僚。浜口雄幸内閣商工大臣。政治評論家俵孝太郎の祖父)だった。

菅新首相の背後に「ぐるなび」と京浜急行電鉄があり

 コロナ禍になる前は、誰一人も予想すらしなかった菅義偉さんが第99代の内閣総理大臣に昨日就任されました。まずは、おめでとうございます。秋田県出身の首相は初めてで、法政大学出身も初めてということで、「たたきあげの苦労人」というイメージも板につきました。

 菅氏の地元秋田県湯沢市はお祭り騒ぎで、何と「提灯行列」まで繰り出されたようです。提灯行列なんて、昭和12年12月の「南京陥落」を私は思い出しましたよ。生まれていませんでしたが…。

 閣僚人事も発表されましたが、マスコミ、特に週刊誌は、大臣の「身体検査」に余念がありません。17日発売の文春砲では、菅義偉首相本人のスキャンダルを追っていたので、早速買い求めました。出勤途中の電車の中で読んだのですが、私以外、私の目に入る範囲で、一人も週刊誌を読んでいる人はいませんでした。勿論、新聞を読んでいる人も皆無です。新聞を読まなければ、週刊誌の広告を目にしないので週刊誌の売り上げも落ちていることでしょう。私なんか数少ない上客です(笑)。

 そう言えば、電車内でも週刊誌の吊り広告も減った気がします。東洋経済によると、関西の阪急電車は、週刊誌の広告の扱いをやめたようですね。メディアの衰退は、国力の衰退に等しいのです。健全じゃありませんね。そのうち反動がくることでしょう。

 さて、菅首相の話ですが、「政商による献金とそれの見返りの政策」という明治以来の利権の構造という伝統です。

 例えば、菅氏が先頭に立って推進している最大469億円の予算がついた「Go toイート」というキャンペーン。その背後にはグルメ情報サイト「ぐるなび」の滝久雄会長が控えているようです。1996年から2012年にかけて、滝会長の広告代理店「NKB」から菅氏の政治団体「自由民主党神奈川県第2選挙区支部」と「横浜政経懇話会」に対して、計280万円献金し、ポスター制作費58万8000円請け負ったことが収支報告書に書かれているといいます。

 NKBは、滝久雄会長の御尊父の滝冨士太郎氏が創業した交通文化事業社が母体になった会社で、最初は地下鉄のベンチの広告から始めたといいます。まさに「たたきあげの苦労人」という共通点があるんでしょうか?

 「Go toイート」は、コロナ禍で大きなダメージを受けた飲食店の救済が表向きの名目ですが、結局は、菅氏の政治団体に何かと気を遣う「ぐるなび」にも還元される仕組みになっているようです。

 もう一つ、菅首相が、官房長官時代から異様な意欲を示しているIR(カジノを含む統合型リゾート)事業です。その菅氏のIR事業を推進する「横浜カジノ計画」に名を連ねているのが京浜急行電鉄です。またまた文春砲によると、京急は2014年8月にIR事業参入発表し、カジノ建設地として想定される山下埠頭へのアクセスを整備したといいます。

 その間、京急の副社長から社長、会長に昇りつめた小谷昌氏は、1998年から2013年にかけて、菅氏の政治団体「自由民主党神奈川県第2選挙区支部」に対して、確認できるだけで700万円の献金をし、京急の関連会社「京急開発」の斎藤行正社長は900万円を寄付していたといいます。

 一方の菅氏は、その見返りなのか、京急の屋台骨の一つである京急百貨店で毎年開催される「京急将棋まつり」の名誉会長を務めているそうです。

 それにしても、随分、分かりやすい政商と政策の意味深な関係ですね。こういう裏ではなく、本筋の話は、テレビや新聞ではどういうわけか、あまり報じないので、週刊誌はなくなってほしくないものです。

茶番劇にはうんざり=鴎外と漱石の違い

  自民党総裁選は、「秋田県の貧農育ちで集団就職で上京した苦労人」、実は「父親は元満鉄エリート社員でカリスマ豪農。2人の姉は大卒の高校教師。本人は法大空手部副将出身の武闘派」という菅義偉官房長官(71)が昨日、総裁に選出されましたが、もうすでに8月31日に二階派、細田派、麻生派と主要派閥が雪崩を打って推薦したことで決まっていたようなものです。国家の最高権力者を選ぶというのに、投票できない国民は、黙って茶番劇を見ているしかありませんでした。いみじくも、14日付の朝日新聞社説は「苦労人?パンケーキ好き?だからなんだというんだろう。」と菅氏のことを思いっ切り批判していました。他の大新聞が「たたきあげの仕事人」とおべっかを使っているのとはえらい違いです。

 それにしても、勝馬に乗って美味い汁を吸いたいという権力志向の人間の性(さが)を見せつけられました。裏でどれくらいの金銭が動いたのか、動かなかったのか、知る由もありませんが、それにしても得票数を見る限り「石破つぶし」は凄まじかったですね。もう石破総裁の目はないことでしょう。菅氏は16日の臨時国会で第99代首相に指名されます。

 さて、今、竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読んでいますが、色んなエピソードが満載されています。特に、明治・大正時代の首相というのは、その地位と権力は今とはケタ違いで、愛妾を何人も囲い、広大な敷地の本宅と多くの別荘を持ち、その優雅さは現代人から見ると想像を絶します。

 ただし、「諸行無常、奢れるものも久しからず」で、広大な本宅や別荘は本人の手元から離れ、今では学校になっていたり、財閥の会社寮になってたりしているのがほとんどですが…。でも、この本を読むと、これまで知らなかった意外な事実が出てきて、読みだすと止まらなくなります。

 例えば、自民党総裁選で話題になった東京・永田町の一等地にある「自由民主党本部」。ここは明治になって「文部大臣官邸」があった所だったんですね。初代文部相森有礼が住み、後に首相になる西園寺公望も文部相時代にこの官邸に住んでいました。

 西園寺公望は、いわゆる京都のお公家さんです。実家の徳大寺家から西園寺家の養子になりますが、その家柄の良さは歴代首相の中でも皇族の東久邇宮稔彦王は別格として五摂家筆頭の近衛秀麿に次ぎます。西園寺の末弟徳大寺隆麿が住友本家の婿養子となって住友吉左衛門友純(ともいと)になったため、住友財閥から援助を受けた西園寺は生涯お金に困ることはありませんでした。大正8年(1919年)、首席全権として出席したパリ講和会議には愛妾(西園寺は生涯、正式に結婚をしなかった)と大阪の高級料亭「灘萬」(東京「なだ万」)の料理長まで同行させていたといいます。

 西園寺公望は、京都から新首都東京に来てから、本所、築地、銀座などさまざまな所に住みますが、その中に内幸町があります。「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣」の著者竹内氏は、それは明治29年、内幸町1丁目(現在、東京都千代田区内幸町の2丁目)で島津久光邸の跡地だったと書いております。しかし、その後で、「ここは最初の東京府庁があった所」と書いてあったので、どうも矛盾します。

 まず、島津薩摩藩の上屋敷があった所は現在の内幸町1丁目です(2丁目ではありません)。今は、みずほ銀行東京本部やNTT日比谷ビル(その隣に、あの「鹿鳴館」もありました)などがあります。

 現在の内幸町2丁目は、今は富国生命ビルやプレスセンタービルなどがある「日比谷シティ」です。確かに、ここは東京府庁がありました。ということは、著者は混同したようです。内幸町2丁目は、江戸時代は大和郡山藩の上屋敷があった所でした。明治になって東京府庁になり、1894年(明治27年)に東京府庁が有楽町の陸軍練兵場(今は国際フォーラム、江戸時代は土佐藩上屋敷)に移転した後、その跡地の詳細は分かりませんが、プレスセンタービルは戦前、満洲映画の東京支局でした。また、日比谷シティには昭和13年から昭和48年まで、渋谷に移転する前のNHKの東京放送会館があり、私もよく覚えています。

 ◇「文士の会」は今の「桜を見る会」?

 ところで、西園寺公望は首相在任中の明治40年6月17~19日に、東京・駿河台南甲賀町の本邸に文士を招いて宴を主宰しています。参加したのは、森鴎外、泉鏡花、大町桂月、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、国木田独歩(明治34年11月から翌年2月まで駿河邸内の長屋に寄宿していた)らです。その一方で、首相の招待を辞退した人もいました。それは、夏目漱石、坪内逍遥、二葉亭四迷です。漱石も二葉亭も、恐らく、権力に阿るようなことはしたくなかったのでしょう。

 文士の会は、現代版の「桜を見る会」といったところでしょうか?

 人はいつの時代でも、勝馬に乗って甘い汁を吸いたいという権力志向の持ち主です。そんな中でも反骨精神を持って、権力からなるべく遠ざかる人もいるわけです。作家というより、勲一等陸軍軍医総監にまで昇り詰めた森鴎外は前者に近く、帝大の文学博士号まで辞退した夏目漱石は後者だったのでしょう。文士ならそうこなくちゃ。この史実を知って嬉しくなってしまいました。