これからも新発掘が出る可能性も=「ポンペイ特別展」

 私は「有言実行」の人ですから、東京・上野の国立博物館で開催中の「ポンペイ特別展」を観に行って来ました。

 実は、単なる「便乗商法」に洗脳されただけですけどね(笑)。私自身、既にイタリア旅行した際にナポリ郊外にあるポンペイの遺跡を訪れたことがあるので、行こうか、どうしようか、迷っていたのでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火で、一瞬にして火山灰で埋没してしまったローマ帝国の古代都市ポンペイ。約1万人の市民が暮らしていたと言われ、1784年になって再発見され、今でも発掘作業が続いているといいます。まるで密封されていたかのように当時使われていた生活必需品からモザイク画、それに剣闘士場などまでそのまま出て来たのです。  

 私がポンペイの遺跡で印象的だったのは、子どもから大人まで火山灰で丸焦げになってしまったのか、多くの人が当時の姿勢のまま固まったように亡くなり、後で復元されたのか、石膏の形で展示されていたことでした。今回も数点だけ展示されていました。

上野・東博「ポンペイ特別展」女性頭部形オイノコエ(ヴェスヴィオ山周辺地域)

  私が小学校4年生か5年生だった頃に、「ポンペイ最後の日」という子ども向けの挿絵の多く入った本を読んだことがあり、子どもの頃からずっと気になっていて、長じてから遺跡訪問につながりました。

 で、今回の特別展ですが、行ってよかったです。正直、一般2100円は少し高いかなあと思いましたが、それだけの価値はありました。現地で見なかったものや、知らなかったことも多く、かなり収穫がありました。21世紀ですから、それなりにCGなどを多用した「見せ方」が工夫されておりました。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 何と言っても、私の知識として欠けていたことは、ヴェスヴィオ山で埋没したのは南部のポンペイだけではなく、その北部にあったソンマ・ヴェスヴィアーナや西部のエルコラーノなどの古代都市も同じように埋もれてしまっていたという事実です。特にエルコラーノは、日本の東京大学も発掘チームとして参加しているらしいのですが、まだ、全体の4分の1しか調査が進んでいないというのです。発掘は細かい手作業ですからね。

 ということは、これからまだまだ「新事実」が発見される可能性があるわけです。

上野・東博「ポンペイ特別展」「アレクサンドロス大王のモザイク」(ファウヌスの家)

 今展で私が最も注目したのは、ポンペイで最大の敷地を誇った超お金持ちの貴族らしきファウヌス家の談話室に敷き詰められていたモザイク画「アレクサンドロス大王のモザイク」です。本物は現在修復中なので、レプリカとスクリーンでの再現でしたが、それでも大きさが分かって十分に満足でした。

 このモザイク画は、今回展示されている際に「アレクサンドロス大王のモザイク」という名称でしかなっていませんが、私が大学受験の際にボロボロになるまで使った世界史の副読本である「世界史地図」の表紙だったので飽きるほど見ていました。その図版の説明は「アレキサンダー大王とペルシアのダリウス3世とのイッソスの戦い」(紀元前333年)だったことを今でもはっきり覚えています。今の教科書では、アレキサンダー大王ではなく、アレクサンドロス大王と教えているんでしょうか。

 世界史の副読本の表紙絵がポンペイ遺跡からの発掘品だったことを知ったのは、もう何十年も昔ですが、ますますポンペイに憧れたものでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」食卓のヘラクレス(ポッターロ地区別荘)

 いずれにせよ、ポンペイはローマ帝国に征服される前は、ギリシャのヘレニズム文化に色濃く影響を受けていたといいます。

 ですから、ギリシャ神話に登場する神々の彫刻がふんだんに出土しています。

上野・東博「ポンペイ特別展」エウマキア像(毛織物組合フォルム)

 それにしても、これだけ高度の文化と技術を誇ったポンペイが埋没したのは、西暦79年のことです。日本でいえば、まだ弥生時代です。神話を除けば、倭王権も登場していない時代です。いまだに所在地も実体もよく分かっていない邪馬台国の卑弥呼でさえ、「魏志倭人伝」に出てくるのが西暦239年頃ですからね。

 弥生時代で農耕が始まったとはいえ、日本人の多くは、まだ洞穴に住み、裸同然で木の実を取ったり、イノシシと戦ったりしていたのかもしれません。

 そんな時、海の向こうのローマ帝国ではこれだけ高い文明を築いていたわけですから、何処か日本史の世界が随分チマチマしたもののようにに見えてしまいます。

上野・東博「ポンペイ特別展」ネコとカモ(ファウヌスの家) こんな細密な絵を描いていたとは!

 まあ、そんなことを言っても始まらないですかあ(笑)。あくまでも、私は、我が祖国日本を愛していますからそれでいいんですよ。

 ローマ帝国さんにはあっさりと負けを認め、2000年経ったら、日本の国力を見せつけて、ポンペイ遺跡の出土品を展示した博覧会を開かせてもらえれば、それで十分で御座います。

東京・上野「グリーンパーク」冬季限定ハンバーガー1400円、グラスワイン700円

 ところで、コロナ禍の影響で、展覧会はネットによる予約制で切符を購入しました。お蔭で、それほど混まずにゆっくりと観ることができました。

 会場の国立博物館平成館は、2012年1月~2月に開催された中国・北宋の「清明上河図」展は大行列で、寒い中、2時間近くも外で待たされた経験があります。

 パンデミック終息後もこの予約制を続けてくれたら有難いです。国家権力を保持されている皆様、どうか宜しくご検討ください。

🎬「ドライブ・マイ・カー」は★★★

 カンヌ国際映画賞(脚本賞ほか4冠)、ゴールデングローブ賞(非英語映画賞)、そして何よりもアカデミー賞4部門(作品、監督、脚本、国際映画)ノミネートということで、巷で騒然たる話題になっている濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」が再上映されるというので昨日、映画館に足を運んで観に行って来ました。

 偉そうですが、私の採点は星三つでした。どちらかと言えば、昨年12月に観た同監督作品「偶然と想像」の方が遥かに面白かったです。

 勿論、私は文化国粋主義者ですから、この作品は、是非ともアカデミー賞を取ってもらいたいと思っていますが、私が審査委員なら、正直、国際映画賞なら他の作品との兼ね合いから票を入れてもいいですが、同賞最大最高の「作品賞」ともなると、入れませんね。もし、作品賞を取ったら、「渓流斎の目は節穴。観る目が全くない」と批判されると思いますが、それでも構いません。

 何しろ、不思議なのは、過去に、巨匠黒澤明も溝口健二も「作品賞」にはノミネートすらされたことがないといいますからね。

 この濱口作品はあまりにも私的小さな世界に縮こまっていると思います。黒澤明は、「我が青春に悔なし」で京大の滝川事件を題材にしたり、「生きものの記録」で第五福竜丸の被爆事件から翻案したりして、時事的、社会的話題に常に目を配らせていました。溝口健二は、「西鶴一代女」や「雨月物語」など歴史物を題材に現代の矛盾を照射したりして社会性がありました。

 村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」に社会性も時事性もないとは断言しませんが、やはり、黒澤明や溝口健二には遥かに及びません。溝口健二から「成瀬君のシャシンには〇〇〇〇がない」と批判された成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」)にも及びません。この作品がアカデミー賞作品賞を受賞したら私は失望して、余生は、黒澤や溝口や成瀬や小津安二郎らの作品を観て過ごすと思いますよ。(ポン・ジュノ監督「パラサイト」が作品賞を受賞した時も大いに疑問でしたが)

銀座「le vin」ハンバーグ・ランチ1000円(飲み物付)

 「ドライブ・マイ・カー」は昨年の夏に公開された時も、かなり話題になっていましたが、観に行きませんでした。3時間近い長い映画であるということと、「妻を失った舞台俳優の喪失感」云々といった梗概を読んで、気が引けてしまったからでした。ちょうど、昨年は春に高校時代の親友を病気で亡くしたため、「喪失感」が計り知れなく、現実でこんなに苛まれているのに、またそんな「喪失感」の映画なんか観たくない、と思ったからでした。

 で、実際に観て、やはり、私は「近い」ので途中でトイレに駆け込んでしまいました(笑)。そして、映画の前半は、正直、ポルノ映画チックか、覗き見趣味的な場面が多くて、辟易してしまいました。

 チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を広島で上演する話なので、俳優が俳優を演じるというマトリョシカの入れ子のような話なのですが、何と言っても、濱口竜介監督お決まりの「長セリフ!」。東京芸大大学院修了のせいか、ちょっとインテリ過ぎの嫌いがあるのでは、と思ってしまいました。

 そう言えば、黒澤明も溝口健二も成瀬巳喜男も昔の映画監督は、大学は出ていません。それでも脚本は簡潔で明瞭で、間合いが素晴らしく、台詞がなくても、人間関係の機微を見事に描いていました。

 またもや老人の懐古趣味的な話になってしまいましたね。

国粋主義的、超国家主義の臭い=北京冬季五輪の真っ最中に考える

 目下、北京で冬季五輪が開催されていますが、テレビだけが雄叫びをあげているだけで、あまり盛り上がっていませんね。※個人の感想です。

 北京冬季五輪は、スポーツの祭典というより、すっかり国際政治の駆け引きの場と化してしまいました。ヒーローは金メダルを獲ったアスリートではなく、政治家です。

 その最たる御仁が、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(68)です。彼は「ぼったくり男爵」の異名を持ちますが、元五輪選手というより政治家です。冬季五輪の競技でもないテニスの彭帥選手とわざわざテレビ電話で会談したり、直接会食したりして、疑惑の火消し役を務めた功績で、北京市中心部の公園に、何んとも立派な銅像が建てられました。汚職疑惑などで悪名高かったIOC元会長のサマランチさんは歴史に残る凄い人でしたが、バッハさんはそのサマランチさんを超えた感じです。

 彭帥選手の疑惑というのは、中国の元副首相(最高指導部・党中央政治局常務委員)張高麗さん(75)から性的関係を迫られたというものでしたが、その後、本人も曖昧にしたりして、何もなかったことになりました。

 疑惑といえば、新疆ウイグル自治区で虐待や人権侵害が叫ばれ、西側諸国による「外交ボイコット」まで発展しましたが、中国最高指導部(チャイナ・セブン)に言わせれば、「そういう事実はない」の一点張り。どうでもいい話かもしれませんが、そう断言する中国外交部報道局の趙立堅副局長(49)は、いつもテレビカメラを睨みつけ、怖い顔をしていますね。これも※個人の感想です。

 それでいて、中国国内の街の至る所で、無数の監視カメラが張り巡らされたおかげで、交通違反や犯罪まで減少し、すっかり治安が良くなったようです。無暗にクラクションを鳴らしただけでも交通違反となり、監視カメラとAIによってドライバーが特定され、反則金と顔写真まで電光掲示板で晒されるということで、北京市内もすっかり静かになったといいます。

 天才作家「1984」のジョージ・オーウェルでさえ、ここまで「予言」できなかったことでしょう。

例の往復はがきで応募した「ドナルド・キーン文学散歩」は「落選」してしまいました。ずわんねん。

 何と言っても、オリンピックは「国威発揚」の場ですから、世界経済大国第二位になった中国も自信満々です。それと並行するかのように、中国の若い人の間で「漢服」のファッションが流行っているそうです。漢服とは、漢民族の伝統的な服装のことです。私は誤解しておりましたが、中国の伝統的衣装といえば、チャイナドレスだと思っていましたが、あれは清帝国を成立させた満洲の女真族の伝統衣装だったんですね。日本の和服も漢服の影響を受けているという説もあります。

 私が学生だっ1970年代は、中国からの留学生は皆、「人民服」を着ていたものでした。今はすっかり様変わりして漢服の流行で、怖いもの知らずの副局長を筆頭に、中国は自信で漲っています。

 まあ、異国の話ですから、「お好きなようにしてください」ですが、何処か排外主義的、国粋主義的、超国家主義の臭いをうっすらと感じるような感じないようなそんな気がします。(断言できないのは、異国からの検閲を極度に恐れているからでした。)

市場経済は自由競争により「見えざる手」に導かれ効率的生産を実現=アダム・スミス「国富論」上巻読破

 渓流斎ブログ昨年12月3日付で「予想外にも超難解な書=アダム・スミス『国富論』」を書きましたが、やっと高哲男・九州大名誉教授による新訳(講談社学芸文庫)の上巻(727ページ)を読了し、下巻(703ページ)に入りました。上巻を読むのに2カ月かかったということになります。

 もっとも、毎朝通勤電車の中で10ページほど読むのが精一杯でしたから、それぐらい時間がかかるのは当然です。でも、我ながら、途中で投げ出さず、よくぞここまで我慢して読破したものだと感心しています。

 できれば読書会にでも参加して、専門家の皆さんに色んな疑問に応えてもらえれば、読解力も深まることでしょうが、いかんせん、独学ですから仕方ありません。

 それでも、下巻の巻末にある「訳者解説」は非常に役に立ちます。「なあんだ、スミス先生はそういうことを言いたかったのか」と分かります。この訳者解説に触れる前に、アダム・スミスの「国富論」で最も有名なフレーズで人口に膾炙している「見えざる手」を上巻で発見することができました。

 それは上巻653~654ページの「第四編 政治経済学の体系について」の「第二章 自国で生産可能な財貨の外国からの輸入制限について」の中にありました。引用すると以下のように書かれています。

  つまり、すべての個人は、労働の結果として、必然的にそれぞれ社会の年々の収入の可能なかぎり最大にするのである。事実、個々人は、一般的に公共の利益を促進しようと意図しているわけではないし、それをどの程度促進するか、知っているわけでもない。外国産業よりも国内産業の維持を選択することによって、彼は、たんに自分自身の安全を意図しているにすぎず、その生産物が最大の価値を持つような方法でその産業を管理することにより、彼は、自分自身の利益を意図しているのであって、彼はこうするなかで、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図にはまったく含まれていなかった目的を促進するのである。

 どうですか? これを読んで、即、頭にすっと入って理解できる方は秀才ではないでしょうか? 煩悩凡夫の私は何度か繰り返し読んで、何となくおぼろげに分かったような分からないような感じです。「国富論」はこのような「名文」に溢れているのにも関わらず、古典として長い間、世界中の人類によって読み継がれてきたわけですから、襟を正して読むしかありません。

 そんな秀才になれなかった人たち向けには「訳者解説」が大いに役に立ちます。国富論の初版が出たのは1776年のことです。第六版が出たのが1791年ということですから、まさに、余談ながら、ちょうど天才モーツァルト(1756~91年)が活躍した時期とピッタリ合うのです。訳者の高哲男氏によるとー。

・18世紀末に「国富論」が高く評価された最大の理由は、スミスが重商的な経済政策、保護主義政策(関税や助成金など)を根本的に批判したからだ。

・19世紀になると農業保護政策が放棄され、英国は自由貿易の旗印の下で世界市場を席捲。基本的に「自由放任」「自由競争」の時代となり、自由競争こそが最も効率的で急速な経済発展を可能にすると主張する「国富論」はもう当たり前の話でお役目御免となり、注目されなくなる。

・19世紀末から20世紀になると、慢性的な低賃金と周期的に襲う不況により、労働組合運動や社会主義運動が高まり、理論的支柱として「国富論」が再度注目されるようになる。

・20世紀半ばになると、「市場の効率性」を強調する産業組織論として解釈されるようになる。やがて市場万能主義に利用され、有効需要創出など政府の完全雇用政策は、インフレを引き起こすだけでなく、労働者に与えた既得権に役立つだけだ、という批判が人気を呼ぶ。

・効率性の観点から「規制緩和」や、自由競争の復権を唱えるネオ・リベラリズムが台頭し、スミスの思想は、市場経済は自由競争にしておきさえすれば、神の「見えざる手」に導かれておのずと最大かつ効率的な生産を実現するから、皆ハッピーとなる、という解釈が施される。

 ということで、「めでたし、めでたし」という話になりますが、訳者の高氏は、「これは全く嘘ではないが、それほど単純ではない」と強調しています。

 私自身は、そんな単純ではない複雑な内容を解明したいがために、下巻を読み続けていきたいと思っています。

 【追記】

 カトリーン・マルサル著「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(河出書房新社)が最近売れているそうですね。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」と論じたスミスは、生涯独身で、母や従姉妹に周りの世話をしてもらっていたと、著者は指摘。私自身は未読ですが、経済学は万能の科学ではないし、何でも(愛さえも)軽量化して我々を統治するな、といった主張に近いようです。

 これでは、スミス先生も形無しですね。

人間、14歳が勝負の分かれ目?=イタリア映画讃

  本日、ランチで行った東銀座のイタリアンレストランで、稀に見る飛びっきりの美人さんとほぼほぼ同席となり、何か得した気分になり、食後のコーヒーまで改めて注文してしまいました(笑)。

 誤解しないでくださいね。ただ、たまに、チラッと見ていただけーですからね(笑)。

 その美人さんはお仲間さんと3人で食事をしていたので、よく素敵な笑顔がこぼれておりました。まだ20代半ばか後半といった感じでしょうか。いやはや、これ以上書くと炎上するので、やめておきます(笑)。

 後で、誰に似ているかなあ、と思ったら、先日(2月2日)亡くなったイタリアの女優モニカ・ヴィッティさんでした。ちょっときつめのアイラインで、少しワイルドな感じでしたが、知的そうで、なかなか、滅多にお目にかかることはできない美人さんでした。

 とにかく、モニカ・ヴィッティさんにそっくりだったので、(90歳で)亡くなった彼女が再来して降臨してきたのではないかとさえ思いました。でも、今では彼女のことを知る人はもう少ないかもしれません。私は、彼女がアラン・ドロンと共演した「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)で強烈な印象に残っています。1962年公開作品(カンヌ映画祭審査員特別賞受章)ですから、映画館ではなく、何年か経ってテレビか、池袋の文芸座(洋画二本立て100円)で見たと思います。ニーナの主題曲もヒットしたと思います。

 1962年はビートルズがデビューした年ですから、少なくともこの年まで世界的な流行音楽は(映画音楽も)ジャズだったのではないかと思います。私は最近、1950年代から60年代にかけて流行したジャズ・ギターにハマってしまい、昨年から今年かけてもう10枚以上ものCDを買ってしまいました。タル・ファロー、ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレルといった面々です。彼らの超人的早弾き演奏には圧倒されます。これまで、エリック・クラプトンかジミ・ヘンドリックス、もしくは、ジミー・ペイジかジェフ・ベックかリッチー・ブラックモア辺りが人類最高のギタリストだと思っていたのですが、ちょっと、考え方が変わってきました。ジャズ・ギタリストの早弾きは、ロック以上で、とても真似できませんね。

東銀座・イタリア料理店「エッセンス」ランチB(カサレッチェ)1100円+珈琲100円=1200円

 1960年~70年代はハリウッド映画一本やりではなく、映画館(私がよく行ったのは池袋「文芸座」のほか、大塚駅前の「大塚映画」?、高田馬場「パール座」「松竹座」、飯田橋「佳作座」などの廉価な弐番館です)では、結構、欧州映画が掛かっていました。アロン・ドロンやジャンポール・ベルモンド主演のフランス映画が多かったですが、イタリア映画も負けてはいません。先のアントニオーニ監督の他、何と言っても巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(「地獄に堕ちた勇者ども」「山猫」「ルートヴィヒ」など)、それにフェデリコ・フェリーニ(「道」「甘い生活」など)は若輩には難解でしたが、何日も頭の中でグルグルと場面が浮かぶほど印象深かったでした。ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「デカメロン」や「カンターベリー物語」には衝撃を受けましたが、その前に、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」(1962年)は日本でもヒットしました。DVDがあればもう一度見てみたいですが、所有したくないので、レンタルであればの話ですけど(笑)。

 ああ、そう言えば、「ロミオとジュリエット」「ブラザーサン・シスタームーン」のフランコ・ゼフィレッリも大好きな監督です。それに何と言っても、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」(マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン主演)は名作中の名作です。

 懐古趣味的な話になってしまいましたが、人間、多感な若い時(恐らく14歳)に聴いた音楽や観た映画が、一生を左右する、ということを言いたかったのです。今の若者たちに流行のラップやヒップホップは、私自身、個人的には、もう手遅れでついていけないので勘弁してほしいですし、映画も勧善懲悪がはっきりした単純なハリウッド映画よりも、難解なヨーロッパ映画の方が趣味的には合ってしまうのです。

 何か、問題ありますかねえ?

今でも使っている古代ローマ帝国時代の遺跡

 「注意散漫」という言葉がありますが、私の場合、「興味散漫」で色んなことに興味があって止まりません。誰か助けてぇ…です。

 昨日まで、鎌倉幕府のことに熱中していたかと思ったら、今は、ローマ帝国のことで頭がいっぱいになってしまいました。何で、ローマ帝国?

 それは、目下、東京・上野の国立博物館で「ポンペイ」展が開催されているため、その影響で、テレビやラジオでもローマ帝国に関係した番組が放送されていて、私もその「便乗商法」に感化されてしまったのです。

 ローマ帝国といえば、30年程前に、塩野七生さんが「ローマ人の物語」(全15巻、1992年~2006年)を発表し、私も夢中になって読んだものでした。(正直、途中で挫折して全巻読んでおりませんし、引っ越し等で、もう今は1冊も手元にないのですが)

 それ以来、ローマ帝国は、30年ぶりぐらいの「マイ・ブーム」ですが、今回は新発見の連続でした。何故なら、21世紀になって次々とローマ帝国時代の遺跡が発掘されていき、歴史が塗り替えられているからです。

銀座・トルコ料理「サライ」

 特に2月5日に、BS国営放送で放送された「最強の帝国 ローマ」には感服致しました。ローマ帝国は欧州だけでなく、北アフリカやインド付近まで版図を拡大しましたが、異民族に対して寛容で独自の文化も認めてきたといいます。それだけではなく、戦争で勝ち取った領土を「植民地化」せず、ローマの市民権まで与えたといいます。その証拠に、五賢帝の一人、トラヤヌス帝は、属州ヒスパニア(スペイン)出身でした。

 番組では、北アフリカのチュニジアで4年前に海底で発見された古代都市を「再現」したりしてましたが、チュニジアでは、ローマ帝国時代の水道橋が2000年経った現在でも現役として使われているというので驚いてしまいました。

 また、奴隷剣闘士が戦った闘技場は、ローマやベローナのコロッセオぐらいかと思っていたら、属州でもあっちこっちにあり、特にトルコのエフェソスでは広大な円形闘技場が発掘されていました。また、オーストリアの首都ウイーン郊外では、何と剣闘士養成所まで発見されたのです。これらの遺跡から推測されるのは、これまで、剣闘士は即座に殺されたと思われ、映画やドラマ等ではそう描かれていましたが、結構、剣闘士に対する待遇が良く、栄養が良い食事も与えられていたといいます。何よりも、「見世物」であるため、すぐ殺されることはなく、「演出」もあったようでした。後年は奴隷の剣闘士も減って、一般人から志願された剣闘士も増えていったといいます。

 とにかく、旧ローマ帝国の領土だった欧州、アフリカ、中東はその遺跡だらけです。トルコのイスタンブールは、かつてコンスタンティヌス帝が建設したコンスタンティノープルでしたから、数年前に市内のカフェの地下から神殿が発見されたりしていました。トルコの法律では、その地下神殿はカフェのオーナーのものになり、遺跡保護のための助成金まで出るそうです。

 もう一つ、英国の首都ロンドンはローマ人が属州ブリタニアの中心地「ロンディニウム」として建設した都市でした。(英国人はローマ帝国の属州だったことは、文明化されたということで、誇りに思っているという話を聞いたことがあります)これまた数年前にそのロンドンの金融街シティー(ブルームバーグ欧州本部社屋建設現場の地下らしい)からローマ時代(紀元60年代前半)の商店や住宅などが出てきたといいますから、これまた驚きです。

銀座・トルコ料理「サライ」ビーフケバフ・ランチ1200円

 このほか、これまた国営放送の「世界ふれあい街歩き」という番組が好きでよく見ているのですが、先日は「古代ローマの宮殿が街に スプリト〜クロアチア〜」をやっておりました。このスプリトには、1700前に古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(244~311年)が建設した宮殿がありますが、、その広大な宮殿を、市民が現在でも商店や住宅として使っているのです。これは、もう遺跡とか過去の遺物どころの話ではありません。石の建物ですから、2000年経っても使えるというところが凄い。ローマ人の底力を垣間見た感じです。

 そんなローマ帝国が何で滅亡してしまったのか? 諸説あるようですが、今は、そちらの方に興味が移っています(笑)。

 あ、そうだ。「ポンペイ」展を観に行かなければいけませんね。私自身は、かつて、イタリア旅行で現地を訪れたことがありますが、またまた最近発掘されたものまで展示されているといいますから、見逃せませんね。ナポリ近郊の都市ポンペイがヴェスヴィオ山噴火により埋没したのは紀元79年のこと。皇帝ティトゥスの時代です。ポンペイ展に行けば、少しは「ローマ帝国熱」も醒めるかもしれません(笑)。

 あ、書き忘れるところでした。「暴君ネロ」と言われたネロ皇帝は暴君ではなかった、と最近見直されてきているようです。まあ、そこが歴史の面白いところです。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

築地「わのふ」魚御膳定食1000円

 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?

新型コロナ狂詩曲=濃厚接触者?と会食

 先週の金曜日、ということは1月28日のことですが、結果的に、濃厚接触者の疑いが強い人とランチしてしまいました。昨晩、本人のA君から連絡がありました。

 えーーーーーー!!!と一時、肝をつぶしました。

 でも、色んな運が重なって、大丈夫そうです。そんな予感がしています(笑)。

 昨晩、「陽性」が分かったのは、A君の同居する家族でした。当然ながら、A君は濃厚接触者となります。彼が住む保健所の調査によると、彼のその同居する家族が発症したのは1月31日で、その2日前を起算した1月29日に接触した人が感染する確率が高いといいます。私がA君と会食(接触)したのは、28日だったので、定義上は「影響」しないというのです。何だかよく分かりませんが(笑)。

 保健所が定義する濃厚接触者とは、29日以降に陽性者と15分以上、マスクなしで接触した人ということになり、勿論、A君を始め、その他の家族の人は濃厚接触者となります。ということは、28日にA君と接触した私は、濃厚接触者にはならないということになるのでしょうね、きっと。

遠くにスカイツリー、見えんかあ…

 彼が住む某市は、PCR検査については現在、発熱者と自覚症状のある人が中心で、A君らのように自覚症状のない人たちは、なかなか検査を受けることが難しいといいます。

 PCR検査が受けられない人が多いので、食品の買い出しはOKですが、「自宅で2月6日まで自粛生活をしてください」と彼は保健所から言われたそうです。もっとも、彼はリモートワークなので、仕事には全く影響ありませんが。

 私は、幸い、と言いますか、運が良いことに、1月31日(月)に銀座で、無料でPCR検査を受けることができ、その翌日に、結果は「陰性」と出ておりました。

 今朝も通勤途中で、その銀座の「無料PCR検査センター」の前を通りましたが、ガラガラでしたけどね。

 とにかく、今はどん底から這い上がって来たような気分です(笑)。

日本国民の義務を果たして来ました=確定申告騒動記

 昨日は、1年で1回の、そして年間を通じて最も嫌いな確定申告に行って参りました。

 新型コロナウイルスの感染が過去最多を日々更新している最中(東京ではついに2万人を超えたとか)、何で好き好んで、わざわざ会社の休みまで取って、税務署にまで出掛けるかと言いますと、自分一人ではとても出来ないからです。

 今、e-TAXとかいって、自宅で居ながらにして楽に出来まっせ、というのが国税庁のプロパガンダではありますが、私なんか、これはどうすればいいのか、何と書けばいいのか、すぐ行き詰ってしまい、匙を投げたくなってしまいます(手引書を何冊も読んでもです!)。側に係りの人がいてくれて、困ったときに助けてくれれば、こんな楽なことはありません。実際、今回、手助けしてくれた係りの人たちが本当に天使に見えましたから。

 実は、昨年も同じ時期に確定申告に行って来まして、今年は事前の準備もかなり濃厚にやって来ましたから、心の中では「楽勝」と踏んでいました。そしたら、今年は昨年の2倍も時間が掛かってしまいました。

 原因は、最初についた係りの70代ぐらいのお爺さんが、適当な方で、私に違う申請書類を渡してくれてしまったのです。数字の入力が4分の3ほど終わった時点で、別の若い優秀な係りの人が間違いに気づきましたが、もう一回、同じことを書類に書き直さなければならなくなり、大幅に時間を取られてしまったのです。

 もう一つは、昨年は、会場内にパソコンが設置されていましたが、今年は、何と全て撤去されていました。登録はどうするのかというと、自分のスマホを使え、というのです。今さら、目の前に置いてあるマニュアルを見ながら操作するんですかあ? ま、四苦八苦、文句たらたら言いながら、何とか、数字を入力していきましたよ。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 そして、全部で2時間ぐらいでやっと入力が終了しました。立ち作業でしたから、脚も疲れ、喉もカラカラ。でも、一番最後の「帳票表示・印刷」をタップしても、なかなか印刷してくれません。傍にいた50歳ぐらいの男性の係りの人は、失礼ながら、あまり深く認知されていないように見える方で、手助けして頂きましたが、「おかしいなあ」と言いながらも、うまくいきません。5分間以上格闘しましたが、ウンともスンとも最後の「終了」のサイトに移行してくれないのです。

 結局、30代半ばぐらいの若い人がやって来て、「ああ、大丈夫ですよ」と言いながら、瞬時に操作してくれて、ついでにデータをスマホ内のブックアプリに保存までしてくれて、無事終了することが出来ました。一人だったら、匙を投げて、パニクっていたかもしれません。

 いやあ、本当に、チカレタビー(死語ですが、何か?)

 目が飛び出るような?納税額はQRコードによるコンビニ払いにして、帰り道にあるローソンで振り込んで来ました。これで、日本国民としての義務を果たせて、ホッとしたところです。

 それにしても、もう一回言いますが、本当にチカレタビー。

渓流斎は女性講師を贔屓にしている?=「一日一善」の話

 今日は、というより、今日も、とりとめのない雑文の羅列になってしまいますが、御了承の程、宜しく御願い致します。

 私は、頼まれもしないのに、好き勝手にセミナーや講演会の「感想文」をこの渓流斎ブログに掲載したりしておりますが、自分で言うのも何なんですが、感謝されたり、お褒めに預かったりしております。しかし、その一方で、「いかがなものか」と批判される方もかなりいらっしゃる、と最近、ディープスロートから報告があり、「えっ?何で?」と思ってしまったのです。

 批判される方の一つが、「渓流斎は女性講師の場合、好意的に扱っている」というものでした。あれっ?バレたかあ……んなわけないでしょ! たまたま、そう思われたなら仕方がないのですが、特に意識していたわけではありません。それは、「騎士道精神」に則ったものです、と御理解くだされ。

 でも、批判される方も、長い文章を随分熱心に読んでくださるんですね。こちらこそ感謝申し上げます。

東京・新橋「かおりひめ」鯛定食1300円→1100円

 さて、昨日の夜中、パッと目が覚めて、「いずれ死んだら無になるのだよ」との「お告げ」がありました。「人間、過去の体験と思い出しか残らない」と思い知らされて、我ながら無間地獄に堕ちてしまったようで、ゾッとしてしまいました。

  となると、私は真面目ですから、少しでも他人様の人助けになるような善行を積むしかないと思いました。

 「一日一善」となると、笹川良一さん(今の若い人は知らないかも?)のスローガンになってしまいますが、一日、何か陰徳を積むことが大切だと再認識したわけです。つまり、「何か良いことがないかなあ」と、毎日、受け身に生きるのではなく、「今日は何か良いことをしよう」と能動的に生きるということです。

 我ながら良い事を思いついたと思ったのですが、現実世界では真逆のことが起きています。昨年12月には大阪市北区の心療内科で放火殺人事件がありましたが、何で何人もの多くの人を救ってきた立派な精神科医が殺されなければならないのでしょうか。そして、先日は、今度は埼玉県ふじみ野市で、善意の訪問医が猟銃で殺害されるという痛ましい事件が発生しました。

 「恩を仇で返す」ような取り返しがつかない悲惨な、身勝手な事件が最近多いように感じます。「神も仏もいないものか」と天を呪いたくなります。

 そういえば、こちらが良かれ、と思ったことでも、相手にとっては不愉快で、余計なお世話だということもあったりします。

 お年寄りが重い荷物を持って階段を上がろうとすれば、私も年寄りですが、「お持ちしましょうか」と声を掛けたくなりますが、これまた、泥棒に間違えられたくないという気持ちも同時多発的に発生したりします。

 ということで、時と場所に寄ることでしょうが、「一日一善」に関しては、お節介にならないよう、日ごろの心掛けだけは準備万端にしておこうと思っています。

【追記】2022.2.2

 昨日の夜中、「いずれ死んだら無になるのだよ」との「お告げ」があった旨、書きましたが、本日、大阪にお住まいの佐伯さんの御令嬢から、彼女の御尊父、つまり佐伯さんの訃報が届きました。あのお告げは佐伯さんだったのか?

 年賀状の返信がなかったので、どうされたのかと思っていましたが、昨年5月に既に亡くなられていて、自分の不明を恥じました。

 佐伯さんはもう30年以上昔ですが、大阪の産経新聞のスポーツ記者で、私も現場でよくお会いして情報交換したものでした。7年前にご令室に先立たれ、相当苦労されているという噂を聞いてましたが、こんなに早く旅立たれてしまうとは、私も思わず落涙してしまいました。

 佐伯さんのご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。