侮辱罪の功罪について

 侮辱罪が厳罰化され、今夏に施行されるといいます。もちろん、人様を自殺にまで追い込むほどの根拠のない誹謗中傷する人には厳罰を与えるべきです。当然です。でも、時の権力者に対する批判など言論活動までもが自粛されることが懸念されます。

 サントリーからタダでお酒をもらって、ホテルから酒類持ち込み料までタダにしてもらって、それでもって、自分に投票してくれる地元有権者を特別格安料金で、花見まで付け加えて接待する我田引水の王者を批判して、「侮辱罪です」と言われたりしたら、大変困りますよ。「公然と人の社会的評価を害した場合に適用される」ということですから、明らかに、我田引水の王者の社会的信用を貶めていることになりますから。

 だって、黒川弘務元東京高検検事長などの例があるように、検察官も裁判官も時の権力者に都合の良い人物が選ばれているのではないかという不信感が根底にあります。一体、どれくらいの国民が「国民審査」の存在を知っているのかも疑問です。

 となると、賢いブロガーは、なるべく現代人と関わりを持つことを避けるようになります。所詮、他人の不正や悪事を非難しても、一時的に痛快感を味わうかもしれませんが、ブログともなるとずっと残りますからね。これがネットの恐ろしいところです。

 それに、マスコミ情報を信じて、犯人を非難したら、後でそれが冤罪だったりすることもあり得るわけです。マスコミ情報だって、警察情報をそのまま取材して書いているだけですからね。

 遥か昔の牧歌的時代の話ですが、私もよく知っている毎日新聞のM記者が、容疑者に向かって「おまえ、やったんだろう」と言ったところ、怒りに駆られたその人から大声で怒鳴られながら、追い掛け回されたそうです。恐らく、その人は潔白だったんでしょう。M君も警察発表から容疑者だと信じて、質問しただけでしたが、「殺されるかと思った」と振り返っていました。

 新聞記者なら「当事者」と実際に会うことができますが、普通の人は新聞やテレビの二次情報に接するしかありません。M記者のように、事実かどうか確かめようもありません。

 それに、昔ならSNSなんかありませんから、お茶の間や学校のクラスでの噂話で終わっていた話でした。誰だって、人の悪口を言った覚えはあるはずです(笑)。でも、昔なら消えてなくなっていた話が文字化されると、残って、当事者の目に触れることになってしまいます。

 本人が気軽に投稿したつもりでも、責任重大になってしまうわけです。

 とはいえ、新聞記者諸君、どうか、怖れることなく、政治家や政商、高級官僚、強者に対する批判の舌鋒は、鈍ることがないよう、宜しく御願い致します。

 人間というものは、強欲と嫉妬心と名誉心の塊ですから。

千葉、大月、米子、臼杵…面白い地名の由来

  いつも渓流斎ブログを御愛読賜り、洵に有難う御座います。特にFacebookにポップアップすることは止めましたので、直接このサイトにアクセスしなければなりません。わざわざアクセスして頂きまして、本当に感謝申し上げます。

 さて、相変わらず、学者さんでもないのに本ばかり読んでいます。「本は捨てて、街に出なければ駄目ですよ」と寺山修司のような人生の先輩がおりますが、最近、どうも、映画さえ観に行く気がおきません。傲慢ですが、他人が作った妄想についていけなくなりました(笑)。

 古今東西の名作と言われる絵画、彫刻、陶磁器、青銅器、インスタレーションも見尽くしたので、美術館や博物館に行くのもどうも…と偉そうなことを言いたくなりますが、要するに、田舎の自宅からわざわざバスと電車を乗り継いで都心に出掛けるのが億劫になってきたということなのでしょう(笑)。

 今のところ、本の方が何よりも面白い、と正直に告白しておきます。

 「歴史道」(朝日新聞出版)21巻「伊能忠敬と江戸を往く」を読みましたが、この雑誌の伊能忠敬特集は飛ばし読みしてしまいました。映画とタイアップしたパブ記事(宣伝)であることが見え見えで、その宣撫活動に嫌気を指したからでした。それに、伊能忠敬なら、千葉県香取市にある伊能忠敬記念館にも行って、ちゃんと現地で取材して、関連本も読んだことがあるので、それほど驚くほどでもないと思ったからでした。

 それでも、この雑誌を買ったのは、古地図の読み方や日本全国の地名由来事典が掲載されていたからでした。

 例えば、徳川家康が1590年、小田原征伐の後に豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられますが、一面湿地帯の上、何度も洪水の被害に遭う難所でした。(小石川、赤坂、牛込は沼地だった)そのため、利根川と荒川の流れを変えたり、神田山を削って、日比谷の入江などを埋め立てしたりして、大改革を成し遂げたことはよく知られています。大雑把に言いますと、利根川の大半は銚子に流れを変え、行徳の江戸湾に注ぐ川を江戸川に、荒川が勢いを弱めて江戸湾に注ぐ支流が隅田川になります。

 また、佃煮で有名になった佃島は、家康が大坂摂津の佃村から連れて来た漁師集団(森孫右衛門一族33人)がつくった村だというのは知っておりましたが、彼らは単なる漁師ではなく、軍事船の船頭だったということをこの本で知りました。要するに、三河の家康は江戸土着の人たちを信用していなかったのです。佃村の森孫右衛門は、本能寺の変の後、逸早く、堺にいた家康の逃亡の水路を確保して助けたことから、家康から絶大な信頼を得ていたというのです。

 このほか、私自身が知らなかった勉強になったことを列挙します。

・古地図で、江戸の上屋敷(大名、家族、家臣が住む)は「家紋」、中屋敷(嫡男と隠居した先代が住む)は「🔷」、下屋敷(別荘、蔵)は「●」で表示された。

・千葉県は鎌倉時代の御家人千葉常胤に由来するのではなく、下総国千葉郡に由来する。千葉は茅が生い茂る土地「茅生(ちぶ)」が転化したという説が有力。

・山梨県の大月は、「大きな欅の木」が由来。欅の古称が「槻」で、「大槻」が、寛文検地の際、駒橋から月が一層大きく見えたことから、「大月」となった。

・長野県の安曇野は、白村江の戦い(663年)で水軍を率いた安曇比羅夫(あずみのひらふ)の一族が移住したという説あり。

・名古屋市の御器所(ごきそ)は、熱田神宮に献上する土器をつくっていたことから命名された(既報)。

・兵庫県の神戸。神社に租庸調を収める農民のことを神戸(「かんべ」または「かむべ」)と呼んだことから由来するので、全国にある。兵庫の場合は生田神社。

・鳥取県の米子は、「八十八の子」の意味。この地の長者が賀茂神社に詣でて、88歳の高齢で子を授かったから。

・大分県の臼杵は、臼杵古墳に由来する。出土した石甲(せっこう=甲冑をまとった武人の石像)が、逆さにすると臼と杵の形に似ていたことから。

・愛媛県今治(いまばり)の治は、「張」「針」「墾」が転訛したもので、開墾という意味。尾張も、本来は「小墾(おはり)」だった。

アダム・スミスの「国富論」と税金のお話

 東京国税局の現役職員(24)が、国の新型コロナウイルス対策の持続化給付金を詐取していた事件には本当に吃驚、唖然としました。(約10億円も不正受給してインドネシアに逃亡した詐欺師もおりましたが)

 本来なら税を徴収し、不正を糺す側の人間が、逆に不正受給という悪に手を染めていたとは! 例えは悪いですが、警察官が泥棒を捕まえたら、実はその泥棒は現役の警視正だったようなものです。いや、警視正ではなくて、巡査でもいいのですけど。(このオチは、警察官の階級を知らなければ面白くありません)

 持続化給付金に関しては、私自身、もし申請すれば、100万円ぐらい受給できると思っています。コロナの影響で、外国人観光客が途絶え、通訳ガイドの仕事がなくなってしまったからです。私が辛うじて所属している通訳団体からも、給付金の申請の仕方の案内メールが何度も来たりしましたが、私は結局、申請しませんでした。

 嫌だったからです。原資は国民の税金ですし、受給しても後ろめたかったからです。

 そもそも、税は主権国家の根幹をなすものです。税収がなければ、予算も組めず、国家として成立できません。だから、民主主義国家なら、国民は、政治家指導による税金の使い道は厳しくチェックしなければなりません。なんて、堅い話を書いてしまいましたが、ほとんどの人は、無関心でしょうね。ただし、納税、収税に関しては敏感です(笑)。

 ビートルズのアルバム「リボルバー」(1966年)1曲目に「タックスマン」という曲が収録されています。ジョージ・ハリスン作詞作曲のヴォーカルで、ポール・マッカトニーがリードギターという珍しい組み合わせです。歌詞は皮肉たっぷりです。「もし、車を運転するなら道路に課税しよう。…もし、散歩するなら脚に税金をかけましょう。だって、俺はタックスマン(徴税人)だからさ」といった調子です。

 徴税人と言えば、すぐにイエス・キリストの十二使徒の一人、マタイのことを思い起こします。古代ローマ帝国では、取税人とか収税官とかいったらしいですが、マタイはイエスの弟子になり、「マタイの福音書」の記者だという説もあれば、別人だという説もあります。当時でも嫌がられた税金徴収者が、聖なる使徒に変身するギャップは印象的です。

 徴税は古代国家が成立して以来あることでしょう。

 ところで、いまだしつこく、私は、ほんの少しずつアダム・スミスの「国富論」(高哲男・九州大名誉教授による新訳=講談社学芸文庫)を読み続けているのですが、今読んでいる下巻の後半部分で、スミスの時代の18世紀の税金の話が出てきます。土地や建物や貿易の関税やビール、ワイン、塩、タバコなどに掛けられた税金は現在でも当然のように受け継がれていますが、この時代、部屋の暖炉や窓にも課税されていたとは驚きでした。為政者たちは、「取れるものなら何でも取ってやろう」といった魂胆が丸見えです。

 この本には書かれていませんが、この時代は絶対王政ですから、王様が絶対的な権力を持っていました。国民から徴収した税金は、何に使われたのかなあ?まさか、王様が、中国や日本から陶磁器を買ったり、奢侈品を買ったり独り占めにしたわけではないだろうなあ?と素朴な疑問を持ちながら読んでいます。

 スミスの時代の主君は、ジョージ3世(1738~1820年)です。81歳と当時としては長寿で、在位も1760~1820年の約60年という長期間です。(世界最長はフランスのルイ14世1638〜1715年の在位72年で、先日6月6日には英国のエリザベス女王がそれに次ぐ在位70周年を迎えた)

 ジョージ3世の時代は、七年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争というまさに激動期でしたから、税金の大半は戦費に使われたのではないかと想像されます。他に街のインフラ整備にも使われたかもしれません。

 と、まあ取りとめもないことを書き連ねましたが、アダム・スミスの「国富論」は難解過ぎるので、こうして脱線しながら読まないと続けられないからでした(笑)。

 こんな難解な「国富論」を、このブログの愛読者でもある大阪の栗崎さんは、学生時代に原書(英語)で通読されたという話を聞いて吃驚してしまいました。世の中には秀才がいるんですね。

 【追記】2022年6月10日

 アダム・スミス(1723~90年、行年67歳)「国富論」上下(高哲男・九州大名誉教授新訳=講談社学芸文庫)をやっと読了できました。正直、ところどころをやっと理解できたといった感じです。

 結局、スミスが最後に言いたかったのは、「訳者解説」にあるように、植民地経営のため、軍隊を送り、返済できないほどの国債を発行して厖大な戦費を調達し、国民の富を浪費し続けてきた大英帝国の統治者=政治家を批判することにあったようです。政治家だけでなく、政治家にそのような政策を進めさせた一部の商人や、製造業者による重商主義政策もスミスの批判の対象になりました。

 アダム・スミスは、無神論者で、スコットランドのエディンバラで生涯独身を通しましたが、哲学者デイヴィビッド・ヒュームや化学者・医師ジョゼフ・ブラック、地質学者ジェイムズ・ハットンら親友との交友を楽しみました。また、毎週金曜日に開催される公演会で、ヘンデル、コレッリ、ジェミニアーニらの室内楽、協奏曲を愉しんでいたという面もあったようで、そこだけは、人間らしい近しさを感じました。モーツァルトとも同時代人ですね。

考え方のクセを治したい=無意識過剰が一番

  イデオロギー(観念形態)などという仰々しい言葉を持ち出さなくても、ヒトは、その行動を左右する根本的な思想体系を持っていると言われています。

 もっと平ったく言えば、「考え方のクセ」です。

 その考え方のクセですが、どうも私を含めてですが、日本人は悲観的に考えるクセがあるような気がしてなりません。いわゆるラテン系と言われる人たちは楽天的で、ケセラセラ(なるようになるさ)といった調子で生きている、といったように、ほとんど科学的根拠のない話ではありますが…。

 しかし、日本人の悲観的クセというのは、大火災が起きれば、紙と木で出来た家屋は灰燼に帰し(これに目を付けたのが、東京大空襲を指揮した米軍司令官カーチス・ルメイ。あろうことか、1964年、日本政府から勲一等旭日大綬章を受章)、地震や津波や洪水といった自然災害が多く、戦災や疫病の蔓延で多くの死者を出して来た過去の歴史が大いに影響したものだと思われます。

 悲観的に将来を考えていれば、イザ、実際に災難に遭った時、それは想定内の話で、それほど落ち込むことはないという長年の知恵によるものではないかと私は睨んでいます。

  何でこんなことを書いたのかと言いますと、作詞家で精神科医のきたやまおさむさんが新聞のインタビューで「人生ってそんなに面白いもんじゃない。実はみんな迷い、やるせない悲しさ、むなしさを抱える」と応えていたからです。(6月6日付朝日新聞朝刊)

 きたやまさんと言えば、元フォーク・クルセダーズのメンバーとして「帰って来たヨッパライ」「青年は荒野をめざす」など大ヒット曲に恵まれ、解散しても「あの素晴らしい愛をもう一度」などの名曲を生み、大成功。精神科医に転身され、現在、75歳にして白鸚大学長まで昇り詰められ、私なんかと違って、挫折知らずの順風満帆の人生を送られていると思っていたからです。

 世間的に「成功者」と思われている人でも、裕福でも、健康で家族にも恵まれていても、日本人は悲観的に物事を考えるクセがあるのではないか、と思った次第です。特に、今のように新型コロナのパンデミックはまだ収まらず、ウクライナ戦争で世界が多大な影響を受け、日々、物価が上昇している昨今では尚更です。

 それでも、いつまでも不安に駆られて落ち込んでばかりはいられません。そこで、私は「考え方のクセ」を思いついたのです。クセですから、何んとか考え方を変えれば治せるのではないかと思ったのです。

 「そんなにうまくいくわけがない」と思われたでしょう?(笑)。

 ま、その通りです。でも、我々は、これまで散々悩んで苦しんできたのだから、もうそろそろ楽に生きてみよう、という考え方はどうでしょう?そのために、わだかまりを持たず、何があっても気にしない。神経質にならない。過去のことはくよくよせず、気にしない。ややこしいことや人には関わらない(うまい投資話も誘惑も)。何事も拘らず、気にしない。まだ起きていない明日のことなど気にしない…。

 こんな考え方のクセに方向転換するのは如何でしょうか?

 何よりも、悩まない、苦しまない、心配しない。そして、考え込まない、のが一番良いと思います。お薦めです。目下、売り切れ続出と言われる「ヤクルト1000」を飲まなくても、夜、よく眠られるようになります。

 最近、落ち込んでいるT君、こんなアドバイスで如何でやんしょうか?江藤淳さんの言葉をお借りすれば、「無意識過剰」が一番良いですよ。

ウクライナ戦争は長期戦か?=ロシアの大義とは?

 2月24日に始まったウクライナ戦争は「長期戦」となるというのが目下、世界の専門家の一致した見解のようです。フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏のように、「第3次世界大戦」と呼ぶ人も現れました。

 ロシアとウクライナの二国間の戦争ではなく、武器を貸与している欧米諸国と、ロシアを支援する中国も含まれているからだといいます。

 何と言っても、侵略戦争を起こしたロシアのプーチン大統領による民間人殺戮などの戦争責任が問われることが先決ではありますが、米国際政治学者ジョン・ミアシャイマー氏のように「ウクライナ戦争を起こした責任はアメリカにある!」と主張する人もいます。同氏は、ウクライナ戦争をロシアと米国の代理戦争とみなし、米国はウクライナの被害をそれほど重視しておらず、むしろ、ロシアの大義の方が米国より上回るので、この戦争はロシアの勝利で終わると予測しています。

 ミアシャイマー氏(74)は、米空軍元将校で、現在、シカゴ大学教授ですが、敵国の肩を持つ発言と捉えられかねないのに、敢えて冷静に、現代史と国際情勢から分析した勇気のある発言だと言えるでしょう。米国も、湾岸戦争では、ロシアがウクライナでしているのと同じように、イラクの都市を徹底的に破壊し、太平洋戦争では、日本の都市を爆撃して、無辜の民間人を虐殺したというのです。(米国の元軍人が、日本への無差別爆撃のことを触れるとは驚きです。そんな人がいるとは!)

 そう言えば、ドローンによる撮影で、ウクライナの都市で破壊された建造物が毎日のように、テレビで映し出されますが、湾岸戦争では、ドローンもなく、イラクも国力がないので破壊された戦地はそれほど国際社会に公開されませんでした。

 ウクライナ戦争が始まって、アフリカ諸国からそれほどロシアに対する非難や批判が巻き起こらないのは不思議でした。よく考えてみれば、アフリカ諸国は18世紀から20世紀にかけて、特に英国、フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどの植民地となり、徹底的に搾取され、奴隷のように抑圧された歴史があったわけです。それなのに、ロシアは「大国」だったはずなのに、英仏等と比べるほどの植民地はありません。そのせいで、ロシアに対するアレルギーが少ないのかもしれません。

 アフリカ諸国としては、欧州列強に対して、「お前たちが過去にやったことを思い出してみろ。ロシアを非難する資格があるのか?」とでも言いたいのでしょうか。

 私は、国際法を無視して戦争犯罪をし続けるロシアを非難する側に立ちます。それでも、原因をプーチン大統領の狂気とだけ決めつけて思考停止するつもりはありません。ロシアの大義を知ったとしても、非難の度合いは変わりませんが、知ることは需要だと思っています。

 ロシア史研究の第一人者塩川伸明東大名誉教授によると、スラブ系でウクライナ正教徒の多いウクライナは一時期、カトリック教徒が多いポーランドに支配され、単一の行政区域が存在しなかったといいます。それなのに、ソ連時代に「ウクライナ共和国」が誕生したため、今のロシアの指導部には、ウクライナとはソ連が人為的に作ったという認識があるといいます。(毎日新聞6月3日付夕刊)

 つまり、ウクライナが出来たのは、ロシアのお蔭だというわけです。それなのに、NATOの東方拡大か何か知らないが、ウクライナは、西側にすり寄って、親分のロシアに歯向かとは何事だというのが、ロシアの大義なのでしょう。

 ヨーロッパの歴史は、地続きですから、戦争に明け暮れ、国境も複雑です。「21世紀にもなって、何で戦争?」と私は思いましたが、「欧州の火薬庫」とは、バルカン半島だけでなく、至る所にあるということなのでしょう。

銀座を避けて新富町でランチ探訪

 昨今、値上げラッシュのせいで、東京・銀座は、土地が、じゃなかったランチが高騰、いや少し値上がってしまったので、ランチは、銀座と比べればやや庶民的な新富町を探訪することにしました。

 私の会社ビルは明治時代、日本で最初の西洋料理店「築地精養軒」(後に上野公園内に移転)があった場所に建ち、昭和になって銀座東急ホテルがあったので、銀座、日比谷、有楽町、新橋、築地、新富町、八丁堀は徒歩圏内です。すぐ近くに歌舞伎座と新橋演舞場があり、「吉兆」(今は再建中?)「松山」「金田中」「新喜楽」(旧大隈重信邸)など超高級料亭も軒を連ねています。恐らく、全国一、いや世界一、立地条件が良い会社だと思います(笑)。

東京・新富町・和食「ウオゼン」3種フライと刺身定食 900円

 新富町の話でした。まず、最初、6月1日(水)に行ったのが、和食の「ウオゼン」という名前の店です。魚が自慢の店なのでしょう。ランチは900~950円が中心で、安いのがいいですね。

 多分、あまりテレビやマスコミで紹介されていないと思います。散策好きの会社の同僚に教えてもらいました。

 結構、混雑していて、少し待たされましたが、直ぐカウンター席を空けてくれ、注文したのが、上の写真の3種フライと刺身定食。味も良し。900円の安さが気に入り、ここのランチは一通り食べたくなりました。

 ここは「穴場」の店です。

新富町・料亭「躍金楼」

 2日(木)に行ったのは、「割烹 躍金楼(てっきんろう)」という高級料亭です。何しろ、創業明治6年といいますから、格式があります。店構えを見て、「いつか絶対に行こう」と思っていたわけです。明治6年といえば、後に初代文部大臣となる森有礼(薩摩藩)の提唱で結成された啓蒙思想団体「明六社」がすぐ思い浮かびます。明六社には、福沢諭吉(中津藩)、中村正直(幕臣)、箕作秋坪、津田真道(津山藩)、西周(津和野藩)、加藤弘之(出石藩)ら当代一流の洋学者が参加しました。「明六雑誌」を発行しますが、新聞紙条例と讒謗律の言論弾圧で、わずか2年で廃刊に追い込まれました。

 お店のパンフレット等によると、明治5年の銀座の大火の影響で、銀座に隣接し、遊郭があった「新島原」と「大富町」も被害を受けます。その2町が合併して「新富町」として復興したばかりの明治6年に、この躍金楼ができたといいます(命名は山岡鉄舟)。近くに歌舞伎の「守田座」(明治8年に「新富座」に改名)もあり、花柳界とともに、歩んできたようです。

 だから、芝居小屋町と花街として発展した新富町のことを「奥銀座」とか「裏銀座」と言われると、プライドが高い地元の人は怒るそうなので気を付けてください(笑)。

 明治5年の銀座の大火では、銀座、築地一帯の木造建築が焼失してしまったため、これをきっかけに、明治政府は、銀座をレンガ造りの西洋風の建物や街路建設を進めたといいます。明治5年といえば、日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通した年(今年は鉄道開設150周年!)でもあります。銀座は、新橋の停車場から近く、銀座の洋風づくりは、横浜から列車に乗って東京に来る外国人のための欧化政策の一環だったという説もあります。

新富町・料亭「躍金楼」 天麩羅ランチ1320円

 さて、躍金楼では、お座敷(個室)もありますが、ここでのランチは予約制で3850円~6600円です。「一見さん」の私は、外で5分程並び、「すたんど」で、二番目に安い天ぷら膳(6点盛り)1320円を注文しました。

 天麩羅は、目の前で揚げてくれて、そのまま出してくれるので、大名になったような気分です。創業150年近い老舗のお店ですから、実に丁寧なお仕事をされています。

 今度は、夜に、芸者さんと一緒にお座敷で会席料理を食べたくなりました。(新富町には、お一人だけ芸者さんが残っていらっしゃるとか)

新富町「松し満」 週替わり定食ランチ(赤魚)1000円

 そして、3日(金)に行ったのが、かつて、歌舞伎の新富座があった京橋税務署の裏手にある「松し満」という日本料理店です。以前は高級料亭だったような感じ(表紙写真)ですが、ランチは1000円と安い。

 食事所は2階に上がりますが、この日はお客さんがほとんどおらず、「貸し切り」状態でした。私が頼んだのは週替わりランチで、赤魚の塩焼きでした。ちょっと、塩辛いかなあという感じでしたので、次は海老フライ定食にでもしようかと思っています。

 あれほどカンカン照りだったのに、お店を出たら、激しい雷雨が降っていたので、驚きましたが、用意周到で折り畳み傘を持って来ていたので、大丈夫でした(笑)。

熱田神宮の草薙神剣は本物だった?

 渓流斎ブログの「熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)」で、「宝物館」の受付の女性と大口論寸前にまでいった話を書きました。

 熱田神宮には、「三種の神器」の一つである草薙神剣を所蔵されていると言われますが、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んでしまったというので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と怒られた話を書きました。

 正直、私自身はあれからずっと「わだかまり」を持っていたのですが、自宅書斎で積読になっていた古い雑誌「歴史道」第20巻「古代天皇の謎と秘史」特集(朝日新聞出版、2022年3月15日発行)の稲田智宏氏の書かれた「三種の神器に隠された真実」を読むと、少し疑問が氷解しました。

 稲田氏によると、三種の神器は、第10代崇神天皇が「畏れ多い」ということで、「本体」のほかに、新たに神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)と神剣(草薙神剣)の「分身」を作らせたといいます。三種の神器の残りの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はそのままです。ちなみに、初代神武天皇と「欠史八代」と言われる二代綏靖天皇から九代開花天皇までは「神話の世界」で実在性を証明するのが乏しく、10代崇神天皇こそが初代天皇だという説があります。

アベノマスクがハンケチに変身?

 いずれにせよ、まず、八咫鏡の本体は伊勢神宮に伝わり、現在でも伊勢神宮の内宮に収められていて、壇ノ浦の戦いで沈んだのは「分身」の方で、しかも、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居賢所にあるといいます。

 八尺瓊勾玉も壇ノ浦の戦いでいったん海中に投げ出されましたが、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 さて、最後は問題の?草薙神剣です。壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまい、回収できなかったのは、「分身」の方でした。「本体」の方は、そのまま尾張の熱田神宮に伝わり、現在も所蔵されているというのです。熱田神宮の宝物館の受付女性の主張は正しかったわけです!

 海中に沈んだ分身の剣の方は、その後、鎌倉時代に伊勢神宮が新たに「草薙剣」として再生して天皇に進上し、これが宮中に伝わり、現在、八尺瓊勾玉と同じく、皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 とはいえ、「本体」の草薙神剣とは、そもそも、スサノオノミコトがクシイナダヒメを救うために退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとされています。これが天照大御神の所有物となり、伊勢神宮に奉仕する初代斎宮・倭姫命に渡ります。倭姫命は、東国平定に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にこの神剣を渡し、日本武尊は、途中の駿河国で、この剣で草を薙いで火を避けることができたことから、「草薙剣」の名前の由来になったといいます。(現在、静岡市清水区に草薙の地名が残っています)

 つまり、神話の世界の話なので、科学的エビデンスを示せと言われれば、難しいかもしれません。しかし、信仰の世界なので、熱田神宮の草薙神剣は「本体」であることを信じてお参りすれば良いだけの話です。

 私は熱田神宮では「健康長寿」のお守りを買いましたから、「本体」であることを信じることにしました。何か問題でも?

【追記】

 鎌倉幕府をつくった源頼朝は尾張生まれ、と聞いて、えっ?と思ってしまいました。

 実は、頼朝の生母由良御前(源義朝の正室)は、熱田大宮司・藤原季範の娘だったので、頼朝は熱田で生まれたのでした。

 頼朝も熱田神宮と関係があったとは驚き。

 宝物館の受付女性に、もし、このことを確かめるために、「本当ですか?」と聞いたら、女性は、今度は「本当です。何なら、大宮司を呼びますかあぁぁぁー!?」と怒られそうですね(笑)。

不思議な数字142857

 これまでFacebookのプラットフォームからこの渓流斎ブログを御覧になっていた皆さまは、最近、「お報せ」のポップアップが来ないので不思議に思われていることでしょう。

 はい。「お報せ」することをやめたからです。私は、あれだけ、Facebookのことを批判してきましたので、もうゼロとは言いませんが、利用しないことにしました。そこで、Facebook御利用の皆さまには、直接アクセスして頂かなければ、この渓流斎ブログをお読みすることができなくなり、御手間をお掛けすることになりました。相済みません。

 別に強制しているわけではありません(笑)。読みたい方だけにわざわざアクセスして頂きたいのです。むしろ、Facebookをやっていると、どうしても「いいね!」が欲しくなり、自分のあざとさ、とか浅ましさが出てきて、それが嫌になってきたのです。だからこそ、わざわざアクセスして頂いた皆さまには感謝申し上げる次第です。

 本日は、たまには数字を取り上げます。とは言っても、全て、会社の同僚から聞いた話です。どなたか、このカラクリを発見した数学者がいらっしゃると思いますが、大変失礼ながら不明で、勝手に引用させて頂くことをお許しください。(もし、著作権があれば削除致します。御連絡ください)

 142857という数字です。142857は基本になる数字なので、よく覚えておいてください。

 これを2倍すると、285714となります。

 3倍すると、428571になります。

 4倍すると、571428となります。

 5倍すると、714285となります。キリがないですね(笑)。でも、もう少し続けます。

 6倍すると、857142となります。ここで、これまでの数字を見て、何か気が付きませんか? そうです。基本数の142857を並べ替えたかのようです。つまり、いずれも、3や6や9が全く含まれていません。

 しかし、7倍すると、何と999999になります。 えっ?あれっ? どういうこと? と首をかしげたくなります。

 次に、184という数字です。

 これに6を掛けると1104となります。

 184(嫌よ)と拒否されても、6回口説けば、1104(いいわよ)となるというオチです。

 くれぐれも、実際にお使いにならないように! 当局は一切、責任は取りませんからねー。

苗字の語源が分かった!=天下の大権威に盾突くとは…

 先週出たばかりの本郷和人著「日本史を疑え」(文春新書、924円、2022年5月20日初版)を読み始めたら止まらなくなりました。

 著者は、東京大学史料編纂所教授です。史料編纂所といえば、日本の国家の歴史研究では最高峰です。その教授といえば、オーソリティーの中のオーソリティー。著者は1960年生まれでもう還暦は過ぎていますから、天下無敵で誰に何の気兼ねもなく学説を開陳する権力を持っている、と言えるでしょう。

 著者はテレビ番組にもよく出演されているので、その顔を拝見した方も多いことでしょう。大江健三郎を真似して?黒い丸眼鏡をかけています。自信満々そうです。だからこそ、本の帯にも著者の顔写真が大々的に登場するものだと思われます。私自身は、高田純次さんから「テキトー男二代目」を拝命してもらいたいほど、中途半端な人間なので、そんな「二代目テキトー男」による暴言として聞いてほしいのですが、天下の日本一のオーソリティー様が、これだけ顔を晒して、恥ずかしくないのかなあ、という独り言です。

 タレントさんだったら、できるだけ顔を露出して、有名になることによって「信用」という詐欺のような虚業を大衆から獲得して、CMに出演して莫大な出演料を稼ぐ目的があるでしょうが、象牙の塔の住人の方々がそこまでする必要があるのかなあ、と思った次第。

 「別に好きでやってるわけではない。版元に言われたから」と抗弁されるかもしれませんけど、ごめんなさい。先ほどの言辞はあっさり撤回します。お好きにしてくださいな。著者とは面識もありませんし、恨みも何も全くありませんからね。でも、私は嫌ですね。よく知っている友人にも顔は晒したくないので、Facebookを見るのもやめたぐらいですから。(特に、Facebookで「いいね!」を期待する自分の浅ましさに嫌気がさした!!)

 この本は確かに面白いですが、最初は小言と言いますか、天下の著者に対して反対意見を述べたいと思います。菅原道真のことです。著者は「菅原道真は実力で出世した(文章博士から右大臣)、いわば最後の人」と手放しの称賛で、あくまでも「被害者」のような書き方です。が、本のタイトル通り、「日本史を疑え」に則していけば、道真は、かなり政治的野心があった人で、自分の娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとしことには全く触れていません。ただ、敵対する藤原時平らの陰謀で左遷させられた「可哀想な人」といった書き方です。(渓流斎ブログ 「菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ」

 東京大学史料編纂所教授ならこの史実を知らないわけがなく、「日本史を疑え」なら、学問の神様の功績だけ強調するだけでなく、斜に構えた視座も必要ではないかと思った次第。

 これで擱筆してしまうと、著者に大変失礼なので、弁護しますが、道真の項目以外は全面的に感服して拝読させて頂きました。特に一つだけ挙げさせて頂きますと、162ページの「名字に『の』が入らなくなった理由」です。蘇我馬子も藤原道長も平清盛も源頼朝も、間に「の」が入るのは、蘇我も藤原も平も源も、天皇が与えた「氏」だから、ということは以前、歴史好きの同僚から教えてもらい知っておりました。でも、何で鎌倉時代以降になると、「の」がなくなったことについては、全く気にも留めておりませんでした。

 北条時政も北条義時も千葉常胤も上総広常も足利尊氏も「の」が入りません。それは、北条も千葉も上総も足利も、天皇から与えられた「氏」ではなく、「苗字」だからだというのです。そして、この苗字とは、それぞれの「家」が本拠を置く土地=財産から由来しているというのです。北条も千葉も上総も足利もいわば地名です。三浦義澄も三浦半島を本拠地としていました。

 土地に根差した「苗字」ということで、「苗」を使っていたんですね。これで初めて苗字の語源が分かりました。

 以上、最初はイチャモンをつけましたけど、それは日本の国家の大権威さまに立ち向かうドン・キホーテのような心境だった、と御理解賜れば幸甚です。

【参考】

 ・「貴族」という用語は正確ではない。正一位~従三位=「貴」(「公卿」とも)、正四位~従五位=「通貴」(貴に通じる)。正一位~従五位までが「殿上人」。正六位以下=「地下人(じげにん)」(平氏も源氏も当初は地下人だった)