スマホ断食のすすめ

 《渓流斎日乗》は、個人的なブログなので、毒にも薬にもならぬ日々のよしなしごとを書き連ねております。毎日更新する予定ですが、たまに間が空くこともあります。それが何か?

 はい、実はネタがないのです。あることはあるんですが、衆人監視の中、政治問題にせよ、経済問題にせよ、ブログなんかに本音なんか書けるわけがありませんよね。でしょ?(笑)

 あれっ?今日はいやに皆さんに同意を求めておりますね(笑)。御寛恕ください。

 というのも、私は今年に入って、FacebookなどSNSをやめたことをこのブログに書きました(正確には未だつながっていますが、利用しなくなった、ということです)。理由も書きました。「いいね!」や読者欲しさから、自分の信念を曲げたり、狡猾になったりする自分の「あざとさ」に嫌気がさしたからでした。

 もともと、このブログの宣伝のために、SNSを始めたのですが、余計に読者の反応が気になってしょうがなくなります。反応がないと意気消沈したりします。とにかく、スマホ中毒といいますか、何処に行ってもスマホから目を離すことが出来ず、いわゆる「スマホ廃人」になってしまい、「これではいけない!」と反省したわけです。

 でも、「あざとさ」というのは自己矛盾です。繰り返しになりますが、ブログ拡散のために、SNSを利用したのですから、あざとくなるのは当たり前です。このモヤモヤした気持ちを、どなたか、一言で明言してほしいなあ、と思っていたところ、素晴らしい文章に出合いました。

昭和通り

 それは、京大総長を務めた「ゴリラ学者」の山際寿一さんが2020年6月に出した「スマホを捨てたい子どもたち」(ポプラ新書)という本の中に出て来ました。

 まず、現生人類ホモ・サピエンスの脳の能力から、我々が、信頼関係を持ってつながることが出来るのは100~150人が限界。日常的におしゃべりしたり、付き合ったりすることが出来る友人知人は、10人程度、と著者は明らかにしているのです。SNSで、やれ、10万人が「いいね!」ボタンを押したとか、YouTubeで100万人がアクセスしたからといっても喜んでばかりいられないのです。つまり、面識があって信頼関係でつながっているわけではないので、逆にそのギャップに苦しみ、特に、生まれた時からスマホがあるデジタルネイティヴ世代の中には、いい加減、スマホを捨てたいと思っている、というのが本音だというのです。

 へー、と思ってしまいましたね。

 換骨奪胎、敷衍して、著者の山際氏はこんなことを言っています。人類は、社会的動物なので、自分のやっていることを他者から認めてもらいたい、注目してもらいたいという願望を持ち続けて来た(何も政治家や財界人や芸能人やスポーツ選手や芸術家だけでなく、無名の一般人も)。だからこそ、人類は進化の過程で付き合う親しい仲間の数を増やそうとしてきた。(そう、人類は他者から認めてもらうためのツールとして、世界で何十億人もが持つスマホという武器を手にしたわけです。)

 しかし、それでも、個人が真に信頼してつながることが出来る数は150人のまま増やせていないというのです。何故かと言えば、現生人類の脳の構造がそうなっているから、ということなのでしょう。意外なことでしたが、現生人類であるホモ・サピエンスの脳の容量は、絶滅したネアンデルタール人より少ないんだそうですね。これも、へーと思ってしまいました。

 このほか、著者の山際氏はこの本の中で、「AIに支配されないためにも、人類は生物としての自覚を取り戻せ」と主張しています。ゴリラ研究のためにアフリカのガボンなどでゴリラに襲われ、何度も死にかけた体験を持つ著者だけに、説得力があります。また、山際氏は「このまま情報化が進めば、人間は『考える』ことをやめてしまうかもしれない」と危機感を募らせます。 

 確かに、現代人は、例えば、流行に遅れたくないために、AIに頼って服選びをしてもらったり、恋人とのディナーを何にしようか、をアルゴリズムに頼ったりしがちになりました。まさに思考停止です。逆に、選ぶには、悩みます。そんな悩むこと=考えることを放棄したのが、現代人と言えるかもしれません、

 最後に山際氏は「スマホ・ラマダン(断食)」を薦めています。たまにはスマホから離れた生活をして、本来の人間の姿を取り戻せ、ということです。

 このブログ《渓流斎日乗》の一日ののアクセス数は、昨年は300人程度でしたが、今年に入って、どういうわけか500~600人に倍増しました。FacebookなどSNSをやめてもその数は維持されている感じです。そっかー。どなたが御愛読されているか分かりませんが、もう十分ではありませんか。

 恐らく1日しか続かないでしょうけど、私も、たまにはスマホ断食をやってみようかと思っています。精神的健康に良いはずです。

12月12日は何の日?=来年は運勢絶頂期か?

 都心の会社まで、毎日往復3時間近く掛けて通勤しているのは、ランチが楽しみだからです(笑)。(そう言えば、満員の通勤電車の中で、私より年長の人は、まずいないことに最近、やっと気が付きました!)

 「今日のランチは何にしようかな?」と考えるのが至福の時間です(笑)。

 本日は12月12日。どういうわけか、トンカツが食べたくなり、東銀座、築地辺りにあるとんかつ店を渉猟しました。そしたら、「イマカツ」6人、「にし邑」は11人、最後の砦「とん㐂」も5人と大行列。こりや、駄目だ、と諦めました。

 「何で? 今日はとんかつの日なのかな?」と調べてみたら、「とんかつの日」は10月1日だそうで、本日12月12日は、「(車の)バッテリーの日」(野球の守備の投手が1,捕手が2だから)、もしくは「漢字の日」なんだそうです。

 道理で、毎年、この辺りになると、京都の清水寺で、「今年の漢字」が発表されますね。先ほど、テレビで生中継していましたが、今年の漢字は「戦」でした。清水寺の森清範貫主の達筆は見事なものでした。2022年の重大ニュースの第1位は、何と言っても、「ロシアによるウクライナ侵攻」ですから、「戦」はまさしく妥当な選択でした。

カナダ在住のTさんからのクリスマスカード

 扨て、毎年、この季節になると、カナダにお住まいのTさんからクリスマスカードを送ってくださいます。

 Tさんは、5年前に亡くなった「おつな寿司会」のメンバーで、翻訳家・作家の片岡みい子さんの御主人正垣親一氏(故人)の成城学園時代の親友ということで、私がこのブログで片岡みい子さんが亡くなったことを書いたことが御縁で、一度銀座でお会いして食事をしたこともあります。大変真面目で、実に律儀な方で、こうして、師走になると毎年、カードを送ってくださるのです。Tさんの御尊父は昭和時代の赤坂辺りの夜の社交界で知らない人はいないと言われた名士で、力道山やポール・アンカら海外も含め芸能界、スポーツ界に友人・知人を沢山お持ちになり、裏話にも通じた方でした。Tさんは現在、カナダにお住まいなのに、日本のニュースに関して、私以上に熟知されているので、驚いてしまいます。

 早いもので、来年は私も片岡みい子さんが亡くなった享年と同い年になります。月日の経つのは、嫌になるくらい早いものです。

 昨日も、自宅で、好きなブラームスの交響曲第1番から4番までCD(レナード・バーンスタイン指揮、NYフィル)で聴いていて、ブラームスの長い白髪の髭面の肖像画から、彼が亡くなったのは70代後半か80代かとばかり思っていたら、略歴から計算したら、何と63歳だったんですね。今の私より若い!

 考えてみれば、シューベルトは亡くなったのが31歳、モーツァルトは35歳、メンデルスゾーン38歳、ショパンは39歳、ベートーヴェンも56歳で亡くなっています。結構、大作曲家の天才の皆さんは早死にされています。彼らは歴史に残る大仕事をされたのに、それに比べて自分は、馬齢ばかり重ねて何をやっているんだ、と情けなくなります。

Ginza

 しかし、残された人生、出来るだけ前向きに生きなければいけない、と思っていますので、たまたま、ある占い本を買って読んでみました。そしたら、来年の私の運勢は超絶好調だったのです(笑)。超絶好調というのは、来年が一番のピークで、再来年からは、私の運勢は下降期に入るということになりますが…。(注=運勢を馬鹿にしてはいけませんよ。サッカーW杯のPK戦だって、運、不運で決まると言うではありませんか!)

 ということで、来年(だけ)は良い年になりそうです。年齢的にも、人生、最後のチャンスかもしれません。「よおし、一丁、やってやるかあ〜」とカラ元気が出て来ました(笑)。

陸軍中野学校のいちばん長い日とインドネシア独立の礎をつくった柳川宗成=第48回諜報研究会

12月10日(土)は、第48回諜報研究会にオンラインで参加しました。当初は、早稲田大学の会場に足を運ぶ予定でしたが、事情が生じて、正田先生に御迷惑をお掛けしながら、オンライン参加に切り替えてもらいました。

 少しトラブったのは、しばらく使っていなかった自宅のプリンターがパソコンとの接続が断絶していて使えず、遅く来た一部の資料が印刷できなかったことでした。私はIT音痴なので、ちょっとイラつきました(苦笑)。また、毎度のことながら(笑)、登壇された講師の先生方の講義が早いのでメモが全く追い付かず、以下に書くことは「概要」にもなっていない、単なる個人的感想であることを最初にお断りしておきます(苦笑)。

 苦笑ばかりですので、皆様も興醒めしたことでしょう。

 最初の報告者は、インテリジェンス研究所特別研究員の山内龍氏で、タイトルは「終戦史のなかの陸軍中野学校」でした。何度も映画化された半藤一利氏の名著「日本のいちばん長い日」に描かれたように、昭和20年8月、ポツダム宣言受諾反対の一部陸軍将校たちがクーデター未遂事件を起こします。そんな中、陸軍中野学校出身者たちも巻き込まれ、終戦前後の彼らの行動を日ごとに逐一追ったご報告でした。

 大変良く調査された労作だと思いましたが、山内氏御本人は「(中野学校はスパイ養成機関という性格上)公式記録の記載が乏しい。そのため、当事者の回想録が中心で、事実関係の確認が難しい」と正直に述べておられました。

 最初に書いた通り、メモが追い付かなかったので、詳しいことは茲に書けませんけど、阿倍直義少佐、猪俣甚弥少佐、渡部辰伊少佐といった中野学校の「在京一期生」たちは、「抗戦派」と接触して、クーデター参加に一時は前向きだったのに、結局不参加だったという史実は知っていましたが、二期生を中心にした人たちが、別に一期生に義理立てすることもないので同調しなかったということまでは、知りませんでしたね。

 次に登壇されたのは、拓殖大学教授の澤田次郎氏でした。タイトルは「陸軍中野学校出身者のジャワ工作ー柳川宗成大尉の遺稿からー」でした。この資料が、自宅のプリンターの不具合で印刷できず、「困ったなあ」と思っていたのですが、澤田教授は、やり手ビジネスマンのようにプレゼンテーションが巧かったので、非常に分かりやすい講義でした。

 私は柳川宗成(もとしげ、1914~85年)について殆ど知りませんでしたが、講義を聴講した後は、いっぱしの通になった気分でした(笑)。澤田教授は、最初に、自ら奉職する拓大についての話から始めました。講義の主人公である柳川宗成の出身大学でもあるからです。

 拓大と言えば、あの参議院議員鈴木宗男氏の出身校で、個人的には「武闘派」のイメージがありましたが、もともと1900年に台湾協会学校として、首相や台湾総督なども務めた長州出身の陸軍軍人・桂太郎によって創立されたものでした。当時、台湾は、日清戦争によって割譲されたもので、いわば、植民地経営のノウハウを習得する学校として設立されたのでした。学長はその後、後藤新平や新渡戸稲造も務めました。教授に招かれたのは、戦後,A級戦犯になる大川周明らがいましたが、柳川が入学した昭和8年の時点では、大川は5・15事件で連座して、教授の職を追われていました。

 拓大は1907年、日本で最初にマレー語を取り入れた大学(東京外大は1908年、大阪外大は1921年、天理大学は1925年)で、柳川もマレー語を習得するために拓大に入学したようです。柳川とはどういう人物かと一言で言うと、大卒後、陸軍中野学校に入学し、当時、オランダ領インドネシアのジャワ島に上陸し、諸工作を実行し、現地のタンゲラン青年道場(16歳~20歳、50人)やジャワ防衛義勇軍(PETA)を創設し、オランダからの独立の礎をつくった軍人で、映画「ムルデカ17805」(2001年)の主人公のモデルにもなった人です。

 ジャワ防衛義勇軍に参加した人物の中には、後にインドネシアの大統領になるスカルノやスハルトもおり(つまり、柳川の教え子)、柳川自身も1964年に家族とともに、インドネシアに移住し、国籍も取得しています。

 柳川は1967年に「陸軍諜報員 柳川中尉」(サンケイ新聞出版局)という回想録を出版しましたが、その本の元原稿が、現在、拓大のアーカイブに保存されています。元原稿は1088枚あり、そのうちの42.8%が単行本化されたといいます。この元原稿を拓大に寄付したのが、拓大OBで柳川宗成と親交があった元日刊スポーツ新聞記者の宮沢正幸氏(1930年生まれ)だということを、澤田教授が写真入りで明らかにした時、吃驚しました。宮沢さんとは私自身、面識がある、というか大変お世話になった方だったからでした。

 1981年から84年にかけて、原宿にあった日本体育協会(体協)の記者クラブで、宮沢さんと御一緒しましたが、大先輩記者なのに、そして他社の人間なのに、席が近かったせいか、分け隔てなく、大変親切で取材の初歩やちょっとした情報まで教えてもらったものでした。宮沢さんが拓大出身だったとは知りませんでした。大変温厚な方で、先に、拓大=武闘派なんて書いてしまい、失礼致しました。(拓大は、戦前から植民地経営学に付随して、空手が推奨課目のようでしたが)

 

真珠湾攻撃から81年、ジョン・レノン暗殺から42年=12月8日

 12月8日、今年は、真珠湾攻撃からもう81年になります。当時を知る生き証人の方もだんだん減って来ていますが、語り継がれなくてはいけない歴史です。

 もう一つは、ジョン・レノン暗殺から42年です。こちらは、私でもよく覚えております。第一報は、日本時間12月9日午後2時頃だったと思います。当時の私は、マスコミ入社1年目の新入りで、あまり外に取材に行かせてもらえず、デスク補助として、電話で先輩記者が送稿する原稿を書き取ったり、雑巾掛けしたりの修行期間でした。事件の一報を最初に知ったのは、速報やフラッシュニュースが出た際のアナウンスで、「元ビートルズのジョン・レノンさんがニューヨークの自宅近くで撃たれました」といった簡単な一文だったと思います。そう記憶しているだけで、間違っているかもしれませんが(苦笑)。

 当時、ニュースが集積する整理部でバイトをしていた顔馴染みのMさんが、ニュースの電ガラのコピーを持って来てくれたと思います。私が熱烈なビートルズ・ファンだということを知っていたからです。その時、私は勤務中だったので、涙も出ず、冷静さを努めましたが、仕事が終わってからは、Mさんと自由が丘で泥酔するほど吞みました。この衝撃をどう対処していいか分からなかったからです。

 翌日は、駅のキオスクに売っていた全ての新聞~一般紙、スポーツ紙、英字紙~を購入しました。ジョン・レノンの記事は皆、一面と社会面に掲載されていました。それらを切り抜いてスクラップブックに貼り付けていましたが、何処にいったのやら。探せば出てくるかもしれませんが…。

 あれから42年ですか…。あの事件を同時代として体験した人もだんだん減って来ました。

Higashi-Kurume

 そんな12月8日(木)の本日は、会社を休んで、近場のクリニックで5回目のBA5用のコロナワクチンを接種して来ました。私が住んでいる最寄り駅の反対側改札の西口にあるクリニックで、初めて訪れましたが、医師1人で受付兼務の看護師さんが5人もいて、皆さん感じが良い人ばかりでした。

5回ともそうですが、(今のところ)副作用がなかったのは、何よりでした。

 平日の午前は、通勤電車の中は、働き世代の若い人ばかりですが、クリニックは高齢者の方ばかりでした。これほど対照的なものはありません。普段の通勤電車では全く自覚しない「少子高齢化」を実感した次第です。つまり、クリニックでは、10人中8人が私より年長の高齢者、通勤電車や街中を元気に歩いている人たちの10人中8人は、私より確実に若いということです。

 そう言えば、この日はその最寄り駅で人身事故がありました。いつもなら利用している鉄道の電車が止まり、朝の8時10分過ぎ?に再開したようでしたが、大幅にダイヤが乱れ、沿線駅の中には改札入場制限がされ、「90分待ち」もあったようです。

 12月8日は色んなことがある日でした。

報知新聞が創刊150周年だったとは…=大隈重信、原敬、犬養毅も

 スポーツ紙の報知新聞が今年、創刊150周年ということで、12月6日の紙面から「報知あの時」のタイトルで自社の歴史を振り返った連載を開始しています。(執筆は、内野小百美編集委員)

 えっ?報知が150周年なの?と驚く方も多いかもしれませんが、もともと報知新聞は、明治に政論新聞と言われた一般紙とスタートし、大正時代は「東京五大紙」の一角を占めながら、戦時中に読売新聞の傘下になるなど紆余曲折の末、戦後、スポーツ専門紙として再スタートした新聞だったのです。

 創刊は明治5年(1872年)6月10日、前島密の支援で、「郵便報知新聞」の題で発刊され、当初週刊でしたが、翌年日刊紙となります。前島密と言えば、「郵便の父」と呼ばれ、1円切手の肖像画にもなっていますが、明治の元勲で内務卿になった大久保利通の晩年に、大久保の右腕として活躍した人でしたね。大久保が暗殺された紀尾井町の現場に真っ先に駆け付けたのも前島密でした。

 12月7日付の連載2回目で、報知新聞は「大隈重信、原敬、犬養毅と3人も総理を輩出した」と、その人材の豊富さを誇っておられます。大隈重信は、明治14年の政変で下野した後、自らつくった立憲改進党の政党機関紙として報知新聞にテコ入れします(そのお陰で、主筆だった栗本鋤雲らが退社。)大正10年、東京駅頭で暗殺された原敬は、明治12年から3年間在籍して、仏紙の翻訳、論説などを担当。昭和7年の5.15事件で暗殺された犬養毅は若き頃、通信員となり、明治10年の西南の役を従軍記者として取材しています。

 現在、東京・有楽町にあるビックカメラは、以前は百貨店の「そごう」(♪「有楽町で逢いましょう」がその宣伝歌)でした。そして、その前は報知新聞社の本社だった(だから、その名残でビックカメラの7階に「よみうりホール」がある)ことなど、ある程度、報知新聞に関するトリヴィア(雑学的知識)は知っているつもりでしたが、12月6日付の連載1回目に掲載された「報知150年史」の年譜を見ると、知らないことばかりでした。

 まず、明治30年(1897年)、編集局に「探偵部」を新設。現在の社会部の元祖、とあります。そっかあ。新聞社の社会部をつくったのは報知新聞社だったんですね。

 明治31年(1898年)、「校正係募集」の広告を見て羽仁もと子が入社。後に婦人記者第1号となる、とあります。羽仁もと子は、女性新聞記者の先駆けだったんですね。でも、後に、現在も続いている「婦人之友」を創刊し、夫の吉一とともに自由学園を創設した偉人として名を残していると思います。二人は社内結婚というので、ちょっと、調べたら、夫の吉一は、報知新聞の編集長を務めた人でした。女婿の羽仁五郎は歴史学者、孫の羽仁進は映画監督としても知られています。

 まだあります。大正9年(1920年)、「東京ー箱根間往復大学専門学校対抗駅伝競走」創設とあります。現在も続く箱根駅伝をつくったのは報知新聞だったんですね。読売新聞だと思っていました。

 昭和3年(1928年)、社員の鶴田義行がアムステルダム五輪200メートル平泳ぎで五輪水泳初の金メダル、とあります。記者ではなかったようですが、戦後は、愛媛新聞の事業部長、監査役などを歴任しています。(同じアムステルダム五輪の陸上女子800メートルで銀メダルを獲得した人見絹枝は大阪毎日新聞社の運動部記者でした。)

 報知新聞は、昭和17年(1942年)、戦時下の新聞統制で読売新聞の傘下に入り、「読売報知」となります。戦後の昭和21年(1946年)には夕刊紙「新報知」として復刊、翌年に題字を「報知新聞」に戻し、同24年(1949年)12月30日から朝刊のスポーツ専門紙となり、プロ野球読売巨人軍の広報紙?として現在に至っています。スポーツ紙としては、日刊、デイリー、スポニチに続き4番目だといいます。

アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?

 またまたブログ更新に間が空きましたけど、サッカーのワールドカップに熱中したりして、読書がなかなか進まなかったことが理由の一つにあります(苦笑)。でも、昨日、やっと、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)の上巻を読了できました。

 上巻のサブタイトルは「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」となっておりますが、何故、アングロ・サクソンが世界の覇権を握ることができたのか、については上巻を読んだだけでは明解な回答が私にはよく理解できませんでした。答えは書かれていないと言ってもいいかもしれません。「第9章 イギリスというグローバリゼーションの母体」の最初に「2015年頃の時点で、英米世界は4億5000万人の人口を擁し、既に、イギリスとアイルランドの分を差し引くと4億3800人しかならない欧州連合の総人口を凌駕している。」と書かれていますが、人口で比べれば、中国の14億人、インドの13.9億人と比べれば、微々たるものです。その微々たる人口のアングロ・サクソンが何故、世界制覇をしたのか、気になるところですが、私は、軍事力を超越して、文化力=英語という言語が世界共通語となったこと=が大きいと考えています。けれど、「鶏が先か、卵が先か」のような話になってしまいますね(笑)。

  日本国語大辞典(小学館)によると、アングロサクソンとは、現在のイギリス人の主な祖先のことで、5世紀ごろドイツ西北の海岸地方から大ブリテン島へ侵入したアングル、サクソン、ジュートなどの西ゲルマン族のこと、とあります。ということは、英国人というのは、もともとゲルマン=ドイツ人だったのかあ、ということになります。1066年にノルマン人による英国征服があり、ウィリアム1世として即位(ノルマン朝)しますが、この本の中で著者は「フランスのノルマン人」と書いております。でも、正確に言うと、ノルマン人とはゲルマン系で、フランスのノルマンディー地方に移住して根を張っていた民族だったので、ノルマン人はゲルマン=ドイツ人ではないでしょうか?それに、現在の英国の王室につながるハノーヴァー朝は、ドイツの王室から来たものです。

 また、12~14世紀の英プランタジネット朝は、フランスの貴族アンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位した王朝で、そのヘンリー2世は、フランスのアキテーヌ女公エリアノールと結婚したため、ワインで有名なボルドーは、300年間もプランタジネット王朝の支配下、つまり英国領でした(英仏の百年戦争で、フランスがボルドーを奪還)。

 何が言いたいのかと言いますと、英国人、フランス人、ドイツ人などと言っても、欧州ではゲルマン系、ケルト系、ラテン系、スラブ系など色々混じっているので、民族的な特色を峻別するのは難しいのではないか、と思ってしまったわけです。でも、著者によると、国としてそこに住む人間の家族体系を比べると明らかに違いが出て来るというのです。その国をつくる国民の家族形態は、地理的環境や政治経済体制によってつくられていくというのがこの本の基本になっているようです。「ようです」と書いたのは、著者の文章が難解だからです。

 著者の言葉を堀茂樹氏の訳でそのまま、ここに掲載しますと、「イギリスでは、ケルト人、ゲルマン人などの『野蛮人』の未分化家族が絶対核家族に変形した。双系親族システムが非活性化し、兄弟姉妹の連帯がローカル集団の機能の根幹を担う部分ではなくなった。そのことにより、世帯の核家族的性格が徹底したものになった。」などとありますが、この文章をすぐ理解出来る人はそれほど多くないと推測されます。

 話は全く飛びますが、上巻で私が最も印象に残った数字が「他殺の発生数」です。13世紀のフランスのある村の教区の住民台帳が残っていて、それによると、他殺の発生率は、10万人当たり100件もあったといいます。かなり多いです。現代の世界平均では、10万人当たり1人を切るからです。13世紀と言えば、日本は鎌倉時代。ちょうど大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をやっていますが、梶原景時の乱、比企能員の乱、和田義盛の乱…等々、やたらと人が殺される物騒な世界です。そんな13世紀は大した憲法も法律も人権もない無法地帯だったので、世界的にも他殺の発生数が多かったのではないか、と思ってしまった次第です(笑)。

 ちなみに、この本の345ページには、1930年頃の他殺発生数が出て来ます。10万人当たり、英国では0.5件、スウェーデンとスペインで0.9件、フランスとドイツで1.9件、イタリアで2.6件、そして日本では0.7件だったといいます。それに対して、米国は8.8件という飛び抜けた数字です。著者のトッド氏は「アメリカ社会は歴史上ずっと継続して暴力的で、そのことは統計の数値に表れている。」と書くほどです。1930年頃の米国と言えば、アル・カポネらギャングが暗躍した頃なので、殺人事件が多かったのでしょうか。また、トッド氏は「米国社会で一般市民が拳銃やライフを所持するのは、中世ヨーロッパにおけるナイフの日常保持の永続化である。」と書き、米国の矛盾する先進性と野蛮性を指摘していましたが、要するに、日本のような秀吉による「刀狩り」がなかったせいなのでしょう、と私なんか読みながら考えてしまいました。

頑張れニッポン=サッカーW杯、ドイツに次ぎスペインまで連破

 いやはや、信じられないことが起きましたね。まさに、歴史的瞬間に立ち合った気分になりました。カタールで開催中のサッカーW杯のことです。

 日本時間12月2日早朝4時から開始された日本対スペイン戦。格下のコスタリカ(FIFAランキング世界31位)に負けた日本(世界24位)に対して、W杯優勝経験もある世界第7位のスペイン。私は、90%の確率で日本は負けると判断し、仕事もあるので生中継は見ないで就寝したのですが、朝5時半に起きてテレビをつけたら、日本が2-1でリードしているので吃驚。その後、スペインの猛攻で日本は防戦一方でタジタジの状態でしたが、コスタリカ戦のように、中途半端なバックパスはせず、ゴール前の日本DFは思い切って、誰もいなくてもハーフラインまで蹴り返していたので、スペインもなかなか攻め切れません。

 耐えに耐え抜いた日本は、辛うじて勝利をもぎ取った感じでした。

 得点シーンは見ていなかったので、後でYouTubeで確認したら、特に日本の2点目は、非常に微妙でした。主審によるVAR判定で田中碧選手のゴールは認められましたが、三苫選手による折り返しは、ゴールラインを割っているようなまさに紙一重の差でした。運も味方についたのでしょう。

 一夜は明けてましたが、試合後の日本列島は、一億総サッカー評論家状態です。こんな私でさえ、普段は取り上げないサッカーをブログに取り上げたのは、実は私は年季が入っているからです(笑)。もう40年も昔の話ですが、1980年から84年の約4年間、小生はサッカー記者として取材に明け暮れていたのでした。会社の仕事だけでなく、専門誌「サッカーダイジェスト」にも記事を書いたものです。当時は、国内にプロはなく、日本リーグという企業スポーツしかなく、人気はなく、競技場に行っても観客の数を数えられるほどでした。後に伝説の名選手とした名を残したマラドーナの所属するボカ・ジュニアーズや欧州と南米一位チーム同士で対決して世界一を決めるトヨタ・カップなど海外から強豪チームが来日すると国立競技場は満杯になったりしましたが、日本のサッカーは通好みの域を超えていませんでした。

 ですから、ワールドカップなんて夢のまた夢。日本は当時、欧州や南米からは50年は遅れている、と言われていましたから、そのギャップを埋めるのは半永久的に無理だと思っていました。

 それでも、サッカー記事を書くことで、相当鍛えられました。締め切り時間の関係で試合が終われば、20分以内で原稿を書きあげて送稿しなければならなかったので、要領良くポイントをまとめて書くスピードが付きました。

 でも40年も昔の話ですから、私が取材していた頃は、伝説のエースストライカー釜本邦茂選手の引退試合があった年でもあり、後に日本代表監督も務めた岡ちゃんこと岡田武史選手(古河電工)が現役で全日本のキャプテンだった時代でした。何しろ、現在、J1名古屋グランパスの長谷川健太監督(57)がまだ高校生(清水東高)でしたからね。高校サッカーの優秀選手が選ばれて欧州遠征した際は、同行記者として選ばれ、長谷川君のほか、大榎克己や堀池巧選手らと親しくなったものです。

 ポジションもボランチなんて聞いたことも使ったこともなく、今は死語になったフルバックとかハーフバックとかギリギリ使っていた時代でした。(最近、途中でメンバーを大幅に入れ替える「ターンオーバー」という言葉も初めて知りました)

 老人の繰り言ばかり並べてしまいましたが、40年前と比べて、日本は、選手個々人の技術が格段に上がったことが確かですが、何と言ってもメンタル面が強くなったと思います(五輪選手も含めて)。特に今大会では、ドイツ戦に続き、スペイン戦でも同点ゴールを決めた堂安選手の「有言実行」ぶりには感服しました。彼は、ビッグマウス(大口たたき)と批判されたりしますが、自分自身を追い込んでちゃんと結果を出す辺りは、相当なメンタルの強さを感じさせます。

 次の決勝トーナメントは12月6日で相手は、前回ロシア大会(2018年)準優勝のクロアチア(世界12位)です。過去のW杯での対戦成績は日本の1分け1敗。甘くないので楽勝できる相手ではありませんが、せめて、PK戦に持ち込んでもいいから、日本は勝利を勝ち取ってベスト8に進んでほしい、と期待しています。

 そんなささやかな希望を持ったっていいじゃないですか。プーチンさんも戦争なんかしないで、自国が出なくても、サッカーでも観戦していたらいいのです。

【追記】2022.12.6

  日本時間12月6日午前零時から行われた決勝トーナメント、日本対クロアチア戦で、日本はPK戦で敗れ、惜しくもベスト8にはなれませんでした。翌日に仕事があるので、生中継は見られませんでしたが、朝方のニュースで知りました。実に悔しいですねえ。またもやベスト16の壁は破れませんでした。

 でも、上述した通り、PK戦になりましたね。予測が当たりました!(笑)。でも、日本が敗れたので、予想は外れたことになります。やはり、残念でした、という他ありません。この悔しさを次世代が引き継いで、今後こそ、ベスト8とは言わず、優勝を目指してほしいです。堂安選手じゃありませんが、「W杯優勝」が全く夢物語ではないことを、全日本はこの大会で示唆してくれました。

「ドミノ理論」は間違っていた?=家族制度から人類史を読み解く

 うーん、人の名前が出て来ない。10月に新しく英国の首相になった人、インド系で、奥さんともども大金持ちで、英王室よりも資産があるという…。韓国の大統領の名前も出て来ない。テレビで顔はよく見るのだけど…。目下、カタールで開催中のサッカーW杯。フランス代表のスーパースターは、バムエパだったか?エムベパだったか…(答えは、リシ・スナク英首相、尹錫悦ユン・ソギョル韓国大統領、エムバペ)。

 物忘れ、置き忘れ、が激しくなってきた今日このごろです。昨日なんか、ネット通販のパスワードも忘れて、一瞬、焦りました。

 でも、英国の首相や韓国の大統領の名前を会社の若い後輩に聞いてみたら、出て来ません(笑)。やったー、です(爆笑)。情報が氾濫しているせいなのかもしれません。現代人は、スマホがあれば、すぐ検索できますから、無理に覚えようとしないせいなのかもしれません。というより、今の世の中、「いらない情報」が多過ぎるのかもしれません。SNSで一般ピープルが好き勝手に発言する。それをマスコミが面白おかしく取り上げる…。

 勿論、このブログもまさしく「いらない情報」です。「それを言っちゃあ、おしめいよ」ですけど、私はすぐ読者の反応を期待してしまいますから、そんな自分のあざとさが嫌になって Facebook もやめてしまいました(笑)。

 さて、相変わらず、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)を読んでいます。四国の城巡りにも持参しましたが、ほとんど読めませんでした。昔なら、ラジオを聴きながら勉強するとか、一度に違うことが同時に出来たのに、年を取ると、マルチタスクが出来なくなりました。音楽を聴きながらの読書さえ出来なくなりました。どちらか一つに集中しなければ何も頭に入らなくなったのです。

 ですから、四国旅行の際は、お城のことで頭がいっぱいで、ほとんど本が読めなかったのでした。特にこの本は、気軽に読めるような本ではありません。はっきり言って、難解な学術書です。未分化親族網、絶対核家族、不完全直系家族、共同体家族…といった耳慣れない専門用語が頻出するので、何度も立ち止まってしまいます。うーん、もう少し分かりやすく書いてくだされば、ハラリさんの「サピエンス全史」のように世界的な大ベストセラーになったのに。

 でも、言い訳ばかり書いてもしょうがないので、「如是我聞」ではなく、「如是我読」でいきます。如是我読とは、私の造語で、「このように私は読んだ」という意味です。誤読かもしれませんが、致し方ありません。

◇人口と家族が人類史の謎の鍵

 トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」のまだ上巻ですが、私はここまで読んできて、以下のように理解しています。まず、20万年前に出現した現生人類ホモ・サピエンスは、核家族だった。それが、1万年前に、彷徨する狩猟採集生活から、定住する農耕生活が始まったお蔭で、土地や資産などの相続の問題が発生してきた。富が分散しないようにたった一人の長子に分け与えたのが直系家族で、それ以外にも色んなパターンがあって、それが、先述した未分化親族網、絶対核家族、不完全直系家族、共同体家族がそれに当たります。王侯貴族ともなると、絶大な権力と広大な土地を確保するので、土地が分割されたり、女子にも分け与えられたり、さまざまな形態が生じていきます。

 この本は、人口問題を主軸に置いた歴史人類学書です。この本には書かれていませんが、中東で農業が始まった紀元前8000年頃の世界の人口はわずか500万人でした(日本は縄文時代)。この農業革命の影響で人口は増え続け、現在2022年の世界人口は、何と80億人です。世界人口が10億人になったのが1800年ごろ、500万人の時代から約1万年掛かりましたが、それから130年後の1930年代に20億人。それからわずか80年余の2011年に70億人。そこから約10年で、また10億人も増加。ただし、国連の推計では、2080年代に約104億人でピークとなり、その後、横ばいになるといいます。

 いずれにせよ、人口増加には様々な促進要因や、その逆に阻害要因があります。ここからがソ連邦崩壊を予言したトッド先生の面目躍如です。宗教(特にキリスト教のプロテスタンティズム)、識字率、出生率、イデオロギー(特に共産主義)、家族制度との相関関係を人口をキーワードに見事に解き明かしてくれます。

 その相関関係を大雑把に見てみると、欧州では15世紀にグーテンベルクによる活版印刷の発明により、聖書が大量に出版されるようになり、識字率が高まる。特に、ドイツでは16世紀になってルターによる宗教改革で「聖書に帰れ」と主張されると、識字率がさらに高まる。同時に、キリスト教は禁欲主義と罪の意識を唱えるので、聖職者は独身を貫き、一般民衆の中には原罪意識から自殺も増え、出生率にも影響を与えるようになる。と、明確に著者は断定はしておりませんが、これが私の如是我読です。

◇日本とドイツは直系家族

 家族制度については、同書284ページで、トッド氏は具体的に国別に紹介してくれております。

 英国=絶対核家族、仏(中央部)=平等主義核家族、ドイツ=直系家族、ロシア=外婚制共同体家族、日本=直系家族、中国=外婚制共同体家族、カンボジア=未分化核家族、イラン=弱い内婚制共同体家族、アラブ世界=強い内婚制共同体家族、インド南部=父方居住で交叉イトコ婚の核家族、ルワンダ=一夫多妻制の直系家族…。日本は長子相続の伝統が残っている直系家族ですから、その通りで、これで、家族制度のイメージが湧きます。

 そこにイデオロギーが登場します。トッド氏は、共産主義社会というのは、権威主義的で平等主義的ドクトリンなので、共同体家族の権威主義的で平等主義的な価値観に支配されている地域でのみ実現する可能性があるというのです。上の各国のデータを見てみると、外婚制共同体家族制度を取っている中国とロシアが、ちょうどそれに当てはまるわけです。他に、ベトナムも社会主義体制ですが、やはり、家族は権威主義的で平等主義的共同体の国なのです。

 その一方、同じ東南アジアのタイは、権威主義的でも平等主義的でもない、つかみどころがない未分化の家族組織なので、共産主義は全く適応できない。「ドミノ理論」(一国が共産主義社会となると、隣国もドミノ倒しのように共産主義化する)でベトナム戦争に深く介入した米国のロストウ理論の破綻は、このように家族制度を見極めれば、知的・政治的説明がつく、とトッド氏は胸を張って主張しております。

 同書には書かれてはいませんが、さしずめ、トッド理論によれば、日本は直系家族制度ですから、共産主義は適応しない、ということになるのでしょう。しかし、同じ直系家族のドイツは、東独が共産主義化されました。これは、ソ連による占領ということで説明がつくかもしれません。また、ベトナムの隣国カンボジアは、ドミノのように共産主義化されましたが、共同体家族ではなく、未分化核家族です。詳しい説明はありませんが、未分化核家族には共産主義を受け入れる土壌があるのかもしれません。(それとも、単なる強圧的な独裁政権なのか?)

 「難解」などと難癖をつけてしまいましたが、色々と我流に読むと俄然面白くなってきました。