現世利益を否定しない仏教=松長有慶著「密教」を読んで

 ここ何日もブログ更新出来ず、週末も、天気が良いのに、家に閉じこもって本ばかり読んでおりました。若者でなくても、「書を捨て街に出よ」ですから、あまり、健康的ではありませんよね…。

 松長有慶著「密教」(岩波新書)を読んでおりました。どうしても密教のことが知りたくなったからです。著者は有名な大家であり、入門書として手頃なのかなと思って、この本を選んだのですが、結構難解でした。密教そのものが、「秘密の教え」ということですから、修行するわけでもなく、灌頂を受けるわけでもなく、本を読んだだけで理解しようとするその心構えがまず間違っておりました。密教は「実践」を重視するからです。密教では、人はそれぞれ皆、仏性という宝を自らの内に秘めているのに、平常は煩悩という雲に覆われて自覚することは少ない。そのため「即身成仏」(行者が肉身を持ったまま現世において悟りを得て仏となる)するための最も有効な方法として瑜伽(ヨーガ)の観法を実践することなどを説いております。

 このほか、本書では「月輪観」や「阿字観」、「五字厳身観」や「五相成身観」、さらには護摩業や陀羅尼真言などの実践が紹介されていますが、素人が自分勝手にやっても効き目がないと思われますので、「師資相承」で正式に師匠から秘伝を授けられることが一番だと思います。

 さて、著名な著者の松長有慶氏は、高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主で、高野山大学の学長まで務めましたが、先月4月に93歳で亡くなられました。(それなのに、5月の叙位叙勲で、中学、高校長レベルの「正五位」だったことは聊か意外でした。)日本の仏教には色々な宗派があり、空海が開いた同じ真言宗でも弟子が分派して古義真言宗系や真義真言宗系などがあり大変複雑ですが、この本は、その中でも「高野山真言宗」の教えが説かれているということは間違いないでしょう。ということで他宗派に対する批判や優越感? が本書では垣間見えたりします。例えば、60~61ページにはこんな記述が見られます。

 それは「華厳経」とか「法華経」という経典が、釈尊の生涯の中で最晩年のもので、内容がもっともすぐれているというひとりよがりの見解でもあった。

 「ひとりよがり」なんて、書かれたりすれば、サンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(妙法蓮華経)」を「白蓮華のように最も優れた正しい教えのお経」と大変苦労して翻訳された植木雅俊氏なんか怒るんじゃないかなあ、と思ったりしました。

 法華経だけかと思ったら、他力本願を主旨とする浄土真宗や親鸞に対する揶揄も117ページにあります。

 即身成仏は、行者の力だけによって達成できるものではない。といっても他力を説く仏教のように、如来の救済力だけに頼るわけではない。

 如来とは、阿弥陀如来のことだと思われます。素直に読めば、浄土真宗の念仏よりも真言密教の方が効果ありそうに見えます。

 また、禅宗に対する批判も120~121ページにあります。

 密教の観法は、…行者が仏と一体化するように組織されている。この点、禅宗系の禅定が、…具体性を持たぬ空間とか壁に向かって、一切の現象界の事物を否定し、捨離することによってなりたつのとは対照的である。

 うーん、これを読むと禅では駄目ですよ、と読めなくはありませんね。そう言えば、本書には空海や攪拌、最澄ら密教に関係した人の具体名は当然出てきますが、比較として、道元も栄西も、いや法然も親鸞も日蓮も一切出てきませんでした。なきが如くに。

 それでは、何よりも「一番良いのは密教だ」という話になるかと思ったら、128ページで少し密教批判も出て来たので驚きました。

 日本密教の修法の方法は、密教観法を形式化し、密教的な生命を弱体化させる方向に進まざるをえなかった。

 ここでは、金剛峯寺の座主としてではなく、学者としての中立的立場を通していたので安心しました。この本の初版は、1991年7月19日で、私が購入したこの本は2022年1月17日発行の第33刷なので、実に30年以上もの年月が経過していたことになります。つまり、1991年の記述ですから、その4年後に起きたオウム真理教事件などは一切触れていないので、ジャーナリスティックという意味で、内容が古びていますが、密教の根本思想は変わっていないということでロングセラーになっているのでしょう。

 密教は大乗仏教から5~6世紀頃に派生し(初期密教=雑密)、7~9世紀に隆盛期(中期密教)を迎え、9世紀以降は、特殊な後期密教が起こり、本国インドではイスラム教徒の侵入により13世紀初めに滅亡します。その間、中国にも密教が伝えられますが、9世紀中ごろ唐の18代皇帝武宗による廃仏政策で衰退し、10世紀後半に消滅します。日本には、最新研究では、密教は既に飛鳥時代には入り、平安時代に留学した空海が長安で恵果から直々両界曼荼羅の伝授と灌頂を受けて本格的に入り(東密)、その後、最澄の弟子の円仁(第3代天台座主)や園城寺の別当になった円珍(最近、彼が唐から持ち帰ったパスポート「過所」などが「世界の記憶」遺産に指定されました!)らも入唐し、密教(台密)を伝授され、現在に至ります。後期密教は中国や日本には伝わらず、チベット仏教として受け継がれ現在に至っています。

 ということは、密教は本国のインドと中国では消滅したのに、日本とチベットだけに残っているわけです。

 ただし、後期密教(左道密教という蔑称も)のタントラ(行者の思想、儀礼、生活習慣など)には、わびさびを愛好し、心の平安と清潔感を求める日本人にはそぐわないものがあります。行者たちは、人々が避ける墓場に集まり、禁断の人肉を食らい、人間の排泄物や〇〇(伏字)まで飲食し、女性の行者と交わることを修法と称して実践したりするのです。ここまでいくと、宗教か?という疑問が生まれ、まるでタチの悪い新興宗教のようにも見えます。これも仏教の一派だとしたら、仏教とは何と恐ろしい宗教だと私なんか思ってしまいます。

 著者は、このような非倫理的、反道徳的タントラ主義=タントリズムには、徹底して自己の本源に帰ろうとする、言い換えれば、有限の人間の中に無限の絶対を見つけ出そうとする神秘主義的な宗教の一つの極端な姿を示している(26ページ)とまで言います。インドの後期密教(チベット密教)には、呪術などを使って、人を殺す「呪殺法」や仲間割れを起こさせる「離間法(りげんほう)」も行われ、経典には6種以上の護摩法が記されているといいます。人を救済するのが宗教だとすれば、後期密教は本当に宗教なのか?という疑問も生まれます。

 呪殺なんて、オウム真理教の連中が使っていた「ポア」じゃありませんか。

 以上は、あくまでも極端な例なので、これで密教の習得から遠ざかってしまっては勿体ない気がします。驚くべきことに、密教は、欲望(煩悩)を否定しないといいます。密教では人間的な欲望もまた宇宙生命と繋がっているものなので、これらを全面的に否認せねばならぬと考えません。欲望を肯定することと、断ち切ることは矛盾しないとまでいうのです。つまり、我々の弱点を含んだこの現実世界を全面的に肯定し、その中に理想形態を見出し、現実世界の中に絶対の世界を実現することが密教の理想だというのです。(曼荼羅はまさに宇宙論です。曼荼羅では大日如来が中心で、仏教開祖の釈迦如来は、端っこに追いやられているか、多くの如来の中の一つとして影が薄くなっています。)

 ということで、密教は、現世利益の追求も否定しません。現世利益とは、資本主義的金儲けという意味だけでなく、病気治癒や健康長寿、受験合格、出世、名声、尊敬(「いいね!」ボタン)獲得、除災招福、家内安全といった実に日本人的願望も多く含まれています。

 もともと、密教に異様な興味と関心を抱くようになったのは、東京・新橋の奈良県物産館で、運慶作の「国宝 大日如来坐像」のモデルを購入し、色々と大日如来の意味や意義などを知りたいと思ったからでした。お蔭で金剛界の大日如来には「オン・バサラダト・バン」、胎蔵界の大日如来には「ノウマクサンマンダ・ボタナン・アビラウンケン」と唱えることも知り、毎日のように礼拝していたら、驚きべきことに、ある程度「霊験あらたかなり」の現象が起きたのでした。(この本には陀羅尼の呪文の例が出てきませんでしたが)

 仏教は、開祖の釈迦が真の自己に目覚める悟りを開くという修行の教えから始まり、釈尊を神格化して、出家した声聞、独覚の男性しか成仏できないという小乗仏教となり、そのアンチテーゼで出家在家問わず、そして男女の区別なくあらゆる衆生が覚りを開くことができるという大乗仏教が起こり、さらには、宇宙生命と繋がる自己の仏性に目覚める密教にまで行きついたことになります。その間、インドのバラモン教やヒンドゥー教や、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教まで取り入れて、仏教が七色変化していった過程も少し分かりました。

 仏前で、供花したり香をたいたりする行為は、仏教の儀式ではなく、バラモン教から取り入れたものだったことは、この本で知りました。また、この本には書かれていませんでしたが、弥勒菩薩も阿弥陀如来も観音菩薩も、もともとはイランの神で、梵天や帝釈天や不動明王などは、ヒンドゥー教の神々を参考にして取り入れられたものだというので、仏教はうわばみのように周囲の宗教を飲み込んで、発展したいったことも分かります。

 そして、ついに反道徳的な後期密教となり、本国インドでは滅亡したことも何となくですが、薄っすらと分かる気がしました。