友人の河本敏昭君(仮名)は、若い頃はかなりの亭主関白でしたが、子どもが独立し、夫婦二人だけになり、定年退職を機にその立場がすっかり逆転してしまいました。男は働かなくなれば洋ナシ、いや、用無しです。
定年退職の翌日に令夫人から最初に言われたことは、「何をしてもいいから、昼間は週に最低3日は家にいないで」という三下り半でした。「他にもありますが、今日のところはそれぐらいにします」と言って、ピシャリとドアを閉めて自分の部屋に閉じこもりました。
結婚して30余年。長年の令夫人の不満が爆発したのでした。
河本君としては、若い頃はあんな穏やかだった女性がこれほど変わるとは思いも寄りませんでした。勿論、彼には身に覚えがある言動がありました。女性に手を掛けるようなことは勿論しませんでしたが、かなり命令口調で乱暴な口を効いていたことは確かです。仕事が忙しく、家事も子育てもほとんど任せっぱなしでした。でも、稼ぎがなくなると、過去の因果が弱みとなり、今ではすっかり逆転して、今度は、彼の方が罵詈雑言の機関銃で撃ちまくられる番になりました。
先日、彼が洗い物をしている際、ついうっかりして高価なガラスのコップを割ってしまった時は散々でした。わざとやったわけではないので、黙っていると、ボケ、カス、タコ、ナス…の連射撃です。
「ああた、これ幾らすると思ってるの!?」に始まり、「全く、反省してないわね。謝りもしない。だから、いつまでも懲りないのよ」「そう言えば、ああた、20年前もコップ割ったわね。あれ、バカラだったのよお!」…と出るわ、出るわ、すっかり忘れていた昔のことを蒸し返してきます。
女性の記憶力には舌を巻きます。
河本君の出身地である山陽地方だけの言い伝えだと思いますが、結婚式の際に女性は「角隠し」をしますが、その角とは7本あるそうです。昔は、5人、10人の子どもを産むのが当たり前で、7人ぐらい子どもを産めば、角が全部取れるという伝説です。あくまでも伝説ですから、現代のようなダイヴァーシティとジェンダーフリーの時代では、こんなことを書くと大炎上することは間違いありません。が、そういう伝説があったことは歴史的事実です。
河本君は今日も猛暑の中、「週3日」の掟を守って、図書館通いが続いています。彼はパチンコも競馬も競輪もしませんから、他に行く所がありません。せいぜい、時間潰しに山手線を3周するぐらいです。
そうそう、彼は、割ったガラスのコップの埋め合わせを百均屋さんに行って買って来たそうです。税込みで110円。前の高価なコップと大して遜色ありません。勿論、彼は幾らで購入したのかは令夫人には黙っていました。
奥さんも「あら、いいじゃないの。いいコップね」と褒めるので、なかなか本当のことを言い出せなくなったそうです。河本君は「前のコップ幾らだったの?」と恐る恐る聞くと、令夫人は「4500円よ」と答えたので、「ああ、同じぐらいの値段だったよ」と言うしかなかったのです。
河本君からメール添付でコップの写真を送ってもらいましたが、確かに100円には見えないコップでした。鑑定団を騙せるほどの出来に見えました。河本君にとっては、「神様、仏様、百均様」といったところでしょうか。
はい、ところで、私はあくまでも中立の立場ですから、人間の一生って、プラスマイナスゼロだなあ、と思いましたよ。今の現状は、河本君の自業自得、因果応報、自己責任なのでしょう。それでも、同性として、友人として、河本君には同情してしまいました。はい、それだけです。これ以上のコメントは差し控えさせて頂きます。