1970年代の連続企業爆破事件で指名手配されていた桐島聡容疑者(70)が、鎌倉市内の病院に入院して、「最期は本名で死にたい」といった趣旨で本名を名乗って亡くなったという「事件」は、どんな優れた作家も脚本家も書けないでしょうね。何しろ、50年近くも逃亡生活を続けていたのですから。
ユゴーが創作した「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンでさえ、投獄されたのは19年間ですから、50年間は目も眩むような長さです。私も交番を通る度に桐島容疑者の白黒の手配写真を見ていたので、「よく捕まらなかったなあ」と感嘆しました。
桐島容疑者が使っていた偽名は「内田洋」と言われています。1月30日付の東京新聞朝刊一面のコラム「筆洗」がこのことで実に面白いことを書いていました。企業の「内田洋行」か、当時ヒット曲を出していた「内山田洋とクールファイブ」からあやかって取ったのではないか?といった推理には脱帽しました。恐らく、筆者は60代かなと想像しました。少なくとも50代後半でしょう。そうでなければ、内田洋行も内山田洋もすぐ思い浮かばないはずです。
「筆洗」記者は最後に、「広島県の出身と聞く。カタカナで『ウチヤマダヒロシ』と書いてみる。本当は帰りたかった『ヒロシマのウチ』と読めてしかたがない。」と締めくくっています。実に名文コラムでした。思わず、「座布団3枚!」と言いたくなりました。
桐島容疑者が事件を起こしたときは、明治学院大学4年生の21歳の頃だったと言われます。すぐ捕まっていたら、恐らく、7~8年で娑婆世界に戻れていたはずなのに、50年も逃亡生活を続けたのは彼の意地だったのか? それにしても、稀に見る精神力です。私にはとても真似できません。
詳しい事情聴取が行われる前に彼は亡くなったので、彼の逃亡生活は不明ですが、数十年間、藤沢市の建設会社で住み込みで働き、銀行口座がないので、現金で給料をもらい、運転免許証もなく、当然ながら、携帯電話も持っていなかったようです。
語弊を恐れずに言えば、思い込みの激しい若いときに起こした事件で、罪を償えば済んだ話でした。病を得て自分の人生を振り返ったとき、「俺の人生は一体何だったのか」と後悔し、「最期は本名で死にたい」ということになったのでしょう。しかし、過去の汚名を世間に晒すことになりました。
もし、彼が内田洋のまま亡くなっていたら、桐島聡は、永遠に歴史の闇に葬り去れていたことでしょう。やはり、「人は死して名を残す」という人間の性(さが)だったと思わざるを得ません。