「ペンタゴン・ペーパーズ」は★★★★★

実は、あまり触手が動かなかったのですが、統合幕僚参謀本部からの指令で、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を先ほど観てきました。

だって、監督がスピルバーグ、主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。あまりにも役者が揃いすぎて、手垢がつき過ぎている。そりゃ、ハリウッド映画ファンなら大喜びでしょうけど、極東の映画巧者にとってはむしろマイナス要因ですからね(笑)。

それに、私の世代にとっては、この事件は、教科書に載るような歴史物語ではなく、生々しい過去の出来事。「感動してたまるか」と上から目線で見始めたら、いきなり、ベトナム戦争の前線の場面から始まり、多くの若い米国人兵士が次々と生命を奪われていく。。。「あれ、もしかしたら凄い映画なのかもしれない」と思ったら、気が付いたら、すっかり映画の中の住人になっていました。最後まで観客を飽きさせなかったリズ・ハンナの脚本の力が大きかったのかもしれませんが。

くどいようですが、私の世代まで、ギリギリ、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムの名前や、最高機密文書を暴露したエルズバーグという名前、それに、メディアとニクソン政権との確執などを同時進行で見てきた世代でしたので、「ストーリー」は分かってました。

個人的ながら、「ペンタゴン・ペーパーズ」を大スクープしたニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者とは、後年、彼が「輝ける嘘」(集英社)上下2巻を1992年9月に日本で翻訳出版した時、その発売前の8月に来日した際、インタビューしたことがありました。この映画の中で、何度も何度もニール・シーハンの名前が出る度に(意図したことなのか、名前だけで本人役は登場しませんでしたが)あの時の感動を思い出したほどです。

映画では、時の政府権力者と新聞社の社主との癒着に近い親密な関係を事細かく描いてます。ワシントン・ポストのグラハム女史と国防長官のマクナマラが、ホームパーティーに呼び合うなどあそこまで親密な仲だったとは知りませんでしたね。

デイビッド・ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」の中では、当時、フォードの社長だったマクナマラが、ケネディ大統領によって「最も優秀で賢い人間」の1人として国防長官に抜擢された有様が描かれていました。

それが、先日読んだ宇沢弘文氏の著作で、マクナマラは、太平洋戦争で日本空襲爆撃の際、どうやったら最も効率良く死者を産み出すことができるかという「キル・レシオ(殺戮比率)」を考案した人間で、ベトナム戦争でも応用した人物だったと知って、彼に対する見方も大分変わりました。

あ、映画の話でした。とにかく、1970年代の米国の新聞社の内部が非常によく描かれていました。当時は鉛活字ですから、今はなき植字工さんも健在です。原稿を包の中に入れて、ダストシュートのように社内を飛ばすやり方も、見ていて懐かしかったですね。私が勤めていた会社にも昔、ありましたからね(笑)。

1971年、つまり今から47年前の出来事ですから、脚本執筆に当たり、当時を知っている存命中の関係者に可能な限り取材して反映させた、といった趣旨の話がプロダクションノートに書かれていました。

映画に出てくる車やファッションは、70年代を再現していて、それらしく見せておりますが、当時を知っている私から言わせれば、外見は70年代でも、中身はやはり21世紀の若者、もしくは俳優にしか見えない。こういうのが作りもの映画の限界なんだろうなあと、理屈っぽく考えてしまいましたよ(笑)。

速水御舟が描いた二曲一双の屏風「名樹散椿」

こんにちは、京洛先生です。
 春のお彼岸の時季に、奥多摩では、遭難騒ぎがあったようですね。テレビのニュースでは、雪が降って、男女13人が下山出来ず、7人が、ヘリで救助された様子を空撮で流していました。ヘリコプターの救助は大掛かりで、相当お金もかかります。携帯電話で、救助を求めたそうで、”スマフォの時代”では、携帯電話も登山の必需品になっているのですね。しかも、遭難騒ぎには「外国人」も居て、すべて時代の合わせ鏡、写し絵です。
 
 ところでこの写真は何だか分かりますか?
 「これから、桜の季節に、京洛先生、椿ですか?」と反応があるかもしれませんが、茅屋の傍にある、通称「椿寺」こと、浄土宗「昆陽山 地蔵院」の散椿です。
 まだ、三分咲きですが、これから、4月上旬頃までが、見頃ですね。
 近代日本画の巨星、速水御舟が描いた二曲一双の屏風「名樹散椿」(「山種美術館」所蔵)は、この地蔵院の境内に咲き誇った、樹齢400年の椿を描いた作品です。
 昭和4年(1929年)に、御舟が描いた椿は、天正年間(1573年~92年)に、豊臣秀吉が、このお寺に寄進した椿で、原木は加藤清正が朝鮮から持ちかえったと言われていました。残念ながら、昭和57年(1983年)に枯れてしまい、写真の椿はその二代目です。それでも樹齢120年も経つ古木です。
 先代の椿も、今の椿も、紅、白、桃、紅白絞りと多彩で、五色八重の散り椿です。
 速水御舟は、昭和4年(1929年)に、屏風を描きましたが、近砂子(金の細粉)を撒き散らした、独自の画法で出来上がっていて、椿の華麗さがよく分かります。「名樹散椿」は昭和52年(1977年)に、昭和期の作品として初の「重文」指定されています。如何に名品、名画であるか分かるでしょう。
 渋谷区広尾の「山種美術館」に出向いて、時間のある時に、この作品をじっくり眺められてはどうですか。
 同美術館には、やはり御舟の作品「炎舞」も所蔵していますが、同美術館にとっては、御舟のこの2作品だけで、十分、その存在価値があると思いますね。
 桜を愛でる前に、二代目ですが、美しい椿の色を愉しんでみてくだされば幸いです。
 以上
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「修道士は沈黙する」は★★★

久しぶりに、若者の街渋谷に行って、映画を見てきました。都内に一体いくつの映画館があるか知りませんけど、単館上映のため、首都圏ではここでしかやっていなかったからでした。

週末のせいか、相変わらず、ウンザリするほど混沌とした人混みで、渋谷は好きになれませんね。序でに、池袋も新宿も嫌いです。やはり、東京なら銀座か神保町、もしくは大塚、王子、三ノ輪、千住辺りの城北が好きです。

映画は、ロベルト・アンドー監督・原案・脚本の「修道士は沈黙する」です。アンドー監督は、フェデリコ・フェリーニ監督らの下で助監督を務めたイタリア映画界の王道を行く人らしいですが、安藤さん、いや、アンドーさんの作品を観るのはこれが初めてです。

ドイツの高級リゾートホテルで開催されたG8財務相会議の内幕の話で、社会派ミステリーと称してますから、内容に深く立ち入ることはやめておきますが、正直言って、原案、脚本まで務めたアンドー監督の限界を見てしまった感じです。

つまり、アガサ・クリスティーほど緻密に構築された社会派ミステリーになりえなかったし、アンドーさん自身が国際金融市場の知識がさほど豊富ではないせいか、フィクションにしても玄人に「もしかしたらあり得るかもしれない」という錯覚に陥りさせてくれる「夢心地」さえ味わせてくれない、というのが正直な感想でしょうか。

つまり、 謎めいた陰謀が、陰謀らしく見えないし、マイケル・ムーア監督の作品のように、国際社会の不正が暴かれる爽快感が少ないのです。それに、観客サービスのためのアダルトなお愉しみも中途半端かな?(笑)

G8財務相会議ですから、日本人も出てきますが、この俳優が日本人に(もしくはそれらしく)見えないし、出てくる各国財務相役の俳優さんも、とても財務大臣にも銀行家にも見えない。

唯一、「沈黙する」修道士サルス役の俳優だけが、それらしく見えないことはないのに、何か最後まで怪しくて、没入できない感じでした。

ありゃ、全くいい所がない映画になってしまいましたね(笑)。そんな意図がなく書き始めたのに、いつのまにかそうなってしまったのは、見る前に、陰謀の奥深さとそれらが暴かれる爽快感をかなり期待していたからでしょう。

でも、かなりの映画賞を獲得している作品ですし、試写会を見た日本人の俳優さん、経済アナリストさんらもかなり高い評価でしたよ。タダで見させてもらった代わりのべんちゃらか、宣撫活動かもしれませんけど。

しかし、こういう映画はボディーブローのように効いて後から深い感銘が押し寄せて来るかもしれません。着眼点は素晴らしいのですから。

映画がはねて、せっかく渋谷に来たのですから、行きつけの「麗郷」に久し振りに行ってきました。もう20年以上昔かもしれませんが、この店で、今は亡き大島渚監督ら著名人を結構お見掛けしたことがあります。

この店自慢の腸詰や蜆、空芯菜炒めは美味しかったですが、店主が無愛想で感じ悪いところは昔と変わっていませんでしたね(笑)。

「15時17分、パリ行き」は★★★★★

クリント・イーストウッド監督作品「15時17分、パリ行き」をロードショーで観てきました。

実は、この映画、某新聞の映画評で「途中で中だるみする」と書かれていたため、今年のアカデミー賞で最多部門でノミネートされている「シェイプ・オブ・ウォーター」にしようかな、と迷いましたが、「作り物の半魚人よりも実話の方がいいか」と思い、こちらにしたわけです。

正解でした。

2015年8月21日にアムステルダムからパリへ向かう高速列車の中で、銃で武装したイスラム過激派の男による無差別殺傷未遂事件を材に取った映画です。実は、この頃、私自身は入院中で、ほとんど黄泉の国に行っている状態でしたので、この事件については、実話と言っても、全く知りませんでした。未遂に終わったので、日本のマスコミも大きく取り扱わなかったのかもしれません。

事件の遭った列車にたまたま乗り合わせていたのが、米空軍兵のスペンサー・ストーンとオレゴン州兵のアレク・スカラトスとその友人である青年アンソニー・サドラー3人で、男を取り押さえて、忽ちヒーローになるのです。

驚くことに、イーストウッド監督は、この3人の俳優にご本人を起用したというのです。しかも、この3人は、俳優でもないのに、プロの役者以上の自然の演技なのです。本人たちが体験したことをまた繰り返し演じているわけですから、自然になるのは当たり前かもしれませんが、男優賞をあげたいくらいの演技なのです。

彼らは、ローマやベニスやベルリンなどを旅行しますが、そこに登場する無数の観光客も、恐らく、エキストラでしょう。1本の映画を作るのに、本当に多くの人間が関わり、大変だなあ、と思いました。

映画では、彼ら3人が、仲良くなった小学生の時の場面が差し挟まれます。それが、2005年なんですからね。私から見れば、2005年はつい昨日のように思えますが、当時、小学生だった子どもが、成長して軍隊に入り、欧州旅行中に事件に遭遇して大手柄を立てるんですから、まるで映画の出来事のようです。

最後は、本物のオランド仏大統領(当時)も出演していて、これは、恐らく、テレビ報道のフィルムとうまく画像調整してコンピュータではめ込んだようです。フランスからレジョン・ドヌール章を叙勲されるのも、「出演者」である彼ら自身ですから、なんか、映画なのか、合成フィルムなのか、区別がつかなくなってしまいました。

オランド大統領は、かなりゆっくりとした発音だったので、字幕を見なくても、フランス語が理解しやすかったですねえ。

3人のアメリカ人はどうもフランス嫌いで、いかにもハリウッドらしいハッピーエンドとアメリカ万歳的な鼻に付く覇権主義も感じましたけど、オランド大統領による叙勲シーンには思わず感極まってしまいました。

それに、登場する女優さんは、名前は知りませんけど(笑)、映画だからでしょう、みーんな、洗練された聡明そうな美女ばかり!

なので、満点!

今の日本人は教養がない!講談と浪曲の違いも分からないとは!

六義園
 演劇評論家の安東亀男です。東京・四谷の「わかば」の「鯛焼き」を世間に広めた方は、安藤鶴夫先生です。お間違いのないように。
 何か、渓流斎とかいう青二才が「最近、神田松之丞という講談師がえらい評判で、最近上梓した『絶滅危惧職』という本もよく売れていて、何と言っても、彼の講演切符はいつも完売で、前売り券もなかなか手に入らないと評判じゃないですか」と騒ぎまくってます。駄目ですねえ。「恐れ入り屋の鬼子母神」ですよ(大笑)。松之丞は、まだ三十そこそこの二ツ目ですよ。
 そんなんで、驚いていたら、株が下がるというもんです。
 毎日、立ち食いの回転寿司ばかり食っていて、「うまい、うまい」と言ってては、人間の品格が落ちるというもの。たまには、「すきゃばし次郎」や「久兵衛」にでも行って大枚をはたくのが、江戸っ子の粋ってもんですよ。
 松之丞なんぞは、まだまだレベルの酷い講談のチンピラです。最近は、「講釈師の名人」を知らない、違いの分からない若者、いや似非老人が実に増えていて、本当に困ったものです。
築地・中村家弁当ランチ 850円

 何はともあれ、渓流斎とやらも、まずは「服部伸」の講談を聞いてみたらどうですかねえ。

 彼は、浪曲師だったのが、「瞼の母」の作者長谷川伸の一字をもらって、昭和11年に講談師に転向した人です。明快な語り口で引き込まれますよ。「は組小町」「忠臣蔵」などを聞いてみてください。
 今は、「ゆふちうぶ」とかいう活動写真で見られますよ。
 最近の日本人は教養がないので、浪曲と講談の区別もつきやしない。まあ、諸説ありますが、講談は、室町時代の「太平記読み」が嚆矢という学者もいれば、江戸時代という学者もいる。浪曲は、800年の歴史を誇ると協会の方々は胸を張りますが、浪曲が成立したのは明治期という説が有力で、意外と新しい芸能なのです。
 講談は、読み(語り)専門ですが、浪曲は、「曲師」と呼ばれる三味線の伴奏者が付きます。
 明治時代の芸人は、「遊芸人」の免許状がないと語れなかった史実をご存知でしょうか。だから、自由民権運動とも繋がりが出てくるのですね。講談師、浪曲師はジャーナリストでもあったわけです。「政治講談」の伊藤痴遊なども講釈師の先駆けというか、講談社(講談の速記録を出版したのが始まり)、平凡社の礎をつくったようなものです。
 当時の浪曲人気は絶大で、大正時代になって日本放送協会(NHK)のラヂオ受信機が普及したのは「浪曲を聴きたい」人が多かったからで、貧しい庶民でもなけなしの金をはたいて買っていたのです。だから、NHKは、今でも浪曲には足を向けて寝られないのです。
 昭和初期は、広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と下関の籠寅組が対立し、結局、山口組二代目が、浅草で刺された(後に死亡)事件は語り草になっておりますね。
六義園
 今は、浪曲協会は東西二つに分かれていて、「浪曲親友協会」は関西の浪曲師の団体組織です。二代目京山幸枝若が会長ですね。
 東京は「日本浪曲協会」です。こちらの現在の会長は富士路子です。別に対立というより、その浪曲自体が消滅の危機を迎えているのが実情です。
 渓流斎とやらも一度、浅草の「木馬亭」に足を運んでみてください。玉川奈々福という上智大学出身で若手の浪曲師がいます。彼女は浪曲界の期待、成長株です。沢村豊子という80歳の「浪曲三味線の名人」とコンビを組む時があるので、その日時を事前に調べて聞きにいくと良いでしょう。
 浪曲、興行の世界は、渓流斎とやらの専門分野である「永田貞雄」先生が牛耳っていました。永田先生は、浪曲、講談、寄席、演歌など、戦前、戦後の興行界の顔役でした。渓流斎とやらが「不愉快だった」と書いていた「東洋文庫」の石田幹之助先生みたいなものですよ。東洋文庫に行っても、案内に三菱岩崎の功績は書かれていても、石田先生の「い」の字も出てこないらしいですけどね。
 芥川龍之介の親友の石田幹之助と興行師永田貞雄を、同じ土俵で論じられるのは、迂生安東亀男くらいでしょうね。(大笑)。
六義園
 それに、今では何でもネット社会とか言っておりますが、服部伸にしろ、伊藤痴遊にしろ、アナログの知識がないと、そんな人の名前すら知らないので、検索すらできないのですよ。
 これは、新聞や本を読まず、ひたすらネットでしか二次情報を得ることしかしない若者や似非老人が陥る過ちですね。
 はっきし言って、講談、浪曲を知らずに日本文化を語ること勿れですよ。

「ポール・マッカートニー 告白」を読む

個人的なことながら、ビートルズと、その解散後にソロになった4人の音楽は、もう半世紀以上聴いてきました。発売されたレコードはほとんど全て買い揃えました。マニアックな海賊盤や、本国英国盤だけでなく、米国キャピタル盤、日本の東芝EMI盤などもです。

特に若い頃は、1日16時間も聴いていた時期もあり、彼らの音楽を聴いたり、コピーバンドで演奏したり、彼らに関する本を読んだりしたりした時間をトータルに換算すると、数年間にもなるかもしれません(笑)。

思えば、彼らには随分貴重な時間を捧げたものです。ファンというより、フリークでしょう。関連本もかなり収集したので、まあ、ほとんどのことは知ってるつもりです。

でも、さすがに、最近はたまに聴く程度になりました。本もレコードもコレクションはやめました。

だから、このポール・デュ・ノイヤー著、奥田祐士訳「ポール・マッカートニー 告白」(ディスクユニオン、2016年6月18日初版、3824円)もあまり期待していなかったのですが、読み進むうちに楽しくなり、終わり近くになると、読み終えたくない気持ちにさえなってしまいました。

著者は、音楽専門週刊誌「NME」(1960年代、「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」と呼ばれ英国最大部数を誇る音楽誌だった。同誌が選ぶファン投票でコンサートも開催された)の音楽ライターや月刊誌「MOJO」の創刊編集長などを歴任したことぐらいしか書かれておらず、詳しいプロフィールは書かれておりませんが、彼が初めてポールと会ったのは、1979年で、「まだ23歳の若造だった」と書いております。ということは、小生と同い年になります。彼が同時代人として、子どもの時から受け入れてきたビートルズの音楽と解散してソロになった音楽を、私も同時に極東の島国で体験していたので、あの時代の雰囲気についてはよく分かります。職業としてポールにインタビューしているのに、「今、あのポール・マッカートニーに会っているのが嘘みたいだ」という舞い上がってしまう感覚を正直に書く辺りは共感できます。ただし、彼はリバプール育ちなので、歌詞の意味の深みまで理解でき、ポールと対等にリバプールの隠れ場所などの話までできるので、全然違いますが。

ポール・マッカートニーは、恐らく人類史上世界で最も成功した、巨万の富と輝かしい名声を獲得した、最も有名なアーチストでしょう。まず知らない人はいないでしょう。「イエスタデイ」を一回も聴いたこともない人も現在でも少ないかもしれません。

ポールなら、何処に行っても「顔パス」で、VIP扱いで、欲しいものなら何でも手に入る。サーの称号も受けたし、何処の国に行っても国賓級として優遇される人だと思っておりました。

そして、ビートルズ時代から、ジョン・レノンと比較されて、ジョンの「陰」に対して、ポールは「陽」。マスコミ受けが良く、グループの明るいスポークスマンでPRマン。そのせいか、逆にポールに付きまとった悪評は、「狡猾で如才がなく、計算高い」。恐らく半分は当たっていることでしょうし、私も、少し、うんざりするぐらいポールはそういう男だと思ってました。特に、純粋で皮肉屋のジョン・レノンと比べれば。

しかし、この本を読むと、そうでもない人だと少しずつ分かってくるのです。まず、決して「計算高い」人間ではないようです。まあ、堅実な宮仕えを選択せずに、芸術家になった人ですから、かなりの無鉄砲。1973年に、アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のレコーディングでアフリカのナイジェリアに滞在していた際、周囲から危険だからと忠告されていたのに、夜道にリンダと二人で外出して、6人の強盗に襲われ、金品、カメラからレコーディングのデモテープまで奪われてしまっていたのです。強盗は、ポールのことを知らなかったようです。

ビートルズ解散後の1970年には、ニューヨークのハーレムで、黒人の女の子が公園で歌を歌っているのを眺めていたら、黒人の男から「おまえは先生か?えっ、違う?旅行者か。それなら、このブロックから出て行け!さもなきゃ俺が追い出してやろうか。国へ帰れ!」と脅迫されたこともあったそうです。えっ?ポールを知らない人もいるんだ、と驚いた次第。同時に、天下のマッカートニー様も、いつもどこでも、決して、VIP待遇でもなかったということが初めて分かりました。

この他、「へー」と思った点。

・英国では、ビートルズ全盛期、レコードのLPの値段は2ポンドだった。平均賃金が週20ポンド程度だったので、かなり高かった。(日本は2500円ぐらいだったので、それでも日本の方が安かったのかもしれない)

・ポールはあまり宗教について語りたがらない。熱心なカトリック(アイルランド系なので)でもプロテスタントでもないようだ。しかし、不可知的な、魔法については信じているようだ。曲づくりも、「何か天から降りてくるようなもの」といった表現さえする。

・ポールは今でも、地下鉄やバスに乗って「人間観察」するそうだ。生前のジョージ・ハリスンは「信じられない」と言ったとか。

・アヴァンギャルドと言えば、ジョン・レノンの方が印象が強いが、ポールの方が前衛的だった。シュトックハウゼンを聴いたり、前衛的な展覧会に行ったり、自宅に詩人や前衛芸術家を招いたり。

・特にベルギーのシュルレアリスト、マグリットのファンで、価格が高騰する前に手に入れた数点のコレクションがある。

・ポールがティーンエイジャーの時に、ロックンロールに夢中になり、ロックバンドを始めるが、マッカートニーの父親ジム(若い頃は消防士、中年から綿花の卸売業)はアマチュア音楽家で、自宅に親戚や友人らを集めて1930年代のジャズやムード音楽を演奏していたので、子どもの時はロックなどなく、そちらの影響が強かった。だから「ハニーパイ」などの名曲が書けた。

時事通信が大誤報

昨晩は、名古屋にお住まいの篠田先生から「時事通信が大誤報したようですね。駄目ですよ、コロしては」と、電話がありました。

私に言われてもねえ…。

同社は、19日早朝に俳人で文化功労者の金子兜太さん(98)の死去を報じる記事を配信し、約1時間後に誤報として記事全文の削除を連絡したというものです。大手紙当日の夕刊や翌日朝刊、ネットでも同社の謝罪文が掲載されました。

担当記者も著名な俳人という情報もありますが、恐らく、結社仲間か誰かからのあやふやな噂を聞いただけで、金子氏本人や家族に直接接触して確認しなかったのでしょう。基本がなっていない。記者としては失格ですね。

かつて大手新聞社の幹部も務めた篠田先生は「私も18年前に金子さんにインタビューしたことがありますけど、エライ迷惑でしょうね。食品メーカーなら、食中毒事件を起こしたようなものですよ。マスコミなんて、信頼だけで仕事をしているようなもんでしょう?その信頼関係が崩れてしまえば、取り返しがつかなくなります。社長さんが、金子さんの自宅に行って謝罪するべきではないでしょうか」と言います。

確かにそうかもしれませんね。

雪室熟成黄金豚特製タレカツ丼(築地・うおぬま)850円

時事通信社といえば、同社出身の政治評論家田崎史郎氏が、先週発売の「週刊文春」の「嫌いなコメンテーター」アンケートで、堂々の第2位を獲得しましたね。同誌に寄せられた投書のほとんどが「ジャーナリストとしての信念を感じない」「政権広報が必要なら与党政治家を呼べ」といったもので、安倍政権べったりの「御用記者」ぶりが批判されております。

オペラのテノール歌手並みの美声を武器に、銀座・泰明小学校の和田校長も驚きのイタリア製の高級スーツで身を包み、スシローの異名の通り、銀座の高級寿司店をはしごし、お茶の間の奥様方のウケがいいものとばかり思っておりましたが、ここまで嫌われているとは思いませんでしたね。

「週刊文春」は、「週刊新潮」と並ぶ安倍政権寄りの高級右翼雑誌だと思っていたので、これまた吃驚です。あんなアンケートなんかしなければよかったかもしれませんね。

【追記】

現代俳壇を代表する金子兜太氏は20日、埼玉県内の病院で逝去されました。御冥福をお祈り申し上げます。

「仁和寺と御室派のみほとけ」展では思わず手を合わせてしまいました

最近、文化事業に力を入れている天下の読売新聞主催の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」を帝都・上野国立博物館まで朝一番で観に行ってきました。

京都にお住まいの京洛先生からのお薦めで、出掛けたのですが、京洛先生の仰るように「帝都の臣民は、篤い信仰心もなければ、教養が高い人は少ないので、並ばずに直ぐに入れますよ」というわけにはいかず、下記写真のように、「待ち時間40分」の表示。

実質時間を測りましたら、22分で入場することができ、「国宝」や「重要文化財」の前では、二重、三重、四重のとぐろ状態で、かなり盛況でした。

京都・真言宗御室派総本山仁和寺の秘蔵お宝だけではなく、その御室派の筋に当たる大阪・金剛寺、福井・明通寺、香川・屋島寺、大阪・葛井寺、三重・蓮光院などからも惜しげもなく国宝や重文が出展され、それはそれは見事でした。

日本の展覧会では、まず、録音や写真撮影は禁止されておりますが、仁和寺観音堂を再現したこの場所だけは、どういうわけか撮影オッケーでした。

表現が不適切かもしれませんが、圧倒的な迫力で、まるで、仁和寺の伽藍にいるかのような錯覚に陥り、思わず、手を合わせてしまいました。

昔は、展覧会に行く度に、必ず、カタログを買っていたのですが、最近は、やめてしまいました。重く嵩張り、自宅で置くスペースもなく、死んであの世に持っていけるわけでもなく(笑)、蔵書も含めてあらゆる意味で、コレクションの趣味をやめてしまったからです。

それでも、撮影禁止の国宝「千手観音菩薩坐像」(奈良時代・8世紀、大阪・葛井寺)は、ことのほか感銘してしまい、思わず、カタログか絵葉書でも買おうかとしましたが、結局、やめてしまいました。

(リーフレットから葛井寺の千手観音坐像)

このご本尊様は本当に凄い秘仏でした。大阪・葛井寺でも滅多に公開されないようです。公開されたとしても、今回の特別展のように、背後まで見られるようなことはないでしょう。

千手観音の名前の通り、実際に手が千本以上あるのは、この葛井寺の「千手観音坐像」以外、日本では他にないらしく、ここだけは、人だかりが半端じゃありませんでした。

入口に置いてあった「出品目録」で数えてみたら、国宝は、空海の「三十帖冊子」など24点、重文は、徳島・雲辺寺「千手観音菩薩坐像」(経尋作、平安時代・12世紀)など75点もありました。

仁和寺は仁和4年(888年)、宇多天皇により創建されました。ということは、皇室皇族の寺院というわけです。秘仏や国宝が揃っているわけです。

そして、天皇は一人しかなれないことで、他の皇子や皇族は代々、このような寺院の門跡(住職)を務めるようになっていたのです。よく考えられたシステムです。

正直言いますと、私自身、博物館での仏像展示は、何ら功徳も御利益もなく、邪道ではないかと訝しむ気持ちがかつてはありましたが、信仰心さえあれば、そんなことはない、と心を改めることにしました。

この特別展がそのきっかけを作ってくださった気がします。

「仁和寺展」は、東博の「平成館」で開催されていて、見終われば、いつもなら、そのまま帰路に着いていたのですが、今回は、久し振りに「本館」にも立ち寄ってみました、数十年ぶりかもしれません(笑)。

多くの展示品の中で、徳川四天王の一人、榊原康政(上野国館林藩主)の甲冑に魅せられました。本物だと思われますが、意外と小さい。兜には1本太刀がスッと装飾されていました。

ランチがてら、上野から御徒町の「寿司幸」まで足を伸ばしました。博物館から歩けないことはないのですが、以前、アメ横を通ったら、人混みでほとんど前に足が進めない状態で、ウンザリしてしまったので、電車に乗って行きました。

そこまでして食べたかったのは、ここの名物のネギトロとコハダの握り。

昼間っから、オチャケで喉を潤しました。

いやあ、極楽、極楽(笑)

「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展

大阪の浪華先生です。ご無沙汰しております。

東京は此処へきて気温が上昇、暖かくなっているようですが、関西は寒さがおさまりそうではありませんね。少し温かくなったか、と思うと、すぐ、小雪が舞い散り、春はやはり奈良の「お水取り」が終わらないとやはりダメです。「梅は咲いたか、桜は、まだ、かいなあ!」とは、よく言ったものです。

東京は東京国立博物館で「仁和寺」特別展が開かれているようですが、こちらは、大阪・中之島の大阪市立東洋陶磁美術館で、日中国交正常化45周年記念と開館35周年記念と題して「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展(3月25日まで)が開催中です。

2001年に甘粛省慶城県で、唐の時代の遊撃将軍と言われた穆秦(ぼくたい)のお墓(730年)が発見されました。お墓から出土、発見されたのは、極めてリアルでエキゾチックな、胡人や交易に使われたラクダ、馬などを描いた陶製の副葬品で、今回、それらのうち、慶城県博物館所蔵の貴重な、60点が中国から運ばれて、特別展として展示されています。

「胡人(こじん)」は、漢民族にとっては異民族であり、中央アジアを中心に活躍したソクド人らを指します。
唐(618年~907年)の時代、シルクロードを使って、唐の都である長安と、西方文化の交易に大きな影響を与えたわけですが、これらの作品を見ると胡人が漢人からどう見られていたか、よく分かります。

実物を直かに見ると、何とも言えない、ユーモアや人間味が感じられ見惚れました。大胆に異民族をデフォルメして、今、見ても、唐代の人が、胡人に感じた怖れや違和感、彼らのバイタリティを巧みに表現、それらをひしひしと感じ取れました。人物だけでなく、駱駝や馬も、活き活きと描かれていて、渓流斎さんも、ご覧になると、きっと「極端に誇張されているようにみえて、本質を迫っていますね」と礼賛されると思います。

残念ながら、東京では開催されません。もし、ご興味があれば「大阪市立東洋陶磁美術館」のホームページを検索されて、その中で動画の「黄土の魂 唐代 胡人俑の世界~生を写して気満ちる」(約15分)をご覧になると歴史的な経過などが分かることでしょう。

この展覧会では、フラッシュさえ使用しなければ、写真撮影もOKでした。珍しいですね。
小生は、紅色が鮮やかな「加彩女俑(唐 開元18年 西暦730年)」と、泣いているようにも見え、両手、両膝を地面に付けている「加彩跪拝俑」(同)の二点をデジカメで寫してきました。ご覧ください。