イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」

知らざあ、言って聞かせやしょう

今どうしても見たい映画がありますが、最近忙しくて、なかなか見に行けません。

イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」です。単館上映で、帝都でも二カ所でしかやってません。

ポーランドとアイルランドの合作映画で、日本で知られている俳優は1人もいませんが、全員胡散臭そう(な役柄)で、このあくまでも胡散臭い忙しない現代を見事に活写してます。

午後5時から、わずか11分間に、恐らくポーランドのワルシャワ辺りで同時多発的に無関係に起こる出来事が、最後は、あっと驚く様態で集約されていく…という映画らしいです。

「溝口健二がどうした」「衣笠貞之助がどうした」なぞと監督を呼び捨てにして通ぶった元大学教授がいますけど、ああいう輩は底が浅いですね(笑)。

どうせ、奴らは、ただで見て、しかも、逆にお金を貰って、「さすがスコリモフスキらしい不条理な描写が散りばめられ、最後のどんでん返しには暫く椅子から立ち上がれなかった」なぞと、評論することでしょう。

ずっと、椅子に座っていろ!(笑)

私が、この映画に興味を持ったのは、脚本家でもあるスコリモフスキ監督による以下のコメントを読んだからです。

何と言う硬質な文体で、ネイティヴではないので断言できませんが、かなりの名文だと思います。まず、久しぶりに辞書を片手に原文を読み、どうしても分からなければ、小生の超訳をご参照あれ(笑)。

COMMENTS FROM JERZY SKOLIMOWSKI

NOTHING IS CERTAIN

We tread on thin ice. We walk the edge of the abyss. Around every corner lurks the unforeseen, the unimaginable. The future is only in our imagination. Nothing is certain – the next day, the next hour, even the next minute. Everything could end abruptly, in the least expected way.

【イエジー・スコリモフスキ監督からのコメント】

◎確かなものなど何もない

我々は、生きるために仕方なく危ない川の橋を渡ることがある。崖っ淵を歩かざるを得ないときすらある。至る所に見えない、想像もつかない魔物が潜んでいるというのにだ。
とはいえ、未来など幻、単なる想像の産物だ。
確かなものなど何もない。明日、1時間後、いや数分後でさえ何が起きるか分からない。
全ては前触れもなく突然終わる。しかも、全く思いも寄らない形で。

坂東竹三郎を巡る梨園の実相についての論考

麻久沙

京都は堀川三条西入る「三条商店会」の洋食レストラン「力」の女将さん、お元気どすか?(宣伝になりましたか?=笑)

ということで、久し振りに京都にお住まいの京洛先生の飛脚便をご紹介致しませう。

…今、「渓流齋ブログ」を見たら、連日「満洲」の事ばかりですね、もう少し工夫をしないとダメですよ(笑)。つまり、話題を広げないと、アホな大学の先生と同程度のブログになりますよ(大笑)。
 自然薯掘り(じねんじょほり)と、同じで、そればかりするのも、「人間学」の上達の道かもしれませんが、映画、音楽、演劇、スポーツと何でも興味を持って書かないとダメですよ。…

はあ、そんなもんでせうか。

…今、帝都は東銀座の歌舞伎座の第2部の「東海道中膝栗毛」で、坂東竹三郎が出演しております。えっ?竹三郎を知らない?世の中を騒がす海老蔵なんかを歯牙にかけないところが、通の歌舞伎の見方ですよ。…

はあ…

…竹三郎が師事したのは四代目尾上菊次郎です。四代目菊次郎は六代目菊五郎の相手役を務めるほど将来を嘱望されていましたが、いろいろ事情があり、関西歌舞伎に転出して、晩年は関西歌舞伎に貢献しました。
 四代目菊次郎は、四代目中村富十郎(この間亡くなった五代目富十郎の父親)の兄です。坂東竹三郎は菊次郎の芸養子になりましたが、「藝談」によりますと、前名の「坂東薪車」から、尾上菊次郎が名乗っていた「坂東竹三郎」に名前を代えるときは、大変だったという事です。…

ほう…

  …「坂東竹三郎」の名跡は、かって「坂東彦三郎」の前名だったりして、音羽屋・橘屋一門にとっては貴重なもので、尾上菊次郎が、わざわざ、菊五郎劇団の大御所、うるさ型の橘屋(十七代目市村羽左衛門)の楽屋に深々と頭を下げに行ったそうです。「ひょっとすると、ダメだよ!」と言われかねないからですね。
 昔、十七代目羽左衛門は、市村竹之丞(五代目中村富十郎の前名)の襲名の歌舞伎座の舞台で、「本来、この襲名はあり得ないことだ!」と前代未聞の口上をして週刊誌に取り上げられた逸話もあります。それくらい、音羽屋全体に睨みがきいていました。あの梅幸さんも頭が上がらず、威厳があったのです。…

なるほど、凄さが分かりました。

 …薪車(竹三郎)は、OKが出るかどうか心配して、楽屋で菊次郎を待っていたところ、師匠が戻り、「上手くいったよ。安心しな。橘屋(十七代目市村羽左衛門)に話をしたら、じろっと、こちらを見て、『誰が(坂東)竹三郎を継ぎたいのかね』と聞かれたので、『ウチの薪車に竹三郎を継がせたい、と思っています』と言ったら、表情が変わって、『薪車か!あれなら良いよ。あれは良い』とお墨付きを貰ったよ」と、心配する薪車を安堵させたそうです。
 という事で、坂東竹三郎は、関西歌舞伎に居ながらにして、名跡「音羽屋」の屋号を名乗ることができる希少な役者なのです。…

うーん、そうだったのですか…

十七代目の市村羽左衛門はやはり梨園の実力者で、六代目亡き後「菊五郎劇団」をまとめていたのです。
 仏系米国人が父親で美男で有名だった十五代目市村羽左衛門は、艶聞が多く、芸者との間に産ませたのが舞踊家の吾妻徳穂(人間国宝、芸術院会員)です。
 そして吾妻徳穂と四代目中村富十郎の間に生まれたのが、この間亡くなった五代目中村富十郎です。
 だから、十七代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎の甥)は、十五代目絡みの人間関係には神経をとがらせていたのだと思います。そんな中で、風雲児の武智鉄二が、その姻戚関係を利用して、市村竹之丞の襲名を画策したため、羽左衛門がこれを苦々しく思い、先程触れましたように、舞台の口上で、嫌味を言ったわけです。演劇評論家の萩原雪夫さんも武智鉄二については「いやあ、ね」と言ってましたね(大笑)。…

へー、そういうことがあったのですか。小生は、生まれる前のことで、知りませんでしたね。あ、生まれていたかもしれません(笑)。

 …戦後、上方歌舞伎は、今の坂田藤十郎(当時は中村扇雀)と、坂東鶴之助(のちの五代目中村富十郎)が「扇鶴時代」と呼ばれ、大変な注目を浴びました。その仕掛け人が武智鉄二で、東京の梨園の主流派、本派は、武智鉄二の動き方は苦々しく思っていたわけですね。…

五代目中村富十郎は、昭和39年に坂東鶴之助から、武智鉄二の計略で市村竹之丞に改名したわけですね。当時は、東京オリンピックに夢中になっていましたから、梨園のことはさっぱり知りませんでした。

 …今の坂東彦三郎は、十七代目羽左衛門の嫡男なのですが、病気がちもあって、おとなしく温厚な性格です。本来ならば、彦三郎の息子で十七代目羽左衛門の孫に当たる坂東亀三郎、坂東亀寿がもっと良い役を貰ってもおかしくないのです。尾上菊之助よりも、彼らの方が本派・本流なんですからね。…

確か、幕府公認の「江戸三座」とは、中村座と守田座と市村座でしたからね。確かに、市村家は、本派・本流です。

 …やはり、梨園の世界も政治力ですね。ちなみに、今の四代目中村鴈治郎の嫁さんは、吾妻徳穂の孫です。両者の間に生まれたのが中村壱太郎ですから、梨園の人間関係は貴人もお分かりのように濃密、複雑ですね(大笑)。以上…

以上、と言われましてもねえ。ところで、話は変わりますが、歌舞伎用語でもある「役不足」という言葉は、現代では誤用されているようです。皆様もよく調べてお使い下さい。

ホセ・ラミレス欲しいなあ(笑)

こんにちは

暫行懲治叛徒法違反容疑で検挙された情野義秀です。

私は、多感な少年の頃、あまりイデオロギーだの政治思想だの、経済論だのといったものに興味がなく、只管、夢中になったのは音楽でした。

特に、レノン・マッカートニーやハリスンの名曲には、打ちのめされたといった表現がピッタリで、彼らに影響されてギターも独習し始めました。

最初に、ギターを手にしたのは13歳ぐらいの時で、安い1万円ぐらいのクラシックギターを両親から買ってもらったと思いますが、記憶が定かではありません(笑)。

とにかく、イヌ・アッチ・イケー教育テレビ「ギター教室」を見ながら、独習して、どうにか、「禁じられた遊び」は弾けましたが、「アルハンブラ宮殿の想い出」ともなりますと、最後まで弾けず、クラシックはギブアップしてしまい、フォークやロックギターに転向してしまいました。

しかし、最近になって、またまた、クラシックギターに懲りだしました。ボサノヴァが大好きで、見よう見真似でやっているだけですが、つい最近、驚くべき事実(私だけかもしれませんが)を発見しました。

ビートルズの最初の映画「ア・ハードデイズナイト」(1964年)の中で「アンド・アイ・ラブ・ハー」という名曲がありまして、ベースを弾きながら歌うポールの側で、ジョージがクラシックギターを弾いていますが、このギターが、スペインの世界的に有名な名器「ホセ・ラミレス」だったのです!

これが、今、「ジョージ・ハリスン・モデル」として、販売されているんですね。何と、44万8000円ですって!しかし、こんなんで驚いてはいけませんよ。「ホセ・ラミレス工場生誕125年記念エディッション」ともなりますと、な、な、何と400万円(税抜)もするのです。ギター1本の値段がでっせ、親分!

ホセ・ラミレスは、創業者のⅠ世(1858~1923)から、Ⅱ世、Ⅲ世、Ⅳ世と受け継がれ、現在5代目のアマリア・ラミレス(1955~)が女性頭領さんのようです。

こんな高価なギターは、勿論、買えませんけど、かつての「ギター小僧」だった私は、カタログを見ているだけで涎が出てきてしまいます(笑)。

老婆心にも程がある

Paris, Garia

◆8月03日のアクセス数
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何てこったぁ。
昨日は、あれほど長時間掛けて苦労して書いたのに…。しかも、電車の中で…。
老婆心にも程があるものですね。

折角、有識ある知性主義の皆々様を覚醒して差しあげようと思ったのに、この程度の反響では、休刊も考えざるを得ませんね…。疲れてきました。

渓流斎が、このブログに人生の何分の一もの時間を無駄に消費しているのか誰にも分からないと思われます。議員や都知事のように何の報償もありませんから、骨折り損の草臥儲けという古い格言を思い起こします(笑)。

◇勲章大国ニッポン

実らない愚痴不満はこの辺にして、日本人ほど勲章好きの民族は世界でもそう多くはないでしょう。

ソ連が最盛期だった頃の最高指導者たち、スターリンもフルシチョフもブレジネフも、ジャラジャラと胸に納まりきれないほどの勲章をぶら下げておりましたが、それでも、世界的によく知られて権威のある勲章と言えば、フランスのレジョンヌ・ドヌール章でしょう。

でも、この勲章を創設したのはナポレオンですから、まだ200年かそこらしか経っていません。

恐らく、世界で最も古い冠位や勲章は、大陸中国かもしれませんが、異民族が何度も交差支配する断続的な歴史を持つ国でしたから、「万世一系」で現代まで連綿と続いているのは、我が国日本ということになるでしょう。

1200年前の律令国家がつくった「正六位」だの「従五位」といった冠位を、いまだに、この21世紀という時代にですよ、地方の小学校の元校長先生や消防団団長さんらに米寿のお祝いに贈与したり、亡くなった後に授与したりしている事実を一体何人の国民の皆様がご存知でしょうか?

芸術の世界も然り。

一番偉い芸術家は、「人間国宝」(無形重要文化財保持者)と思いきや、上には上がありまして、人間国宝よりも、定員120人の終身会員制である「芸術院会員」の方が、格が上になります。

文学、美術工芸の世界だけでなく、能狂言、文楽、歌舞伎の世界も同じです。

さらに、芸術院会員よりも上がありまして、それが、「文化功労者」となります。功労賞ではありませんよ(笑)。功労者です。毎年、この中から「文化勲章」受章者が決まるわけです。

これらの格差は、年金に如実に現れます。

人間国宝=200万円
芸術院会員=250万円
文化功労者=350万円

文化勲章は、功労者としての年金があるだけで、授与されるのは勲章だけ。ですから、日本国では最高の栄誉となります。

ノーベル賞を受賞しますと、自動的に文化勲章が授与されますが、文学賞の大江健三郎さんが辞退したことは有名ですね。詳細は分かりませんが、思想的な側面があったようです。

文化勲章を辞退した芸術家の中に、私の大好きな陶芸家河井寛次郎を見つけました。

彼に関しては、大変な職人気質の人で、そんな栄誉や威光に自分には縁がない、といった理由で辞退されたようで、彼らしいなあ、と思いました。

権威を認めない反骨精神のような大上段にも構えていません。

ますます、河井寛次郎が好きになりました。作品は、自分では買えないので、見に行きたくなりました。確か、湯河原にありましたよね?

【補記】河井寛次郎さんの作品は、京都・東山五条の「記念館」か、東京・駒場の「民藝館」で拝謁できますね。

「日本のいちばん長い日」の映画化はもう無理

日本の夏、緊張の夏

渓流斎です。

昨年は、旅行で異国の地に行っておりましたので、好きな映画も見られませんでした。

そこで、昨年見られなかった映画で、どうしても見たかった作品の一つである原真人監督作品「日本のいちばん長い日」のDVDのレンタルを借りて見てみました。

がっかりでしたね。
配役を見てみませう。

阿南惟幾(陸軍大臣) – 役所広司
昭和天皇 – 本木雅弘
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 山崎努
迫水久常(内閣書記官長) – 堤真一
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 松坂桃李

家で寝そべって見ていたら、疲れていたので、途中で寝てしまったぐらいです。

ご案内の通り、この作品の映画化は今回が2度目です。原作は、今は歴史探偵として大活躍の半藤一利さんが1965年に発表したもので、発売時は、大宅壮一編の名前で発売されました。半藤さんが当時、文藝春秋の社員だったため、とか、販売戦略のためとか、色々理由があったようですが、真実は知りません。

それが、ベストセラーになり、1967年に映画化されるわけです。

実は、この渓流斎、この作品を父親に連れられて封切りで見ているんですよね。確か、後楽園にあった映画館です。当然今はありませんが、とにかく、記憶があやふやで水道橋にあった映画館だったことは覚えています。

白黒映画でしたが、長く記憶に残る鮮烈な映画でした。特に、畑中少佐役の黒沢年男が、常軌を逸して近衛師団第一師団長の森中将を殺害し、その後、手が硬直して、日本刀が手からなかなか離れない場面には、度肝を抜かれました。ハイライトシーンだっと思います。

昭和天皇の玉音放送の録音盤を出せ、と脅されて頭に拳銃を突きつけられたNHKの放送局員は、確か、若き加山雄三さんだったはずです。

今は便利で、チラッと「1967年版」の概要を見てみたら、腰を抜かすほど吃驚。監督は、名匠岡本喜八で、脚本は「七人の侍」の橋本忍さんではないですか。

配役は、

阿南惟幾(陸軍大臣) – 三船敏郎
昭和天皇 – 八代目松本幸四郎
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 笠智衆
迫水久常(内閣書記官長) – 加藤武
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 黒沢年男

このほか、志村喬、山村聡、宮口精二、北村和夫、中村伸郎、加東大介ら当時の豪華オールキャスト総出演です。

これでは、「2015年版」は、勝てるわけありませんね。確かに製作費は67年版の数十倍かもしれません。CGを駆使して戦時中の「書割り」が本物そっくりに再現されたかもしれません。

しかし、悪いですけど、役者が大根でした。特に主役は、台詞の棒読みでした。67年版は、敗戦からまだ22年。当時の緊迫した状況は、身に染みて分かっていた世代が多く生き残り、俳優の中には最前線で戦った人もいました。

ですから、無理なんでしょうね。戦後70周年版は、異様に目ん玉だけがギラギラしたヤクザ風の若い俳優が軍人役で沢山登場しましたが、眼だけで演技してるだけで、身体性が伴っていない。まさに、顔のアップの多いテレビ用なんですよね。

期待する方が悪かったのでしょうか?

【映画コラム】「トランボ」

カルガモかも

【映画コラム】
赤狩り旋風時代の米映画界の内幕を描く
=「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」=

◇赤狩りって何?

「レッド・パージ? マッカーシズム? 何ですか、それ?」―。東京・南青山のしゃれたカフェバーで、若い女性らと飲んでいた際、たまたま映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」の話になり、筆者が「赤狩り旋風」の話をしたところ、そう聞かれて、逆に驚いてしまった。

その女性は、英会話がネイティブ並みで、ある国際機関に勤めるキャリアウーマン。そんなインテリ女性が、レッド・パージもマッカーシズムも知らないとは…、思わず耳を疑ってしまったわけだ。

言うまでもなく、レッド・パージとは、第2次世界大戦で戦勝国となった米国とソ連が覇権争いを巡って「東西冷戦」状態となり、その米ソ二大国による代理戦争とも言うべき朝鮮戦争を控えた1940年代後半に、米国で、ソ連に通じているという疑惑のあった共産党員らを公職から追放した運動を指す。GHQ(連合国総司令部)による占領下にあった日本も例外ではなく、レッド・パージ=赤狩り旋風が、政財官の広範囲で巻き起こった。

マッカーシズムとは、米国で赤狩り運動の先頭に立ったマッカーシー上院議員から来ていることも言うまでもないだろう。

◇「ローマの休日」の原案者

映画「トランボ」は、その赤狩り旋風の最中に起きたハリウッド映画界の内幕を描いた作品だ。非米活動委員会によって告発された映画人の中で、最も有名な人物は、監督兼俳優兼脚本家兼音楽家でもあったチャールズ・チャップリンかもしれないが、この映画の主人公ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は、ハリウッドで最初に告発されてブラックリストに掲載された「ハリウッド・テン」と呼ばれる10人のうちの1人だ。日本ではあまり有名ではないが、オードリー・ヘップバーンを世界的に有名にした出世作「ローマの休日」の原案者だと言えば、その大物ぶりは分かるかもしれない。

トランボは、議会での証言を拒否したため議会侮辱罪で投獄され、出獄後も仲間からの裏切りなどで映画界から追放されるが、生活のために偽名、変名を使って、大量の脚本を量産する。この中で、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンター名で書いたのが「ローマの休日」(53年)であり、ロバート・リッチの偽名で書いたのが「黒い牡牛」(56年)であり、両作は何と、米アカデミー賞原案賞まで受賞してしまう。

その間、トランボは生活のために、内容は二の次のB級映画専門の独立プロのボス、フランク・キング(ジョン・グッドマン)と契約し、バスタブに漬かりながら、酒と煙草で原稿を量産する姿が痛ましい。思春期の子供を抱える家庭内不和や、赤狩り追放に命を懸けているコラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)や、米国を代表するハリウッドの大スタージョン・ウエインらとの確執にも悩まされるが、作品全体が告発調になっていないところがいい。

◇名作「ジョニーは戦場に行った」も

監督は、コメディー「オースティン・パワーズ」シリーズで知られるジェイ・ローチ。酷い獄中生活や信頼していた俳優からの裏切りなども描かれるが、史実を淡々と描写し、わざとらしくなく、重々しくないところが、かえって見どころになっている。

その後、トランボは、俳優カーク・ダクラスらからの要請で、ローマ帝国時代の奴隷剣闘士を描いた「スパルタカス」(60年)を実名で発表して、映画界復帰を果たす。実は、「ローマの休日」の原題の「Roman Holiday」は、ローマ帝国の貴族たちが、休日に剣闘士らの殺し合いを見て楽しんだことから、「人の犠牲の上で味わう楽しみ」というのが本来の意味だが、トランボが「スパルタカス」で、名誉回復するとは、偶然の一致にしては出来過ぎた話かもしれない。

その後、トランボは76年に70歳で亡くなるまで、仕事を続けるが、晩年の作品として1本挙げるとしたら「ジョニーは戦場に行った」(71年)だろう。この作品は、第一次大戦で手足を失う重傷を受けた志願兵ジョニーを描いた名作で、トランボが39年、33歳の時に書いた「ジョニーは銃を取った」が原作。第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦争が起きるたびに「反戦作品」だとの脅迫を受けて絶版になったという。トランボ65歳にして自らメガホンを取って映画化したこの作品は、カンヌ国際映画祭特別審査員特別グランプリなどを受賞するが、その事実を後から知った筆者も驚いたものだ。

映画の中で、赤狩りに遭う前のトランボの大邸宅の敷地内に湖があり、馬も飼う優雅なブルジョア生活が描かれる半面、平等に賃金が分配されない労働者たちへのトランボの憤り、同情心、社会への不満なども描かれる。かなり矛盾している。

とはいえ、名作「ジョニーは戦場に行った」を世に送り出した背景には、こうした常に権力に屈せず、弱者に対する温かい目を失わないトランボの信念があったことを、この映画で教えられた。(了)

「トランボ」は★★★★★ ダイアン・レインは良かった

哈爾濱の朝食はトウモロコシと牛乳 Copyright par Admiral Matsuocha

7月17日付の渓流斎ブログ「『父・伊藤律』と映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』」でも少し触れましたが、その話題の映画「トランボ」を観てきました。

いやあ、なかなか良かったです。最後の方で、こちらは少しウルルと来てしまっているのに、出口付近で、「ぴあ」と称する人たちに囲まれて、「『トランボ』の感想を聞いています!」と迫ってくるではありませんか。

私は、帽子を深く被って一人で感動に浸っていましたので、すぐにその場から逃れたかったのですが、「せめて、点数だけでも」と、まるで、テレビリポーター(死語)のように縋ってくるので、「ひ、ひ、ひゃくてんです」と答えておきました(笑)。

 中国最北観光地五大連池 アヒルも元気な朝 Copyright par Admiral Matsuocha

まあ、それだけ、いい映画だったということです。

私が「手引き」として信頼している日本経済新聞金曜日夕刊最終面の映画評欄では、「トランボ」は星が四つでしたので、「そこまで名作じゃないのかな?」とあまり期待しないで観たのですが、逆に、期待しなかったおかげで、なかなか感動的な映画でした。

同じ時間帯に近現代史関係のセミナーが、中野であったので、どちらに行こうか、悩むほど迷ったのですが、結局映画にしたのが正解でした。

映画館はまた、私の大嫌いな狭過ぎる東京・日比谷のシャンテシネマズでしかやっておらず、仕方がないので、また、ネットでチケットで予約しようとしたところ「残席わずか」と表示されていたので、大慌てで、購入して行きました。映画館に着くとやはり、長蛇の列で、満員御礼でした。
ロバは良き友 Copyright par Admiral Matsuocha

素晴らしい映画だったので、内容や感想や批評めいたことは、他で書くことにしました。ボツになったら、という条件で、いつか渓流斎ブログに掲載しませう(笑)。

ですから、他では書けないことを一つだけ、ここに書くことにします。

1940年代後半からの赤狩り旋風で、ハリウッドから追放された実在の映画関係者を描いた作品です。

主人公は、「ローマの休日」を匿名で脚本を執筆して、アカデミー賞原案賞を受賞するダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)です。

このトランボを陰日向で支える奥さんクレオ役の女優さん、「何処かで見たことあるなあ。いい女優さんだなあ」と思いましたが、名前が思い出せません。

そこで、後で、帰りの電車の中で、スマホで映画のHPを見て調べたところ、何とダイアン・レインだったのですね。私はかつて、横浜で、今村君と観たコッポラ監督の「コットン・クラブ」で、18~19歳の彼女が主演していたことを鮮明に覚えています。若い頃の彼女は、日本でも大人気で、何本かCMに引っ張りだこでした。

でも、そのことは置いといて、最近読んだ「日活不良監督伝 だんびら一代 藤浦敦」(洋泉社)の最初の方に、このダイアン・レインが出てくるのです。彼女は、コメントにも頂いた”伴野朗監督作品”映画「落陽」の主演女優だったのです。

「不良監督」といいますか、この映画の総合プロデューサーだった藤浦敦さんは、「落陽」に主演したダイアン・レインのエージェントに100万ドル支払ったのに、ダイアン個人に直接聞いたら、ギャラは35万ドル(当時のレートで5000万円)しかなかったことを暴露していたのです。これで、エージェントが65%も手数料と称して抜く映画界の実態が分かりますねえ。

この話を読んでいたので、トランボの奥さんクレオ役がダイアン・レインだと分かって、何という「偶然の一致」だと思いました。もっとも、本当は、そんなものは存在せず、全て「必然」なのだと確信していますが。

「トランボ」に出演したダイアン・レインはこの時、50歳。とても、いい年の取り方をしていると思いました。「落陽」に主演した後の彼女の人生は知る由もありませんし、あまりそこまで興味もありませんが、映画界の荒波にもまれて、内面で知性と教養を磨いたという感じでした。

若き永六輔

Italie

先日亡くなった大橋巨泉の奥さんは、彼の盟友だった永六輔が亡くなったことを、「ショックが大きすぎる」ということで、知らせなかったそうですね。

お互い、テレビの草創期に放送作家として鎬を削った仲でした。

その永六輔さんは晩年は、人格者として崇められておりましたが、若い頃はかなり傲岸不遜だったようです。そりゃそうでしょう。「上を向いて歩こう」「明日がある」「こんにちは赤ちゃん」等々、大ヒットした作詞家として飛ぶ鳥を落とす勢いです。印税でがっぽり桁違いのお金が入ってきて生活に全く困らないので若い頃は、我が儘言いたい放題だったのかもしれません。

その永六輔さんが若き頃、日活撮影所に行って、夜中の三時まで、ああだ、こうだ、と指図をしまくったそうです。当然、あいつは何様だ。生意気な奴だとスタッフの反感を買い、永さんが一服するために、外に出た瞬間、何者かに暗幕を頭から被せられて、殴る蹴るの暴行でボコボコにされたそうです。

結局、犯人は、分からず仕舞い。永さんも警察に被害届けを出したかどうか分かりません。そんな武勇伝があったこと事態、闇から闇に葬られてしまうものですが、元日活の映画監督藤浦敦さんは「だんびら一代」の中でしっかり、証言しているのですからですね。

この本にはエピソードが満載です。藤浦敦さんの祖父周吉が一代で東京中央青果を興して、東京市中の台所の野菜果物の源流、根っ子である卸売業界を牛耳って巨万の富を築いたことは、以前、この渓流斎ブログにも書きました。

金がある所は、匂いで分かるんでしょうね。遥々異国から、せびり、いや間違い、支援を求める外国人もいました。中国革命の父孫文もその一人です。

周吉の息子富太郎も表に出ないようにしたので、無名でしたが、政財界官界学界それでええん界にまで莫大な支援をします。いちいち個人名は挙げませんが、右翼暴力団関係は勿論、左翼は共産党までポンとお金を出していたことを、富太郎の息子である藤浦敦さんは暴露しています。

日本共産党の某幹部が自宅に来て、「赤旗まつり」のチケットを富太郎にまとめ買いしてもらって嬉々としている姿を藤浦敦さんは、この本の中で活写してました。

一番驚いたのは、日活の株式の40%も藤浦家が握っていたということです。ですから、伴野朗原作監督作品の「落陽」の興行面で25億円の赤字を出しても「俺の金を自分で使って何が悪い?」と開き直っていられるのです。

日活倒産の原因を「落陽」興行の失敗として押し付けられた藤浦敦さんは「『落陽』の損失など全体の10%程度。ゴルフ場やホテルなど本業以外の経営多角化が倒産の原因だ」と、理路整然と説明するのです。

私が少年の頃、映画の世界で、誰が一番偉いのか、と不思議に思っていました。莫大なギャラが貰える主演俳優かな、と思っていたら、もう30も過ぎた頃に「渓流斎くんは甘いね。『黒澤明監督作品』というぐらいだから、監督が一番偉いんだよ。作品は監督のものだからね」と言われて、それ以来、監督が一番凄いと思い、偉そうに、溝口だの、衣笠だのと言っていました。

そしたら、この本を読んだら、小説家あがりの伴野朗監督なんて、パシリ以下のそのまた下扱い。彼は、下積みの助監督の経験もないから、基本のキも知らない。藤浦敦ゼネラルプロデューサーは、伴野監督に大金を握らせて、途中から、もう撮影現場に来なくていいよ、と指示したそうです。

「伴野は頭のいい奴だから、一切口を割らなかったよ。小説家は小説を書いていればいいんだよ」と、口止めした藤浦敦さんは涼しい顔です。

クレジットの「伴野朗監督」だけで、宣伝になることは分かった上での話です。

ということで、映画の世界で、一番偉いのは、監督ではなく、ヒト(人事権)、モノ(作品)、カネ(製作費)を全て握っているゼネラルプロデューサーだということになりますね(笑)。

◇クレージーキャッツの源流

フランキー堺が、日活映画の専属俳優になってしまい、彼がリーダーとして結成したコミック・バンド「シティー・スリッカーズ」(「粋な都会人」という意味。1950年代にこんな洒落た名前を付けるとは!)は、開店休業状態になります。

その取り残されたメンバーが新たに結成したバンドが、「クレージーキャッツ」だったんですね。谷啓、植木等、桜井センリの面々です。

知らなかったなあ…。

「帰ってきたヒトラー」は★★★☆ 第5刷

哈爾濱市場 野菜もありまーす Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
北海道の雪祭り先生と、名古屋の海老不羅江先生と、博多のどんたく先生から、「『帰ってきたヒトラー』はご覧になりましたか?まだでしたら、是非ご覧になった方がいいですよ。今年のベスト5に入る作品ですよ」とのお勧めが沢山あったものですから、やっと、今日急いで見てきました。

映画館はいつも混んであまり好きではない東京・日比谷シネマ・シャンテ。ここは、国内でも唯一と言って良いくらいの当たり外れのない素晴らしい佳作か、翌年のアカデミー賞の最優秀作品賞に輝くような良い作品をばかり公開してくれるのですが、何せ、会場は狭すぎて、いつも超満員。

そこで、3日前になって急きょ、特別価格でネットを通して初めてチケットを購入してみたのです。

それが、大正解でした。

映画館に着いたら、またまた長蛇の列。こちらは列に並ばず、大助かりでした。ネットでの事前購入は、皆さんにもお勧めします。祝日とはいえ、東京は暇人が、随分多いんですね(笑)。隣県の千葉や神奈川や埼玉はこんなに混むことはありませんから。
五穀豊穣です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

で、肝心の映画ですが、最初から何の予備知識を持たないで観たもんですから、喜劇なのか、悲劇なのか、笑っていいのか、怒っていいのか、さっぱり分からなくて、すっかり面食らってしまいました。

ま、それが、この映画作家の狙いなんでしょう。監督・脚本は1977年生まれのデビッド・ヴィネンドというドイツ人でした。まだ39歳ですか。かなりの才能の持ち主です。

物語も、ハリウッド映画のように、薄っぺらで、単純ではなく、複雑に入り組んでいて、まるでマトルーシュカみたいです。

蒸かしたてのトウモロコシはいかが? Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

アドルフ・ヒトラー役のオリヴァー・マスッチという俳優が、何か本物そっくりに見えてしまいます。

出演する極右政党の人たちが本物かどうか分かりませんが、まるで、ドキュメンタリーを撮影しているかのように見えます。

ヒトラー扮するコメディアン(という設定)が、車に乗って、道行く人に挨拶をしますが、その「通りを歩く人たち」が字義通り、一般人なのか、エキストラなのか、さっぱり区別がつきません。

なぜなら、ある人には目に黒い太い線が挿入されたり、ある人には顔や身体全体にボカシが入れられたりして、その人物が誰なのか、特定できないようにしているからです。

堂々と顔を出して登場する人もおりますが、その人は、偶然通りかかったのか、エキストラなのかさえ、分かりません。同じ場面で、目に黒太線が入った人がいるということは、フィルムに写った何百人、何千人という人間にいちいち「肖像権」やら「著作権」とやらを確認したんでしょうね、きっと。でも、それは、目が回るほど厄介で細かい仕事です。本当にそんな気の遠くなるような作業をしたんでしょうかねえ?

よく分かりませんが、ヒトラー役のマスッチがあまりにも落ち着いて、堂々として、役に入り込んでいて、薄気味悪いほど善人のように描かれ、現代にマッチした形で演説したりします。

特に、くだらない低脳番組のオンパレードで、人類を思考停止の能力退化に落とし入れているテレビに対して、ヒトラーは痛烈に批判します。

舞台は2014年のドイツですが、移民流入問題、失業問題、原理主義者の台頭、貧富格差問題、原発・環境問題など極めて身近な政治問題が取り上げられ、皮肉にも、蘇ったヒトラーが解決策を開陳して、再び、大衆の心をつかんでいく道筋は、80年以上前の1930年代とまるっきり変わりません。

この映画では、かなり、際どいタブーも取り上げられます。何しろ、ドイツ国内では、「わが闘争」が発売禁止だけでなく、公でヒトラー式の挨拶も禁止され、民族差別発言も禁止されているはずです。確か、逮捕されれば、禁錮刑にもなったはずです。

それが、この映画では、「タブーを破るジョーク」として堂々と出てくるので、観てる方が心配になってしまいます。

ですから、この映画は、単なるエンターテインメントではなく、ハラハラドキドキするスリラーに近いのかもしれません(苦笑)。

「ノルウェーの家具」に決定!

JICAでお仕事をしていたANさんが今お住まい近くの「フランスの森」。バングラデシュで亡くなった日本人の方々は直接知らなくても、亡くなった方々が勤めていた会社の方はよく知っていたので、大変衝撃を受けたそうです。

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賢明なる読者諸兄姉の皆々様方におかれましては、私こと渓流斎が、にんどすさんという方と、コメント欄で、大論争を繰り広げていたことは、まさか、知らないとは言わせまい(笑)。

ビートルズが1965年に発表したアルバム「ラバーソウル」に収録されている「ノーウェッジアン・ウッド」という名曲にまつわる世紀の大誤訳の話です。(ジョージ・ハリスンが、師事したラヴィ・シャンカールにシタールを習い、ポピュラー音楽史上初めて、シタールが使われた名曲としても知られています)

当時の東芝EMIレコード宣伝部さんが「Norwegian wood」を「ノルウェーの森」というタイトルで売り出したおかげで、この誤訳のタイトルが日本では定着してしまい、その後、日本のベストセラー作家が、わざわざ同名タイトルで作品を発表し、映画化もされて、世界中でボチボチのヒット作になりました。

コメント欄では、歌詞の内容について、詳しく触れておりますので、ご興味ある方はご参照下さい。

で、私も、あれから、新たに調べてみたところ、偶然に以下のサイトにぶち当たりました。

「北欧インテリアは、ビートルズの時代がベストかも。」 ←こちらをクリック

これで、決定です。「ノーウェッジアン・ウッド」とは「ノルウェー家具」のことでした。このサイトにあるように、1950年代から70年代に掛けて、ノルウェー家具は、全盛期で英国にも輸入され、大人気だったようですね。

70年代以降は、北海で発見された油田の影響で、手作りの家具産業がノルウェーでは廃れてしまい、北欧家具のシンボルがスウェーデンやデンマークに移行してしまった、という話も説得力があります。

私も大好きなドイツのバウハウスに影響を受けたノルウェー人のハンス・ブラットルがデザインした木製椅子は、世界中でかなりヒットしたようです。

でも、「ノルウェーの家具」を作詞作曲したジョン・レノンの歌詞には「(部屋を)見回したら、椅子はなかった」と唄ってますね(笑)。恐らく、ジョンは「あの有名なハンス・ブラットルの木製椅子さえないじゃないか!」ということを言いたかったのかも?

世界中を旅している渓流斎ですが、残念ながら、ノルウェーには行ったことがありません。でも、先ほどのサイトには、日本に居ても、ノルウェーの雰囲気が味わえるカフェがあることが紹介されています。「フグレン・トウキョウ」です。本店は、ノルウェーの首都オスロにあり、ここは日本支店に当たるようです。

場所は、東京都渋谷区の代々木公園近く、昔よく通っていた天下の国有放送局イヌ・アッチ・イケーのそばです。地図を拡大して住所を見たら、何と、現在日本の最高権力者であらせられる方のご自宅そばなんですね。付近は、24時間警戒態勢を引いていることでしょうから、私のような体制に反感を持っている怪しいおじさんが行くと誰何されることでしょうね(笑)。

「フグレン・トウキョウ」には、もちろん、ノルウェー家具や調度品が供えられているようで、ノルウェー・コーヒーもあるそうです。ノルウェー料理もあるのかしら?いずれにせよ、行けば、ノルウェーに行ったような気分になれるのかもしれません。

いつかこの店に、ジョン・レノンのように下心を持って可愛いヘテロさんを誘ってみたいですねえ(笑)。