喜劇とは笑わすだけにあらず

三波伸介さんの墓誌

今日は小春日和ということで、父の命日(11月18日)が近いこともあり、お墓参りに行ってきました。

私は、スマホ中毒依存症の病気ですから、ブログを書いたり、最寄り駅から霊園へのバスの時間などを調べたりしているうちに、亡父の眠る霊園には、有名人として、コメディアンの三波伸介さんのお墓があるということが分かり、吃驚。序でではありましたが、お参りすることにしました。

広大な敷地ですので、霊園事務所で、場所を伺って行ってみたら、あの一世を風靡した有名な爆笑王が眠る墓にしてはあまりにも小さいので驚いてしまいました。

三波伸介は、1982年に、52歳という若さで亡くなりました。もう、34年も昔なので、今や不惑以上の方でないと知らないかもしれません。

実は、先日、高校の先輩OBから、開校125周年を記念して卒業生の文集を出すので、一筆思い出を書いてくれないか、といことで、大昔の高校生時代を思い出しながら、書いたものでした。

その中で、ちょうど三波伸介さんの思い出があったのです。彼は、ちょうど我々が卒業した都内の高校の隣に住んでいて、仕事に出掛ける度に、黒塗りの車で若い衆が出迎えに来ていました。どういうわけか、鼻の効く奴がいて、三波さんが出掛ける瞬間を嗅ぎつけて、窓際に釘付けになって、皆を呼びに来るのです。

そして、何人か集まると、悪ガキどが一斉に「しんすけー」と叫ぶのです。

すると、サングラスを掛けて、ヤクザの親分さんのような風体の三波さんは、ゆっくりと右手を挙げて車に乗り込むのでした。

今から考えると、サービス精神旺盛な方でした。ですから、今日は、奇妙なシンクロ二シティにまたまた驚いてしまったわけです。

ぎょうざの満洲

お墓参りした後、バスで駅に向かっていたら、「ぎょうざの満洲」の看板が見え、お腹も空いていたので、飛び込んでみました。

私は、満洲に目がないですからね(笑)。

しかし、ここでも驚きました。

お向かいがベトナム人の青年3人。左隣が、フィリピン人三世代家族、右隣が中国人でした。

餃子と塩ラーメンセットに中瓶を頼みました。
モアリズム

この後、近くの広大な国有地公園を散策していたら、無料野外ライブをやっていました。

「モアリズム」というギター2人、ベース1人の3人組のジャズ・ブルースバンドで、初めて聴きましたが、これが破格的にうまい。ボーカルもギターも、テクニックが半端じゃない。思わず聴き惚れてしまいました。

今日は、驚くことも沢山ありましたが、何か、凄い贅沢をしたような、得した気分になりました。

「西鶴一代女」と「ボヴァリー夫人」「女の一生」「居酒屋」

伊太利亜ヴェローナ

巨匠手塚治虫が秘蔵していた春画が見つかったそうで、話題になっています。

文芸誌「新潮」に掲載されていますが、どうやら、新潮の編集者が事前に、特定のメディアに垂れ流し、いや間違えました、特ダネ記事を耳打ちしたらしいです。スクープできなかった弱小メディアのお父様、残念でした。

世の中、強い者が勝つようにできているのです。政治の世界では特に、誰もが勝馬に乗ろうと我先にと、人を押しのけて生きてます。

その手塚治虫ですが、驚くべきことに、亡くなったのはまだ60歳だったのですね。あれだけ歴史に残る大仕事を残したので、もっと長生きされていたと思っていましたが、早逝といっていいぐらいです。

まあ、いわゆる天才ですから、10代から大活躍されていて、確か、あまり若く見られたくないということで、生前は5歳ぐらいサバをよんでいたことがありました。早熟の天才だったのですね。

◇溝口健二は58歳で死去

昨日は、ネットの無料動画で、溝口健二監督を世界的に有名にした「西鶴一代女」を観ましたが、酷く暗い映画で落ち込んでしまいました(苦笑)。

昭和27年の作品です。この作品は、ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し、翌年は「雨月物語」、翌々年は「山椒太夫」でも獲得して、3年連続の栄誉を授かり、すっかり「世界の溝口」の名を不動のものとしました。「3人好きな監督を挙げよ」と聞かれた仏ヌーベルバーグのジャン・リュック・ゴダール監督が「溝口、ミゾグチ、みぞぐち」と答えたことは有名です。

今でも、日本よりフランスの方が溝口健二研究家が多いぐらいですが、これ程、暗い映画をフランス人が好むとは意外でした。

田中絹代主演で、若き三船敏郎も最初に登場します。田中絹代演じるお春は、3万石の殿様の側室となって世嗣ぎを産んで頂点を極めたかと思ったら、運命の悪戯で落魄して、苦界に堕ちて、堕ちて、堕ちまくる話で、これ程ついていない女性もいないぐらいです。そんな女性は、フランスにはフロベールの「ボヴァリー夫人」を始め、モーパッサン「女の一生」のジャンヌ、ゾラ「居酒屋」のジェルベーズと結構多く描かれ、なあんだ、薄幸女性は、フランス人好みだったわけですか。

「銀座化粧」で失われた場所を求めて

さきたま古墳群の秋桜

予告通り、成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」を見ました。またまた昭和26年公開。成瀬巳喜男は、この年、あの林芙美子原作の「めし」(原節子、上原謙主演)も撮ってます。

昭和26年ですから、まだ占領下の銀座が舞台になっています。私が見てみたかった三間堀、三原橋の、あの許斐氏利がつくった「東京温泉」も、まだ営業前の建築中として映っていました。

パブ(宣伝)として、許斐氏利がこの映画に出資したのかもしれません。白黒なので分かりませんが、白亜の立派なビルでした。「ボクシングと大東亜」の中では、義理堅い許斐が上階を麻雀荘として無料で貸し出していたと書かれていましたね。

当時の大スターで、演技派の田中絹代主演の映画でした。銀座のバー「ベラミ」の女給で、5歳の男の子のシングルマザーという設定でしたが、当時満41歳ぐらいですから、やはり、少し…という感じでした。当時、19歳か20歳の香川京子と比べてしまうと致し方ないといった感じでした。

昭和25年頃の銀座の風景写真は、歴史的価値があることでしょう。室内のシーンが多く、ロケが少ないので、街頭風景はあまり多く映っていませんでしたが、路面電車が走り、男はソフト帽を被り、女性はまだ和服姿が多かったですね。

この映画の三原橋、「君の名は」の数寄屋橋のように、かつて銀座は川と橋ばかりでしたが、今では殆ど全て埋め立てられて、当時の面影すら残っていません。

今では外資系のブランド・ショップが乱立する銀座ですが、昭和39年の東京五輪前までは、まだ木造の仕舞屋が多く、庶民も暮らしていたことが分かります。

田中絹代扮する雪子と5歳の春雄が暮らす長屋も、新富町辺りの長唄の師匠さんの二階でした。
今は跡形もないことでしょう。失われた場所を求めて…といった感じでした。

「めし」「浪華悲歌」「ボクシングと大東亜」

ワニノ公民館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

いつもながら、どなた様か分かりませんが、コメント有難う御座いました。

昨日は、すっかり調子に乗って、ネットにはなかった成瀬巳喜男監督作品「めし」をDVDで観てしまいました。昭和26年度公開。まだ、米軍による占領時代(昭和20年8月15日~昭和27年4月28日)だったんですね。林芙美子の未完の遺作の映画化で、今後「晩菊」(昭和29年)、「浮雲」(昭和30年)、「放浪記」(昭和37年)など成瀬の代表作となる「林ー成瀬」コンビの第1弾です。

結婚5年目で子供がなく倦怠期を迎えた夫婦を上原謙と原節子が好演しています。終戦直後の大阪が舞台ですが、二人とも東京出身で大阪に転勤してきたという設定です。上原扮する主人公は真面目な北浜の証券マンです。(上原謙は、森雅之ばりに知性派俳優ぶりを全面的に押し出しております)そこへ彼の姪っ子が東京から家出して来て、一騒動になるという話でした。

昭和26年というまだ物資がない時代に、さすがに女優陣は当時最先端のファッションで身を包んでいるので映画だなあ、と思いました。やはり、言葉遣いが丁寧なので、観ていて感服します。成瀬は、台詞に関しては、削りに削っていたそうですから、無駄がありません。

夜は、またネットで、溝口健二監督作品「浪華悲歌」を観てしまいました。昭和11年公開ですから、何と「2・26事件」が起きた年ではないですか!

山田五十鈴主演です。さすが、画面は劣化してぼんやりしている場面がありますが、アップになるととても80年も昔の映画とは思えないぐらい鮮明に映っていました。

山田五十鈴が「不良少女」アヤ子役というのですから、時代を感じさせます。30歳ぐらいに見えましたが、当時、実年齢18歳か19歳の本当に少女だったんですね。

主人公アヤ子の父である準造(竹川誠一)は、事業に失敗して酒浸りになっていた溝口の父善太郎がモデル とされているそうです。映画の中では、アヤ子は父親の300円の借金を返済しようと、男を手玉に取る「不良少女」になり、最後は家族にも見離されて、大阪の街を一人彷徨う寂しい場面で終わります。

俳優さんの顔と名前が一致しないのが残念です。社長さん役の人は、婿養子で奥さんに頭が上がらないという設定ながら、アヤ子と愛人契約したりしますが、なかなか味がありました。また、医者役をやっていた俳優さんの名前も分かりませんが、随分太っていて、昭和11年という時代にああいう体格の人もいたのかという驚きです。

評論家の山本夏彦は「戦前は決して暗い時代ではなかった」と著書の中で繰り替えし書いていましたが、既に、デパートがあって、地下鉄があって、キャバレーもあって、株取引もあって、歓楽街で楽しむ大衆も描かれていたので、少し分かったような気がしました。

 ワニノ公民館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

博多の曇卓先生のお勧めで、乗松優著「ボクシングと大東亜」(忘羊社)を読んでいます。

内容と目の付け所が大変いいのですが、大学の紀要を読まされている感じで少し読みにくく、市販書としてなら、残念だなあ、という感想です。

最初に「凡例」を書いて、「読み方の手引き」でも書いておけば、いいのですが、読みずらかったと言わざるを得ません。

例えば、98ページにはこう書かれています。

「…初期のテレビ放送は成功しただだろうか。
佐野[二〇〇〇a]は、日本初の民放テレビ放送の幕開けを、警察官僚から不屈の転身を遂げた正力の事業欲や権勢欲と重ね合わせながら描きだしている。…」

という具合ですが、何ですか?この急に現れる「佐野[二〇〇〇a]」は!!!?

私のような近現代史関係を中心に乱読している者なら、少し考えて、「もしかして、佐野眞一氏の『巨怪伝』を引用しているのかもしれない」と、ピンときます。しかし、「巨怪伝」は1994年に初版が発行されたので、この2000とは何か?

そして、後ろの「参考文献」欄を見ると、2000年に発行された同書の文庫版からの引用だということを著者は、言いたかったようです。

私は博士論文を書いたことはありませんが、引用文献として、時代を経て文庫版になった年号を書くものですかね?いずれにせよ、「凡例」がないので、実に不親切です。

それとも、著者はまだ若いので、読者がそこまで要求するのは酷なのでしょうか?

 ワニノ港 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

最初に「目の付け所と内容はいい」と激賞したので、少し引用します。

・かつてボクシング界には、嘉納健治(神戸富永組)をはじめ、阿部重作(住吉一家)、山口登(山口組)、藤田卯一郎(関根組)などの大親分が関わっていた。中でも、日本ボクシング創世記から興行の世界に足を踏み入れていた嘉納健治は「菊正宗」で知られる造り酒屋の生まれであった。一族の中には近代柔道の祖、嘉納治五郎がおり、嘉納家は神戸でも名門中の名門の家柄で知られる。(83ページ)

【追記】ひょっえーです。菊正宗は、渓流斎の愛飲の酒ですが、嘉納治五郎と関係があったとは不覚にも知りませんでした。渓流斎の呑む菊正宗は、日比谷「帝国ホテル」か、麻布「野田岩」か、銀座「酒の穴」に限ります。せんべろ居酒屋で出される「菊正宗」は似て非なるモノと心得よ。

・後楽園スタヂアムを取り仕切り、日本ボクシング・コミッションの初代コミッショナーに就任したのが田辺宗英。彼は戦前、玄洋社の頭山満を敬慕し、孫文を援助した黒龍会の内田良平や大陸浪人として知られる宮崎滔天らと知り合い、勤皇報国の思想を強めた。1931年(昭和6年)、銀座尾張町の四つ角に「キリン・ビヤホール」を開店。1933年(昭和8年)には西銀座に高級喫茶「銀座茶屋」を、1935年(昭和10年)には5階建ての食堂娯楽デパート「京王パラダイス」などを開き、実業家としての成功を収めていた。(p107~110)

【追記】銀座尾張町というのは、今の銀座四丁目交差点辺りです。最近、日産ショールームがあったビルが「銀座プレイス」として新装オープンしましたが、地下に銀座ライオン(つまりサッポロビール)のビアホールができました(まだ、行ってません)。田辺宗英の「キリン・ビアホール」と関係があるのかどうか?(確か、サッポロは三井系、キリンは三菱系、アサヒは住友系だったと思います)
また、この本では、あの牧久さんの書いた「許斐氏利」伝を引用して、銀座の東京温泉は、成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」(1951年)のロケで利用された、と書かれてあったので、早速この映画もネットで観てみようかと思ってます。

ビートルズ、ジェイソン・ボーン、成瀬巳喜男「旅役者」

哈爾賓西駅待合室  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

◆過去1週間の閲覧数・訪問者数ランキングです。

《日付》     《閲覧数》 《訪問者数》 《ランキング》
2016.10.14(金)  613PV   327IP     2358位   /261万4333ブログ
2016.10.13(木)  315PV   149IP     8159位   /261万3783ブログ
2016.10.12(水)  371PV   183IP     6214位   /261万3252ブログ
2016.10.11(火)  450PV   183IP     7152位   /261万2690ブログ
2016.10.10(月)  449PV   167IP     1万109位  /261万2194ブログ
2016.10.09(日)  458PV   176IP     6513位   /261万1669ブログ
2016.10.08(土)  287PV   117IP     1万695位  /261万1173ブログ

昨日はついに2000位台にランキングされました!

消滅した「幻のブログ」は、過去800位台の3桁をマークしたことがあるので、もうすぐです(笑)。

でも、昨日は「ボブ・ディラン」という大物を見出しに取ったので、全く見ず知らずの「通りすがり」の方がアクセスしただけでしょう。

精進を重ねて、奉仕活動を続けて参りたいと存じまする。(真面目過ぎる!)

 哈爾濱西駅 和諧号  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

渓流斎は映画好きで知られていますが、毎回見た映画を全て、このブログに取り上げているわけではありません。

例えば、ビートルズの46年ぶり公開映画「エイト・デイズ・ア・ウイーク」は、イタリア旅行から帰ってからすぐに見ました。この映画は、ビートルズがデビューした1962年からライブ公演をやめてしまう1966年8月29日の米サンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでの最期のコンサートまでを追ったドキュメンタリーです。

私はビートルズ・フリークですから、あと2,3回は見る予定をしていますが、ちょっと、「第5のビートルズ」と言われたプロデューサーの故ジョージ・マーチンの息子のジャイルが音声の担当になっているようですが、ちょっと、いじり過ぎだと思いました。

つまり、ビートルズのライヴとして最も有名な1965年8月の米ニューヨークの「シェイ・スタジアム」公演をおまけで最後に上映してくれますが、ヴォーカルの音声が聴き取れなかったせいで、ヴォーカルの音をダビングするのは致し方ないにしても、演奏さえしていないギターの音を、恐らく他のライヴからかぶせて音をクリアにしているので、興ざめしてしまいました。あれは、違反じゃないかな…。

この映画について、若い音楽評論家が「ファンの熱狂があれほど凄いとは思わなかった」とラジオで感想を述べていましたが、「かわいそうに、何も知らないんだなあ」と哀れに思ってしまいました。(堂々と評論家を名乗っているので)。若いので無理もありませんね。ビートルズが演奏活動をやめたのは1966年、ちょうど半世紀も昔で、当時を知っている人は、今頃はもう還暦を過ぎてしまっているのですからね。

もう一つ、先週はシリーズもので9年ぶりに復活した「ジェイソン・ボーン」を観ておりました。これは、前作も前々作もシリーズ全て見ているので、愉しみにしていたのですが、今回は駄作で点数の付けようもありませんでした。

ただただ只管、拳での殴り合いとピストルでの殺し合い。そして、カーアクションと称する車の凄まじい破壊活動。筋もへったくれもあったもんじゃないです。

第一、CIA長官を殺害して何ともないという話も面妖。マット・デイモン扮するジェイソン・ボーンが何処にいようがコンピューターで突き止められるというのも陳腐で、大人の鑑賞に堪えられませんでした。

やはり、ハリウッド映画は、おこちゃま向けなんですかね?

 海の向こうは樺太  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨夜は、本棚の奥から、「日本映画ベスト200」(角川文庫)が出てきてしばらく熱中してしまいました。1990年初版発行なので、もう26年も昔の本。映画人・著名人1000人のアンケートによる「わが青春の1本」を集計したものです。戦前の映画も挙げられていますが、その映画人・著名人は今では他界してしまった人ばかりです。時代を感じる本でした。

ベスト200作品の監督の上位は、黒澤明(「七人の侍」「生きる」など)と小津安二郎(「東京物語」「晩春」など)の二人が独占している感じでした。この二人を追うようにして健闘していたのが溝口健二(「雨月物語」「西鶴一代女」など)。以下、木下恵介(「二十四の瞳」「野菊の如き君なりき」など)、今井正(「また逢う日まで」「青い山脈」など)、今村昌平(「復讐するは我にあり」「黒い雨」など)が続き、私の好きな成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」など)は第10位でした。

(この成瀬監督について、溝口監督は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつも○○○○が有りませんね」と断定していたらしいので、椅子から落ちてしまうほど、ずっこけてしまいました=笑)

日本映画が黄金時代でカンヌやヴェネチアなどの国際映画祭で、数々の賞を受賞していたのが昭和20年代後半から30年代です。特に、黒澤・小津・溝口・成瀬は「四代巨匠」として名を馳せましたが、今見ても面白いですね。くだらないハリウッド映画を観る時間があれば、まだ見ていない彼らの映画を観てみたいと思いました。

そしたら、今はとてもいい時代になりました。ユーチューブで、著作権の切れた彼らの戦前の作品などが無料で観られるのです。

昨晩は、成瀬巳喜男監督の昭和15年の作品「旅役者」(藤原鶏太=釜足=主演)を観てしまいました。ある田舎町に「六代目菊五郎」が巡業に来るというので、山っ気のある床屋が興行師に投資したところ、「六代目菊五郎」は尾上でなく、中村菊五郎を名乗るドサ周りの田舎芝居の一座で、騙されたという話。主役の藤原鶏太は、一座で「馬の脚」役という設定で、ドタバタ喜劇といいますか、ドタバタ悲劇といった風合いで、ついiPhoneの狭い液晶画面なのに、1時間15分の映画を全部観てしまいました(笑)。

何と言っても、支那事変が始まっているとはいえ、太平洋戦争前夜の昭和15年。皇紀2600年。戦闘機「零線」がつくられた年に、こんな映画が公開されていたとは! 当時から、役者と言えば、「六代目」の名前が全国津々浦々に鳴り響いていたことが分かります。

76年前の映画なのに、画像が実に鮮明で、台詞がきれいですね。ヤクザ言葉でさえ、妙に格調があり、当時の日本人がこんな言葉遣いしていると思うと非常に感心してしまいました。(それに比べて、21世紀の現代若者は「disる」とか訳の分からない汚い言葉のオンパレードです)

ユーチューブで、日本の巨匠の映画鑑賞はお勧めですよ。

「ハドソン川の奇跡」は★★★★★

ミラノ・スフォルツァ城

映画「ハドソン川の奇跡」を千葉県で見てきました。クリント・イーストウッド監督作品だからです。

2009年1月15日に実際に起きたUSエアウエイズの鳥激突による両エンジン停止でNYのハドソン川に不時着陸して、155人の乗員乗客の生命を救ったサリー機長(トム・ハンクス)とジェフ副操縦士(アーロン・エッカート)の物語です。

当初、英雄として迎えられた機長らも、事故調査委員会の調査で一転して「容疑者」となります。

どうなるのか、は見てのお楽しみです。

全編、緊張感があり、映像に少し無駄がありましたが、トッド・コマーニキの脚本が無駄がなくていいです。1時間50分という時間もちょうどいい長さです。

 ミラノ・スフォルツァ城

以下は、私がこの映画のどこに着目したか書きます。未見の方は、この先はお読みにならない方がいいと思います。

て、ゆーか、映画を観ないと、読んでも分からないと思います(笑)。

私がまず、「オー」と思ったのは、主役のサリー機長演じるトム・ハンクスらの着ているものが、何から何まで超高級品に見えたことです。

さりげなく着ていた薄いセーターも恐らくカシミア製でしょうし、上下のスーツはかなり高級なイタリアン・スーツ、ジョルジュ・アルマーニあたりかと思わせましたが、恐らく、ケネディ大統領も愛用した米国のブルックス・ブラザースでしょう。

映画の中で、飛行機がハドソン川に不時着して、着替えも何もかも置いて避難し、ホテルに落ち着いた時に、サリー機長らは、着替えとして安物のスーパーの服を航空会社の同僚から渡されます。

この時、不服そうな表情を浮かべたサリー機長らに対して、その同僚は「えっ?ブッルクス・ブラザースの服が欲しかったのかい?勘弁してくれよ。今、夜の10時なんだから、開いているのはKマートぐらいだよ」

と言い返します。

この台詞で、彼らはパイロットですから恵まれた階級であることが分かります(笑)。

 ミラノ・スフォルツァ城

映画に登場した、事故に見舞われた乗客・乗員155人のほとんどが、コーカサス系で、アフリカ系、アジア系、それにヒスパニック系がほとんどいなく、勿論、台詞はなし。実話に基づいて、想定したのかもしれませんが、何か、意図するところがあったのか、勘ぐってしまいました。

もう一つ、サリー機長を全面的に善人としてではなく、どこか胡散臭い面があったことも、さりげなく描いていたことには感心しました。

それは、台詞の中だけにしか出てきませんが、機長は一人で、別会社をつくって不動産関係の投資をやっていたことなどです。もちろん、法に違反するとかそういう話ではありませんが、通り一遍な善人として描くより、迫真性が増して、この映画は反反知性主義者が観ても納得させる要素を持っている遠因になっています。

明治十四年の政変

大阪朝日新聞創刊号

太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷と明治」(中日新聞社)を読んでいますと、明治のエポックメイキングの歴史がふんだんに出てきます。

自由民権運動、明治十四年の政変、秩父事件、五日市憲法を草案した千葉卓三郎…

そしたら、私の嫌いな、と以前に書いた榎本武揚も出てきましたよ。明治8年、樺太・千島交換条約条約を締結した日本代表として。日本側は、榎本武揚全権委任公使。ロシア側は外相のゴルチャコフ。文字通り、日本領かロシア領か曖昧だった樺太を千島と交換してしまいます。(幕臣から新政府に寝返った榎本武揚については、福沢諭吉も「丁丑公論」の中で批判しています)

強国ロシアにとってはいい案件だったことでしょう。後に石油が出るアラスカをタダ同然でアメリカに売却してしまったので、その穴埋めをしようと必死だったのでしょう。

明治8年の時点で、樺太には多くの日本人も住んでいました。この条約締結を後ろで糸を引いていたのが、黒田清隆北海道開拓使前長官(薩摩藩士、長州伊藤博文に継ぐ第2代首相)。もともと樺太に住んでいたアイヌ民族を北海道に強制移住させたのも黒田でした。この黒田こそが、周囲の反対を押し切って榎本武揚の助命のために頭を剃った人です。黒田は、開拓使払い下げ事件を起こしたり、明治11年、酔って妻を蹴り殺したのではないかという醜聞を朝野新聞に暴かれたりして、一時失脚しますが、逆に、この情報を流したと噂された大隈重信を明治十四年の政変で失脚させます。薩長藩閥政府に怖いものなし。

反薩長藩閥政府の立場を取った朝野新聞に対して、福地源一郎率いる東京日日新聞(今の毎日新聞)は、政府ベッタリで、黒田の醜聞は書かず、政府の発表ものしか書かないので、太田治子さんは何度も「東京日日は、御用新聞」とハッキリ書くので可笑しくなりました。

しかし、幕臣出身で真面目の塊の二葉亭四迷こと長谷川辰之助は、朝野新聞の成島柳北が明治11年、前米大統領で南北戦争の英雄グラント将軍が来日した際に、接待委員を務めたことから、大いに失望したりするのです。

こういう本を読むと、明治の時代が、歴史としてではなく、現在進行形の出来事として生き生きと感じられますなあ。

二葉亭四迷のこと

江戸歌舞伎発祥の地

(昨日の続き)

お約束ということで、昨日の太田治子著「星はらはらと」(中日新聞社)から。

二葉亭四迷の伝記で、まだ読書中ですが、「へ~、なるほど」と、取り敢えず、勉強になったことを列挙します。

・二葉亭四迷、本名長谷川辰之助は、元治元年(1864年)、江戸市ヶ谷合羽坂の尾州藩上屋敷生まれ。父吉数は、尾張藩御鷹場(おたかば)吟味役江戸詰めの下級武士。江戸市ヶ谷合羽坂尾州上屋敷は、維新後新政府により没収されます。そこには、山縣有朋の画策で陸軍士官学校がつくられ、昭和16年から敗戦まで、陸軍省、陸軍参謀本部が置かれます。敗戦後、米軍に接収されてここで極東国際軍事裁判が行われ、返還後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を経て、現在、防衛省の敷地になっています。長谷川家は、バリバリの徳川の幕臣だったのですね。しかも親藩御三家。それで、二葉亭四迷が、最後まで明治の薩長藩閥政府に背を向けていた理由が分かりました。

・東京外国語学校露語科を中退して、職を転々とし、新聞、雑誌などに小説やロシア語翻訳を発表していた二葉亭四迷が、44歳にして朝日新聞ペテルブルク特派員になれたのは、明治41年に来日して、二葉亭が案内役を務めたロシアの作家兼新聞記者のネミーロウィッチ・ダンチェンコの推薦によるものだった。(病を得て、帰国途中のベンガル湾上で死去、享年45)

・転々としていた職業とは、内閣官報局雇員、東京外国語学校教授など。いずれも、短期間しか続かず、外国語学校教授を辞めた後は、満洲のハルビンまで行く始末。徳永商会の顧問になる予定も、不首尾に終わった模様。行動力があり過ぎる。(この事実を知っていたら、ハルビンに行った時、徳永商会を探したものを!)

・明治25年、二葉亭は本郷区菊坂に下宿。そのすぐ側に樋口一葉も住んでいたが、二人が直接会ったかどうかは不明。文語体の一葉は、言文一致の二葉亭より遥かに年長かと思ったら、一葉の方が8歳年下。二葉亭の「革新性」に目を瞠る。

・日本人で最初の世界共通語エスペラントの教本を書いたのが、二葉亭四迷だった。

・二葉亭四迷が、朝日新聞社の特派員としてロシアに居を定めたペテルブルクのアパートは、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフが住んでいた下宿としてモデルになったアパートやゴーゴリの「狂人日記」の舞台となったアパートのすぐ近くだった。

・現在、東京・御茶ノ水にあるロシア正教のニコライ聖堂の敷地は、維新後まもなくロシア大使館が建てられていた。その前は、駿河台の定火消(じょうびけし)屋敷跡だった。

・二葉亭四迷は維新の混乱を避けて、一時期、尾張名古屋藩に戻るも、再び上京して住んだ所が、飯田町定火消屋敷跡だった。この飯田町定火消屋敷跡は、現在の飯田橋駅に近い日本歯科大学と富士見小学校辺り。

・定火消とは、幕府常設の消防組織で、当初は、五千石前後の四人の旗本を組頭に、与力六騎、同心三十人で一つの組がつくられた。飯田町、半蔵門外、溜池の内、御茶ノ水、八代洲河岸、市ヶ谷佐内坂、赤坂門外、駿河台などに置かれ、火の見櫓も建てられた。

・蛇足ながら、著者の太田治子さんは全く触れていませんが、「東海道五十三次」「江戸名所百景」などで知られる浮世絵師歌川広重は、本名安藤重右衛門。もともとは、この定火消八代洲河岸の同心だった。「江戸名所百景」は、安政の大地震後の江戸復興の祈りを込めて製作したと言われ、広重の元職が定火消役だったからだという説が有力。

・この定火消八代洲河岸屋敷跡には、現在、東京・馬場先門交差点角にある昭和9年建築の「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)=重要文化財=が建っております。

ウッドストックでは行われなかった!

Tokyoit

今、電車の中で、スマホで、うろ覚えで書いてますので、多くの記憶違いがあるかもしれませんが、その場合、後からドシドシ訂正、修正、改訂して直していくつもりです(笑)。

私の人生で最も輝かしい黄金時代の年を一つだけ挙げろ、と言われれば。そんなこと、後にも先にも誰にも聞かれませんが、私は躊躇なく、1969年を挙げます。

今、年表がないので詳しくは分かりませんが、この年は、東大安田講堂事件の年であり、米アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した年でもあります。(そんなことなかった、と為五郎さんは主張してましたが…)

また、私のフリークであるビートルズが最期のレコーディング・アルバム「アビイ・ロード」を発表した年です。(LPは擦切れるほど聴きました)

そして、何と言っても音楽史上に残るウッドストック・フェスティバルが開催された年でもあるからです。

このフェスティバルは映画化されて、私もその後、テレビか弐番館か、何処で見たか忘れましたが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらの動く姿を初めて見て感動したものです。

ということで、最近、このウッドストックの「ディレクターズ・カット 25周年エディッション」の4枚組のDVDを、とうとうネット通販で買ってしまい、毎日少しずつ見ているのです。

25周年エディッションというと、1994年で今から22年も昔になります。当時、この4枚組DVDは、1万5000円ぐらいしましたが、今ネット通販では、その4分の1以下で買えましたので、知らぬ間に欲望がクリックしていたのです。おかげで、ネット通販の「ダイヤモンド会員」になりましたよ(笑)。

さて、このウッドストック・フェスティバルですが、私は知っているつもりでしたが、このDVDを見て、何も知らなかったことが分かりました。最初の2枚は、ワーナーが製作公開した映画をDVD化したものです。私がテレビか弐番館で見たやつです。当時としては破格の4時間ぐらいの映画でした。ザ・フーの「サマータイム・ブルース」なんか、この映画に触発されて、シングル盤(400円)を買ったと思います。

3枚目は、映画で公開できなかったグループの演奏などが収録されていました。当時、私の大好きだったクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)がしっかり出演して「ボーン・オン・ザ・バイヨー」なんかやっていたんですね。映画ではカットされていて、出演していたこと自体知りませんでした。(このほか、ブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&T=なども出演したらしいですか、このDVDにさえ収録されていませんでした)

そして、最後の4枚目が「メイキング」映像で、スタッフや出演者の証言集です。これが見ものでした。

◇ウッドストックの名前が欲しかった?

まず最初に、明確にしなければならないことは、歴史的事実として、約40万人もの大観衆を集めたといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、ニューヨーク市郊外のウッドストックで行われていなかったということです。(二転三転して、最後は49歳の酪農家マックス・ヤスガーのベッセルにある牧場で開催されます。ヤスガーは、周囲の反対を押し切って主催者に土地を貸したため、フェスティバル後は、村八分に遭い、やむを得ずその土地を売却し、その僅か4年後の53歳でフロリダ州で急死します)

私には、ニューヨーカーどころか米国人の友達がいないので分かりませんが、ウッドストックといえば、ニューヨーカーにとっては特別な響を持つようです。お金持ちの別荘がある避暑地であり、各国から画家や詩人らが集まる芸術村として。

日本で言えば、軽井沢か、清里(GHQのポール・ラッシュが開発)か、那須辺りだと言えば分かりやすいかもしれません。

しかも、ウッドストックは、池袋モンパルナスのような芸術村です。ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスらの別荘があり、画家の国吉康雄らも住んでいたとか。

さらに言えば、ウッドストックは、既に19世紀から開発されていた由緒ある避暑地で、ニューヨーカーなら誰でも知っているのでしょう。だから、主催者は会場がベッセルに変更されても、最後までウッドストックの知名度にこだわったのです。

「無言館」の館長でもある窪島誠一郎さんの最新著作にも、このウッドストック芸術村が出てきます。戦前に活躍した日系二世の画家の話で、彼は、米国共産党に入党し、諜報活動もしたと言われます。

彼の経歴は、まるで米国共産党から日本に派遣されゾルゲ諜報団で活動した沖縄出身の日系人宮城与徳と同じではないですか!

このウッドストック芸術村には、1929年の恐慌によって、街中に失業者が溢れる不景気の30年代、平等社会を目指すと言われた理想的なユートピアの共産主義思想にかぶれた芸術家もたむろしていたわけです。(実際は、粛清の嵐だったのですが)

◇伝説になったウッドストック

そもそも、主催者代表で総合プロモーターのマイケル・ラングは当時25歳の青年で、フェスティバルの収益でウッドストックにレコーディング・スタジオをつくるつもりで、はじめたらしいのです。

1969年当時、第二次大戦直後のベビーブーマーが20歳前後の青春真っ盛りで、ベトナム反戦運動やヒッピー文化やフラワームーブメントが頂点に達していました。

結局、世の中は変わることはありませんでしたが、「ラブ&ピース」を主張する若者たちの異様な熱気が伝説として残り、その後の社会や文化に影響を与え続けました。まさに、60年代の総決算に相応しい年でした。

イエジー・スコリモフスキ監督「11 minutes」は★★★★★

たかちやん

ここ最近、仕事が終われば、真っ直ぐに家に帰り、まさに会社と自宅の往復の連続でした。

途中で道草を食わず、呑みにも行かず、賭博場にも行かず、夜の蝶にも会いに行かず、質実剛健、品行方正。

髭も剃らず、息も潜め、目立たぬように、生かさぬよう殺さぬように生きてきました。

そしたら、やはり、時々、フト、偶には、羽目を外したくなります。でも、ま、あたしのばやい、かわいいもんですよ。(笑)

昨晩は、仕事が終わって、ついに、イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」を都内のアジトで見てきました。

終わって、

「うーん、なるほどね」
「そっか、この手があったか」

と、やはり、脱帽しました。

ジグゾーパズルみたいな映画です。

色んな曰く有り気な老若男女が何の脈絡もなく登場して、何事もないような、あるような日常風景が都会のワルシャワで展開されます。

その時、教会の鐘が午後5時を知らせます。

中心になる所は、国際ホテルです。よく目立つところに、各国の旗がひらめき、日の丸が一番目立っていました。

あらすじは、昨日少し書いたので、深く立ち入るのはやめましょう。

一応、スリラー、サスペンス映画ということらしいですから、ネタをバラしたら、炎上はともかく、まあ、ルール違反ですからね。

見てのお楽しみ、てところでしょうか。

あっと驚く為五郎です(古い!)

ネットサーフィンをしていたら、この映画の感想が載っていました。匿名で性別年齢国籍不詳。流暢な英語で書かれているので、ネイティヴの英語圏の中年男性と想像されました。

そこには、はっきりと「駄作。時間とお金の無駄。何事も起きない。ポーランド人は面白いかもしれないが、他の国では全く受けないだろう」とコテンパンに貶していました。

そっかなあ?

私は、大変面白く拝見しましたけどね。何か、ハリウッド映画の批判というか、茶化しが入っていました。

何事か起きます。空に浮かぶ黒いシミ。都心のど真ん中を低空飛行で離着陸する大型ジェット、ハアハア言いながら歩く犬の目線…最後は、私の予想に反してどんでん返しが起こります。

この映画の予告編やオフィシャルサイトの写真も事前に見ていて、嗚呼、なるほど、こうやって断片が繋がるのか、と謎が解けた感じでした。

久しぶりの不良行為で、流石に大変疲れはしましたが、決して、時間とお金の無駄にはならなかったと思いますよ、匿名さん。

本日26日の読売新聞夕刊に、スコリモフスキ監督のインタビュー記事が掲載されていました。

この映画「11minutes」をつくった動機は、数年前に次男が病気で亡くなり、その次男の母親である前妻が後追い自殺をしてから、かなり落ち込み、何も手につかず、悪夢を見るようになった体験を表現したかったからだそうです。

そっかあ。スコリモフスキ監督は78歳。この歳て全く枯れていない。それに、こんな話を聞けば、見直してしまいました。訂正して満点にすることにしました。