女優沢尻エリカの薬物所持が「桜を見る会」を駆逐する話

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  上野の東京国立博物館のミュージアムショップで買った「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」(廣済堂出版、1650円) を読んでいたら、恥ずかしながら、知らないことばかりでした。

 驚きの一つは、観音様(観世音菩薩)が、阿弥陀如来の「従者」だったということです。正確には従者ではありませんが、阿弥陀如来が衆生を極楽浄土にお迎えする際、25人の菩薩を引き連れて行きますが、そのお一人が観音菩薩だったのです。そもそも、如来とは、菩薩が悟りを開いて最高位に達した人でした。阿弥陀仏も法蔵菩薩が悟りを開いて如来になったことは、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に書かれていました。(この本には書かれていませんでしたが)。

即成院の「練り供養」 Copyright par Kyoraque-sensei

 私は忘れっぽい質(たち)なのですが、この「阿弥陀如来と二十五菩薩」といえば、今年10月23日付のこのブログで「京都・泉涌寺で『練り供養』」のタイトルで書いたことがありました。京都にお住まいの京洛先生からの写真と情報提供で「10月20日(日)は、『練り供養』、正式には『衆來迎練供養会式』が、東山のふもと“天皇の御寺(みてら)“である「泉涌寺」の塔頭の一つ『即成院』でありました」と書いております。(素人目から見て不可思議なのは、泉涌寺は、真言宗なのに、浄土思想の行事があることです)

 この即成院の 阿弥陀如来と二十五菩薩」 は、国の重要文化財となっており、ホームページを見てみると、二十五菩薩とは何を指すのか、全て明らかにされています。よく知られている普賢菩薩や文殊(法自在王)菩薩、虚空菩薩、薬王菩薩などのほか、即成院には面白いことに、二十五菩薩には本来入らない如意輪観音もあり、全部で二十六体もあります。

◇JCコムサって何?

 仏像の話はひとまず置いといて、昨晩、名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「今、『桜を見る会』の不正を安倍首相は握り潰そうとしているけど、とんでもない。花見会の飲食物を提供するケータリングサービス業を、安倍政権になってから一社が独占し、年々売り上げを伸ばしている。それは『JCコムサ』という会社で、主にピザの製造宅配から名を上げて、外食産業に進出した会社や。そのJCコムサの大河原愛子社長と安倍昭恵夫人とは昵懇の仲で、愛子社長の夫である毅CEOは、安倍首相と昵懇の仲、愛子社長の弟は米ドミノ・ピザの日本営業権を持つ起業家で、安倍夫妻と昵懇の仲ちゅうわけや」といきなりまくし立ててきました。

 何の話なのか、さっぱり分からなかったので、調べてみたら、BIGLOBEニュースの「『桜を見る会』公金不正に新疑惑! ケータリング業者は安倍首相と昭恵夫人のお友達だった 不自然な入札、価格も倍以上に」に出ている話だったことが分かりました(笑)。

 もう一つ、安倍首相と高木邦格理事長との関係が隠蔽されたと言われる国際医療福祉大学の問題についても、書こうかと思いましたが、あまり、他人様の褌で相撲を取っているわけにはいかず、今日はこの辺でやめておきます。

 しかし、政府首脳は、警察に対して、大物女優沢尻エリカの薬物所持をマスコミにリークさせるなど、自分たちに都合の悪い「桜を見る会」疑惑をカモフラージュしようと躍起になっているように見えます。確かに、ワイドショーは、女優さんの話ばかりで、桜は消えてしまっているなあ…。

日蓮主義とは何だったのか

 大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか」(講談社)をやっと読了しました。668ページの大作ですから、2週間ぐらいかかりました。

 この本については、前半を読んだ段階で、11月6日付のこのブログでも取り上げましたが、通読してみて、少し印象が変わりました。

 前半は、明治から大正にかけて、田中智学(国柱会)や本多日生(顕本法華宗管長)、高山樗牛(文藝評論家、思想家)ら第1世代による日蓮主義の創設、確立、普及の話でしたが、後半に入ると、井上日召(血盟団事件)、北一輝(2.26事件)、宮沢賢治(詩人)、石原莞爾(満洲事変)ら第2世代による日蓮主義の実践の話が中心となります。

 この中で、最も多くの紙数を費やしていたのが、石原莞爾でした。日本の軍人の中でも最も毀誉褒貶の高い複雑怪奇な人物です。

 満州事変を起こした中心人物の一人ながら、東亜連盟主義思想から中国戦線の拡大を断固として反対して、逆に左遷され、特に東条英機とはソリが合わず、徹底的に反抗したことから、ついには予備役に回され、軍服を脱いで、立命館大学の教壇に立ちます。これが、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月のことでしたから、戦後になって、石原はGHQから戦犯に指名されることはありませんでした。

 ともかく、石原莞爾は軍人という以上に思想家として知名度を高めます。「東亜聯盟建設綱領」(石原の個人秘書名で出版)、「昭和維新論」「世界最終戦争論」など多くの著作も発表します。いずれも、「日蓮思想」に深く根差した思想を表明した著作です。石原は田中智学の創立した国柱会の熱烈な信行員でした。

 私自身は、昭和初期の経済恐慌を背景に、血盟団事件や5・15事件、相沢事件、2・26事件などが起きて、 日本全体が軍事ファッショ化する歴史について、日本史の中で最も興味があります。その時代を、当時、日本中を席捲した宗教・思想を中心にこの本は描かれているので、大変勉強になりました。

 「日蓮思想」は、戦争を正当化した「八紘一宇」(田中智学が造語)や石原莞爾の例に見られるように、日本が敗戦を迎えるまで、太平洋戦争も含めてずっと、他の宗派を凌駕して圧倒的な影響を勝ち得ていたと思っていたのですが、違うんですね。特に昭和14年に田中智学が亡くなってからは、タガが外れたように総攻撃が熾烈化します。

 「曼荼羅国神勧請不敬事件」や「日蓮遺文削除問題」などが起こり、日蓮主義者たちは徹底的に攻撃されるのです。その攻撃側の中心人物が「原理日本」を主宰する蓑田胸喜です。この人は、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃して葬り去った人物として有名です。胸喜は「むねき」ですが、「きょうき」と読んで恐れられました。

 蓑田らは、日蓮主義者たちが、国主法従説(国家が宗教に優先する)を装いながら、法主国従説に立ち、天皇よりも日蓮や法華経を上位とする考え方が国体護持に反すると我慢ならなかったのでした。

 面白いことに(と言ってはいけませんが)、蓑田胸喜が東京帝大哲学科宗教学宗教史学科時代に師事したのは、親鸞の信奉者だった右翼思想家の三井甲之だったいうのですから、仏教宗派の勢力争いにも見えなくもないです。

 いずれにせよ、昭和16年になると、治安維持法も改正されて、全ての既成仏教や大本教(大正時代から弾圧)などの新興宗教、キリスト教など、国家神道以外のほとんどの宗教への弾圧が徹底化されます。

 日蓮主義は、田中智学らのような国家主義と結びついた思想のほかに、本多日生思想から離れた妹尾義郎らを中心にした仏教社会主義もありました。明治末から隆盛した社会主義や労働組合運動などの時代的背景があります。

 本書では、日蓮や智学らが唱える「王仏冥合理論」や「国立戒壇論」などにも深く踏み込んで、戦後の創価学会の動きにも触れています。

かなりの労作ですから、皆さんも心してかかってください。

私自身は、父親の影響で、子どもの頃に意味も分からず法華経を読誦してきましたが、この本を読むと、日蓮思想には、四箇格言(「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という痛烈な他宗批判)があり、否が応でも強制的に教団に引きずり込む「折伏」という手段があり、明治以降の日蓮主義には、それが眼目にみえます。しかも、日蓮主義には、思想だけではなく、即、行動が伴います。他宗には見られない過激な信念があります。

宗教とはそういうものかも知れませんが、私自身は、どうもそのような思想や組織には馴染めません。まあ、信仰失格者ながら、仏教思想の勉強は続けていきたいと思ってます。

法然の偉大さ、阿弥陀仏とは何か=柳宗悦著「南無阿弥陀仏」

 今日もあり おほけなくも

 仏法に「諸法無我」という教えがあります。「あらゆるものは我一人のものではない」という意味です。こうして私たちが今日も生きていけるのは、色々な因縁が組み合わさっているものであって、決して自己一人の力によるものではない。多くの人の力によって支えられているお蔭です。他力思想ですね。 「おほけなくも」というのは「かたじけなくも」「勿体なくも」という意味です。 今日、生きていけるということは、無量の恩に浴しているということで、このことに気が付けば、人の一生は謝恩の連続であろうという教えです。

 以上は、今から64年前に出版された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)からの引用ですが、この後、現在、諸々の病苦や苦悩、苦難に苛まれて逆境にいる人たちに対して、柳宗悦は「ある人は自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定しておらぬ。そう分かれば、何所に執着する苦があり、楽があろう。こうして生きているそのことが勿体ないのである。だから今日生きることは、報恩の行として生かすべきである。かくして生きることの意味を教わる」と読者を励ましてくれます。

 こうした意味を理解した上でもう一度「今日もあり おほけなくも」と呟いてみるだけでも、「今日も辛いことがあっても頑張って生きていこう」と勇気が湧いてきます。

◇法然のどこが偉大なのか?

柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 を読むと、目から鱗が落ちる話ばかり出てきます。特筆すべきことは、何故、浄土宗の開祖法然房源空が、日本思想史上稀にみる革命的な思想家であり、宗教家だったのかということを明快に示してくれたことです。

 それは、法然が著しい二つの価値顚倒(てんとう)を行ったことだと、柳宗悦は断じています。

 一つは称名の優位、もう一つは他力の優位です。

 念仏を唱える際、二つの段階があります。一つは心に仏を観ずること(観仏)、もう一つは口で仏を称えること(称名)です。それまでは、法然の師叡空をはじめ、観想念仏こそが全てで、称名念仏は言ってみれば二の次でした。それを法然は、師の教えに逆らってまでして、称名の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。厳しい修行をして時間をかけてやっと観仏できるようになるよりも、ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えるだけで、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくれるということです。そこには身分貴賤や貧富や男女など差別はないのです。煩悩の多い凡夫でも悪人でも救われるという思想です。

 となると、同時に自力でなければ解脱できない聖道門よりも、阿弥陀如来が救ってくれる他力による浄土門の道を優位に置くことになります。これまで自力の思想が優位だったのに、法然は、他力の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。まさに、コペルニクス的転換です。

 これらの思想がいかに過激であったか、については、南都北嶺の旧仏教から絶えざる迫害を受け、温厚な法然上人も流罪の晩年を送り、法然の主要著作物の「選択本願念仏集」の版木が燃やされたり、彼の門弟が死刑に処せられたりした歴史が証明しています。

◇阿弥陀様とは誰のことか?

 僧侶や門徒や仏教学者にとって、私が今まで書いてきたことも、これから書くことも、あまりにも自明なことかもしれませんが、私自身はこの本からは本当に多くのことを学びました。何しろ、基本的な「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏が何かさえ知らなかったのですから。

 阿弥陀如来は、もともと普通の人だったというのです。在俗の者を「居士」と言いますが、もしかしたら煩悩の多い凡夫だったのかもしれません。それが、真理を求め、求道に身命を捧げる「菩提心」を起こして修行し、法蔵菩薩になります。法に身を捧げる沙門となり、その沙門がついに正覚を得て(悟りを開いて)、仏になったというのです。ですから、阿弥陀仏とは西洋的な「神」とは違うのです。

 そして、浄土門で最も重要視されるのが、「無量寿経」の中にある四十八の大願で、その中でも特に「念仏の往生」と呼ばれる第十八願が重視されます。それらは法蔵菩薩が建てた願で、こう書かれています。

 「設(たとえ)、我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ」(たとえ私〈=法蔵菩薩〉が仏〈=阿弥陀如来〉と成り得るとしても、もし、もろもろの人々が心から信心を起こして浄土に往きたいと願い、わずか十声でも名号を称える場合、それらの人々がもし浄土に生まれ得ないのなら、私は仏になろうとは思わぬ)

 激烈なお言葉ですね。

 これで思い出したのが、クリスチャンの友人のことです。彼は、若い頃に葬式仏教に堕した現代仏教に絶望して洗礼を受けたのですが、晩年になって急にキリスト教徒になろうとするインテリらを批判して、「天国どろぼう」という言葉があることを教えてくれました。晩年になって死の恐怖から逃れたいがために、急に洗礼を受けて天国に行こうとする人を指すらしいのです。

 私は、キリスト教を批判するつもりは毛頭ありませんが、随分と心が狭い思想に思えます。むしろ、この「もし生まれずんば、正覚を取らじ」( 信心を起こしたもろもろの人々が浄土に生まれないのなら、自分は仏にならぬ)という誓いとも言える「第十八願」の方が大いに惹かれます。

 好むと好まざるに関わらず、仏教、それに浄土思想は、文学、美術、建築、彫刻、音楽、芸能など日本文化に多大な影響を与え、何と言っても、我々の先祖である日本人のDNAに染み込んだもので、逃れられないような宿命にさえ感じます。

 どんな凡夫でも阿弥陀如来は最後まで衆生を見捨てずに救ってくれるという思想は、我々の心を穏やかにしてくれ、勇気づけてくれさえします。「天国どろぼう」だの「信者以外お断り」といった思想ではないのですから。

 私は他宗を排撃したり、布施を強要したり、信徒にならなければ地獄に堕ちると恐喝のように折伏する一部の宗教や宗派に与するつもりは全くありません。ですから、これをお読みになった皆さんにも、日本仏教の浄土思想を見直してもらうよう強制するつもりは全くありません。

 ただ、自分自身が共鳴、共感し、もう少し勉強したいと思っただけなのです。もし、これを読んで皆さんも共感されたのでしたら、この本を手に取ってみたら如何でしょうか。

  柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 では、浄土真宗の開祖親鸞よりも時宗の開祖一遍上人について、かなりの紙幅を費やしておりましたから、またいつか、一遍について書くと思いますが、取り敢えず、茲でひとまず擱筆します。

日本浄土思想に魅せられて

 やはり、「ご縁」とは不思議なもので、このブログを通して面識を得ました京都市左京区にある浄土宗青龍山安養寺の村上純一住職とは、何かの縁(えにし)でつながり、御指導、御鞭撻を賜っております。

 もし、村上住職と知り合わなかったら、これほどまでに日本浄土思想に興味を持たずに生涯を終えたと思います。

 特に、浄土宗に関しては、根本的に誤解しておりました。自らの不勉強を晒して告白しますと、浄土宗とは、只管「南無阿弥陀仏」を唱えて、極楽浄土に往生することを願う宗教とばかり思っておりました。成仏することが目的の宗教です。柄の悪い言い方をすれば、俗世間や現実の生活よりもあの世の方が大切ではないかと誤解しておりました。

 私が一時期、仏教思想から離れたのは、仏教は現実世界を苦界(穢土)とみなし、四苦八苦と煩悩にあふれ、これを克服するには、苦行と修行を経て、悟りの境地に達しなければならないし、解脱もできないという思想でした。

 私は弱い人間ですし、お酒も飲み、肉食します。千日回峰行など苦しい修行に耐えることはできません。日々の生活の中で、腹を立てることが多く、悟りを開くことなど無理です。それに、凡夫である在家の人間としては、仙人のように霞を喰って生きていくわけにはいかず、仕事をしなければなりません。あの世よりも生きている間の現実の生活の方が大切です。

 人生が苦であるのなら、そのまま抱えて、極楽浄土に行けなくても結構です、という生意気な態度でした。そもそも、「人生とは苦なり」と断言する仏教は、いかにもしんどい。

 そのような疑問を抱えて、今夏、村上住職にお会いしたところ、「浄土宗にも現世利益がありますよ」とポツリと仰るではありませんか。その時、意味が分かりませんでしたが、後に、村上住職から「どうか法然上人の『選択本願念仏集』をお読みください。いきなり原文にぶち当たると大変かと存じますから、解説付きの現代語訳からお始めになるよう衷心からお勧め申し上げます。…どうかご精進ください」というメールを頂き、これに刺激を受けて、ここ1カ月間近く、少しずつ関連書籍も読んでいくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになったのです。

 まず、現世利益(げんぜりやく)は、「げんせいのりえき」と読むと、何かお金儲けのことばかりに思えますが、仏教の場合は、何よりも、魂の救済と心の穏やかさを得るということが分かりました。勿論、「商売繁盛」やら「出世願望」やら「子宝に恵まれますように」といった現世利益もありますが、宗教ですから、お金では買えない「心の平安」が一番の現世利益になります。(と、私は得心しました)「安心立命(あんじんりゅうみょう)」です。

 浄土宗の場合、その上で(つまり、現世利益を肯定した上で)、心から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土への往生を願うという宗教でした。たった6文字ですから、千日回峰行のような「難行」ではなく、「易行」です。それでも、阿弥陀如来は、どんな凡夫・悪人でも最後まで見捨てずにお救い(済度)してくださるというのです。

 宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝来してから600年以上は、仏教は皇室と貴族のためのものでした。それが平安末期になって、庶民にまで開放したのが法然坊源空上人でした。まさに、身分格差と男女の枠を乗り越えた革命的でコペルニクス的展開でした。

 では、なぜ、法然(1133~1212年)が、仏教を超えて日本思想史上最も偉大な思想家・哲学者といわれるのか。浄土教は、何も法然が考案したわけではなく、法然が選択した三部経( 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経 」 )などの経典として我が国に伝わり、空也を始め、「往生要集」を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖良忍らの先達がいました。なぜ、 天台宗の比叡山で修行をしていた法然が自ら宗派として独立せざるを得なかったのか?

 法然とその弟子最長老の信空没後、浄土宗は色々な分派に分かれたが、なぜ、弁長の鎮西派と証空の西山派が現在も残る二大宗派になったのか?

 法然の忠実な弟子だった親鸞は、自ら浄土真宗という新教団をつくる意志があったのかどうか?

 時宗の開祖一遍上人は、浄土宗の流れを汲む。となると、鎮西派と西山派と時宗の違いは何か?

 そもそも、南無阿弥陀仏とは何か、どういう意味なのか?

 ーそんな愚問に取りつかれていたところ、先日、偶然にも、本屋さんで、それらの疑問にほとんど全て答えてくれる本に出合ったのです。昭和30年(1955年)に発行された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」という本(岩波文庫)です。

 柳宗悦といえば、民藝運動を推進した美術史研究家、美術評論家じゃありませんか。何で、美術専門家の彼が宗教書を?

(つづく)

「荘子」の凄さを痛感しました

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 中国の思想「荘子」(岸陽子訳、徳間書店)を先日、読了しましたが、もうちょっと凄い本かと思っていたので、ほんの少しだけ期待外れでした。

 同じ老荘思想でも、「老子」は、いささか形式的な道徳臭があり、「荘子」は少し皮肉が効き過ぎ。むしろ、「列子」が教訓的な逸話が多くて、読み応えがあり、一番面白かったでした。

 中国の古典には、現代でも使われる色々な言葉の「語源」になっていますが、「包丁」が、この「荘子」の出典だったとは、初めて知りました。「包」とは料理人のことで、「丁」は人名。「荘子」の「養生主(ようせいしゅ)」の中に出てきますが、本来は、「名コックの丁さん」という意味。刃物使いの名人ということから、いつしか日本では刃物の代名詞ホウチョウになったといいます。

 「荘子」では、「無用の有用」や「胡蝶の夢」、「無心の境地」、「無知の知」などひと捻りもふた捻りもある有名な思想が展開されますが、意外にも孔子に対する批判に溢れています。

 孔丘、つまり孔子について、「博識ぶって聖人を気どり、尊大な身振りで世の人々を幻惑し、やたらに悲壮がって名を売り歩く手合いだ。道というのはそんなさかしらを捨て、外形を忘れてしまわなければ体得できるものではない。天下国家を論じる暇に、少しは我が身を振り返ってみたらどうだ」(「外篇」)と、野良で働く老人に語らせ、「雑篇」では、盗賊の頭、盗せきに「あの魯の国の偽君子か。…奇妙な言葉をあやつって、文王、武王を担ぎまわる。飾り立てた冠と、牛革の帯という勿体ぶった服装で、有害な無益な饒舌をもてあそぶ。働きもせず飲み食いする。自分勝手な規準で是非善悪を論じたてて、諸国の君主をたぶらかし、学者たちを脇道に引っ張り込む。孝行などと下らんことを唱導する。それもこれも、あわよくば自分が王侯貴族になりすまそうという魂胆だからだ」と語らせています。

 「論語」を人生の指針にした渋沢栄一が聞いたら、さぞかし怒りまくるでしょうね。

とはいえ、これが中国思想の懐の深さかもしれません。許容の深さというか、「権威」をあざ笑う庶民の蟷螂の斧のようなささやかな抵抗といえるかもしれません。

 荘子を書いたとされる荘周は、仕官を断り続けて、襤褸を着て、食事にも困る極貧生活を送っていたとされますから、特にそう感じます。

 やはり、最初に書いたことを訂正して「凄い本」だと言わざるを得ませんね。

森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」を読む

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 最近の週末は台風(予報)のせいで、城めぐりができず、家で本ばっかり読んでいました。ガリ勉ですね。というのは、このブログの愛読者の皆様方には御承知の通り(笑)。

 でも、読書量は1カ月に8冊程度ではないでしょうか。

 かつて、もう30年ぐらい昔ですが、1カ月に40冊ぐらい読んでいました。1日1冊以上です。有り得ないでしょう。でも本当です。仕事(文藝担当記者)だったからです(笑)。通勤電車の中は当然、会社の勤務中も、信号待ちの立ったままでも、食事と睡眠時間を削り、暇さえあれば何処でもかしこでも読んでいました。まあ、それぐらいやらないと1日1冊以上は読めません。しかし、1年も続かなかったと思います。7カ月ぐらいで眼精と頭脳疲労でダウンして、1カ月25冊ぐらいにペースダウンしました。

 今はもうそんな体力も気力もありません。でも、この年齢で1カ月10冊弱は、相当な量だと思っています。

 というわけで、相変わらずの修行僧のような苦しい読書三昧です。今、もうすぐ読み終わりそうな本が、例の沖縄の上里さんから送って頂いた森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社、2019年6月23日初版)です。

 「琉球新報」社長などを歴任した反骨のジャーナリスト池宮城秀意(いけみやぐしく・しゅうい)の生涯を追ったノンフィクションの評伝です。

 よく「学者は易しいことを難しく書き、新聞記者は難しいことを易しく書く」と言われますが、その通りですね。著者の森口氏は、フリージャーナリストですが、かつて琉球新報の社会部記者を務めていたようで、この本は大変読みやすいです。筆が立つ、と言いますか、実に文章がうまい人です。お蔭で、沖縄独特の難読語の人名や地名が多く出てきても、すんなりと脳髄に入って来ました。

 池宮城秀意(1907~89)は、戦中戦後派のジャーナリストです。早大を卒業し、社会主義運動家として活動していたところ、治安維持法で逮捕され、3年もの牢獄生活を経て、「沖縄日報」の記者になります。しかし、新聞社の在り方に嫌気がさして退職し、沖縄県立図書館の司書になります。沖縄戦となり、38歳で徴兵(正確には防衛召集)され、死屍累々の戦場で「銃を持たない二等兵」として生き抜きます。戦後は請われて再びジャーナリズムの世界に戻り、「ウルマ新報(後に琉球新報)」編集長、一旦、退職してから再び返り咲いて、同社社長を務めますが、経営悪化の責任を取って辞任します。その後も沖縄の米軍基地問題や、自然破壊などについて発言を続けます。

 と、書きながら、私自身はこの本を読むまでは、池宮城秀意のことは全く知りませんでした。時代のせいなのか、波乱万丈の生涯です。子ども7人の一家の大黒柱なのに、自分の信念のために、あっさりと新聞社を退職してしまうところは、とても常人とは思えません。まさに反骨のジャーナリストです。

 上里さんが何故、私にこの本を送ってくださったのか、深い理由は分かりませんが、「もっと勉強してください」ということだったのかもしれません。

◇沖縄の悲劇

 沖縄の学童を本土に疎開させるため運航された「対馬丸」 (6754トン) は昭和19年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没します。犠牲者は引率教師を含めて1484人。この「対馬丸」の話は有名で私も知っておりましたが、これ以前にも「湖南丸」(2627トン)「嘉義丸」(2509トン)など4隻もの疎開船が撃沈されて、合わせて1490人の学童らが亡くなっていたことは知りませんでした。戦争とはいえ、無辜の疎開学童を殺害するとは酷いことをするものです。

 この本の88ページに出てきますが、あの沖縄戦での戦死没者の総数は、国がまとめたものによるとー。

 日本軍側(沖縄県以外の出身者)6万5908人

     (沖縄県出身者)2万8228人

 沖縄県民 9万4000人

 米軍側(含む行方不明者=米陸軍省まとめ)1万2520人

 昭和15年の沖縄県の人口は57万4579人だったことから(昭和20年は国勢調査が実施できず)、およそ沖縄県民の5人1人が先の戦争で亡くなったことになります。

 つまり、戦後の日本の平和は沖縄県民の犠牲の上で成り立ったと言っても過言ではありません。

 しかも、今でも 国土面積の0.6%しかない沖縄県に、 全国の米軍専用施設面積の70%が集中しているという事実があるというのに、本土の多くの人は無関心か他人事のように思っています。

 私のような凡俗が何を言っても始まりませんが、もう少し沖縄問題に関心を持つべきではないでしょうか。「沖縄の県紙2紙はつぶさなあかん」と暴言を吐く人間が、この世に存在しますが、江戸幕府初期に島津薩摩藩による「琉球征伐」を受けて以来、ヤマトンチューに苦しめられ続けてきた沖縄の人たちが可哀想じゃないか。

ハイエク著「隷属への道」を読む

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 今や古典的名著と言われているフリードリヒ・ハイエク(1899~1992)著、西山千明訳「隷属への道」(春秋社)をやっと読了しました。超難解。読破するのに10日間掛かりました。

 この本は発売と同時に売り切れ店が続出したらしいのですが、世界のインテリの皆様の頭の良さとその構造には参りました。訳文だけがそうなのかもしれませんが、私にはスッと腑に落ちてくれないのです。例えばー。

 経済活動に対する統制を完全に中央集権化してしまうという考えは、今でも多くの人々をぞっとさせる。単にそれが途方もなく困難だからということではなく、ただ一つの中央機関によってすべてのことが統制されるという考えそのものが、強い恐怖を抱かせるのである。しかし、なお、われわれがそれへ向かって急速に歩んでいるのは、実はいまだに大半の人々が「原子論的」な競争体制と中央集権的統制の間に「中庸の道」があると信じていることが大きな原因となっているのである。(48ページ)

 本文の中でも比較的分かりやすい部分を抽出してみましたが、分かりやすいといっても、これぐらいなのです。(しかし、お経のような文章も次第に慣れていって、頭に反芻するようになります)

 この本の訳者でハイエクの弟子に当たる西山教授の長い序文によると、「隷属への道」は、ハイエクが、第2次大戦真っ只中の1942年から44年にかけて継続的に書かれた論文をまとめたもので、米国ではどの出版社も出版を拒否されたものの、やっとシカゴ大学出版部が引き受けてくれることになり、1944年5月に刊行されるや否や店頭から飛ぶように売れ、たちまち世界的ベストセラーとなり、同年中に独語、スウェーデン語、仏語、西語、葡語…等々に翻訳されていったといいます。

 西山教授の解説にある通り、同書は、戦前の欧米で、なぜ自由主義や自由経済体制を放棄して、社会主義や共産主義やナチズムやファシズムといった国家社会主義や巨大な政府主義が台頭するようになったかを深遠な洞察力で詳細に分析したものです。

 私がこの本について初めて知ったのは、1993年9月に出版された大須賀瑞夫インタヴュー「田中清玄自伝」(文藝春秋)でした。ところが、また訳者の西山教授によると、彼がハイエク先生から同書の日本語訳を頼まれたのは1954年でしたが、自分自身の著書と論文に忙殺され、1992年3月にハイエク先生が逝去するまで翻訳出版できなかったといいます。やっと出版できたのが92年10月で、それまで日本ではほとんど読まれない「幻のベストセラー」だったといいます。

 いずれにせよ、この本が1942年から44年にかけての第2次世界大戦真っ只中に執筆されたことは驚くべき事実です。この時点で、まだヒトラーは健在であり、ナチズムの勢いはあったにも関わらず、著者は、既にナチスの敗北を予想し戦後処理問題にさえ言及しています。

 この本で最も注目すべきことは、全体主義は社会主義から生まれたことを喝破したことです。理想的な社会主義を追求することによって、多くの国民の自由が奪われ、独裁的なファシズムに移行することを見抜きました。ハイエクはこう書きます。

 国家社会主義を単に理性に対する反乱とみなし、したがってどんな知的論拠も持っていない非合理的な運動であるとするのは、人々の間に後半に広まっている誤りである。もしも国家社会主義がこのようなものであれば、この運動は実際よりもはるかに危険性が少ないだろう。だが、これほど真実からかけ離れていて、人々を誤らせる見方もない。国家社会主義の教義は、人類の思想の長期にわたるひとつの発展が、その最高潮に達した結果として出現したものであり、ドイツの国境を越えて他の国々にも大きな影響を与えた思想家たちが出発点とした最初の前提が真に評価できるものかどうかはともあれ、この新しい教義を生み出した人々の考え方が、欧州の思想全体に対してきわめて大きな刻印を残したという事実は否定することができない。そして彼らの思想体系は冷酷と言えるほどの徹底的な首尾一貫性をもって発展させられてきたのであり、出発点となった前提はいったん受け入れてしまえば、そこから導き出される論理のからくりから逃がれることはまったく不可能となる。こうして発生してきた体系こそ集産主義なのであるが、それが個人主義の伝統から集産主義の実現を妨げるかもしれないあらゆる痕跡を取り去ることによって生まれてきたのである。(222ページ)

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 随分長い文章を引用させて頂きましたが、ハイエクの入門書やネット情報だけで、ハイエクの思想を知ったつもりになってはいけないと思ったため、わざわざ長く引用してみました。

 この本の段階では、まだあまり書かれていませんが、このほかハイエクは、収容所や粛清で恐怖独裁政治を敷いたソ連共産党のスターリズムを批判するだけでなく、社会主義が採用する「計画経済」に倣って公共事業を起こすケインズのやり方もいずれ立ちいかなくなるということで批判し、左派からも右派からも批判されたことはよく知られています。

 ハイエクが最後まで主張した自由経済主義も、フリードマンのような極端な新自由主義を生んで、世界的な格差拡大社会になったことを指摘する識者もいますが、私自身はまだそこまで語る資格はありません。

 ただ、世界的にも極めて優秀で真面目なドイツ人が、あまりにも純粋に理想を追求して国家社会主義を民主的に選んだことが、逆説的に極めて不自由な独裁政権を生むことにつながったというハイエクの分析には共鳴します。

 ハイエクは、1974年にノーベル経済学賞を受賞。

「ZAITEN」は最後の反権力雑誌?

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「今のメディアは駄目ですね。すっかり大政翼賛会化してしまい、権力者のご機嫌ばかり伺って批判さえしない。実に嘆かわしい」と憤慨しているのが、名古屋にお住まいの篠田先生です。

 「どこのテレビも新聞も週刊誌も安倍首相を全く批判しないで、外国ばかり批判している。まるで大本営発表ですね。せめて『反権力』を貫いているのは、『ZAITEN(ザイテン)』ぐらいですよ。今月発売の9月号では学者政商『竹中平蔵』を批判する記事を掲載しています。書かれた本人は屁とも思わないでしょうけどね」

 「『ザイテン』って何ですか?」と私。

「昔は『財界展望』と言ってましたがね。2006年10月号からリニューアルしたようです。1956年創刊の老舗経済誌です。まあ、最初は総会屋的な雑誌でしたが、『噂の真相』がなくなった今では唯一といっていいくらい、大手企業の経営者や政治家、官僚らを批判しているメディアですよ」

 「いやあ、ビジネス誌なら、『東洋経済』や『ダイヤモンド』などの週刊誌はたまに買いますが、月刊誌は、どうも経営者のヨイショ・インタビュー記事ばかり載っているイメージがあるんですよね。買ったことはないし、昔、ゴルフ場のラウンジでザッと見たぐらいですよ」

「月刊経済誌の老舗中の老舗は、三鬼陽之助が1953年に創刊した『財界』(隔週発行)でしょうなあ。三鬼陽之助(1907~2002年)はもともと、ダイヤモンドと東洋経済で記者、編集長などを歴任した人です。『財界四天王』の造語をつくるなど経営評論家として名を成しました。もう一つは、『経済界』(同)です。佐藤正忠(1928~2013)が1964年に創刊しました。佐藤正忠は、リコーの市村清社長の私設秘書を務め、あの銀座4丁目の三愛ビルの用地確保のために、最後の酒屋の敷地を買収することに成功した人です。こんなことブログに書いちゃ駄目ですよ」

「へー」(と曖昧な返事)

 ということで、初めて「ZAITEN」なる経済誌を買ってみました。1080円。

 確かに、「まだいた!学者政商 『竹中平蔵』の新世界」を読むとよく取材されています。感想は「酷い人だなあ」の一言です。

 小泉政権の下で、経済財政政策担当大臣などを歴任し、非正規雇用をドカスカ増やして格差社会をつくった元凶としてますね。しかも御本人は、江戸時代に「人買い人足」と呼ばれた派遣業界の会長に就任して、雇用の規制緩和をしているわけですから、胴元が賭場で、自分が作ったルールで好きなように儲けているようなものです。

 こういう人を国民は国会議員として選出し、今でも、安倍政権の「民間議員」として森林ビジネスに暗躍し、大手マスコミは「識者」として採用しているわけですかぁ…。(肩書は東洋大学教授ながら、「本職」のビジネス稼業が忙しいので、ほとんどキャンパスに現れず、学生らから「いかがなものか」とツイッターや立看板などで抗議が出ているそうな)

 他に「三菱重工が辿る『東芝の来た道』」「ヤマト運輸 休みは増えたが減らない仕事、現場は昼飯を食う暇もなし」といった硬派記事もあれば、経営者の私生活や近況などを暴き、「あの人の自宅」というタイトルで写真付きで紹介するちょっと趣味の悪い連載記事などもあります。

 一体どういう人がこの雑誌を定期購読されているんでしょうか?少しだけ興味があります。

今さらながらの石川達三「生きている兵隊」

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 ここ数日、どうも気分が落ち込んで、不安定だったのは、この本でのせいでした。

 石川達三著「生きている兵隊」伏字復刻版(中央公論新社)という本です。

 この本は、確か辺見庸著「1937(イクミナ)」(金曜日、2015年10月22日初版)でも引用されていたと思いますが、他の本にも引用されていて、いつか読んでみたいと思っていました。

 この本を貸してくれたのは、遠藤君でした。彼は「貧困層」に入るほど稼ぎが少ない階級なのに、月に2万円も払って「トランクルーム」を借りています。自宅に収まりきれない蔵書を収容するためです。2万冊はあるといいます。死んでも天国に持って行くつもりなのでしょう。

私はその全く逆で、自分の蔵書は売ったか、なくしたかで、ほとんどないので、有難いことに、よく彼から借りています。

 「生きている兵隊」は、1937年から38年にかけての中国大陸戦線で、皇軍と言われた日本軍による中国の民間人殺害や姑娘(クーニヤ)と呼ばれた若い女性狩りなどがあからさまに描かれています。

 1937年12月、32歳の石川達三が、中央公論社の特派員として上海から南京までの中国戦線に派遣されて、自分の目で見て体験し、取材したことを小説仕立てにしたものですが、ほぼ事実に近いようです。人と人が殺しあう戦争という狂気の世界、そして自分もいつ殺されるのか分からない極限状態の中です。ろくに取り調べもせず、裁判にかけることなく、怪しいという容疑で、簡単に捕虜や民間人の首を切って処刑したりします。「従軍僧」と呼ばれた僧侶も、シャベルを武器に敵兵の頭を割ったりして殺害したりします。僧侶がそんなことを?!

激しい戦闘の中で次々と戦友を失い、感覚が麻痺して人間性を失っていく兵士たち。読んでいて、自分自身も弾丸や手榴弾が飛び交う最前線に送り込まれたような気分で、読み進めるのが嫌になってきます。

巻末解説の半藤一利氏によると、この作品は、1938年2月発売の「中央公論」3月号で発表されましたが、書店に並ぶ暇もなく内務省通達で発売禁止。一般読者の目に触れるようになったのは戦後になってからだといいます。

 この作品で、石川達三は新聞紙法違反で起訴され、1939年4月の第二回公判で、禁錮4月、執行猶予3年の有罪判決を受けます。その理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍規弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項を執筆したため」でした。

この本を電車の中で読んでいると、車内の周囲では若い勤労者が男女ともスマホ・ゲームに興じています。かといえば、中国人の2人が周囲を支配するような異様に大きな声でがなり合っています。彼らが何を話しているのか分かりませんが、この本を読んでいると、あまりにものギャップに頭が錯乱しそうになりました。

ハイエクと親交を結んだ田中清玄

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 8月のお盆の頃は、マスコミ業界では「夏枯れ」と言って、あまり大きなニュースがないので、「暇ネタ」ばかりを探します。

 今年の場合は、あおり運転をして真面目な市民を殴ったチンピラ(失礼!彼は天王寺高~関学~キーエンスの元エリートでした)の捕り物帖ばかりやっていて、いい加減、嫌になりましたね。普段なら三面記事の片隅にベタで載るような事案でも、テレビはニュースからワイドショーまで繰り返し垂れ流していました。文化人類学者の山口真男(1931~2013)は「マスコミは、存在自体が悪だ」と喝破したそうですが、長年マスコミ業界で飯を喰ってきた私自身も耳が痛いですね。

 マスコミはもっと信頼を回復して頑張らなければいけませんよ。今はマスコミより、ネットの方が怖い時代になりましたからね。 あおり運転のチンピラに同乗していた女容疑者を、変な正義感を持った若者が、間違って関係のない善良な市民をネットに拡散したため、被害者は、業務上でも精神的にも大変な目に遭われました。

 私も変なことは書かないよう気をつけます。

 さて、先週読了した大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋)の余波がいまだに続いています。

 「26年ぶりの再読」と書きましたが、当時(1993年)は今ほどインターネットも発達しておらず、情報も不足していて「憶測」ばかり氾濫していました。

 今では検索すれば、簡単に「田中清玄」は出てきます。でも、ウィキペディアには「CIA協力者」と書かれていて驚いてしまいました。「自伝」を読む限り、田中清玄ほど反米主義者はいないと思ったからです。(戦前は共産主義者だったものの、スターリンに対する不信は筋金入りでしたので、反ソ主義者でもありました)日本政府の対米追随政策を絶えず批判したり、「ジャップの野郎が」と威張りくさる米国人と高級バーで喧嘩しそうになったり…。何と、彼は「そのうち、『アメリカ・イズ・ナンバーワン』と言う大統領が出てくる」と予言までしてますからね。

 「自伝」によると、田中清玄は、戦後まもなく昭和天皇に謁見したり、先の天皇陛下の訪中を実現させたり、まさに黒幕として活躍しました。外務省や右翼団体からの抗議などを乗り越えて、 戦前から親交のあった鄧小平が中国の最高実力者となったため、 個人で外交を成し遂げたのは大したものです。

 また、韓国やインドネシア、フィリピンでの利権を独占しようとする岸信介=河野一郎=児玉誉士夫=矢次一夫ラインとは最後まで敵対しました。

 自伝の最後の方では、ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエク教授との交流にも触れています。ハプスブルク家の家長オットー大公から紹介されたらしいのですが、ハイエクはハプスブルク家の家臣の家系だったそうです。

 ハイエクは、戦前からマルクス経済もケインズ経済も否定して、新自由主義経済を提唱した人です。彼が設立したモンペルラン・ソサイエティー(共産主義や計画経済に反対し、自由主義経済を推進する目的に仏南部のモンペルランに設立)に田中清玄も1961年から参加しましたが、間もなくして、フリードマンらシカゴ学派が大挙加入し、田中清玄は「彼らはユダヤ優先主義ばかり唱えるのでやめてしまった」といいます。

 それでも、ハイエク教授との個人的交流を生涯続け、京都大学の今西錦司教授と対談会を開催したりします。

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 私は、哲学者でもあるハイエクについては名前だけしか知らなかったので、彼の代表作である「隷属への道」をいつか読んでみようかと思っています。マル経も、そしてケインジアンまでも否定したため、両派から集中砲火を浴びながら一切怯まず、学説を曲げなかったところが凄い。田中清玄とは意気投合するところがあったのでしょう。