「西洋の自死」=日本も手遅れなのか?

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 ダグラス・マレー著、町田敦夫訳「西洋の自死」(東洋経済新報社、2018年12月27日)が世界的なベストセラーになっているということで、手に取って読んでみました。

 著者は若手、とは言っても、今年40歳になる気鋭の英国人ジャーナリストです。

 内容については、この本の「脇見出し」を引用させて戴くと、「欧州各国が、どのように外国人労働者や移民を受け入れ始め、そこから抜け出せなくなったのか」「マスコミや評論家、政治家などのエリートの世界で、移民受け入れ懸念表明が、どうしてタブー視されるようになったのか」「エリートたちは、どのような論法で、一般庶民からの移民政策の疑問や懸念を脇にそらしてきたのか」といったことが書かれています。

 ちょっと、まどろこしく書かれていますが、移民問題は結局、文化や言語、宗教の問題にまで行き着き、もともといた地元の人たちは、移民の人口増により、少数派に追いやられることが書かれていて、それを言うと「人種差別者」だのと糾弾されると、著者は言いたかったと思えます。

日本語訳版だけでも500ページ以上あり、全て読み通すのには難儀します。この10年近くで欧州で起きたさまざまなテロ事件や移民問題などを具体的に事実として取り上げている書き方で、著者の感慨はあまり挟もうとしません。 でも、斟酌はできます。

 例えば、2017年11月に「ビュー・リサーチ・センター」が公表したところによると、スウェーデン(2016年のイスラム教徒人口は8%)では、今後全く移民を受け入れなかったとしても、2050年にはイスラム教徒人口が11%になり、「通常の」流入があった場合は21%、近年の大量移民が維持されれば31%になるといいます。

 この後で、著者は「1950年のスウェーデンはほとんど移民がいない、民族的に同質の社会だった。それが1世紀後の2050年には、見た目が一変しているだろう。…もしかしたら、それでも構わないかもしれない」といった、思わせぶりな書き方です。

 この本に関しては、日本ではあまり報道されませんでしたが、かなり賛否両論の渦が欧米で巻いたようです。それは、他人事ではなく、その波は、近いうちに、日本にも押し寄せてきます。

 もう、マスコミが言うような「移民排斥=極右、非寛容な人種差別主義者」「移民受け入れ=リベラリスト、寛容な人道主義者」といった単純な図式ではないのです。

 最近、このブログも随分アクセス数が増えました。どなたがお読みになっているのか想像もつきません。襲撃されたくないので、私はか弱い人間ですから、卑怯者と言われようが、自分の意見は茲には書きません(苦笑)。扇動者にはなりたくないというのが本音です。悪しからず。

移民問題は、自分たち個人の問題だと考えるべきだと思っています。

日本でいちばん面白い人生を送った男=大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」

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いやあ、面白いのって何の。すっかり嵌って寝食を忘れてしまいました。

大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋、1993年9月10日初版)です。

私は、数年前に「疾風怒涛」時代に襲われ、茲では書けない色んなことを体験しているうちに、自宅書斎には、ほとんどの蔵書がなくなってしまいました。売却したり、処分したり、紛失したりしまったわけですが、その中でもわずかに残っていた蔵書の一つがこの本だったのです。26年ぶりの再読です。

 何で、この本を手に取ったかと言いますと、このブログの8月15日に「物足りない『黒幕』特集」を書いた通り、週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社) の内容があまりにも薄っぺらで、物足りなさを感じたからでした。

 田中清玄(1906〜93年)は、言わずと知れた政界のフィクサーと言われた「黒幕」です。戦前に、三・一五事件(1928年)と四・一六事件(29年)を経て壊滅状態だった日本共産党を再建して書記長となり、検挙されて、11年間も入獄し、昭和16年の釈放後は180度転向して天皇主義者になった人です。鈴木貫太郎首相に無条件降伏を説得した臨済宗の山本玄峰老師の下で3年間修行し、戦後は建設会社を興して、日本の政財界だけでなく、欧州、東南アジアやアラブ諸国とも太いパイプを持って事業を拡大した人でもあります。

 山口組三代目の田岡一雄組長らとも深い関係があり(田中清玄に田岡組長を紹介したのは横浜の荷役企業のドン藤木幸太郎会長だったとは!)、対立した児玉誉士夫(1911~84)の差し金で暴力団東声会の組員に狙撃されたり、何かと黒い噂も絶えなかった人でしたが、その生き方のスケールの大きさと抜群の記憶力には本当に圧倒されました。◆参考文献=藤木幸夫著「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社)、城内康伸著「猛牛と呼ばれた男 『東声会』町井久之の戦後史」(新潮社)、有馬哲夫著「児玉誉士夫 巨魁の昭和史 」(文春新書) 

 26年ぶりの再読でしたので、内容はすっかり忘れておりましたが、この26年間で、あらゆる本を相当乱読していたため、この1冊を読むと、何の関連もないようなバラバラだった事象や事件が見事に繋がり、ジグソーパズルが完成したような気分になりました。

 勿論、田中清玄が自分の人生の中で見聞したことを「遺言」のつもりで毎日新聞編集委員に一方的に語ったことなので、120%信用できないかもしれないし、信用してはいけないのかもしれませんが、歴史的価値の高い「証言」であることは紛れもない事実です。

 以前にも少し書きましたが、田中清玄は、会津藩の筆頭家老の末裔でしたから、非常に潔癖で一本筋の通った人でした。(清玄の次男は、現在早稲田大学総長の田中愛治氏です)旧制函館中学~弘前高校~東京帝国大学というエリートコースで学んでいますから、そこで知り合った友人、知人は後世に政財官界や文学界などで名を成す人ばかりです。

 26年前に読んだ時は、知識が少なかったので、読んでもほとんどピンと来ませんでしたが、今読むと、昭和史に欠かせない重要人物ばかり登場し、関わりがなかったのはスパイ・ゾルゲぐらいです(笑)。意外な人物との関係には「そんな繋がりがあったのか」と感心することばかりです。

 例えば、函館中学時代は、久生十蘭、亀井勝一郎や今東光・日出海兄弟、それに長谷川四兄弟(長男海太郎=林不忘の筆名で「丹下左膳」も、 次男潾二郎=画家、三男濬=ロシア文学者、四男四郎=「シベリア物語」など )らと親しくなり、「特に長谷川濬とは仲が良かった」というので吃驚。長谷川濬は、満洲に渡り、甘粕正彦満映理事長の最期に立ち会った人ではありませんか。26年前はよく知らなかったので、素通りして読んでました(笑)。◆参考文献= 大島幹雄著「満洲浪漫 長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)

 マルクス主義にのめり込んで地下組織活動を始めた弘前高校時代の三期後輩である太宰治については、「作家としては太宰と同期の石上玄一郎の方がはるかに上。太宰は思想性もなく、性格破綻者みたいなもんじゃないか。地下運動時代に俺を怖がってついに会いに来なかった。『そんな奴、いたかい』てなもんだ」とボロクソです(笑)。

 東京帝大に入学すると新人会に入ります。そこで、大宅壮一、林房雄、石堂清倫、藤沢恒夫(たけお)らと知り合い、藤沢からは、川端康成、横光利一、菊池寛、小林秀雄ら文壇の大御所を紹介されます。◆参考文献=松岡將著「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)

(戦前の)共産党関係者として、福本和夫、徳田球一、渡辺政之輔、佐野学、鍋山貞親、志賀義雄、それに、モスクワで無実の山本縣蔵を密告して殺させた野坂参三ら錚々たる人物が登場します。「…日本の軍人といってもこの程度なんですよ。こんな者どもが対ソ政策をやるから間違うんだ。…自分が助かるためには何でもやる。野坂参三も軍人も一緒です。陰険で小ずるくて冷酷無情な、どちらも同じ日本人です」と語ってますが、野坂参三をモスクワに送り込んだのは田中清玄自身だったことを告白し、大いに後悔していました。◆参考文献=立花隆著「日本共産党研究」上下(講談社)

面白かったのは、11年間の牢獄生活から出所して、三島の龍沢寺の山本玄峰老師の下で修行していた頃の逸話です。ちょうど真珠湾攻撃が始まり、反軍・反侵略の思想の持ち主だった田中清玄は、血気盛んで、反戦行動を起こそうとしますが、玄峰老師から「軍は気違いじゃ。…今、歯向かっていったらお前は殺されるぞ。…お前は時局に関して何も言っちゃいかん。今は修行専門だぞ」と諭されたそうです。彼は「あの時、下手をやって、なまじ軍に反対していたら、こっちが命を落としていたでしょう。老師の喝破のお蔭です」と振り返って感謝しています。

 龍沢寺には、吉田茂、米内光政、岡田啓介、鈴木貫太郎、岩波茂雄、安倍能成ら政治家から文化人に至る重鎮が頻繁に訪れていて、田中清玄は、玄峰老師のボディーガードになったり、東京まで代理の使者として政界の大物に会ったりしたということですから、修行の身でフィクサーになったようなものでした。

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 戦後は、復興のために建設業を営み(後に四元義隆に会社を譲ってしまう!)、アジアだけでなく、ハプスブルク家のオットー大公やアブダビの首長ら国際的スケールで交際しビジネスに結びつけた話も圧巻でした。

 その人脈の広さと多さには本当に驚かされますが、「私が本当に尊敬している右翼というのは二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です」と発言しています。26年前は、すぐ分かりませんでしたが、2人とも五・一五事件に関与した人でしたね。評論家立花隆(本名橘隆志)は、橘孝三郎の従兄弟の子に当たる縁戚です。三上卓は、犬養毅首相を暗殺した海軍中尉で、国家主義者。◆参考文献=中島岳志著「血盟団事件」(文藝春秋)、寺内大吉著「化城の昭和史」上下(毎日新聞社)

 私は、一回読んだ本はほとんど読み返すことはないのですが、この本は再読してよかったです。年を取るのも悪くないですね。乱読のお蔭で、知識も経験も増え、知らないうちに理解力も深まっていました。

 26年前には読み流していましたが、田中清玄が「人類というものは、自己の保身と出世のために人を裏切る冷酷な存在でもあるということです」と発言する箇所があります。当時は苦労知らずのお坊ちゃんで、実感できなかったのですが、今は痛切な気持ちで同感できます。

 絶望感はではありません。清清しい達観です。

物足りない「黒幕」特集

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 やはり、私のライフワークといいますか、興味のある専門分野ですからね(笑)。つい、買ってしまいました。週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社、980円) です。

 その前に、私の住む自宅から歩いて7、8分ほどにあった本屋さんが、とうとう潰れてしまいました。アマゾンのせいでしょうか。駅近くにあった書店2店舗は既に数年前に閉店したので、ここは「最後の砦」でした。呆然自失。この本屋だけは失いたくなかったので、なるべく、ここで買うようにしてましたが、ついに消滅してしまいました。悲しいというほかありません。

 仕方ないので、この「週刊現代 別冊」を会社の近くのコンビニで買おうかと思ったら、週刊誌は置いていても、別冊は置いてないんですよね。そもそも本屋じゃないので、種類も少ない!帰宅時に遠回りして、駅近くの大型書店で買うことができました。

 この上の写真の表紙をご覧になって頂くだけで、内容は分かると思います。

 日本の「裏支配者」たちーとありますが、吉田茂、正力松太郎、五島慶太、後藤田正晴…みんな、「表社会」の人たちじゃありませんか。フィクサー、黒幕として登場する児玉誉士夫、山口組三代目の田岡一雄組長にしても、超々有名人で、日本人ならまず知らない人はいないぐらいです。失礼ながら、初心者向きで、野間ジャーナリズムの限界を感じました。続編を期待しましょう。

 私自身、これまでいろいろな本を読んできましたから、この別冊の中で、馴染みがなかったのは矢次一夫(1899~1983年)ぐらいでした。この人については、顔写真と略歴だけ載っていましたが、岸信介との関係などもう少し掘り下げて頂きたかったですね。

 このほか、章立てして、もっと掘り下げて、取り上げてほしかった人物として、まず、玄洋社の頭山満が筆頭でしょう。次いで、黒龍会の内田良平。この別冊で取り上げられた軍人の石原莞爾は、まあ妥当だとしても、もっと土肥原賢二や影佐禎昭ら諜報活動に従事した人も取り上げてほしかったですね。そうそう、甘粕正彦は欠かせない人物です。牟田口廉也や辻政信は少し食傷気味なので、桜会の橋本欣五郎や東京裁判で寝返った田中隆吉あたりが面白いかもしれません。

 写真がちょっと出ていただけだった大物右翼の三浦義一(1898~1971年)は「室町将軍」と言われたぐらいですから、最低、略歴ぐらい必要でしょう。以前、私は、ちょっと怖い人に引き連れられて、たまたま大津市の義仲寺にある彼のお墓参りをしたこともあります。また、三浦義一の後継者である西山広喜(1923~2005年)の内幸町・富国生命内の事務所を確認したことがあります(笑)。

共産党幹部から獄中で国粋主義に転向した田中清玄(1906~93年)は章立てして大きく取り上げるべき人物でしょう。(田中家は会津藩の筆頭家老だった名門家系。早稲田大学第17代総長の田中愛治氏は、田中清玄の子息)田中清玄=田岡組長VS児玉誉士夫=東声会=岸信介との壮絶な闘いは語り継がれるべき逸話です。

 となると、11年間の獄中生活から出所後、田中清玄が師事した静岡県三島市の龍沢寺の山本玄峰禅師もマストでしょう。山本禅師は、臨済宗妙心寺派管長も歴任し、終戦の際に、鈴木貫太郎首相に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言して、終戦を受け入れるよう説得した功労者ですから、まず欠かせませんね。(鈴木貫太郎は関宿藩士でしたね。二.二六事件の際には侍従長で、蹶起隊に襲撃されながら、奇跡的に一命を取り留めました)

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 平成から令和の時代となり、人間が小粒になったのか、ますます、黒幕やらフィクサーといった豪快な人物が出にくくなった感があります。

でも、一般大衆には分からないように、暗躍しているのかもしれませんよ。

「サピエンス異変」=座りっぱなしが死を招く

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 この本を読むと、腰の辺りがムズムズして痛くなり、腰痛解消のために、何処でもいいから、そこらへんを駆け巡りたくなります。

 ヴァイバー・クリガン=リード著、水谷淳、鍛原多恵子訳「サピエンス異変 新たな時代『人新世』の衝撃」(飛鳥新社、2018年12月31日初版)は、まさにタイトルそのものと同じで、衝撃的な本です。

 人類学、環境科学、動体力学、動物生理学…等あらゆるサイエンスを動員したノンフィクションです。結論を先に言ってしまえば、「人類は、快適さと便利さを追求したおかげで、身体を動かさなくなり、糖尿病や肥満による心臓疾患、腰痛、近視、骨粗しょう症、精神疾患などさまざまな病気や障害を自ら引き起こしている」といったことになるでしょうか。

 「座りっぱなしが死を招く」といった衝撃的な章もあります。現代の先進国のサラリーマンと官僚のほとんどが、冷房の効いたオフィスで、何時間も何時間も座ったまま、パソコンの画面に向かっていることでしょう。著者の最終的な結論は、「人類は1日1万歩歩くのが一番良い」(1日8~14.5キロ、1週間で10万歩)といった今まで多くの専門家が指摘していたことと同じでした。

 そもそも、人類は、800万年前に直立二本足歩行する生物から、30万年前に現在のヒトとなるホモ・サピエンスに進化して、1万年前に農耕定住生活が始まるまで、毎日、平均6時間も歩いて食料を確保してきたといいます。

 つまり、ヒトは動く生物として生活に適応してきた歴史があるわけです。それが、わずか100年か200年前の産業革命で機械化、モータライゼイション、そして20世紀末のIT革命で、ますますヒトは身体を動かさなくなりました。最近は、スマホなどのやり過ぎで、RSI(反復運動過多損傷)と呼ばれる病気を患って、生産性が低下したり、仕事を辞めたりする人もいるといいます。

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 私の周囲にも、ほとんど身体を動かさず、近距離でも車ばかり使っていたお蔭で、まだ若いのにほとんど歩けなくなった友人もいます。

 かつての人類は、歩けなくなれば食料を確保することができず、即、死を意味していました。ということは、人類の滅亡が始まっているということなのでしょうか。本当に衝撃的な本でした。

ケインズ「雇用・利子および貨幣の一般理論」をついに読破=漫画ですが…

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1929年の大恐慌や、ナチスの台頭につながる第1次大戦後のドイツの賠償問題などを勉強していると、どうしても外せないのが、ジョン・メイナード・ケインズの経済理論です。

 いつぞやの話、国際金融アナリストの元山氏に、ケインズの代表作「一般理論」は難しい?と聞いたところ、彼は「君には無理だね。アインシュタインの『一般相対性理論』と同じぐらい難しいんじゃないかい」と断定するので、さすがに、心の中で「ムッ」としましたが、彼の忠告には従っておりました。

 あれから半年。彼から「君にふさわしい本があったから貸してあげるよ」と貸してくれたのが、漫画でした。

 ケインズの原作を漫画化した「雇用・利子および貨幣の一般理論」(イースト・プレス)でした。

 私は、漫画は中学生の頃までは熱中しましたが、それ以降はご無沙汰です。「えっ?漫画かい?」と思いましたが、これがなかなかよく出来ていて、原作を読む前の「取っ掛かり」というか、予備知識になることは確かでした。

 私自身、経済を専門的に学んだわけではなく、大学の教養課程の単位として「経済原論」を取った程度の知識しかありませんが、この原作の漫画化の中には、「有効需要」だの「限界消費性向」「流動性選好理論」だの、昔学んだ懐かしい用語がたくさん出てきて、易しく解説してくれます。ばかにできませんね(苦笑)。大変失礼致しました。

例えば、「債券の利率が購入時より下がれば、実質価格は上がり(この時この債権を売れば得)、逆に、利率が上がれば、債券の価値が下がる」といったややこしい文章も、数式と漫画で描いてくれるので、すっと頭に入りやすい。

 また、私なんかよく間違える「ブル(牛)とベア(熊)」理論も、漫画に出てくるということは、ケインズの「一般理論」の中に出てくる話だったんですね。牛と熊を闘わせたら、熊の方が強いから、ベアが強気、ブルが弱気と私なんか勘違いしてしまうのですが、ブル(牛)は下から上に攻撃することから、債券価格が上昇するということで「強気」。ベア(熊)は、上から下に攻撃することから、債券価格が下落するということで「弱気」と命名されたことが漫画で描かれ、この箇所を読んで分かり、これからは間違えることはないだろうな、と思った次第です(笑)。

 確かに、最初から無謀にも原作に挑戦して、途中で白旗をあげるよりも、無理をしないで漫画から入ったことは大成功でした。漫画とはいっても、内容は難しいことは難しいですからね。この漫画を貸してくれた元山氏には感謝申し上げます。

「図案対象」と戦没画学生・久保克彦の青春

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8月は哀しい。

昨日6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆と日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻(その後のシベリア抑留)。そして15日の終戦(敗戦記念日は、ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日)。

 あれから74年も経ち、戦争を直接体験した語り部が減り、テレビでは特集番組さえ消えつつあります。

 嗚呼、それではいけません。

 最近、ほんのちょっとしたきっかけで知り、感動し、興味を持った藝術作品として、東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されて中国湖北省で戦死した久保克彦が遺した 「図案対象」 という7メートルを超す大作があります。

美術作品は、何百万語言葉を費やして説明しても実物を見なければ無理なので、ちょうど2年前の2017年8月にNHKの「日曜美術館」で放送された「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」をまとめたブログ(?)がありましたので、勝手ながら引用させて頂きます。

 これをお読み頂ければ、付け足すことはありません。

 私は、このテレビ番組は見ていません。「図案対象」を描いた久保克彦の甥に当たる木村亨著「輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 」(図書刊行会、2019年6月20日初版)の存在を最近知り、興味を持ったわけです。

この「図案対象」はとてつもない前衛作品です。全部で5画面あり、抽象的な模様もあれば、戦闘機や大型船が描かれた具象画もあります。

久保克彦は23歳の時、東京美術学校の卒業制作としてこの作品を完成させましたが、2年後の25歳で中国大陸で戦死しており、作品についての解説は残しませんでした。

 しかし、その後、あらゆる角度から分析、解釈、照合、比較研究などの考察を重ねた結果、驚くべきことに、一見バラバラに見える事物の配置は、全て「黄金比」の法則に従って、整然と並べられていたことが分かったのです。

 黄金比というのは、人間が最も美しいと感じる比率のことで、それは、1:1.618…だというのです。

 この黄金比に沿って建築されたのが、古代ギリシャのパルテノン神殿や古代エジプトのピラミッド、パリの凱旋門、ガウディのサグラダファミリア大聖堂などがあり、美術作品としては、ミロのビーナスやレオナルド・ダビンチの「モナリザ」などがあります。

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 私は、黄金比については、映画化もされたダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を2004年に読んで初めて知りましたが、結構、身近に使われていて、クレジットカードや名刺などの縦横比も「1:1.16」と黄金比になっているようです。

 それに、今何かとお騒がせのGAFAのグーグルやアップルのロゴもしっかり黄金比を使ってデザインされております。ご興味がある方は、そういうサイトが出てきますのでご参照してみてください。

 久保克彦が、黄金比を使って「図案対象」を制作したのは昭和17年(1942年)のこと。戦死しないで旺盛な創作活動を続けていたら、「ダビンチの再来」という評価を得ていたかもしれないと思うと、実に哀しい。

 

孔子を心もとない人物として描く「老子・列子」を読む

高野山 親王院 

中国古典シリーズ「中国の思想」の中の「老子・列子」(徳間書店)を読んでいます。

「老子」は老聃(ろうたん)の説を記した書物ですが、この老聃という人物については不明なことが多いようです。楚の国の出身で、本名は李耳、字は伯陽、おくり名が聃。周の守蔵室の役人を務め、道と徳の説を5000余言の文章に残して、周の国を去り、その最期は誰にも分らず、160歳まで生きたとも200歳まで生きたとも言われています。(司馬遷「史記」)

 老聃は孔子に教えを授けたことでも有名であることから、道家が儒家に対して優越性を示すために、老子とは、「荘子」を書いた荘周による創作人物ではないかという説もあるそうです。

 後から弟子たちが付け足したという説もありますが、色々差し引いても、後世の人間としては学ぶべきことが多いのは確かです。

 老子の思想を一言で言えば、物事に対して、意気込むことなく「無為自然」に任せよ、ということになるでしょう。これは、隠遁者的思想ではなく、常に内省し、冷徹な批判精神を持てということです。

 ざっと読んでみますと、人の道や道徳を説く言葉が多く、ほとんどエピソードがなく、どちらかと言えば堅苦しい書物でした。驚いたことには、日本では神様のように崇められている孔子を、学に秀でているわけでもなく、心もとない人物として描いていることでした。(「列子」にも「物を知らない孔子」の話がある)

 文化大革命の際に、「批林批孔」のスローガンがあったように、中国では儒教や孔子が日本ほど(例えば、渋沢栄一のように)神格化されていないのではないかと思いました。

 解説によると、老子の孫弟子に当たると言われる列子は、文化大革命を発動した毛沢東が大変評価した思想家らしいので、それで、毛沢東が孔子を批判する理由が少し分かった気がしました。

 「列子」は「老子」と比べて堅苦しいところはなく、逸話が満載されて読みやすいです。「杞憂」の語源になった話もこの「列子」に出てきます。

謹慎中の武士が町人と僧侶と一緒にどんちゃん騒ぎ=かつての身分史観は間違っていた?

 (昨日からの続き)和歌山県 丹生都比売神社

 座禅に相当する 真言宗の瞑想は「阿字観」といいまして、梵字の「阿」の字に向かって、雑念を振り払って、心を空にして瞑想します。

 梵字は古代インドで誕生し、仏教とともにアジアに広まります。空海が日本に伝えたともいわれています。お墓の卒塔婆などでも使われていますが、現代は、インドや中国では廃れてしまい、主に日本だけしか使われていないというのです。これは知りませんでしたね。仏教自体が本家インドで、そして中国でも衰退してしまいましたから、梵字も同じ運命を辿ったのでしょう。

 「空海」(新潮社)を書いた高村薫さんによると、高野山は内紛で、空海入定後、わずか80年で無人になって荒廃してしまったというんですね。真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」の活躍があったといいます。

  空海に、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、天台宗の開祖最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いていることを改めて追記しておきます。

 さて、今、大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社、2019年4月25日初版)を読んでいます。なかなか面白い。「江戸時代は士農工商のガチガチの身分制度だった」というこれまでの歴史観が引っくり返ります(笑)。

 絵日記の作者は、幕末の忍(おし)藩(今の埼玉県行田市)の下級武士だった尾崎石城(本名隼之助、他に襄山、華頂などの号も)。熊本県立大学の大岡名誉教授が分かりやすく解説してくれています。

 忍藩は江戸から北に15里(約60キロ)離れた人口約1万5000人の城下町です。忍城には、いつぞや私も栗原さんと一緒に行ったことがありますが、石田三成の水攻めにも屈しなかった堅城です。忍藩は、江戸時代になって、松平信綱や阿倍忠秋ら多くの老中を輩出したことから、「老中の藩」とも言われ、幕政の要になった親藩でもありました。

 尾崎石城は、天保12年(1841年)、庄内藩の江戸詰め武士だった浅井勝右衛門の子として生まれ、18歳の弘化3年(1846年)に忍藩の尾崎家の養子に入っています。庄内藩と忍藩とは縁もゆかりもなさそうですが、江戸時代はこういう「養子縁組」は当たり前のように行われていたんでしょうね。

 この石城さん、理由は詳らかではありませんが、度々、藩から咎めを受けて「蟄居」処分を受けます。最初は、23歳の嘉永4年(1851年)です。

 あれっ?大岡敏昭名誉教授の解説では、生まれた年が合いませんね。1846年の時点で18歳、1851年の時点で23歳が満年齢だとしたら、石城は1828年生まれ、つまり、 天保12年(1841年)ではなく、文政11年生まれでなければおかしいのですが。。。

 ま、堅いことは抜きにして、とにかく、石城さんは、何度も蟄居処分を受けますが、その度に自邸から抜け出して友人の家に行ったり、料亭「大利楼」などに行ったり、馴染みの和尚さんがいる寺院に行って酒を飲んだりしているのです。

 しかも、身分の差を越えて、武士と町人と僧侶が一緒になってどんちゃん騒ぎしているんですからね。その様子を、江戸の絵師福田永斎の門人として修行し絵ごころがある石城さんが、見事に挿絵として活写しているのです。本の表紙にもあるようにほのぼのとした雰囲気の絵です。

 絵日記は、二度目の咎めによる強制隠居の時の文久元年(1861年)6月から翌年4月まで書かれています。石城さんの生まれが文政11年(1828年)だとすると、33歳頃となります。蟄居ながら、独身という自由な身であることから、頻繁に寺院や友人宅を訪ねて、酒盛りする姿が描かれています。

◇大酒呑みの僧侶

 驚くほどのことではないでしょうが、ここに登場する僧侶は大酒呑みばかりで、料亭にも足繁く通ってます。大岡名誉教授の解説でも、「大蔵寺の宣孝和尚=酒好き、女好きで愉快な人物」「龍源寺の猷道和尚=この和尚も酒好き、女好き」と解説するほどです。(酒のことを「般若湯」、馬肉を「桜」、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉「紅葉」と誤魔化して、僧侶たちは、今で言うジビエ料理を楽しみ、しっかり肉食妻帯していたわけですから、「聖職者」とは程遠い感じです。人間的な、あまりにも人間的なです。)

 忍藩は、海のない藩なのに、蜆や鰯や鮪、鯔など石城さんはしっかり海産物を食べています。恐らく、お江戸日本橋の魚河岸から川による水上交通で運ばれて来たのでしょうね。

 石城さんの生活費はどう工面していたかと言いますと、妹邦子夫婦と同居し、邦子の夫である進は、石城の養子になり、石城さん蟄居中は、進が忍城に登城していました。また、石城は絵を描くので、掛け軸や行灯などの絵を頼まれ、近所の子どもたちには「手習い」を教えていたようです。呑み代が足りないと、帯を質に入れたりします。

 ◇武士の身分とは

 長くなるのでこの辺にして、この本の中に出てくる「武士の身分」についてだけは書いておきます。

【知行(土地)取り】家中(かちゅう)、侍、士分

・上級武士(300石~数千石)=家老、奉行、御勘定頭

・中級武士(50石~200石台)=番頭、寄合衆、御目付、御用人、御馬廻

【扶持取り】徒(かち)、給人(きゅうにん)、足軽、中間 / 小人、同心

・下級武士(二人扶持~二十人扶持)=元方改役、御鉄砲、御小姓、表坊主

※十人扶持の場合、1年に食べる10人分の米が支給される。一人一日五合として、年に一石八斗、10人分で十八石。また、切米(きりまい)という現米を年俸として支給されることもある。例えば、五石二人扶持とは、年に切米五石と、二人扶持(三石六斗)の計八石六斗の米が支給される。

 時は幕末。尾崎石城は、どうやら水戸の過激思想にかぶれて藩政批判したことから蟄居の身となったのではないか、と大岡名誉教授は推測しています。忍藩は幕政の要の親藩ですから、重罪です。尾崎家は当初、200石の御馬廻役でしたが、蟄居で知行を取り上げられ、石城は中級武士から下級武士に降格されたようです。それでも、絵日記には全くと言っていいくらい悲壮感がありません。

 それに、三度目の咎めの理由だけは分かっており、「謹慎中の隠居の身でありながら、勝手に出歩き、しかも町人町に家を借りたりして実にけしからん。寺への出入りも禁止する」というもの。大いに笑ってしまいました。

稲川会石井会長の素顔

 裏情報に精通した名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「渓流斎さんに相応しい本がありましたよ。いつも、かたーい本ばかり読んでおられるようですから、たまには息抜きして、気分を変えてみたらどうですか」と仰るのです。

 「何の本ですか?」と尋ねると、石井悠子さんが書いた「巨影」(サイゾー)という本でお父さんの思い出を書いた本だというのです。「ただし…」と篠田先生は一呼吸置いた後、「この手の本は、図書館に置いていないですよ。ご自分で買うしかありませんよ」とまで仰るではありませんか。そして、こちらの質問を遮るようにして、「著者の悠子さんのお父さんというのは、広域暴力団稲川会の二代目石井隆匡会長ですからね。今、吉本興業のお笑い芸人が闇営業したとか騒いでますが、そんな芸能人と暴力団との関係は昔からあったこと。大物政治家と石井会長との関係とか、この本を読めば出てきますよ」

 そこまで言われてしまえば、買うしかありません。ということで、昨晩から少しずつ読み始めました。

 娘から見た父親像ですから、拍子抜けするほど、何処にでもいそうな子煩悩で、娘思いの優しい優しい家庭人なのです。しかも奥さんには全く頭が上がらない恐妻家ときてますから、ずっこけてしまいます。

 勿論、娘は、父親の外での血と血で争う抗争や、激烈なしのぎの世界を直接見ていたわけではないので、石井会長のほんの一部分しか描かれていないことになりますし、娘から見た単なる「贔屓目」かもしれません。讃美してはいけないし、血なまぐさい話も出てこないので、勘違いしてしまいますが、少なくとも世間知の低い人には、この本を読めば「世の中はこのようにして出来ているのか」と分かります。

 特筆すべきは、竹下登首相と金丸信副首相が実名で登場することです。当時の石井会長は「裏総理」と呼ばれ、赤坂の東急ホテルのラウンジで会って、2人に助言し、采配を振るっていたことが書かれていました。2人の付き添いに小沢一郎氏もいたことが間接的に書かれています。間接的というのは伝聞ということで、証言したのは当時、石井家と懇意にしていた女子高生だったYさん。彼女は、霊感が強く、未来を言い当てることが得意だっため、山梨から上京して、ホテルで同席して見聞したことが描かれています。

 一国の政策を決めるのに最高権力者の宰相が、女子高生の話も参考にしていたとは驚きでした。

 また、石井会長の横須賀の自宅に、会長のいない隙に昼間から入り浸って、高級酒を呑んで引き上げていく怪しいおじさんが、何と、県警のマル暴担当の刑事さん。著者の悠子さんは、車でスピード違反を犯した時に、この刑事さんからもみ消してもらったことをあっけらかんと書いてました。警察と暴力団との関係が分かります。

 組織関係ですから、結束のために、納会やら新年会やら誕生会やらの宴席が欠かせません。そこに招待されるのが、芸能人です。著者の悠子さんは、あまりテレビを見なかったので、芸能人をあまり知らなかったのですが、ある大物フォークシンガーM・Cから「悠子は俺のこと知らないのか」と呼び捨てされたことを暴いていました。

 実名の芸能人も出てきます。石井会長はマヒナスターズがお気に入りだったようです。ほかに、おネエ言葉を話す歌手のM・Kとその物真似をするK。女性物真似のS・Mは、本物を目の前にして緊張して笑いが取れず、拍手もないまま、青ざめた顔で舞台から下がったことも書かれています。

 裏事情に詳しい篠田先生に、このイニシャルの芸能人は誰なのか聞いてみたら、スラスラと答えてくれました。そして、「今はユーチューブで検索すれば、何でも出てきますよ」と仰るので、見てみたら、昔の超人気アイドルや、お笑いの人、国際的な映画俳優まで組織の宴会に招待されて祝辞を述べていました。

 私も30年ほど前に芸能記者をしていたので、そういう話は聞いていましたが、ネット時代になり、「証拠映像」を見ると、さすがにショックでしたね。あの人も、えっ?あの人もかあ・・・という感じです。

 ちなみに、「経済ヤクザ」と言われた石井会長は、海軍兵学校を出たインテリで、堅気の人に対しては物腰が柔らかく、声を荒げることなく紳士的だったらしいです。私も昔行ったことがある銀座ナインの地下の「麦とろ飯」屋さん(今はない)が石井会長のお気に入りで、よく顔を出していましたが、会社の重役か大学教授にしか見えず、店主は何年も経ってから初めて、石井会長だったことを知ったといいます。これも篠田先生から聞いた話です。

 マフィアとの交流の話も面白かったですが、長くなるのでこの辺で(笑)。

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。