華やかな江戸文化の中心人物、大田南畝

  やっと、浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館)を読み始めています。この本は、6月に東京都墨田区の「たばこと塩の博物館」で開催された「没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界」展の会場で販売(2200円)されていたものでした。初版が1963年2月20日となってますから、60年ものロングセラーです。大田南畝に関する伝記・評論本は、この本を超えるものがあまり出ていないせいなのかもしれません。

 兎に角、この本は6月に最初に15ページほど読みましたが、他の本に取り掛かっていたら、内容をすっかり忘れてしまい、もう一度最初から読み始めています。というのも、登場人物の名前がなかなか頭に入って来ないからなのです。

 例えば、大田南畝の師匠に内山賀邸(1723~88年)という人がいました。名は敦時(あつとき)、号は陳軒(ちんけん)、牛込加賀屋敷に住んだので賀邸(がてい)とも号しました。私塾を開いて、漢学も教えましたが、国学が主で、和歌は当時江戸六歌仙の一人に数えられたといいます。その賀邸の門人、つまり南畝の同門に小島謙之(けんし)という四谷忍原横丁に住む幕臣がおりました。通称は源之助。年は南畝より6歳上。和歌が得意で、20歳ごろから狂歌をつくり、橘実副(たちばな・みさえ)という狂名を名乗っていました。それが、師の賀邸から狂歌を褒められ、唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう=1743~1802年)と師によって改名されたといいます。小島謙之は、小島源之助であり、橘実副でもあり、唐衣橘洲でもあるわけです。

 このように、同一人物なのに、本名(諱)の他に、通称や雅号や狂名や字(あざな)まで出てきて、頭がこんがらがってしまうのですよ。日本人は古来から、本名をあけすけに言われることを忌み嫌いました。そこから、本名のことを諱(いみな)と言われます。(だから、目上の人に対しては、官職名や住んでいる所=例えば、鎌倉殿=などで呼び掛けしたのでした)通称というのは綽名(あだな)のような別名のことです。一方、字(あざな)となると、中国で始まった風習で、元服して本名以外に正式に付けられた名前のことを言います。特に漢学の素養のある日本人は好んで付けたといいます。最後に、雅号は、文人や画人が自称した名前ですね。

 こうなると、一人の人間が幾つもの名前を持つことになります。でも、こういうのは個人的には大好きですね。ですから、私も、渓流斎と号し、複数の名前や雅号を持っているわけです(笑)。

 この本の主人公である大田南畝(おおた・なんぽ=1749~1823年)は、江戸牛込仲御徒町生まれで、御徒(おかち)職の幕臣です。御徒職というのは、文字通り、将軍らが公用や鷹狩りなどで出掛ける際に、徒歩で側に仕える一番下っ端の直参のことです。本名が直次郎で、南畝は号です。中国の古典「詩経」の「大田(だいでん)篇」から取られたといいます。同時に、ここから、子耜(しし)を字(あざな)として取っています。でも、これだけでは済みません。19歳の時に出版した詩文集のタイトル「寝惚先生」は晩年になるまで呼ばれ、22歳の頃に狂名として名乗った四方赤人(よもの・あかひと)、後に四方赤良(あから)もあります。また、30歳代後半から、幕臣としての仕事に専念するためいったん文芸の筆を折りますが、乞われて断り切れずに再開した際、匿名として名乗ったのが蜀山人でした。他に、風鈴山人、山手馬鹿人、姥捨山人などの筆名も使っています。

 幕臣大田直次郎は知られていなくても、大田南畝も四方赤良も蜀山人も歴史に名を残しています。一人でこれだけ複数の名前を残す偉人も多くはいません。

 大田南畝は19歳から本格的に文芸活動を始め、いわゆる文芸サロンのようなものを開催したり参加したりしますが、その幅広い交際には目を見張ります。江戸時代は、士農工商のガチガチの身分社会と思われがちですが、南畝は幕臣なのに、町人とも気軽に交流します。特に平秩東作(へずつ・とうさく=1726~89年)という町人は、南畝に多大なる影響を与えた戯作者であるといいます。南畝より23歳年長で、内山賀邸の同門でした。東作は、稲毛金右衛門という町人で、内藤新宿で煙草屋を営み、文学を好んで立松東蒙と称し、字は子玉。「書経」から取った平秩東作を筆名にしたといいます。この東作の親友に川名林助という漢詩人がおり、大田南畝はこの川名を通して、あの平賀源内と相知ることになります。

銀座「エスペロ」

 有名どころとの交際と言えば、ほかに、戯作者の山東京伝、版元の蔦屋重三郎、絵師の鈴木春信勝川春章(北斎の師)、葛飾北斎谷文晁、歌舞伎役者の五代目市川團十郎(写楽が描いた有名な「市川鰕蔵の竹村定之進」)、それに塙保己一らがおり、大田南畝は、華やかな江戸文化の中心人物だったとも言われています。

 ところで、狂歌というのは、私自身、江戸時代に大田南畝によって開始された文芸だと勝手に誤解していたのですが、史実は、鎌倉時代初期(平安時代という説も)から、既に歌会や連歌会の余興として行われていたといいます。和歌と同じ五七五七七ですが、和歌とは違って、風刺や諧謔に富んだものです。そのせいか、当初は、座興による読み捨てにするべきものとされていたようです。大田南畝の時代である江戸中後期が全盛期のようで、明治以降は廃れてしまったようです。

 本日はこれだけ書いて、いっぱい、いっぱいになりました。続きはまた次回に。

味とは情報なり、味より情報が全てなり

 「歴史人」(ABCアーク)8月号「江戸の暮らし大全」特集を読んでいて、驚いてしまいました。

 「江戸町民の食事」なんですが、朝は、1日に1回しか炊かない炊き立てのアツアツのご飯と味噌汁、そして香の物だけ。卵も海苔もありません。お昼は、朝に炊いたご飯の残りと、干物の焼き魚、そして香の物。結局、このランチが一番豪華なのです。というのも、夕飯は、残った冷や飯をお茶漬けにして流し込み、おかずと言えば、香の物だけですからね。コロッケも生姜焼きも餃子も何もありません。これは、庶民の暮らしぶりなので、将軍さまや大名家ともなれば、これより遥かにましな食事をしていたことでしょうが、それにしても庶民は質素です。

 恐らく、江戸時代、庶民は、かなりの肉体労働に勤しんだはずですから、カロリー的にも足りるわけありません。昼間働いているからランチを豪華にしているんでしょうか。

 その点、現代人、特に私は、将軍さまや大名も驚くほど超豪華なランチを毎日のように取っていることになります。その贅沢さは、江戸幕府の将軍さま以上、ということになるかもしれません。

 まあ、お許しください。私が今働いているのは、ランチを食するため、と言っても過言ではないからです。働くためにランチを食べるのではなく、ランチを食べるために働いているのです(笑)。

新富町「蕎麦和食 はたり」

 そのためには情報収集が欠かせません。かと言って、あまりネット情報は重視しません。「孤独のグルメ」のように、自分の足で稼いで、フラッと入った店が美味しかったりするからです。

 とは言いながらも、全く、ネット情報を参考にしないわけでもありません。本日は、猛暑ですから、あっさりと蕎麦にでもしようと、検索してみたら、新富町の「蕎麦和食 はたり」という店が味、人気とも界隈ナンバーワンだということを知りました。

 「はたり」? あまり聞いたことがないので、地図で調べてみたら、何と、以前に1回か2回、行ったことがあった店だったのです(苦笑)。最近、ちょくちょくランチに行くようになった小料理屋「中むら」の近く、というより、同じビルの地下にあります。

新富町「蕎麦和食 はたり」もりそば+ミニ豚丼ランチ 1100円

 初めて行った時は、何も知らず、外の看板とメニューをチラッと見て入り、今では味も覚えていないくらい、淡々と済ませたのですが、今回は違います。ネット情報から、この店は、「厳選したそばの実を石臼で丁寧に挽いた、そば粉100%の十割そばがいただける人気店」という情報が私の脳の奥底にインプットされていました。

 そんな情報が入っていて、いざ食べてみると、まるっきり味が違うのです。蕎麦をすすりながら、「おー、これが石臼で挽いた蕎麦粉100%なのかあ~。さすが、十割蕎麦だなああ~」と、味に磨きがかかります。それこそ、情報の恐ろしさです。何でもそうでしょう。「ウチは魯山人の器を使っておるどす」なぞと言われれば、急に背筋がピンと伸びて、旨さも格別になってくるんじゃないでしょうか。

 そう、食べ物は結局、情報なんですよ。「天保3年創業」の鰻屋とか「嘉永2年創業」の和菓子屋なんて言われれば、震えて、思わず襟を正してしまいます。

 また、宮内庁御用達の銘菓なんて言われれば、何か自分が偉くなったような気分にもなれます。オーギュスト・エスコフィエやポール・ボキューズなんて名シェフの名前が出たりすれば、眼も眩んで圧倒されます。

 味は二の次です。情報を食べているようなものですからね。「ミシュランの星が付けば、絶対に美味い」なんという法律はないのに、多くの人が盲目的に信じ込んでいます。本末転倒ではありますが、これが日本人の哀しい性(さが)なのです。

 要するに、人間の脳は何とでも、騙されてしまうものなのです。

星座にはギリシャ神話とアラビア語の知識が必要だ

 永田美絵著「星空図鑑」(成美堂出版)は一応、読み終わりましたが、やはり、星座名はすぐ忘れてしまいます。お経のように、繰り返し繰り返し、何度も読み直さないと記憶できない、と覚りました。

 でも、シリウスや北斗七星、カシオペヤ座など子どもの時から知っている星座や、商品名に拝借された星座は、さすがに忘れることはありません。個人的ながら、一番覚えているのは、スバルです。冬の星座、おうし座のプレアデス星団の日本名だったんですね。清少納言の「枕草子」にも出てきます。

 スバルと言えば、スバル360です。子どもの頃、父親がその中古車を買いました。確か10万円でした。感覚的には今の100万円近い値段です。我が家初の自家用車だったので、嬉しくてしょうがありませんでした。この自動車会社は以前は富士重工業と言ってましたが、2017年からSUBARUに変更しました。社章もスバル星になっています。

 この会社、戦前は中島飛行機だったことは知る人ぞ知る話。戦闘機「隼」や「疾風」などを製造していました。創業者は、海軍軍人から実業家、政界に転じ、商工大臣や立憲政友会総裁なども歴任した中島知久平です。私は城好きですから、いつぞや群馬県太田市金山町にある金山城に行ったことがあります。戦国時代につくられた山城で、復元された石垣の大手虎口が素晴らしい。一見の価値はあります。また頂上に金山新田神社がありますが、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞をまつっていました。この辺りは新田氏の所領です。(徳川家康は、新田義貞の子孫を自称しておりますが、それを認めていない歴史学者の方が多いことは御案内の通りです。)

 この金山城の本丸付近に、誰か知らないおっさんの銅像が立っていました。それが、中島知久平だったのです。彼も、群馬県太田市出身でした。いわゆる企業城下町となり、この地に中島飛行機の工場やスバルの工場もあったといいます。郷土の偉人でした。

 星座の話でしたね(笑)。沖縄に有名なオリオンビールがありますが、恐らくですが、オリオン座から名付けられたのではないでしょうか。

 昔、1970年代にマツダから販売されたカペラという自家用車が人気になりました。アラン・ドロンが ”Capella, c’est mon plaisir.’ 「カペラは、僕の愉しみ」と宣伝しておりました。(現在、販売終了)そのカペラは、恐らく、6星ある「冬のダイヤモンド」の一つ、ぎょしゃ座のカペラから取られたと思われます。

 商品名に星座を付けられたのは、まあ、そんなもんでしょうか。意外と少ないですね。(音楽グループ「カシオペア」もカシオペア座から取られたかも知れません。)最近では、中京競馬場で7月に開催される重賞レースとして「プロキオン・ステークス」があることを新聞記事で見つけました。このプロキオンも、6星ある「冬のダイヤモンド」と「冬の大三角」の一つで、こいぬ座を形成しています。私は競馬をやらないので詳しく知りませんが、恐らく、プロキオン星からこのレース名が命名されたことは間違いないことでしょう。

新富町「壮石」海鮮丼1200円 またまた本文で関係ないんじゃないの?

 星座は、国際天文学連合(IAU)によると、88ありますが、これまた意外にも、植物から取られた名前は一つもないそうです。植物学者の牧野富太郎がそれを聞いたら、怒りまくることでしょうねえ(笑)。だって、羅針盤座、竜骨座、帆座まであるのですから。でも、星座は古代から、船乗りの道しるべ、つまり、羅針盤の役割を果たしていたわけですから、無関係とは言えません。

 星座は真面目に勉強しようと思えばキリがありません。何故なら、古代ギリシャ神話、ローマ神話、それにギリシャ語、ラテン語、アラビア語の知識が必要とされるからです。う-む、もう、ちょっと手遅れかなあ…悔しいけど。

 ま、星空観賞は、趣味の一つとして、これからも楽しみますよ。

【追記】2023.7.12

 星座の商標名が少ないので、真面目に88星座全部をチェックしてみました。

・海蛇座 ヒドラ=ウルトラマンに登場する怪獣ヒドラは、ここから取ったか?

・山猫座 Lynx=ゴルフクラブのメーカー

・山羊座 カプリコーン=1971年に「ハロー・リバプール」を日本でもヒットさせた英国のグループ名。レコードジャケットに山羊が登場しているので間違いないでしょう。

・鳳凰座 フェニックス=漫画、アパレルブランド、中古車販売、色々あります。

・双子座 ジェミニ=米宇宙計画が1960年代にありました。

・竜骨座 カリーナ=1970年から2001年までトヨタが生産販売したセダン。

・水瓶座 アクエリアス=1969年、フィフス・ディメンションのヒット曲。ロック・ミュージカル「ヘアー」でも使われた。日本ではラーメン屋さんもあるみたいです。

 やっぱり少ないですね。

チャットGPTによって、脳が搾取されているのかもしれない?

 先日、本屋さんに行ったら、やたらと「チャットGPT」関連の本が5~6種類、平積みになって売られていました。実は、表紙を眺めただけで、一冊も手に取ったりしませんでしたが、「チャットGPT」は目下、話題にならない日がないぐらい注目されていますから、関連書もそれだけ多く出版されるのでしょう。

 「チャットGPT」は、以前、小生も試してみましたが、あまりにも杜撰なので、すぐさま止めてしまったことをこのブログでも書きました。(2023年3月8日付「《渓流斎日乗》は俳句なのか!?=ChatGPTはいまいちです…」

 何と言っても、チャットGPTさんは、この《渓流斎日乗》ブログのことを「江戸時代中期の俳人・与謝蕪村が著した俳諧の随筆集の一つです。」なんて答えてくれてしまっているんですからね。 ありえない! です。

ヤブカンゾウ

 こんなにいい加減なツールなのに、チャットGPTの勢いは止まりません。小中高校でどうやって扱うのか、学生が論文をAIで仕上げたりしないのだろうか、コンクールにAI作品を出品したりしないだろうか…等々、喧々諤々です。

 私は、IT関係について、からっきし弱いのですが、このチャットGPTというのは、「生成AI」という技術を使っていることを知りました。ですから、この技術を使えば、「チャットGPT」社だけでなくても、他のIT企業でも、問答形式で答えたり、写真や動画を作成したり出来るツールをリリースできるのです。日本人が大好きなLINEも、チャットが出来る「AIチャットくん」なるものをリリースしたことを最近、新聞の記事で知り、私も早速試してみました。

 この「AIチャットくん」は、どうやら、悩み事相談やアイデア相談に特化しているようです。私は、これでも毎日豊富な悩み事を抱えていますから、相談してみました。

 「AIチャットくん」なるものを「開通」させて、最初に開いてみると、いきなり「最近悩んでいることや気になっていることはありますか?」と向こうから逆に質問してくるのです。相手はAIです。生身の人間ではないので、こちらも、調子に乗って、誰にも言えないような、秘密の悩み事を書き込むと、パッと答えてくれました。でも、最後は決まって「プロのカウンセリングによる相談を行うことが必要になるかもしれません」などと、AIらしからぬ、当たり障りがない、優等生の作文のような回答に段々なって来ました。

 こちらも納得がいきませんから、「貴方は何者なのですか?医者でも弁護士でも裁判官でもないのに、正しい回答が出来るのですか?」とまで質問してみました。すると、「本日の制限回数に到達しました」「プレミアムプランをご用意させていただきました。プレミアムプランへ加入すると、利用回数無制限でお使いいただけます!」との表示が出て来たのです。

 なんじゃあ、こりゃあ~

 大人げないですが、一番いい所で切れたので、こちらもキレました。

築地

 冷静になって、色々と探っていくと、「チャットGPT」にせよ、「AIチャットくん」にせよ、無料で使わせておいて、どうやら、秘密裡にデータを蓄積し、編集加工して、広告主などに有料で販売しているようなのです。まあ、当然ながら、それがビジネスモデルということになるのでしょう。IT企業は、儲けを追求する営利団体であり、ボランティアでも慈善運動でも何でもありませんからね。他人の脳を搾取しているようなものかもしれません。

 ということで、「タダより高い物はない」いや、「タダより怖いものはない」という教訓になりますね。 それでも、あなたは、「覚醒剤やめますか?それともチャットGPTやめますか?」と詰問されたら、どうしますか?

 ハムレットに言わせれば、「それが問題だ」。

45年ぶりのプラネタリウム=割と身近にありました

 相変わらず、永田美絵著「星空図鑑」(成美堂出版)を読んでおりますが、巻末に「全国プラネタリウムリスト」が載っておりました。筆者の永田さんの本職が、東京のコスモプラネタリウム渋谷の解説員であることも関係しているのでしょう。

 そしたら、小生の拙宅近くにあるプラネタリウムも掲載されていました。「へ~、そんなに本に載るほど有名なんだ」と思いましたが、30年以上住んでいて、一度も行ったことがありませんでした。その施設は、1988年に出来たらしく、名誉館長は、あの宇宙飛行士の若田光一さんです。もしかしたら、全国的にも有名なプラネタリウムかもしれません。

 そこで、昨日初めて行って来ました。小雨が降っていたので、自転車は諦め、暗渠の道を歩いて行ったら22分掛かりましたが、近いと言えば近いでしょう。プラネタリウムに足を運んだのは、恐らく、45年ぶりぐらいです。今はもうありませんが、渋谷駅前の東急文化会館にあった五島プラネタリウムです。(調べたら、2001年に閉館していたんですね。)学生時代、当時付き合っていた彼女と行ったと思いますが、星座のことは全く覚えていません(笑)。暗闇ですから、当時のアヴェックの逢引き所でした(いずれも死語)。

 さて、自宅近くのプラネタリウムですが、市営なので入場料が520円(50分間)という安さでした。まあ、私自身、たっぷり、市税を払ってますから、堂々と入場しましたよ。でも、お子ちゃまだらけで、始まる前は走り回ったり、騒いだり。始まると、急に私の空いた前の席に座って、リクライニングの椅子を倒して、狭苦しくなり、上映中も、母親と大きな声でしゃべる始末。ま、この子にしてこの親で、その母親も、事前に「スマホの電源を消すか、マナーモードにせよ」と告知されても、無視して上映中に明々と照らして、他人から見れば、それほど可愛くない息子の写真を撮ったり…。まあ民度のあまり高くない野蛮な所にしょうがなく住んでいるので仕方がないか、てな感じでした。

 とはいえ、内容はかなり充実して、楽しくてしょうがありませんでした。「星空図鑑」で勉強したばかりの「夏の大三角」ベガ、アルタイル、デネブだけでなく、「春の大三角」のアルクトゥルス、スピカ、デネボラは7月なら西の空にまだ辛うじて見えるらしいことも教えてもらいました。春の大三角のスピカは、おとめ座の女神デメテルが手に持つ麦の「穂先」という意味でしたが、スピカと同じ語源から、靴のスパイクや登山用のスピックが発生したことも解説してくれました。ん-む、お子ちゃまには分かるかなあ?

 とにかく、拙宅のベランダから見えるほぼ同じ景色から見える夜空の星座を解説してくれたので、大変重宝しました。実は、梅雨空の曇りがちで、街中の光が反射していることもあり、ほとんど星は見えないのですが、青天で明かりを消した状態で見える本来の星座の姿を「再現」してくれたので、感動してしまいました。これなら、毎月のように訪れたいと思ったぐらいでした。

 プラネタリウムは、単なる星という点に過ぎないものを結んで、星座という平面にしてくれて、大熊やさそりや射手や蟹などの図柄を見事に再現してくれるので、本とは違い、瞬時に理解することができます。

 お蔭さまで、夜空の星を見るという楽しみがまた一つ増えました。

七夕の日ぐらい夜空を見上げよう=織姫、彦星を探して

 むふふふ、「読書百遍意自ずから通ず」です。

 例の永田美絵著「星空図鑑」(成美堂出版)を読んでおります。先日、告白した通り、星の固有名詞がなかなか覚えられません。加齢臭のせいです。あ、臭は余計でした(笑)。

 でも、「読書百遍意自ずから通ず」でした。100回と言わず、何十回か、お経のように繰り返して読むと、やっと頭に入ってくるものです。そう、今、私は、星座の本をお経のように読んでいるわけです(笑)。海馬に定着するところまではいきませんが、無味乾燥なカタカナが親しみ深くなってきたことは確かです。

 カタカナはやはり意味付けしなければ、なかなか覚えられないものです。特に星座は、どういうわけか、その語源が日本人には馴染みが薄いアラビア語が意外にも多いのです。何でなのでしょう?誰か教えてください。星座の基本書は、2世紀のエジプト・アレキサンドリアの天文学者プトレマイオスの書いた「アルマゲスト」と言われています。(この本では星座48でしたが、1928年の国際天文学連合総会で、星座は88に決定)この本はギリシャ語で書かれ、その後、アラビア語に翻訳され、ラテン語にも翻訳されたようです。星座は特にギリシャ神話に登場する神々らの名前が付けられていますし、何でアラビア語が席捲したのか、つまり何故、国際共通語として命名されたのか? 恐らく、当時、天文学に関しては、欧州よりアラブ世界の方が遥かに進んでいたからなのかなあ、と思ったりしてます。

ヤブカンゾウ 何で? 星の写真はないのかえ?

 以下は、自分の学習のための備忘録です。星座にご興味のない方は、読み飛ばして頂いて結構です。(この先を読まれない方に付記しますと、地球は秒速30キロ=時速10万8000キロで公転、太陽は秒速220キロ=時速79万2000キロで銀河系内を移動しているといいます。)

【春の星座】

 ・「春の大三角形」=うしかい座のアルクトゥールス Arcturus(ギリシャ語のクマの番人の意)、おとめ座(農業の女神デメテル、もしくは正義の女神アストライア)のスピカ Spica(ギリシャ語で穂先の意)、しし座のデネボラ Denebola(アラビア語で獅子の尻尾の意)。

 ・北斗七星=おおぐま座(ギリシャ神話の妖精カリストのこと。全知全能の神ゼウスの妻ヘラ(月の女神アルテミスの説も)から嫉妬と怒りを買い、熊にされ、星に)、北極星=こぐま座(カリストが全知全能の神ゼウスとの間に産んだ男の子アルカスのこと。ゼウスにより子熊に)

【夏の星座】

・「夏の大三角形」=こと座のベガ Vega(アラビア語で急降下するハゲワシ)⇒織姫星、わし座のアルタイル Altair(アラビア語で飛翔するワシ)⇒彦星、はくちょう座のデネブ Deneb(アラビア語から由来する、雌鶏の尾の意)。

・「北の十字星」=はくちょう座のデネブDneb(雌鶏の尾)、サドル Sadr(アラビア語から雌鶏の胸の意)、 アルビレオAlbireo(アラビア語から雌鶏の口ばしの意)、 ギェナーGienah(アラビア語から雌鶏の翼の意)

・ヘルクレス座のラス・アルゲティ(ひざまずく者の頭)⇚アラビア語のラース・アル・ジャーティーに由来。

【秋の星座】

・アンドロメダ座の頭に輝くアルフェラッツ(アラビア語で馬の意)⇚ペガスス(エチオピアのアンドロメダ姫を助けにきた勇者ペルセウス王子が乗っていた天馬)座にほぼ重なっているため。

・みずがめ座⇒美少年ガニメデが、壺に入ったお酒を注ぐ姿。壺の辺りに輝くサダクビアは、アラビア語で秘密の幸せ、ガニメデの右肩のサダル・メリクは、アラビア語で王様の幸せ、左肩のサダル・スウドは、アラビア語で最高の幸運という意味。

【冬の星座】

・「冬の大三角形」=オリオン(ギリシャ神話の狩人)座のベテルギウスBetelgeuse(アラビア語から、巨人のわきの下の意)、おおいぬ座のシリウス(ギリシャ語で焼き焦がすものという意味)、こいぬ座のプロキオン(ギリシャ語で犬に先立つもの、という意味)のこと。

・オリオン座⇒狩人オリオンの右脇辺りにベテルギウス、左足がリゲル(アラビア語のリジル・アル・ジャウザから巨人の足の意)、左肩辺りがベラトリクス(ギリシャ神話に登場する女兵士。勝利を収めてアマゾン国をつくる)。一番の目印となる三ッ星はオリオンの腰のベルト辺りに輝く。

(適宜追加していきます)

 本日は7月7日の七夕です。昨日開始されたSNSの「スレッズ」ばかり見ていないで、たまには夜空を観察して、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)を見つけてみてはいかがでしょうか。

日本人の顔の個性がなくなった?=日本一高い?ハンバーガーを食べながら

 先日は、宇宙や物理や星座関連の書籍をいっぱい買い込んで、思い切って「理科人間になります」と宣言致しました。 

 でも、もしかしたら、手遅れだったかもしれませんね(苦笑)。色々と、専門用語が頭に入っても、なかなか覚えられないのです。目下、永田美絵著「星座図鑑」(成美堂出版)を読んでいまして、「夏の大三角形とは、デネブ(白鳥座)、ベガ(琴座)、アルタイル(鷲座)のこと」「冬の大三角形とは、ベテルギウス(オリオン座)、シリウス(おおいぬ座)、プロキオン(こいぬ座)のこと」などと書かれていてもすぐ忘れてしまうのです。駄目ですねえ。あと100回、呪文を唱えるように記憶に定着させれば、覚えられるでしょうけど、なかなかページが進みません。

 もし、子どもの時だったら、2回ぐらい繰り返して読めば、すぐ覚えられていたことでしょう。でも、まあ、考えてみれば、老人になっても、まだ只管、子どものように勉強している人なんて私ぐらいです(笑)。まず、世の中にはいませんからね。もしかして、100万人に1人ぐらい、いるでしょうか。そんなことを言って、自分自身を慰めています。

 ということで、ブログもなかなか書けず、本日は、学術的なお話はお休みして、いつもながらのランチの話でお茶を濁すことに致します(笑)。

 本日4日付の東京新聞朝刊を読んでいたら、「比べてみたら」のコーナーで、「日本生まれのハンバーガーチェーン店」を取り上げていました。「和食の味を取り入れ」たモスバーガー(1972年、東京・成増駅近くで開業)、「牛肉にこだわり」のフレッシュネスバーガー(1992年、東京・渋谷区で誕生)、「国内最古チェーン店」のドムドムハンバーガー(1970年、東京・町田市で開業)の3チェーン店です。私が行ったことがある店は、モスバーガーだけで、他の2店は知りませんでした。でも、記事を読んでいるうちに、本日はどうしてもハンバーガーが食べたくなってしまいました。(東京新聞の影響力は絶大です。以前も掲載されていた八丁堀の蕎麦屋に走って行ったことがありました。)

 3店を検索してみたら、銀座にあるのはドムドムハンバーガーだけでした。でも、本日行くことにしたのは、いつも店前を何度も何度も通ったことがある新富町の「ブラザーズ」という豪州発のグルメバーガー店です。日本進出は2000年(日本橋人形町店)で、新富町店は2012年に出来たようです。

新富町「Brozers’」 チーズバーガー1595円、ジンジャーエール275円=1870円

 何と言っても、この店、異様に高いのです。もうしばらく行っておりませんが、世界一のバーガーチェーン店のビッグマックは450円ぐらいです。それが、この「ブラザーズ」ではランチで安くてもハンバーガーは1320円もするのです。こりゃあ、清水の舞台から飛び降りる覚悟でなければ、入店出来ません。

 本日は、東京新聞の呪文もあり、思い切って、スッと入店しました。M店のようにカウンターの前に順番に並ぶのかと思ったら、テーブル席に案内してくれて、若い男性が接客してくれました。

結論を先に書きますと、目の玉が飛び出るほど驚くほど美味しいバーガーかと思いましたが、それほどまでの驚きはありませんでした。かといって、M店に入るような気分とはまるっきり違って、かなり贅沢な気分だけは味わえました。やっぱりお肉が全く違うんでしょうね。何しろ、チーズバーガーとジンジャーエールを注文しただけで1870円でした。私がこれまでの人生で食した「最強のハンバーガー」でした。

 周囲を見ると、やはり、M店に来るようなオーディナリー・ピープルではなく、富裕層とはいかなくても、小金持ちといった感じのお客さんばかりでした。若い人が多かったのですが、こういう高級店に入れるのは、やはりお金持ちのボンボンかお嬢様、それに外国人観光客ぐらいでしょう。私の後から、身なりの良い、薄いサングラスをかけた若い男性3人組が入店しましたが、その顔立ちから、てっきり、韓国人か香港人か台湾人か、もしくはタイかインドネシア人(の観光客)かと思っていたら、流暢な日本語を話し始めたので、吃驚しました。同じエイジアンではありますが、最近の若い日本人は、ますます、区別が付かなくなりました。

 2022年の1人当たりのGDPで、日本は同じアジアのシンガポール(6位)に抜かれ、香港(20位)に抜かれ、目下、世界30位です。今年か、来年にも台湾(32位)や韓国(33位)に抜かれるのではないか、とも言われ、日本がアジアの中で埋没していくのと比例して、経済力も、個性も、影響力も低下していったことは否めないことでしょう。(世界第2位の経済大国である中国の台頭が言うまでもなく。)

 誤解を恐れずに言えば、日本人の若者の顔立ちが、他のアジア人に似てきて、その中に埋没していったのも、その影響力の低下の表れなのかもしれません。

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

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 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。

「最新研究でここまでわかった! 縄文と弥生」保存版特集=「歴史人」7月号

 「歴史人」7月号(ABCアーク)の「最新研究でここまでわかった! 縄文と弥生」保存版特集は、確かに、古い世代の人間にとっては「新発見」ばかりでした。

 なぜなら、私のような1970年代で学業を修了してしまったロートル世代にとって、古代遺跡として習ったのは、登呂遺跡(静岡県、1943年発見)ぐらいですからね(笑)。世界遺産に登録された巨大縄文集落、三内丸山遺跡が本格的に発掘調査が開始されたのは1992年、日本で一番有名な弥生遺跡である吉野ケ里遺跡の発掘調査が開始されたのは1986年のことですから無理もありません。教科書に載るわけが御座いません。

 しかも、現在、国宝に指定されている土偶のほとんどが1980年代以降に発掘されたものばかりです。例えば、棚畑遺跡(長野県茅野市)の「縄文のビーナス」は1986年、風張1遺跡(青森県八戸市)の「合掌土偶」は1989年、西ノ前遺跡(山形県最上郡)の「縄文の女神」は1992年、中ツ原遺跡(長野県茅野市)の「仮面の女神」は2000年にそれぞれ発掘されているのです。縄文文化については、岡本太郎さんが特別な関心を持って注目しておりましたが、土偶ブームになったのは1990年以降のことではないでしょうか。

 1970年代の古代知識では、全くお呼びでない、ということですね(苦笑)

 また、近代、年代測定技術が飛躍的に向上し、遺跡から出土した貝殻や獣骨などに含まれる放射性炭素14Cを測定すると、これまで縄文時代は1万2000年前に開始されたといわれておりましたが、実は1万5000年前に始まり、2400年前まで続いていたことが分かったといいます。つまり、縄文時代は1万2600年間続き、世界史的にもこれほど長い時代区分は存在しないというのです。これは驚きです。

 しかも、稲作は弥生時代になって初めて大陸から齎されたことになっていましたが、実は、縄文時代後期に既に稲作が伝わっていた、というのが新説です。

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 弥生時代の時代区分はいまだ確定していないものの、これまでの定説を500年遡り、紀元前10世紀に始まり、紀元3世紀まで続いたといいます。(それ以降から古墳時代が始まります)

 弥生時代ともなりますと、貧富や社会格差が出て来たほか、他の集落からの略奪などもあり、敵から身を守るために、集落に壕をめぐらしたり、物見櫓を建てたりしているので、もう環濠集落は、お城みたいなもんです。

 また、吉野ケ里遺跡からは、前漢と後漢との間に王莽が打ち立てた新朝(紀元8~23年)の貨幣「貨泉」が出土したといいますから、かなり大陸との交流があったということになります。まだまだ、知らなかったことがいっぱいあり、勉強になりました。

 実は、この本を買ったのは、特別付録として「土偶シール」が付いていたからでした。何処に貼っ付けようかなあ。。。

人物相関図がよく分かりました=平山周吉著「小津安二郎」

 平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を何とか読了致しました。まるで難解な哲学書を読んでいる感じでした。基本的にはエンターテインメントなので、もっと楽しみながら読めばいいのに、苦行僧を演じてしまいました(苦笑)。でも、色んな収穫もありました。

 最大のハンディは、私自身、小津作品をほとんど観ていなかったことでした。代表作「東京物語」(1953年)は流石に何度も観ておりましたが、原節子「紀子」三部作(「晩春」=1949年、「麦秋」=1951年、「東京物語」)でまだ観ていなかった「晩春」は慌てて観ました。そうしないと、「『晩春』の壺」と書かれていても何のことなのかさっぱり分からなかったからです。そして、「麦秋」は15年ぐらい昔に安いDVDを買って観たのですが、細かい内容は忘れていました。

 この397ページに及ぶ大作の中で、何度も何度も、大陸戦線に徴兵された小津安二郎監督と、「弟分」として慕っていながら28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督との親密な関係と暗喩がしばしば語られています。フィルムが残っている山中貞雄監督の作品は、わずか三作しかないといいます。「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935年)、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)です。私は、山中監督の名前と代表作名だけしか知らず、まだ作品は観ていなかったので、原節子(16歳)が出演した「河内山宗俊」だけ慌てて観ました。

 著者の平山氏によると、戦後、小津監督は、山中監督へのオマージュとして、自分の作品の中に、山中作品を暗喩するものを登場させたというのです。「風の中の牝鶏」(1948年)の中に「紙風船」を、「晩春」の中に「壺」を、「麦秋」の中で歌舞伎の「河内山」を挿入したりしたことがそれに当たります。

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 「東京物語」にしばしば「書き割り」として登場する葉鶏頭の花も、どうやら山中貞雄監督を隠喩しているらしいのです。昭和12年8月25日、召集令状が来た山中監督らが東京・高輪の小津監督の自宅に挨拶に来たので「壮行会」のようなものを開いた際、山中監督が庭に咲いている沢山の葉鶏頭を見て、小津監督に「おっちゃん、ええ花植ゑたのう」と呟いたといいます。そして、程なく小津監督も召集され、最前線の中国大陸でも葉鶏頭の花が沢山咲いていたといいます。

 個人的に「東京物語」は10回ぐらいは観ましたが、葉鶏頭の花は全く覚えていませんねえ。これでは、映画鑑賞の巧者ではない、という証明になってしまいました。

 小津監督の「秋日和」(1960年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)が「秋三部作」だったことも知らず、また、この本で詳細な解説をしてくれる「早春」(1956年)、「東京暮色」(1957年)、「彼岸花」(1958年)まで観ていないか、観ても内容をすっかり忘れておりました。これでは、話になりませんねえ(苦笑)。そこで、慌てて、最後の作品、つまり遺作となった「秋刀魚の味」をもう一度観ました。それで、この本で出てくる「鱧」と「軍歌」の話はよく理解できました。小津作品の大半を(再)鑑賞してから、この本を読むべきでした。これから小津作品を観るように心掛けて、この本を再読すれば面白さが倍増するに違いありません。

 小津監督は昭和2年の「懺悔の刃」(松竹キネマ蒲田撮影所)で監督デビュー(24歳)しているので、戦前には30本以上の無声(サイレント)映画も撮っております。そこで、たまたま、この本で何度も取り上げられていた「非常線の女」(1933年)が、ユーチューブでアップされていたので、観てみることにしました。失礼ながら、内容はつまらないB級のギャングアクション映画でしたが、主演の時子は、若き頃の田中絹代でした。私の世代では、田中絹代と言えば、老婆役が多かったので、「こんな若かったとは!」と驚いてしまいました。調べてみたら、田中絹代は1909年生まれ(太宰治と同い年!)ですから、この時、23~24歳。そして、老女かと思ったら、1977年に亡くなった時は67歳でした。今ではまだまだ若い年代なので、二重に驚いてしまいました。

 そうなんです。華やかな芸能界と言われても、すぐに忘れ去られてしまい、世代が違うとまるで何も知らないのです。例えば、「非常線の女」で、ぐれた与太者・宏の姉・和子役で出演した水久保澄子(1916年生まれ)という女優も、本書にも登場していて初めて知りましたが、大変清楚な美人さんで、原節子より綺麗じゃないかと思いました。この水久保澄子は、かなり波乱万丈の人生だったようで、医学留学生を自称するフィリピン人と電撃結婚したものの、騙されたことが分かり、一児を残して帰国。しかし、それまで自殺未遂を起こして降板したり、他の映画会社に電撃移籍したりしてトラブルを起こしていたことから、映画界からはお呼びが掛からず、1941年に神戸でダンサーとして舞台に出ていたことを最後に消息不明になったといいます。戦後は「東京・目黒でひっそり暮らしている」と週刊誌に掲載されたりしましたが、その後の消息は不明のようです。水久保澄子は「日本のアイドル第1号」と言われたこともあるらしく、何か、人生の無情を感じてしまいました。

 この本を読んで初めて知る「人物相関図」が多かったでした。小津安二郎は最後まで独身を貫き通しましたが、小津の親友の清水宏監督は、田中絹代と「試験結婚」。後輩の成瀬巳喜男は東宝に移籍してから主演女優の千葉早智子と結婚(後に離婚)。先輩監督の池田義信は大スター栗島すみ子と添い遂げ、戦前の小津組のキャメラマン茂原英雄の姉さん女房が飯田蝶子、大部屋俳優だった笠智衆は、無名の頃に蒲田撮影所脚本部勤務の椎野花観と早々に結婚したといいます。(152ページ)

 このほか、山中貞雄の「丹下左膳余話」で、やる気のない若殿役を演じた沢村国太郎(歌舞伎役者から映画界に転身。長門裕之と津川雅彦の父)は、沢村貞子と加東大介(山中の「河内山宗俊」や小津の「秋刀魚の味」や黒澤明の「七人の侍」などに出演)の実兄でした。無声映画「その夜の妻」に主演した岡田時彦は、女優岡田茉莉子の父、「東京物語」で笠智衆の旧友服部を演じた十朱久雄は、女優十朱幸代の父だということも教えられました。

 さらには、「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」で皮肉な重役を演じた中村伸郎の養父は小松製作所の社長で、自身も役者をやりながら、小松製作所の子会社・大孫商会の代表取締役を兼任していたといいます。小松製作所は戦時中、爆弾の信管やトラクターのキャタピラの国内生産の8割を占める軍需産業でしたが、中村伸郎は、自ら代表を務める会社・大孫商会が扱っている漆を敵陣に投下して戦意喪失させる案を某大学教授から提案されましたが、養父に相談することなくこの仕事を断ったといいます。

 もう一人、蒲田撮影所の所長から松竹の社長・会長まで務めた城戸四郎は、あの精養軒の創業者北村家で生まれ育ち、旧制一中~一高~東京帝大法学部という絵に描いたようなエリートコースを歩み、松竹入社後、創業者の大谷竹次郎の愛人と言われた城戸ツルと養子縁組し、その娘と結婚し(彼女は病没したが)、松竹内での地位を揺るぎなく確立したといいます。(329ページ)これも、「へ~」でした。

 最後に、273ぺージには「支那事変従軍で小津のいた部隊が毒瓦斯部隊だったことは、余りにも周知となっている。」と書かれていましたが、私自身は初めて知るところでした。やはり、小津安二郎は絵になり、字になる人で、今後も語り継がれることでしょう。