藤原新也著『渋谷』

 写真家・作家の藤原新也さんが、出版社を通じて「渋谷」(東京書籍)という本を送ってきてくれました。

 子供が自宅に放火して親を殺したりする凄惨な事件が、最近続いていますが、藤原さんは、もう四半世紀以上も昔から、このような不可解な家族の事件の背後に潜む人間の性(さが)を冷徹な目で見つめてきました。金属バット殺人事件を扱った「東京漂流」、母親の子供に対する異様なまでの過保護が及ぼす実態をえぐった「乳の海」などがその代表でしょう。

 

 「渋谷」は、二人の少女と一人の元少女と母親をめぐる3編の物語です。面白おかしくするためにわざと大袈裟にドラマ仕立てにした短編小説のようにみえましたが、すべて実話のようです。

 

 この中の「君の眼の中の色彩」では、少女時代に援助交際をしていた元少女サヤカが登場します。父親は優秀な大学教授で、米国でも生活し、本人の成績も良かった。母親との関係も中学まで良好で何ひとつ不自由のない家庭に育った。それなのに、なぜ?―。

 

 何と、元少女は「お金でもない。性的欲望でもない。…寂しかったからかもしれない」と答えているのです。

 

 彼女は、ある老人から包丁を突きつけられて性的関係を強要される体験をし、その後遺症からか色彩感覚が欠如する機能障害に陥ります。そんな彼女が、ハワイのホノルル・マラソンに挑戦し、見事完走し、劇的にも色彩感覚を取り戻す…といった話です。

 

 まさしく、フィクションのドラマのようですね。

 

 驚くべきことは、還暦を過ぎた藤原さんの異様な記憶力です。まあ、本書を書くために、元少女をイタリアレストランに連れて行って話を聴いているわけですから、テープレコーダーぐらいは持っていったことでしょう。少女を追って、ファッションマッサージにまで入店して、少女に話だけ聞いて、何もしない彼を、あまり格好良いとは思いませんでしたが…。

 

 藤原さんは「あとがきにかえて」の中で、最近の事件について、感想めいたことを書いています。

 「昨今家族の事件が起こると、いち早く槍玉に挙げられるのが母親という存在である。…父親の存在感が家庭内で薄まるにつれ、母は父母の役割を担う全能な存在でなければならなくなった」

 

 藤原さんの造語である「母性禍」が、子供たちにとって、目に見えない抑圧として働き、抑止力がきかない子供たちに衝動的な犯罪に走らせていることを喝破しているのです。

 

 カタルシスがないので、溜息しか出ません。

星の王子さま

サン=テクジュペリの不朽の名作『星の王子さま』を遅ればせながら読んでいます。

教科書に載っていたのか、子供の頃から何度も「帽子」の話は読んだ記憶があります。が、通しで最後まで読んだ記憶がありません。フランス語を習い始めた頃は、もうこれは子供が読む童話だと思っていたので見向きもしませんでした。

しかし、その考えは間違っていました。サン=テクジュペリは「はじめに」で、きっぱりと断っています。子供の頃の純真さを失った大人に向けて書いているのです。

童話でなくて寓話です。ですから、登場するキツネも薔薇も狩人も地理学者もビジネスマンも何かを象徴しているわけです。とてもとても深い物語です。

『星の王子さま』を読んでいます、と書きましたが、日本語ならわずか2時間くらいで読めてしまいます。しかし、深くじっくり読むと、もっともっと時間がかかるのです。だから今でも読み続けているのです。

オリジナル作品は、1943年に出版されました。日本では1953年に内藤濯氏による翻訳が最初です。

Le Petit Prince は「小さな王子」というのが直訳ですが、これを「星の王子さま」と翻訳したのが内藤氏の功績です。1999年の時点ですが、世界的なベストセラーの第一位が「聖書」で第二位がマルクスの「資本論」。第3位が「星の王子さま」なんだそうです。累計販売数で5000万部だそうです。

日本では昨年から今年にかけて急に翻訳本が出ました。目に付くものだけでも、倉橋由美子訳(宝島社=05年6月)、山崎庸一郎訳「小さな王子さま」(みすず書房=05年8月)、池澤夏樹訳(集英社文庫=05年8月)、稲垣直樹訳(平凡社=06年1月)、河野万里子訳(新潮社文庫=06年3月)と5種類もあります。

これは異様ですね。

私の推理ではサン=テクジュペリの著作権が切れたせいだと思われます。彼は1944年7月31日に偵察飛行に飛び立ったまま、南仏上空で行方不明になります。44歳の若さでした。通常、著作権は50年なのですが、第二次世界大戦の戦勝国は、戦時中に著作権が保護されなかったとか何とか言って、もう10年くらい引き伸ばされています。昨年は戦後60年でしたから、堂々と出版できたのでしょう。

ということで、読み始めると、翻訳本といっても訳し方が様々でどれも違うのです。手始めに、倉橋さんの遺作となった作品を読むと、さすがに小説家だけに読みやすい。しかし、彼女流の意訳も多いのです。

一番、原作に近いのは、サン=テクジュペリの研究者でもある京大大学院教授の稲垣さんの訳ではないでしょうか。実は、彼は、現在、NHKラジオのフランス語講座の講師をやっていて、私は、それに触発されて、フランス語で読み始めたのです。テキストには訳が載っていますが、3分の2くらいで、残りはカットされています。それで騙されて彼の翻訳本を買わされてしまったわけです(笑)

フランス語のお勉強は実に四半世紀ぶりです。

『星の王子さま』のハイライトは、何と言っても、キツネが王子さまに3つの「秘密」を説き明かすことです。

その1=「心でしかものは見えないんだよ。大切なことは目で見えないんだよ」

その2=「バラのために失った時間こそが、君のバラをそれだけかけがえのないものにするんだよ」

その3=「君が馴染んだものに対してはいつまでも君には責任があるんだよ」

急に読んだ方は何を言っているのかわからないでしょうが、大変な隠喩が含まれています。

是非、原書で読んでみてください。

五日市 剛さん

 中札内村美術館

 

五日市剛(いつかいち・たけし)さんの講演録「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を読みました。あまりにも面白かったので、その触りをご紹介します。

巻末のプロフィールに、五日市さんは昭和39年生まれ。マサチューセッツ工科大学に留学。工学博士。現在、企業経営の傍ら、数社の研究顧問を務めているーとあります。

講演は2000年12月に、金沢で十数人の前で行われたもので、あまりにも面白いので、当時、80歳だった安田善次郎さんという人がテープを起こして小冊子にまとめたところ、あっという間に全国に広がったそうです。

内容を一言で言えば、言葉には魔力があり、絶えず「ありがとう」「感謝します」「ツイている」という言葉を口に出せば、運が開けて、人生が好転するーといった真理を説いています。

「そんなうまい話があるわけない」という人は、それでその人の人生は終わってしまうことでしょう。

特に、毎日、人の悪口を言ったり、天を呪ったり、いつも「バカヤロー」だの「テメー、コノヤロー」などと、汚い言葉を使っていると、その人の人生も同じように汚くなって、運も開けない、というのです。

こちらも一理あるようです。

「感謝の言葉」は、五日市さんが、26歳の時にイスラエルを旅行し、ハイファという港町で出会ったおばあさんから、学びました。

最初は半信半疑だった五日市さんも、その後、次々と不思議なことが起き、おばあさんの言ったことが真理であることがわかるのです。

おばあさんからもらった包み箱から、不思議な縁で、現在の奥さんと結婚することになった話や、不良少女だった女の子の家庭教師になって、彼女を立ち直らせて、見事、宮城県下一の高校受験に合格させた話や、交通事故にあっても感謝の念を忘れずに口に出したら、事故をきっかけに親しい間柄になった話や、就職してから、次々と年収数億円の社長業に誘われる話など、エピソードに事欠きません。

著作権の関係もあるので、これ以上詳しく書けません。もしご興味のある方は、一部400円(送料別)ですから申し込まれたらどうでしょうか。

そこで、問い合わせ先のホームページを今初めて見たのですが、ちょっと宣伝臭い感じがしました。否、宣伝そのものでした。お先棒を担ぐわけではないので、もし必要だと感じられた方はご自分で調べて検索してみてください。

私の内容の評価に変わりはありません。

ダニエル・ピンク著「ハイ・コンセプト」

我々は今、大変な変化期に住んでいるようです。

 

今、アメリカでベストセラーになっているダニエル・ピンクの「ハイ・コンセプト」(大前研一訳、三笠書房)を読んでみました。

 

簡単に言えば、今、「第四の波」が押し寄せているというのです。

 

「第四の波」とは、二十五年ほど前に世界的ベストセラーになったアルビン・トフラーの「第三の波」を援用したものです。

 トフラーは、18世紀までの「第一の波」の農耕社会、19世紀の「第二の波」の産業社会、20世紀の「第三の波」の情報化社会という風に、歴史を枠組みで捉えました。

 

この「理論」を踏まえて、著者のダニエル・ピンクは、この情報化社会も最終期に入り、21世紀になって「第四の波」が押し寄せている、と指摘しているのです。この「第四の波」を「コンセプトの時代」と言っています。

 

 これまでの製造業のブルーカラーの仕事がより安い労働力を提供できる中国などに移ったように、医者、弁護士、コンピューター技師、会計士といった高額の所得が得られる知的労働も、インターネットの発達のおかげで、中国やインドといった安い賃金で働く知的労働者に取って代わるというのです。実際、先進国アメリカでは、その傾向が進んでいます。

 

さて、それでは、知的労働を奪われた先進国のホワイトカラー族たちはどうしたらいいのでしょうか。

 

著者の主張によりますと、これらの知的労働はほとんど左脳を使ったものです。計算などは人間はもうコンピューターに勝てないのです。いくら知識があるといっても、今では「百科辞書的知識」も1枚数百円のチップに収まってしまうのです。一部の特権階級的な学者や役人しか手に入らなかった情報もインターネットで簡単に手に入る時代になりました。

 

そうなると、今後は、右脳を使った労働にシフトせざるをえない。この右脳型労働とは、デザイナーや芸術家、発明家、カウンセラーといった仕事だというのです。

 ルネッサンスー。人間的な、あまりにも人間的な労働にシフトするしかないということでしょうか。

 

私は、あまりこのようなビジネス書は読まないのですが、驚くべきほどの示唆に富んだ本でした。竹村健一氏などは、すでに原文で読んでいて、先週の週刊誌で取り上げていました。翻訳が出る前から着目していたので、訳書については、出ていることすら知らない書き方でした。

 

当然、この変革期の波に乗って大儲けする人と、乗り遅れてしまう人との格差が今後ますます広がることでしょう。 

 

長くなるので、今日はこの辺でやめておきます。皆さんのコメントをお待ちしてます。

「漱石という生き方」

公開日時: 2006年4月15日 @ 14:13

昨晩は尊敬するN先輩と銀座の「炭家」で痛飲して午前様となってしまいました。

家に辿りついたら、またまた尊敬する秋山さんから本が届いていました。

「漱石という生き方」(トランスビュー)というタイトルです。

同出版社のホームページhttp://www.transview.co.jp/books/4901510398/top.htmにアクセスすると、本書について

 

「最も多くの自筆原稿に触れ、画期的な最新版『漱石全集』(1993年刊行開始)を編纂した元岩波書店編集者が、全作品はもとより、書簡・日記・談話などに残されたわずかな痕跡の意味を掘り起こし、漱石が考えたこと、表現しようとしたことの本質に迫る」とあります。

 

そうです。秋山さんとは『漱石全集』が刊行しはじめた1993年に取材でお会いしました。その後、年賀状を毎年やり取りする間柄でしたが、もう13年も交流が続いてきました。私は「漱石の大ファン」を自称していますので、それを知ってか、秋山さんは、漱石全集の別冊や地図なども送ってくださりました。

 

この度、待望の著書を出されたということで、私にもわざわざ送ってくださったのです。

 

まだ目を通していないのですが、これから楽しみです。

 

読了後、またお伝えしたいと思います。

「超バカの壁」

公開日時: 2006年2月26日 @ 22:19

目下、ベストセラートップを行く養老孟司の「超バカの壁」を読了しました。「バカの壁」「死の壁」も読んだので、随分期待して読みました。

養老氏は1937年生まれですから、終戦時は8歳。彼は言います。「小学校2年生の時に空から焼夷弾が落ちてきて逃げ回った世代。だから私には戦争責任はない」。来年70歳になる人が言うぐらいですから、国民の7割以上が戦後生まれになった現在、ほとんどの日本人に戦争責任はないことになります。

彼は、戦後民主主義教育を受けた第1世代に当たるのでしょう。戦後、初めて教科書に向かった時、最初に行ったことが、戦前の「悪しき教育」に墨を塗ることだったそうです。
彼は、「読者にとって気に入らないことは、どんどん墨を塗っても構わない」といいます。

そこで、私は気に入らなかったことを記します。56ページにあります。

「恋愛というのは病気です。もしくはテロみたいなものだと言っていいでしょう。その最中は本当に一生懸命です。他のことは一切構わず、自分の見方でしか見ていない。しかも自分がそういう状況になっていること自体に反省がない」

恋愛をテロみたいなもの、というのは如何なものか。さっちゃんは怒るだろうなあと思いました。

私がこの本で一番収穫があったのは次の一節です。102ページから103ページにかけてです。

「人間がよく陥るのは、自分が正しくないといられないという過ちです。要するに自分が負い目を感じていたくない。自分が潔白でありたいというのが、結構日本人に根強い感覚です。/初めから人間は罪を背負っているもである、気がついていなくても何らかの罪を背負っている、ということを意識していない。腹に一物もないということは、いいことだと思っている人が多い。そういう後ろめたさとずっと暮らしていく、付き合っていくというのが大人なのです」

このことは私に、当てはまりました。これからは、腹に一物を持って、後ろめたさを隠して、嫌味に生きていこうかと思いました。

鈴木秀子著「在(いま)すがごとく死者は語る」

公開日時: 2006年2月22日 @ 21:31

鈴木秀子「在(いま)すがごとく死者を語る」(クレスト社)には不可思議な話がいっぱい詰まっています。

例えば、交通事故で右腕を失った人がいまだに右腕が痛んだり、雪山で遭難しそうになった人が、今は亡きシトー会の修道院の僧に導かれて命が助かったり、とても現実には起こりそうもないような話が展開されます。まさしく科学では割り切れない、不可知な超常現象に近いのかもしれませんが、実際に起きたことのようです。

著者の鈴木先生は「あとがき」にこう書いてあります。

あなたは大宇宙の中で、他の人と代わることのできない、かけがえのない大切な存在です。

この世の使命は、愛を深めて成長することであり、互いに許しあい、互いに生かし合うことです。この世では、慈悲と愛によって成長するための叡智が最も大切です。

「週刊新潮」50周年

本州の恵まれた皆様と違って、北海道でやっと今日、週刊誌が発売されました。

2日遅れです。「週刊新潮」の安河内君に言わせると「北海道は捨ててます」とのこと。はっきり書きます。そう言ったのは、「週刊新潮」の安河内君です。今、どれくらい部数が出ているか知りませんが、仮に50万部とします。恐らく、そのうち45万部は東京首都圏と近畿圏でしょう。要するに1割の5万部が、北海道や九州・四国での販売ではないでしょうか。安河内君はその1割を無視しようとしているのです。彼の言っていることは至極、真っ当なのですが。

いずれにせよ、やっと、東京では木曜発売の「週刊新潮」と「週刊文春」が今日、土曜日に発売されました。

文春の話は次回に譲るとして、「週刊新潮」は、今年で創刊丸50年だそうです。おめでとうございます。

新潮社、いや出版界の天皇と言われていた齋藤十一は、週刊新潮を作った男ですが、マスコミ嫌いで有名で、「週刊新潮」50周年記念号によると、生涯に2回だけ、インタビューに応えているようです。

「週刊新潮」の編集理念は、たった3つの言葉に集約されます。

『金と色と名誉欲』

普通のサラリーマン向けに50年前に創刊された男性週刊誌の理念は、50年経っても変わらないのでしょう。「週刊新潮」を真似して「週刊文春」も「週刊現代」も「週刊ポスト」も始めました。

齋藤十一は、「フォーカス」も創刊しました。「フォーカス」は廃刊しましたが、真似した「フライデー」は今でも残っています。誰も齋藤十一の功績を無視も否定もできません。

しかし、時代は変わりました。

金にも色にも名誉にも全く関心を示さない友人を私は知っています。清貧に甘んじているわけではありませんが、彼は「人とは争わず」「人を羨まず」「任を知る」態度を徹底しています。

もちろん、彼は私のように週刊誌を読みません。

私も仕事関係でなければ、読まないかもしれません。

「世の中、所詮、『女と金と権力』」と言ったのは齋藤十一です。そして、世の男性諸君は、彼に追随しました。

しかし、それは、所詮、齋藤十一の人生観です。

一方では、私の友人のように、「女と金と権力」に無縁な男もいます。

週刊誌の読者の世界は、所詮、テレビの視聴率と同じで、全人口の2割程度でしょう。インターネットも知らない、やったことがない日本人もかなりいるはずですから。

彼は私にとって理想の人物です。それが言いたいがために、今日はブログに書きました。

 

永遠の相の下に

スピノザ(1632-77)の言う「永遠の相の下に」という言葉が好きです。

彼の主著「エチカ」によれば、理性の本性とは、物事を偶然的なものとしてではなく、あるがままに観想することである。理性の基礎は、概念であり、時間とは関係なく、永遠の相の下で考えなければならない。永遠の相の下での認識とは、身体の現在の時空的存在を考えることではなく、神の本性の必然性から生じるものとして考えることである。このように認識したとき、はじめて我々の精神は、神をも認識するという。

現在、盛んにマスコミで取り上げられているホリエモンも東横インも「永遠の相の下」ではすっかり、忘れ去られてしまうことでしょう。あと、10年、いや5年、はたまたこのようなドッグイヤーの時代に3年もつでしょうか?

私が先月20日に取り上げた光クラブ事件の山崎晃嗣も60年近く経ち、すっかり忘れ去られました。

「金こそがすべて」と言って時代の寵児になっても「永遠の相の下」では取るに足らないということでしょう。

それより、「愛こそはすべて」と歌ったミュージシャンの方が、永遠の相の下では、いつまでも人々の心に蘇ることでしょう。
私はそう信じます。

 

無料雑誌の落とし穴

公開日時: 2006年1月24日 @ 20:49

最近の若い連中は、と言い始めたら、もうお仕舞いなんだそうですが、それはともかく、彼らは「情報はタダ」だと思っているらしいのですね。私のように情報収集産業の片隅に生息している輩にとっては、聞き捨てならぬ台詞なのですが、言われてみれば、現実問題、彼らはニュースはインターネットでタダで収集して、おまけに新聞や雑誌は買うことなく、新聞はいわゆるフリーペーパー、雑誌も駅構内や街角で無料雑誌を入手して、それで、済ましているらしいのですから、情報はタダだと思っているどころか、タダの情報に接しているのが実態だったのですね。

地方に住んでいても、フリーペーパーや無料雑誌にはお目にかかります。大抵は、レストランやブティックや不動産などを紹介したまさしく宣伝誌なのですが、クーポン券なども付いていて、結構、重宝します。

一説では、現在、無料紙誌は年間64億部も出版されているそうです。「HOT PEPPER」という雑誌は550万部も出ているそうです。

大手出版社のリクルートが発行する「R25」という雑誌(60万部)は、20代から30代初め向けの雑誌だそうですが、政治・経済からパレスチナ問題など難い国際問題まで取り上げ、すべて800字というコンパクトにまとめて、人気を博しているそうです。(私は現物を見たことはありませんが)

しかし、無料雑誌といえども、決して制作費がタダでなくても、すべて広告費で賄っていることを彼らは知っているのでしょうか。要するに、広告主の商品を宣伝する提灯記事が並ぶことになります。映画や演劇の批評も、辛口な批判的な評は載らず、「よかった」「すごかった」「面白かった」という記事しか載らないわけです。

無料雑誌の究極の対極に位置するのは「暮らしの手帖」でしょう。歯に衣を着せぬ商品の製品テストで知られるこの雑誌は、スポンサーからの圧力に屈しないためにも、一切広告を掲載しないことでそのバランスをとっています。その半面、経営が大変でしょうが…。

民放テレビも、自動車メーカーがスポンサーのドラマでは、自動車事故のシーンが原作にあった場合、カットするという話を聞いたことがあります。

「タダほど怖いものはない」という真実を肝に銘じて、無料雑誌と付き合っていきたいものです。と、PTAの役員の発言みたいな言葉で締めくくりたくないので、やめます。

若者よ、ケチケチしないで、お金を払って、新聞や雑誌や書物を買いなさい!