人間なんて…それより地球の歴史が面白い=「フォッサマグナ」を知ってますか?

 石井妙子著「女帝 小池百合子」(文藝春秋)なんかを読んだりすると、「人間って嫌だなあ」とつくづく思ってしまいます。どうも「他人を支配したい」とか「他人より楽して金儲けしたい」というのが根本にあるようで、他人を利用(搾取)したり、簡単に裏切ったりするのは当たり前。戦国時代なら、親子だろうが伯父、甥だろうが、上司だろうが、跡目争いのためには人殺しなんか日常茶飯事でしたからね。

 特に歴史に名を残すような人間は、人一倍、野心と虚栄心が強く、上にはひいこらしても、下は奴隷扱いで、自己の目的を達成するためには不義、不正でも手段を選ばず、他人を蹴落とし、平気で大嘘をついて、虚飾だらけの見栄っ張りが多いような気がするのは私だけではないと思います。

 これらに加えて、人間には愚痴や羨望心や嫉妬、やっかみ、誹謗中傷、悪口、いじめ、無視、告げ口、盗聴、盗撮、詐欺、脅し、暴行などがあります。

 生きていれば、毎日こんな人間を相手にしなければならないとは…、そりゃあ、誰だってミザントロープになりたくなりますよ。

裏磐梯・五色沼の柳沼

 そんな時は、悩んでばかりいないで、壮大なことに触れるのが一番良いですね。例えば、宇宙とか、何千万光年も離れた星座とか、人間なんか及びもつかない悠久の世界です。

 フランスの文化人類学者レヴィ・ストロースが言うように「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(「悲しき熱帯」)というのは昨今の気候変動でますます真実性を帯びてきたと思います。

 最近、私は、まだ人間なんか登場していない「地学」に興味を持つようになりました。NHKの番組「ブラタモリ」の影響のせいかもかもしれません。

 先日は、番組で、糸魚川ー静岡構造線(糸静線)と「フォッサマグナ」をやっていましたが、実に面白かったです。ただ、バラエティー番組?なので、メモも取らず、寝っ転がってのんべんだらりと見ていたせいか、表面的な理解で終わってしまい、後で、「何たることかあぁー!」と、自分自身の疑問に3日も経って気が付いたほどです(笑)。

 私自身の地学の知識は、中学生程度のレベルですが、今や、その上に、優秀な学者さんによる最新機器によるシミュレーションや研究で新しい事実が次々と発見され、インテリジェンスは昔と比べられないくらい更新されています。

 私なんか「フォッサマグナ(大きな溝)」とは、幅が数百メートルか、せいぜい1キロ程度の断層かと思っていたら、先ほどの糸静線を西の端として、東の端は新発田ー小出構造線と柏崎ー千葉構造線だといいいますから(異説あり)、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての縦断地域がすっぽり入ってしまうということになります(文末の糸魚川市HP参照)。

 番組で覚えていることは、もともと日本列島は大陸にあったのですが、2000万年前の地殻変動によって島として分断されたといいます。しかも大きな一つの島ではなく、南北二つに分かれた島が分離しました。その南北の島の間の海だったところが、いわばフォッサマグナで、1500万年前ぐらいから活発になった地殻変動やら火山活動などで、火山灰や砂岩、泥岩(この二つが交互に重なって埋まると「砂岩泥岩互層」が出来たとか)などがその南北間の海に大量に積もって、くっついてしまい、そのお蔭で、一つの島になったというのです。(番組ではやってませんでしたが、この後、この一つの島から北海道、四国、九州が離れて出来ていくのでしょう。人間なんか全く存在しない時代ですよ)

 北島と南島の境界の海の深さは6000メートルだったそうです。それが、火山灰や溶岩、砂岩、泥岩などで全部埋まってしまうどころか、数千メートル級の山まで出来てしまったわけで、番組では「エベレスト級の山々がすっぽり入る」と解説していました。

 もともと海だったところが埋まって出来たフォッサマグナは、繰り返しになりますが、本州中央部と中部地方から関東地方に当たり、首都東京も入りますから、うろ覚えですが、番組では「日本の人口の三分の一がフォッサマグナに住んでいる」とやっていました。

 番組を見て、3日ほど経ってから、番組の中では一言も言ってくれませんでしたが、私はある重要な事実に気が付きました。「なあんだ、フォッサマグナに富士山がある!」

 となると、日本一の富士山というのは活火山ですから、マグマを底に秘めているとはいえ、水深6000メートルの海に1万メートル近くの溶岩や砂岩や泥岩などが積み重なって出来たということなんでしょうか?

 実に、実に壮大な話ですよね。

 イザコザや、皮肉や、やっかみだらけの人類の歴史よりも、地球の歴史の方が遥かにダイナミックで面白いんじゃないでしょうか?

 ※なお、「フォッサマグナ」に関しましては、糸魚川市のHPをリンクさせて頂きました。

日本の航空の父、フォール大佐にちなんだカツレツ=所沢航空公園「割烹 美好」

 本日書くことは、単なる個人的な日記なので、読んじゃ駄目ですよ(笑)。

 11月19日(金)は本当に久しぶりに会社の元同僚のM君と新宿で一献を傾けました。彼と会ったのは5,6年ぶりか、いやもっとなるかもしれません。彼は嫌な性格で(ハッハー)、こちらが誘っても向こうは断り続け、そのうちにコロナ禍になってしまい、なかなか会えず仕舞いでした。

 私が彼を誘い続けていたのは理由(わけ)がありまして、ここでは書けませんけど、個人的に大変お世話になったことがあったからでした。まあ、ズバリ、彼には御礼をしたかったわけです。

2021年11月19日(金)新宿

 結局、彼の今の職場に近い新宿で会うことになり、私が選んだのは「呑者家」(どんじゃか)という新宿三丁目にある居酒屋さん。この店はビートたけしや「噂の真相」編集長の岡留安則氏らの行きつけの店だったということで、一度行ってみたかったからでした。

 行ってみたら、それほど広いとは言えない普通の居酒屋さんでした。金曜の夜なので、満員かと思っていましたが、まだコロナ感染の怖れで自粛している人も多く、ワリと空いておりました。

 彼とは近況を話したり、かつての同僚の話をしたり、今後の仕事の話をしたりで、ここに特記するようなことはありません。新宿に来たのも、5,6年ぶりぐらいの久しぶりで、店が変わっているところもあり、何となく、街も綺麗になった感じでした。

所沢航空公園「割烹 美好」明治15年創業の老舗

 翌11月20日(土)は、父の17回忌の法要を家族きょうだいのみで墓所がある所沢聖地霊園で執り行いました。当初は6人で行う予定でしたが、結局、母は体調不調で欠席、姉夫婦も急遽不参加となりました。東北大学の教授だった義兄の御尊父が亡くなられ、仙台で葬儀などがあったりしたためでした。

 結局、兄夫婦と私の3人だけでしたが、墓掃除をしたり、綺麗な花を飾ったり、御線香をあげたり、短くお経を唱えたりして無事、法事を済ませました。

 家のお墓の最寄り駅は、西武新宿線の航空公園駅で、近くに所沢航空公園もありますが、知る人ぞ知る日本の航空の発祥地でもあります。

所沢航空公園「割烹 美好」

 その日本の航空の発展・指導の面で大いに貢献した人が、大正8年にフランス航空教育団長として来日したフォール大佐でした。(フォール大佐の通訳を務めた麦田平雄氏の墓地は、我が家と同じ所沢聖地霊園にある、と写真にありますね!)

 そのフォール大佐が日夜、利用した割烹店が今でもあるということで、ランチに行ってみました。兄の車に乗せてもらいましたが、航空公園駅から8分ぐらいの住宅街の中にありました。

所沢航空公園「割烹 美好」フォール・カツレツセット1980円

 到着したら「満員御礼」の表示がありましたが、大丈夫。法事ということで既に1カ月近く前に予約していたからです。予約注文していた料理は、勿論、日本に航空操縦技術を伝授してくださったフォール大佐に敬意を表して「フォール・カツレツセット」です。

 カツが2枚もあってお腹いっぱいになるほどボリューム満点。フランスの軍人なら平気で平らげていたことでしょうが、日本人の年配者には少し多いかもしれません。

 でも、カツレツは、肉が柔らかく、やさしい上品な味でした。

所沢航空公園「割烹 美好」を訪れた著名人

 何と言っても、この老舗店「割烹 美好」は明治15年(1882年)創業ということですから、これまで色んな著名人が訪れています。

 テレビ番組のグルメレポーターやタレントさん、芸能人らの写真が廊下の壁にベタベタと飾られておりましたが、特筆すべきは上の写真です。

 ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士、国連事務次長、東京女子大学長などを歴任し、五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造、満鉄総裁、東京市長などを歴任した後藤新平、それに地球物理学者で東京帝大付属航空研究所顧問なども務めた田中館愛橘、日本航空界の先駆者で陸軍航空を創設・育成した徳川好敏(御三卿清水徳川家八代当主、男爵)もいます。

 へー、と思ってしまいました。彼らもフォール・カツレツを召し上がったのかしら?

 

便利さと引き換えに個人財産を搾取される実態=堤未果著「デジタル・ファシズム」

 堤未果著「デジタル・ファシズム」(NHK出版新書、2021年8月30日初版、968円)を読了しました。読後感は、爽快感からほど遠く、恐怖にさえ駆られてしまいました。

 それでも、この本は現代人の必読書でしょう。私ごとき凡夫が「是非とも読むべきですよ」と主張しても、まあ、ほとんどの方は読むことはないでしょう。その方が、為政者にとっても、政商にとっても、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)やBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)と呼ばれる米中のIT巨大企業にとっても好都合だからです。

 無知な人間は、せいぜい個人情報を搾取して利潤しか追求しないこれらIT企業の策略にはまって、身ぐるみ剥がされればいいだけの話です。でも、そんな無知は罪ですよ。

 そんなことを言っている私自身も無知な人間でした。ここに書かれていることのほとんど知りませんでした。唖然とするばかりです。

 例えば、コロナ禍で自宅でのリモート勤務やセミナーのオンライン開催が多くなりましたが、その際、流行のように使われたのが、ZOOMです。このZOOMは、カナダのトロント大学グローバルセキュリティ研究所の実証検査によって、会議の暗号化キーが中国の北京のサーバーを経由していたことが分かったといいます。

 そこで、同研究所は、このようなセキュリティ上の問題があるため、現時点では以下のような強力なプライバシー保護及び機密性を必要とする場合、ZOOM使用は推奨しないと警鐘を鳴らしています。それは

1,スパイ活動を懸念する政府関係者

2,サイバー犯罪や産業スパイを懸念する企業

3、機密性の高いテーマに取り組む活動家、弁護士、ジャーナリスト

以下略

 この箇所を読んで、私なんかぶっ魂げてしまいました。例えば、現在、インテリジェンス研究所が、機密性の異常に高い「諜報研究会」を毎月開催されておりますが、コロナ禍のため、ZOOMによるオンライン会議となってます。大丈夫かなあ~と心配してしまいました。

福島県 裏磐梯・曽原湖

 広告・コンサル業界世界最大の米アクセンチュアが推進しているデジタル構想にスマートシティというものがあります。これは、交通、ビジネス、エネルギー、オフィス、医療、行政などの様々な都市機能をデジタル化した街のことで、無人スーパー、無人銀行、無人行政など便利さの面で申し分ありません。現在、福島県の会津若松市がモデル都市と選ばれて、実証実験されているといいます。(他に、私もお世話になった北海道の更別村、仙台市、前橋市、浜松市、河内長野市、高松市、北九州市などがスーパーシティに応募しています)

 ただし、スマートシティには便利さと引き換えに落とし穴もあり、著者はその一つとして、個人情報の扱いが緩くなる難点を挙げています。それに、ジョージ・オーウェルの「1984」のような息苦しい監視社会になる懸念は払しょくできないことは確かです。

 日本でその音頭を取っている、というか、お先棒をかついでいるのが「スーパーシティ構想の有識者懇談会」の座長である竹中平蔵氏です。表の顔は慶応大学名誉教授のようですが、裏の顔は、人材派遣会社パソナの会長であり、オリックス、SBIホールディングスなどの社外取締役です。牽強付会、我田引水的手法で自分たちに都合の良いように法律を改正したり、為政者に働きかけたりする「政商」とも言われています。

 例えば、こんなことがあります。

 ソフトバンクとヤフーが設立したPayPayと提携し、NTTデータの決済システムCAFISを通さなくても住信SBIネット銀行から低コストで行える入金サービスを開始した人としてSBIホールディングスの北尾吉孝社長がおります。そのPayPayのようなノンバンクの決済業者が、既に確立された安全性に定評のある全国の銀行ネットに参入する道筋をつけたのが、同ホールディングス社外取締役の竹中平蔵氏である、と著者の堤未果氏は書いております。

 また、竹中平蔵氏が社外取締役を務めるオリックスもまた、自社が手掛けるPayPayを日本に導入する際の仲介ビジネスによって潤うだろう、とまで堤未果氏は特記しています。

 さらに、「LINE Pay」は韓国、アリババが大株主の「PayPay」は中国、「アマゾンペイ」は米国と、日本で使われている資金移動業者の多くが外国資本で、日本の法規制が及ぶとも限らず、そもそも、〇〇ペイには、万一不正使用された場合、「預金者保護法」のような共通のルールはない、とまでいうのです。

 この本の後半は教育ビジネスについて割かれていますが、他にもたくさん、「デジタル・ファシズム」による弊害が、これでもか、これでもかといった調子で描かれています。私が茲で書くより、直接本書を読むことをお薦めします。

 私の読後感は最初に書いた通りですが、我々、現代人は便利さと引き換えに、大切な個人財産と魂まで悪魔に売り渡してしまったような気がしました。

「新説 戦乱の日本史」(SB新書)が当たった!=月刊誌「歴史人」読者プレゼントに3度目の当選

 またまた月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 これで何と3度目です。この雑誌は、あまりにも面白くてためになるので、ここ1~2年、毎月購入していますが、何か申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 今回当たったのは、嬉しくも本です。「新説 戦乱の日本史」(SB新書)という本です。倉本一宏、亀田俊和、千田嘉博、 川戸貴史の各氏ら古代史から近現代史までのその筋の権威が書いているので、面白くないわけがありません。

 取り上げられている「戦乱」は、乙巳の変から関ケ原の戦い、アジア・太平洋戦争まで15件。「新説」ですから、例えば、 乙巳の変は、「蘇我氏内部の抗争も関わったクーデターだった」とするなどこれまでの常識を半ば覆すような説が展開されているようなので、今から読むのが楽しみです。

和田アキ子さんの店、築地「わだ家」

 これで終わってしまうと、あっさりしてしまうので、また銀座ランチ、いや築地ランチです。 

 昨日は、久しぶりに歌手 和田アキ子さんの店、築地「わだ家」に行って来ました。前回行った時は、それほど混んでいなかったのですが、今回は、コロナ感染者の減少のせいか、ほぼ満員で、少し待たされました。

築地「わだ家」 豚丼定食880円

 注文したのは、豚丼定食。これだけ揃って880円とは超お得。

 でも、これまで北海道の帯広で元祖の本場もんを食べて来たので、申し訳ないですが、軍配は帯広の勝ち。こちらは、ちょっとご飯が少なめで、豚が多過ぎ。別に温泉卵もいらないんですけど…。

 こんなことを書くと、アッ子さんから怒られるので、本場帯広の豚丼の味を知っている私が悪いのです、と付記しておきます。

 

幸運にも多くの秘仏さまとお会いできました=「最澄と天台宗のすべて」

 東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行って参りました。何しろ、「天台宗のすべて」ですからね。訳あって、会場を二巡してじっくりと拝観致しました。

 この展覧会は「事前予約制」で、私もネットで入場券を購入しました。一般2100円とちょっと高めでしたが、「伝教大師1200年大遠忌」ということで、大変素晴らしい企画展でした。

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 そんな素晴らしい展覧会なのに、読売新聞社主催ですから、読売を読んでいる方はその「存在」は分かっていたでしょうが、他の新聞を読んでいる方は知らなかったかもしれません。例えば、朝日新聞の美術展紹介欄には掲載していないほど意地悪の念の入れようですから、朝日の読者の中にはこの展覧会のことを知らない方もいるかもしれません。

 私は色々とアンテナを張ってますから大丈夫でした(笑)。先日このブログで御紹介した「歴史人」11月号「日本の仏像 基本のき」でもこの展覧会のことが紹介されていたので、しっかり予習して行きました。(展覧会では、最澄と徳一との「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が出て来なかったので残念でした)

◇ 深大寺の国宝「釈迦如来倚像」と御対面

 大収穫だったのは、東京・深大寺所蔵の国宝「釈迦如来倚像」(7世紀後半の白鳳時代)を御拝顔できたことです。何と言っても「東日本最古の国宝仏」ですからね。いつか行くつもりでしたが、向こうから直々こちらにお会いに来てくださった感じです。倚像(いぞう)というのは椅子か何かにお座りになっている姿ですから、特に珍しいのです。日本では古代、その習慣がなかったので、坐像は多くても、倚像は廃れたという話です。

 深大寺には、もう半世紀も昔の高校生か大学生の頃に、何度か参拝に訪れたことがあるのですが、不勉強で、奈良時代の733年に創建され、平安時代の859年に天台宗別格本山となった寺院で、正式名称を「浮岳山 昌楽院 深大寺」だということまで知りませんでした。この寺には先程の国宝釈迦如来倚像のほかに、2メートル近い「慈恵大師(良源)坐像」があり、それも展示されていたので度肝を抜かれました。これは、日本最大の肖像彫刻で、江戸時代以来、205年ぶりの出開帳だというのです。まさに秘仏の中の秘仏です。「展覧会史上初出展」と主催者が胸を張るだけはあります。私もこんな奇跡に巡り合えたことを感謝したい気持ちになりました。

 秘仏と言えば、この「最澄と天台宗のすべて」展では他にも沢山の秘仏に接することができました。兵庫・能福寺蔵の重文「十一面観音菩薩立像」(平安時代、10世紀)、東京・寛永寺蔵の重文「薬師如来立像」(平安時代、9~10世紀)、滋賀・伊崎寺蔵の重文「不動明王坐像」(平安時代、10世紀)などです。

 この中で、私が何度も戻って来て、御拝顔奉ったのが、京都・真正極楽寺(真如堂)蔵の重文「阿弥陀如来立像」(平安時代、10世紀)でした。高僧・慈覚大師円仁の作と言われます。阿弥陀如来といえば、坐像が多いのですが、これは立像で、その立像の中では現存最古とされています。こんな穏やかな表情の阿弥陀さまは、私が今まで拝顔した阿弥陀如来像の中でも一番と言っていいぐらい落ち着いておられました。年に1日だけ開帳という秘仏で、しかも寺外初公開の仏像をこんなに間近に何度も御拝顔できるとは有頂天になってしまいました。(売っていた絵葉書の写真と実物とでは全くと言っていいくらい違うので、絵葉書は買いませんでした)

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 最澄(767~822年)は、平等思想を説いた「法華経」の教義を礎とする天台宗を開き、誰でも悟りを開くことができるという一乗思想を唱えましたが、比叡山に開いた延暦寺は仏教の総合大学と言ってもよく、後にここで学んだ法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗(以上浄土教系)、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗(以上禅宗)、日蓮は日蓮宗(法華経系)を開いたので、多彩な人材を輩出していると言えます。

 先程の阿弥陀如来立像を作成した円仁(山門派の祖)は、下野国(今の栃木県)の人で、「入唐求法巡礼行記」などの著書があり、唐の長安に留学し、師の最澄が果たせなかった密教を体得して天台密教(台密)を大成し、天台第三代座主にもなりました。一方、阿弥陀如来像を作成されたように、浄土教も広めた高僧でもあるので、天台宗というのは、懐が広い何でもありの寛容的な仏教のような気がしました。(その代わり、千日回峰があるように修行が一番厳しい宗派かもしれません)

 そもそも、天台宗そのものは、中国の南北朝から随にかけての高僧智顗(ちぎ)が大成した宗派ですから、中国仏教と言えます。もっとも、中国仏教はその後の廃仏毀釈で消滅に近い形で衰退してしまったので、辛うじて、日本が優等生として命脈を保ったと言えます。

 伝教大師最澄も、渡来人三津首(みつのおびと)氏の出身で出家前の幼名は広野と言いましたから、日本の仏教は今の日本人が大好きな言葉であるダイバーシティに富んでいるとも言えます。

上野でランチをしようとしたら、目当ての店は午後1時を過ぎたというのにどこも満員で行列。そこで、西川口まで行き、駅近の中国料理「天下鮮」へ。西川口は今や、神戸や横浜を越える中華街と言われ、それを確かめに行きました。

 最初に「訳あって、会場を二巡した」と書いたのは、会場の案内人の勝手な判断によって「第2会場」から先に見させられたためでした。第2会場を入ると、最澄の「さ」の字も出て来ず、いきなり「比叡山焼き討ち」辺りから始まったので、最初から推理小説の「犯人」を教えられた感じでした。時系列の意味で歴史の流れが分からなくなってしまったので、「第1会場」を見た後、もう一度「第2会場」を閲覧したのでした。

 そのお蔭で、円仁作の「阿弥陀如来立像」を再度、御拝顔することができたわけです。

JR西川口駅近の中国料理「天下鮮」の定番の蘭州ラーメン880円。やはり、本場の味でした。お客さんも中国人ばかりで、中国語が飛び交い、ここが日本だとはとても思えませんでした。西川口にはかたまってはいませんが、50軒ぐらいの「本場」の中華料理店があるといいます。その理由は、書くスペースがなくなりました。残念

 なお、私がさんざん書いた円仁作の阿弥陀如来立像は11月3日で展示期間が終了してしまったようです。となると、是非とも、京都・真正極楽寺(真如堂)まで足をお運びください。ただし、秘仏ですので、年に1度の公開日をお確かめになってくださいね。

 あ、その前に、この展覧会は来年5月22日まで、福岡と京都を巡回するので、そこで「追っかけ」でお会いできるかもしれません。

 円仁作の阿弥陀如来立像は、一生に一度は御対面する価値があります、と私は断言させて頂きます。

民藝運動に対する疑念を晴らしてくれるか?=小鹿田焼が欲しくなり

 東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2022年2月13日まで)を観に行って参りました。観覧料一般1800円のところ、新橋の安チケット屋さんで期間限定券ながら半額以下のわずか790円で手に入りました(笑)。

 民藝運動の指導者柳宗悦先生(1889~1961年)の本職は、宗教哲学者だと思うのですが、私自身は、その著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を数年前に読んで初めてその偉大さが分かった遅咲きの学徒だといっていいかもしれません。

銀座・民芸品店「たくみ」

 でも、私自身は、若い時から「民藝」には大変興味を持っていて、その代表的陶芸家である濱田庄司も河井寛次郎も大好きです。東京・駒場の「日本民藝館」にも訪れたことがあります。7月には、民藝の作品を販売する「銀座 たくみ」に行ったりしたぐらいですから。

 とはいえ、最近では、少し、民藝に関しては疑惑に近い疑念を持つようになりました。今では民藝はすっかりブランド化したせいなのか、例えば、銀座の「たくみ」で販売されている作品などは庶民には手が届かない高価なものが多かったでした。本来、民藝とは貧しい田舎の農家の殖産興業のために、伝統を失いかけていた陶芸を復活させたり、貧農の鋤や鍬など農作業具にさえ「日本の美」を見つけたり、無名の職人に工芸品作成を依頼したりした庶民的な運動だとばかり思っていたからです。

 古い言い方ですが、これでは、民藝とはプチブルか、ブルジョワ向きではないかと思った次第です。ただ、これは単に自分が誤解していただけなのかもしれませんが。

 なぜなら、柳宗悦自身は学習院出身のブルジョワ階級(父楢吉は、津藩下級武士出身で、海軍軍人、最終軍歴は少将)です。国内全域だけでなく、中国、朝鮮、欧州にまで取材旅行し、よくこれだけ国宝級の作品をコレクション出来たものだと感心します。ただ、その財源は一体何処から来たものかと不思議に思っておりましたが、この展覧会を見て、彼は稀代のプロデューサーだったからではないかと睨んでいます。

 恐らく、柳宗悦が日本で初めて「メディアミックス」を考え出したのではないかと思います。本人は、雑誌「工藝」等の発行や膨大な著作を量産して出版活動に勤しみ、毎日新聞などと連携して広報宣伝活動し、三越や高島屋など百貨店と提携して販売活動まで促進するといった具合です。

 いわば、民藝のブランド化、権威付けに成功したのではないでしょうか。

東京国立近美の近くには江戸城の石垣が残っていて感動で打ち震えます

 不勉強のため、この展覧会で初めて知ったのは、柳宗悦の弟子である吉田璋也(1898~1972年)という人物です。この人は鳥取市出身の耳鼻科医で、師匠以上に民藝運動に邁進した人でした。地元鳥取市に「民藝館」を建て、作品を販売する「たくみ」を併設し、おまけに民藝の陶磁器やお椀やインテリアの中で食事ができる「たくみ割烹店」まで開いたりしたのです。

 また、鳥取砂丘の天然記念物指定の保護運動の先頭に立ったのが、この人だったというのです。他に、民藝作品のデザインをしたり、著述もしたり、医者をしながら、マルチなタレントを発揮した人でした。

東京国立近美の真向かいが毎日新聞東京本社(パレスサイドビル)。地下鉄東西線「竹橋」駅とつながっています

 「民藝の100年」と銘打っている展覧会なので、民藝運動とは何だったのか、再考できる機会になると思います。私は、民藝とは富裕層向けではないかと思いましたが、他の人は違う考えを持つことでしょう。でも、私は古い人間なので、こういう調度品に囲まれると心が落ち着き、欲しくなります。

 見終わって、ミュージアムショップを覗いてみましたが、結局、2600円の図録は迷った末、買いませんでした。他にも買いたいものがあったのですが、やはり、我慢して買いませんでした。

ちょうど昼時で、毎日新聞社地下の「とんかつ まるや」(特ロース定食1000円)でランチ

 でも、家に帰って、それを買わずに帰ったことを無性に後悔してしまいました。「それ」とは、大分県日田の小鹿田焼(おんたやき)です。1600年頃に朝鮮から連れてこられた陶工によって開窯された小石原焼(福岡)の兄弟窯だそうですが、近年、寂れていたものを柳宗悦とバーナード・リーチらによって再評価されて復活した焼き物で、今では民藝の代表的作品です。

 特に「飛び鉋」(とびかんな)と呼ばれる伝統技法の模様の皿が魅惑的で、この皿に盛った食べ物は何でも旨くなるだろうなあ、と感じる代物です。五寸皿が一枚2200円とちょっと高め。「ああ、あの時買えばよかった」と後悔してしまったので、結局、通販で買うことに致しました。注文して手元に届くまで1カ月以上掛かるということで、届いたら、皆様にお披露目しましょう(笑)。

【追記】

 柳宗悦のパトロンは、京都の何とかというパン屋さんだということを以前、京洛先生に聞いたことがありますが、どなただったか忘れてしまいました。柳宗悦は関東大震災で被災して京都に疎開移住したことがあるので、その時に知り合ったのかもしれません。

 同時に柳宗悦が「民藝」と言う言葉を生み出したのは、京都時代で、この時初めて、柳は濱田庄司から河井寛次郎を紹介されます。その前に柳は河井寛次郎の作品を批判していたので、河井は柳になかなか会おうとしなかったという逸話もあります。

仏像とは何かについての管見

 またまた毎月のように購入している雑誌「歴史人」(ABCアーク)を取り上げますが、11月号の特集「日本の仏像 基本のき」はなかなか読み応えありました。「知っていれば仏像鑑賞が100倍面白くなる!」と自画自賛していますが、その通り、確かにこの本に書かれている知識があるのと、ないのとでは、仏像鑑賞の上で格段の違いがあります。

 仏像に関しては、文章だけで説明されてもなかなか頭に入らないものです。やはり、百聞は一見に如かずです。この特集では、仏像の写真や図解がふんだんに使われているので、分かりやすく、見ていると、是非とも、全国の国宝、重要文化財の仏像を拝観したくなります。

 本書によると、国宝の仏像を所蔵する寺院などは全国に54カ所あるそうですが、私も、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、京都の東寺や三十三間堂、和歌山県の金剛峯寺、岩手県の中尊寺など半分近くは訪れています。しかし、国宝級の仏像は「秘仏」になっていることが多く、例えば、京都・清水寺の十一面千手観音菩薩(33年に1度御開帳)や信州善光寺の阿弥陀如来像(7年に1度)、大阪・観心寺の如意輪観音菩薩坐像(年に1度)などとなっており、寺院に行ってもタイミングが合わずに参拝できなかったことも多かったでした。

 逆に現場に行かなくても、例えば、大阪・藤井寺市にある葛井寺の十一面千手観世音菩薩像や、奈良県桜井市にある聖林寺の十一面観音立像などは東京の国立博物館の展覧会で拝むことができたりしました。

 私自身、これまで、「仏像の見方」などかなり関連書籍は読み込んできましたので、目新しい記述はなかったのですが(生意気だあ!)、如来、菩薩の次に配置される五大明王は大日如来の怒りの化身、八大童子は不動明王の眷属、八部衆は釈迦の眷属、十二神将は薬師如来の眷属、二十八部衆は、千手観音の眷属などといった知識はすっかり忘れておりました(苦笑)。

 通読して、正確に計算したわけではありませんが、日本の寺院の仏像は、阿弥陀如来か、その脇侍の観音菩薩が一番多いような気がしました。それだけ、日本は、浄土教、浄土思想が根強く広がったという証左なのではないでしょうか。

 しかしながら、日蓮は「念仏無間」(阿弥陀仏を信仰して念仏を唱える浄土宗や浄土真宗などの門徒は無間地獄に堕ちる)と批判しましたから、日蓮宗の寺の本尊は阿弥陀如来であるはずがありません。(日蓮宗の本尊は、仏像ではなく「十界曼荼羅」、脇侍は大黒天と鬼子母神)

 考えてみると、浄土宗の開祖法然は、西方の極楽浄土にお住まいの阿弥陀如来を「選択」して信仰の対象にしたわけです。が、実は、東方の浄瑠璃世界には薬師如来がお住まいです(その脇侍が日光、月光菩薩。眷属として十二神将を従えておられます)。日蓮としては、批判の根拠の一つとして、何で、西方の阿弥陀仏だけ取捨選択して他の如来を棄てたのかという意識があったのかもしれません。勿論、法然は西方の阿弥陀仏を選んで宗派を打ち立てたわけですから、それはそれで良いのですが、仏像全体の曼荼羅や構図を鑑賞的に見ると、阿弥陀如来だけでなく、薬師如来も大切な存在であり、二十八部衆まで入れて、やっと完成するという気がします。

 ただ、これだけ仏像の種類が増えたのも、バラモン教、ヒンドゥー教から多大な影響を受けた密教の導入のせいではないかと私は思っています。だから、先ほどの話とは矛盾しますが、信仰の対象(御本尊の仏像)や方便(座禅など)を絞った方が、宗派として成立しやすかったのでしょう。

◇家康は阿弥陀如来像

 人間はか弱いものですから、歴史上、どんな傑物や偉人でも宗教に縋っていたようです。特に、戦国時代はいつ殺されるか、一時も心が休まることがありませんから、戦場にまで小さな仏像を持参したようです。明智光秀は地蔵菩薩、伊達政宗は聖観音菩薩、武田信玄は不動明王、上杉謙信は毘沙門天、豊臣秀吉は三面大黒天、徳川家康は阿弥陀如来をそれぞれ信仰していたようです。

 この他、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像をつくった定朝を始祖とした円派、院派、奈良仏師、慶派といった仏師の系譜は非常に興味深く拝読しました。

 いずれにせよ、仏像に関しては、あまり頭でっかちに考える必要はないと思います。私は、拝観するだけで心が洗われ、落ち着きます。

国宝 鎌倉大仏殿高徳院

【注記】

観音菩薩=如意輪観音(天)、不空羂索観音、准胝観音(人間)、十一面観音(修羅)、馬頭観音(畜生)、千手観音(餓鬼)、聖観音(地獄)

五大明王=不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王

八大童子=慧光、慧喜、阿耨達、指徳、烏倶婆迦、清浄、矜羯羅、制吒迦

八部衆=天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆

十二神将=宮毘羅、伐折、迷企羅、安底羅、摩儞羅、珊底羅、因陀羅、婆夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯羅

二十八部衆 =那羅延堅固(ならえんけんご)、難陀龍王(なんだりゅうおう)、摩睺羅(まごら)、緊那羅(きんなら)、迦楼羅(かるら)、乾闥婆(けんだつば)、毘舎闍(びしゃじゃ)、散支大将(さんしたいしょう)、満善車鉢(まんぜんしゃはつ)、摩尼跋陀羅(まにばだら)、毘沙門天(びしゃもんてん)、提頭頼吒王(だいずらたおう)、婆藪仙(ばすせん)、大弁功徳天(だいべんくどくてん)、帝釈天王(たいしゃくてんおう)、大梵天王(だいぼんてんおう)、毘楼勒叉(びるろくしゃ)、毘楼博叉(びるばくしゃ)、薩遮摩和羅(さしゃまわら)、五部浄居(ごぶじょうご)、金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)、神母女(じんもにょ)、金毘羅(こんぴら)、畢婆伽羅(ひばから)、阿修羅(あしゅら)、伊鉢羅(いはつら)、娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)、密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)

「御年寄」は「老中」と並ぶ政権トップだった=江戸時代の大奥

 衆院選が10月19日に公示されました。1051人が立候補しましたが、女性の比率は17.7%と2割も届きません。2018年に男女の候補者数を均等にするよう政党に促す「政治分野における男女共同参画推進法」が施行された後の初の衆院選だというのに、17年の前回(17.8%)からも下がりました。

 やっぱり、日本は「男社会」なんでしょうかね?

 しかし、現実は、社会の最小単位であるほとんどの家庭では、奥さんが旦那を尻に敷いている場合が多いことでしょう(笑)。

 歴史を見ても、推古天皇持統天皇を始め、女性天皇は歴代十代いらっしゃいます。鎌倉の北条政子、室町の日野富子といった政権のほぼトップにいた女性もいました。

 でも、江戸時代以降は、完璧に男社会になった、と私なんか思っていたのですが、「大奥」の制度ができ、結構、裏で女性が権力を握っていたことをこのほど知りました。

東銀座「森田座跡」(江戸・木挽町芝居町通り)

 最近、音沙汰がなく、何処かに御隠れになってしまった釈正道老師からもう文句を言われないので済むので敢えて書きますが、「歴史人」(ABCアーク)は面白いですね(笑)。10月号で「徳川将軍15代と大奥」を特集していますが、知らなかったことばかりで、本当に勉強になりました。つまり、15代の歴代将軍の業績ばかり追っていたのでは江戸時代は分からないということでした。(以下、管見以外、ほとんどが「歴史人」からの引用です)

 江戸幕府というのは、徳川将軍が一人で全て支配していた独裁国家ではありません。初代家康や「生類憐みの令」を発した五代綱吉のような例外もありますが、ほとんどの将軍は、複数の老中ら幕閣が決めたことを追認する形の方が多かったのです。ということは政権トップは老中ということになります。(大老は臨時に老中の上に置かれた最高職)

 その「男社会」の老中に匹敵するのが大奥の「御年寄」(おとしより)という身分でした。(この上に公家出身の正室=御台所を支える京都から入った「上臈=じょうろう=御年寄」もいた)。御年寄は、1000人の女たち(他に300人の男役人)が働く大奥全体を差配し、将軍の御台所に最も近い存在で、政権運営にも影響を与えました。「口利き」のため、大名や御用商人らからの付け届けも多かったと言われます。史上最も有名な御年寄は、三代将軍家光の乳母も務めた春日局(明智光秀の腹心斎藤利三の娘)でしょう。

 大奥というと、ハーレムのような感じで、将軍なら何でも好き勝手にできると思っていましたが、かなり厳格な規則の上で運営されており、将軍様といえども、いつでも自由奔放に大奥に出入りできず、事前に「予約」しなければいけませんでした。何と言っても、「世継ぎ誕生」という絶対的使命を果たさなければならない将軍にとっては、大奥はお勤めであり、仕事場、職場に近かったのかもしれません。しかも、寝間では、側室が将軍にじきじき頼み事をしないように、少し離れて両脇に御伽坊主(女性)と御中臈が反対向きに添い寝し、聞き耳を立て、翌日、御年寄に報告していたといいます。ナンタルチヤ。

 在位50年、側室16人、子供も50人以上もいた十一代将軍家斉は別格として、将軍は、トップの御年寄に次ぐ「御中臈」(おちゅうろう)8人の中から「側室」を選びます。将軍様の「お手付き」にならない溢れた御中臈は「お清(きよ)の方」と陰口を叩かれ、お手付きになった御中臈も「汚(けが)れた方」とまで呼ばれたといいますからかなり陰湿です。しかも、懐妊したりすると、やっかみからワザと着物の裾を踏んで転ばして流産させるイジメもあったそうです。「ひょっえーー!」です。

 側室候補が8人しかいないということは、かなり激しい女同士の競争社会であり、大奥のほとんどの奥女中は、御台所(正室)らの身の回りの世話をする仕事をしていたわけです。他に御三家などからの女使いを接遇する「御客会釈」(おきゃくあしらい)という御中臈と並ぶ重職もありました。異例ながら、風呂焚きをしている下女が将軍のお眼鏡にかかるという特例もありましたが、奥女中には給金が出るので実家に仕送りしたり、途中で里帰りして良縁に恵まれたりする者もいました。(三代家光の側室で後の五代綱吉の生母となった桂昌院=お玉=は八百屋の娘とも言われ、「玉の輿」の語源になったという説があるが、異説もあり)

江戸・木挽町「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 徳川将軍の正妻である御台所ともなると、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)か宮家(世襲親王家)か天皇家の姫君から選ばれました。十四代家茂の正室和宮は、孝明天皇の異母妹でしたし、有名な十三代家定の正室篤姫は薩摩島津家の一門の娘として生まれましたが、藩主島津斉彬の養女、さらに、関白近衛忠煕の養女として徳川家に輿入れしました。

 ただ正室が世継ぎを生んだのは、歴代将軍の中でも二代将軍秀忠のお江(浅井長政と織田信長の妹お市の方の娘)だけだったのです(三代将軍家光)。あとは、側室か、子供に恵まれず、御三家か御三卿から将軍職を選出しているのです。現代人から見るのとは違って、徳川家にとって、大奥制度は切羽詰まった、絶対必要条件だったことでしょう。

 話は少し飛びますが、秀忠の五女和子(東福門院)は後水尾天皇の女御として入内し、後の明正天皇(女帝)を産んで中宮に立てられています。徳川家も古代の葛城氏(仁徳天皇など)、蘇我氏(用明天皇など)、藤原氏のように天皇家と外戚関係を結んでいたわけです。

江戸・木挽町芝居町通り「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 大奥に入るには「試験」めいたものがありました。御家人、旗本の娘だけでなく、農民、町民の娘でも奥女中らのコネがあれば願書を提出して「吟味」(御年寄の面接試験。文字と裁縫の腕を見る)、1カ月以上の「身元調べ」を経てやっと採用されることがあります。身分社会ですから、将軍に拝することができる「御目見得」になり、側室候補の「御中臈」になるには複数の段階があります。旗本の娘の中にはいきなり「御中臈」になった人もいたようですが、農民、町民の娘は、一番下の下女とも呼ばれた「御末」(おすえ)、もしくは「御半下」(おはした)が出発点です。風呂や食事の水汲みなど力仕事が多かったといいます。

 このように、大奥はかなりストレスが多い職場だったので、「絵島・生島事件」のようなスキャンダルが起きました。

 (写真は、絵島・生島事件の舞台になった歌舞伎の山村座跡=江戸・木挽町芝居町、現・銀座6丁目=を中心に掲載しました)

ジョン・レノンも「パテック・フィリップ」だったとは=銀座・高級腕時計店巡り(終)

 結局、「不評」だの、何のかんのと、自分で言っておきながら、「銀座・高級腕時計店巡り」企画は4回も続いてしまいました。この辺で、お開きということにしましょうか。

 実は、この企画、私の心配をよそに結構好評で、読んでくださる方も多かったようでした。最初は、銀座をブラブラと歩いていると、やたらと高級腕時計店ばかり目に付くので、何か、このブログで特集でもやってみようか、というのがきっかけでした。下調べもせずに始めたので、世界三大高級腕時計メーカー(Vacheron Constantin、PATEK PHILIPPE、AUDEMARS PIGUET)の存在さえ知りませんでした。御粗末ですねえ。やはり、「情報」がすべてです。

 そして、やはり、人間は「情報」に左右されます。その高級腕時計そのものよりも、そのブランドをはめている有名人が気になります。そして、さらに、その自分の好きな有名人がどんな時計をしているのか気になり、自分も全く同じ時計を身に着けたくなってしまうものです。

銀座3丁目「ウブロ」1980年、スイス・ジュネーブで創業

 五輪のメダリストもパレードする銀座のメインストリート、銀座通りには高級腕時計店があるのは前回、書いた通りです。本日は3丁目の「ウブロ」に行って来ました。いや、単に、写真を撮りに行って来ました(笑)。HUBLOTと書いて、「フブロット」ではなく、「ウブロ」と読みます。フランス語の「H」(アッシュ)と最後の「T」は発音しないことは、皆さん御存知の通りです。

  1980年、スイス・ジュネーブで創業と、他の高級腕時計メーカーと比べて歴史が浅いのに、どういうわけか、世界的に人気が高いのです。サッカーのネイマールや日本代表の長友、元大リーガーで現・楽天の田中将大投手とスポーツ選手の愛好家が多いですが、異色なのは、明石家さんまや博多華丸、アンタッチャブルのザキヤマらお笑い界でも大人気なのです。

 さらには、トヨタの豊田章男社長まで愛用しているとか。

 あまりにもメカニックなゼンマイなどが見える機種(?)もありますが、落ち着いた普通の時計もあるので、人気なのかもしれません。 

銀座3丁目「タグホイヤー」1860年、スイス・サンティミエで創業

  銀座3丁目にある「タグホイヤー」は、1860年、スイス・サンティミエで創業。私でさえ、名前を知っていました(笑)。

 米元大統領のバラク・オバマさんもこの時計の愛用者だったんですね。話は少し飛びますが、米国で最も人気が高い大統領だった若きケネディは、「ファッション・アイコン」でした。彼が愛用したスーツは「ブルックス・ブラザーズ」、スニーカーは「ニューバランス」だったとか言うので、誰かさんも真似して買ったりしています(笑)。肝心のケネディが愛用した腕時計は、この後、御紹介します。

 タグホイヤーは、ハリウッド・スター御用達といった感じです。ブラッド・ピット、キャメロン・ディアスらが愛用しています。コマーシャルだけなのか、その辺りは不明ですが。

銀座2丁目「カルティエ」1847年、パリで創業

 最後は、銀座2丁目にある「カルティエ」です。1847年、パリで創業した時計店というより宝飾店です。 何故、カルティエかといいますと、1919年に発売された長方形の「タンク」(第一次世界大戦時の戦車のキャタピラーがモチーフだとか)がセレブの間で大流行したからです。

 先ほどのケネディ米大統領が、ジャクリーヌ夫人とともに愛用したのが、このカルティエ「タンク」でした。この他、アンディ・ウォホールやアラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーブ、イブ・モンタン、モハメド・アリらも愛用していたといいます。

 そうそう、忘れるところでした。私の大ファンであるジョン・レノンはどんな時計をはめていたのか?ーうーむ、今は簡単に調べられますね。やはり、そうでしたか。「Patek Philippe Chronograph」でした。

 「永久カレンダー」付きの時計で、何と、私が以前から一番欲しいと思っていたほぼ同じ腕時計でした! でも、1000万円近くはします(笑)。当たり前の話ながら、ジョン・レノン氏は超お金持ちだったんですね。(ちなみに、ポール・マッカートニーもエリック・クラプトンも違うタイプのパテック・フィリップを愛用しております)

 お後がよろしいようで。

【追記】

 ジョン・レノンのパテック・フィリップは、1000万円どころか、2500万円以上はするタイプかもしれません。ジョンと安田財閥出身の小野洋子さんの名誉のために訂正しておきます。

 また、パテック・フィリップは数千万円どころか、1億円以上のものもザラにありました!高級マンションが買えるでねえか。世の中、どうなっちまってるんだぁ。

 もう一つ、ケネディ米大統領が愛用した「タンク」は、夫人のジャクリーンから1957年に結婚4周年を記念して贈られたもの。63年に暗殺された時もその時計を着用していたともいわれています。

天皇陛下も御愛用された時計=銀座・高級腕時計店巡り

 あまり好評ではなかった「銀座 高級腕時計店巡り」企画でしたが、その理由が分かりました。私自身、「世界の三大高級腕時計メーカー」なるものを知らなかったからです(苦笑)。

 それは、古い順に、Vacheron Constantin(1755年)、PATEK PHILIPPE(1839年)、AUDEMARS PIGUET(1875年)でした。

 勿論、銀座ですから、高級腕時計と言われるブランドは、ほぼ全て揃っています。あまりにも沢山時計店があるので、私自身の知識が追い付かなかったのです(笑)。

銀座7丁目 銀座通り「ヴァシュロン・コンスタンタン」創業1755年

 まず、 Vacheron Constantin 。以前は「バチェロン・コンスタンチン」と呼ばれていたそうですが、今は、ちゃんとフランス語読みで「ヴァシュロン・コンスタンタン」です。1755年、ジャン・M・ヴァシュロンによって、フランス語圏のスイス・ジュネーブで創業され、「世界最古」と豪語しています。

 銀座の専門店は、銀座のメーンストリートである銀座通りの7丁目にあり、私も、しょっちゅう、この店の前を通っておりましたが、何しろ、「知識」がなかったもので、全く気が付きませんでした(笑)。よく見たら、「Genève, depuis 1755」と堂々と書かれています。

 1755年(宝暦5年)は、九代将軍徳川家重の時代。この年の11月1日、ポルトガルでリスボン大地震(M8.5~9.0、5万5000人~6万2000人が死亡)がありました。

白鶴 創業1743年

 でも、御安心を。日本には1755年より古い1743年創業の「白鶴」があるじゃないか!あ、ちょっと、ジャンルが違いましたね(笑)。

銀座7丁目「日新堂」(1892年創業)パテック・フィリップ(1839年創業)正規販売店

 次は PATEK PHILIPPE 。「パテック・フィリップ」の読みは昔から変わらず。日本には専門店はないようで、銀座では十数軒ぐらい、「正規販売店」があるようです。上の老舗時計販売店「日新堂」は銀座で1892年に創業されているので、日本でも早いうちから PATEK PHILIPPE の正規販売店になったと思われます。何しろ、明治天皇をはじめ、代々の天皇陛下が御愛用されているといいますからね。

 パテック・フィリップは1839年、ポーランドの亡命貴族アントニ・パテックと時計師フランチシェック・チャペックによって、ジュネーブで創業。この後、時計師はフランス人のジャン・アドリアン・フィリップに代わり、1851年に正式に「パテック・フィリップ」社となります。

 まさに、高級腕時計の代名詞で、安くても500万円ぐらい。1000万円、2000万円は当たり前です。何しろ、文豪トルストイも、楽聖ワーグナーもチャイコフスキーもこの時計を愛用していたと言われますから…。まあ、君も僕も、庶民としては「話のタネ」として楽しむことです。もしくは、これから奮起して、一人50億円で宇宙旅行する前澤友作さんのように大金持ちになりますか?

銀座6丁目 外堀通り「オーデマ・ピゲ」1875年創業

 最後は、 AUDEMARS PIGUET。アウデマース・ピグエットではありません。これを「オーデマ・ピゲ」と読める日本人は、フランス語をかじった人ぐらいでしょう。私もフランス語をかじったので読めますが、 AUDEMARS は、「オーデマ」より「オードゥマール」と表記した方がいい気がしますが、余計なお世話ですね。1875年、ジュール・L・オーデマとエドゥアール・A・ピゲ によって、スイスのLe Brassus ル・ブラッスュ村で創業されました。

 こちらも、世界三大高級腕時計メーカーですから、「売れ筋」は500万円ぐらいです。懐に余裕のある方はどうぞ。

おまけは、銀座6丁目のみゆき通りにあるスイスの「ブライトリング」。1884年創業

 まあ、コロナ禍で職を失って、食べる物さえ困った人たちが、都内の公園で配られる「無料お弁当」に列をなして並んでいる御時世です。先日も新聞に記事が出ていたのですが、池袋の公園では20分で400食分がなくなったといいます。これは、「2008年のリーマン・ショック以来だ」と書かれていました。

 ですから、こんな「銀座 高級腕時計店巡り」という企画自体が、今のご時世では不謹慎だったのかもしれません。

 しかしながら、500万円の腕時計を販売する店がこれだけ銀座に乱立していてもつぶれないということは、それだけ顧客さんがいるということです。つまり、世の中には、500万円の腕時計を買う人がいれば、貯金もなく、公園で無料お弁当配布に並ぶ人もいる。それだけ、貧富の格差が拡大している証左がここにあると言いたい、とブログには書いておきます。