松永耳庵記念館の蝉の【動画】です

オフィシャルサイトを充実させるために、【動画】も載せたいと思い、今日は雨が激しく降る中、サイトWordpress の勉強会を覗いてみました。

かつては大名の上屋敷街、今も超高級住宅街である 東京・市ヶ谷のマンションの地下にあるオフィスで、先生はボランティアで、部屋の使用料1000円のみ。

個人個人がめいめいに先生に質問して、思い思いに納得するという何だかよく分からない勉強会で、講義もなく、始めも終わりもないような感じでした。参加者もホームページを製作する会社から派遣されたプロの人から、私のように全く何も分からないド素人までさまざまでした。

今日は、とにかく先生には動画のアップの仕方を教えてもらいました。意外と簡単でした(笑)。

小生の真向かいに座っていた女性は、何か気に障ったのか、小生を避けるようにして席を移動するので、何か居たたまれなくなって、途中で帰ることにしましたが、隣りに座った初対面のYさんは、とっても親切な方で、画像にしろ、動画にしろ、著作権があるので、掲載しても大丈夫な無料の動画やフリーの画像などがあることまで教えてくれました。

私は、できれば、ビートルズやモーツァルトなどの音楽の動画を掲載したいと思いましたが、著作権の関係で無理なようなので、自分で撮った動画をテストとしてアップしてみました。


この動画は、夏休みに小田原の松永耳庵記念館を訪れた際、喧しく鳴いていた蝉さんの動画です。全く季節外れなのですが(笑)、今回は初の試みであり、実験です。如何でしょうか?

動画は小生が撮影したので、著作権は渓流斎にあるので大丈夫です(笑)。いつか、世界最小メディアとして、天下のマスコミさんが飛びつくような凄い動画をアップしたいと思ってます(爆笑)。

新聞の危機

東京・虎ノ門「小虎」

媒体新聞の敏腕記者相川君から急に「虎ノ門の小虎に来るように」との連絡がありました。

私は、聖書に書かれるような心の貧しい人間ですから、残りの人生、あまり苦手な人物とは同席したくない、という思想信条ですから「どなたが来ますか?」とお尋ね奉ったところ、「来れば分かります。強制です」だとさ!

強制なら仕方ない、ということで出掛けたところ、不安は的中しました。昨日、ウマズイめんくい村の赤羽彦作村長さんの京都での失敗談をこの渓流斎日乗で暴露したところ、彦作村長さんから「せっかく、書こうとしたことを先に書かれた。この落とし前、どうしてくれるねん?」と猛烈な抗議があったばかりでした。

その彦作村長さん御本人が手ぐすね引いて、席に陣取っていたのです!バツが悪いったらありゃしまへん(苦笑)。

そして、相川記者はいきなり、「おっ!世界最小の誤報メディアの登場」と宣うではありませんか。先日「空也饅頭」と書いたことを指摘して、「渓流斎さんや、あれは饅頭じゃありませんよ。最中です。虚報です。フェイクニュースを書いちゃ駄目じゃないですか!」と、鬼の首を取ったかのように勝ち誇るのです。

京都・智恵光院

さて、指定された居酒屋「小虎」は京都のような店構えで、間口が狭くて入りにくいのに奥行きが長く、飲み物が一杯100円という安さ。こんなパラダイスはありませんね(笑)。

虎ノ門は、好きですねえ。幕末は刀剣屋が軒を並べ、新撰組の近藤勇がここで名刀「虎徹」を買い求めたと言われてます(異説あり)。

今でも、刀剣屋は何軒か残ってますが、虎ノ門といえば、霞ヶ関官僚の皆様の天下り先である公益法人のメッカであることは広く知られてます。ですから、居酒屋の客層もほんの少しだけ洗練されております。

で、我等が秘密倶楽部の会合には全部で9人参加しました。どなたがいらしたか、実名を書くと、相川記者は「ただじゃおかねえ」と山賊のように目を剥いて恐喝するので書けません(笑)。

まあ、マスコミ関係の大御所の皆様が多く参加したことぐらいは書けるでしょう。

「渓流斎日乗」を今年9月1日から独立させて、新しく「世界最小メディア」を立ち上げた関係で、昔の記事のカテゴリーを整理していたところ、2008年2月18日に「日本新聞協会の『データブック』と題してこんな記事がありました。

「2006年、国内での日刊紙の発行部数は、約5231万部あるのですが、10年前の1996年には、5355万部もあったのです。この10年間で実に、124万部も減っているのです。地方紙が5紙も6紙もつぶれていることになります。

内訳を見てみると、一般紙が4698万部から4706万部に増えているのに対し、スポーツ紙が658万部から525万部と100万部以上減っているのです。原因はスポーツ紙にあったのですね。」(引用終わり)

ちょうど10年前のデータです。そこで、昨晩はマスコミ関係者が集まったので、探訪記者として取材してみました。

まずデータですが、2016年の国内の新聞発行部数は、約4328万部。その内訳として、一般紙が3982万部、スポーツ紙が346万部となっていたのです。上に挙げた数字と比べてみてください。もはや「壊滅的」という表現が生温い感じです。

若者の新聞離れが要因の一つでしょうが、スマホなんかでニュースや情報が簡単に無料で取れるようになったことが大きいでしょう。キオスクもどんどん潰れています。

15年ほど前まではまだ救いがあったような気がします。公称ながら、読売新聞は「1000万部」と豪語してました。

それが、某新聞社で販売局長も務めたことがある重鎮によりますと、印刷ではなくて実売で読売新聞は500万部を切り、朝日新聞は300万部を切り、毎日新聞は200万部を切っている状況だといいます。スポーツ紙で最も売れているのが、日刊スポーツで30万部ほど。あとは夕刊紙も含めて惨憺たる状況だというのです。

しかも、新聞を最も買ってくれるはずの団塊の世代が老人になって、新聞を買ってくれない。図書館に行って、競馬欄を30部ほどコピーして、輪番で仲間に配って競馬をするというのです。コピー代は一枚10円ぐらいですから、新聞買うより安いというのです。

せこい世の中になったものです。

小説 京都は難しい

京都二条城

「ウマズイめんくい村」と言えば、ライバルを蹴散らして、圧倒的なアクセス数を誇るグルメサイトとして世間では知られています。

何しろ、ライバルサイトと違って、全て自前でたった一人で取材、執筆、編集活動に勤しんでおられるところが、この渓流斎日乗との共通点です(笑)。

しかも、広告宣伝費をもらうことなく、社会還元か慈善活動のような啓蒙活動を行なってますから、大したものです。

主宰者は赤羽彦作村長さん。ある日、京都は東山清水寺近くにある松寿軒の饅頭が「どぇりゃーうめー」(なんで名古屋弁?)との噂を小耳に挟み、村長としては是が非でも賞味しなくてはなりません。

坂東の田舎から京都に電話をかけ、「マンジュウありますか」と尋ねたところ、店の主人は「マンジュウ?そんなもん置いてまへん」とけんもほろろ。

彦作村長さん、「おかしいなあ」と思いつつ、ちょうど日本文筆倶楽部の会合が京都で開催される序でに寄ってみたといいます。

松寿軒は、昭和7年創業と、京都ではかなり新しいお店。それだけに、他の老舗和菓子屋と比べて気合いの入れ方が違うようです。

彦作村長さんが店に入ると、お目当てのマンジュウがたった一個だけあるではありませんか。安心して、店の主人に取材を始めました。この店の饅頭が飛び切り美味いという評判を聞いたこと。自分はわざわざ坂東から買いに来たこと。そして、この間、電話したら、けんもほろろだったことを話そうとした瞬間、後から来たオバハンが、たった残り一つの例のお饅頭を買ってしまうではありませんか!

すっかり、しょげかえった彦作村長は、仕方なく最中を買って勘定を済ませる時に、「実は、この店は、京都五山の建仁寺にまで卸しておられる格式の高いお店ということを聞いて訪ねたのですが、残念でした」と言い残したそうです。

すると、店の主人、さっと顔色が変わり、「えっ?建仁寺?それをご存知でやんしたか?」と言いつつ、またさっと奥に入って、この店一番の自慢の薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)を半ダース持って来て差し出したくれたというのです。

「なあんだ、あるんじゃん。隠して…」と心の中の憤りを隠して、彦作村長さんは、その薯蕷饅頭を有り難く買わせてもらったそうです。

京都の奥深さですね(笑)。

京都の和菓子屋の世界では、上菓子屋、饅頭屋、餅屋とはっきりと格差があって、上菓子屋は天下の宮中や京都五山の法事や茶会に仕出しする上等のお店というプライドがあるようです。

だから、松寿軒の主人も「マンジュウ」と言われてカチンと来たのでしょう。同じお饅頭でも単価が違います。餅屋は、大衆的なおはぎやぜんざいなどを出すお店で、しっかり区別されています。

それを知らなかった彦作村長さんは、最初は足元を見られていたわけです。

いやはや、京都は難しい(笑)。

「運慶」見て来ました★★★★★

東京国立博物館平成館

東京・上野の東博で開催中の「運慶」を見て来ました。京都国立博物館の「国宝」と同じように、こちらも運慶展などと言いません(笑)。

京都のように、かなり並ばされるかなあ、と覚悟してましたが、小雨の悪天候のためか、週末なのに並ばれずに入れました。ただし、館内は二重三重の大混雑でした。

出展作品は、仏像や四天王が主ですから、本来なら荘厳なる寺院で敬虔なる面持ちで拝さなければならないのに、こうして美術作品のように鑑賞するのも何か変な感じがしました。

こちらにも「国宝」がありました(笑)。あの美術の教科書にも載っている東大寺の「重源上人像」も出品されていたので吃驚。作者名はなく、「運慶作とみられる」ということで展示されていたようです。割と小振りですが、生前の上人の性格から強い意志まで見事に表現しておりました。

運慶と言えば、誰が何と言っても、奈良・東大寺南大門の「金剛力士像(阿吽像)」でしょうが、まさか、東京まで運んで来るわけにはいきませんよね。

作品の殆どは、奈良・興福寺蔵のもので、ちょうど今、興福寺では国宝館の耐震工事や中金堂の復元などが行われているため、こうして、寺院外での展示が実現したのでしょう。

これだけ大天才の芸術家の運慶なのに、興福寺の仏師康慶の息子であること以外、生年不詳なんですよね。「風神雷神」の俵屋宗達もよく分かっておりませんが、大天才に限ってそんなもんかもしれません。

今回、私が最も気に入った展示品は、運慶の三男康弁(生没年不詳)の「天燈鬼・龍燈鬼立像」のうちの天燈鬼像でした。これも美術の教科書なんかによく載っています。

高さ約78センチ。普段は四天王に踏みつけられている邪鬼が主役です。天燈鬼は、2本の角と三つの目を持ち、燈籠を左肩に乗せて踏ん張ってます。いいですねえ。普段は、皆んなに恐れられ、汚わらしいと忌み嫌われ、差別されている鬼さんが主役です。本当は心優しい働き者なんですよ、とでも言いたげです。

この作品は、エヘン、国宝です。

東博を出て、昼時でしたので、上野名物トンカツ屋さんにでも行こうかと思いましたが、今は、哀しい哉、立ち喰い蕎麦の身分です。

しかし、わざわざ上野にまで出て来て立ち喰い蕎麦ではあまりにも味気ない。ということで、久し振りに上野警察署近くの「おきな庵」に行ってきました。知る人ぞ知る名店でいつも混雑してます。

思い切って、天麩羅蕎麦950円。やはり、邪鬼としては、身分不相応でした(笑)。

「六諭衍義大意」を読んで

京都・二条城

沖縄にお住まいの上里さんが、「六諭衍義大意」の現代語訳のコピーを送ってくださいました。

六諭衍義は、中国・明の洪武帝が1397年に発布した教訓(范鋐=はんこう=作)で、現代語訳にすると、「両親には親孝行しなさい」「年長者を敬いなさい」「郷里に和睦しなさい」「子孫を教訓しなさい」「各々の職業に全力を尽くしなさい」「非行をしてはいけません」の六項目があります。

これを江戸時代中期に琉球の程順則(ていじゅんそく)が持ち帰り、薩摩藩主の島津吉貴に贈呈されます。さらに八代将軍吉宗にも献上され、後に室鳩巣により和訳され、寺子屋の教科書として全国に波及した、と日本史辞典に書いてあります。

いわゆる一つの安倍首相の大好きな修身ですが、明治の教育勅語にも影響があったと言われてます。

沖縄の上里さんが何で、この六諭衍義大意を小生に送ってくださったのか、その理由についてはよく分かりませんが、六諭衍義を日本に伝えた人は、琉球人だったこと。江戸時代、琉球と明、清とはかなり交流があったことを伝えたかったのではないかと思います。

まあ、日本史の教科書に室鳩巣は出てきても、程順則までは出てきませんからね。

今、この渓流斎日乗を相変わらず電車の中でスマホで書いておりますが、目の前で若い女性が化粧し、優先席では図体のデカい若者が、御年寄が立っているのに短い脚を広げて座っております。

彼らにも、この六諭衍義大意を読んでもらい、感想を聞かせてもらいたいものですが、その場で破られそうです。

神戸製鋼の事件は大変なことに発展するかも?

「いづ源」の京寿司と握り

神戸製鋼の検査データ改竄事件は、11日付ニューヨークタイムズの一面を飾る程、世界的な大ニュースになりました。

最初の公表では、改竄されたのはアルミや鉄粉などなので、被害は飲料缶や自動車部品程度かと思いきや、昨日は川崎会長兼社長というど偉い方が出てきて、「データ改竄はかなりの範囲に及ぶ恐れがある」と明らかにしたらしく、そうなると、大変なことになりますね。

私の旧友で、有名私大を出て、大手鉄鋼会社に勤めている者がおります。彼によると、鉄鋼会社の社員は、非常に官僚的で(ほんまもんの官僚の皆さんには申し訳ないですが)、「俺たちが国を支えている」という意識が強いらしいですね。

まさに、ビスマルクの言う「鉄は国家なり」です。おお、頼もしいですねえ。

しかしですね。このように、神戸製鋼の事件が、アルミから鉄本体に発展し、まさに国家を支えている鉄道や橋梁や道路などのインフラに使われている鉄自体に問題があったとしたら、危なっかしくて、橋なんか渡ってられませんよね?

確か、安倍首相は、米国の大学に留学して、加計学園さんと刎頚の友となって帰国して、就職した会社は神戸製鋼でしたよね。

あ、今は選挙中なので、「選挙妨害」などという理不尽なレッテルを貼られると困るので、神戸製鋼ラグビー部はかつて、平尾、大八木ら日本代表を擁して日本選手権7連覇を果たした歴史的強豪だということを明記しておきましょう(笑)。

神戸製鋼は、明治7年、川越藩士だった鈴木岩次郎が創業した鈴木商店が明治38年に、前身の小林製作所を買収してグループ傘下にしたものでした。

今ではすっかり忘れ去られた鈴木商店は一時期、三井、三菱の大財閥に並ぶかそれ以上の大商社にまで発展しますが、昭和2年の金融危機を端緒に廃業します。

しかし、この鈴木商店の流れをくむ企業が現在でも活躍しており、今でも、OB会か、懇話会みたいなものがあるようですね。双日、サッポロビール、アサヒビール、太平洋セメント、帝人など錚々たる一流企業です。

勿論、その中心は、年商1兆7000億円弱を誇る神戸製鋼です。

京都行脚最終回 信行寺〜桃庭〜建仁寺〜きんなべ

京都・建仁寺

京都建仁寺 豪州ブリスベーン出身の修行僧が運んでくれました。何と東京銀座の空也最中。

今日は、京都の旅最終回です。

昨日の記事は、あれでも書くのに3時間以上かかりました。そのせいか「長過ぎる!」「もっと短くしろ!」「プライバシーを守れ!」と非難轟々でした。

まあ、めげずに、緩く、温く行きますかぁ〜(笑)。

建仁寺僧堂の門

10月8日(日)のことでございます。今回の京都行脚のハイライト、京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌法要が執り行われました。京洛先生の御親戚、友人知人ら21人が参列しました。中には、遠く大分県や栃木県、埼玉県、東京から参加されておりました。

京洛先生は、京都の由緒ある家系に御生まれになってますので、菩提寺が京都だけで二カ所もあります。

最近、伊藤若冲のほんまもんの天井画で有名になった信行寺と、京都五山の名刹建仁寺です。こういう歴史的建造物の中で法要ができる御身分は限られております。まず、観光客や一般人が入れない所まで、ズズズイと入れます。

道源山信行寺は、創建不詳ながら、浄土宗知恩院末寺に当たります。若冲最晩年の83歳の時に描いたとされる天井画「花卉図」のある寺として有名になりましたが、普段は一般公開されていないようです。

ということで、撮影も禁止されているようで、一枚も写真ありましぇん。

お昼は、祇園甲部歌舞練場の近くにある高級広東料理「桃庭」です。

いやあ、高級料理とあって、美味旨し。普通はとても入れませんが、特別な日として、京洛先生が御招待してくれました。

建仁寺を創建した栄西入定跡。遺骨も納められているそうで…

午後の建仁寺での法要では、僧の皆さん(という表現も変ですが)が7〜8人も合同で声明を唱えてくださりました。

以前、法然上人の伝記を読んだ時、平安時代末期、このお経を複数の若い僧が合唱する声明を聞いた若い女性たちが恍惚となって、阿弥陀如来の救済に縋っていた場面が出てきましたが、その威力(?)は現代でも衰えていないような感銘を受けました。

無事、全ての法要が終わり、一行は、建仁寺の隣りにある祇園「きんなべ」(大和大路四条下る)に入りました。

夜は、高級鍋料理を出す老舗ですが、昼過ぎは喫茶店として、こうして抹茶なども振る舞ってくれます。

京都の店舗は間口が狭いので、そんなもんかと思ったら大間違い。どんどん奥行きが深く、何処までも、何処までも続く感じ。最後はお庭があり、小さな稲荷神社まであるのですから驚きです。

ここなら、密談、密会、隠れ家…何でもオッケーです(笑)。

池波正太郎がこよなく愛したおでんの「蛸長」。やはり、それなり、なので御覚悟を。

この後、夕御飯を兼ねて、新京極通り四条上るの居酒屋「静」に入店。初めて中に入るのには相当勇気がいる店構えでしたが、中に入ると単なる居酒屋さん。値段も安いせいか、京大や同志社、立命館などの学生さんが多く出入りするらしい。壁は、彼らの落書きだらけでした。

この店では、ゆりさんの御学友を始め友人の女性陣が多く参加しました。この席で、「暴言議員」として有名になった豊田真由子さんの先輩筋に当たる御学友さんも注目の的になりました。

えっ?プライバシー侵害?ま、これくらい大目に見てくださいな(笑)。

聚楽第跡~首途八幡宮~武信稲荷神社~「いづ源」

高倉通綾小路下ルの「いづ源」京都寿司の老舗 お醤油は付けはりしまへんで お食べどす

ー京洛先生!また、あの渓流斎の野郎が京都見物の話を書こうとしてまっせ。あんの野郎、許せませんね!

ーまあまあ、お手柔らかに頼みますよ。

10月7日(土)のことでした。京都駅近くあるヨドバシカメラ一階のエビスバーで、京洛先生と全国に情報網を巡らす広域一次団体幹部の吉田氏と赤坂方面にある大手マスコミの元幹部で今は悠々自適の田岡氏と小生と初めて顔を合わせ、ハンバーグランチを食べながら、これから先、何が起こるか分からない弥次喜多道中について、思いを馳せておりました。

結局、これから2泊する大宮中立売にある「ワサビそば」とかいうゲストハウスに荷物を預けに行こうということになり、このゲストハウス近くにあった「聚楽第」跡に立ち寄りました。

聚楽第は「じゅらくだい」ではなく、「じゅらくてい」と読むのが本当らしいですが、「かましまへん」と立看板に書かれていました。

この看板がなければ、あの太閤秀吉が築いた城跡(建物群、庭園、茶屋なども)だったことなど、全く想像もつかなかったことでしょう。

当時の面影なんぞ、全くありゃしまへんでした。

もっとも、この聚楽第跡の歴史を辿れば、ここは、もともと平安宮の大蔵省跡だったらしく、これもやはり、看板がなければさっぱり分かりませんでした。

栄枯盛衰ですね。

この後、所用で立ち寄ったお店近くの首途(かどで)八幡宮に立ち寄りました。

ここは、京都市内で、奥州で産出される金の商いをしていた金売吉次(かねうり・きちじ)の屋敷跡だったらしく、鞍馬山で修行した牛若丸こと源義経が東北平泉に赴く際に、吉次に世話になって旅立ったそうです。

私の話より、この看板の方が来歴は確かです(笑)。

でも、奥州と繋がりがあった吉次という商人は、当然、情報網も持っていたことでしょう。義経が、奥州への首途(かどで)にここに訪れたのも何か理由があったのでしょう。御縁だけでは説明がつかない気がします。

続いて訪れたのは、堀川三条商店街にある武信稲荷神社です。

昨日書きましたが、この商店街にある京洛先生行きつけのレストラン「力」の女将さんの謦咳に接しようとお尋ね申し上げたのですが、不在でしたので、この近く名所旧跡を訪れたわけです。

この武信稲荷神社の近くに、幕末には六角獄舎というものがあり、龍馬の妻になるおりょうさんの父親が、勤王志士の医師だったため、捕えられていたそうです。

龍馬は見回り組などから命を狙われていたので、若い二人は、この神社で密会していたそうです。詳しくは上部にアップした写真の看板をお読みください(笑)。

この神社は、伝説の一寸法師と関係があります。彼が住み込みで奉公していた「三条の大臣殿」というのが、藤原良相公のことで、この良相公は屋敷内にこの武信神社は創祀したというのです。

そこで、この神社にお参りすると、龍馬さんの関係で縁結びの神様に恵まれ、一寸法師の関係で、出世すると言われております。

うーん、私は「終わった人」(内舘牧子)ではありますが、これ以上、出世してどうするの?

いづ源の鯖寿司 このまま食べてくれやす

夜は、高倉通綾小路下ルにある京寿司の老舗「いづ源」に連れて行ってもらいました。食事も美味しいし、女将さんのワンマンショーも素晴らしかった。女将さんの京言葉は、まるで、映画を見ているような感じでした。

京都に寿司の老舗として、祇園新地に天明元年(1781年)の創業の「いづう」があります。味も値段も天下御免。ほんの少しだけ座敷が高い感じのお店です。

そのいづうの別家に「いづ源」「いづ重」「いづ松」があるそうです。別家というのは、弟子筋の人が暖簾分けしてもらって店を開くことだそうで、子どもや親戚が継ぐ分家とは違うといいます。

いづ源は、大正年間創業ということで比較的新しい別家ですが、「安くて旨い」と三三七拍子が揃っています(ナンデ…)

いづ源の女将さんのお名前は伺いませんでしたが、御年はご自分で申告されておりました(笑)。もう、オペラのコロラトゥーラかカンツォーネのような京言葉を唄うように話します。

小生が、「『渓流斎日乗』という世界最小メディアをやっております」という話を伝えたところ、「京都の老舗創業番付」のコピーを私だけにくださいました。勧進元は「時代マップ編集部」になっており、そのキャッチコピーは「100年、200年は当たり前。京には創業1000年以上の老舗がある」というもので、西の横綱は、仏具の「田中伊雅仏具店」で創業は仁和年間(885~889年)。何と創業1132年!東の横綱は、あぶり餅の「一和」で長保2年(1000年)、創業1017年ですか。

このほか、私が知っているのは、和菓子の「とらや一条店」が東の前頭で創業が大永年間(1521~27年)、坂本龍馬も関係のある旅籠屋「寺田屋」が西の十両で慶長2年(1597年)創業。仏教書の「法蔵館」が東の三段目で慶長16年(1611年)、お酒の「月桂冠」が西の序二段で慶長14年(1637年)創業となっておりました。

いづ源の女将さんのお話で面白かったのは、京寿司は、箱寿司といって箱に詰めた押し寿司なので、関東などのように寿司屋の板前さんのカウンターがない。外の「寿司」の看板を見て、店に入ってきた人がカウンターがないので、「あ、間違いました」と言って帰ってしまう御客さんも多いらしいですね。

でも、この店は、大徳寺などほとんど仕出しが専門で、店内の御客さんは収益の1割ほどだというので驚きました。とはいえ、我々4人が食事している間、他に御客さんが入って来ないので少し心配してしまいましたが。

女将さんは、京都という土地柄の有職故実と言いますか、祥月命日など毎日毎日、年中行事でいっぱいだという話をされておりました。どういう漢字が分かりませんが、お祝い事をする時、「ひろぶだ」に入れて、簡単な手紙も添える話をしておりましたが、とても関東人では面倒臭くてできませんね。

あと、京都では和尚さんのことを「おっさん」と言うのが普通らしく、これにも吃驚しましたね。発音記号が書けませんが、「おっさん」ではありません。男体山みたいな発音ではありません。どっちかと言うと、月山みたいな発音の「おっさん」です。こんな説明で分かるかなあ…。

京博120周年記念展「国宝」、養源院、堀川三条「力」の女将さん、

京都タワー

二泊三日の駆け足で、非常に充実、満喫した京都の旅を終えて、今、帰宅の新幹線の中です。(10月9日午後5時40分記)

驚いたことに、京都駅は大変な大混雑で、東京までの新幹線は2時間先までの予約席は、全て満員完売。せっかく、事前に指定席券を買いましたが、自由席に飛び込み、ギリギリ座ることができました。

今回の京都旅行の目的は、49歳の若さで亡くなった京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌の法要に列席するためでした。

そのことは、また明日以降に記録させて頂くとして、忘れないうちに本日あったことを書いてみます。

本来なら3日前の方が忘れてしまうので最初に書くべきですが、順序があべこべですねえ。何だかよく分かりません(笑)。

まずは、9日午前中は、念願の国宝展(1500円)に行ってきました。京都国立博物館開館120周年を記念した大博覧会で、本当は、国宝展ではないのです。展は付きません!たった二言「国宝」だけなのです。「頭が高い。分かったかあー⁉︎ 」というスタンスです。威張ってますねえ(笑)

開館時間の午前9時半。市バスで、京博前で降りたところ、びっつらこきましたよ。人、人、人。京博の周りをとぐろを巻いたようにグルグル列が並び、最後尾を辿ったら、東山七条の妙法院辺りまで列が連なってました。

結局、1時間並びましたが、その甲斐はありました。まさに眼福。目に青葉 山ほととぎすでした(意味不明)。

感動の嵐でした。何しろ、じぇーんぶ、ほんまもんの国宝なのですから。

私が実物を見て特に感服したのは、「法然上人絵伝」「信貴山縁起」などの絵巻でした。800年ぐらい経っているのに未だに鮮やかな色彩には驚かされました。

あと、パンフレットに載っていた志賀島の金印や伝源頼朝像(神護寺)も見たかったのですが、この後に公開されるようでした。展覧会は四期に分かれて展示されるので、「こりゃあ最低4回は来ないとダメだなあ」と思った次第。

京博の近くの寺社仏閣として、長谷川等伯の絵画がある智積院と、俵屋宗達の象の絵画などがある養源院を京洛先生から紹介してもらいましたが、時間の関係で養源院だけしか行かれませんでした。

でも、こちらは大正解。ドンピシャリでした。ちょうど、最近、関ケ原の戦い前後の歴史を勉強していたので、まさに登場人物がドンピシャリ合ったわけです。

養源院とは、織田信長に滅ぼされた北近江城主浅井長政の戒名だということを不勉強にも知りませんでした。長政の正室お市の方は信長の妹。2人の間の長女茶々は、豊臣秀吉の側室淀君。三女お江は、徳川二代将軍秀忠の正室という華麗なる一族でした。

この養源院は当初、淀君が秀吉の了解を得て父長政の二十一回忌の供養のために創建したものでした。程なくして焼失してしまいますが、今度は妹のお江が秀忠の許しを得て、表向きは徳川家臣の菩提寺として復興します。

その際、消失した伏見城から広間や襖絵なども移築します。特に、関ケ原の戦いの前哨戦とも言われた伏見城の戦いで、石田三成勢に囲まれて籠城した徳川家臣鳥居元忠ら将士が切腹して血染めになった廊下を、この養源院では血天井として使われていました。

養源院

このほか、何と言っても、画壇に出てきたばかりの若き俵屋宗達(生没年不詳、「風神雷神図」で有名)による象や麒麟、松の襖絵が、手で触れるぐらいの身近で見られることです。

ここはお薦めです(拝観料500円)

けつねうろんをご馳走になってしまいました。

旅先を急いでいたのは、堀川三条商店街「力」の女将さんと午後1時にお会いする約束をしていたからでした。京博に入るのに随分時間を取られてしまいましたからね。

堀川三条通りは、坂本龍馬がおりょうさんと逢引を重ねた所でした。このことは、またいつか書きます。そして、物識りの京洛先生によると、六車線ある京都市内でも指折りの広い大通りである堀川通りは、米軍占領時代、米軍機の滑走路として使われていたそうです。

最近、占領時代の京都を舞台にした本が出版され、そこには烏丸通りで、米軍が示威行動のために軍事パレードしていたという話が載っているらしいですが、堀川通りのことも書いてあるのかしら。

「カフェKEIZO」は、いつもいつも行列

堀川三条商店街のレストラン「力」は、残念ながら、諸般の事情があって店仕舞いしてしまい、次に入るテナントさんが、この商店街の近くでやっている「カフェKEIZO」がチョコレート専門店として、出店するという極秘情報を掴んできました(笑)。

この「カフェKEIZO」は、雑誌に載ったのか、ネットに載ったのか、超人気有名店として浮上し、東京から日帰りで訪れるお客さんもいるとか。コーヒーのほか、軽食とスイーツを売り物にしているようです。

で、「力」の美人の女将さんは、前回ここで食事した時は、キリッとしてましたが、お店をやめてしまったので、すっかり穏やかな表情の一般の市民になっておりました(笑)。京洛先生のお導きで、お頼みしたわけでもないのに、何が悲しいのか、この「渓流斎日乗」の熱心な愛読者になってしまい、今では12年前のアーカイブ記事まで読んでくださっているというお話でしたから、有難い限りでした。

この懇話会で面白かったのは、京洛先生が清水寺近くにある松寿軒の饅頭は、建仁寺や高台寺にもおさめていてとても美味いといった話でした。

私は全く知らなかったのですが、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう=最近は、簡略して上用饅頭と記されているようです)と言われる饅頭にはアンコの中に隠し味として、自然薯が入っているそうですね。

そしたら、頓知の効いた女将さんが「お芋の入って無いのは蒸しパンや」と仰るので皆んなで大笑いしてしまいました。

大政奉還150年の二条城

二条城

今、京都にいます。

京洛先生の北政所の十三回忌の御法要のために、久しぶりに京都に来てます。

空いた時間を利用して、二条城に足を運びました。

二の丸御殿

今年は大政奉還150年ということで、歴史好きの諸兄姉の皆様方でお城に入る切符売場の前は大行列でした。

よく見聞したら、殆どが外国人観光客でした(笑)。大政奉還のことを知ってるのかなあ…。

8時45分開場の朝一番で行ったのですが、二の丸御殿は込み込みでした。でも、二条城庭園や本丸跡に初めて行きましたが、こちらは空いてました。かなり広い敷地でした。徳川家康の威光が偲ばれます。

 

本丸庭園

二条城の二の丸御殿は、中学校の修学旅行以来、およそ半世紀ぶりでしたので、感慨深いものがありました。

徳川慶喜をはじめ、あの「大政奉還」の有名な絵画を大広間で人形を使って3D再現しておりました。

【追記】2017年10月13日

13日付東京新聞夕刊、「大政奉還 克明に『実況』」によると、新発田藩京都留守居役の寺田喜三郎が残した記録文書によると、二条城大広間に集められたのは、約40藩の重臣約50人で、出座したのは老中板倉勝静(かつきよ)。つまり、将軍徳川慶喜はこの時いなかった!後で、居残った薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人だけが慶喜と直接面会した。ということは、有名な大広間で絵で、諸藩の重臣に大政奉還を宣言する慶喜が描かれているのは間違いだった!?