古武術の極意は力を抜くこと

東銀座「ねのひ」鮪付定食 750円

先日、NHKのラジオ深夜便を聴いていたら、ゲストの俳優榎木孝明さんが、最近、古武術に凝っていることを話してました。

寝ながらメモも取らず聴いていたので、記憶は曖昧ですが(笑)、古武術の極意とは、力むのとは真逆に「力を抜く」ことなんだそうです。

私のような未熟もんは、いくら歳を取っても、何をしてもすぐ緊張して力(りき)が入ってしまい、挙句の果てには本来の自分の力を充分に発揮できないまま壊れてしまったりしました。

ですから、「力を抜く」という古武術に少し興味を持ちました。合気道なんかもそれに通じるものがあるのかもしれませんね。

あと、面白かったのは、歩き方です。我々は普段、まあ右脚を前に出したら、左手を後ろに、左脚を前に出したら、右手を後ろにと左右交互にしますね。それは、明治になって、フランスかドイツかの軍隊の行進に倣ったもので、実は、昔の日本人は左右交互にしないで、右脚が出たら右手、左脚が出たら左手と、いわば間が抜けたような歩き方をしていたそうですね。

本当かな?とは思いましたが、能役者や歌舞伎俳優の摺り足なんかに残っているそうです。

だから、「左右交互にしないで歩いてしまう人は、昔の日本人のDNAが残っているのでは」などと榎木さんは話してましたが、「なるほどねえ」と思ってしまいました。

ミラノ・スカラ座

ということで、昨日から「世界最小メディア」と称して「渓流斎日乗」を再開致しました。

何の衒いも気負いもありません。古武術のように力を抜いた精神で、亀の歩みで日々を過ごしていきたいと思っております(笑)。

皆様も「昼の憩い」のように、「農林水産通信員」として珍しい情報があればお知らせくださいね。

京都国立博物館の開館120周年記念「国宝展」は見逃せないなあ

京博 Copyright par Kyoraque sensei

この日乗は、小池さんの顰みに倣って、二都物語、三都物語で展開しております。

今日は、京都にお住まいの京洛先生からのお便りを御紹介致します。

…3日から京都国立博物館では開館120周年記念の特別展覧会「国宝」(NHK、毎日新聞などが主催)がスタートしました。
来月26日まで開かれますが、縄文時代から近世まで、全国の「国宝」210件が、同博物館に集結、会期中。展示替えが、4回(10月3日~15日、10月17日~29日、10月31日~11月12日、11月14日~26日)もあります。

初日の3日、恐らく、混雑しているのではないかとビクビクして覗きましたが、意外に空いていました。初日から15日までの一期目の展示は、「雪舟の国宝(6点)が一堂に並ぶ」でしたが、迂生が感嘆したのは紀元前2000~3000年の「考古」時代の展示室の土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市尖石縄文考古館保管)、同じく土偶「縄文の女神」(山形県立博物館保管)でした。土偶の見事なフォルムに魅入りました。

また、仏画では「赤釈迦(釈迦如来像)」(12世紀、平安期、神護寺所蔵)、「早来迎(阿弥陀二十五菩薩来迎図)」(14世紀、鎌倉期 知恩院所蔵)や「山越阿弥陀図」(13世紀、鎌倉期、京都国立博物館所蔵)、「吉祥天像」(8世紀、奈良期、薬師寺所蔵)など、どれも見ごたえがありました。釈迦や阿弥陀が別世界からやって来る、有難い姿が目に焼き付きつきました。

この後、「国宝展」では、あの有名な志賀島で出土した「金印」(福岡市立博物館所蔵、10月31日~11月12日展示)や空海直筆の国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(部分)、(8~9世紀、平安期、金剛峯寺所蔵、10月17日~29日展示)などが、続々展示、公開されます。

「絶対秘仏」と比べると、「国宝」は目にする機会は多少多いですが、これだけ一堂に展観される機会は、希少だと思います。もし、上洛されたら覗かれてはどうでしょうか。…

なるほど、京都へは近いうちにお邪魔して、国宝さまの御尊顔も拝したいと存じます。

何か、聞くところによりますと、京博開館120周年記念展なので、東京など全国巡回しないようですね。それなら尚更ですね。…

銃規制と刀狩り

ミラノ

昨日書いた政治評論家の篠田氏の解説面白かったですね。あれから、篠田氏から電話がかかってきまして、「言い忘れたことがある。小池の希望の党は、上納金まで取っとるらしいやんけ。供託金を含めて400万やと。これじゃ、どこかの広域団体と変わらんじゃろ。そのうち、分裂して、出て行った方は『任侠 希望の党』と名乗るちゃうか。ワハハハ」とまくし立てておりました。

※※※※※

さて、1日に米ラスベガスで銃乱射事件がまたまた起きました。今のところ、59人が亡くなり、500人以上が重軽傷を負ったということですが、死者はもっと増えるのかもしれません。

米史上最悪の事件のようです。

まだ、犯人の動機が分からず、不可解なことが多過ぎますが、たった一人の64歳の初老(という言い方でいいと思いますが)の男が、ホテルの32階から銃を乱射して、320メートルも離れた所の野外広場で、カントリーミュージックの公演を楽しんでいた一般の市民を無差別に虐殺するとは常軌を逸してます。

犯人は、不動産投資でかなりの資産があり、自家用飛行機まで持っていて、カジノでは一日に1万ドルも賭けていたという報道もありました。政治的、民族的、宗教的動機どころか、貧困差別に喘いでいたわけでもなく、軍隊歴もないので、何が彼をそうさせたのか不可解極まりない。銃マニアだったらしいですが、普段は普通の市民として暮らしていたと思われ、何か、米国社会の底深い闇を見せつけられた感じです。

カントリーミュージック公演ですから、被害者の殆どが白人で、恐らく裕福な人たちだったと思われます。そして、何よりも、米国社会を分断する銃規制に関しては、規制反対派に属する人たちだったようです。

日本だったら、これだけ被害が甚大だったら、銃規制に対する強化が叫ばれると思いますが、そうならないのは米国の歴史のせいでしょうね。

これは私が言い出したわけではありませんが、竹林の賢人によれば、アメリカはまだ刀狩り以前の国だということなのです。

これは、歴史の進歩のみに着目する歴史観とは真逆なので、言い得て妙です(笑)。21世紀になっても、ニューギニアやアマゾンの奥地では、未だに裸で縄文時代とあまり変わらない生活を営んでいる民族がいると聞いてます。進歩=正義という思想には相反してますが、淘汰されず生き残っているということは、近代的ビルを建てて資本主義の権化に染まり、齷齪働くよりましだから、そう選んだに過ぎないのでしょう。

米国が刀狩り以前の国だというのは、インディアン(ネイティヴアメリカン)を銃で虐殺してフロンティアを開拓してきた歴史的背景があるからでしょう。

私は、刀狩りを断行した秀吉は偉かったと思います。結果的に、米国より安心して好きな音楽が聴ける環境をつくってくれたことは感謝すべきだと思ってます。

犠牲になった皆様の御冥福を御祈り致します。

哈爾濱学院 余話

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

昨日、「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」のタイトルで駄文を書きましたが、日曜日だというのに実に3時間も掛かり、「あにやってんだか」と貴重な時間を無駄にしたような気分になりました。

ところが、嬉しいことにこの記事を読んでくださった皆様からしっかり反響があり、私もすっかり上機嫌になってしまいました(笑)。

お一人は、哈爾濱学院同窓会の事務局長の宮さんからです。哈爾濱学院卒業生で恵雅堂出版会長の麻田平蔵氏が撮影した写真まで添付してくださいました。

この写真は、1991年8月撮影となっておりますから、まだ藍天幼稚園になる前の当時の面影を辛うじて残していた最後の頃でしょう。

日本の国家がロシア語の精鋭を養成するために建てた学院だけあって、建物も威風堂々として立派ですね。

私は、4年前ほどに一度、旧満洲旅行した際にこの哈爾濱学院跡を訪れております。鬼才栗原先生、たまたま偶然お会いした日経編集委員の内田氏も一緒でした。

昨日の記事で、松岡氏からお借りした写真を掲載しましたように、学院の跡は藍天幼稚園になっていて、ディズニーランドのような校門で締め切りになって中に入れず、写真を撮るのに大変苦労したことを覚えております。

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

で、最新情報なのですが、この藍天幼稚園は今はもうないそうですね。昨日の宮さんからのメールで初めて知りました。以下は宮さんからのメールの引用です。

…学院のピンクの校舎は本当に残念ですが、藍天幼稚園は2年くらい前に火災が有り、今は使われていないようです。幼稚園は他の場所に移動したそうです。建物は空軍の管理下に有るはずです。…

へー!そうだったのですか!

昨日は哈爾濱学院卒業生の竹中重寿(故人)が、ハルビン特務機関員として李香蘭を尾行していたことを書きましたが、彼にまつわる情報も宮さんは添えてくれました。

…哈爾濱学院20期 卒業生98名のうち、特務機関に関係したのが23名(ハイラル、大連、奉天、東安、三河、哈爾濱)。そのうち、竹中重寿と同じ哈爾濱特務機関だけで12名が関係しています。
特務機関に関係した人たちの中には、詳しいことを家族にも話さず亡くなった方が多いです。特に特修科、専攻科の人たちについては謎ばかりです。…

そりゃそうでしょう。諜報機関の人間が、名前を知られただけでも大問題どころか、失格ですからね。名簿があること自体、奇跡でしょう。

さて、もう一人。皆様ご存知のガルーダ博士こと山本悦夫氏からも今朝、メールがありました。

何と!李香蘭こと山口淑子は山本氏の親戚筋(母親の又従姉妹)に当たり、福岡県大川市の出身のようだというのです。手書きの家系図もスキャンして送って頂きました。

これにも驚きましたね。でも、山本さんの二人のお嬢様は、李香蘭に似て美人だった理由がこれで分かりましたよ。

【追記】

哈爾濱学院が何故、藍天幼稚園になり、その幼稚園が火災のため移転して、現在、空軍の管理下に置かれているのかさっぱり分からなかったのですが、先ほど、松岡氏からメールを頂き、その理由が分かりました。「藍天幼稚園は、確か空軍将校の子女が通う幼稚園だったと聞いてます」と仰るのです。これで平仄が合いますね。やっと謎が解けました。

中国共産党もエリート養成校(しかも早熟幼児教育)として使用していたことになります。恐らく特別教育が施されていたことでしょう。哈爾濱学院の関係者の方々も、建物をピンク色に塗り替えた中国当局の神経は理解できなくても、一応過去の伝統を踏襲してくれていたことは理解できるかもしれませんね。

関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関

哈爾濱学院

二年前に大病したため、ご無沙汰してしまった近現代史研究会のセミナーにやっと復活参加することができるようになりました。かつては色んなセミナーに毎週のように参加していたのですが、これからは月に1回は何処かに顔を出していこうかと思っています。

昨日参加したのは、東京・高田馬場の早稲田大学で開催されたNPO法人インテリジェンス研究所主催の第20回諜報研究会。この会は、3年ほど前の第1回に参加しましたから本当に久し振りです。今回の特集は「満洲のインテリジェンス研究」。インテリジェンスなんて気取った言い方をしてますけど、要するにスパイ活動、諜報活動、宣撫活動と言った方が早いですね(笑)。

最初の立教大学の川崎賢子特任教授の「李香蘭をめぐるインテリジェンス人脈」は、李香蘭=山口淑子(1920〜2014)が、主体的に諜報活動に携わっていたのではないか、という疑惑を報告していました。

李香蘭の実父山口文雄は佐賀県出身で、満鉄で中国語を教えていたらしいですが、この人物についてはあまりよく分かっていない。軍閥で銀行家で回族の李際春と出会って、娘の淑子を李の義理の娘分とし、李香蘭の名前を得るらしいのですが、李際春と山口文雄がどうして知り合ったのかもよく分かっていないらしいですね。

今の哈爾濱学院⇨藍天幼稚園 Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

ところで、今、「満洲今昔物語」の製作に日々情熱を傾けている作家の松岡將氏から、旧満洲のハルビン市に国家戦略としてロシア語に精通した人材を輩出するためにつくられた哈爾濱学院の今と昔の写真をちょうど昨日、送って頂きました。

昨日の川崎教授の話の中で、李香蘭が主演した、甘粕正彦の満洲映画作品「私の鶯」(大佛次郎原作、岩崎昶製作、島津保次郎監督・脚本、服部良一音楽、ハルビン・サヤービン歌劇団、ハルビン・トムスキー劇団などが参加)を1943年にハルビンでロケをしている際に、竹中重寿という男が、トムスキー劇団員になりすましたスパイと一緒に、主役のバリトン歌手サヤービンと李香蘭の尾行を担当していたことを、何かの本(出典不明)を引用して明らかにしていました。

この竹中重寿は、この哈爾濱学院出身で、ロシア語の才能を見込まれて関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関に徴用され、「謀略班」に配属され、上司山下高級参謀(中佐)の命令で李香蘭担当になったらしいですね。

このことを哈爾濱学院同窓会の事務局を担当している宮さんにお伝えすると、名簿の中で「 【竹中重寿】  哈爾濱特務機関(関特演時)(終戦時) 20期 平成4年4月9日死亡(73歳)  昭和31年まで中国に抑留 元岐阜大学教授」とまでは確認できましたが、李香蘭との関係まで把握されていなかったそうです。

宮さんからは 「貴重な情報」と喜ばれましたが、昨日は「諜報研究会⇨松岡さん⇨宮さん」と不思議な縁で繋がっていましたね(笑)。

藍天幼稚園(戦前戦中の日本の国家がロシア語の最高権威を輩出するためにつくった最高学府を、選りに選って、中国共産党は、幼稚園に使っているとは…)Copyright par Duc de Matsuoka Sousoumu

昨日の諜報研究会では、東大大学院の留学生王楽さんの「満洲国農村部における宣撫宣伝活動ーメディア利用実践を中心に」という報告がありましたが、長くなるので残念ながら省略します。

最後は、大御所の山本武利・インテリジェンス研究所理事長の「関東軍情報部と陸軍中野学校」では、国立公文書館つくば分館が所蔵する引揚援護局作成の「関東軍情報部50音人名簿」3113人を分析し、伍長から少将まで110人の人物を特定し、戦争末期に関東軍に所属した中野学校出身者は120人だったことから、中野学校出身者の90%が情報部に所属していたことを突き止めておりました。

何しろ話はハイブロー過ぎて、恐らく、かなりの予備知識がない人でないと、セミナーにはついていけなかったと思います。

私は一人、秋草俊の話に注目しました。この日乗でも2017年2月6日に「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」のタイトルで、この秋草については、少し書いておりますから、ご参照ください。(下欄の「関連」に出てきます)

この本では、秋草は、731部隊の石井四郎から「一緒に帰国しましょう」との誘いを「自分には責任がある」と言って断って残り、シベリアに流刑され、1949年3月に「獄死」したことになっていましたが、山本理事長が発掘した名簿の中には、秋草俊の欄に「50・4・8 16地区受刑」とあり、山本理事長の解説では「これは、1950年4月8日に16地区で処刑されたことを意味するのではないか」と推測しておりました。やはり、ソ連軍の手により殺害された可能性があるんですね。

さて、これらの名簿は一体何なのか、疑問に思っていたところ、会場にいた加藤哲郎一橋大学名誉教授が「名簿は、陸軍留守業務部が1945年8月につくったもので、給与支払い、もしくは軍人恩給支払いのためではないか。恩給なら、最終階級などが必要ですからね」と解説してくれて納得しました。

加藤名誉教授は最近、「『飽食した悪魔』の戦後  七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)を上梓しましたが、石井細菌部隊の名簿に関しては、厚生労働省に対して情報公開を散々請求して昨年の夏にやっと公開されたそうです。これまで、石井細菌部隊の関係者は300人しか分かっていなかったのに、この名簿公開で3500人も出てきたそうです。以前は関係者に女性はいないと思われていたのに、「通訳や看護師などで400人もの女性が出てきたことには驚いた」と加藤名誉教授は話していました。

私自身は、大変興味深く、面白かったのですが、ちょっと、マニアック過ぎる話だったかもしれませんね(笑)。

鰻はむなぎ

「江戸の銭勘定」は、テレビの番組制作会社の三次団体の若いADが、クイズ番組の種本にするんじゃないでしょうか、と先日、書きましたけど、本当に面白い種が満載されています。

森友学園、加計学園、略してモリ・カケ問題が尾を引いてますが、モリ蕎麦は、文字通り「盛り」から来たことは、誰でも分かることでしょう。だけんど、カケ蕎麦の語源が分かる方は相当の通です。

ま、諸説ありますが、「汁のぶっかけ蕎麦」から来ているそうでね。知りませんでした。

日本人なら大好きな鰻。もともと、昔は「むなぎ」と言っていたそうです。胸黄と書きます。文字通り、鰻の胸が黄色かったからです。

せっかちな江戸っ子は、むなぎ、なんて七面倒くさいことは言ってられず、うなぎとなまったのかしら。

鰻の蒲焼は、天明年間(1781〜89)に上野で始まったらしく、串に刺して焼く様が川辺に生える蒲(がま)の穂に似てたからだそうです。

また、「握り寿司」の登場は、比較的新しく江戸は幕末に近い文政年間(1818〜30年)で、深川の「松の鮨」、両国の「与兵衛鮨」など諸説あるようです。となると、家康どころか、吉宗も握り寿司を知らないわけで、映画や時代劇で、暴れん坊将軍が握り寿司を食べていたら、間違いということになりますね(笑)。

このほか、「天丼」の発祥地は、諸説ありますが、天保8年(1837年)創業の浅草「三定」が有力だそうです。いつか、行きたいものです。

「江戸の銭勘定」は一読の価値あり

自宅近くの本屋さん「よむよむ」で見つけた山本博文監修「江戸の銭勘定」(洋泉社歴史新書)を読んでます。

斯界の権威山本博士は監修になっているので、御本人の執筆ではなく、自分の東大の院生にでも書かせたのかもしれません。あくまでも空想に近い推測ですが(笑)。

それでも面白いことに越したことはありません。恐らくテレビの番組制作会社の三次団体の若いADがクイズ番組の種本にするにはもってこいかもしれません(笑)。

そもそも、私自身は、江戸を舞台にした時代劇や小説や歌舞伎に出てくるお金が今の幾らぐらいになるのか、素朴な疑問がここ何十年もあったのでした。この本はその疑問に見事に答えてくれます。

江戸時代は300年近くも続きましたから、そりゃ、物価の変動はかなりあったことでしょう。そこで、本書では目安として、文化文政期を基本にして、1両=18万円、1匁=3000円、1文=30円としております。

握り寿司一貫4文=120円、蕎麦一杯16文=480円、銭湯8文=240円で、大体現代と変わりませんが、酒一升250文=7500円はちょっと高いですね。

文化文政期の職人(上大工)の年収はおおよそ26両2分=447万円だったようです。

庶民の娯楽の歌舞伎の木戸銭は100文=3000円、大相撲となると銀3匁=9000円と結構したようですね。勿論、座席はピンからキリまでありますから、概算です。

「千両役者」ともなると、年収が1億8000万円ということになるんですか。花形ですね。

私が注目したのは、江戸時代の新聞、瓦版で当時は読売と呼ばれていたそうですが、今もあるじゃん!(笑)

この本によると、現存する最古の読売は、元和元年(1615年)5月8日発行の「大坂阿倍野合戦図」で、あの真田幸村が活躍した大坂夏の陣を報道したものらしいですね。江戸時代の探訪記者、従軍記者も頑張ってたんですね。

このことは、横浜にある日本新聞協会の新聞博物館にもない「新事実」でした(笑)。

安河内さん、出てましたね

foigras

「ヤスコーチ君がテレビに出てますよ」ーとのチェーンメールが昨日、世界的規模で瞬く間に広がり、私も昼休みを利用して東京・新橋の街頭テレビで見てきました。

NHKの「サラメシ」という番組で、各企業の社員食堂やお弁当などを紹介する番組です。

ヤスコーチ君というのは、老舗出版社の新潮社に勤めている安河内龍太様のことで、「敏腕編集者」として業界では有名人です。

番組では、しっかり実名と実年齢までもが明記されてましたので、本人も意欲満々でした。安河内先生は以前に「識者」として、東京新聞のオピニオン欄にも登場されてましたから、御存知の方々も多いことでしょう。

番組では、ボリューム沢山の日替わメニューが紹介され、「チキンライス」と言いながら、この他にコロッケやナポリタンなどもサイドメニューとして用意され、どれだけ盛っても200円という超破格な御値段!

おーい、今度俺も食べさせてくれい!

「サラメシ」の番組紹介欄には「東京神楽坂の新潮社にはユニークな社食がある。社員は約500。社食が登場したのは昭和41年。現在も総務部直轄で運営している。青木繁幸シェフの正式な肩書も総務部食堂係主任となっている。きょうのメニューはのりのり丼ということだが、青木シェフは早速中華麺を茹で始めた。出版の現場からは炭水化物のリクエストが多い。今日は焼き魚など6品をつくる。揚げ物などの仕込みも当日行い、その数は280人分。」とありました。

鬼の編集者、安河内先生は「のりのり弁なんて聞いたこたあねえな」と言いつつ、美味しそうに頬張っておりました。

この鬼の編集者とは、もうかれこれ27年も昔、渋谷区神南のNHKの11階にあった放送記者クラブで知り会いました。当時、彼は東京タイムズ(現在休刊)の若い駆け出し記者でしたが、その頃から風格があり、私なんかより10年以上先輩に見えました(笑)。

安河内記者の東京タイムズの先輩というか、上司というか、デスクというか、編集主幹とかいう人物が、今は関西広域を拠点に活動されている京洛先生でした。当時は東京に住んでいたので、自ら調布先生と名乗っておりました。

放送記者クラブには、各社のユニークな名物記者のオンパレードでした。「ザッキー」の異名を持ちスクープ記者として恐れられたサンケイスポーツの尾崎さんを始め、報知の稲垣さん、産経の岩切さんと安藤さん、毎日の仲西さん、東京の村上さん、そして立命館大学に奉職された日経の松田さんら昭和30年代の日本映画の黄金期とテレビ草創期を過ごした超ベテラン記者揃いでした。

当時若手ながら、後に放送評論家として名を成す読売の鈴木嘉一さんや朝日の隈元信一さんもおりましたね。

マスコミ業界では、文化、学芸、芸能記者は、政治、経済記者らよりも一段も二段も低く蔑まされて見られておりましたが、実はなかなか奥が深い(笑)。レコード大賞を作ったり、地方の美術館の館長さんにデーンとおさまったり、演劇、映画評論家になったり、大学教授に招聘されたり多士済々なわけなんです。

あっ?鬼の編集者から話が飛んでしまいましたね(笑)。ま、い、か。

日美と幻冬舎

存在が意識を規定する

昨日は、関西広域を活動拠点にされている京洛先生から、「政界の黒幕」と言われた大谷貴義(1905〜91)のことをご教授受けました。

そこで、私なりに調べてみますと、驚くべき事実が判明しました。

大谷氏は、昭和の初期から活動されていて、政財界を始め裏社会の方々にも精通されていたようです。ざっと見ただけでも、元首相の田中角栄、昭和の最大のフィクサー児玉誉士夫、国際興業の小佐野賢治、山口組三代目田岡一雄組長、東声会の町井久之会長らロッキード事件などでも登場した錚々たる歴史的人物です。

しかも、作家吉川英治夫妻と福田赳夫夫妻を媒酌人に長女享子(1957年度ミスユニバース日本代表)が裏千家宗家の三男巳津彦と結婚したため、茶道界にも縁戚があります。

政財界だけでなく、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川、メリー喜多川きょうだいを駆け出しの頃にお世話をしたことがあるらしく、芸能界にも通じることになります。

「日本の宝石王」と呼ばれた大谷氏は1956年6月に日本美術宝飾倶楽部を設立し、62年に社名を日美と変更して、宝飾卸業から不動産業、清掃業に至るまで、幅広く多角経営に乗り出します。

今は東京は西新橋に本社を構えているようですが、日美の公式ホームページを見て驚きましたね。あのプリンスホテルの清掃業を請け負っているだけでなく、意外にも出版界の風雲児見城徹社長が率いる幻冬舎ビルの清掃業まで請け負っているのです。

日美は現在、大谷貴義の三代目の方が継いでおられるようですが、幻冬舎とも接点があるとは、凄い偶然ですね。

(歴史的人物ら一部敬称略)

座談会 大谷貴義物語

関西広域を活動拠点にしている京洛先生から昨晩電話がありまして、急に「渓流斎さんや、『新潮45』の今月号は読まれましたか?面白いこと書いてありますよ」と仰るではありませんか。

「いやあ、読んでませんよ。何かありましたか?」

「いや、バブルを特集しているんですが、あれからもう30年経ちましたから歴史になりましたね。若い人は知らないでしょう」

「歴史ですかぁ…。もう許永中とか言っても若い人は誰も知らないでしょうね」

「でも、多くの人は許永中は知ってても、その親分の大谷貴義(1905〜91)を知ってる人は少ないでしょう」

「えっ?大谷?宗教関係の方ですか?」

「ハハハ、まさか。最後の黒幕と言われた人で政財界の大物に食い込み、福田赳夫首相の黒幕として暗躍していたことは、当時の新聞記者なら誰でも知ってましたよ」

「えっ?知らないですねえ…」

「これだから、渓流斎さんは駄目なんですよ。大谷貴義を知らなければ潜りですよ。探訪記者なんぞと自称する資格なしですよ(笑)。大谷貴義は、『日本の宝石王』と呼ばれた実業家です。代々木上原に1000坪の大豪邸を構え、許永中は、彼の運転手兼ボディガードとして働き、政財界の裏を一から学んだわけですよ」

「芸能界のドンと言われているバーニングの周防さんも、若い頃は浜田幸一議員や歌手北島三郎の運転手を務めるなど長い下積み生活を送って、政財界や裏社会を見てきたことは有名ですからね」

「ああたは、すぐそういうことを言いますね(笑)。でも、世間の人は全く分かってませんが、『下足番』が一番世の中の仕組みを分かっているのですよ。文字通り、料亭の下足番です。政財界の大物が出入りしますから、その人の顔と序列と地位を熟知していなければなりません。勿論彼らのボディガードもです。靴を間違えようものなら、首が飛びますよ。木下藤吉郎だって、信長の下足番から出発して大出世を遂げたわけでしょ?」

「なあるほどね。大谷貴義さんも若い頃は相当苦労したんでしょうね。よく福田赳夫首相に食い込みましたね」

「まあ、しかしながら、黒幕ですからね。息子の福田康夫は親父の秘書もやってましたから、清和会の中でそういう人間関係を見てきたわけです。だから、彼は二世議員で首相にまで上り詰めてもクールだったでしょ? 色んな汚い、嫌な面を沢山見てきたからなんでしょう。だから、最後に中国新聞の記者に向かって『わたしとあなたとは違うんですよ』と突然キレて、世間から見ると唐変木に聞こえるような名台詞を吐いて、首相を辞めるわけです。

若い頃にたくさんのドロドロしたことを見過ぎたせいで、醒めた人間になったのではないでしょうか」

「なるほど。そういうことでしたか…」

(創作につき、一部敬称略)