高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常

もう勘弁してほしい北朝鮮ミサイル

築地「蜂の子」Bランチ 880円

今朝7時、いつものようにラジオでNHKニュースを聴いていたら、突然番組が中断して、あとは北朝鮮のミサイル発射ニュースのオンパレード。

Jアラートは、この前知りましたが、今回はエムネットとやら、何か緊急事態連絡網があるらしく、テレビをつけると、全ての放送局が北朝鮮緊急速報をやってました。(やらなかったのは、WOWOWなどBSの有料放送ぐらいでした)

困ったものです。今のところ、被害は確認されてませんが、戦時中の空襲警報を思い起こさせます。

あのカリアゲ君は、危ない玩具を与えられた幼児のように大はしゃぎしていることでしょう。彼より、彼の背後に控える軍服を着たニヤけたお爺さんの方が薄気味悪いし、独裁国家政権の宣撫活動を一気に担う太ったおばさんアナの勇ましい声と笑顔も気持ち悪いですね。

個人的な感想ですが。

日本の庶民は生活に追われてますから、通勤電車は動くのか、安心して隠れる建物や地下がないのにどうしたらいいのか、といった問題の方が切実です。

ただ、私が危惧することは、国民の危機が一方的に煽られて、為政者も正義を振りかざして軍事衝突にエスカレートすることです。

何しろ、向こうは水爆実験まで成功させ、「日本に四つの核爆弾を落として、列島を破壊する」とまで言ってますし、虚勢を張っているとはいえ、やらない確率はゼロ%と断言できませんからね。

1950年に始まった朝鮮戦争では、軍人だけでなく、巻き込まれた一般市民を含めて何と500万人もの犠牲者が出ました。(先の大戦の日本の被害者は300万人)しかも、未だ終結したわけではなく、「休戦状態」なのです。

今回有事になれば、北朝鮮から大量の難民が周辺国に押し寄せることでしょう。

北朝鮮も、日本の戦時中のABCDラインの包囲網のように石油が禁輸されれば、イチコロなんでしょうが、中国とロシアは「絶対的核心」で、緩衝地帯として、北朝鮮を残しておきたいので、密かに大量の石油や資源を送り続けることでしょう。

古代の北朝鮮の高句麗は、韓民族ではなく、ツングース系(ケモノヘンに白)族ですし、中国とロシアの意向で、北朝鮮の崩壊は無理だと考えて間違いないでしょう。

ですから、恐らく、北朝鮮はグアムや米西海岸辺りにまで届くICBMの実験に成功するまで確実にやめないでしょう。カリアゲ君は、異母兄まで殺害指示するぐらいですから、精神構造は、日本で言えばまだ戦国時代です。

嗚呼、二律背反、絶対的自己矛盾。

「スマホ大学」には驚きを超えて

長瀞駅

今朝の新聞各紙の全面二面広告を見て、吃驚しました。

来年4月から、スマホで授業を受けて学士号がもらえる「東京通信大学」なるものが開校されるというのです。英語名が、Tokyo Online University だとか。

私も、こうして、日乗を通勤電車の中でスマホで書いてますから、とやかく言う筋合いはないのですが、わずか15分の動画をスマホで見て、試験やレポートはどうするのか分かりませんが、とにかく大卒の肩書が取れるというのですから、驚きです。

スマホなら、自宅で引き篭もりの人や入院中の人でも授業を受けることができるでしょうけど、学友と居酒屋で議論したり、一緒に学食を食べたりするような、いわゆる普通の学生生活とは違うんだろうなあ、と思われます。

何しろ、年齢も職業も不問らしいので誰でも入れるということなのでしょうか。

情報マネジメント学部と人間福祉学部があるようですが、これらの学士号を取って、就職に有利に働くということなんでしょうね。

しかし、この大学を経営する母体は他に東京モード学園なども運営しております。モード学園は、ファッション関係の専門学校で実技を重んじる学校として知られています。スマホ授業では、実技はできませんよね?

あ、そう言えば、昔から通信制の大学がありましたから、そのスマホ動画版と思えばいいということなんでしょうか?

しかし、最近はどこもかしこも、大学になりたがっているのが流行ってますね。明治30年まで、日本には大学と呼ばれるものはたった一つしかありませんでした。だから、東京も付きません。ただの帝国大学です。今の早稲田大学も東京専門学校です。

それだけ学士様は希少価値があったわけですが、これだけ学士様が増えると…あとは書きません(笑)。

関ケ原の戦いはつい最近のこと

「歴史人」の関ケ原特集

本屋さんが潰れてます。私の利用する駅前の書店はもう5年以上前に2軒も閉店しました。

私のシマである銀座界隈も、日比谷東芝ビルの旭屋書店が5年以上前に店仕舞し、銀座コアビル内のブックファーストも昨年閉店し、つい最近は、日比谷シャンテに入っていた八重洲ブックセンターまで先月いっぱいで撤退してしまったといいますからね。

いくら映像芸術が発展しても、文化の基本は活字ですから、出版文化の衰退には危機感を覚えます。

もっとも、書店廃業の原因の一つにはアマゾンの影響という説がありますから、「便利な」資本主義の総権現のような黒船に日本文化が乗っ取られたという言い方ができるかもしれません。

※※※※※

私としては、どうしても日本の伝統文化は残しておきたい信念の持ち主ですから、自宅近くの本屋さんは潰れてほしくない。そこで、月に何回か覗いて、何冊か本や雑誌を買って貢献することにしてます。

昨日買ったのが、写真の関ケ原の戦いを特集した「歴史人」という雑誌です。この雑誌はユニークで、日本仏教を特集したり、歴代天皇家を特集したりしており、たまに買うことがあります。

今、私も先日見た映画「関ケ原」が公開中のせいか、何冊か関ケ原を特集した本や雑誌が並んでいましたが、この「歴史人」が、地図やグラフィックや表を多用して分かりやすかったので、買い求めました。

映画を見た感想の中にも書きましたが、あの映画は原作は司馬遼太郎で、どうも講談調の(失礼!)司馬遼史観から抜け切れず、人物の相関関係がうまく描き切れていないと思いました。

それが、この雑誌では、通説では悪人となっている安国寺恵瓊や直江兼続なんかもちゃんと中立に「直江兼続には子孫がいなかったため、上杉の失策を全て押し付けられたところがある」などと冷静に分析しているのです。

まさに、私が欲しかった情報です。そもそも、後世の人間から見ると、天下分け目の関ケ原で、徳川方が勝利を収めることは当たり前過ぎるのですが、冷徹な石田三成が最初から負ける戦さをするわけはなく、当時は実はどちらが勝つか分からなかったのです。

わずか6〜8時間で、決着が付いた関ケ原の戦いですが、もし、小早川秀秋が裏切らなかったら、もし、島津と毛利が「高みの見物」ではなく、しっかり兵を動かして参戦していたら、西軍=三成の勝利になっていたはずでした。

この雑誌には、東軍と西軍の大名の顔写真(笑)から石高、戦後処理の状況まで事細かく書かれているので、大変参考になり、夢中になって読んでしまいました。

最後に驚くべきエピソード。敗軍の将、石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊らととも京都六条河原で斬首の刑で晒されます。

しかし、どういうわけか、家康は三成の子息にまで刑を及ばせなかったんですね。お陰で、三成の孫のお振りの方が、三代将軍家光の側室となり、2人の間の千代姫の子孫が現代にまで生き延び、その一人が大正天皇の貞明皇后だというんですよね。

つまり、昭和天皇にも、今上天皇にも石田三成の血が受け継がれていたというわけです。勿論、徳川家康の血脈もですが。

そう考えると、400年前の天下分け目の戦いがつい最近のような気がしてきます。

服部さんの謎が解けた! 名前のルーツ

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

御縁があって、よく東京都心の半蔵門会館に行くのですが、ここに来る度に「半蔵門は諸説あるけど、服部半蔵から付けられたんだな」「服部という名前は、何で『はっとり』と読むだろ?『ふくべ』としか読めないのに…」と頭に引っ掛かっていました。

小学校の時にも服部さんがいたので、読み方には抵抗はなかったのですが、何故なのか半世紀以上、自分で調べることなく頭の片隅で引っ掛かっていました(笑)

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

それが昨晩のNHKの番組「日本人のおなまえ」で、初めて謎が解けました。この番組はたまに見るのですが、本当に眼から鱗が落ちます(笑)。

服部という名前は、もともと機織部(はたおりべ)で、これが訛って(?)はっとりになったんだそうです。

部というのは職業を表す言葉で、古墳時代は日本人の9割ぐらいは、この部が付いていたといいますから、驚きです。

例えば、矢作部(矢を作る職業)、犬養部(宮中を警護する犬を飼う職業)、長谷部(雄略天皇=若長谷王=の身の回りの世話をする)などです。

時代が下って、日本人の名前は「唐風」の二文字が良い、ということで矢作部は矢部に、犬養部は犬養に、(長谷部はそのまんまじゃん)になったそうです。

部が取れたのは、地方豪族が勢力を伸ばしたからという説もありました。

これで、機織部が訛って服部になった理由が少し分かった気がしました。服部の服は衣服のことですから、漢字を当てたのでしょう。機織部は、庶民も着るような服の製作者でしたが、綾部は絹の高級な貴族向けの服を作っていたので、格が上だったのかもしれません。

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

「日本人のおなまえ」の司会者は毀誉褒貶のある方ですが、内容は面白いです。それなのに、知らない方も多く、先日、半蔵門会館で懇談した佐藤さんも「見たことがない」というので、「佐藤さんは、藤原一族で、左衛門尉の藤原という意味ですよ。伊藤は、伊勢の藤原、加藤は、加賀の藤原、後藤は備後の藤原から来ているのですよ」と番組からの受けおりの話をしたら吃驚されてました。

こんな話をしたら、女の子にモテますよ(爆笑)。

宝登山神社ご参拝(続 長瀞紀行)

宝登山神社本殿

9月3日(日)午後3時、埼玉県立自然博物館を後にして、宝登山(ほどさん)神社を目指して歩きました。

約2キロの旅程。結構歩きました(笑)。その途中で、名古屋にお住まいの篠田さんから急に電話がありました。

「渓流斎さん、北朝鮮が水爆実験やったの御存知ですか?」

「えっ?今、あたしは長瀞にいるもんで知りませんでした」

「そんなことだろうと思ってましたよ。3時半から記者会見があるようですよ」

「はあ、貴重な情報有難う御座いました」

宝登山神社二の鳥居

途中に踏切がありましたが、大変幸運なことに観光用のSL機関車を見ることができました。

というわけで、程なくして宝登山神社に着きました。

社伝によると、創建は景行天皇41年(西暦111年)というとてもとても古い神社でした。神武天皇らを祀っておりますが、特に防火守護の神様を祀っており、その御利益があるらしいです。

日本武尊を祀る祠

というのは、記紀にも書かれておりますが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、この辺りに立ち寄り、山頂に向かっていると巨犬が出てきて道案内をしたといいます。

その途中で猛火に遭い、日本武尊が難儀をしていると、巨犬が猛火の中に飛び込んで火を消し止め、そのおかげで、日本武尊は無事頂上へ登ることができたそうです。

この山は「火止(ほど)山」と呼ばれるようになり、時代が下って「宝登山」となったそうです。

また、巨犬は大山祇神の神犬であったことから、防火守護のため火産霊神として社殿が建てられ、このような立派な宝登山神社となったそうです。

宝登山神社本殿

本殿にはこのように、中国の「二十四孝」を題材に取った見事な彫刻を見ることができます。

関東首都圏の神社仏閣を紹介する松長会長主宰の「猫の足あと」には、どういうわけか、この宝登山神社について詳細情報がなかったので、僭越ながら、「渓流斎日乗」に紹介させて頂いた次第です。

家に帰って、北朝鮮の核実験のことが気になっていたので、ラジオの夕方のNHKニュースを聴いたところ、トップニュースは、「タッキー&翼さん、活動を一時休止」でした。

以上

長瀞紀行

御縁がありまして、埼玉県秩父の長瀞に行って参りました。20年振りぐらいでしょうか。

好天に恵まれ、観光客でごった返しておりました。

秩父鉄道長瀞駅から岩畳方面に行く商店街は、ご覧の通り東京の原宿か、夏の軽井沢状態でした。

東京から2時間ぐらいなので、年間270万人以上の観光客が訪れるらしいですね。

8月のNHKの「ブラタモリ」でこの長瀞が取り上げられたせいで、また知名度を上げ、全国から観光客のオンパレード。名物の天然カキ氷だけでなく、大衆食堂も外で行列をなし、何分も何時間も待たされている感じでした。

やはり、何と言ってもNHKの影響力は絶大。全国中継ですからね。新聞もネットも負けますね。

この長瀞は川下りで有名ですが、本来は「日本の地質学発祥の地」なのです。

有名な岩畳も約20万年前の地層が隆起してできたものなんだそうです。長瀞には世界的にも珍しい紅簾石片岩なども簡単に見られますが、私のその方面には暗いので詳しくは説明できません(笑)。

もし、ご興味ある方は、埼玉県立自然の博物館に行かれたらいいと思います。

何しろ、地球の歴史は43億年。歴史学が相手にする人間(現生人類)なんてたかだか1万年程度ですからね。そして、日本人は2000年前すらはっきりと詳しく分かってません。

それに比べ、地質学となると10万年、100万年前など子ども時代で、何億年の単位の歴史を相手にするんですから桁が違います。

5億年ほど前のカンブリア紀に生物がいたのですから全く気が遠くなり、人間の悩みなどちっぽけなもんだと改悛したくなりますよ。

子どもの時にこの博物館を訪れたら、どんなにか楽しかっただろうなあ、と思いました。

日本人の死生観とは?

京都にお住まいの京洛先生は神出鬼没で、月曜日に東京に出て来られ私を含め何人かの親しい方々と懇談行脚されたかと思ったら、いつの間にか盛岡にまで足を伸ばし、盛岡市内の「聖寿寺(しょうじゅじ)」にまで行かれたようでした。

この聖寿寺は、盛岡藩主(南部氏)の菩提寺なのですが、諸般の事情で無住となり、京都は建仁寺僧堂で 修行されていた禅僧が住職になって赴任されたので、顔の広い京洛先生のことですから、そのご住職を訪ねに行かれたのでした。

何しろ、南部藩の菩提寺ですよ。「盛岡五山」の筆頭格に当たる由緒ある古刹なのに、無住になってしまうのですから、他の名の知られていない地方の寂れた寺は、況やをやです。

こういう話は何処の大手マスコミもネットも取り上げないので、ここまで地方(いや都心もそうでしょうが)の有名無名の神社仏閣が荒廃してしまったことを知る人は少ないことでしょう。

京洛先生曰くー。

…聖寿寺は「妙心寺派」のお寺ですが、お坊さんがいないので、本山の妙心寺から、同じ「臨済宗」の別派ですが、建仁寺の本山に「誰か適当な人材がいないか」との懇請があり、「それなら私が行きましょう」と高橋英玄住職が引き受けられたわけです。

同老師は貴人よりも若いですが、お釈迦様の戒律を守って妻帯していません、明治の廃仏毀釈、神仏分離令などによって、仏教界が如何にそれまでに比べて俗化してしまったのか、具体的な話を伺いました。

この背景には、明治維新後、神道を「国教」にしようという事もあり、アウトロー的な僧侶を管理する流れも生まれ、それまで「妻帯、肉食禁止」とともに、お寺の「世襲」は否定されていたのが、事実上容認されてしまった、という事ですね。「世襲」によって、お寺の私有財産化に拍車がかかり、「独身で一代限り」だったのが、妻帯、子供への継承になるわけです。

折口信夫が神道、神職の事務化を批判していますが、仏教界もそれと同じです。むしろ、英玄老師によると、かつての仏教界はむしろそういう事には神道以上に厳しかったそうなのですが…

なるほど。現代宗教の在り方、日本人の死生観は、他人事ではなく誰も逃れることはできません。

 この話を聞いて私も考えさせられました。

書評「戦争の古代史」

「戦争の古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(「続日本書紀」には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5〜6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。

【北朝鮮ミサイル関連】「白村江の戦い」がそんな戦争だったとは…

「戦争の日本古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

 この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

 まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

 つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(続日本記には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5~6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。況や北朝鮮をや。