松永耳庵記念館の旅

老欅荘

8月23日、小田原城内の歴史見聞館でレンタル自転車(300円)を借りて、松永安左衛門(耳庵)記念館に向け出発しました。

駅のツーリストインフォメーションでは、「歩いても(小田原城から)20分で行けますよ」との話でしたが、35度の猛暑の中、とても歩けないので、自転車を借りることにしたのです。(実際、途中でお祭りがあって、自転車から降りなくてはならず、自転車で30分近くかかりました)

老欅荘

松永安左衛門は、今ではすっかり忘れられてしまいましたが、明治から大正、昭和に活躍した大実業家で、日本全国の電気事業のインフラ整備に貢献したことから、「電力の鬼」と呼ばれ、勲一等瑞宝章まで受章しております。

慶應義塾出身で、福沢諭吉に師事し、埼玉県の慶應志木高校は、松永安左衛門が土地を寄附したものだと言われております。

松永耳庵として、「近代三大茶人」の一人として名を連ねております。あとの二人は、「三井財閥の番頭」として権勢を振るった益田孝(鈍翁)と横浜で絹貿易で大成功を収めた原富太郎(三溪)です。

 

老欅荘

この3人が何故、三大茶人と呼ばれるのか詳らかではありませんが、松永耳庵の年譜によると、彼がこの2人と会ったのは昭和10年で、鈍翁とは熱海小雨荘(静岡県)で、三溪とは柳瀬山荘(埼玉県新座市)とそれぞれ茶事を開催したようです。

耳庵はこの時、満60歳。本格的に茶道を始めた年でした。 老欅荘

耳庵が、埼玉県の柳瀬山荘からこの小田原市の老欅荘に移り住んだのは戦後の昭和21年のことです。この年から亡くなる昭和46年までの25年間、耳庵はここに住んで度々茶会を開催し、死後は小田原市に寄贈されます。
お陰で、私のようなお上りさんが、無料で市職員から館内の説明を受けることができるのです。
しかも、今は松永安左衛門のことを知る人が少ないので訪れる人も稀で、この日は、私、たった一人でした!

樹齢400年の欅

老欅荘とは、庭園内にある欅に因んで付けられたもので、樹齢400年と言われています。屋敷の中には三つも茶室がありました。
私は、茶道を嗜まないので分かりませんが、実に風格と落ち着きがあって、虜になりそうな雰囲気を醸し出しておりました。

北条五代の栄枯盛衰

小田原城

盛夏。気温35度の猛暑。

何が哀しいのか、昨日は小田原にまで足を運びました。自宅近くの駅から直通で1時間51分という至近距離にある日帰り旅行コースです。

目的は、小田原城視察です。昨年ちょうど耐震施設等を備えてリニューアルしたばかりなので、このように威風堂々とした天守です。全国で7番目の高さらしいですね。(第1位は大坂城)

何故、小田原城と対面したかったかと言いますと、話は今年4月に遡ります。

小田原城
今年4月10日付のこの渓流斎ブログにも書きましたが、東京は八王子市郊外の滝山城を初めて散策して、すっかり「城跡歩き」に目覚めてしまったのです。

この滝山城は、関東管領上杉氏の宿老(重臣)で、守護代職を務めた戦国武将大石定重が築城したものでした。

大石氏は、この滝山城を根城に栄華を誇りましたが、定重の子定久が小田原の北条氏の軍門に下り、北条氏照を娘婿に迎えて大石氏は消滅してしまうのです。

天守から相模湾を臨む

このように、小田原の北条氏は、相模の三浦城から武蔵の江戸城、岩附城、上野の沼田城、上総の古河城と次々と勢力を伸ばし、関東圏一帯を支配するのです。

御案内の通り、1590年に豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条氏は滅亡し、関東圏は秀吉の命で家康が治めることになりますが、世が世なら、北条氏が天下を取っていたら、小田原が日本の首都になっていたかもしれないのです!

北条氏の中興の祖は、三代氏康で、中世の三大奇襲戦の一つと言われる河越(川越)合戦で勝利を収め、関東一円支配の基礎を築きます。

氏康の長男は夭折しますが、二男氏政は小田原四代目城主、先程出てきた三男氏照は滝山城を武田信玄に攻められ、八王子城に拠点を移します。

四男氏邦は鉢形城主(埼玉県寄居町)、五男氏親は三浦城主(神奈川県)、六男三郎は上杉謙信に婿入りして上杉景虎に、七男氏忠は唐沢城主(栃木県佐野市)、八男氏光は小机城主(横浜市)となるわけです。

小田原城

小田原北条氏は五代(1495~1590年)約100年で滅亡します。

初代は有名な北条早雲ですが、本人は生前北条早雲とは名乗ったことはないそうですね。1980年以降の学説によって確定したらしいのですが、北条早雲は、備中(岡山県)高越城主伊勢盛定の子盛時で、生前は伊勢宗瑞(いせ・そうずい)と名乗っていたようです。二代目氏綱が、「伊勢氏ではいかにも西国の名前なので、領民を治めるのに不都合だ。鎌倉から縁が深い北条にしよう」ということで、北条に改名したそうです。(だから、鎌倉北条と区別するために、小田原北条を後北条氏とする学者もいます)

この二代目氏綱は、「禄寿応隠」(ろくじゅおういん=領民の財産と生命に穏やかに応える)の印を作成して、秀吉より先駆けて検地を行い、領地を治めていたとか。

小田原城
面白いのは、小田原北条に代々仕えていた乱波(らっぱ、ラッパーじゃないよ、忍びの者です)として風魔(間)一族の頭が代々、風間小太郎と名乗っていたそうです。

懐かしい!子どもの頃漫画でよく見た!

「絶対秘仏」巡り情報は絶対マル秘

目黒不動尊

4、5日前から、渓流斎ブログの仕出し獲得のためだけに、顔本(フェイスブック)を始めましたが、随分チャチなソフトですね。

出身地が登録できないのです。

元々、ユダヤ系米国人が始めた世界戦略ソフトのはずですが、恐らく米国のどんな小さな田舎の街でも登録できるのでしょうが、外国となるとカラキシ駄目ですね。

しかも、小生の出身地は米国人の知らない地方ではなく、東京都内23区なのに登録できないのですからね。

その他、色々と書き込めない所があり、顔本は非常に遅れた不便なソフトです。

嗚呼、あまり悪く書くと、選手登録抹消されるかもしれませんね(笑)。

※※※※※

暑さ復活した京都にお住まいの京洛先生から書状が送られてきました。

…志賀直哉の「座右寶」という大正15年に出版された写真集があります。これは、絵画、庭園建築、絵巻物、彫刻142を集めた写真集で、今、古書店でも入手しようと思ったら目が飛び出す値段がついているのではないでしょうか。

 この志賀直哉が仏像で、「素晴らしい」と推しているのが、法隆寺夢殿の「観世音菩薩」と河内長野の観心寺の秘仏「如意輪観音座像」です。勿論、国宝です。

 観心寺の如意輪観音座像は毎年4月に2日間だけ特別御開帳があり、吾人ら大衆も拝めます。
 夢殿の観世音菩薩は4月と10月の年二回、拝める機会があります。

 ところが、「国宝」指定など受けない、「絶対秘仏」というのがありますね。凄いでしょう(笑)。お寺の奥の奥にある、厨子に守られて、誰にも拝めない「絶対秘仏」です。住職でさえ眼に出来ない、と言われていますね。

 有名なのは善光寺の「阿弥陀三尊立像」(お前立ち像は7年目ごとに特別御開帳)、浅草寺の「聖観音像」、園城寺の「本尊弥勒菩薩像」などで、学術調査も勿論拒否し、写真もありません。一度も開帳されていないのですから、誰も目にすることが出来ません。

 和歌山の粉河寺(こかわてら)の「千手観音像」は2007年になんと217年ぶりに開帳されました。こういう「秘仏ご開帳」の情報こそ、貴重です。博物館、美術館に行くよりも勿論値打ちがあります。目垢がついてないのですからね。

 貴人のブログも、こういう貴重情報の日程などをさりげなく探して、書いてみたらどうですか。これこそ、伝教大師(最澄)さんではありませんが、「一隅を照らす」というものです。…

へー、写真すらない、国宝でもない、住職も拝めない、学術調査も拒絶する「絶対秘仏」がこの世の中に存在するとは知りませんでしたね。

お上の御意向(ご威光?)をさりげなくかわす反骨精神は見上げたもんです。

「絶対秘仏巡り」情報は、関東圏の神社仏閣を紹介する「猫の足あと」を主宰する松長会長にはピッタリの企画ですが、あたしもさりげなく探してみようかしらねえ…。

資本主義のたそがれ、または終焉

大連駅裏通り Copyright Par Duc de Matsuocha gouverneur

水野和夫、大澤真幸両氏による対談共著「資本主義という謎」(NHK出版新書)が、結局、著者らは何を言いたかったのか、と考えてみますと、今の時代、日本は「失われた20年」どころか、これからまあ、あと50年か100年は経済成長のない低迷、停滞、低空飛行が続いて、働けば働くほど貧乏になるワーキングプアの時代だというのが現実で、それを冷静に見つめろ。諦めるのではなく、最後は政治の力でどうにかしなければならないので、「百年の大計」を持ったしっかりとした政治家を選ぶべきではないかと、私なんか解釈しました。

営業利益を上げて経済成長を遂げていくというやり方は、もうこの新自由主義のグローバル化時代では、どんどん低賃金の労働力が「現物」だけでなく、ネットを通して入り込んでくるので、要するに人件費を低く抑えることで労働者に分配せずに、内部留保の形で営業利益を水増しさせていく手法が、今の先進諸国の資本主義の行き着いた形、姿ということになるのでしょう。

 大連駅裏通り Copyright Par Duc de Matsuocha gouverneur

この本に再三再四出てくる「利子率革命」というのは、恐らく水野氏の造語で、「長期金利が2%以下の時代」のことを指すようです。

リーマン・ショックとユーロ・ソブリン危機で、日本に加えて米英独仏の先進4カ国の10年国債利回りがそろって2.0%以下となり、世界の牽引車となるべき先進諸国は「長い16世紀」(1450年~1650年)以来の「長い21世紀」(1971年~)の利子率革命に入っているわけです。

水野氏はこう言います。「利子率革命、すなわち資本の低利潤化が長期化すると、過去の過剰資本に耐えられなくなって、具体的には働く人を貧しくすることでしか、資本を維持できなくなるのです」

「働けど 働けとども…」の石川啄木ですね。

また、こうも言います。

「資本主義は元来、貧乏人を相手にしないという本質を持っているようです。最初の資本家が誕生した12~13世紀のイタリアのフィレンツェで、資本家が競って読んでいた小冊子に『商業についての助言』があり、そこには『貧乏人と付き合うな。なぜなら、彼らに期待すべき何もないからだ』とあります」

大連駅裏通り Copyright Par Duc de Matsuocha gouverneur

また、水野氏は未来社会についても。こう予言しております。

「資本主義には利潤を極大化しようという意思があると思います。だから、短期でゼロ金利、長期で2%では、もう信用リスクぐらいしかない。そうすると、何処へ行っても利潤率が事実上ゼロということでしょうから、対処療法的にはこの30年間でなされたような『電子・金融空間』のようなものをつくるしかないかもしれない。
でも、それすら成立しないとなれば、資本主義はもう立ち行かなくなって、市場経済だけが残る。市場の交換によって利潤は発生しないという状況ですね。…しかし、資本主義が周辺をどんどん取り込んでいった段階で、みんなが豊かになることはありえなくなった。ということは、市場経済が残る保証だってありえないわけです」

うーん、偉い経済学者様の見立てですが、絶望的ですね。

このままいくと、年収が減るばかりでなく、年金も75歳まで出なくなる可能性もあり、若い世代も大変です。年収が増えなければ、結婚もできず、先進資本主義諸国は、どこもかしこも、ますます少子高齢化、超高齢社会となる寸法ですね。

これでは身も蓋もなくなります。水野氏らは最後に将来、人々の希望までもが奪われて、いずれ滅びるか、滅びないかは「政治の責任だ」と断言します。そして、彼はこう忠告します。

「21世紀の現在、非正規社員が3割を超え、年収200万円以下で働く人が給与所得者のうち23.7%、金融資産非保有世帯が26%という日本で、現在『民』は大切に扱われているとは全く思えません。新自由主義の人たちは、個々人の努力が足りないと非難し、貧乏になる自由があるとまで言います。『春秋左氏伝』によれば、亡国の道をひた走っていることになります」

ジョン・レノンは凄いけど小野洋子さんも凄い

トレヴィの泉

いやはや、情けないことに宗旨替え致しました。

 この半世紀、あれほど、「フェイスブックはやらない」と公言して参りましたが、ついに昨日から始めてしまいました。嗚呼、これで個人情報ダダ漏れです!

 渓流斎ブログをホームページ化するに当たりまして、IT青年実業家の松長会長からの強いお勧めがありまして、泣いて馬謖を斬って、参画することにしました。

何? 比喩が合ってない? ま、「兄の後を追うようにして」任侠団体に加入される方もおられますからいいでしょう。

※※※※※

昨晩のNHKファミリーヒストリーはご覧になりましたか?「オノ・ヨーコの原点!」です。

小生は、ジョン・レノンのフリークですから、大体のことは知っておりました。ヨーコの父小野英輔が横浜正金銀行員でニューヨーク支店長などを務めたことや、母磯子が安田財閥の超お嬢様(創業者善次郎の孫)だったことは知っておりましたが、他にも「新事実」が沢山出てきて、ヨーコの息子ショーンも「オモシロイネ」と何度も日本語で言ってましたねえ。(ショーンが父親のジョンの年齢を超える41歳になっていたとは超驚き!)

ヨーコの曽祖父に当たる小野作十郎は柳河藩の藩士だったのですね。柳河藩10万9千石は立花氏で、小生の高田家の先祖の久留米(有馬)藩21万石とは元々、同じ領地でした。つまり、関ヶ原の合戦で石田三成を捕縛して功のあった田中吉政が与えられた32万石の領地でした。田中氏の二代目に後継がなかったため改易となり、立花氏と有馬氏に分割されたのです。

小野作十郎は、百石から十石に減俸されたという記録が残っていました。何かあったんでしょうね。十石というと足軽より上の程度です。ヨーコの従兄弟の小野有五北大名誉教授も「随分、貧乏だったんでしょうね」と話していました。

この作十郎の息子、ヨーコの祖父に当たる英二郎が凄い人で、苦学をして同志社大学から米国に留学して、ミシガン大学で経済学の博士号まで取得し、帰国後、同志社大学の教授を務めたり、興業銀行の総裁などを務めた人でした。

ヨーコの父英輔は東京帝大の数学科を出たのですが、父英二郎の強い勧めで不本意ながら銀行員になりましたが、銀行員にならなければ、ヨーコの母磯子と巡り会ったりしなかったかもしれません。

話が長くなるのでこの辺でやめますが、東京・九段下のフィリピン大使館は、もともと英輔と磯子の家族、ということはヨーコも住んでいた屋敷だったことは知りませんでした。英輔は戦前は男爵と呼ばれていたんですね。

まあ、ヨーコさんは下々の者とは違い、貴族階級の御令嬢だったわけです。

「731部隊の真実」エリート医学者の繋がり

ラオコーン

お盆が過ぎますと、急にテレビの世界から戦争ものの番組が消えてしまいます。

我が同胞は、喉元過ぎれば、熱さ忘れるのです。

そこで、13日夜に放送されたNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」を本日取り上げることにします。

私は、この731部隊については、森村誠一著「悪魔の飽食」で初めて知りました。出版された当時(1982年頃)は、あまりにもの残忍さに、「でっち上げのフィクション」という批判もあったりしましたが、この番組では実際に衛生兵として、マルタと呼ばれた中国人捕虜を処理したという元部隊の生々しい証言が明らかにされ、歴史的事実として向きあわざるを得ない、と納得させられます。

関東軍731石井細菌部隊については、米国側に全ての実験資料を手渡して尋問に応じる条件で、司法取引と呼ばれる手口で「無罪放免」となり、極東国際軍事裁判では取り上げられませんでした。

お陰で、真相が闇の中に葬られてしまったわけです。しかし、番組では、ハバロフスクでロシア人から尋問された軍医らの証言がテープとして残されていたことを発見し、それを公開しておりました。

人体実験で犠牲になった捕虜は3000人。チブスなどの細菌を注射されて病状を記録され、治癒すると別の実験に使われる。つまり、死ぬまで人体実験されるという証言には、本当に戦慄を覚えました。

タイトルに「エリート医学者」とあるように、731部隊に参加した軍医は、博士号を持った超エリートの医学者でした。部隊長の石井四郎が京大医学部出身として有名ですが、他に京大からは、細菌学の権威田部井和(たべい・かなう=戦後、京大教授)、凍傷の権威吉村寿人(同)ら11人が名を連ねました。

彼らの背後には戸田正三京大医学部長(戦後、金沢医大学長)がおり、軍部から大学運営予算が欲しいばかりに、強行に教え子を送り込んだといいます。

731部隊には東大医学部からも6人の学者が加わりましたが、それは、長与又郎東大総長と石井四郎と接点があり、番組では、長与が石井から要請されたのではないかと推測していました。

私は、この東大総長の長与又郎の名前を聞いて本当に吃驚仰天してしまいました。彼は、肥前大村藩漢方医から明治医学界の重鎮となった長与専斎の8人きょうだいの三男なのですから。

作家夏目漱石を解剖した医者としても有名です。

長与専斎は、華麗なる一族です。長男長与称吉(医者)の妻は後藤象二郎の娘で、次女は犬養毅の三男犬養健と結婚。孫は犬養康彦・元共同通信社長と先日亡くなった評論家の犬養道子。

四男岩永裕吉は、同盟通信社初代社長。

五男長与善郎は白樺派の有名作家。

石井細菌部隊が設立されたのは昭和11年だといいます。この年は、2.26事件が起きた年ですが、同盟通信社ができた年でもあります。聯合通信社が電報通信社を吸収合併する形で国策通信社として設立されました。

石井部隊に東大医学部出身者6人を送り込んだ長与又郎東大総長の実弟岩永裕吉は、今の目黒雅叙園に駅前一等地を売却して、その資金を元に聯合通信社をつくりました。

長与一族は、目黒白金辺りの広大な土地を所有していたと言われます。

石井部隊の話が、長与一族の話になってしまいました。

牟田口廉也という男

中国・世界遺産九寨溝 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

昨晩のNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール作戦」には眩暈がするほど圧倒されました。

見逃した方は、再放送でもYouTubeでも御覧になるといいです。

最初から勝てるわけがない戦を無謀にも敢行し、戦後もぬくぬくと生き延びた牟田口廉也という男。

エリート街道真っしぐらの帝国陸軍官僚の典型的な男は、3万人という大量の部下を死なせながら反省の一つもしないで、敵の英国の将軍の回顧録に「牟田口将軍には苦しめられた」という部分だけを曲解して、「自分は敵を苦しめた。良くやった」と自画自賛して天寿を全うした男。

番組のキーパーソンは、斎藤博圀さんという当時、牟田口将軍の付人だった少尉です。23歳。彼は記録魔なのか、牟田口の一言一句までメモを残していました。

牟田口の無謀さは、最初から「兵站」という考えが頭からなく、食料などは敵を落とすだろうという希望的観測計画の3週間分だけ。あとは現地調達なんですからね。英国は空から溢れんばかりの物資を運んでいたのと大違いです。

斎藤少尉が驚きを持って記した牟田口の言葉の中に「5000人をやって(敵陣を)取る=インパールを攻略する」ということでした。

最初、斎藤少尉は、敵の英軍5000人を殲滅するのかと思ったら、日本の兵士5000人を犠牲にするということが分かり、震え上がりました。

進歩的な戦後民主主義者が大好きな「人権」などという言葉はありません。最初から、兵士は虫ケラ以下の扱いで「死んでこい」ですからね。しかも碌な武器や弾薬も与えず。

結局、5000人どころか3万人の兵士が死にました。NHKはよく調べたもので、驚くべきことに、その6割は停戦後のことで、アメーバ赤痢やマラリアによる病死か、餓死です。

当時から日本兵の死体が道路に打ち重なり「白骨街道」と呼ばれました。

斎藤少尉は、何と、戦後も生き延びることができ、今は車椅子ながら96歳の晩年を病院で暮らしていました。

彼が声を振り絞って泣きながら振り返っていました。「死んだ多くが兵隊で、将軍や下士官は生き残った」。

牟田口廉也は、前線近くまでは行きながら、休戦協定を結ぶと、白骨街道を見ることなく一目散に飛行機で逃げ帰りました。

将軍クラスともなると、個室を与えられ、炊事当番やら記録当番やら何人もの奴隷か召使いのような部下を抱えて、安全地帯で地図を見るのみで、地形も気象も兵站も考えることなく、ただただ「行け」と命令し、異議を唱える部下は「卑怯者、大和魂が足りない」と大声で叱咤して左遷させる。

軍人というより軍事官僚。生命が保障された特権階級というのが実体でした。

何故、牟田口廉也は戦後、東京裁判で断罪されなかったのか?

恐らく、米国相手でなく英国と戦った将軍で、しかも敗軍の将だったからではないでしょうか。

このように、戦前の陸士、海兵は、最高指揮官が責任を取る「武士」を養成したのではなく、精神論ばかり振りかざして碌な戦略も立てられないアンシャンレジームの貴族のような、いつも安全地帯にいる厚顔無恥な特権階級を養成していたことがよく分かります。

牟田口は若い時からそういう意識が信念として、養成されていたのですから、最後は「部下が無能だったから負けた」と広言し、3万人が死のうが反省する論理がハナからないのです。

それにしても、何とも厄介な信念だこと。

カーチス・ルメイという歴史に残る人物

終戦記念日が近いということで、昨日のNHKスペシャルは「本土空襲 全記録」をやってました。

アメリカ人は、昭和19年7月にサイパンを陥落させると、本土爆撃を本格化させて、日本がポツダム宣言受諾を発表した昭和20年8月15日までに、日本全国66都市を空襲爆撃して、日本人45万9564人を殺めました。

当初は、神に選ばれた正義の使者の如く、軍事工場や軍事施設のみの空爆でしたが、日が経つうちに「動くもの全て」が攻撃目標となり、市民を巻き込む無差別爆撃に方向転換されました。

爆撃目標もあからさまに、学校や病院、駅舎、鉄道、電車と変わり、女性や子どもを多く含む大量の民間人の犠牲者を産みました。

この有様を爆撃機の底部に装着したガンカメラと呼ばれるカラーの映写機が撮らえて、合理的科学的手法で全記録を保存しておりました。

これは、戦争犯罪ではないんでしょうかね?

アメリカの論理は、女、子どもでも竹槍を持って歯向かってくるから、準軍人扱いでした。これに対してアメリカ人はマシンガンを持ってますが、竹槍は、まるでマシンガンより怖ろしい武器だという見方です。国家総動員法で学生も勤労動員に駆り出されて軍事工場で働いてますから、アメリカに刃向かう敵でした。

本土空襲の最高司令官が、カーチス・ルメイ(1906~90年)という米陸軍航空隊少将でした。

彼については、消えてしまったかつての「渓流斎ブログ」に4~5回書きましたが、もう既になくなったので、何度書いてもいいでしょう。

ルメイは、東京大空襲だけでなく、全土66都市の空爆と、広島・長崎の原子爆弾投下をトルーマン大統領(民主党)の命令(または追認)で、各部隊に指令した最高指揮官でした。

それにしても、何でアメリカ人は、日本の軍事工場や軍事基地の在処を知っていたのでしょうか?

いやあそんなの朝飯前でした。既にスマホのグーグルマップで、日本の全ての地形と市町村を把握しており(そんな馬鹿な!)、人口動態も産業構造も、地産地消も分かっており、日本語ができる日系スパイをあらゆるところに潜り込ませていましたから、最初から全てお見通しで、知らないのは無能な大本営本人だけだったというわけです。

勿論、日本文化も趣味趣向も家元制度も忠臣蔵の仇討ちも熟知し、教育勅語も諳んじてました。

だから、日本の家屋は紙と木で出来たアメリカの邸宅から見れば笑ってしまう玩具みたいな長屋で、ガソリンをばら撒いて火を付ければ直ぐ燃えてしまうか弱いものだということを最初から知っていました。

カーチス・ルメイは、そんなガソリンを混ぜた「焼夷弾」と呼ばれる爆弾を開発し、昭和20年3月の東京大空襲では、10万人以上の無辜の民を焼き殺して英雄となり、勲章を沢山もらいました。日本人から「鬼畜ルメイ」と恐れられ、イギリスからも勲章をもらいました。

戦時中のニュース映画では「一人でも多くのジャップ(日本人に対する侮蔑語)を殺せ」と雄叫びをあげてました。最高司令官とはいえ、まだ38歳という若さですからね。怖いものなしです。戦後になれば、「私は、100万人のアメリカ人の若い兵士を救うために、ジャップを一刻も早く降伏させたかったからだ」と正当性を主張しました。アメリカ国内では、歴史に残る英雄として祝福されました。

悪いジャップを虐殺して、米国民の生命を救ってくれたからです。

ところが、あろうことか、驚くべきことに、被害者であるはずの日本は昭和39年12月、安倍晋三現首相の祖父岸信介の実弟佐藤栄作内閣が、ルメイ将軍が「航空自衛隊の育成に貢献した」として、彼に勲一等旭日大勲章を授与しました。

これは、ローマのカエサル暗殺よりも、フランス革命よりも、世界史に特筆すべき画期的な出来事です。

ローマに敗れたカルタゴも、アレクサンダー大王の軍門に下ったペルシャも、かつての敵に勲章を授与したりはしませんでした。

ルメイに殺戮された日本の無辜の市民はこれで二度も殺されたことになりました。

一度目は敵に、二度目は味方に。

ワセダクロニクルが天下の電通と共同に果たし状!

久し振りの

今、早稲田大学ジャーナリズム研究所が運営するワセダクロニクル(Waseda Chronicle)というネット上の調査報道メディアが注目されています。

編集長は昨年、朝日新聞の調査報道の「限界」を見極めて同社を退社した人です。

本来、ジャーナリズムというものは苦労と手間ばかり多く、あまり儲からないものです。

昔は「ブン屋」と蔑まれ、まずは表玄関では会ってくれず、「裏口に回れ!」と叫ばれた賤業でした。相手の男の職業がブン屋だと分かると、父親は「娘は嫁にはやらん!」と断ったものです。

これは、嘘でも冗談でもなく、ブン屋は職業として「犬殺し」と同等の扱いでした。

何故これ程まで、ブン屋が嫌われたのかと言いますと、「報道」にかこつけた恫喝、恐喝まがいなことをする事案が多く、報道と宣伝との境界が曖昧だったからなのです。

業界の専門用語に「記事稿」と呼ばれるものがありますが、これは、一般の報道記事に見せかけた広告のことを指します。今でも、証拠隠滅逃れのために紙面の片隅に虫眼鏡で見ないと分からないほど細かい字で「広告」と書かれています。

この記事稿を発明した人は誰なのか分かりませんが、日本でその手法を高めたのは恐らく、1901年に電報通信社を創業した光永星郎だと思います。

電報通信社は昭和11年、聯合通信社に吸収合併される形で同盟通信社となり、戦後は電通として復活します。同盟が解散してできたのが、この電通と共同通信社と時事通信社です。

で、最初に取り挙げたワセダクロニクルですが、調査報道として、この電通と共同通信社を俎板に乗せております。両社が製薬会社と結託して、記事に見せかけた広告を共同が全国の地方新聞社に配信し、その記事を一方的に信じた読者が、その高価な脳梗塞の予防薬や糖尿病治療薬などを購入したというシリーズ「買われた記事」を報道しております。

まあ、詳しくは「ワセダクロニクル」http://www.wasedachronicle.org/ を検索して読んでみて下さい。

ワセダクロニクルは、広告「記事」を執筆した共同通信社の編集委員にまで突撃インタビューしており、まさに調査報道の最たるもんです。

恐らく、世間一般の人の中で、新聞の記事やラジオ・テレビのニュースが共同通信社が配信したものだと知っている人はほんの僅かでしょう。

全国には一県一紙以上は必ず地元紙があり、そこのニュースは大抵、共同通信社から配信されております。「朝日だ、読売だ」と騒いでいるのは、東京や大阪の大都会に住む人だけで、北海道の人なら道新、名古屋なら中日新聞しか読まないのです。

ですから、共同通信社の読者の累計は1000万部を超え、その影響力は、朝日や読売は足元にも及ばないわけです。少し言い過ぎですが(笑)。

その天下の共同が「成功報酬」を得て、記事に見せかけた広告を配信する暴挙は、何処のメディアも取り上げることはないので、ワセダクロニクルというネットメディアが今、注目されているわけです。

佐川君への手紙

rainbow Copyright par Keiryusai

佐川君、君は、瓦版の連中に対して、国税庁長官跡目相続全国御披露目会見をスッポかしたそうで、君らしいなあと思いましたよ。

森友学園国有地売却問題では、財務省理財局長として、君は国会では「記録に御座いません」を連発して、時の安倍政権に忠義の限りを尽くして、論功行賞として、国税庁長官に就任しました。

年収基本給1770万円プラスアルファ、恐らく2500万円を獲得して、さぞかし大リーグ・ヤンキースか、レアルマドリッドと契約した超一流職業運動選手になった気分だったことでしょう。

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国税庁長官は、君が1982年に大蔵省に入省して以来の念願のポストでしたね。駆け出しの頃の84年に大阪国税庁に配属されて、そこで、民百姓から税を絞る取る旨味を覚えました。

東大経済卒のキャリアを御旗にして、わずか30歳にして高山税務署長に就任してからは「生かさぬように、殺さぬように」と妙味を実際に体験しました。

国税庁長官に就任した際、全国30万人の税務署職員に向かって、「貧乏人は麦を喰え」「パンがなければお菓子を食べればいいじゃん」とのビデオメッセージを送り、拍手喝采を浴びたことは記憶に新しいことで、文書ではないので、これは簡単になかったことにすることができました。

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ただ、わたくし的に分からないのは君の出身高校を公開していないことです。

福島県の現在のいわき市出身。市立平一小、平一中卒は「広報いわき」に掲載されてますが、その後、東大経済学部卒で、高校名は非公開なのです。

「サンデー毎日」を調べると、1978年東大文科二類入学に君の名前を見つけましたが、東京の高校を卒業したことが分かりましたが、校名まで載っていませんでした。

まさか、麻布高校じゃないですよね?

麻布高校出身の官僚には、反政府主義者急先鋒の前川君(文科省)や古賀君(経産省)を産んでいます。

前川君が華々しくデビューした時、霞が関では「また、麻布か!」と大きな話題になりました。

霞が関では、大学は東大が当たり前ですから歯牙にかけられず、高校が話題になるのです。

恐らく、忠誠心の強い開成高校ではないかと思います。

開成高校は、「一強」安倍首相の熟読広報紙読売新聞のナベツネさんを産んだ忠義心溢れる高校ですからね。

【追記】
あくまでも創作ですから、渓流斎も佐川長官の顰に倣って、記者会見は開きません!