昔話「将軍様のご意向 御犬様施療師養成所物語」

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

時は元禄十四年。

三代将軍安倍心臓は、全国に生類憐みの令を発しました。

その結果、江戸市中を始め、諸藩では野犬や狂犬が巷に溢れ、困り果てました。

将軍様のご意向を受けた筆頭家老萩生田抜三郎は、将軍の腹心の友、籠池こと加計主水(かけ・もんど)が治める伊予の國に御犬様施療師養成所を作らんと、あらゆる方策を練って画策しておりました。

そこに立ちはだかったのが、仁木弾正こと原田甲斐。越後屋から揺すった賄賂(まいない)五百両を懐にして、諸藩の大名を折伏して、味方につけておりました。
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困った筆頭家老抜三郎は、伊賀者と甲賀者を使って、諸藩に「伊予の國に、御犬様施療師養成所を作るは元禄三十年四月開学とおしりを切ったり」との高札をあらゆる街道の宿場町に立てさせました。

高札に群がった水呑百姓どもは、字が読めません。

近くにいた坊主を捕まへて、「和尚さま、一体、何と書いてあるだんべ?」と尋ねました。

学識のある僧侶だったので、字は読めますが、「元禄三十年とおしりを切る」の意味が分かりません。

百姓どもから「和尚さま、おしりとはどういう意味ですか?」と聞かれた坊主は、苦し紛れに「おしりとはな。臀部のことじゃ。決まっとるがな。つまり、元禄三十年は、臀部のように盛り上がる。そうそう、御犬様施療師養成所が伊予の國に元禄三十年にできるが、その年は大いに盛り上がることだろう。そう書いてあるのじゃ」と、説明しました。

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それを聞いた百姓どもは、「安倍将軍、万歳!安倍将軍、万歳!」と万歳三唱したとさ。

めでたし、めでたし。

(幕府の御用瓦版「参詣」「読切」からの抜粋です。明らかに現代では使ってはいけない差別用語が含まれておりますが、当時を再現するために、敢えて使用させて頂きました)

フランス第三共和政と大仏次郎

港の見える丘公園
▽Amazon
昨日、米通販最大手のAmazonのことを書いたら、偶然にもニュースが飛び込んできました。

アマゾンが、生鮮食品も扱う米大手スーパーのホールフーズ・マーケットを1兆5200億円で買収するというニュースです。アマゾンは、この買収額をすべて現金で支払うそうですが、凄いシンクロ二シティ。

バーチャルが現実に追いついたということなんでしょうか。

フランス総領事館

今日は、土砂降りの中、横浜まで遠出して、フランス文学者鹿島茂・明大教授の講演「大仏次郎生誕120年記念 今、民主主義は何かを問う 『フランス第三共和政と大仏次郎』」(神奈川近代文学館・1108円)を聴きに行きました。

日本の知性を代表する第一人者の大御所様がどんな背格好で、どんな声色で、どんな性格の方なのか、いつか、いっぺん謦咳に接したいと思っておりましたから、早めに並んで一番前のかぶり付きの席を確保してやりやんした。

やはり、風合いは写真でお見受けする人相に現れておりました(笑)。かなりの早口で漲る自信。非の打ち所がない学識の権威。天下無敵。博覧強記の人とはまさにこの人のために作られた言葉なのではないかと思わせるほど迫力がありました。

フランス山

何しろ、鹿島先生は、ナポレオン三世の第二帝政時代の首相格だったルエールの子孫から白羽の矢を当てられ、急に電話でパリでの講演を頼まれ、そこで先生が「今のパリは、第二帝政時代のオスマンが全て都市計画で作り直したもの。ですから、第二帝政がなければ今のパリはない!」と演説したところ、聴衆から拍手喝采され、講演後、多くの聴衆(実は、殆どが第二帝政時代に政権中枢にいた人の子孫)から「本当のことを言ってくれるのは貴方しかいない。有難うございました」と感激の握手攻めにあったといいます。

意外にも、現在、第五共和政のフランスではナポレオンは、一世も三世も人気がないのだそうです。国家の英雄ではないそうです。つい最近まで、全土でナポレオンという名のついた通りや橋はなかったそうです。それは後述しますが、理由があります。(ちなみに、フランスで最も人気がある偉人はビクトル・ユゴーで通りや橋に一杯名付けられてます。次は、ドゴール将軍。日本ではあまり知られていない急進共和派のガンベッタも人気が高いようです)

ナポレオンの代わりに、苗字のボナパルトの方は、既に通りに付けられています。それには、カラクリがあって、アンリ四世にしろ、ルイ十四世にしろ、最高の権力者である王様には苗字がありませんよね?

この伝でいくと、皇帝ナポレオンも、本来なら苗字のボナパルトは割愛されて、通りや橋にナポレオンと名付けられても不思議ではありません。ということは、ボナパルト通りと付けられた通り名は、皇帝ではなく、ボナパルト将軍の名前から取ったという苦肉の策になったというわけです。

何故、このような七面倒臭いことをしたのかと言いますと、第三共和政が第二帝政を否定(打倒)して成立した経緯があるからなのです。今も共和政(第五)が引き継がれているので、帝政はタブーになってしまったわけです。

だからこそ、「第二帝政時代にはそれなりに、良いことがあった」と鹿島先生がパリでの講演会で持ち上げたところ、帝政時代の支配者階級の子孫が大喝采したわけです。

フランス山

さて、私は大仏次郎に関しては全くの不勉強で、読んだことがあるのは「鞍馬天狗」ぐらいで、あと有名な「天皇の世紀」など単に名前だけ知っているだけで、読んだことはありませんでした。

大仏次郎の代表作で「フランス・ノンフィクション四部作」と言われる「ドレフュス事件」(天人社 ・1930年)、「ブウランジェ将軍の悲劇」(改造社 ・1936年)、「パナマ事件」(朝日新聞社・1960年)、「パリ燃ゆ」(朝日新聞社・1964年)もそうで、恥ずかしながら、今になって、慌てて読んでいるところです。

鹿島先生の講演は、これらフランス四部作が全て、1870年9月4日(ナポレオン3世がプロシアに敗れて捕虜に)から1940年6月22日(ナチス軍パリ無血入城でドイツ軍に降伏後、コンピエーニュの森で独仏休戦協定締結)にかけてのパリ・コミューン~第三共和政の時代であることに着目して、第三共和政とはどういう時代だったのか、政治的、文化的特徴を細かく講義して下さったわけです。

大仏次郎博物館

詳細は長くなるので書けませんが、久し振りの骨太の講義で、感動し、大変勉強になりました。

ところで、演題にある「今、民主主義とは何かを問う」というのは、先のフランス大統領選挙の結果を引き合いに出しての面白い分析結果でした。

哲学者のエマニュエル・トッドの学説を引用します。

トッドは、家族形態を大きく四つのパターンに分けます。
(1)「共同体家族」(共産主義、一党独裁型資本主義)(親子同居、兄弟相続)=ロシア、中国
(2)「直系家族」(自民族中心主義、社会民主主義、ファシズム)(親子同居、長男のみ相続)=ドイツ、スウェーデン、スコットランド、日本、韓国
(3)「平等主義核家族」(共和主義、無政府主義)(親子別居、兄弟相続)=スペイン中部、ポーランド、イタリア南部
(4)「絶対核家族」(自由主義、資本主義)(親子別居、長男のみ相続)=イングランド、北米、豪州

そして、面白いことに、今回の大統領選挙の第一回投票で、一番多くの票を獲得した候補と地域を見てみると、まず、(1)共産主義的「共同体家族」が多いフランス中央部では、極左のメランショ候補がトップ。(2)の親子が同居して長男のみ相続する直系家族の形態が多い北東のベルギー国境やドイツ国境のアルザス・ロレーヌ地方と南仏は、極右のルペン党首が一位を獲得。(3)の「平等主義核家族」が多いパリ周辺は、中道マクロン氏がトップだったというのです。

いやあ、この話も大層面白かったのですが、残念ながら、長くなるのでこの辺で。

江戸本所両国、迷い人のお知らせを致します

回向院

先日、江戸本所両国は回向院のことを書きましたので、是非とも一度は実際に行かなければならないですよ、との天からのお触れがありましたので、行って参りました。

回向院

皆様ご案内の通り、回向院は、明暦の大火で亡くなった10万人にも及ぶ被災者(無縁仏)を弔うために、四代将軍家綱の命で建立されました。

当時の江戸市中の人口100万人(当時の世界一)のうちの10万人(一説には10万8000人)が亡くなったというわけですから、とてつもない甚大な被害だったわけです。

岩瀬醒の墓

墓苑には、明暦の大火以外にも、安政の大地震の被災者や大正の関東大震災の被災者、それに先の大戦で、米軍による市民への無差別爆撃(東京大空襲)で亡くなった方々も葬られておりました。

他に著名人としては、浮世絵師の鳥居清長や戯作者の山東京伝、鼠小僧次郎吉らの墓もあります。戯作者山東京伝の本名は岩瀬醒。山東は、芝の愛宕山の東、京伝は京橋南伝馬町生まれから取ったそうです。
知らなかったでしょ?(笑)

鼠小僧次郎吉の俗名は?

中村次郎吉という実在人物だったんすよ。ですから、幕末の河竹黙阿弥が脚色して作り上げた人物とはちと違っていたようですが、歴史上の人物であったことは確かです。

江戸東京博物館

本当は、両国駅前の江戸東京博物館で開催中の「坂本龍馬 没後150年 特別展」を見に行くのが今回の小旅行の目的でした。(実際は、徘徊迷い人)

お目当ては、暗殺される5日前の慶応3(1867)年11月10日に福井藩の重臣中根雪江に宛てて書かれた龍馬の手紙。
その1カほど月前に将軍徳川慶喜が大政奉還したことから、新政府の財政担当として福井藩士三岡八郎(維新後の由利公正=五箇条の御誓文を起草)が適任なので、一日も早く三岡が京都に来て仕事ができるよう、藩内の手続きを進めてほしいと要請したものでした。

坂本龍馬展

異様とも言える凄い混雑で、龍馬が暗殺された時、持っていたとされる佩用刀「吉行」や暗殺現場に掛けていた血染掛軸「梅椿図」など、遥か遠くから垣間見るのがやっとでした。

特別展だけの入場料1350円は高いのでは?

すみだ北斎美術館

この後、昨年開館したばかりで、いつか行ってみたいと思っていた「すみだ北斎美術館」に行ってみました。

こう見えても、自慢ではありませんが、私は大の方向音痴なので、この美術館を探すのが大変でした。とにかく、方向音痴で、全く逆の隅田川の方まで行ってしまいましたから(笑)。

この美術館は、江戸東京博物館の半券があれば割引が効くというので、お願いしたら、割引券では、「複製」の狭い常設展だけしか見られないというのです。仕方がないので観覧料1000円也で企画展「てくてく東海道」までも見させてもらいました。残念なことに土地がないせいか、美術館にしては細いペンシルビルで、階段がなくて、四階までエレベーターでしか行けませんでした。

誰でも知っているジャポニスムを代表する「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」は葛飾北斎、齢七〇を過ぎた作品だったとは改めて驚かされました。しかも、北斎は満八十九歳で亡くなる直前、「あと十年、いや五年でもいいから長生きできれば、もっとうまく絵を描けるのに…」と言い残したとか。

悪いですが、文化国粋主義者みたいですけど、北斎は比類なき世界一の絵師ですなあ。

嫌になりますが、ここも混雑で、見にくかった。

吉良邸正門跡

せっかく、両国まで来ましたので、周辺の観光資源を、迷い人になりながら、全て回ってみました。(笑)

忠臣蔵 吉良邸跡

この赤穂浪士による討ち入りで殺害された吉良家の家臣小林平八郎(実際は上杉家の家臣で応援部隊)は、葛飾北斎の曽祖父だったとか。

芥川龍之介文学碑

勝海舟生誕の地

勝海舟生誕の地

芥川龍之介生育の地(生誕の地は、築地の聖路加病院の近く) JR両国駅東口からすぐ近くでした。芥川は、築地の牛乳屋さん(明治時代は冷蔵庫がないので、都心の近くに牛舎があったのです)新原敏三の長男として生まれましたが、母親フクが精神的な病を患い、母方の兄である幕臣の家系の芥川道章の養子となります。地元の両国小学校~府立三中(都立両国高校)と進み、無試験で第一高等学校に入学し、東京帝国大学で学びます。
小説家として一本立ちする決心ができたのは、師の夏目漱石の太鼓判もあったからでしょう。

漱石は、朝日新聞社の文芸欄を創設して、小説記者として活躍します。その師の姿を見てきた芥川も大阪毎日新聞社の社外社員となって、毎日に寄稿しました。

誠恐謹言

「政治少年死す」を読み考えたこと

東京・新富町

ノーベル賞作家大江健三郎(82)が56年前の1961年に雑誌「文學界」2月号に発表して以来、右翼団体からの抗議で一度も書籍化されることがなかった中編小説「政治少年死す」が、来年7月から刊行開始する「作家デビュー60周年記念 大江健三郎全小説」全十五巻(講談社)の中に初めて収録される、ということで話題になっております。 

 「政治少年死す」は、1960年の浅沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件(東京・日比谷公会堂)の被疑者で、勾留中に自殺した右翼団体「日本愛国党」の山口ニ矢少年をモデルにした小説「セヴンティーン」の続編です。

浅沼事件は、たまたまテレビでも放送され、刺殺の瞬間をとらえた毎日新聞のカメラマンは、確か、最後の残り一本のフラッシュかフィルムでギリギリ撮影したものだと回顧していました。この有名な写真は、ピューリツァ賞を受賞したと思います。間違っていたら訂正しますけど(笑)。

私は、皆さんと同じように、若き頃、「セヴンティーン」は読んだことがあります。そして、また、皆さんと同じように、その続編「政治少年死す」も読んでみたいと思っていましたが、当時はその願いは叶いませんでした。

それが、今のようなネット全盛時代となると、今では、この小説がネット上にアップされていることを発見して驚きました。全集に収録されなくても、簡単にこの小説が読めてしまうんですね。本当にびっくりですよ。

私も早速、ダウンロードしました。56年目にして読めるとは、非常に感慨深いものがありました。

大江健三郎は、ノーベル文学賞を受賞した方ですから、当然ながら、50年に1人出るか出ないかの大天才です。この小説も25歳の時の作品ですから驚愕します。私も、彼の「個人的体験」「万延元年のフットボール」「新しい人よ目覚めよ」…代表作はかなり読みました。

しかし、実際にお目にかかったりしたりすると、大変がっかりしたこともあり、一気に彼に対する敬意も覚めてしまったことがありました。ここでは理由は書きませんけど(笑)。

それは置いといても、やはり、彼の文才には尋常ならざるものがあります。今の25歳は書けないでしょう。

というのも、「セヴンティーン」にしろ、その続編の「政治少年死す」にしろ、浅沼刺殺事件が起きて、一年も経たないで、同時代として発表しております。フィクションの体裁を取っておりますが、ほぼノンフィクションに近いのです。

当時、日本でも公開されて大ヒットしたアラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」と思しき映画も出てきて、非常にタイムリーで、舞台も、原爆投下からまだ15年しか経っていない広島だったり、後に「ヒロシマ・ノート」を書く大江本人と思われる若い作家まで登場してこの右翼少年からナイフで恐喝されたりして、微苦笑を禁じ得ませんでした。(誹謗中傷する意図は全くありませんよ!)

「教育勅語拝読」「御真影」「左翼どもが」…などとまるで今のネトウの先駆者のような言辞を少年の口を借りて披歴して、とても56年も昔の作品とは思えませんでした。

1960年代初めは、深沢七郎の「風流夢譚」事件(中央公論社嶋中社長宅刺殺事件)などもあり、右翼によるテロが横行して、市民に恐怖を与えていた時代でした。

(「風流夢譚」は発禁本となったので、私は仕方ないので国会図書館まで足を運んで読みました。私は、右翼でも、左翼でもなく、単なる負け組ですが、正直言って、酷い残酷な作品で、これなら右翼でなくとも怒るのは無理もないなあ、と思いました。ただし、刺殺事件などのテロを起こすことは言語道断で許しがたいですが)

東京・銀座シックス

今は、安倍菅独裁政権によって、忖度社会となり、言論の自由まで脅かされている時代となってしまいました。

右翼テロ全盛期の1960年代初期に発表できなかった作品が、今、発表できるなんて何か面妖な、不思議な気がします。

この小説にご興味のある方は検索してみてください。そのうち削除されるかもしれませんから。

清戸道、十文字学園、蒲田温泉、豊島氏、松崎煎餅

銀座

せっかく、泉麻人著「東京いい道、しぶい道」を読了したので、備忘録を残しておきます。(一部換骨奪胎)

 ●西武池袋線の推名町駅から江古田駅までを並行して走る通称「トキワ荘通り」。この辺りに、若き頃の漫画家手塚治虫や赤塚不二夫、藤子不二雄らが共同生活をするように住んでいたトキワ荘があったので、後になって付けられたものですが、ここは中世は「清戸道」と呼ばれていた。そう、清戸道は、賢明な読者諸氏の皆さまなら、2017年5月22日付の渓流斎ブログ「第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡」の中に出てきたことを覚えていらっしゃると思います。

 清戸道とは、大田道灌の築城した江戸城と河越城を結ぶ道路でした。(その両城の中間に滝の城を築城し、豊島氏の石神井城を攻略したわけでした)

 なるほど、清戸道は、江戸城から北西方向に進み、目白を通って、西武池袋線沿いに推名町から清瀬まで行き、埼玉県の所沢を経由して川越に抜けていたんですね!

滝の城まつり

 ●豊島区北大塚にある十文字学園。大正11年(1922年)に、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を出た十文字ことが設立した学校(当初は、文華高等女学校)です。ことの夫十文字大元がこれまた凄い。明治37年(1904年)に、日本で最初のガスメーターや水道メーターを製造販売する金門商会を設立し、学園はその工場の跡地らしい。十文字大元は、実業家だけでなく、活動写真弁士の創始者の一人とも言われます。長年神経痛に悩み、大正5年(1916年)に手技治療師だった中井房五郎(1878年 ~1931年)によって創案された健康体操によって、その神経痛が治ったことから、これを自彊術(じきょうじゅつ)と命名して普及に努めました。十文字学園も、この体操を身体教育として取り入れました。

 ●京浜急行「雑色」駅辺りから北上して環状八号線に近い蒲田郵便局辺りを走る蒲田本町通りは、「蒲田温泉街道」と呼んでもいいくらい黒いナトリウム系の温泉銭湯が集中している。南から「照の湯」「隆の湯」「ヌーランドさがみ湯」「蒲田温泉」など。締めは、京急蒲田駅近くの餃子屋「ニーハオ」で冷えたビールと一緒に。渓流斎、蒲田生まれながら、何も知らなかった…(笑)。

江戸城

 ●練馬区石神井公園にある道場寺は、14世紀後半から15世紀後半にかけて一帯を支配した豊島氏の菩提寺(太田道灌により滅亡)。この道場寺の奥に控えるのが、石神井公園の池の名前(三宝寺池)でも知られる三宝寺。門脇にある串焼きだんご「池田屋」は明治35年創業。三宝寺の山門は、御成門と名付けられているが、これは鷹狩り好きの三代将軍徳川家光がしばしばここを休憩地として使った「御成りになった」から由来するという。

 ●銀座並木通りにある「松崎煎餅」は文化元年(1804年)、魚藍坂(東京都港区三田~高輪)で創業。幕末の慶応元年(1865年)からこの場所にずーとある老舗中の老舗のせんべい店。

東京渡辺銀行が破綻しました

目黒不動尊の鷹居松

この渓流斎ブログを、現在病気療養中ながら、病院にスマホやタブレットを持ち込んで、読んでくださっている方もいらっしゃいます。

レハビリ中の方もいらっしゃいます。本当に有り難いことです。

ですから、本来なら、もっとしっかりした少しはまともなことを書かなければならないとは思っておりますが、ま、こればかりは仕方のないことであります(苦笑)。

江戸切絵図

で、最近、江戸五色不動尊巡りをするなど、すっかり江戸散歩に嵌っております。

そんな中、次期首相心待の石破茂さんと同級生の泉麻人さんが書いた「東京いい道、しぶい道」(中公新書)を面白く拝読してます。

この人の場合、江戸散歩とは違い、せめて明治大正、大体は昭和30年代という比較的新しい時代の地図を片手に散歩しているため、少し物足りなさを感じますが、それでも、この渓流斎さえも知らなかったことまで出てきます(笑)。

例えば、彼は慶応ですが、よく野球の早慶戦が終わった後、早稲田は新宿へ、慶応は銀座へ繰り出す、という話を聞いたことがあります。私は、部外者なので、慶応のおぼっちゃまは、あの銀座の何処に繰り出すのか疑問に思ってました。

それが、泉さんが慶応の学生時代によく倶楽部(あの有名な広告学研究会)の仲間と行っていたのが「Brick」だと書かれていて、「なあんだ、あそこならよく行ったことがある」と安心したものです。比較的安いショットバーです。

著者が散歩中に、よく元結不動だの、小岩不動だの、結構不動尊が出てきて、「嗚呼、江戸市中には、五色不動尊以外にかなり不動尊があったんだ」と今さらながら思い出した次第。

彼によると、成田不動尊と幡ヶ谷不動と高幡不動が江戸郊外の三大不動尊らしいですが、高幡不動は日野市にあり、かなり有名です。日野は新撰組の近藤勇と土方歳三の出身地であり、彼らも高幡不動を信仰していたはず。この本を読んで、いつか行ってみようかと思いました。

伊達上屋敷が日比谷公園の中だったとは知らなかった!

また、この本では、西日暮里の開成学園辺りの俗に言う「渡辺町」を取り上げております。ここは、「東京渡辺銀行の渡辺治右衛門が宅地開発した由緒あるお屋敷街」とだけ著者は解説しているので、実に歯痒い。かゆいところに手が届かない、と言いますか、浅薄。ここまで書くのなら何故、もっと東京渡辺銀行のことに触れないのか、がっかりしてしまいます。

東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。

実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です」などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。

まあ、歴史の教科書に出てくる話ですが、教科書には決して出てこない話として、歌舞伎評論家の渡辺保氏がおります。

彼は、何とこのこの渡辺財閥の御曹司で、まだ物心つかない幼い時分から、芝居好きの祖母に抱っこされて歌舞伎座に通っていたようです。

勿論、六代目も十五代目も生で観ていたことでしょう。(これで分かれば、貴方も歌舞伎通)。

逆に言いますと、歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。

ローマは一日にしてあらず。渡辺保氏の書く歌舞伎評がパンピーと違うのは年季が全く違うからです。

慈眼大師南光坊天海大僧正の都市計画

目黒不動尊

昨年百歳の天寿を全うされた志田忠儀さんの著書「ラスト・マタギ 98歳の生活と意見」(角川書店)を読了しました。

志田さんは大正5年(1916年)、山形県大井町生まれ。戦中は三回も召集されて、足掛け10年間も中国で軍隊生活を送り、戦後は磐梯朝日国立公園の管理人や朝日連峰の救助隊なども務めた方です。

こういう生活をした人がいたとは、私のようなシティーボーイには全く想像もつかず。奇跡のような感じがしました。

目赤不動尊

さてさて、以前から宿題となっていた慈眼大師南光坊天海大僧正による江戸都市計画について、まとめておきましょう。

天海上人(1536?~1643)は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、107歳の天寿を全うしたとか、130歳まで生き伸びた聖人だのという伝説の持ち主です。

江戸は、家康が天正18年(1590年)に入府して以来、沼地で人が住めない土地を埋めたり、利根川の水流を変えたりして、100万人が住めるような大都市に変革させていきます。

(江戸城の三の丸辺りで崖地になってますが、そこが武蔵野台地のキワだったようです。日比谷も銀座も築地も全て江戸時代からの埋立地です)

人間に最も大切な飲み水である神田上水や玉川上水を郊外の井の頭や多摩川から市中に引きます。

目黒不動尊
そして、江戸の都市づくりに、風水、陰陽道、五行説、四神相応などを取り入れて将軍に助言したのが、この天海上人です。

風水によると、北には山、南には池や海、東には川、西には道がある街は、邪気を跳ね除けられ、運気が高まると言います。

これを江戸に当てはめると、江戸城を中心にして、北に「山」である麹町台地とその先に富士山がある。南には「海」である江戸湾、東には「川」である平川、隅田川が、西には「道」である東海道があるーといった具合です。

そして肝心なのが、祟りや悪を封じるために鬼門(東北)と裏鬼門(西南)の方角に神社仏閣を設置して怨霊を鎮めるという思想です。

そこで、江戸城の鬼門には、徳川家の菩提寺である上野寛永寺を創建し、大手町にあった平将門の霊を祀った神社を移転して、神田に神田明神(神田祭り)として創建する。中世からあった浅草の浅草寺(三社祭り)も鬼門の範囲内とする。

鬼門の東北の方角には、さらに遠方の日光に家康を祀る東照宮を設置することで完成させます。

西南の裏鬼門には、太田道灌の河越城の山王権現を移転して祀る日枝神社(山王祭り)を創建し、やはり、徳川家の菩提寺である増上寺も設置する。裏鬼門の南西の方角には目黒不動尊も入れる。

そしてはるか遠方ながら静岡県の久能山東照宮で完成させるといった感じです。

目黒不動尊

これら天海上人による都市づくりを真っ向から否定する人たちもおります。そもそも天海上人は107歳も生きていないと異議を唱えます。江戸城の北に富士山が見えるわけがないので出鱈目だとも言うのです。

また、鬼門に浅草寺を入れたり、裏鬼門に増上寺や目黒不動尊を入れたりするには方角的に無理があると言います。

確かに一理あります。こじつけが散見されますから。

他に外堀の奥の四谷門、牛込門、浅草橋門などにも平将門の手や足を祀った神社もありますが、これらも眉唾ものだと批判する人がいます。

しかし、私はよしんば真実とは遠く、違っていても、天海上人による街づくりは、江戸庶民が信じた「共同幻想」のような気がしてます。

五街道に配した五色不動尊も、鬼門封じの神田明神、裏鬼門封じの日枝神社も非科学的で、効力も何もないのかもしれません。

亀戸「升本」

でも、少なくとも江戸の庶民は、いや武士や殿様も信じようとし、確かに信仰したことは事実です。それが伝統文化というものです。

何でも非科学的だと言って、排除してしまっては、その時代、時代に生きた人々の生活を否定するものだと、私は思っています。

江戸五色不動尊巡り(下)

目黒不動尊

前回の続きです。

【五色不動】
・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

でしたね。それでは一つずつ辿って行きましょう。

1番【目黄不動尊】

上記のように、現在の目黄不動尊=天台宗最勝寺は、東京都江戸川区平井(総武本線平井駅)にあります。もう一つ、台東区三ノ輪の天台宗永久寺にも目黄不動尊があります。「本家本元」争いをしているわけではないようですが、目黄不動尊は、明治以降に出来たという説もあり、私もよく分かりません。

でも、上記写真の縁起によると、最勝寺は貞観2年(860年)に、慈覚大師円仁(794~864年)が墨田区の本所で開山したようです。

最勝寺

古代中世から寺社仏閣は、荒川掘削や震災、火事など色々な理由で、度々移転するか、させられているようで、江戸川区平井には、他に天台宗の成就寺、浄土真宗の善通寺、日蓮宗の大法寺などが移転してきて、さながら寺町となっています。成就寺には、清元延寿太夫や越知ニ楽(兵学)らの墓もありました。

最勝寺

一説では、家康が鷹狩りした際に、本所にあった最勝寺に立ち寄り、そこで見たお不動様を「目黄不動尊とせよ」と仰せつけられたとか。

最勝寺は、程よい広さと言いますか、目黄不動尊に参拝するにはちょうど良い寺かもしれません。

目黄不動尊

目黄不動尊は、1メートル27センチで、江戸川区の文化財に指定されております。

2番【目赤不動尊】
目赤不動尊

文京区本駒込の天台宗南谷寺(なんこくじ)にあります。上記の縁起を読んで頂ければ、解説することは一つもありませんが、もともと動坂(本駒込)にあった伊賀国の赤目不動尊を、三代将軍家光が、「これからは目赤不動尊とせよ」と命じたらしいですね。

目赤不動尊

目赤不動尊、本来の赤目不動尊は1尺2寸(50センチ)程度の大きさだったらしいので、今の目赤不動尊がいつ頃鎮座されたのかよく分かりません。また、境内も恐らく、江戸時代はもっともっと広かったと思われますが、猫の額ほどの狭さとなっておりました。

目赤不動尊

本駒込もいわゆる寺町で、南谷寺の近くには、十一面観音像で有名な浄土宗定泉寺や、武蔵野市吉祥寺の方が有名な曹洞宗吉祥寺があります。

今回、時間がなくて残念ながら吉祥寺にはお参りできませんでしたが、吉祥寺に関する面白い逸話があります。もともと、吉祥寺は駿河台にありました。それが、例の江戸市中100万人の人口のうち10万人も犠牲になった明暦の大火で被災し、寺の焼失は免れたものの、門前の住人は焼け出されて、武蔵野に移住し、そこで開発した新田に吉祥寺村という地名を付けたそうです。だから、武蔵野市にお寺はないのに、吉祥寺の地名が現代にも残っているわけです。

目赤不動尊

駿河台の吉祥寺は、その後、焼失して、今の本駒込に移転します。そして、もう一つ面白い逸話は、駿河台吉祥寺境内に文禄元年(1592年)に寺子屋に近い「学寮」が設立されたことです。吉祥寺が本駒込に移転されると、それは「栴檀林」と命名され、これが、「曹洞宗大学」などと名称を変えて、現在の駒澤大学とつながるというのです。

ですから、駒澤大学は今年、創立425年と言ってますから、世界でも最も古い大学の一つと言えるでしょう。

3番【目白不動尊】
目白不動尊

目白不動尊は、豊島区高田の真言宗豊山派の金乗寺にあります。JR目白駅からだと歩くと30分ぐらいかなという感じです。バスに乗っていたので、推測というより感覚に近いですけど(笑)。

でも、正直、ここが一番がっかりしました。境内は狭いし、不動尊も秘仏らしくよく見えませんでしたから。

寺の周囲は超高級マンションなどなどが立ち並ぶ高級住宅街でしたから、時代を経るごとに境内の敷地が狭くなっていったと想像します。

金乗寺も、文京区関口から移転してきたようです。

倶利伽羅不動庚申塔

境内にある「倶利伽羅不動庚申塔」(くりからふどう こうしんとう)が大変有名で、寛文6年(1666年)に建てられたそうです。不動明王の法形(ほうぎょう)を現しているらしい。

目白不動尊

がっかりしましたが、五色不動尊の中で、金乗院だけは一番立派な「しおり」をくださいました。

4番【目青不動尊】
目青不動尊

目青不動尊は、世田谷区太子堂の天台宗最勝寺教学院にあります。

山本さんがお住まいの三軒茶屋の駅の直ぐ近くにありますが、ここに目青不動尊が鎮座されていたとは全く知りませんでした。境内に入ると喧騒から遠ざかり、罰当たりな言い方かもしれませんが、なかなか雰囲気のある静かなお寺でした。

目青不動尊

縁起にありますように、教学院は応長元年(1311年)、玄応大和尚により江戸城内の紅葉山に創建され、その後、度々移転してから慶長9年(1604年)、青山南町に移転し、明治42年に現在の三軒茶屋に移ったようです。

目青不動尊

目青不動尊は、もともと麻布谷町にあった正善寺の本尊でしたが、廃寺となり、教学院に遷されたということです。

像は、慈覚大師円仁の作と言われ、1メートル余。青銅製で、五色不動尊の中で、唯一、牙歯がないそうです。

大久保家歴代の墓碑

境内には相州小田原城主大久保家の歴代の墓もありました。

5番【目黒不動尊】
目黒不動尊

目黒不動尊は、目黒区下目黒の瀧泉寺にあります。

ここは凄い。今まで巡った不動尊の欠点を全て帳消しにしてくれました。

目黒不動尊

何しろ、熊本市と千葉県成田市と並ぶ「日本の三大不動尊」の一つと言われていますから、ここだけは、境内の広さと言い、趣といい、誰に見せても恥ずかしくありません(笑)。

目黒不動尊

逸話では、江戸時代、目黒一帯は、丘陵や滝や川などの自然に恵まれ、風光明媚で、旅籠屋や飯屋などもあり、江戸の庶民の遠足、いわば小旅行地だったらしいですね。富くじも幕府から認められていたとか。

富くじは1本3両(3万円)。やはり、高いので、長屋の連中が何人か集めて共同で買っていたらしい。当たりは千両(1000万円)だったそうな。

目黒不動尊

三代将軍家光も鷹狩りで、8回も目黒を訪れたという記録があるらしい。となると「目黒のさんま」とは、家光公の話だったのかしら?

大日如来

瀧泉寺には大日如来様も鎮座しておりました。

【追記】

五色不動尊は、最寄駅からでも結構距離がありましたので、バスツアーで一挙に廻ってしまうことは正解でした。

江戸時代、五色不動尊がある本所=墨田区(目黄)、動坂=文京区本駒込(目赤)、関口=文京区(目白)、青山南町=港区南青山(目青)、下目黒=目黒区(目黒)を歩いたとしても、3日もかからなかったでしょう。

バスツアーには、お昼に亀戸大根の老舗(明治38年創業)「升本」の定食(1980円ぐらいか)が付き、ガイドさんの説明もあり、これで7980円なら安かったかもしれません。

御朱印は一件300円でしたが、私はもう何も収集する趣味も意志もなくなりましたので、御賽銭をして、思い出だけを残しました。

江戸五色不動尊巡り(上)

明治38年創業 亀戸大根の老舗「升本」 予約なしでは入れないとか 大根ステーキは超格別、しかし…

5月24日(水)、お休みを頂いて「江戸五色不動尊巡り」のバスツアーに参加してきました。36人の参加者の平均年齢は75歳かなあ…(笑)。5分の4が女性と圧倒的。教養のない下衆男は、文楽の助成金を減らしたりするから、これで日本の伝統文化も安心だあぁ…

目白不動尊

 御説明するまでもないでしょうが、不動尊とは不動明王の尊称で、大日如来がお姿を変えて悪を討ち払うためにこの世に現れた化身のことです。如来とは、悟りを開いたお釈迦様のことです。ちなみに、このブログでよく登場する赤坂不動尊は暗号なので違います。

目黒不動尊 独鈷の滝

 そして、五色不動尊とは、陰陽五行説などの影響で、目の色の違いで、五つに分かれます。すなわち

 【五色不動】とは

・目黄不動尊、目赤不動尊、目白不動尊、目青不動尊、目黒不動尊

 このうち、目白と目黒は、現代でも東京の地名や駅名に残っていますから馴染みが深いことでしょう。

三代将軍家光の頃、慈眼大師天海大僧正の発案などもあって、江戸5カ所に五色不動が建立されたといいます。

大日如来(目黒不動尊)

しかし、「五色には 二色足りない江戸不動」という川柳があるぐらいですから、実は、目白、目赤、目黒の三色は確かにあったものの、目黄と目青は、明治以降につくられたものだ、という説もあります。目黄不動は、他に2カ所あるという説もあります。

とはいえ、江戸庶民の信仰の対象となったことは事実であり、私は、各寺の掲げる「縁起」とガイドさんの説明をもとに、これからお話を展開していくつもりです。

名所江戸百景

まず、これらの五カ所の不動尊は出鱈目につくられたわけではなく、江戸五街道に合わせて置かれたといいます。五街道というと、本来なら、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道のことを指しますが、上の五色不動は以下の街道沿いにあったと思われます。

【五色不動】の場所

・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

イラストで地図を書けないのが実に残念ですが、バスツアーは、この通り、上から順番に北から南へ降りてきた感じで廻りました。

バスだと半日、いや早足なら数時間で全部の五色不動尊をお参りできますが、江戸時代は徒歩ですから、3日かかったそうです。

蛙さん(目黒不動尊)

しかし、この話は眉唾ものです。なぜなら、目黄不動尊のある最勝寺は、大正2年に移転したもので、もともと墨田区本所にあったそうです。目白不動尊は、文京区関口にあったようです。目青不動尊の教学院も、かつては江戸城内紅葉山に創建されたそうです(となると、庶民がお参りできないじゃん=笑)。

あっ?堅いことは抜きにしますか?私の今回のお参りの最大の目的は、長い間患った病気平癒の御礼でしたからね。
それでは、各寺の縁起と私の印象記については次回また―。

第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡

滝の城まつり

昨日は、すっかり初夏の陽射しとなった天候の中、埼玉県所沢市の第6回滝の城まつりに行って来ました。

知名度が今一つないせいか、程よい人の集まりで、東京のように混んでいたわけではなく、ゆっくり堪能できました。

三の丸跡

場所は、渓流斎さまが御幼少の砌、野山を駆け巡っていたところに近いと言えば、近く、小学校の音楽担当の荻野先生がお住まいになっておられた東京都清瀬市の旭ヶ丘団地の裏手にあります。

昔の記憶でも、確かに「城跡」「城址」と言っていた小高い丘が、旭ケ丘団地の裏手を流れる柳瀬川1本挟んだ向こう側の県境の埼玉県所沢市にあった気がします。勿論、当時は今のように城巡りがブームではなかったので、まさに野ざらし状態で、誰にも顧みられることがなかった覚えがあります。

戦国武将行列

「滝の城(たきのじょう」は、木曽義仲の末裔と言われる信濃守大石氏(関東管領山内上杉氏家臣、武蔵守護代)が15世紀後半に築城したという説と、小田原三代北条氏康の次男で、十三代大石定久の娘婿北条氏照が、岩附領と滝山領の境目の番城とした、という説と、江戸城と河越城を築いた(1457年)太田道灌(扇谷上杉氏の家宰)が、両城を結ぶ清戸道の中間地点に築城したという説など複数あります。

およよ

いずれにせよ、全盛期は、相模の小田原城と関東の岩附城(さいたま市岩槻区)、河越城(川越市)を結ぶ中間地点の北条氏の要衝としての役目を果たし続けますが、最後は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで落城し、その後、廃城となってしまいます。

武将行列

大正14年(1925年)に、埼玉県の史跡文化財に指定され、その後、調査が進み、北条氏が多用した「障子堀」や滝の城の名前の由来となった滝跡、三の郭(くるわ)から10メートルの深さの井戸などが見つかったりしています。

いざ出陣!

写真のような戦国武将の格好をした人たちは、1週間前に埼玉県寄居町の鉢形城(文明8年=1476年、関東管領山内上杉氏家臣、長尾景春の築城と言われている)跡で行われる「鉢形城まつり」に出演した人たちを借り受けたものと、地元の人がそっと内緒で教えてくれました(笑)。

暑いなあ、疲れたなあ

その前に、滝の城の所沢市の皆さんが、寄居町の鉢形城まつりにお手伝いに行っているので、その返礼ということらしいです。

志木市柏の城跡

滝の城から数キロ離れた埼玉県志木市に柏の城跡があります。この看板の説明にある通り、ここは大石氏の居館でした。

大石氏は、小田原の北条氏の軍門に下る前に、八王子の滝山城を中心に、所沢市、志木市と今で言う東京三多摩と埼玉県南部を支配下に置いていたことが分かります。

柏の城は、今は小学校になっていて、全く面影も片鱗すらありませんでした。看板もほとんど目立ちませんし、地元の人でさえ知らない人が多いことでしょう。