藤田伝三郎を知っとるどすかえ?


藤田美術館

京洛先生です。

渓流斎さんとやら、駄目ですねえ。関東のローカル、しかも池袋みたいな場末の盛場の話ばかり書いていては駄目ですよ(笑)。

渓流斎ブログは、関西でも、京都三条商店会の「力」の女将さんをはじめ、多くの方に読まれているのですからね(笑)。

昨日取り上げて下さった藤田美術館及び藤田財閥の創業者藤田伝三郎の由来は、もうお分かりだと思います。藤田は長州出身で大阪で活躍した実業家です。甥の久原房之助は、日立、日産等の創業者の一人で久原財閥の総帥。久原の自宅は今、東京・白金の八芳園になっています。

 藤田伝三郎の大阪市都島区の豪邸は戦災で焼け、戦後、美術館や結婚式場の「太閤園」などが出来ました。美術館は老朽化したので、今回、建て替え修復するため、当分休館になったのです。
 そこで6月11日まで、所蔵品の”虫干し”も、兼ねた「ザ・コレクション」展をやっています。
 国宝9件、重文52件を所蔵する同美術館ですが、小生が見てきたのは「曜変天目茶碗(南宋時代)」「仏功徳蒔絵経箱(平安時代)」「紫式部日記絵詞(鎌倉時代) 」「玄獎三蔵絵巻第五(鎌倉時代)」「柴門新月図(室町時代)」「大般若経(奈良時代)」「深窓秘抄(平安時代)」などで、所蔵のほとんどの国宝が惜しげもなく並んでおりました。

 東京都内の美術館のように大勢の人でごった返していないので、ゆっくり、じっくり、これら国宝が眺められるのは何とも贅沢な機会でした。
 これで入場料が800円。しかも、道を隔てた宴会場「太閤園」のカレーライス、喫茶の出来る割引券まで付いているのですから有難いですね。

 あの東京・南青山の「根津美術館」内にあるチマチマした喫茶コーナーの混み具合とは雲泥の差です(笑)。

 緑が眼に染みる「太閤園」の景観は撮りませんでしたが、恐らく、渓流斎さんなら 「凄いですね!椿山荘みたいですね。こんな大きな庭を眺めていると気持ちが安らぎます」と感嘆されることでしょう。

 御存知、元勲山県有朋の大豪邸だった東京・目白の「椿山荘」も、今は藤田と縁のある「藤田観光」が経営していますから、同じような雰囲気、景観だと思われたら良いでしょう。

 藤田は長州の酒屋出身ながら、高杉晋作の奇兵隊にも参加しています。維新後、西南戦争で被服、食糧、軍靴、人夫斡旋などで巨万の富を築き、井上馨と手を組んだ贋札事件はじめ、様々な政治・経済の裏工作に関わり、莫大な資産を手に入れた人物です。明治時代、いかに大阪が「商都」として日本の経済を動かしていたかの例証です。

つまり、藤田はこれだけの国宝を収集できるほどの財力を蓄えたということです。

 今の「維新」とか言っても、”チンピラ弁護士”風情に振り回されていただけだったとは実に情けない。昨今、大阪がいかに地盤沈下して、善悪ともにスケールが小さくなったかがよく分かります。

 タレント弁護士さんは、文楽や曜変天目など伝統藝術には全く無関心で、見世物小屋の延長の「万博」程度しか興味がないのですから酷いものです。それをまた支持投票している有権者のおつむの中身も似たようなものでお粗末です。

【追記】

松本清張は、この藤田伝三郎贋札事件を題材にして、1995年に小説「相模国愛甲郡中津村」を発表し、真犯人は大隈重信説を唱えております。

明治十四年の政変で下野し、改進党をつくるために岩崎三菱から資金を得ていた大隈重信が、当時、三菱を脅かすほど台頭してきた藤田組を追い落とすための戦略だったとか。

もっとも、この説も、偽の手紙が根拠になったので、清張自身も眉唾ものとボカしてました。

江戸城参内仕り候

江戸城址

昨日は大雨がどしゃばしゃ降る中、特別講師の引率の下で、江戸城を視察旅行してきました。

長らく、人間生活を営んできておりますが、恥ずかしながら、江戸城に参内するのは今回が生まれて初めてでした。いつでも行けると思っていたら、いつの間にか百歳の老人になっていました(笑)。

いやあ、本当に色々と勉強になりました。参加費3500円也を収めたことですので、備忘録として、その勉強になったことを列挙してみたいと存じます。普通の概説書には書かれていないことから、異説、意外説までありました。

ご興味ある方だけ、この後の関所をお通りください。

大手門

まず基本から。

江戸城を最初に建てたのは、戦国武将太田道灌だと知られています。長禄元年(1457年)のことです。

私が自宅の広大な書斎に常備している山川出版社の「日本史辞典」には、それ以前は、「平安時代に江戸重継が居館を構え、15世紀まで江戸氏が本拠としたと推定される」と書かれています。

あれっ?「江戸」とは「入江の戸口」から、つまり地形から取られた地名と物の本に書かれていたのを読んだことがありますが、江戸という豪族の名前から取られたわけですか?

ま、これは置いといて、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰だった太田資長(すけなが=出家して道灌)は、岩附城、河越城も築城するなど武蔵、相模まで支配しますが、暗殺されます(下手人は諸説あり)。

この後、江戸城を支城として手中に収めたのが、小田原の後北条氏、北条氏綱(北条早雲を始祖とする二代目戦国武将ですが、早雲は北条氏を名乗ったことがなく、伊勢新九郎と称し、入道して早雲庵宗瑞)で、大永4年(1524年)のことです。

そして、ご存知のように、後北条氏は、豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡し、秀吉の命で江戸城を治めることになったのが徳川家康です。天正18年(1590年)のことです。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、江戸に幕府を開きますから、徳川氏は明治維新(1868年)まで278年間、居城とするわけですね。つまり、江戸城=徳川城=幕府ということになります。

皇居東御苑

肝心の江戸城ですが、現在、天守台だけはありますが、お城(天守)はないのはよくご存知だと思います。1657年の明暦の大火、いわゆる「振袖大火」で天守も焼け落ち。それ以降、明治になってからも再建されていないのです。驚くことに、江戸城に天守があったのは、江戸時代の最初の50年間だけで、残りの200年間以上はなかったのですね!

皆さんお気づきのことかもしれませんが、天守閣のことを何で天守かと言いますと、こちらの方が正確だからです。天守閣と言うようになったのは、明治以降で、江戸時代は天守とだけ言いました。その前に織田信長は安土城を天主と呼んだそうです。

さて、その明暦の大火では、当時も世界一の大都市だった江戸の人口100万人のうち、何と10万人も焼死しました。天守再建の話があった時に、四代家綱の重鎮で会津藩主保科正之(二代家忠四男)の「天守再建より、江戸市中の復興を優先するべき」との進言で取りやめになったそうです。

外国人観光客

その後、天守再建話が出たようですが、実現しなかったのは、泰平の世の中になって、「別になくてもいいじゃん」ということになったんでしょう。現在残る天守台は八代将軍吉宗の頃のもので、しっかりと神田上水から引いてきた金明水井戸まで設置されております。

さて、幻の徳川氏の江戸城は3回築城されています。

(1)慶長12年(1607年)by 徳川家康
(2)元和 8年(1622年)by二代秀忠
(3)寛永14年(1637年)by三代家光

家康は源氏の末裔を自称していたので、源氏の象徴である白色の天守。家忠の天守は、ピンク色(銅板の色が輝いていた)、家光の天守は白と黒のツートンカラーだったそうです。

これらは、徳川家が出費したのではなく、浅野家や黒田家などに財政、荷役負担させて、大名の財力を落とすために散財させたのでした。

天守だけでなく、石垣もそうです。遠く瀬戸内の小豆島や伊豆半島から切り出された石が多く使われたそうです。これらも、大名の仕事で、石に大名家の刻印もあります。

石垣

江戸時代は、大きなもので7回の地震で、幕末の戦禍を入れると計8回も大火に見舞われました。

その度に石垣も崩れますが、不思議なことに古い石垣ほど崩壊することが少なかったそうです。それだけ、昔の人の方が技術があったということで、隙間があって雑なように見えても、うまく、揺れを吸収する耐震構造になっていたわけです。時代が新しくなればなるほど、整然と綺麗に石垣は積み上げられるようになりましたが、隙間もなく、地震には弱いのではないかと言われています。

松の廊下

現在、江戸城址は皇居東御苑として無料に一般公開されているのに、不勉強な日本人が多いのか、行ってみたら、外国人観光客ばかり、目立ちました。外人だけ、と言っても言い過ぎじゃありませんよ。

特別講師のお話で面白かったことを列挙しますとー。

●明暦の大火で亡くなった10万人は、回向院に葬られた。回向院は当時、宗派を問わなかったらしい。回向院では賭け相撲興業がおこなわれていたとか。

●「二の丸庭園」は小堀遠州作。今で言うレセプション会場で、能舞台もあったそうです。

●外国人の人気の忍者は、明治以降になって言われたもので、本来は「忍び」。ほとんど口伝なので、文献が残っていない。有名な伊賀、甲賀の甲賀は、「こうが」と濁らず、「こうか」が本来の読み。

天守台

●大手門をほどなく行ったところにある百番所。ここには、伊賀、甲賀、雑賀衆などの忍びと、同心100人、侍25人が24時間態勢で詰めていた。が、侍の7~8割が当時、人宿と呼ばれていた口入れ宿から斡旋されてきた派遣社員だったらしい。社員というより浪人か。

●このように、江戸市中は物価が高かったので、地方から参勤交代で江戸に入った大名は、西からなら品川辺りの人宿で人を雇って、行列に加わってもらったとか。江戸は時代の先をいく派遣社会だった。

●桜田門外の変で難に遭った井伊直弼の護衛の70人のうち40人が派遣社員だったとか。もっとも、主君を護衛できなかった彦根藩士は切腹となった。

●江戸城の大棟梁に任じられていたのが、甲良氏。この一家だけが、日本橋の住居に地下室をつくることが許可され、その地下室に江戸城の図面などを保管していたとか。

●幕府お抱えの絵師狩野派は、屏風絵だけでなく、地震災害の度に崩壊した江戸城内の襖絵を描くことが仕事の第一だった。

●城内「西の丸」は家康隠居の場所としてつくられた。

●城内「紅葉山」にだけが唯一、東照宮が祀られ、聖地だった。そのことを知っていた官軍は、一番最初にここを破壊した。

●江戸城は、外堀の奥までの規模を持ち、北は神田上水の流れるお茶の水、東南は海の城と呼ばれた浜御殿(浜離宮)、南は芝口見附門、西は四谷門までが外郭という日本一の広さ。

●日比谷、銀座、八重洲などは、江戸時代に神田の山を削ったり、内堀、外堀の掘削などから出た土砂や土を使った埋め立て地だった。だから、三の丸辺りまでが武蔵野台地の縁、もしくは、際(きわ)だったため、名残として断崖になっている。

いやはや、なんと言っても、江戸城は奥が深い。

忠臣蔵外伝と葛飾北斎

木村東介著「女坂界隈」(大西書店、1976年初版)を読んでいたら、忠臣蔵外伝として意外な史実を教えてもらいました。

この本に所収されている「赤穂浪士討ち入り余話」というタイトルで書かれた短い論考です。

以前にも渓流斎ブログで取り上げましたが、木村東介(1901~92年)は、山形県米沢市出身で、若い頃、中野正剛門下の国粋主義団体「雲井塾塾長」として活動しながら、善隣書院主宰で書家の宮島詠二(大八)に諭されて、古美術商を生涯の仕事として捧げた人です。後年、ジョン・レノンと会って、彼の人柄に触れて、一緒に歌舞伎座で歌右衛門の「隅田川」を見た人でしたね。

木村東介は、文章家としても知られ、何冊かの著作を残しています。

さて、忠臣蔵ですが、言わずと知れた話で、饗応役の高家(こうけ)吉良上野介義央(よしなか)に意地悪された(と思った)赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城松の廊下で、刃傷沙汰に及び、切腹を申しつけられ、赤穂浪士が吉良邸に押し入って仇討ちをして、本懐を遂げるというのが本筋です。

しかし、実は真相が不明な部分も多く、そんな単なる仇討ち話だけではないんですね。

まず、浅野内匠頭は、織田信長と豊臣秀吉(の五奉行だった)に仕えた浅野長政の五代目子孫に当たり、赤穂浅野家は長矩の代で断絶します。

そして、吉良義央は、「忠臣蔵」では悪役ですが、三河国吉良地方の領主としては、新田開発や水利事業などを行い、地元では名君として崇拝されています。

また、高家とは、幕府の儀式、典礼を管掌する位の高いお役目で、吉良上野介は、役高1500石、領地4200石に過ぎないのに、大名(1万石以上)並みに従四位上に任じられていました。一方の浅野内匠頭は、播磨赤穂藩の五万石の大名ながら、従五位下と官位が吉良上野介より低かったのです。

さて、木村東介さんに教えられたことは、元禄15年(1702年)の赤穂事件の38年も昔の寛文4年(1664年)5月のこと。上杉家四代綱勝が、鍛冶橋の吉良邸に招かれ、お茶を喫したところ、腹痛を起こし、手当の甲斐なく死去します。享年27。毒殺説も囁かれました。三〇万石の名門上杉家(関ヶ原の戦い以前は、会津若松120万石!)を恐れての幕府からの差し金説もあったようです。

上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏の生母を輩出する名門。その後、関東管領に任じられ、憲政の代で長尾景虎に家督を譲り、景虎は入道となって上杉謙信と名乗ります。その謙信公以降、景勝ー定勝ー綱勝と続きましたが、四代でお家断絶寸前。

そこで、吉良家が、子息三郎を上杉家の養子として五代目を継がせ、吉良三郎は、上杉綱憲と名乗ることになるのです。後に、上杉家は米沢に移封、そして15万石に減封され、「為せば成る」で有名なあの上杉鷹山(治憲)を輩出したりするわけです。

ということで、吉良家と上杉家との縁が浅からぬどころの話ではありません。

赤穂浪士が討ち入りした時、仇討ちに備えて、上杉藩の剣客小林平八郎を始め、鳥井利右衛門、須藤与一右衛門ら二十数人が吉良家の付人として派遣されたわけです。

そして、どういうわけか、上杉藩の剣客たちは赤穂浪士に大した抵抗をするわけではなく、潔く討ち死にしたといわれます。

もう一つ、意外な逸話として、この上杉藩の剣客小林平八郎の孫娘が宝暦10年(1760年)9月、本所松坂町と本所割下水の間に挟まれた辺りで、男の子を産み、時太郎と名付けられます。

この時太郎こそが、後の天才絵師葛飾北斎となるわけです。

凄い話っだったでしょう?

【追記】

イタリアのファッショ気取りだった若き木村東介が、宮島詠士に初めて会った際、師匠中野正剛の名刺と自分の「雲井塾塾長」の名刺を差し出すと、宮島詠士は、いきなり2枚の名刺をもみくちゃに握り潰してしまった。

その際に言った言葉。

「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、一体何の得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ」

再び「大政翼賛会に抗した40人」…

明治25年創業 八丁堀「あさだ」 天蕎麦 950円

gooブログには便利な「アクセス解析」というものがありまして、どんな方がアクセスされているのか、個人のアドレスまでは分かりませんが、どんなキーワードでアクセスしてきたのか、分かるようになっています。

4月26日は5028ものPV(ペイジビュー)があり、全体の第22位だったことは先日書きましたが、原因はやはり、オノ・ヨーコさんのようでした。

当日は、「オノ・ヨーコ、 認知症」で検索した方が最も多く、幸か不幸か、たまたま、仕方なく(笑)この渓流斎ブログに突き当たった方が多かったわけです。その後、渓流斎ブログは、71位、322位、764位、1491位、2872位とランキングは落ち込みましたから、私としては、やっと正常に戻りつつあるのではないかと分析しています。

以前は、6000位から7000位の間でしたからね。

ということで、渓流斎ブログは、いつもらしい傍若無人の(笑)備忘録に戻ります。

盆栽展外伝

楠精一郎著「大政翼賛会に抗した40人 自民党源流の代議士たち」(朝日新聞社)は、戦時下に軍部の意向に逆らってまで大政翼賛会に反対し、議会政治を守ろうとした衆議院院内会派「同交会」に結集した37人プラス3人を取り上げたものです。

大政翼賛会体制とは、「一強多弱」の議会政治体制のことです。歴史は繰り返しますね。

こんな早く「いつか来た道」に戻るとは思いませんでしたが。

最近、本は一度読んだだけでは覚えられなくなりました(笑)。そこで、彼らの経歴を出身別にまとめてみましたー。

【新聞記者】
●田川大吉郎(1869~1947)長崎出身。東京専門学校卒。郵便報知新聞~都新聞~台湾新報。憲政会など。

●安藤正純(1876~1955)東京・浅草出身。東京専門学校卒。日本~朝日新聞社。政友会。

●河野一郎(1898~1965)神奈川小田原市出身。早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞社。山本悌二郎農水相秘書を経て、政友会鳩山一郎派。戦後、日本民主党結成。鳩山内閣で農水相。

※このように朝日新聞出身者は、他に、自由党総裁緒方竹虎(二・二六事件の際、主筆兼常務取締役として青年将校と対峙)らに代表されるように、反日でも左翼もでもなく、保守本流の本派、元祖のエスタブリッシュメントだということが分かります。

【大学教授】
●植原悦二郎(1877~1962)長野出身。ワシントン州立大学卒。明大教授などで政治学、比較憲法学。政友会など。

●世耕弘一(1893~1965)和歌山県新宮市出身。日大卒。朝日新聞社、ベルリン大学留学を経て、日大教授、近畿大学総長。政友会

【院外団】
●大野伴睦(1890~1964)岐阜出身。明大退学処分。鳩山一郎に兄事。戦後、衆院議長。林譲治、益谷秀次と自民党御三家。

【弁護士】
●斎藤隆夫(1870~1949)兵庫・出石出身。早稲田専門学校卒。弁護士合格。鳩山一郎の父鳩山和夫法律事務所で見習。明治45年初当選。昭和11年の粛軍演説、15年の反軍演説で除名処分。戦後、日本進歩党最高幹部。

●星島二郎(1887~1980)岡山・倉敷出身。六高~東京帝大卒。大正9年、立憲国民党から初当選。治安維持法に反対。戦後、衆院議長。後継者は、秘書だった加藤六月(運輸族のドンと呼ばれた)

※体制派にいて、治安維持法に反対することは、よほど生命の危険を顧みず、勇気のあることだったと思います。

●片山哲(1887~1978)和歌山県田辺市出身。東京帝大卒。弁護士。社会民衆党など。戦後、首相。

●鳩山一郎(1883~1959)東京帝大卒。弁護士。政友会。戦後、首相。

●三木武吉(1884~1956)香川県高松市出身。東京専門学校卒。明治40年、判事検事登用試験に合格。のちに枢密院議長となる原嘉道法律事務所で弁護士。東京市議会議員などを経て、憲政会衆院議員。戦時中、軍部の横暴に抵抗。昭和30年の保守合同では、政敵大野伴睦と手を結ぶ。

【地方議員】
●坂東幸太郎(1881~1974)香川出身、旭川市移住、早大卒。旭川市会議員経て、衆院議員。憲政会・民政党。治安維持法に反対。

●林譲治(1889~1960)高知県宿毛市出身。京都帝大卒。宿毛市長、高知県会議員を経て、衆院議員。鳩山一郎派。父は、逓信相農商務相を務めた林有造。吉田茂の実父竹内綱代議士とは従兄弟。従って、林譲治は、吉田茂とは又従兄弟で、吉田第一次内閣では、書記官長(官房長官)。

盆栽展外伝

【軍人】
●宮脇長吉(1880~1953)香川出身。陸士15期。政友会。斎藤隆夫除名反対7人のうちの1人。。佐藤賢了中佐「黙れ」事件の当該者。

●原口初太郎(1876~1949)福岡出身、陸士8期。中将、政友会。斎藤隆夫除名投票棄権。

【裁判官・弁護士】
●名川侃一(1883~1944)広島出身、明治法律学校卒。東京地裁部長退官後、弁護士。甘粕事件弁護人。政友会。

●一松定吉(ひとまつ・さだよし、1875~1973)明治法律学校卒。大審院検事で退官。民政党。

※私学出身者は、帝大出身とは違い、将来の出世が見込まれないため、政界に転出する人が多かったようです。

【外交官】
●芦田均(1887~1959)京都出身、東京帝大卒。ペテルブルク、パリ大使館勤務。政友会。戦後、首相。

【政治秘書】
●川崎克(1880~1949)三重県伊賀市出身。日本法律学校卒、尾崎行雄の秘書。民政党代議士。

以上 果たして茲まで読まれる方が何人いるでしょうか?

これでアクセス数が減ることでしょう(笑)。

泉下で泣いている桑原武夫、忘れられた大学者

前沢宿「川松」

京都にお住まいの京洛先生が、カンカンに怒っておられます。

京都市で、フランス文学者で文化勲章受章の桑原武夫京大名誉教授(1904~88年)の1万冊の蔵書が、ゴミとして破棄された事件を憂えてのことです。

「恐らく、京都市職員幹部が、桑原武夫の名前を知らなかったんじゃないか。AKBやら鶴瓶のことはよく知っていても、歴史に残る大学者を知らないとは無知にもほどがある。世も末じゃ」と嘆いておられます。

どぜう

事件は、4月27日の一部報道で発覚しました。

京都市教育委員会は、無断で廃棄していた市生涯学習部の担当部長の女性(57)とだけしか書いておらず、名前まで分かりませんが、その部長を減給6カ月の懲戒処分にしたそうですが、実に甘い!

57歳にもなるのにこの教養のなさと民度の低さ。市民の血税で食べさせてもらっているという自覚にも欠けます。

市教委の説明では、遺族から寄贈された当初は、蔵書は桑原さんの書斎を再現した記念室で保管されていたそうです。そのうち、人々の記憶も風化して、蔵書は市内のあちこちの図書館で「お荷物」のようにキャッチボールされて、2015年12月、当時図書館副館長だった犯人の担当部長の判断で勝手に廃棄したといいます。
 
あとで、犯人の担当部長は「図書館と蔵書が重複し、目録もあるため廃棄してよいと考えた。遺族に相談すべきだった」と弁解しているそうですが、本当にお粗末君です。目録を作れば、原本は捨ててもいいという感覚です。

市からの謝罪を受けた桑原さんの遺族は「重要な資料が行政機関で引き継がれなかったのは信じがたい。残念だ」と言うのがやっとで、茫然自失だったことでしょう。

遺族は、歴史的にも価値のある蔵書が散逸しないように、京都市に寄贈したはずです。行政が信頼できなければ、一体、何を信じたらいいのやら?

うなぐ

京洛先生は「この一件は、現代の実相を見る思いがします。廃棄を指示した京都市幹部の教養度が分かります。恐ろしいほどの無知、無教養です。いわば、京都市は、泥酔で無免許の人間に公用車の運転をさせているようなもので、減俸どころか馘首するべき事件です」とまで言って、断罪しています。

京洛先生が、ここまで怒りを顕にするのには訳があります。

スタンダールの「赤と黒」やジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」は桑原訳で読み、岩波新書の「文学入門」は当時のほとんどの学生が読む教養書で、桑原武夫は身近な存在だったからです。

しかも、行きつけの寺町通りの老舗寿司屋「末廣」には、桑原武夫の書が飾っており、彼もこの店の常連だったことが分かります。

おには

もっとも、京洛先生の話では、この「末廣」は、江戸の天保年間創業ですから、看板の「末廣」の額を揮毫したのが、頼山陽だといいますからね。となると、頼山陽の息子で、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎も通っていたかもしれませんし、近くの書店兼版元「竹苞楼」に通っていた上田秋成もこの店の常連だったかもしれません。

それでも、江戸時代なんて、京都の人にとっては、つい最近の出来事。

よく京都人に対するジョークで、「京都の人は、『先の大戦』というと、太平洋戦争のことではなく、幕末の鳥羽伏見の戦いのことを指すんですよ」と言われていましたが、それは間違い。

「先の大戦」とは、応仁の乱のことでした!

日本は格付けが大好きな格差社会

菜の花

街の本屋さんの灯を消してはいけないので、たまに近所に唯一残っている本屋さんに買いに行きます。

何も、いくら便利だからといって外資系の通販ばかり儲けさせてあげることもないでしょう。

そして、出掛けてみると、意外にも、とんでもない掘り出し物にぶつかることがあります。昨日は、まさしくそうでした。

ここ最近、いやもう数十年も昔からの疑問だったのが、歴史上の身分を表す官職名です。

例えば、従三位(これで、じゅさんみ、と読みます)とか、信濃守とかいった名称です。

具体的に言いますと、豊臣秀吉は「太閤」、石田三成は「治部少輔(じぶのしょう)」、徳川家康は「内府」、このほか、水戸黄門や大岡越前守らが有名です。

これらは一体どういう意味なんでしょうか?

これらの様々な疑問に答えてくれたのが、たまたま街の本屋さんで見つけた大石学著「江戸時代の『格付け』がわかる本」(洋泉社、972円)だったのです。2017年4月19日初版なので出たばかりでした。

いやあ、長年の疑問が氷解してスッキリしました(笑)。

上の疑問で言いますと、秀吉の太閤とは、関白を中国の官職に言い換えた言葉だったのです。唐名と言います。同じように、家康の内府は、内大臣の唐名。黄門、正式には黄門侍郎は、中納言の唐名だったのです。

ちなみに、関白も内大臣も中納言も、奈良時代に中国に倣って律令制(律=刑法、令=行政法)を取り入れた時に、その官職はなかったので、令外官(りょうげのかん)と言います。令外官には、他に、征夷大将軍や検非違使などもあります。

三成の治部少輔は、官途(中央官制の長官)名で、実際の役職というより名目上の名称となりました。井伊直弼の掃部頭なんかもそうです。

大岡越前の越前守も、もともと「守」(かみ)は、国司の長官名です。身分として四等官があり、それは長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)なので、国司となると、守、介、掾、目となるわけです。

えっ?分からない?

つまり、越前でしたら、長官が越前守、次官が越前介、判官が越前掾、主典が越前目というわけです。

江戸時代になると、国司は形骸化しますから、領地の主=国司名とはならず、名目上の名前で幕府に許可を求めます。例外として、鍋島藩の肥前守などのように一致するものもあり、武蔵守は、江戸幕府のあるところなので、名乗ることは禁止されました。

大岡越前守忠相も、町奉行になる前は、大岡伊豆守を名乗っていましたが、町奉行の中に既に伊豆守がいて、バッティングしたため、越前守に変えたのです。

あと、正一位から従八位までと大小の初位(そい)の「位階」があります。

こちらは、従五位(じゅごい)以上が「貴族」、従三位以上が「公卿」と呼ばれ、歴然たる身分制度があります。

天皇に謁見するためには、この位階がなければならないので、江戸時代に初めて象が来日した時、この象さんに従四位が贈られたという逸話があります。忠臣蔵の浅野内匠頭は従五位下だったので、何とそれより上だったのです!

このように、人は官職で婉曲に呼ばれましたが、本名は諱(いみな)と言って、忌み名に通じることから、日本人は昔から、本名で呼ばれることを嫌ったからです。

「源氏物語」にしろ「徒然草」にしろ、人は、官職名で呼ばれてますよね。

言霊の国ですからね(笑)。

ですから、ネット社会で、堂々と諱を曝け出している日本人は、勇気があるなあ、と思うわけですよ。

パリの銀行が繁栄した秘密とは

昨日は、大学の同窓会(東京・大手町のサンケイプラザ)に参加してきました。春と秋の年2回あります。フランス語を専攻した皆さんなので、ワインと美食にうるさい(笑)人が多く、秋はボージョレヌーボー、春もそれなりの高級ワインが出ます。

昨日もワイン通から、ワインの説明がありましたが、忘れました(笑)。吾人には理解不能で、ワインでしたら、美味しければ何でも戴くタイプだからです。

毎回、多彩なゲストスピーカーをお呼びします。ゲストとは言っても身内の卒業生です。それが、皆さん優秀な方ばかりですので、各方面で御活躍されております。

有名な政治家だけはいないようですが(笑)、官界、財界、学界、文学界のほか、公認会計士や同時通訳者など数多の人材を輩出しております。

昨日のゲストは、東京銀行のパリ支店長などを歴任した渡辺昌俊氏でした。色々な部署を体験され、ベトナム戦争中のサイゴン支店にも勤務されていたそうです。

東京銀行は、今では三菱東京UFJ銀行として吸収合併されましたが、かつては国立の横浜正金銀行で、日本で唯一、外国為替事業を認可された銀行でした。若き永井荷風がこの横浜正金銀行の行員で、リヨン支店やニューヨーク支店で勤務した体験などから、「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表しております。

さて、ゲストの渡辺氏は幸運なことに、パリ支店は3回も勤務されたそうで、最初に渡仏した時(1962年)の、東京銀行パリ支店長が、戦後、文民としてただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相の長男広田弘雄で、この方、作家大岡昇平の小学校時代の同級生で小説「幼年」にも登場します。

そして、パリ支店次長が窪田開造。この人は、窪田啓作の筆名を持ち、加藤周一、中村真一郎、福永武彦らと「マチネ・ポエティック」に参加した詩人、文学者で、カミュの「異邦人」の翻訳家としても知られています。

渡辺氏のお話で面白かったことは沢山ありましたが、2点だけ特筆しますと、まず、フランスの銀行には2種類あるということでした。一つは、(1)バンク・ドゥ・デポといって、日本の市中銀行と同じように、預金で運用したりする銀行。もう一つは(2)バンク・ダフェアといって、預金は集めず、証券会社のように投資事業を行ったりする銀行ーの2種類です。

1960年代の日本の銀行には何処にもディーリングルームがなく、渡辺氏らが中心になって、色々と偵察、ではなかった、研修をさせてもらって参考にして、取り入れていったそうです。

もう1点。なぜ、フランスの金融業界が国際的に繁栄したのか?

もともと、国際金融業務は、基軸通貨が中心になります。第1次世界大戦までは、大英帝国のポンドが基軸通貨だったので、ロンドンの「シティー」が。第2次大戦後は、ブレトン=ウッズ体制でドルが基軸通貨となり、ニューヨークの「ウォール街」が中心となります。

金融業界の規模をボールに例えると、ロンドンやニューヨークがサッカーボールだとすると、パリはテニスボールぐらいの規模。金融の中心を自負するフランクフルトやチューリッヒでさえ、ビー玉ぐらいの大きさだというのです。

ですが、それにしても何故、パリにお金が集まるのか不思議です。

それは、戦後の東西冷戦の時期、ロンドン、ニューヨークといったアングロサクソン系の銀行を嫌ったソ連や東独、ポーランドといった旧共産圏がパリの銀行を贔屓にしたからなのでした。

もう一つ、ド・ゴール大統領の手腕で、アラブ諸国との交流を良好にしたため、オイルマネー(もしくはオイルダラー)がそっくりパリの銀行に流れてきたというのです。

ベトナム戦争後は、パリで和平会議が開催されるなど、パリは、アングロサクソンではないのに、国際都市として、世界から注目と信頼を勝ち取ることに成功しました。

なあるほど。プロ野球で言えば、パリの銀行は「アンチ巨人」の受け皿だったわけですね。

自民党源流の代議士の中には大政翼賛会に反抗した人がいた

ホッケ焼定食880円

これでも、近現代史関係の本は、自分なりに目を通してきたつもりでしたが、かなり偏っていたことが分かりました(笑)。

パリのクルトル先生お勧めの楠精一郎著「大政翼賛会に抗した40人 自民党源流の代議士たち」(朝日新聞社)を読み進めると、知らないことばかりで、驚きの連続です。

この本は、政府与党自民党の機関紙「自由民主」の連載をまとめたものが、朝日新聞社によって刊行されています。ということは、世間一般、巷間で伝わっているオルタナ真実とは真逆で、朝日新聞社とは、反体制派でも左翼でも何でもなく、エスタブリッシュメント(既得権益者)だということがよく分かります。

そもそも、右翼、左翼という言葉自体、フランス革命後の議会で、王党派と反王党派が席を占めた場所を指して使われ始めたもので、人間そんな単純なもんではありません、

右翼・体制派と言われた人でも、しっかりと「治安維持法」に反対した国会議員(星島二郎、尾崎行雄、坂東幸太郎ら)もいたわけで、本書にも偉大な人物として出てきます。何しろ、本書のタイトル自体が示す通り、東条英機に反旗を翻して、大政翼賛会に反抗した代議士40人を取り上げているわけですから。

デザートはムース

引用したいことは沢山あります。

「憲政の神様」と謳われた尾崎行雄(1858~1954)が、なぜ、「咢堂」と号したのか?ーそれは、尾崎が、大隈重信が結成した立憲改進党に参加した後、明治18年、東京・日本橋区から立候補して27歳で、東京府会議員になります。ところが、明治政府が民権派弾圧のために発布した保安条例によって、東京から退去を命じられてしまいます。酒席で、縁の下に隠れていたスパイによって、冗談が密告されたからです。

どこか、今の共謀罪の匂いがしてきます。

これに驚愕した尾崎は、自分の雅号を最初は「愕堂」とし、後にりっしんべんを外した「咢堂」と名乗るわけです。

チューリップ

今はときめく世耕弘成経産相兼内閣府特命担当大臣。大阪の近畿大学の理事長としても有名ですが、なぜ、早稲田大学出身の彼が近大の理事長なのか、彼の祖父の代にまで遡らなければ分かりません。

世耕弘一。恐らく、日本史上では、こちらの方の方が重要で格上でしょう。何しろ、苦学力行の人で、人望が厚く、「世耕宗」と言われるほど、和歌山の選挙区では熱烈に支持する人が多かったといいますから。

新宮市の貧しい農家の九番目に生まれ、人力車夫をしながら苦学して日大に入学し、ドイツ留学の後、教授にまでなります。昭和9年に日大と関係が深かった大阪専門学校の校長と大阪理工科大学の学長に就任し、学制改革で両校が合併して近畿大学となると、初代の総長兼理事長になった人です。

続いて、「二・二六事件」の首魁として民間人ながら処刑された北一輝(輝次郎)の実弟北昤吉も大政翼賛会に抗して同公会に所属した40人の代議士の1人でした。

彼は、母校早稲田大学哲学科の講師を始め、大東文化学院教授、大正大学教授などを務め、多摩美術専門学校(多摩美大)の創設者になっています。

さらに、国家総動員の軍事体制の真っ只中で、軍部に異議を唱えた国会議員がいました。

昭和15年3月の衆院本会議で、斎藤隆夫議員が、政府による非現実的な日中戦争の処理方針を糾弾すると、「『聖戦』を冒涜するとは何事だ」と軍部の圧力によって議員を除名されます。この時、除名の可否を問う投票で、敢えて反対票を投じる勇気のある気骨な代議士が7人いました。その中に、戦後首相となる芦田均や軍人出身の宮脇長吉、それに弁護士出身の名川侃市(ながわ・かんいち)らがいました。

この中の宮脇長吉は、昭和13年3月のあの有名な「黙れ事件」のもう一方の主役でした。主役は、戦後の東京裁判で52歳の最年少でA級戦犯(終身禁錮刑)となった佐藤賢了中将(当時は中佐、石川県出身、1895~1975)です。衆院委員会で、国家総動員法を審議している際、佐藤は、議員の質問に答弁しているときに、野次に対して「黙れ!」と一喝したのです。一介の中佐に過ぎない説明役の横柄な態度に議会は大混乱に陥ります。

佐藤の回顧録によると、この「黙れ」の後に「長吉!」と言おうとしますが、その名前はぐっと飲み込みます。その長吉こそが、宮脇長吉代議士のことで、実は、宮脇は元々軍人で、陸士第15期。陸士第29期の佐藤より14期も先輩でした。しかも、宮脇は、佐藤が陸士在校中の教官でもあったのです。

この宮脇長吉の子息が中央公論編集者から紀行作家となった宮脇俊三です。

ちなみに、佐藤は、東条英機の悪名高き「三奸四愚」の1人と言われてます。(三奸=鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚=木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄)

もう1人、斎藤隆夫議員除名に反対票を投じた名川侃市は、明大卒業後、判検事登用試験に合格して東京地裁部長などを歴任します。しかし、私学出身ということから将来に見切りをつけて退官し、弁護士となります。そして、何と、大正12年の甘粕事件の弁護人の一人でもあったのです。

甘粕事件の弁護人の中にこういう経歴の人がいたとは、恐れ入りました。知りませんでしたね。

誰も知らない鳥取県

IT’s展での故片岡みい子画伯の作品

昨晩は、東京・銀座の渋谷画廊で開幕した「IT’s展」のオープニングパーティーに行ってきました。

2月に亡くなった片岡みい子画伯の遺作展ともなりました。ちょうど去年の今頃、同展の定例会が開催され、まだ片岡さんもお元気で、雑談したり、写真を撮ったりしたものでした。

どういうわけか、昨年も雨で今年も雨。到着するやいなや、バス観光協会長さんがプラスチックカップに、ビールを山盛り注いで下さりました。

私はと言えば、荷物と傘を何処に置こうか、思案しているまま、ぼんやりしてカップを傾けて床にビールを零してしまいました。それを見た市瀬支配人から「なんばしょっとね!」と怒られてしまいました。コワ~

会場では、以前に片岡さんから紹介して頂いた米澤画伯と再会することが楽しみでした。立派な経歴と職歴の持ち主ですが、いつも世間を超越した仙人のような格好をして、考え方も超然としているので、お話を聞いているだけでも楽しい方です。

昨日は、米澤画伯の出身地鳥取県のお話でした。県の人口は60万人足らずで、何と日本一少ない!東京の街を歩く人でも鳥取県人を見つけることは極めて稀なわけです(笑)。何しろ、東京の世田谷区民より少ないのですから。それでいて、東京都より面積が広い!

鳥取県には四つしか市がありません。鳥取、米子、倉吉、境港です。高校も少ないので、県大会で4回勝てば甲子園に行けるそうです。

最近は、野球よりも相撲に力を入れているそうで、高校の監督、部長がモンゴルにまでスカウトに行くそうです。その代表が大関照ノ富士。県内は、ちゃんこ屋さんが溢れ、店主は相撲部の監督さんや部長さんだったりしているとか。(笑)

大変失礼ながら、鳥取県と言っても、山陰地方にあることは分かっていても、地理的に島根県との区別がつきません。恐らく、全国一知名度が低い県かもしれません。

そこで、危機感を抱いた歴代の県知事さんが、全国に鳥取県を売り込もうと考えました。

それが、漫画です。

「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるや、、「名探偵コナン」の青山剛昌、「孤独のグルメ」の谷口ジローらが県出身ということで、今や大々的に観光資源として売り出し中です。数年前から、米子空港を「米子鬼太郎空港」に、鳥取空港を「鳥取砂丘コナン空港」にそれぞれ名称を変えたそうですね。

歴史的にもあまり英雄がおらず、知られていませんが、古代は因幡と伯耆の国で、中世、近世は代々池田家が治めていました。

今、上野の国立博物館近くに「黒門」がありますが、これは丸の内にあった池田藩上屋敷の門を移築したものです。

都内に現存する江戸時代の門として、本郷東大の「赤門」(加賀前田藩)と並ぶ国の重要文化財ですが、鳥取県人でさえ、あまり知られていないそうです(笑)。

鳥取の池田藩主は、兵庫県の姫路城藩主池田輝政の次男忠継が治めた岡山の池田藩と国替えして藩主となったそうで、血筋は同じ。同族です。そう言えば、新橋に県物産店として岡山県と鳥取県が合同になっていたので、不思議だなあと思っていましたが、ちゃんと歴史的背景があったわけですねえ。

祇園の秘密

さいたま市の桜

以前は、殆ど全くと言っていいくらいテレビを見なかったのですが、三途の川を渡り損ねて娑婆に戻ってきてから、よく見るようになりました。

昨日は、有料放送の映画が無料で見られるというので、チャレンジしてみましたら、「タダほど高くつくものはない」の典型で、画面の左端に御丁寧にも「無料放送中」と大きく告知表示して、うまい具合に字幕が読めないように邪魔しているのです。

「この告知を消すには、有料放送をお申込み下さい」との御案内。

さすがです。

見たかったのは、ゲーリー・クーパー、グレイス・ケリー主演の西部劇の名作「真昼の決闘」(1952年)でした。

字幕として読みづらいので、お陰様で「High noon」として、いいリスニングの勉強になりました。

裏切りやら逃亡やらで、たった1人で4人組の一味と対峙せざるを得なくなった保安官の内面がよく描かれていました。

この作品で、アカデミー賞主演男優賞を受賞した名優ゲーリー・クーパーは、この映画公開の9年後、60歳で亡くなっていたんですね。

昭島市の桜

最近よく見るのは、天下の公共放送の「ブラタモリ」です。

あれはよく出来た番組ですね。

タモリの博識ぶりが話題になりますが、事前に相当予習しているんじゃないかと勝手に思ってます(笑)。

そうでなくても、彼は特に地理や地質学には精通してます。

今週と先週は京都でしたので、力を入れて見ました。先週の特集「清水寺」は、特に聖と俗の境目に閻魔大王と小野篁を祀る六道珍皇寺を取り上げてましたが、京洛先生のお陰で何度も京都巡りをしているので、拝観したことがあるので懐かしくなりました。

昨日の特集は「祇園」でした。若い近江アナは、「お茶屋」と「置屋」と「仕出し屋」の三点セットをご存知なかったようですが、それは仕方ないことでしょう。

東京では、「待合」「置屋」「料亭」と呼ばれ、これが揃うと三業地と呼ばれます。

最も有名な花街は、新橋、赤坂、柳橋、浅草、芳町(人形町)ですが、四谷荒木町、大塚のほか、江戸時代の宿場町だった内藤新宿や千住などに面影を少し残しております。

東京・日比谷公園の桜

話は、京都に戻して、祇園にある赤穂浪士や歌舞伎の忠臣蔵でも有名な「一力茶屋」(一見さんお断り)が出てきましたが、江戸時代では、ここが花街の境目だったとはこの番組で初めて知りました。

つまり、江戸時代は、建仁寺の敷地の南側だけを花街として開放していたんですね。

その後、鴨川に堤を作って、敷地を拡大し、明治になって建仁寺の北側も花街として開拓されたようです。同時に四条通りに市電を開通させるために、道路を拡げて花街を移動させた様子もやっておりました。

建仁寺は、京洛先生の御先祖様の菩提寺でもあり、何度も参拝させて頂きましたが、祇園の発展に関わっていたとは全く知りませんでした。寺社領を開放したわけですから。

もっとも、建仁寺が建てられたのは鎌倉時代ですから、それ以前は、今の八坂神社、もともとは祇園社の全て広大な社領地だったんですね。これも知りませんでした。

番組では一言も触れていませんでしたが、前にもこの渓流斎ブログ(2016年5月24日「今来の才伎」)で取り上げましたが、京都の有名な祇園祭りは、この八坂神社(祗園社)の祭神をまつったものです。
そして、この八坂神社は、山城国愛宕郡の八坂郷のゆかりの神社で、この地域に本拠を置いた八坂造は「狛国人より出づ」(「新撰姓氏録」)ということで、高句麗系の氏族だった、というのが古代史の権威上田正昭京大名誉教授の学説です。

古代高句麗とは、今の北朝鮮です。ということは、祇園祭りとは、北朝鮮のお祭り?

今、朝鮮半島では緊張関係にあるので、番組では忖度して、あまり八坂神社の歴史を取り上げなかったのかしら?