「資本主義という謎」の衝撃

大宮盆栽村 Copyright par Keiryusai

エコノミスト水野和夫氏と社会学者の大澤真幸氏による対談「資本主義という謎」(NHK出版新書)を読み始めております。

初版が2013年ということで、もう4年も前の本ですが、久し振りにエキサイティングな本で、知的好奇心を満足させてくれます。

この本は、「どうせお前さんには社会科学の知識が足りないだろうから」という友人の本山君が貸してくれたもので、当初は全く興味がなかったのに、読み始めるとグイグイ引き込まれてしまいました。「食わず嫌い」では駄目ですね(笑)。

大宮盆栽村 Copyright par Keiryusai

この本が面白いのは、あの共産主義であるはずの中国共産党まで染まった資本主義経済とは一体何なのか、その歴史的背景を担保にして明快に分析してくれていることです。

水野氏は、フェルナン・ブローデルやカール・シュミット、大塚久雄らの著作を引き合いに出して、大変説得力のある論理を展開しています。

特に、印象的なことは、資本主義の誕生と成長にはキリスト教、その中でもプロテスタント、もっと細かく言えばルター派ではなくカルバン派の役割が大きかったという説です。

その前に何故、資本主義が欧州で起きたかという素朴な疑問です。(水野氏は、資本主義の勃興を12世紀のイタリア・フィレンツェ説に賛同しております)近世ヨーロッパが大航海時代で海外諸国を植民地化してのし上がる前は、世界一の富裕大国だったのは中国でした。何故、その中国で資本主義が起きなかったのか?また、何故、国際的に商人が大活躍していたイスラム世界ではなかったのか?という疑問です。

この中で、中国に関しては、1793年に清の皇帝が英国のジョージ3世に宛てた手紙が残っており、そこには「我々の生産品と交換に異国の生産品を輸入する必要はない」とはっきり書かれていたそうです。

つまり、中国は遠方から財やサービスを輸入するほど国内ではモノ不足がなかったから、資本主義も発達しなかったわけです。

イスラム世界に関しては、利子を禁止されていたからというよりも、「コーラン」に書かれている相続法によって、遺産は多数の家族に厳格に等分に分配されるため、イスラム経済圏を膨張させる資本の蓄積が十分ではなかったからという説が有力なんだそうです。

大宮盆栽村 Copyright par Keiryusai

水野氏は、リチャード・シィラ、シドニー・ホーマー共著「金利の歴史」(紀元前3000年のシュメール王国から金利があった!)をもとに、利子率革命の歴史を辿って、資本主義誕生・発達の背景を探ります。

●1555年=ピークの9%(アウブスブルクの和議=神聖ローマ帝国内で初めてルター派が認められる)
●1611年=2%を切る
●1622年=4%台に上昇(英、蘭が東インド会社設立。仏ブザンソンの「大市」の支配者だったジェノヴァが、アムステルダムの「取引所」に取って代わられる)
●1648年=(カトリックとプロテスタントとの30年戦争終結のウエストファリア条約)

この間、利子を禁止していたカトリック教会の監視の目をくぐって、イタリアのメディチ家が為替のテクニックを使って、実質的に時間が金利を生んでいく手法を生み出していく様も描かれます。

時間を支配するのは「神」の独占特権事項だったため、教会の権力が強かった中世までは、カトリックが経済規範を握っていました。それが近世になって宗教革命~宗教戦争~和解などのプロセスを経て、資本主義の萌芽と成長につながっていくというわけですね。

これは実に面白い!

古代出雲は国際交流の拠点だった

バーボンストリート Copyright parDuc de MatsuokaSousumu

「古事記」「日本書紀」に出てくる「国譲りの物語」。出雲のオオクニヌシ ノミコトが、アマテラス オオミカミの派遣したタケミカヅチの軍門に下り、国を譲るという話です。

私はこの神話に大変興味があり、恐らく、この話は史実であり、もともと日本列島には大名のような豪族が群雄割拠していて(だから全国に古墳が点在する)、奈良飛鳥辺りの豪族の一つだった天皇家=大和朝廷が、全国統一の最後の牙城だった出雲を平定した話ではないかと勝手に解釈しております。

つまり、出雲豪族は、天皇家と同等かそれ以上の勢力と財力を持っていたのではないかと想像します。

 よく知られているのは、埼玉県の大宮氷川神社で、「武蔵国の一の宮」と言われていますが、祭神はスサノオノミコト(オオクニヌシの六代祖先)で、出雲系と言われています。はるばる遠く離れた関東にまで出雲系は進出していたことになります。相当な財力と勢力があったという証左です。

そんな疑問を解消してくれるようなシンポジウムが昨日、東京・有楽町で開催され、私もクジで入場券が当たったので、いそいそと出かけていきました。午前中は、大宮盆栽美術館で研修があった後に出かけたので、昨日は大忙しでした。

シンポジウムは「日本海交流と古代出雲」で、直接は、いや全く神話とは関係ありませんでしたが、古代の出雲ではいかに中央政府=大和朝廷とは別に、独自に近隣諸国と国際交流していたか、大変よく分かりました。

前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置した紀元前108年辺り(弥生時代中期)から10世紀の平安時代にかけて、朝鮮半島や今の中国東北地方にあった渤海という国などから本当にひっきりなしに北九州を通って間接的に、もしくは直接出雲にやって来て交易をしていたのです。

邪馬台国が畿内説が有力だという前提なら、投馬(とうま)国が、出雲ではないかと言われているそうです。

7世紀になると、新興国渤海は当初、北西風に乗って男鹿半島を目指して顎田(あぎだ)浦に行きます。顎田とは今の秋田市のことで、斉明朝が派遣した阿倍比羅夫が平定した北の要所でした。人間文化研究機構の平川南理事によると、当時、外交団使節を迎え入れるために、立派な迎賓館を建て、道路を整備し、あの時代で既に水洗トイレまであったというのですから驚きです。

時代が経ると、渤海使節は南、南へと交易地を変えて行きます。

9世紀になると、能登半島を目指して、越前に行きます。そして、隠岐の島を目印に中継して出雲を目指すようになるのです。

 関東学院大学の田中史生教授によると、律令制国家を樹立した大和朝廷は、中国の中華思想をモデルに天皇中心国家を建設します。天皇の勢力内を「化内」、その外にいる野蛮人を「化外」という位置付けにし、海外から入ってくる人間を(1)蕃(蛮)客と(2)帰化の2種類に分け、大宰府をつくり、博多に鴻臚館を設置して、彼らに食事と宿泊無料で待遇したといいます。

 半島や大陸からの「化外」の政府関係者らはほとんどこの九州に入ってきますが、それ以外の国際民間商人らは出雲に直接向かうことが多かったといいます。

 つまり、古代は歴史書には書かれることがほとんどなかった民間の商人が大活躍していたというわけです。

 何しろシンポジウムは、3時間半以上もありましたから、一言でまとめるのは不可能ですが、やはり古代の出雲は、多くの人が想像している以上に、交易の拠点で莫大な力があったことが分かりました。

 古代出雲に関して詳しい方は、補足訂正してくださると大変有難いのですが…。

寺社仏閣巡りの「猫の足あと」はお薦めです

東京・目黒不動尊

IT関係で言えば、私が初めてワープロを買ったのは1985年。エプソンの「ワードバンク」という機種で、ディスプレイにはわずか数行の文字しか掲示されませんでした。

生まれて初めてパソコンを買ったのは1995年。アップルの「マックブック」という機種でした。初めてインターネットに接続しましたが、当時はまだダイヤル回線で遅く、画像が出ると驚きました。ブラウザはネットスケープナビゲーターという「N」のマークが印象的でしたが、今はとんと噂は聞きません。どうなったのでしょうか?

そして、ブログを始めたのが2005年で、10年起きに新しいことに挑戦してます。2015年は、特になく、黄泉の国に行ってましたけど(笑)。

まあ、IT関係は、比較的早い時期に挑戦していることを自慢したかっただけですが、実は、技術的なことは恥ずかしくも全く何も分かっておりません。

それが先日、海城学園の同窓会に参加して、若い後輩の皆さんの中には、結構IT関係の仕事をしている人が多く、「へー」と思っただけででした。

そしたら昨日、何気なく名刺を整理していて、海原メディア会の事務局長でIT会社の社長でもある松長氏の名刺の裏を見たところ、そこには「猫の足あと」と書いてあったので吃驚!知ってるぞ!と思い、彼に連絡して問い糾したところ、彼はあっさりと「へい、あっしがやりやんした」と、かつ丼をペロリと平らげたのです(笑)。

いやはや、少し脱線しました(笑)。

猫の足あと」とは、今のところ、東京、神奈川、千葉、埼玉など関東圏内にある寺院、神社の沿革、観光名所などが網羅されたサイトです。

私の趣味(と言っては怒られますが)に「寺社仏閣巡り」がありまして、たまたま自宅近くに全く知らなかった豪勢な神社を発見して、検索したところ、この「猫の足あと」に巡り合い、それ以降は、分からない時は、このサイトに頼るようになっていたのです。

まさか、世代が少し違いますが、高校の後輩が開設していたとは!灯台下暗しでした。

しかも、これらの寺社仏閣は、松長氏が全て自分の脚を使って廻り、自ら写真も撮ってきたといいますから、二重の驚きです。

「サイトの寺社仏閣は、貴兄が(全て・ほとんど・大体)取材、執筆したのですか?」との小生の質問に彼はこう答えました。

…江戸時代は自転車もない中、日本橋を出発したら初日の宿泊は、保土ヶ谷又は戸塚でしょうから、舗道をウオーキングシューズで歩くのは当時よりかなり楽でしょうね。
朝から夕方まで散歩を続けると4万歩、約30km、参詣寺社30~50くらいになります。

御朱印画像をくれる方、汚い画像を綺麗な画像に差し替えるように画像を送ってくる寺社様などの場合は、「画像は◯◯さんからの寄贈」と注記しております。
従って画像の全てが小生の撮影と言ってもいいでしょう。…

ひょっえー!ぶったまげました。

寺社仏閣巡りは、週末と祝日のみらしいですが、1日4万歩、50カ所とは大した魂消たです。

「江戸五色不動尊」や「秩父三十四カ所霊場」なども掲載されていますが、まだ、関東圏内に限られていたのは、1人で廻っているせいだったんですね。

ということで、お忙しい方もこの「猫の足あと」(←こちらをクリック)を覗いてみて下さい。

今度、IT関係に異様に詳しい松長氏から渓流斎ブログのホームページ化について、相談に行こうかと思っております。

大東亜共栄圏とは何だったのか?

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

昨日は、渓流斎の◯回目の誕生日でして、世界各国の首悩から祝電の嵐が押し寄せてきました。

という夢を見ました。

今からでもまだ間に合いますよ(笑)。

昨日予告しました通り、今日は大東亜共栄圏を取り上げます。夏はお盆です。沖縄慰霊の日や原爆忌、終戦記念日だけでなく、戦争で亡くなった方々の御冥福を改めて御祈りしましょうではありませんか。

例によって、今読んでいる鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)に出てきたのです。それは「大東亜共栄圏の理念と現実」という題で、竹内好、橋川文三、山田宗睦の3碩学による鼎談です(初出は、「思想の科学」1963年12月号)。この中で、政治学者の橋川文三(1922~83)が、分かりやすく、大東亜共栄圏の定義をしてくれております。

橋川によると、大東亜共栄圏という言葉が最初に公式に使われたのは、昭和15年(1940年)8月1日に松岡洋右外相が記者会見で行った談話だと言われています。この時、松岡外相は「…我が国眼前の外交方針としては、この皇道の大精神に則り、まず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりません」と述べたというのです。

昭和15年と言いますと、その前年に第二次世界大戦の火蓋が切られた欧州では5月にドイツ軍がマジノ線を突破し、6月にオランダが降伏、7月にはフランスが降伏する年です。これによって、日本の帝国陸軍が6月に部内で作成していた「総合国策十年計画」の中に書かれた「大東亜を包容する共同経済圏を建設する」ことが急激に実現性を持ち始めるのです。

つまり、オランダがアジアに持っていた蘭印=インドネシアと、フランスが持っていた仏印=ベトナムが、いわば「持ち主不明」の状態になるわけです。(当事者にとっては、失礼な言い方ですけどね)これをドイツが戦略としてうまく使います。蘭印については、「日本の意向に沿う」と返事をしておきながら、仏印については、態度を曖昧にして日本を焦らす作戦です。

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

橋川によると、これで、日本軍部は非常に焦って、どうしても南進ムードを盛り上げなければならなくなったのではないかといいます。また、その裏には、その3年前の昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件を端に発した日中戦争の膠着と泥沼化があったわけです。

ということは、南進ムードと大東亜共栄圏の建設という目標は、膠着状態になった日中戦争の打開策というよりも、「陸軍は一種の病的な興奮に陥って、支那事変をほうかむりする絶好のチャンスをつかもうとする姿勢を示しはじめるということが、いろんな記録から出てきます」(橋川)というわけなのです。

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

繰り返しになりますが、大東亜共栄圏の背景には、泥沼化した日中戦争と、オランダとフランスに勝利を収めたドイツの策略と、「持ち主不明」となって隙間ができた南方進出ムード(と同時に石油資源などの確保)の高まりがあったということなんですね。(ゾルゲ事件を調べていた頃は、浅墓にもそこまで精確に把握できていませんでした)

これに付け加えると、当時日本は、エネルギー資源の石油は66%も米国から輸入していました。政府直接購入を入れると80%にもなったといいます。

これだけ、「鬼畜」米英に経済の根本を依存しておきながら、日本は、よくもあれだけ無謀な戦争を仕掛けたものです。

翌年の昭和16年に入ると、ABCD包囲網が巡らされ、やはり軍部は「一種の病的興奮」に陥って冷静な判断ができなくなってしまったのでしょう。

大川周明が説いたように、大東亜共栄圏の思想信条には、欧米列強から搾取されたアジア諸国の植民地を日本が解放するという高邁な精神がありました。しかし、フィリピンにしろ、インドネシアにしろ、解放した日本は当初は歓迎されても、欧米人と同じような植民地主義的な威圧的態度を彼らに取ったことから、逆に、失望とともに反日感情まで生じさせたのです。

この鼎談で、面白かったのは、次の竹内好の発言でした。

「わたしの実感として今思い出してみると、大東亜共栄圏が直接民衆を捉えたのは砂糖の特配だった。ジャワ(インドネシア)を占領した時、砂糖の特配があった。砂糖など舐められない時に砂糖を舐めたということは嬉しかったね、そういうもんじゃないかな(笑)」

戦争体験者がますますいなくなってきた昨今、こういった歴史的証言は、今更ながら大切だなあと改めて思った次第です。

能楽は絶滅危惧種か?

熊野神社

昨日、能楽師がこの20年で半減したことをこの渓流斎ブログに書いたところ、大阪にお住まいの堂島先生から「今や能楽は、絶滅危惧種ですよ」と書かれた以下のメールを頂きました。

…聡明な渓流斎居士も御存知のことと拝察致しますが、大阪の能楽会館も年内で閉鎖されます。施設の老朽化が理由になっていますが、全ておカネが無いからです。
 漫才師や落語家は増えても、能楽師もどんどん減っていて、朱鷺やパンダ以上に絶滅寸前ですね。

 CMに出て稼いだり、くだらないテレビのバラエティーショウに出演する”三文能楽師”は目立ちますが、能楽は、家に喩えれば、肝心の屋台骨は傾き、いつ、ひっくり返っても、おかしくないのです。

 「伝統文化を守る」とか、「世界遺産は、なんたらカンタラ」とか色々言いますが、「金儲け」にならないものはすべて捨て去られ、廃棄処分になるのが今の時代です。

 何とも情けない時代に生きているものです。
 東京・銀座の新ビルに綺麗な「能楽堂」ができたと喜んでいても、その内実、舞台裏はお寒い事情を抱えていることでしょう。…

うーん、なるほど、パンチが効いているといいますか、シニカルな観察眼は相変わらずです。

もう、30年近い昔ですが、今では見る影もないフジテレビが視聴率で三冠も五冠も獲得して飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃です。

当時、有名な敏腕プロデューサーのY氏とお会いしてお話を伺う機会がありました。今でも覚えていることは、彼の「才能は金がある所に集まる」という一言でした。

当時は、トレンディードラマとか呼ばれるものが大流行りした頃で、テレビ界には、タレントや歌手、俳優だけでなく、才能溢れる脚本家や振付師、コント作家、カリスマ美容師、ファッションデザイナー、空間プロデューサーまで犇いておりました。まるで蜜に群がるヒアリのように(笑)。

能楽は、その起源は飛鳥時代辺りの猿楽まで遡ることができ、それを伝えたのが秦河勝だという説があります。京都太秦の広隆寺(弥勒菩薩)を創建した秦河勝は新羅(現韓国)からの渡来人でしたね。(渓流斎ブログ2016年5月24日「今来の才伎」などご参照)

観阿弥も秦河勝の子孫だと自称します。

能楽は室町時代の観阿弥、世阿弥親子が大成しますが、それから以後は、信長、秀吉、家康を始め、何れも諸国大名によって庇護されます。

能楽五流派の一つと言われる宝生流は、東京・水道橋に立派な能楽堂があり、石川県にもかなり多く宝生流が伝えられています。何故かと言うと、加賀前田藩が宝生流を庇護していたからなんですね。

維新後、能楽が没落してしまったのは、そのパトロンの大名が職を失ってしまったからです。

それでも、能楽は、細々ながら伝統芸能の根を絶やさないように、関係者一同が、先祖伝来の家宝の面などを売ったり、歯を食いしばったりして頑張ってきたから続いてきたという事実があります。
それなのに、資本主義の原理のせいか、次々と淘汰されてしまったのが現状なのです。

恐らく、「才能は金がある所に集まる」という原理も働いたのでしょう。

今読んでいる鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)の中で、白州正子が「女にはお能が舞えないことが、わたし、五十年やってきてやっと分かりました。あれは男色のもので、男が女にならなくちゃだめだって。精神的にも肉体的にも…」と告白していたので吃驚しました。

白州正子は、このほか、保元平治の乱も承久の変も、 「院政時代は全部男色の取りっこのけんかなんだそうです」という説も唱えておりました。

これまた、腰を抜かすほど驚きましたよ。

秩父の謎と葦津珍彦とGHQの3S政策と伝統文化の絶滅

大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 昨日NHKで放送の「ブラタモリ」埼玉県秩父編を見ていましたら、色んなことを考えさせられました。

 何しろ、秩父といえば、日本の高度経済成長を支えたセメントの材料の石灰岩の供給地(武甲山)です。その石灰岩は、サンゴ礁からできているんですね。そうなると、埼玉県どころか日本列島全体は、大昔はまだ海だったということになります。

 番組の解説では、2億年ぐらい前に、ハワイ辺りにあった海底火山が噴火して、冷えて固まった溶岩の上にサンゴ礁ができて、そのまま長い年月をかけてプレートが移動して、日本列島にまで辿り着いて、当該のサンゴ礁石灰岩が今の埼玉県辺りにまでもぐって隆起した(これが武甲山)らしいのです。

  日本列島は太古の大昔は大陸と陸続きだったという説もあり、2億年前、3億年前の話になると、全く想像を絶します。

 しかし、「万物は流転する」ことは確かであり、これからの将来、2億年も経てば、今の日本列島が実在するかどうかさえも怪しくなってきますね(笑)。

 まあ、その頃、人類自体が生き延びているかどうか、分かりませんが。
 大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

でも、こんな太古からの自然で出来た溶岩や断崖が信仰の対象となり、「秩父三十四所観音霊場」ができて、江戸時代には月に4万5000人もの観光客(四国霊場巡りなどを上回る日本一)が押し寄せたという話ですから興味がそそります。

もう一つ、秩父盆地は稲作に適さなかったので、桑の木を植え、養蚕業、絹織物産業が発達し、大正時代にその頂点に達します。

「秩父銘仙」といって縦糸しか通さない独特の織物技法のため、染色すると裏も表と変わらないほど色鮮やかに染まり、大流行したそうです。

残念ながら、日本人は着物を着なくなりましたからね。「復活」は無理にしても、また少し見直されていくといいなあと思ってます。

 大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

京洛先生のかつての後輩だった故中川六平氏が編集した鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)をやっと図書館で借りられて少しずつ読んでいます。1996年4月25日初版ですから、もう20年以上前に出版されたものでした。

この中で、京洛先生お勧めの葦津珍彦(あしづ・うずひこ)との対談「尊王攘夷とは」を読んでみました。初出は鶴見らが主宰した「思想の科学」1968年4月号です。ちょうどこの年は、「明治百年」という節目の年で、記念行事が国事行為として行われました。

そう言えば、来年は「明治150年」という記念すべき年なのに、来年、国事行為を行うとかいう話は聞こえてこないですね。どうしたのでしょうか?

葦津珍彦(1907~92)も今ではすっかり忘れられた神道思想家です。今の右翼を自称する人たちでさえ知らないのではないでしょうか。彼の凄いところは、神道思想家でありながら、戦時下の国家神道を否定して東条英機内閣の戦時特別刑法改正に反対して、特高にマークされていたことです。

この対談によりますと、葦津珍彦は戦時中、田辺宗英が経営する「報国新報」の実質的な編集責任者を務めていました。

この田辺宗英は、記憶力の良い皆様方は覚えていらっしゃると思いますが、この渓流斎ブログでも取り上げております。(2016年8月23日「高橋ユニオンズ」など)阪急の鉄道王小林一三の異母弟で、後楽園ホールを作り、初代日本ボクシングコミッショナーにもなった人でしたね。

葦津珍彦は、戦時特別刑法改正反対していたため、田辺に迷惑をかけてはいけないと判断して、当局に目を付けられた報国新報を退社するのです。

「わたしは外国流のリベラリストでもなければ社会主義者でもありません。土着の神道人です。ですから、ドイツ観念論で反訳解釈した官製のような国体神道論がいやで、当時の権力には協力できなかった」と言います。

しかし、原爆を投下しながら公平な文明の裁判官として振る舞う米国の偽善を目の当たりにして、戦後は一転して、「その米国人が敵視している『国家神道』を守ると決断した」と言います。

そして、面白いことに「GHQの態度は公式的に厳しかったですが、正直に告白すると、わたしが見た満洲支那占領中の日本官吏より物分かりのいい連中でした。…彼らは私的感情や憎しみで権力を乱用することは決してなかったのです」とまで言うので、私なんか意外に思ってしまいました。

表題になった尊王攘夷についても「明治維新を生み出した精神の尊皇とは、日本の固有文化を確保し発展させていこうということで、今日流のことばで言う天皇一家の尊重だけのことではないのです。攘夷とは、その根本に立っての積極独立ということで、日本の土着の固有文化を破壊しようとする勢力に抵抗することでもあるのです」と発言しております。

私は右翼でも左翼でもありませんが、日本の固有文化を守ることに関しては深く共鳴しますね。

最近、再び能楽に興味が湧き、古い本を書庫から見つけて驚くことがありました。その本は、20年ほど前に買った「能楽ハンドブック」(三省堂)という本ですが、そこ挟んであった栞に、1997年10月1日時点の日本能楽協会の正会員が1421人とありました。
それが、20年近く経った2016年6月末の時点で、783人にまで減っていたのです。つまり、20年で能楽師が半分近くに減少したことになります。

こういうのが日本の固有文化の危機と言わずに何と言いましょうか?

かつて、GHQによる「3S(Screen, Sports, Sex)政策」といった陰謀論が流行りましたが、固有文化の破壊勢力は外部にあるのではなく、案外、内部に潜んでいるのかもしれません。

海城学園 「創立125周年記念誌」出版記念会

ワシントンD.C. Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

我が母校、東京・新大久保にある海城学園創立125周年の記念誌出版会が東麻布で催されるということで、12日の夜参加して参りました。ちょっと想像もしていなかった衝撃なことも起こり、人間、長生きはするもんだ、と思いましたよ(笑)。

昨日は、「応仁の乱」の山名宗全の子孫に当たる明治24年(1891年)生まれの山名義鶴さんのことを書きましたが、驚くべきシンクロニシティで、海城学園の前身が創立されたのも明治24年でした!

創立者は、佐賀鍋島藩士で維新後、海軍少佐などを歴任した古賀喜三郎です。海軍に優秀な人材を送り込もうと、海軍兵学校を目指す「海軍予備門」として生まれました。ちなみに、創立者古賀の女婿が江頭安太郎海軍中将で、この江頭の孫が文芸評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)で、江藤は学園の理事になったこともあります。

また、江頭中将の曽孫に当たるのが皇太子妃雅子さまになります。

海軍予備門は、今、霞ヶ関の厚生労働省がある所にありました。その隣が府立一中(現都立日比谷高校)という時代です。

つまり、霞ヶ関の官庁街などと威張っておりますが、比較的新しくできたものだということが分かります。

ワシントンD.C. Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

母校は明治24年創立ですから、昨年の2016年が125周年です。その記念誌は、海原会(海城学園卒業生の会)のメディア会が中心になって、3年がかりでOBからの証言を集めたり、座談会を催したりして、方々から寄附金を掻き集めて、今春、やっと完成にこぎつけたわけです。

この本には、私も卒業生の一人として執筆し、歴史的証言が盛り沢山で、装丁もしっかりしていますが、書店では販売されていません。

海原会 (←こちらをクリック)に若干残っているようですので、一部1000円ですが、是非お求め下さい。と、宣伝しておきます(笑)。

ワシントンD.C. Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

さて、その出版記念会です。場所は、あのスパイ、ゾルゲが住んでいたロシア大使館裏手の東麻布でした。住宅街の一角のような四辻沿いにやっとお目当の「ピリピリ」というカレー店を見つけることができました。(後から分かったのですが、この店は海城OBの伊藤さんという方がやっているお店でした)

15人も入れば満杯になってしまう小さなお店で、窓ガラスを通して外から中の様子が丸見えです。

出入り口が分からず、中の様子を見たところ、超ミニスカートの女性がいるじゃありませんか。あれっ?会場間違えたのかな?それとも、誰か自分の奥さんか家族を連れてきたのかもしれない。意を決して入ったら、やっと一人、松長事務局長の顔が見えて安心したわけです。

小生、一昨年大病で入院したおかげで、会合に参加するのも3年ぶりぐらいでしたから、出席者の方々は、記念誌出版会代表の小西さん以外は殆ど知りませんでした。

で、先程のミニスカートの女性はOBの方でした。海城学園は、男子校なので、あれっ?と思いましたが、…つまり、その…そういうことでした。私より一世代若い方で、スマホのゲームソフト製作者でシナリオライターさんのようでした。

もう一人、後からいらっしゃった方で、小生の四年先輩に当たる川田さんという人もなかなかでした。一見、堅気には見えない服装です。金魚をあしらった派手なアロハシャツのようなものをお召しになっておりました。

名刺を頂くと「金魚銀座 座主(CEO)」とありました。もともと三菱財閥系の超超一流企業にお勤めになっていたのですが、転勤を命じられ、飼っていた金魚が死んでしまうので、その会社を辞めてしまった風流人でした。

川田さんは全国の金魚市に顔を出して、情報収集したり、金魚の飼い方を指導したり、講演活動をしたりしているようですが、その金魚は、販売しているわけではないので、どうやって生計を立てておられるのか、最後まで謎で不思議な人でした。

この方、大変失礼ながら高校時代の不良精神が三つ子の魂のようにお持ちになっており、この川田先輩より5歳年長の先輩と「おい、表に出ろ!」「上等じゃねえか」と大喧嘩寸前までいき、東映のヤクザ映画より迫力があって面白いものを見させて頂きやんした。

恐らく海原メディア会は、私を含めて超破天荒な方々の集まりのようでした。

 海原会の会長は有名なフリーアナウンサーの徳光さんでメディア会にも顔を出しております。そして、メディア会には何と言っても、モハメッド・アリとアントニオ猪木の異業種格闘技などを仕掛けたプロモーターの康芳夫大先輩がおります。

 今年1月には、メディア会の会長だった田所さんが50歳そこそこの若さで急逝され、記念誌の完成を見られなかったことが本当に残念でした。田所さんは、日刊競馬の記者を務め、メディア会には私財をなげうって、会の運営と発展のために努力されていた方でした。

 いずれにせよ、どこに出しても恥ずかしくない立派な記念誌をボランティアで作り上げた皆々様方、本当に御苦労さまでした。

山名義鶴さんという応仁の乱以来の子孫

たふきふたわあ

私の畏敬する松岡将さんが、先日、調布先生に「お父さんの一代記『松岡二十世とその時代』をお送りしたい」というので、住所をご教示したら、調布先生から当方に返事がきました。

 その返事で、不肖渓流齋が驚いたのは、調布先生が、この本の索引に出ている山名義鶴という「東大新人会」のメンバーの一人に昔、六本木の洒落たレストランで会ったことがあるというのです。驚きましたよ。

 調布先生のお父さんが山名氏と同じ明治24年生まれで、幼馴染で、それを通じて知っていたということでした。これも、”テレパシー”でしょうかね(笑)。

山名氏という人はあの「応仁の乱」の西陣の総大将、山名宗全の子孫で、彼は「東大新人会」のごく初期のメンバーで、松岡閣下の御尊父松岡二十世氏にとっては先輩みたいな人です(笑)。

山名義鶴さんは、「東大新人会」の学生時代は左でしたが、戦後は、民社・同盟系の海員組合などのブレーンとして活躍していました。

 調布先生に言わせると、ひょっとすると、当時、山名さんたちを弾圧しようとした権力側には、応仁の乱で東陣側だった細川何某とかの子孫も蠢いていて、”大正期の応仁の乱”だったかもしれません、という珍説でした。時代が変わっても、歴史は、今も繰り返しているのですね。

 これは、今大ベストセラーになっている「応仁の乱」よりも、うがった見方かもしれません。松岡閣下も「ぼくの本が、こういう解釈になるのか」と吃驚仰天、腰を抜かされるでしょう(大笑)。
 
調布先生が山名義鶴さんとお会いした時は70歳を過ぎていたそうです。その時、「おう、そうだ、そうだ、絵描き(日本画家)の堂本印象君とも同い年でね。皆、仲が良かったよ」などと昔の思い出話を披露してくれたそうです。

山名さんは、それから数年後亡くなったそうですが、丸岡藩の有馬一族から婿養子を貰われ、今でも家系は存続されているようです。

 調布先生に言わせると、明治24年生まれは、大正デモクラシーの中で青春を過ごした世代です。お金に不自由しないので会社や大学勤めなどはせずに、せいぜい「大原社会問題研究所」などに関わるくらいで、勝手気ままに自由に人生を謳歌した人士が多かったようです。

 つまり、「労働者」ではないのです。そういう意味では、調布先生の父親は「大原孫三郎みたいな男がいたから、『大原社会問題研究所』が出来たのだ。孫三郎も若い時は散々、放蕩、極道をして、年を経て、医療、文化、社会問題に目覚めて、あれだけスケールの大きなことができた。なんでも体験しないと大人物は生まれない」と言っていたそうです。

 堂本印象も、造り酒屋の息子で、日本画と言っても彼の絵は、ローマ法王庁の基督教、バテレンから日本の社寺仏閣、さらに、最高裁の大壁画、社会風俗まで、大胆になんでも取り入れ描くわけですからスケールの大きな画家です。

 明治24年生まれというのは、日露戦争が始まる以前です。「大津事件(来日中のロシア皇太子が津田巡査に大津で襲われる)」や、「濃尾大地震(約10万人が死亡)」が起こった年です。

 皆さんもよくご存知、”マムシの周六”こと、黒岩涙香の「萬朝報」は、翌明治25年の創刊です。日本初の日刊紙「東京日日新聞(現毎日新聞)」の創刊も同年ですから、活字メディアは当時、最先端のメディアだったのです。

 ですから、山名さんらが生まれて成人になったのは大正初頭です。物心がついた明治43年に起きた「大逆事件」などは、冷静に見ていたわけで、「デモクラシー」が盛んになるわけですね。

 「大東亜戦争」なんてのは、もっと、もっと、後世で、まあ、時代の変化は、生まれた世代によって感じ方も違って当然になるわけです。

 調布先生の父親や山名さんの時代は、相撲は、梅ケ谷や”雷電の再来”と言われた太刀山の時代です。昭和初期に連勝記録を打ち立てた双葉山などまだまだずっとこの後の話です。

そういう時代だったのです。
 

草花の名前を覚えた方が健康的

陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

5・15事件で、時の首相犬養毅は「話せば分かる」と言って、反乱軍士官に向って説き伏せようとしました。

しかし、暴力装置を持った相手は聞く耳を持ちませんでした。

人間は、残念ながら「話せば分かる」ことはないのです。人間はお互い理解しえない動物なのです。

最高権力者の安倍首相に群がる誰もが勝ち馬に乗りたがる人間です。豊田議員のように他人を支配しようとしますから、間接的に彼ら彼女らの所業を聞いただけでも嫌になります。

彼らは、生まれつき良心の呵責がないので、嘘をつこうが、人を貶めようが、反省しません。だから、何を言われても馬耳東風、批判されても他人事です。無知な大衆はそのうち忘れるという信念だけはあります。

それでいて、自己の利益のためなら耳をダンボにして、何処にぞうまい話がないものか、と鵜の目鷹の目です。そういう人間は、偉そうな肩書を隠れ蓑にします。

皆さん…。
陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

例えば、表の看板は、大学教授ながら、実態は、人買い人足集めの低賃金雇用斡旋のブラック企業の役員。こういう輩は、大学教授の肩書で政府の国家戦略特区審議委員とかに収まって、「規制緩和」と称して、自分の企業がうまく商売ができるように誘導します。

こういった類の輩が一番タチが悪いですね。本当に腹が立ちます。

しかし、腹を立て、血圧を上げ、身体を壊してしまっては、本当に馬鹿らしい限りです。

陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

皆さん、こういった極悪非道の利権屋や政商の名前を覚えるより、草花の名前を覚えることをお勧めします。

今は、ネットで立派な「植物図鑑」が見られるのですね。これでは、出版社もあがったりでしょうが、ネットで無料で公開しているのが、出版社だったりして、「何で自分で自分の首を締めているんだろう」と不思議な気持ちで図鑑を参照させて頂いております(笑)。

最近気に入っているのが、天下のNHK出版の「みんなの趣味の園芸」のサイトです。読者の投稿写真も展示されて、最新の情報がいつも更新されております。

吐き気が出る利権屋どもの名前を知ることよりも、「ゲンペイカズラ」や「ランタナ」、またの名を「シチヘンゲ」の花を知って、名前を覚えた方が実に健康的です(笑)。

詩人の中原中也が、太宰治に「おめえは一体、何の花が好きなんだよ!」とからみます。
太宰は、下を俯きながら「も、も、桃の花…」と小声で告白します。

すると、それを聞いた中也は「何?桃の花だと!? だから、おめえは軟弱だと言われるだよ」と怒りをぶつけたという逸話があります。

私は、実は、あまりこの桃の花をみたことがなかったので、この「みんなの趣味の園芸」の植物図鑑で、じっくりと読者投稿の色んな桃の花の写真をみることができました。

また、中原中也が、小林秀雄と一緒に、鎌倉の比企谷妙本寺で眺めた海棠も具に見ることができます。中也は、海棠の花弁が散る様を見て、「もう帰ろう」と言い、居酒屋に入って、麦酒を呑みながら、「ボーヨー、ボーヨー」と呟き、小林が「それは何だ?」と聞いたら、「前途茫洋だよ」と言ったあのエピソードがある花です。

これでも、あたしゃ、昔は、夢見る文学少年だったですよ(笑)。花を見ると懐かしくこうした逸話が思い出されます。

だから、薄汚い政治家や、腹黒い利権屋どもの名前を覚えるよりも、草花の名前を覚えた方がいい。声を大にして私は言いたい!これで、私の選挙演説と代えさせて頂きます。(笑)

「パリを燃ゆ」を読んでいたら今とここを忘れました

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

ここ最近、大佛次郎の大長編ノンフィクション「パリ燃ゆ」を遅ればせながら読んでいましたら、自分がまるで19世紀に生きるフランス人になったような錯覚に陥ってしまい、眼前に見える光景も3年前に一人で放浪したパリの景色と重なってしまいました。

もう、共謀罪も加計学園問題も語弊を恐れずに言えば、矮小にさえ見えてきてしまいます(苦笑)。

そしてまた、語弊を恐れずに言えば、今のような戦後民主主義の時代は、どんな暴言を吐こうが、どんな反政府的言論を誇示しようが、逮捕されたり、殺害されたりは、そう簡単にはされませんよね?多分…。

しかし、ここに描かれる1951年12月2日のルイ・ナポレオンによるクーデターから普仏戦争を経て、パリ・コミューン、第三共和政に至る壮大な歴史絵巻には、虐殺と膨大な数の戦死者と殺戮が溢れています。まるで、日常茶飯事かのような出来事です。

「パリ燃ゆ」は、1961年10月から1963年9月にかけて「朝日ジャーナル」(休刊、朝日新聞社)に、1964年3月から11月にかけて「世界」(岩波書店)に、丸3年かけて連載されて発表されました。その後、単行本化され全3巻、第1巻613ページ、第2巻576ページ、第3巻506ページという長さです。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

思うに、昔の読書人は偉かった。当時は娯楽が少なかったせいかもしれませんが、極めて真面目な人が多かったんですね。正直、こんな本を読もうとする人や能力的に読める人がかなり多かったということでしょう。逆に言えば、今の時代の読書人の能力が劣化したということなんでしょう。

私から言わせれば、この本は、そう簡単に読める代物ではありません。第一、注釈がないので、恐らく、10人中7人は途中で挫折するか脱落することでしょう。

まるで修行僧のような苦行を強いられます。

大佛次郎の書き方も書き方です。再出にせよ、急にファーブル(昆虫学者ではない!)だの、フルーランスだのドレクリュウズだのミリエールだのと肩書もなく出てくると、「えっ?この人誰だっけ?」とついていけなくなります。(小説のように、最初に主な登場人物が列挙されていたら別ですが)

当時の読書人の教養では、登場人物は一回出てきただけですぐ覚えて、注釈がなくてもさして困らなかったということが分かります。

しかし、最近1ページ前に書かれたことまで忘れてしまう私には武器がありました(笑)。分からない、もしくは忘れてしまった人物や地名が登場すると、スマホでチェックします。例えば、国防政府のエルネスト・ピカール蔵相が、相場の下落を恐れて、ジュール・ファーブル外相と鉄血宰相ビスマルクとの秘密会談を「エレクトゥール・リーブル」紙にリークします。何でそんなことできるのかと思ったら、このエレクトゥール・リーブル紙は、ピカール蔵相自身が発行していた新聞だったんですね。

大仏次郎は、そこまで書いてくれないので、武器のスマホが大いに役立ちます(笑)。

しかし、実に面倒臭い!

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

3年前に一人でパリを放浪した際、ペール・ラシェーズ墓地(銃殺されたコミューン兵士の墓もあり)のエディット・ピアフの墓をお参りしました。そこの最寄りのメトロ駅は、ガンベッタでしたが、それは国防政府で内相、第三共和政でも一時首相を務めたレオン・ガンベッタから付けたんですね。

また、オペラ座近くに「九月四日」という変わった名前のメトロ駅がありましたが、これも第二帝政を打倒してパリ市庁舎で共和国政府樹立宣言した記念すべき日(1870年)から取ったのです。

このほか、「パリ燃ゆ」に細民の住む労働者街「ベルヴィル」が何度も出てきますが、 これも同名の地下鉄駅があり、私も何度もこの駅は通過しましたが、なるほど、パリの山谷(東京都台東区)はここだったのか、と思った次第。

こんなことは、フランス人なら小学生でも誰でも知っているありふれた知識だというのに、3年前はそんなことも知らずにほっつき歩いていたとは我ながら情けない。

これではまた、パリに行くしかありませんね(笑)。