渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

サンティアゴとは聖ヤコブのことだったとは!

来月、夏季休暇を取りまして、一人でスペインに行くことにしました。

欧州は、英国、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、ギリシャ…10カ国以上は行ってますが、スペインはまだでした。トラウマがあったからです。

学生時代に、生まれて初めて真剣に付き合った女性がスペイン語を専攻していて、彼女に振られてからは、どうもスペイン的なものを受け付けなくなってしまったのです(インカ帝国、アステカ帝国を滅ぼしたのもスペイン人でしたからね=苦笑)。

もう40年も昔の時効の切れた話ですから笑い話です。

それが、今春、ダン・ブラウンのベストセラー「オリジン」を読んでいるうちに、(それは、バルセロナのサグラダファミリア教会がメイン舞台になっていたのですが)、死ぬ前に一度、行って見てみたいと思ったのでした。

◇◇◇

彼女に振られてかなり落ち込んだ頃、クリスチャンでもないのに、聖書を読み込んで救いを求めました。そのもう一つの理由として、文学作品や宗教画や建築を鑑賞する際、どうしても聖書の知識がないとさっぱり分からなかったこともあります。

アンドレ・ジッドにせよ、ニーチェにせよ、アンチクリストにせよ、西洋史、西洋文化を理解するには、聖書の知識が欠かせません。

◇◇◇

ということで、自分自身は、ある程度は、聖書の知識はあると自負していたのですが、今回、スペインに行くに当たって色々と勉強していたら、キリストの十二使徒の一人、聖ヤコブがスペインではサンティアゴと呼ぶことを初めて知りました。クリスチャンの吟さんは知ってましたかねえ(笑)?

そういえば、スペインが植民地にしたチリの首都はサンティアゴだし、キューバにも、サンティアゴ・デ・クーパという都市があり、他にも沢山あります。

本家スペインでは、北西端のサンティアゴ・デ・コンポステーラが、エルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地の一つになっていました。9世紀初めにここで聖ヤコブの墓が発見され、世界各国から多くの巡礼者が訪れるようになったからです。(今回行かれないのが残念!)

そこで、十二使徒の聖ヤコブを調べているうちに色々と面白いことを発見、いや学ぶことができました。

図解入りで分かりやすいサイトがあったので、引用させて頂きたいと思います。イエス十二使徒 ←こちら

何と言っても、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が有名ですよね。

十二使徒には2人のヤコブがいるので、このサイトでは「大ヤコブ」と表記されています。ここでは、大ヤコブ=サンティアゴとは全く書かれていませんが、「スペインで伝道」とだけ書かれています。この人は、イエスの弟子の中では「トップスリー」に入るほど、イエスに愛され、信頼されていた人だったのです。ナンバーワンは、ローマの初代教皇になるペトロ(バチカンの聖ピエトロ大聖堂)、ナンバースリーは、大ヤコブの弟ヨハネです。この人は天寿を全うし、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」「ヨハネの黙示録」を書いた人と言われていますが、否定する学説も多くあります。

皮肉にも、イエスの弟子で一番有名なのが、彼を裏切ったユダで、日本人は私も含めて他にほとんど知らないでしょうから、ここで、改めてイエスの弟子を整理してみます。

(1)ペトロ(シモン、アンデレの兄、弟説も。漁師)ローマで殉教

(2)アンデレ(ペテロの弟、兄?漁師)ローマで殉教

(3)大ヤコブ(ゼベダイの子、ヨハネの兄、漁師)エルサレムで殉教、スペインで埋葬

(4)ヨハネ(ゼベダイの子、大ヤコブの弟、最年少の十代、漁師)弟子の中で唯一人殉教せず天寿を全うした

(5)フィリポ(ピリポとも。バルトロマイの友人、漁師)小アジアで?殉教

(6)バルトロマイ(フィリポに導かれ弟子に)アルメニアで殉教

(7)トマス(イエスの双子の兄弟?漁師、または大工)南インドで殉教

(8)マタイ(アルファイの子、徴税人)「マタイ福音書」の記者説も。トルコで殉教?

(9)小ヤコブ(アルファイの子、マタイと兄弟)エルサレムで殉教

(10)タダイ(ユダとも。小ヤコブの子、または小ヤコブの兄弟とも。マリアの妹クロパの子?)アルメニア?で殉教

(11)熱心党のシモン(反ローマ帝国の過激派)ペルシャで殉教

(12)イスカリオテのユダ(銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切る)自殺

私は、覚えていませんでしたが、サンティアゴこと大ヤコブとヨハネ兄弟の父はゼベダイですが、母はサロメで、彼女はイエスの母マリアの姉妹(ヨハネ福音書)なのだそうです。となると、このヤコブ・ヨハネ兄弟は、イエスの従兄弟となりますね。

上述しましたが、(7)トマスはイエスの双子の兄弟、(10)タダイはイエスの母マリアの妹クロパの子という説もあるらしく、となると、イエスの弟子には親戚兄弟が多くいたということになります。

何しろ、イエスにヨルダン川でバプテスマを授けた洗礼者ヨハネは、その母エリザベトとイエスの母マリアとは親戚だった(ルカによる福音書)と言われてますから、これまた狭い縁戚関係だったのです。ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネの4人は、もともとは洗礼者ヨハネの弟子だったという説もあります。

イエスが最初から教団をつくろうとしたのか、しなかったのか、色んな説がありますが、少なくとも初期の原始教団は、狭い姻戚関係から生まれたことは確かでしょう。

ちなみに、ヨハネは英語でジョンだし、ペトロはピーター、ヤコブはジェームズ、殉教者パウロはポールということで、キリスト教は欧米人の生活の深部に関わっているわけです。ヤコブはフランス語でジャック(Jacques)で、コキーユ・サン・ジャック(coquille Saint-Jacques)で「帆立貝」を意味します。これには、諸説がありまして、聖ヤコブの亡骸をエルサレムからスペインに運んだ際に、小舟に帆立貝がくっついていたから、とか、聖ヤコブが布教中に帆立貝を持ち歩き、これで水をすくって飲んでいたから、など沢山あるようです。

マスコミはグルなんですよ

福井の西崎先生です。

いつも、いや、たまに拝読させて頂いておりますが、老婆心ながら、貴ブログは、今ひとつ踏み込みが足りないので、一筆啓上仕ります。

一昨日は、日本ボクシング連盟の山根会長のことを書かれていたようですが、「池に落ちた犬は叩け」の格言通り、マスコミは束になって盛んにバッシングしておりました。まるで、山根会長が「諸悪の根源」のような、「悪の権化」のような扱いでしたね。

しかし、どう見ても、テレビに映っていた会長への貢物なんか、カンロ飴とか仏壇に供える程度の粗品ですよ。宿泊するホテルも二流か三流でしょう。

高等地検特捜部みたいに山根会長を叩いているマスコミも、清廉潔白で、疚しいことは何一つないと胸を張ることができるもんなんでしょうかねえ?イエスさまも仰いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。(ヨハネによる福音書第8章)

山根会長よりも、もっともっと悪どい人間は山のようにいるじゃあありませんか。

例えば、アメフト監督コーチによる悪質な反則行為指示であれだけ世間を騒がせた日本大学の田中英寿理事長です。彼も、暴力団との交際が噂されながらも、結局、山根会長のようにテレビに出演したりせず、雲隠れし、どこのマスコミにも本人が登場しないではありませんか。何故だと思いますか?

それは、2016年4月に新設された「危機管理学部」が怪しいのですよ。

例えば、河本志朗教授(1954年生まれ)と金山泰介教授(57年生まれ)は、元警察官僚。勝股秀通教授は元読売新聞記者(83年入社)。安部川元伸教授(52年生まれ)は、元公安調査庁。。。しっかり、マスコミ出身者を入れて抑えを効かせてますね。

日本の社会の仕組みがそうなっているのです。政界ー官界ー財界ー学界ーマスコミがつながって人事交流をしているのですよ。最近では「天下り禁止令」が出ているようですが、元大物官僚に来てもらうだけで、企業は格が上がるし、後輩官僚に対する抑えが効いてくれて、「用心棒」を雇うようなもんですから、「越後屋、おまえも悪やのう・・・」と言いながら、お互いに利権を分け合うことができるのです。

◇◇◇

ただ、このゴールデン・リングを見ているだけでは利権の構造は分かりません。裏社会が絡んできますし、宗教界、それに、NGOやNPOや国際的な諸団体も複雑に絡んできます。その中で、特に利権の宝庫は国際オリンピック委員会(IOC)じゃないですか。

精神は高邁かもしれませんが、実体は米国の大手テレビ局の代理人みたいなもんで、IOC貴族と呼ばれる、大して汗水たらして働こうとしない、不労所得狙いの連中が利権をむさぼっているに過ぎないのですよ。

マスコミもIOCとグルですから、どこも批判しません。熱中症で死亡者が出かねない真夏の猛暑の東京五輪開催も、「注意しましょう」と一言ぐらいで、根本から批判しません。恐らく、お金持ちの中国人が押し寄せるでしょうが、五輪開会式の入場料が30万円なんて、開いた口が塞がりません。

国会が閉幕して、いつの間にか、森友・加計問題は雲散霧消してしまいました。ボクシング連盟の山根元会長の仏壇の供え物粗品よりも、森友学園8億円の値引きや、不明瞭な獣医学部創設の加計学園問題の方がはるかに大きいはずです。

そのキーパースンは、あの人なのに、マスコミの批判は鈍いばかり。特に、政府から電波事業免許を握られている民放も国営放送もテレビ局は、惨憺たるものですよ。それでいて、庶民には政治に関心を持たせないよう、興味を持たせないようなお笑い番組ばかり放送します。

そろそろ、テレビは、政府広報の広告会社と認識を改めるべきなんですよ。

今の世の中、根元から腐ってますよ。本当に酷い話です。

旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

大師号と法然上人

銀座「保志乃」鯖味噌煮定食980円

昨日の続きですが、「大師は弘法に、太閣は秀吉に、黄門は光圀に取られたり」という言い伝えがあるそうです。出展は分かりません。他に様々な言い方もあります。

まず、太閣は、大辞林によると、摂政または太政大臣の敬称。のちには、関白を辞して内覧の宣旨をこうむった人。または関白をその子に譲った人を指します。関白職を養子秀次に譲った豊臣秀吉が最も有名ですが、平安時代の藤原頼通を始め、太閣と称した人は日本の歴史上たくさんおりました。しかし、いつの間にか、太閣と言えば、豊臣秀吉のことを指すようになったのです。

黄門は、「中納言」職の唐名です。 それが、徳川光圀の通称(水戸黄門)となり、今では名前と勘違いされるほどです。

京都・建仁寺 copyright par Kyoraquesensei

さて、肝心なのが、大師号です。

大師号とは、もともと中国で、徳の高い高僧に朝廷から贈られる名のことでした。日本では、866年(貞観8年)7月、清和天皇より天台宗の開祖最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」を贈られたのが初めと言われます。

それが、いつの間にか、大師様と言えば、真言宗の開祖空海に贈られた「弘法大師」のことを指すようになったのです。

実は、太子号を最も多く持つ高僧は、浄土宗の開祖法然房源空上人なのです。1697年(元禄10年)に東山天皇から円光大師を贈られ、その後、500年遠忌から50年ごとに加謚され、最近では2011年(平成23年)の800回忌で、今上天皇から法爾(ほうに)大師を贈られました。

何と、お一人で八つの大師号をお持ちなのです。

◇大師号の一覧

大師号 僧名 宗派 西暦・元号 勅賜(天皇) 備考
円光(えんこう)大師 法然房源空(1133~1212) 浄土宗 1697年(元禄10年) 東山天皇
東漸(とうぜん)大師 法然房源空 浄土宗 1711年(宝永8年) 中御門天皇 500回忌
慧成(えじょう)大師 法然房源空 浄土宗 1761年(宝暦11年) 桃園天皇 550回忌
弘覚(こうかく)大師 法然房源空 浄土宗 1811年(文化8年) 光格天皇 600回忌
慈教(じきょう)大師 法然房源空 浄土宗 1861年(万延2年) 孝明天皇 650回忌
明照(めいしょう)大師 法然房源空 浄土宗 1911年(明治44年) 明治天皇 700回忌
和順(わじゅん)大師 法然房源空 浄土宗 1961年(昭和36年) 昭和天皇 750回忌
法爾(ほうに)大師 法然房源空 浄土宗 2011年(平成23年) 今上天皇 800回忌
弘法大師 空海(774~835) 真言宗 921年(延喜21年) 醍醐天皇 真言宗開祖
道興大師 実慧(じつえ) 真言宗 空海の高弟
法光大師 真雅(しんが) 真言宗 1828年(文政11年) 空海の弟、貞観寺建立
本覚大師 益信(やくしん) 真言宗 1308年(延慶元年) 花園天皇 円城寺開山
理源大師 聖宝(しょうぼう) 真言宗 1707年(宝永4年) 東山天皇 醍醐寺、東大寺東南院建立。東密小野流の祖
興教大師 覚鑁(かくばん) 真言宗 江戸時代 新義真言宗祖、伝法院流の祖
月輪(がちりん)大師 俊芿(しゅんじょう) 真言宗 泉涌寺の開基
伝教大師 最澄(767~822) 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 天台宗開祖
慈覚大師 円仁 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 恐山開基
慈慧大師 良源 天台宗 第18代天台座主。「厄除け大師」
智証大師 円珍 天台宗 寺門派開祖
慈摂大師 真盛 天台宗 天台真盛宗の祖
慈眼大師 天海 天台宗 1648年(正保5・慶安元年) 後光明天皇 徳川家の参謀
無相大師 関山慧玄 臨済宗 明治天皇 妙心寺の開基
微妙大師 授翁宗弼 臨済宗 妙心寺2世
円明大師 無文元選 臨済宗 後醍醐天皇皇子
承陽大師 道元(1200~1253) 曹洞宗 1879年(明治12年) 明治天皇 曹洞宗高祖
常済大師 瑩山 曹洞宗 1909年(明治42年) 明治天皇 曹洞宗太祖
真空大師 隠元(1592~1673) 黄檗宗 1917年(大正6年) 大正天皇 黄檗宗の祖
華光大師 隠元 黄檗宗 1972年(昭和47年) 昭和天皇
見眞大師 親鸞(1173~1263) 浄土真宗 1876年(明治9年) 明治天皇 浄土真宗開祖
慧燈大師 蓮如 浄土真宗 1882年(明治15年) 明治天皇 中興の祖
聖応大師 良忍 融通念仏宗 1773年(安永2年) 後桃園天皇 融通念仏宗の祖
証誠大師 一遍(1234~1289) 時宗 1940年(昭和15年) 昭和天皇 時宗開祖
立正大師 日蓮(1222~1282) 日蓮宗 1922年(大正11年) 大正天皇 日蓮宗開祖

(表はbukkyo.netを基に引用作成しました)

こうして見ていきますと、日本の伝統仏教は13宗56派と言われておりますが、天台宗より古い奈良の南都六宗の法相宗、華厳宗、律宗の開祖には大師号はなく、意外にも臨済宗の開祖栄西(1141~1215)には大師が贈られていないようです。

明治時代は「廃仏毀釈」の嵐で、かなり寺院が荒廃したと伝えられていますが、これまた意外なことに道元や親鸞らが大師号を贈られたのは、明治天皇だったんですね。

なかなか奥が深いものです。

「宝くじで1億円当たった人の末路」は意外と、いや結構面白い

富山城

鈴木信行著「宝くじで1億円当たった人の末路」(日経BP社、2017年3月28日初版)は、昨年のベストセラーらしいですが、読んでみると意外と面白い。猛暑で読書する気力がなくても、サクサクと読めます(笑)。

まあ、悩み相談みたいなものです。大学教授や評論家らその筋の専門家がズバリ答えてくれるのです。

ですから、自分の興味があるとこだけ読めばいいのです。

内容は、表題のほか、

「事故物件を借りちゃった人の末路」

「『友達ゼロ』の人の末路」

「留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路」

「外国人観光客が嫌いな人の末路」

「8時間以上寝る人の末路」

「禁煙にしない店の末路」

などなどです。

表題の「宝くじで1億円当たった人の末路」は、以前に色んな本を読んでいたので、答えはほとんど同じでした。

1億円にしろ、7億円にしろ、当選確率は交通事故に遭う確率よりかなり低い1000万部の1ですし、「宝くじとは、愚か者に課せられた税金」という「格言」は確かにその通りです。たとえ当たっても、トラブルに巻き込まれるのが必定で、かえって貧困になるというのは、ほぼ正解でしょう。

「事故物件を借りちゃった人の末路」は、あの相川探訪記者お勧めの事故物件公示サイト「大島てる」の運営者本人が登場して、サイトを立ち上げた経緯から、自殺した人の部屋は不思議と、また自殺者が出るような霊が霊を呼ぶ不思議な話まで飛び出します。本当に嘘みたいな話ですが、真実なので、科学では証明できない人間の心理や闇が働くということなんでしょう。ご興味ある方は、この章を読むだけでも価値があると思います(笑)。

私自身は、「『友達ゼロ』の人の末路」を興味深く拝読しました。回答者は、諸富祥彦明治大学教授。

個人的ながら、最近、どうも学生時代の旧友と次々と疎遠になってしまい、「昔はあんなに仲が良くて月に一回は飲みに行ったのに」「こちらに何か非でもあったのかなあ」などと勘繰りたくなり、長い付き合いだったため、かえって修復がうまくいかない状況が続いておりました。

しかし、この章を読んで少し救われました。人間には「群れることが好きなタイプ」と「苦手なタイプ」がいるそうです。(私は、圧倒的に後者=笑)

群れる、要するに、つるむことが好きな人は、「心を麻痺させて楽になれる」(幻想)、「友達が増えることで『自分には価値がある』と自信が持てる」(根拠なき自信)半面、「人間として成長できない」(孤独力を磨けない)、「同調圧力によるストレスで精神的に追い込まれる」、「年を取っても自分が何をどう感じていて、何を欲しているのか分からなくなる」といったデメリットがあるというのです。

ですから、諸富教授は「無理につるむ選択をする必要はない」とキッパリ宣言するのです。

「友達がいないと困った時に助けてくれる人がいない」という悩みも、「そもそも、広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、いざという時に、本気であなたを助けてくれると思いますか。相手が苦しい時に自分の身を投げ出してでも何とかしようとする。そうした深い人間関係は『孤独を知った者同士』の間にこそ生まれる」という言葉は非常に説得力がありますね。

この本は何処からでも読めます。勿論、人生に正解があるわけではないので、正しい回答はないのかもしれませんが、貴方にもきっと参考になるアドバイスがあると思います。

還暦留学のすすめ

ここ両日、少し涼しくなりました。

とは言っても都心の気温30度ですから、ここ10日間近く続いた35度、36度、37度の猛暑があまりにも暑かったということでしょう。気象庁も「生命に関わるほど危険」と警戒警報を出すほどで、今月だけで全国で100人以上の人が熱中症で亡くなっております。

築地蜂の子 A定食 880円

貧乏暇なしで、昨晩は、S君の送別会を同僚のY君と一緒に銀座の焼き鳥屋さんNで挙行しました。(イニシャルばかりで暗号みたいですね=笑)

会社の定年は60歳ですが、65歳まで定年延長で居残れます。しかし、現役時代の4割程度という労基違反もんの給金ではやってられない、ということで、彼は60歳でスパッと辞めることにしたというのです。

でも、ロシア人と違って、日本人の平均寿命は伸び、あと20年、30年は生きている可能性が高いです。年金だけでは生活は苦しいです。そこで、これからどうすんの?とS君を参考人招致したところ、「訴追される恐れがありますので」と口を閉ざすばかり。仕方ないので、証人喚問、留置所喚問、尋問、反問、御下問…ありとあらゆる手段を使って口を割らせたところ、どうやら英国のエセックス州にある大学院に留学するというのです。

専攻は、International Developmentとかいう分野で、ズバリ植民地政策なんだそうです。この分野は、米国などより、植民地支配の長い歴史のある英国が世界で一番進んでいるらしいのです。

彼は、修士号か何か取得できたら、何処かの国際機関か、NGOかNPOかに就職できればというのです。還暦過ぎた第二の人生はかなり充実したものになりそうで、正直、私も羨ましくなりました。

◇◇◇◇◇

最近の日本の若者は保守的で、内に篭って外国に留学したがらないという記事をよく目にします。

私は無理に外国語を勉強する必要もないし、わざわざ留学する必要もないと思っており、地方で慎ましく生きている若者は立派だなあと思ってますから、マスコミの論調には違和感を覚えます。

誰しもが国際人になる必要もなく、むしろ、歌舞伎や伝統芸能の方が国際的に脚光を浴びるものです。つまり、ドメスティックであればあるほと、国際的に通用するということです。

中年でも熟年でも、やる気のある人が、大きな夢と目標を掲げて、S君のように留学するのが一番相応しいと改めて思いました。

【追記】

「学歴ロンダリング」なるものがあるそうで、最近になって初めて知りました。「留学」で箔を付けて帰国しても、コミュティカレッジ程度では、日本の専門学校と大して変わらないので、いい就職口がなし。頑張って、州立大学にでも進学しようとしても、途中で挫折して日本人同士でつるんで、挙句の果てには同棲したりして日本語しか使わず、英語能力の進歩なし。帰国しても多額の借金だけが残るという惨憺たる状況なんだそうです。

「留学に逃げた人」より ←クリックするとリンク先に飛びます

オランダ人家族に久しぶりの観光ガイドをしてきました

昨日は、実に数年ぶりに海外からの観光客向けガイドを、病気で中断しておりましたが復活し、仕事として行いました。一応、こんな私でも通訳案内士の国家資格を持っています。(でも、安倍政権は、資格がなくても誰でも、報酬を得てガイドできるよう法律を改悪しました)

クライアントさんは、オランダの画家レンブラントで有名なライデン近郊の小さな町からやってきた4人家族で、お父さんは、何と旅行会社の創業者兼社長さんでした。15歳の娘さんと13歳の男の子がおります。2カ月近く前にお母さんからオランダから直接、日本にいる私の携帯に「7月20日に東京でガイドをしてほしい。あなたに任せます」と依頼があったのです。(私の名前と携帯番号などは観光庁のネットにも登録しているもので)

「お任せ」っていうの、一番困るんですよね(苦笑)。相手が興味もない所に案内するわけにはいきませんから、ある程度の趣味や興味を聞かなければなりません。でも、子どもと大人の興味はまるで違いますし、時間は限られ、最大公約数を選ばなければなりません。

まあ、正直、下準備が大変でした。オランダ語も少し勉強し、事前に行く場所、ランチする店なども確かめに行きました。結局、それやこれやで事前の準備通りには行かず、観光ガイドの仕事って、そうワリに合う仕事じゃありませんね(笑)。

大変失礼ながら、オランダ人にはマイペースといいますか、少し気まぐれなところがありまして、こちらが質問のメールをしても、返事が遅く、あまり正確に答えてくれることが少ないのです。しかも、最近、ヨーロッパでは個人情報保護が急に厳しくなりましたから、どこまでプライバシーに触れていいのか分からなくなってしまったのです。例のGDPR(General Data Protection Regulation 一般データ保護規則)とか呼ばれるやつです。

銀座

で、結局、準備不足のまんま、本番に臨みました。

結果は「50点」ぐらいの自己採点ですかね。赤点です。何しろ、言葉が出てこないのです(苦笑)。何気ない会話なんですが、「花火」が出てこないので、浅草近くの隅田川花火の話題に進めることができず、富士山の「裾野」という言葉が出てこずに、うまく説明できませんでした。ダメですねえ、全く。

しかし、オランダ人家族はとても寛大でした。とても満足そうな表情で帰っていただいたので、私自身は救われましたね。

15歳の娘さんは、とても可愛らしく、恥ずかしがり屋さんでした。名前は、日本語で「月」という意味でした。思春期特有のヒネたりしてません。純粋で、とてもまっすぐな感じでした。オランダと日本との交流で、私は事前にiPodで資料をつくって彼らにお見せして、長崎の出島の写真を見せたら、「あっ!これ教科書で見たことある」と彼女は言ってくれたので、嬉しくなりました。オランダでも、蘭日交流史を少しは教えているんですね。

13歳の坊やは、自分のスマホのゲームばかりやってました。名前は、日本語で「熊さん」という意味でした。13歳は日本で言えば、中学1,2年生ですが、何か小学校5,6年生に見えました。自分もこんな幼かったのかなあ、と思ってしまいました。でも、愛嬌があり、可愛いので連れて行こうかと思ったぐらいです。冗談ですよ。

お父さんは、あのシーボルトのことまで知っていて、ライデンのシーボルト博物館に行った話をしてくれました。なかなかのインテリです。

秋葉原に行ったら、お母さんが急に「猫カフェに連れて行ってくれい」と言い出すのです。こちらも「そんなの聞いてない。もっと早く言ってくれい。事前に場所を調べたのに!」と心の中で思いつつ、スマホで一生懸命に検索して、手頃な店を見つけました。しかし、電話で場所を教えてもらったら、とても下手くそで、埒が明かず、少し時間を取らせてしまったことが失敗でした。

そこは、なかなか厳しい店で、「猫は触るだけで抱っこしちゃいけない」とか、「荷物はロッカーにいれろ」とか「入室する前に消毒しろ」とか規則規則のオンパレードでした。猫カフェは、生まれて初めて行きましたが、日本でブームになるのが分かりましたね。スコティッシュとかアメリカンショートヘアとか、あまり見たことがない高級猫を見ることができました。ちなみに、1時間近くいたら、一人1550円でした。

東京は、36度の猛暑で、マスコミで「熱中症に気をつけろ」と連呼するので、どこも日本人の姿が少なく、外国人観光客だらけでした。日本の着物姿も外国人でした。浅草の地下鉄の中を見回したら、ほとんど中国人と韓国人と台湾人とタイ人とインドネシア人ばかりで、日本人は私自身しか見当たらなかったので、お母さんに、その旨を伝えたら、「向こうに座っている女性2人は日本人じゃないかしら」と言うので、よく見たら日本人でした。

「どうして分かるんですか」と尋ねたら、お母さんは「やはり、服装や髪型が違うし、顔つきも少し違う」というのです。

私はオランダ人とドイツ人とフランス人の区別はつきませんけどねえ。恐れ入りました。

欧州個人情報保護法で、彼らの写真をここに掲載できないのが残念です。とても素晴らしい家族でした。

京都・祇園祭「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていた

こんにちは京洛先生です。西日本は豪雨被害で、大変ですね。大雨がひいた後、亡くなった人が次々増えて、豪雨の大きさが、よく分かります。

 今回の豪雨被害とは別に、東北、関東では、このところ、震度4、5前後の地震が頻繁に起こっています。何も起こらなければ良いのですが、心配になります。

 過日の大阪北部では大阪市北区、高槻、枚方などで、震度6弱の大きな揺れがあり、通勤客の足に大きな影響が出ました。大都市圏での直下型地震でこの程度の被害でよく済んだとも言えます。

 東日本大震災以降、日本全体が天変地異に、いつ襲われても可笑しくないような感じもしてきています。

 来年は「平成」から新元号に移りますが、時代の変わり目は、いつも、あれこれありますからね。

 貞観年間の9世紀から始まった「祇園御霊会」こと「祇園祭」は、疫病、大災害から、民衆、国家安泰を祈願することが起源ですが、今年は、平成の最後の「祇園祭」になります。

 昨日12日は「前祭(17日巡行)」の鉾建てが終わり、曳きぞめがありました。

 添付の写真は鉾建てが終わった、長刀鉾、函谷鉾、菊水鉾の様子です。ご承知のように、”動く美術館”と言われ、山鉾の豪華な「胴掛け」が注目されますが、昨日は、万一に備え、雨除けのビニールが被せられていましたが、10日から始まった、鉾建ては、無事終わったわけです。(いずれも菊水鉾)

 そんな折、12日付の「京都新聞」夕刊に記事が載りました。同紙のホームページにも出ていますので、ご確認されれば分かります。 「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていたという事です。

 この胴掛けは、円山応挙の作で「保昌山保存会」も気がつかなかった、という事で、さっそく、訂正するという事です。

 指摘した人は東京在住の「祇園祭」の熱心な研究家と言うかフアンですが、出版物、文書などをよく調べていて、京都市に問い合わせて分かったという事です。

 なんでもそうですが、注目を浴びたり、有名にになると、世間の目は厳しくなるものですね。

以上

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【追記】7月12日付「京都新聞」夕刊記事は以下の通りです。

祇園祭前祭(さきまつり)の保昌(ほうしょう)山(京都市下京区東洞院通松原上ル)が所有する胴掛2点の名称や説明が長年誤っていたことが12日までに分かった。画題となっている2人の伝説的な人物を取り違えていた。胴掛は江戸時代の絵師円山応挙が下絵を手がけた名品で、今夏の会所飾りでは約1世紀ぶりに説明を変更する。

 保昌山の胴掛は中国由来の人物「張騫(ちょうけん)」「巨霊人(きょれいじん)」と神秘的な動物「虎」「鳳凰(ほうおう)」を主題としている。裏地には、1773年を示す「安永二年六月」の年号と、応挙を意味する「円山主水」の墨書があることで知られる。

 これまで保昌山保存会では2点の胴掛の名称をそれぞれ「虎に張騫」と「鳳凰に巨霊人」としていた。だが、2010年、胴掛を指定文化財とする際の市の調査で、1875(明治8)年の京都府庁文書や、91(同24)年の国の文書には「鳳凰に張騫」「虎に巨霊人」などとする記述があることが判明。100年前後にわたって人物を取り違え、言い伝えが誤っていたことが分かった。

 しかし、このときは正しい理解が住民には広まらず、誤解は解けなかった。今年、東京の出版社が発行した祇園祭に関する本を住民が見た際、胴掛の説明が従来の内容と異なることに気づいた。この住民が市文化財保護課に問い合わせ、取り違えていたことが認識された。

 このため保昌山は、同課に正しい案内文の作成を依頼。13日午後の会所飾りから名称を「張騫鳳凰図」「巨霊人虎図」と説明を変更する。保存会の岩田脩理事(68)は「先人たちから聞いていたのと全く逆で当初は素直に受け止められなかった。今後正しい理解が浸透するのをゆっくりと待ちたい」と話す。

京都・南禅寺金地院の東照宮は意外と…

こんばんは、京洛先生です。

紫陽花が綺麗に咲いているでしょう。此処は京都、南禅寺にある徳川家康を祀る「東照宮」です。

 歴史通の渓流齋先生ですが、恐らく、「え!京都に東照宮ですか?」と瞬きされるでしょうが、京都の東照宮ですよ。

 徳川家康は元和2年(1616年6月1日)に駿府城で亡くなりますが、亡くなる間際に、自分の亡骸、遺体は「久能山」、法要は「増上寺」、そして、法要後は下野・日光山と京都・金地院の小さなお堂を建てるように、と側近、ブレーンの崇伝、天海、本多正純に伝えていた、と言われています。

 だから、京都にも「東照宮」があるのです。皇室からも「正一位」が贈られ、死後は「東照宮権現」の神様にまでなったわけですね。

 ですから、亡くなった後は、徳川家は勿論、その臣下の全国の大名は「東照宮」をつくって、家康を奉ったわけです。明治の廃仏毀釈で、全国の「東照宮」の数は百余に減った、と言われていますが、最盛期は五百以上の「東照宮」があったという事です。

 いわば「家康神社」です。そのうち、日光、久能山、そして南禅寺の東照宮が「三大東照宮」と称されていて、京都の「東照宮」には家康の遺髪、持念仏が伝わています。

 しかし、そんな徳川時代に権威があった京都「東照宮」も、今では、余程の「家康ファン」か、研究家でもない限り、ほとんどの人は「そうだったのか」で終わるでしょう。

 京都の東照宮は「金地院」(臨済宗南禅寺派)の境内にあります。金地院は南禅寺の塔頭の一つで、徳川幕府の”黒衣の宰相”と呼ばれたあの崇伝が住み、十万石を貰って権勢謳歌したわけです。

 「金地院」もここ南禅寺だけでなく、駿府城、江戸城にもあったという事で、崇伝は新幹線もない時代に京都、静岡、東京を行ったり来たり、往来していたわけで、大名の参勤交代よりも凄まじい活動をしていた、という事でしょう。

 安倍政権の”御用学者”、”安倍ブレーン”なんかと、比べようもない、スケール感がありますね(笑)。

 金地院にはまた、小堀遠州の作った庭もあります。遠州の作庭と言われるものはかなりありますが、正真正銘、「遠州が手がけた」と記録に残っている庭は、この金地院の庭だそうですよ。

 ジメジメした梅雨時に可憐な紫陽花をご覧になり目の保養にしてください。

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