「渓流斎日乗」オフィシャルサイトがほぼ完成

東銀座イタリアン「イル・ビアンコ」のランチ

昨日の2017年9月15日、私のオフィシャルサイト「渓流斎日乗」がほぼほぼ完成致しました。

これもIT青年実業家松長社長の尽力の賜物です。「depuis2005」とありますように、私が北海道の帯広に住んでいた2005年3月15日から、昨日までの12年間余の1887件の記事が登録され、「アーカイブ」で検索すれば、過去記事も読めるようになりました。(まあ、再読される方はいらっしゃらないでしょうけど=笑)

ただし、2008年7月から2015年11月までの7年間の記事は消滅しております。諸般の事情がありまして、私の手違いで失くしてしまいました。何件あったのか定かではありませんが、一番元気な頃の充実した時期で、森羅万象を書き連ねたおかげで大変評判が良く、多くの読者の皆様から沢山のコメントも頂きました。

まあ、なくなったものは取り返しがつきませんから、後悔しても始まらないでしょう。

グラスワインとデザート付きで1030円

いずれにせよ、gooブログさんには12年間も大変お世話になりました。宝塚歌劇団風で言えば、「引退」ではなく、「卒業」ですので、これからは一人、一本立ちして頑張っていきたいと思います。

gooブログの体裁に少しでも近づきたいと思い、松長社長にお願いして、日々のアクセス数とトータルのアクセス数が一目で分かるようにしてもらいました。

さらに、コメントもできるようにしてもらいました。ちょっと、面倒ですが、このブログにコメントするには、登録する必要があります。

御自分の好きなユーザー名とパスワードを登録します。多分、匿名でも大丈夫じゃないかと思います。(ITに詳しくないのでよく分かりませんが)

やり方は、コメントしたい当該記事のタイトルをクリックして、一番下の方に「ご意見、ご感想をお聞かせください!」と出てきますから、そこにコメントを書いて送信するだけです。

昨日からずっと、過去記事のカテゴリー(ジャンル)分けを一本ずつ(こりゃ大変だあ)整理編集していたところ、間違って、10年以上昔の記事がフェイスブックなどにもアップされてしまったようです。

3分ごとに更新するフェイスブッカーの衣川先生から御指摘されて初めて分かりました。

 皆様には御迷惑をお掛けしましたが、恐らく、過去記事の編集作業(恐らく何年も掛かるかも)が終わるまで、何回かこのような事案が起きるかもしれません。

許してたもれ。

ゼロ円のカラクリ(IT業界裏事情)

宝登山神社(長瀞)

昨晩は、IT青年実業家松長社長と神田神保町の著名居酒屋「酔の助」で、IT業界の極意を伺いつつ、痛飲してしまいました。

「酔の助」は、いわゆるひとつの大衆酒場ですが、よくテレビドラマのロケで使われ、「居酒屋のシーンが出てくれば、あれは『酔の助』だ」と言われるくらい、その筋の人なら知る人ぞ知る有名な居酒屋です。

松長社長には、この「渓流斎日乗」のホームページ化で大変御世話になりました。これまで、gooブログで配信していたのですが、思い切って一本独鈷で、新規に独立サイトをこの9月1日から始めたのです。

彼の言うことが粋です。

「渓流斎さん、これまでのgooブログでは、300万人か500万人の中の一人で、いわば小池で泳いでいたようなものです。今回独立したということは、世界に飛び出し、60億人の中に飛び込んだということになるんですよ」

うーん、うまいこと言いますなあ。

「だから、渓流斎さんのサイトは60億分の一になるわけですから、アクセスの上位にいかないと誰も見ないのです。しっかり更新しないと埋没してしまいますよ」

はっ、それが言いたかったんですね(笑)。

松長社長は、IT業界で長年苦労してきたせいか、さすがに業界通で何でも知っています。何しろ、自分でプログラムまで書けてしまうので、これまで地方の地元有力者(と言えば分かりますよね?)の監視カメラや売り上げ伝票のソフト製作など幅広く手掛けてきたようです。

※※※※※

色んな話を聞きましたが、一番印象的だったことは、よく大手ネット通販が「ゼロ円」で中古本などを販売している、その裏のカラクリです。

「渓流斎さん、この生き馬の目を抜く厳しい資本主義社会で、利益の出ないタダなんてあり得ないでしょ?」

嗚呼、そう言えば、私も数年前にゼロ円で買ったことがあり、ドキッとしました。

「それはですね。モノをタダで買うような厚かましい輩が、どんな顔して何処に住んで、何をしているのか、年齢住所職業、メルアド、携帯番号、銀行口座まで、個人情報を登録させて、その情報を転売している可能性があるんですよ」

えーーー!!それは困る。

「でも安心してください。渓流斎さんも私も庶民ですから、何億も何十億も資産があるわけない。銀行口座がバレたとしても、犯人は10万、100万の端金には見向きもせず、最初に目をつけて手をつけるのは、数百億円クラスの大金持ちでしょう?だから、渓流斎さんは何の心配もいらないのです」

そっかー。そう言われて嬉しいやら、哀しいやら。複雑な気持ちになってしまいました。

Gメールやヤフーメールなどの無料メールも、何でタダなのか、疑ってかからなければなりません。スノーデンが暴露したように、あらゆるメール情報は当局に筒抜けになっていることは、業界では常識のようです。

そんなこんな話で盛り上がりました。

松長社長は、名門(笑)海城高校の後輩で私より一回りも若いので、私より確実に10年も20年も長生きしてくれるので、このホームページを任せてよかったと思ってます。

松長社長、今後とも宜しくお願い致します。

築地「かつ平」から空爆を逃れた戦前の街並みへ

築地「かつ平」

東京は銀座と築地と新富町辺りは私のシマなので顔役(笑)として、老舗店舗から細い路地まで知り尽くしていたつもりでしたが、まだまだ修行が足りませんでした。

築地本願寺の裏手に当たる築地6丁目に、池波正太郎がこよなく愛したトンカツ屋「かつ平」があるというので、ランチを食べに行ってきました。

午後1時過ぎだというのに超満員。初めて行くので、壁に貼ってあった「ロースカツランチ」1150円を注文してみました。

待つこと13分。出てきたのはかなり大きめのロースカツ。あとから分かったのですが、ロースカツは脂身が多く、ヒレカツ(1050円)はそれ程でもないということでした。

なるほど、やはり、ロースカツは白身の脂がそのままでしたから、後からちょっと胃がもたれてしまいました。

今度はヒレカツにしてみようかしら。

池波正太郎先生がおススメする店は、銀座の「煉瓦亭」とか「資生堂パーラー」とか、ちょっと高めのお店が多かったのですが、ここは庶民的と言えるかもしれません。

 

この築地本願寺の裏手の6丁目、7丁目辺りは米軍による空襲爆撃を逃れたため、こうして、古い戦前の建物が残っており、一瞬、タイムスリップしたような感じに襲われます。

何故、この辺り、空襲がなかったかといいますと、隣の明石町に聖路加病院があったため、戦後、米軍が占領した時に戦傷者らの治療のために残すべく爆撃を避けたと言われてます。

繁華街の銀座は空襲に遭いましたが、その隣の日比谷界隈にはGHQの置かれた第一生命本社や東京宝塚歌劇場(占領時は、兵士の慰安のためのアニー・パイル劇場に)があったため、態と爆撃せずに残しておいたわけです。

かつての敵国は、日本全土にどんな建物があり、何処に軍事工場があり、何処に学校や病院があるか全て把握した上で、精密機械のように空爆していたことが分かります。

果たして日本は、そこまで把握して、戦後世界をどう築くかまで構想を持って戦争を始めたのか甚だ疑問です。情報戦では最初から負けていたわけです。

服部さんの謎が解けた! 名前のルーツ

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

御縁があって、よく東京都心の半蔵門会館に行くのですが、ここに来る度に「半蔵門は諸説あるけど、服部半蔵から付けられたんだな」「服部という名前は、何で『はっとり』と読むだろ?『ふくべ』としか読めないのに…」と頭に引っ掛かっていました。

小学校の時にも服部さんがいたので、読み方には抵抗はなかったのですが、何故なのか半世紀以上、自分で調べることなく頭の片隅で引っ掛かっていました(笑)

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

それが昨晩のNHKの番組「日本人のおなまえ」で、初めて謎が解けました。この番組はたまに見るのですが、本当に眼から鱗が落ちます(笑)。

服部という名前は、もともと機織部(はたおりべ)で、これが訛って(?)はっとりになったんだそうです。

部というのは職業を表す言葉で、古墳時代は日本人の9割ぐらいは、この部が付いていたといいますから、驚きです。

例えば、矢作部(矢を作る職業)、犬養部(宮中を警護する犬を飼う職業)、長谷部(雄略天皇=若長谷王=の身の回りの世話をする)などです。

時代が下って、日本人の名前は「唐風」の二文字が良い、ということで矢作部は矢部に、犬養部は犬養に、(長谷部はそのまんまじゃん)になったそうです。

部が取れたのは、地方豪族が勢力を伸ばしたからという説もありました。

これで、機織部が訛って服部になった理由が少し分かった気がしました。服部の服は衣服のことですから、漢字を当てたのでしょう。機織部は、庶民も着るような服の製作者でしたが、綾部は絹の高級な貴族向けの服を作っていたので、格が上だったのかもしれません。

桂林 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

「日本人のおなまえ」の司会者は毀誉褒貶のある方ですが、内容は面白いです。それなのに、知らない方も多く、先日、半蔵門会館で懇談した佐藤さんも「見たことがない」というので、「佐藤さんは、藤原一族で、左衛門尉の藤原という意味ですよ。伊藤は、伊勢の藤原、加藤は、加賀の藤原、後藤は備後の藤原から来ているのですよ」と番組からの受けおりの話をしたら吃驚されてました。

こんな話をしたら、女の子にモテますよ(爆笑)。

領収書がすべて!だがやな

浜松城

(昨日の続き)

今、税務署に来てます。どんな裁可が下されるのか、この歳になっでドキドキです(笑)。

今朝の新聞で、「遺伝の法則の『優性』『劣性』は今後使わない」という記事が印象的でした。

日本遺伝学会が用語を改訂したらしいのですが、例えば、これまで、「色覚異常」とか「色盲」とか言っていたものを、今後は「色覚多様性」と言い換えるそうですね。

以前にも何回か書きましたが、私の亡父は「色盲」でした。戦争末期に帝国陸軍に志願して、航空隊に配属されましたが、色盲のお陰でパイロットになれず、整備兵となりました。

しかし、万事塞翁が馬。パイロットになっていたら、特攻隊になって散華していたかもしれません。となると、私もこの世に生まれて来なかったし、こんなブログを書いてることはなかったでしょう。

今は、こうして「父は色覚多様性だった」と胸を張って言えますね。

浜松城

そうこうしているうちに、税務署でのマルサ捜査(?)は終わりました。

意外や意外!

私自身、サラリーマン生活を何十年間も続けて、確定申告など一度もやったことがなかったのですか、結論を先に書きますと、経費として控除されるので、「領収書がすべて」だということが分かりました。

とはいえ、私は領収書なんかすぐ捨ててしまいます。よほど大きい買い物をした時は別ですが。

ということで、「原稿料」としての税金を取られるなら、経費として本代やセミナー代やらも入るはずです。しかし、それはもうない。あ、そうだ!iPad を買っていた!これで原稿書いたり、調べものしたりする。ダメモトで、このiPad 代を経費として申告してみました。たまたま領収書が残ってましたからね(笑)。

そしたら、驚き。経費として認められ、何とわずかですが、還付金まで出たのです。この他、前年分もあり、こちらは一つも領収書がないので、まるまる10%の地方税を取られました。今後、延滞金を払わなけらばならない可能性もありますが、生まれて初めての納税交渉は、痛み分けか、あたしの勝ちでしょうかね?(笑)

【教訓】

•給与以外に、20万円以上の雑収入があると、確定申告しなければなりません。

•その際、経費として認められれば、逆に還付金がありますから、領収書は必ずこまめに取っておくこと。

•医療費は、長期療養費還付等を差し引いて10万円以上あれば控除があることを覚えておいてください。

宝登山神社ご参拝(続 長瀞紀行)

宝登山神社本殿

9月3日(日)午後3時、埼玉県立自然博物館を後にして、宝登山(ほどさん)神社を目指して歩きました。

約2キロの旅程。結構歩きました(笑)。その途中で、名古屋にお住まいの篠田さんから急に電話がありました。

「渓流斎さん、北朝鮮が水爆実験やったの御存知ですか?」

「えっ?今、あたしは長瀞にいるもんで知りませんでした」

「そんなことだろうと思ってましたよ。3時半から記者会見があるようですよ」

「はあ、貴重な情報有難う御座いました」

宝登山神社二の鳥居

途中に踏切がありましたが、大変幸運なことに観光用のSL機関車を見ることができました。

というわけで、程なくして宝登山神社に着きました。

社伝によると、創建は景行天皇41年(西暦111年)というとてもとても古い神社でした。神武天皇らを祀っておりますが、特に防火守護の神様を祀っており、その御利益があるらしいです。

日本武尊を祀る祠

というのは、記紀にも書かれておりますが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、この辺りに立ち寄り、山頂に向かっていると巨犬が出てきて道案内をしたといいます。

その途中で猛火に遭い、日本武尊が難儀をしていると、巨犬が猛火の中に飛び込んで火を消し止め、そのおかげで、日本武尊は無事頂上へ登ることができたそうです。

この山は「火止(ほど)山」と呼ばれるようになり、時代が下って「宝登山」となったそうです。

また、巨犬は大山祇神の神犬であったことから、防火守護のため火産霊神として社殿が建てられ、このような立派な宝登山神社となったそうです。

宝登山神社本殿

本殿にはこのように、中国の「二十四孝」を題材に取った見事な彫刻を見ることができます。

関東首都圏の神社仏閣を紹介する松長会長主宰の「猫の足あと」には、どういうわけか、この宝登山神社について詳細情報がなかったので、僭越ながら、「渓流斎日乗」に紹介させて頂いた次第です。

家に帰って、北朝鮮の核実験のことが気になっていたので、ラジオの夕方のNHKニュースを聴いたところ、トップニュースは、「タッキー&翼さん、活動を一時休止」でした。

以上

新しい《渓流斎日乗》は茲にいます!

Paul(droite)et Jackie

皆様におかれましては突然の御連絡ですが、明日(2017年9月1日)から、この渓流斎ブログはこちらに移転することになりました。

サイトが移転しても、内容は殆ど変わりませんが(笑)、これまで12年間近くお世話になったgooブログから独立して、一本独鈷で勝負をすることになりました。これまでも何回か、サイトを移転しましたが、これが集大成として最後になります。終着点です。

まあ、大袈裟かもしれませんが、どなたも本を読む時に、内容が良ければ出版社を気にしないでしょうし、番組を見る時にどのテレビ局か拘らないでしょう。それと一緒です。

ただ、お引っ越しですから、サイトのアドレスが変わります。もし、かりそめにも、この《渓流斎日乗》をパソコン等で「お気に入り」に登録されていらっしゃった場合、大変お手数ですが、こちらにご変更下さいますよう宜しくお願い申し上げます。

サイト移転に当たりましては、IT青年実業家の松長哲聖社長には大変お世話になりました。私自身は、時代遅れのIT音痴ですから、全て松長社長のお導きで、成就できたことを感謝を込めて特筆したいと存じます。

この新サイトは、御覧になると分かりますが、かなり写真が鮮明です。写真に負けないよう本職の(笑)文章も頑張っていきたいと思います。今後も皆々様方の御贔屓、御愛読、御鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

恐惶謹言

2017年8月31日

渓流斎高田信之介

静岡県で最高の鰻重を食す

「しまごん」のうな重上 2800円

サッカーJ1のジュビロ磐田で有名な静岡県磐田市は、浜名湖に近いこともありまして、美味い鰻料理店が沢山あります。

そこで、観光客には知られていない地元の人のみに口コミで知られておりますが、いつも満員御礼、売り切れ続出の鰻店に連れて行ってもらいました。

活鰻「しまごん」

確かに、農道めいた脇道に看板が一つあるだけで、行き止まりのような寂しい細い道を行くと、このような店があります。

何か、小さな工場のようで、とても鰻屋さんには見えない!しかも、名前も変。店舗の裏は釣り堀になっているそうな。

生意気にも「うな重の上」を注文しました。待つこと30分。何という美味。外はカリッとして中がふわふわ。関東風の焼き方は、中も外も柔らかいので、全く違います。

秘伝のたれの旨いこと。お酒も進みます。

しかも、東京と比べるとかなり安い。何か、世界最高の贅沢をしたような気分でした。

女城主直虎館~浜松城の旅

気賀駅

8月26日は、女城主直虎さまの御命日ということで、静岡県浜松市の気賀に設営された「大河ドラマ館」を視察してきました。

ドラマでは、気賀は大型船が乗り入れることができる大きな港街のイメージでしたか、実際行ってみると、何の変哲もない田舎町(失礼!)で、恐らく、500年前ならもっと活気があったことでしょうが、すっかり寂れておりました。

気賀関所

そんな寂れた街に、巡業公演の見世物小屋風のものを突如出現させ、地元自治体が一生懸命に観光資源としてアピールしようと努力されてました。

全国津々浦々、どこの地方自治体も「大河ドラマ」をやってほしい、とNHKに嘆願に行くそうですが、なるほど、よく分かりました。地域活性化と景気対策なんでしょうね。

浜松市は、このドラマ館の横に、かつてあった「気賀関所」まで「復元」するなど涙ぐましい努力をされておりました。

しかし、意外にも、地元の人で、大河ドラマ「女城主直虎」を見ていない人が多いので、気が抜けてしまいましたが…。

入り鉄砲に出女

となると、当然、彦根城主の井伊家がこの浜松市郊外の井伊谷の出身だという史実さえ知らなかった人もいて、私なんかも「そういうもんかなあ」と少々驚いてしまいました。

浜松城

御案内の通り、井伊家が世に出るきっかけとなったのが、女城主直虎の後継の虎松こと井伊直政が徳川家康に仕え、関ケ原の戦いで、「徳川四天王」の名に連ねるほどの戦功を挙げたからでした。

これにより、直政は、西軍大将石田三成の領地だった近江国18万石を与えられ、直政は戦の傷が元で亡くなってしまいますが、その子直継の代に直政の遺志として彦根城が築かれるわけです。

江戸時代、井伊家は、譜代大名として多くの大老を輩出していくのは御存知の通りです。

徳川家康像

浜松市には「出世城」の異名を持つ浜松城で知られています。

家康が29歳から45歳まで居城したと言われてます。当時は、三方原の戦いで武田信玄に敗れたものの、今川家を滅亡させて、三河の小国から遠江一国を支配する大名に出世し、豊臣秀吉に仕え、「天下取り」まであと一歩の所まで登り詰めておりました。

私は、昔は、「狸爺い」と揶揄された権謀術策の塊の家康が大嫌いでしたが、彼が子供の頃に今川家の人質になって散々苦労していた話や、江戸幕府を開いた彼の業績を知れば知るほど、やはり、戦国大名の中ではずば抜けて凄い、尊敬できる人物だったと考え方も変わりました。