六曜は迷信か

Noukavilla

新聞休刊日ですと、どうも張り合いがなくなりますね(苦笑)。

こういう日に限って、ネットサーフィン(古いですか)なんかして、時間を潰してしまいます。

最近、気になっているのは「六曜」です。旧暦の元旦(今年は2月8日)を「先勝」とし,続いて「友引」「先負」「仏滅」「大安」「赤口」の吉凶日を繰返して日に割り当てたものです。

この「六曜」を明記した手帳やカレンダーが「差別につながる」として、昨年末大分県などで回収騒動があったことが記憶に新しいですね。

私も、六曜についての知識がなく、結婚式は「大安」がよく、「仏滅」の日は避けるべきだとか、葬儀は「友引」を避けた方がいい、というぐらいの、その程度の知識しかありませんでした。

六曜も「ろくよう」と読んだり、「りくよう」と読んだりして、その起源も中国にあるとしながら、諸葛孔明が始めたとか、唐の学者が発明したとか、いろいろ諸説あってはっきりとしないようです。
ただ、明治新政府は、六曜は迷信として使用を禁止するよう布告を出したのですが、庶民の間では深く低く浸透して、21世紀にまで続いているというわけです。

「仏滅」とあるので、仏教と関係があるのかと思いましたら、全く関係ないそうですね。もともとは、「空亡」とか「虚亡」と言われていたのが、「物滅」となり、近世になって「仏滅」となったらしいのです。仏が亡くなった日とは関係ないので、こじつけです。一部では、暦商売の人が売るために創作したという説もあるそうです。

序ながら、「先勝」は「せんしょう」「せんかち」「さきがち」などと読まれ、先手必勝の意味。もともとは「速喜」「即吉」と呼ばれていましたから、こちらが本来の意味なのでしょう。午前中は「吉」、午後2時から6時まで「凶」。

「友引」は、もともと勝負事で引き分けになる日で、「共引」「留引」と書いていた。午前は「吉」、昼は「凶」、夕は「大吉」、ただし、「葬儀は忌む」と言われています。

「先負」は、「せんぶ」「せんぷ」「さきまけ」「せんまけ」などと読み、もともとは「小吉」「周吉」と書かれていた。午前は「凶」で、午後は「吉」。それは、先んずれば負けるという意味なので、分かりやすいように、「先負」と呼ぶことにしたのでは?これも誰か日本人が考えたのでしょう。

「大安」は、もともと「泰安」と書かれていたので、読み方も「たいあん」と濁らない。何事も「吉」、成功間違いなし。内閣組閣もこの日を選ぶなんて、本当ですかねえ?

最後に「赤口」は「しゃっこう」「しゃっく」「せきぐち」などと読み、六曜の中で、唯一、もともとの名称のまんま。「赤舌日」(しゃくぜつにち)から由来し、不吉な日とされるそうです。赤舌日は、陰陽道の影響があるようです。

大陸や半島から入ってきたものは、日本人は何事も、日本風にアレンジしてしまうものなんですね。

劣化について

久しぶりの焼き肉屋さん

うまいめんこい村の白羽へこ作村長です。

皆さんご存知の大分先生から、わざわざ九州から電話を頂きまして、「ああたのブログは、少し堅いですね。世相を追うのもいいですが、たまには、美味しそうなグルメでも取り上げてくださいな」と仰るではありませんか。

いやあ、最近、あまり外食もしていませんし、お酒も呑んでいません。(そう言えば、渓流斎ブログの特色だった「昨晩も痛飲しました…」というフレーズが最近見かけませんねえ=笑)

そこで、大分先生の御所望によりまして、近くの焼き肉屋さんに久しぶりに行ってきました。チェーン店ですが、値段の割には美味しいと思います。何と言っても、ガスや電気ではなくて、炭で焼くと味が全然違います。以上、これでお仕舞い。グルメ関連は、「ウマズイめんくい村通信」にお任せしています(笑)。

さて、例のイケメクナクナッタ宮崎衆院議員が昨日、議員辞職を表明しましたね。まあ、当然の決断でしょう。栗林さんもコメントで書かれていましたが、本当に、最近の政治家は、いや政治家だけでなく、人間的に劣化しています。

マンションの偽装建築も劣化ですし、スポーツ選手も違法ドーピングで劣化しています。

「人の噂も75日」と言いますから、宮崎議員の辞職問題も、そのうち、人は忘れるでしょう。彼も再起を期して、また立候補するかもしれません。

ただ、宮崎氏自身もいみじくも記者会見で発言していたように、今月生まれたばかりの男児は、成長すると、父親の過去の触れられたくない「事件」を知ることになるでしょう。ネット時代ですから、もう小学生にでもなれば、スマホなんかで父親の名前を検索して、その事実を知ることになるでしょう。大変な時代になりましたよ。昔なら75日で忘れられたスキャンダルも、今は半永久的に、電脳空間に残存してしまう時代ですからね。

昔は子供に、悪さしたときに「お天道様が見ているよ」と叱りましたが、そのうち「ネット上に残るよ」という小言に変わるかもしれません(苦笑)。

女性は強い 歴史は塗り替えられる?

Dekkaido

電脳空間倫理管理委員会主幹様から「『へ~、そんなことあるの…』といった話題が欲しい」とのご下問でしたので、探してみましたが、最近は事情があって、単調な生活をしているものですから、ありませんね(笑)。

 それでも、先程、新聞を読んでいたら、面白い記事がありました。生物学者の福岡伸一さんのコラムです。「生命の基本形は女性で、38億年にわたる生命進化のうち、最初の30億年間は女だけで足りた」というのです。「ヒトの男は女から生まれた」という基礎知識はありましたが、これほど、長い間、女性天下だったとは!!

 そして福岡教授はこんなことまで言うのです。「基本仕様を逸脱したもの=男、は壊れやすい。威張ってはいるが実は脆い。病気になりやすいし、ストレスに弱い。寿命も短い」。私は男ですので、よーーく分かります。納得してしまいました(笑)。(女性から反論があるかもしれませんが)

 もう一つ、「へ~」と思ったのは、「歴史は塗り替えられる」ということです。

 残念ながら、「南京虐殺」や「慰安婦問題」など近現代史の話ではありません(苦笑)。

 例えば、「縄文時代」の時期がこれまでの検証より、もっと長かった、とか、科学の進歩で分析法が発達し、古代や近世の教科書がどんどん塗り替えられていっているという話です。

 少し、古い例ですが、我々の世代が習った「足利尊氏」(実は、高師直説が有力)や「源頼朝」の肖像画は別人だったので、今の教科書には掲載されていない、とか。

 最近驚いたことは、江戸時代の「士農工商」のキーワードが教科書から削除されつつあるという話です。なぜなら、実際、江戸時代は、武士とそれ以外の区分けしかなく、「士農工商」というガチガチの身分制度は、徳川制度の悪いことを強調するために、明治時代に「創作」されたものだというのです。そう言えば、悪の権化のように扱われた「封建主義」なんかも最近あまり使われませんね。

 最近、豊臣秀吉(1537~98)が、柴田勝家との天下分け目の賤ヶ岳の合戦で活躍した家臣の脇坂安治(1554~1626)に宛てた書状33通が兵庫県たつの市の安治を祭る神社で見つかり、このほど解析されて、秀吉の「かなりしつこくて、細かい性格」の一面が分かったそうです。本能寺の変後に書かれ、天下統一する前に書かれた書状で、お館様の織田信長のことを、書状の中で「信長」と呼び捨てにしたりして、新発見も多いようです。

 へ~(笑)。

「味好堂」の瓦煎餅

Monouquenochara

うまいめんこい村の白羽へこ作村長です。

先日、渓流斎が、中山神社で厄払いを敢行した話をしたことを、賢明なる読者諸兄諸姉の皆々様方は、覚えていらっしゃることでしょう。

その帰りに、豪華なお土産、ではありませんね。何と言ったら宜しいのか分かりませんが、御神札や破魔矢などが入った「お返し」を頂いたことを書きました。この中には、焼き菓子なるものが入っていたことも併せて書きました。

この焼き菓子が、瓦煎餅で、見るからに、硬そうで、不味そう。2~3日放ったらかしておいて、昨日嫌々挑戦してみたら、これは驚き!美味いの何のって、見かけほど硬くなく、腰を抜かすほどの美味さでした!嘘じゃありません。

鎌倉の有名な鳩サブレーよりも美味しいぐらい。いや、はっきり書きましょう。鳩サブレーよりも美味い❗️

もっと食べたくて、注文しようかと思ったら、ネット販売は、何処もやっていないようですね。直接、買いに行くしかないようです。画像を見ると、小さな店で、細々と家内制手工業でやっている感じです。

埼玉県の春日部市にありますから、遠いし、交通費も掛かります。それでも、渓流斎、じゃなかった、うまいめんこい村の白羽村長を信じて試してみようかという方は、是非、春日部市に行ってみて下さい。決して後悔しないと思いますよ。

春日部市は、確か、「クレヨン信ちゃん」で、有名になった街でしたね。

お店の名前は「味好堂」です。ちなみに、私は、宣伝費は一切もらっていませんからねー(笑)

あまりにも美味しかったので、写真は、空袋しか残っていません。悪しからず(苦笑)。

鹿島茂著「パリの秘密」

Paris

どなたか分かりませんが、コメント有難う御座います。毎回、正座して拝読させて頂いております。
「獅子身中の虫」さんは、小生より遥かに学識教養が高いのに、いつも熱心に非才のブログをお読み頂き有難う御座います。

また、先日「忍どす」さんのアドバイスで、冷却ファンの出口に詰まったゴミを掃除したところ、作業の途中で電源がプツリと切れることがなくなりました。どうも有難う御座いました。(よおし、ウイルスバスターが有効の2017年までこのパソコンをもたすぞー)

さて、パリでの同時多発テロ以降、日本人のフランスへの旅行がキャンセルされて減り、日本からパリへの直行便も減らさざるを得ないというニュースをやっていました。

僕は、天邪鬼ですから、こういう時こそ、またパリに行きたいとウズウズしてしまったのですが、恐らくこの夢は一生叶うかどうか…。
ということで、空想でもいいから、パリに行きたいと思い、鹿島茂著「パリの秘密」(中央公論新社=2006年初版)を地図を片手に読んでいます。
何で地図を?かと言えば、「パリの歴史探偵」を自称する著者が探し当てる「スポット」は、ほとんどガイドブックに載っていない。それどころか、フランス人、いやいやパリジャン(パリジェンヌ)すら分からない歴史的モニュメントを探し当てて、微に入り細に入り、細密に描いているからです。(何しろ、当地に住むむパリの住民すら、尋ねても「知らない」と答え、著者が東京に戻って「パリの建築物事典」で調べ直して納得するぐらいですから)

まあ、マニア向けに書かれているために、私のようなトーシローにとっては、急に「ケール広場」だの「ヴィスコンティ通り」だのと、出てきても、一体それが何処にあるのか、何区でさえ分からないのです。しかし、私には、ムフフフ…、強力な武器があります。L’INDESPENSABLE社の「PLAN PLASTIFIE PARIS」があるのです。これは、昨年3月に一人でパリ旅行を敢行した際、地下鉄「マビヨン」駅近くの本屋で買ったのです。出版社名の’INDESPENSABLEは、「必要不可欠」という意味。(こんな言葉を社名にするとは!)タイトルは、強いて言えば、「プラスチック加工されたパリ地図」。つまり雨に濡れても平気なように紙が加工されているのです。

この地図は是非お勧め(10.10ユーロ)。パリ20区すべてのほか、「自転車道路」や「博物館」なども載っているのです。(ただし、鹿島教授がこの本で紹介する博物館は、この地図にさえ索引にも出てきません!)

また、脱線しますが、地図をパラパラめくっていると、至る所に「H」のマークがあり、最初は「さすが、観光都市パリ。何処にでもホテルがあるんだなあ」と思ったら、よく見たら、この「H」は、ホテルではなく病院(Hopital)だったんですね。やはり、パリでも病人が多いんですね。

さて、やっと「パリの秘密」の話です。面白かったところを箇条書きで引用させて頂くことにします。(換骨奪胎)

・フランスで「ライオン」の存在が知られる前の中世では、「百獣の王」は熊で、王侯の中には、実際に熊と猛犬と戦わせて、熊が犬になぶり殺されるのを楽しみにしていたシャルル9世のような王がいた。

・ジェットコースターのことを、フランス語で「ロシアの山」(montagne russe)という。これは、ジェットコースターの元祖のようなものが18世紀末にロシアから入ってきたため。(人工の山にレールを敷いて、急勾配をトロッコを遊具に使って降りてくる)これが、フランスからアメリカに渡り、今や世界中の遊園地でヒットするようになったとか。(ちなみに、英語ではジェットコースターのことを roller coaster と言うのに、この和製英語は誰が考えたのでしょうね?)

・世界各地でバラバラだった度量衡が「メートル法」に統一されたのは、フランス革命の影響だが、メートル法を浸透させるために、「メートル標準器」をパリには16か所設置したが、現存するのは二つだけで、そのうち元の場所に原型のまま保存されているのは、6区のヴォージラール通り36番地の標準器のみ。

・サン=ジェルマン・デ=プレ地区のヴィスコンティ通りは、バルザック、ラシーヌ、ドラクロワといったお札になるクラスの超大物たちが喜びと悲しみの日々を送った通り。

・サルトル、ボーボワール、ボードレール、モーパッサンらが眠るモンパルナス墓地を散策すると、メーヌ大通り寄りの場所にサイロのような場違いな建造物が見えるが、これは「シャリテの風車」の跡。モンパルナスもモンマルトルもかつては風車小屋だらけだった。

・モンマルトルにある「ステュディオ28」は、1928年に開館した映画館で、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」などを上映するなど「シネマの聖地」と呼ばれている。1930年に独占封切りされたブニュエルの問題作「黄金時代」がスキャンダルとなり、右翼団体が乱入し映画館を破壊する騒ぎが起きる。しかし、経営者が変わり、紆余曲折を経て、今も健在だとか。

・パリの歌舞伎町ともいえるピガール広場からヴィクトル・マセ通りに通じるアヴェニュ・フロショーには、ヴィクトル・ユゴー、ロートレック、ルノワールの息子で映画監督のジャン・ルノワール、それにシルヴィー・バルタンらも住んでいた。

・シテ島のオテル・デュ(市民病院)の敷地は、かつては有名なデパート「ベル・ジャルディニエール」があり(パリ大改革を行ったオスマン卿の強制移転)、それまで、男性用背広はオーダーメイドが当たり前だったときに、既製服を破格の値段で売り出し、大ヒットした。

・ノートル・ダム大聖堂は長蛇の列ができる観光名所だが、通りを挟んですぐ近くにある「ノートル・ダム博物館」はいつもガラガラ。(ガイドブックに載っていないせいか?)ここには、意外にもナポレオンや一族の肖像画などが展示されている。その理由は、ナポレオンは、大革命以後に、カトリック信仰をコンコルダート(世俗権力者と教皇との政教協約)によって復活させたキリスト教徒にとっては大恩人。だからこそ、ナポレオンの戴冠式は、ノートル・ダム大聖堂で行われた。

以上、まだまだ書きたいことがいっぱいありますが、長くなるのでこの辺で。

松島屋の豆大福

松島屋の豆大福

うまいめんこい村のへこ作村長です。

「いよ! 松島屋!」

歌舞伎の片岡仁左衛門ではありません。あちらは「松嶋屋」ですが(笑)。

こちらは、誰がいつから言われ始めたのか分かりませんが、「東京の三大豆大福」の一つと言われる泉岳寺の「松島屋」の豆大福です。(ちなみに、あとの二つは、原宿の「瑞穂」と護国寺の「群林堂」=いずれも未経験=らしいです)

私は、訳ありで、「パシリ」になってしまいましたので、陋屋から自転車で30分も掛かる百貨店で、特別に、あの泉岳寺の松島屋の豆大福がお一人様5個まで買えるということでしたので、走って買いに行ってまいりました。

1個171円。何しろ、本店の泉岳寺まで行けば、ウチからの往復電車賃だけで10個は買えてしまいますからね(笑)。

売り出し時間の25分前に到着しましたら、既に長蛇の列。暇人が30人以上並んでいました。「こりゃ、吃驚」と並んでいるうちに、お店の人が「整理券」なるものを配り始めました。お一人様5個まで、300個限定販売だったからです。後ろを振り返るといつの間にか、長い列。結局、発売5分前には「完売」してしまいました。

扨て、肝心のお味ですが、はっきり言って、期待があまりにも大き過ぎたのか、その期待を超えることは残念ながら、できませんでした。むしろ、そこら辺にある梅林堂の豆大福の方が美味しい感じがしました。

アタシの舌がおかしいのですかねえ?

でも一体、いつ、誰が「東京の三大豆大福」を決定したのでしょうか?

泉岳寺といえば、今日は、忠臣蔵の討ち入りの日でしたね。そんな日に松島屋の豆大福とは…。

三島由紀夫の愛したマドレーヌ=うまいめんこい村

日新堂のマドレーヌ

うまいめんこい村の白羽へこ作村長です。

今日は、作家三島由紀夫が「日本一」と絶賛したマドレーヌをご紹介します。

マドレーヌといえば、マルセル・プルーストがすぐに思い浮かびますが、それは、置いといて、このマドレーヌは静岡県は下田にある日新堂菓子店が製造販売しているものです。日新堂は大正11年創業です。関東大震災が起きる前の年で、永井荷風が、掃苔趣味を始めた年です。えっ?掃苔を知らない? 探墓なら分かりますね。その探墓を始めた年です。(自分も知らなかったくせに)

これを一切れ、口にすると懐かしい大正というか、昭和の味がして、何とも言えない奥ゆかしい食感が最後まで残ります。私も「日本一」だと思います。
もしかして、本場フランス菓子と背比べすれば並ぶかもしれません。

今、日新堂は、ジャズ歌手の横山郁代さんが家業として継いでます。つい最近の11月18日に東京・銀座で「生誕90年 没後45年 三島由紀夫Night@東京・銀座」のジャズコンサートを開いたばかりです。(残念ながら私は行けませんでしたが)

横山さんは、お菓子屋さんとジャズ歌手の「二足の草鞋」を履いていますが、実は、お菓子の方はあまり採算が合わないそうなんです。

また聞きですが、横山さんは「三島さんから、『このマドレーヌは日本一だ。ずっと続けてください』と言われた言葉を胸に今までやってきました」と言うではありませんか!つまり、恐らく赤字だということでしょうね。理由を考えてみると、下田市内の店舗でしか販売していないからではないでしょうか。大東京に支店をつくれば、爆買いが見込まれるでしょうけどねえ…。

何と言っても、日本人として、こんな美味しいものを知らないとは本当に残念です。

そこで、ネットで検索したら、ネット通販でも販売しているようです。

まるで、宣伝みたいですが、これは宣伝ではありません。驚くほど美味いんです。本当ですよ。渓流斎のお墨付きです(笑)。プルーストを体験してみてください。

ま、ご興味のある方だけ、下のホームページをご覧ください。

日新堂菓子店 ←こちら

朝倉彫塑館には圧倒されました


「タンキリ飴が食べたい」というスペクターからの指令で、遠路はるばる東京・谷中ぎんざに「パシリ」で行ってきました。

その筋では有名な「後藤の飴」で日暮里駅を降りて、谷中ぎんざに行く階段を下りて、まもなく右手にありました。

店には何十種類もの飴が並んでいて訳が分かりません。最初、私自身は間違って「タンセキ飴ありますか?」と伺うと、御主人は笑いながら「タンキリ飴のことかな?」とその品がある飴を指さしてくれました。

ついでに「さらし飴」=写真=も合わせて5袋も買ったところ、小さい袋の「柚子の飴」をおまけにくれました(笑)。

他に別に欲しいものがなかったので、わざわざ谷中まで来たということで、「朝倉彫塑館」を覗いてみました。ここは何度行っても「工事中」でなかなか入ることができませんでした。

パンフレットによると、2001年に国の有形文化財に登録され、08年に国の名勝に指定を受けたため、09年から13年にかけて、修復、耐震補強工事をしていたようです。2009年から13年にかけては、私が一番多く、谷中に足を運んだ頃でした。

「朝倉彫塑館」は、確か、何年前か、何十年前かに一度は入ったことがありますが、今回「改修」されたものをみて、まるで初めて見る感じでした。

とにかく、圧倒されました。都会のど真ん中にこんな素晴らしい館(やかた)があったのか、と驚くばかりでした。彫刻家朝倉文夫(明治16年、大分県生まれ、明治40年、東京美術学校卒)は、明治40年にこの谷中にアトリエを構え、その後増改築されて、昭和10年に今のような原型ができたようですが、とにかくどでかい。アトリエがあり、中庭には大きな池があり、3階建てで、屋上にはガーデンまであり、大根などの野菜が育てられていました。

朝倉はここに「朝倉彫塑塾」を開講して門下生を養成したので、学校でもあったわけです。書斎には岩村先生から寄贈された2500冊もの原書がぎっしり天井まで届く書庫に収められ、茶室まであったりするのです。2階の「素心の間」から見下ろす中庭はまさに絶景でした。

肝心の作品ですが、朝倉は猫好きで何匹も飼っていたらしく、猫の彫刻が結構多かったです。巨大な大隈重信像もありました。

なお、「朝倉彫塑館」での撮影は禁止されていたので、一枚も写真を撮れませんでした。悪しからず。

繁盛亭と大塩平八郎の乱

京都にお住まいの京洛先生から電報が来ました。以前ですと、楽々と30分ぐらいでアップできたのですが、今では3時間も掛かります。あに、やってんですかねえ。一日が潰れてしまいます。

…大阪に今日行って来ました。「大阪天満宮」境内にある上方落語の殿堂でもある「繁盛亭」で、21日から開いている「終戦後復活落語70周年記念落語会」(24日まで開催)を聞きに出かけたのです。…

まあ、京都と大阪は近いですからね。

…戦後、昭和20年~30年代は戦前、人気があり、お客が呼べる上方落語の大看板や人気落語家が次々亡くなり、漫才に押されて、壊滅状態になりかけていたのです。そう言う状況下、後に上方落語の「四天王」と呼ばれる、笑福亭松鶴(6代目)、桂春團治(三代目)、桂米朝(三代目)、桂文枝(五代目)の4人の奮闘によって、今日の隆盛期を迎えたのです。

それを象徴するのが落語家の数です。「上方落語協会」がスタートした、昭和32年当時、僅か18人だったのが、今や同協会に参加している落語家はナント230人(平成26年9月現在)もいるのです。驚くべき、繁栄、繁盛ですね。…

最近、大御所の米朝さんが亡くなりはったり、三枝さんが文枝を襲名したり、関西落語会には話題が事欠きませんでしたよね。

…21日から始まった「70周年記念落語会」はこの間の歴史を振り返り初心に戻る狙いもあるようです。現会長の六代目桂文枝(旧三枝)、副会長の桂春之輔、笑福亭鶴瓶はじめ、桂福団治、桂文珍など幹部、人気落語家が出演、チケットも即時売り切れる人気です。小生が出かけたこの日は福団治、月亭八方、笑福亭仁智らが出演、たっぷり笑わせてくれました。…

…「繁盛亭」に行く前に、時間があったので天神橋、南森町周辺をブラブラ探訪していたら、江戸時代、天保の大飢饉で大坂の民衆のために門人と幕府に反旗をひるがえした大塩平八郎(中斎)のお墓がある日蓮宗「成正寺」(大阪市北区末広町)を見つけたのでその写真も撮ってきました。

大坂町奉行の元与力で陽明学者の大塩平八郎の反乱は旗本までが出兵、鎮圧しましたが、お墓がこんな近くにあるのかと、初めて知りました。大坂の街歩きは思いがけない歴史発見が出来ますね。…

「ちから」の女将さんも行かれはったらどうでしょか?

亥の子餅

「亥の子餅」

ブログを再開したところ、早速、京洛先生からメールが舞い込んできました。

「11月は何処も紅葉を愛でる人で、観光地はごった返しますが、京都も、先日、東福寺の写真を送りましたが、今は、「見頃」の真っ只中です。何処も、この週末、3連休は凄い人出だと思いますね」

はい、お陰さまで一枚掲載させて、頂きました。

「ところで、東京はどうか存じませんが、京都は、この時季は、街中のお饅頭屋さんの、店先に「お火焚き(おひたき)饅頭」と「亥の子餅」、別名玄猪餅(げんちょうもち)が並びます。

「お火焚き饅頭」は、五穀豊穣、厄除け祈願で食します。火炎宝珠の焼印を紅白の饅頭に入れてあり、以前、貴人が上洛された折、ご覧になり食されたと思います。

また、「亥の子餅」はこの写真のようにイノシシのような色をした饅頭です。宮中では貞観年間(西暦859年~877年)から、既に亥の子餅の行事があったそうです。

旧暦10月の亥の月の、亥の日の、刻(午後10時)に食した、と言われ、やはり、火災を逃れたり、無病息災、子孫繁栄などを祈願をしたようですね。近所の饅頭やで買った亥の子餅の写真を添付しました。とくとご覧ください(笑)。東京圏では売ってますかね。もう、こんな風習は廃れましたかね」

いや、帝都では、小生だけかもしれませんが、あまり聞いたことも、見たこともありませんね。珍しいので、早速、使わせて戴きます(笑)。

まあ、京洛先生も、掲載があまりにも早すぎるので、驚かれていることでせう(笑)。