10月26日(土)に、宇都宮大旅行を挙行致しましたので、今日はそのお話です。
皆様ご案内の通り、小生の趣味は、全国、いや全世界の城巡りと、寺社仏閣参りでしたね。
どういうわけか、遠いようで近い宇都宮は一度も行ったことがなく、ということは親藩の宇都宮城址にも行ったことはありませんでした。同じ栃木県でも、那須や日光は仕事や遊びで何十回も行ったことがあったのに、宇都宮は御縁がありませんでした。
そんな話を宇都宮出身の栗原氏に話したところ、今回、案内役を快諾してくれたのです。それがこの夏のことで、さすがに、真夏の猛暑はとても大変なので、9月に延期したら、雨やら台風やら伸び伸びとなり、10月26日にやっと実現したわけです。
ということで、城址見物ということでしたが、「どうせ宇都宮まで足を運ばれるのでしたら、お任せください。名所観光地巡りもしませう」ということで、栗原氏のお薦めで、まず宇都宮駅に着いて買ったのが、「大谷(おおや)観光一日(バス)乗車券」、1750円でした。バス代金(往復900円)と大谷観音の拝観料(400円)と大谷資料館の入場券(800円)付きで、途中下車もできますから「350円以上もお得」という触れ込み付きです。
確かに、これは便利で安い。皆様にもお薦めです。
宇都宮駅からバスで30分ほどで、大谷観音前に着き、まずは平和観音を参拝。高さ 27メートル。東京芸大の飛田朝次郎教授の下で、昭和23年から29年にかけて6年間、地元の大谷石(おおやいし)で彫られ、昭和31年に、日光輪王寺門跡・菅原大僧正により開眼供養が行われたという有難い観音様です。
栗原氏は小学校の頃に遠足で来たことがあり、それ以来行ってないので、「半世紀以上ぶりだなあ」と一人で感慨に耽っておりました。
この平和観音からほど近いところにあるのが、大谷観音(大谷寺)です。平安時代の810年ごろに空海が開基したと伝えられ、院内の石壁に彫られた千手観音像は、日本最古の石仏と言われ、空海の手によるものと言い伝えられています。
寺院内は写真撮影禁止でしたが、このほか、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏も彫られています(重文)。大分県の臼杵麿崖仏と並び、「東の麿崖仏」と言われるそうです。これは一見の価値、いやご参拝する価値がありました。
大谷寺は空海の開基ということでしたら、当然、真言宗なのですが、現在は天台宗の寺院ということになっていました。栗原氏も「知らなかった…」と頭をかいておりました。
大谷寺から歩いて、5~6分で、大谷石の採掘現場です。
NHKの「ブラタモリ」でもやっていましたが、そのドデカサは現地に行かなくては分かりませんね。テレビでは分かりません。その巨大さに圧倒されました。
大谷石は凝灰岩で、主に全国の家屋の「石垣」として使われましたが、確かにいくら採掘してもなくならない感じでした。
大谷資料館の地下採掘場に潜りました。
戦争中は、軍需工場としても利用されたようです。
とにかく、その規模の大きさには唖然としました。薄暗い地下採掘場は、この日の気温10度。まるで「地下神殿」のようでした。雨水が溜まった池みたいな所(立ち入り禁止)もありましたが、深さは30メートルといいますから、驚きです。日本じゃなくて異国にいる気分でした。
ここは、十分、「世界遺産」にしてもいいと思います。
これだけ、広くて神秘的だと、映画やテレビやプロモーションビデオなどのロケ撮影として使われているようです。このほか、コンサートや結婚式まで挙行されています。
私の世代ですと、映画は薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」がここで撮影されたんだとか。私は見てませんけど(笑)。
バスで市内中心部(馬場町)にまで戻り、二荒山(ふたらさん)神社に参拝しました。この二荒(ふたら)を音読みすると「にっこう」、つまり日光になるわけですね。
この日は、神社の菊水祭が始まったばかりでした。このお祭りの写真を撮って安心してしまい、家に帰ったら、二荒山神社の本殿を撮影することを忘れていました(笑)。しっかり、お参りしたんですけど。
駄目ですね。でも、この全国的に有名な神社も、足を運んでみると、意外に敷地が狭いような感じを受けました。
そうそう、ここには、与謝蕪村の句碑もありました。蕪村は大坂生まれで京都を拠点に活動したので、わざわざ、京都から宇都宮在住の知人の俳人を訪ねに来たみたいでした。
時計の針はもう2時を過ぎており、お腹ペコペコです。
栗原氏は、宇都宮名物の餃子を食べさせてくれました。
ビルの地下1階にある「来らっせ」には、常設店舗と日替わり店舗と合わせて10軒ぐらいの餃子店がありました。
何となく、屋台の雰囲気で、色んな店舗の餃子を楽しむことができるのです。
中に柚子が入った餃子もあり、どれを食べても美味かったです。入場前は短い行列を並び、テーブル席が満員で、カウンター席でした。観光客も多い感じでした。
宇都宮餃子は評判通りの味でした。
腹ごしらえもできたので、店舗から15分ほど市役所の方向に歩くと宇都宮城址があるということで、「いざ出陣」。
その前に、その途中にある松が峰カトリック教会を訪れました。地元の大谷石を使って1932年に竣工されたということで、中にはパイプオルガンもあり、音響効果も抜群だという話です。
宇都宮市は昭和20年7月に米軍による空爆を受けて、市の半分以上が焼失したそうです。この教会も戦災に遭い、戦後復興されました。
米軍による空爆で、市民の620人以上が亡くなり、1128人以上が負傷したという記録が残っています。
教会から歩いて10分ほどで、やっと宇都宮城址に到着しました。
打ち震える感動です。大袈裟ですが、(復元された)櫓を見ただけで感激しました。
この宇都宮城にこうして櫓が復元されたのは、平成元年から本丸城跡発掘調査が行われた以降のことで、栗原氏も「子どもの頃は、なーにもなかったので、宇都宮が城下町だったとあまり意識しなかった」と仰るではありませんか。
現に宇都宮市観光交流課が企画するパンフレットには、「宇都宮城址」の「城」のかけらも案内していないんですからね。
小生のような城巡りファンとしては、「勘弁してくれよ」と言いたくなりました。
それでいて、宇都宮城址公園には立派な資料館もあり、宇都宮城の立派なパンフレットは、宇都宮市教育委員会文化課が製作発行していました。教育委員会文化課と観光交流課は、同じ市役所でも接点がないのかもしれませんけど、もっと連携しなければいけませんよね。
宇都宮城は、平安時代後期の11世紀に築かれたといいますから、歴史があります。
鎌倉時代から宇都宮氏の居城になりましたが、同氏の名前を取って、地名になったということでしょうか。宇都宮は、一宮(いちのみや)=二荒山神社がなまったという説もあるので、鶏が先か、卵が先か、みたいな話ですね。
宇都宮が城下町として大きく発展したのは、元和5年(1619年)、本多正純が城主になってからですが、正純は謀反の嫌疑をかけられて改易され、出羽に流罪となります。これが「釣天井事件」などと呼ばれて講談にもなりました。正純は幕府の老中にまで出世し、権勢をふるい、家康亡き後、二代将軍秀忠や側近の土井利勝(佐倉藩主~初代古河藩主、老中・大老)らの怒りや反感を買ったと言われます。
とにかく、宇都宮城は、徳川将軍が江戸から、家康・東照大権現を祀った日光に参拝する際の最後の宿泊地で、本丸は将軍の居住地となり、宇都宮城主は二の丸で居住していたという話ですね。
そんな親藩の宇都宮藩も幕末の戊辰戦争では、寝返って新政府側に立ったため、幕臣の大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる軍が攻め込み、この戦で城内の建築物は焼失したといいます。つまり、明治以降から平成までなーんにもなかったことになりますね。
宇都宮探訪の最大の目的だった城巡りも終わって、夕方から、市内の古いアーケード商店街にある「かんちゃん」で反省会。
栗原氏は、実は、宇都宮出身ながら、生活したのは高校卒業までで、この後、東京の難関大学に進学して就職したため、「地元の友人とはバラバラになってしまった」と言います。それでも「宇都宮の人口は30万人、北関東一の都市ですよ」「雪はあまり降りませんが、女性の肌が白くて綺麗です」と郷土愛を忘れていませんでした。
宇都宮出身の有名人として、ジャズの渡辺貞夫、歌手の森昌子、女優の山口智子(栃木市でした)、作家の落合恵子、漫談家の東京ぼん太、政治家で作新学院の創立者の船田一族、(元巨人投手の江川卓は、作新学院出ですが、出身は福島県いわき市のようでした)陸軍大将だった小磯国昭らがいますね。
実は、栗原氏は、歩き過ぎたのか、途中でアキレス腱を痛めて、歩きづらくなってしまいました。途中で少し休んでもらいましたが、事前準備と合わせて、最後までガイド役として最善を尽くして頂きました。責任感の強い方です。栗原氏とは不思議な御縁で、こうしてお世話になってしまいましたが、「ここは私の地元ですから、私に花をもたせて戴く喜びを味わわせてください」と変な日本語を使われて、結局、すっかり御馳走になってしまいました。
栗原氏のおかげで、宇都宮探訪はもちろん、百点満点でした。本当に有難う御座いました。