剛腕投資家と恐々と懇談した夕べ

昨晩は、東京・銀座の歌舞伎座が見える高層ビルの13階ラウンジで、ニューヨークから一時帰国中のA氏と初めてお会いし、肝胆相照らす仲となりました。

A氏は、元大手銀行員でしたが、本店からの帰国命令に従わずにそのまま米国に住み着いてしまったテレビドラマに出てきそうな剛腕やり手大物(go-getter, or hotshot)です。現在、投資会社の社長といったところでしょうか。

2年ほど前に、会社の同僚を通じて知り合いましたが、何せお住まいは米国なので、メールで何回か、いや何十回かやり取りするだけの仲でした。いつか、お会いしましょうと約束していました。

彼は、何冊か金融関係の本を日本経済新聞社などから出版しており、私も少し読みましたが、当然、素人には理解することが限られているとはいえ、多くの点で勉強になり、私淑している感じでした。

その彼と昨晩、初めてface-to-faceでお会いしましたが、メールで予告されて覚悟はしてましたが、ぶっ飛びましたね(笑)。ラストエンペラーのような丸い薄いサングラスをかけ、日大アメフト部出身のような、見上げるような大きなガタイで、半ズボンを履き、靴は目がふらふらするようなショッキング・レッドのスニーカー。とても日本人には見えず、無国籍の大陸浪人のような風情で、帰国滞在先のホテルやレストランでは必ず英語で声を掛けられるとか。

はっきり言って強面のインテリやくざですね。ドスの効いた声で睨まれたら竦みますねえ(笑)。

帰国する度に、日本の金融庁の役人とサシで渡り合うそうですから、「存在が意識を規定する」ということでしょうか。

ここまで書いたら怒られますねえ。ま、彼はこんなブログを読まないから大丈夫でしょう(笑)。

私もジャーナリストの端くれですから、色々と下調べして彼とのインタビューに臨みました。とはいえ、表向きは単なるお酒の入った懇親会ですから、メモを取ることなく、言葉のラリーを楽しんだ感じでした。

彼は日本人なのに何故、米国に半永住しているのか、理由は伺うと、金融業界は日本は米国やシンガポールなどと比べると40年も遅れていることと、情報の質が天と地の開きがあるほど雲泥の差があるというのです。

日本の最高峰の経済紙である日経には、読むに値する情報がほとんど載っていないというのです。やはり、ウォールストリートジャーナル、もしくはフィナンシャルタイムズの足元にも及ばないと断言するのです。

彼は、趣味で自動車とゴルフが好きらしいのですが、日本のテレビのゴルフやカーレースの中継の解説にしても、ピンと外れが多く、おふざけみたいなもんだといいます。米国の中継の解説の的確さ、そして、的を射た発言とは段違いだというのです。

「どうして日本のレベルはここまで低いんでしょうかねえ」と彼は頭を抱えるのです。

彼は投資家ですから、ウォーレン・バフェットやFAANG(Facebook, Amazon, Apple, Netflix, Google)などの話もしてくれました。私は未読ですが、「バフェット・コード」という本も出しているそうです。あ、こう書くと彼の名前がバレてしまいますね(笑)。

昨晩、彼と話をしていて、一番面白かったのは、先進国の中で日本だけが、会社が銀行から借金した場合、経営者が最後まで責任を取らされるという話でした。「だから、日本の社長は最後に自殺したりするでしょ?でも、アメリカなんかは、倒産したら、チャラでそれで終わりなのです。経営者はもう一度立ち直って、新しく再建できるのです。もちろん、当事者の銀行はもうお金を貸してくれないかもしれませんが、他の銀行は貸してくれるかもしれません」

この話を聞いて、初めて、トランプ米大統領の逸話として、かつて、彼がアトランティックシティーでカジノ経営に失敗したり、何度も何度も会社を倒産させても復活できたのは、米国ではそういう商法だったので、再建することができたことが理解できました。倒産したら、前の会社の借金はもう返さなくていいのですから。

「そういった点、日本の場合、銀行に有利できているのです。いつまでも、借金を追うことができるからです。でも、日本は商法を変えて、もっとビジネスをしやすく、復活しやすくしなければならないのです。だから、今、私は金融庁と闘っているのです」と打ち明けてくれました。

なるほど、そういうことでしたか。

彼は目下、日本で会社を設立しようと奮闘中です。応援したい気持ちでいっぱいになりました。強面とか、インテリやくざ、とか書きましたが、根は、心優しい人でした。

京都・祇園祭「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていた

こんにちは京洛先生です。西日本は豪雨被害で、大変ですね。大雨がひいた後、亡くなった人が次々増えて、豪雨の大きさが、よく分かります。

 今回の豪雨被害とは別に、東北、関東では、このところ、震度4、5前後の地震が頻繁に起こっています。何も起こらなければ良いのですが、心配になります。

 過日の大阪北部では大阪市北区、高槻、枚方などで、震度6弱の大きな揺れがあり、通勤客の足に大きな影響が出ました。大都市圏での直下型地震でこの程度の被害でよく済んだとも言えます。

 東日本大震災以降、日本全体が天変地異に、いつ襲われても可笑しくないような感じもしてきています。

 来年は「平成」から新元号に移りますが、時代の変わり目は、いつも、あれこれありますからね。

 貞観年間の9世紀から始まった「祇園御霊会」こと「祇園祭」は、疫病、大災害から、民衆、国家安泰を祈願することが起源ですが、今年は、平成の最後の「祇園祭」になります。

 昨日12日は「前祭(17日巡行)」の鉾建てが終わり、曳きぞめがありました。

 添付の写真は鉾建てが終わった、長刀鉾、函谷鉾、菊水鉾の様子です。ご承知のように、”動く美術館”と言われ、山鉾の豪華な「胴掛け」が注目されますが、昨日は、万一に備え、雨除けのビニールが被せられていましたが、10日から始まった、鉾建ては、無事終わったわけです。(いずれも菊水鉾)

 そんな折、12日付の「京都新聞」夕刊に記事が載りました。同紙のホームページにも出ていますので、ご確認されれば分かります。 「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていたという事です。

 この胴掛けは、円山応挙の作で「保昌山保存会」も気がつかなかった、という事で、さっそく、訂正するという事です。

 指摘した人は東京在住の「祇園祭」の熱心な研究家と言うかフアンですが、出版物、文書などをよく調べていて、京都市に問い合わせて分かったという事です。

 なんでもそうですが、注目を浴びたり、有名にになると、世間の目は厳しくなるものですね。

以上

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【追記】7月12日付「京都新聞」夕刊記事は以下の通りです。

祇園祭前祭(さきまつり)の保昌(ほうしょう)山(京都市下京区東洞院通松原上ル)が所有する胴掛2点の名称や説明が長年誤っていたことが12日までに分かった。画題となっている2人の伝説的な人物を取り違えていた。胴掛は江戸時代の絵師円山応挙が下絵を手がけた名品で、今夏の会所飾りでは約1世紀ぶりに説明を変更する。

 保昌山の胴掛は中国由来の人物「張騫(ちょうけん)」「巨霊人(きょれいじん)」と神秘的な動物「虎」「鳳凰(ほうおう)」を主題としている。裏地には、1773年を示す「安永二年六月」の年号と、応挙を意味する「円山主水」の墨書があることで知られる。

 これまで保昌山保存会では2点の胴掛の名称をそれぞれ「虎に張騫」と「鳳凰に巨霊人」としていた。だが、2010年、胴掛を指定文化財とする際の市の調査で、1875(明治8)年の京都府庁文書や、91(同24)年の国の文書には「鳳凰に張騫」「虎に巨霊人」などとする記述があることが判明。100年前後にわたって人物を取り違え、言い伝えが誤っていたことが分かった。

 しかし、このときは正しい理解が住民には広まらず、誤解は解けなかった。今年、東京の出版社が発行した祇園祭に関する本を住民が見た際、胴掛の説明が従来の内容と異なることに気づいた。この住民が市文化財保護課に問い合わせ、取り違えていたことが認識された。

 このため保昌山は、同課に正しい案内文の作成を依頼。13日午後の会所飾りから名称を「張騫鳳凰図」「巨霊人虎図」と説明を変更する。保存会の岩田脩理事(68)は「先人たちから聞いていたのと全く逆で当初は素直に受け止められなかった。今後正しい理解が浸透するのをゆっくりと待ちたい」と話す。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。

我が青春の、いや少年のひばりが丘

広島、岡山、愛媛など西日本を襲った記録的な豪雨で甚大な被害を及ぼし、200人以上の方が亡くなったり、行方不明になったりする大災害だったようで、心を痛めております。ご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにはお見舞い申し上げます。

そんなことも知らずに週末は、東京都下のひばりが丘で、中学時代の友人A君と痛飲してしまいました。ひばりが丘は、西東京市(かつての田無市)と東久留米市と埼玉県新座市が複雑に入り組んだ所で、昭和34年に大規模な公団「ひばりケ丘団地」が出来たことから、西武線の駅が「田無町」から「ひばりヶ丘」に変更されたそうです。ひばりヶ丘団地には、文芸評論家の秋山駿(1930~2013)が長らく住んでいましたね。

急行が止まり、池袋からわずか15分という便利な穴場です。

ひばりが丘で有名なのは「自由学園」(東久留米市学園町)でしょう。昭和9年に目白から移転してきました。小学校の同級生のGさんもここに転校しました。

もう一つはファミレスの「スカイラーク」。ひばりヶ丘団地の商店街で「食料品店」として創業したことから、ひばりのスカイラークから命名したとか。

ひばりヶ丘「はせがわ」=50年以上やってる酒屋さんが居酒屋を

で、私の場合、中学時代の思い出の地なのです。悪友のB君と、駅前のボウリング場の2階のビリヤードに入り浸って、遊んでいました。私の中学時代は、まるでジェットコースターに乗っている感じでした。神童だった私は(まさかあ=笑)1年生の時は学年トップでしたが、B君のような悪友と付き合ったお蔭で、成績は急降下。おまけに、B君らと藪の中で、タバコを吹いている(吸うことを知らず)のを警察官に見つかり、補導されたこともありました。悪ガキだったですねえ。

中学時代は今思い出しても恥ずかしい。頭の中に蜘蛛の巣が張ったような感じで、将来像が全く描けなくなり、金縛りのような状態でした。勉強や宿題はほったらかしで、悪いことばかりして、よく、わけもなくひばりが丘を彷徨しました。

でも、それは半世紀も昔の話なんですよね。そのせいか、何年ぶりかか何十年ぶりかに行ってみたひばりが丘は、すっかり変わり果てていました。北口が再開発され、よく行っていた正育堂書店はなくなり、地下の喫茶店「杉」もありませんでした。

B君と入り浸った駅前のボウリング場はとっくになくなっていました。よく、レコードを買いに行った「ひばり堂」は倒産して、居酒屋になっていました。50年前のお店は、今はほとんど残っていませんでした。悲しいもんです。

兵どもが夢のあと…

ひばりヶ丘「ばんべーる」A君は右端に写ってます。

で、A君が連れてってくれたお店は、パルコの裏手筋にある彼がよく行く立ち飲みの居酒屋で、座る席もありました。ポテトサラダが300円。お酒も一合400円ぐらいの安い気軽なお店です。都心から離れるとこんなに安いのです。

A君は、御尊父が東京芸大を出た美術教師で、私やB君とは違って、中学時代は真面目な秀才でしたから、当時の学区の中の最難関の都立国立高校に進学し、有名私大を出て出版社に入り、今は、独立して出版社の社長を務めています。

その後、不良のB君とは音信不通となり、今は生きているのか、何をしているのか分かりませんが、恐らく、真面目な社会人として勤め上げたことでしょう。中学時代の不良は、大抵、更生してすぐ結婚して家庭をつくってましたから(笑)。小学校時代に一番仲が良かったC君も中学で警察沙汰になるほどグレてましたが、高校卒業して警察官になってました。

魚魚魚みたいな字を書いた居酒屋でした(笑)ここも安い!

その点、A君のようなインテリは、年を取っても熟成せず、反骨精神旺盛で、麻布高出の官僚のようにお上に逆らい、大酒飲みのインテリやくざですね(笑)。

人生は面白いもんです。歳を取れば、いい学校を出ようが、いい会社に入ろうが、もう関係なくなるものですよ。

その日は、2軒はしごして、地震があったことも分からず、どうやって自宅に帰ったか覚えていません。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」

2018年7月1日付「蔽之館~陸軍中野学校跡巡り」で書きましたインテリジェンス研究所の山本武利理事長ご推薦の参考文献を早速手に入れて読んでみました。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」(けやき出版)です。2011年3月14日初版なので、もう書店には置いてないだろうと思い、あまり好きでないアマゾンで探したところ、やはり中古本でしたが、見つかりました。

送料・手数料込みで2257円です。正直「ちと高いなあ」と思いましたが、どうしても知りたかったことがあったので、背に腹は代えられません(あ、表現が間違いかも?=笑)

3日ほどして、汚い手書きの字で郵便小包が自宅に届きました。「誰だろう?」送り主の名前を見ると「鳥居英晴」とありました。「うーん、どこかで聞いたことがあるなあ」と、思いつつ思い出せません。そのまま、夕食を摂ってくつろいだ後、先程の小包を開けると何と薄っぺらいブックレットが出てきたのです。

注文した本でした。「えーー、こんなんで2000円?」後を見たら、定価が980円(税別)でした。てっきり、浩瀚の専門書だと思っていたので、「やっぱり、ぼられたかなあ」とがっかりしてしまいました。

そして、驚いたことに送り主は、鳥居英晴さん。著者、ご本人だったのです。著者自身が、アマゾンと契約していたんでしょうか?

またまた、前置きが長くなりましたが、著者の名誉のために弁護しますと、中身を読みますと、値段だけの価値がありました。著者は、1949年生まれの元共同通信社記者で、2002年に退社、と略歴にありましたから、定年まで社に残らず、52,3歳で退職してフリーランスになったようです。そりゃ、取材費も出ないので大変だったことでしょう。

で、中身ですが、陸軍の北多摩通信所は、東京市北多摩郡久留米村(現東久留米市)にあったということで、かつて父が勤めていた東久留米市上の原の運輸省航空交通管制本部にあったのかと思いましたら、西武池袋線東久留米駅から小金井街道を南下して西武新宿線花小金井駅に行く途中の前沢を越えた滝山東交差点付近にあったというのです。当時の住所は、久留米村前沢1470番地。今は住宅街になっているようです。

ここに陸軍参謀本部が昭和8年(1933年)10月10日、北多摩通信所を隠密裏に完成させるのです。受信室には、高速度用の短波受信機が5台設置されていたなどと記録されていますが、昭和12年(1937年)7月7日に支那事変(日中戦争)が勃発すると、100人に増強されます。通信手の勤務は、日勤、前夜勤、後夜勤、明けの4交代制で、外国の電波を傍受した信号をいったん紙テープに記録し、それを読み取りながらタイプライターで打つのが任務でした。

通信は暗号ではない普通文のことを「平文」ということをこの書で知りました。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日に当直だった小泉重之(大正11年生まれ)の手記「流転の人生行路に思う」(平成12年)によると、米軍による対日戦争開始命令の電文は、暗号ではない平文だったといいます。

北多摩通信所は昭和18年8月1日、陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称され、松岡隆中佐(関東軍特種情報部)が隊長として着任します。松岡中佐は終戦の日、「傍受という仕事をしていたことが分かると戦犯になる恐れがあり、危ない。所属は明らかにしないこと。東京を離れ、山の中に隠れているように」と指示して姿を消したそうです。

これについて、先程の手記を残した小泉重之通信手は「先程まで所長であった男は臆面もなく我々を放置して早々にその姿を消してしまった。…職業軍人のこの無責任極まる恥さらし行為は誰にも咎められることもなく、旧官舎に居座ったまま生活を続ける図々しさであった」と批判してます。

インパール作戦を断行して兵士が餓死する最中、自分だけは早々と飛行機で逃げ帰った牟田口廉也の例を思い起こさせるものがあります。

戦局が悪化すると、特情部は、東京都杉並区高井戸の老人ホーム「浴風園」に疎開したり、国際電気通信社や逓信省の施設を借りて、兵庫県小野、埼玉県上福岡、同岩槻、北海道北広島、福岡県二日市(現筑紫野市)、千葉県白浜などにも受信所を設置します。

広島の原爆投下については、米軍は事前に予告していたことをこの書で初めて知りました。昭和20年5月、先に紹介した小泉通信手が二世の女性傍受員から「特殊爆弾によって広島を攻撃するから非戦闘員は至急退去せよ」といった警告をVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が放送したことを聞かされるのです。小泉は情報部に報告しますが、当時は原爆の「げ」の字も理解できるわけもなく、徒に混乱を招くばかりだろうから、周知することなく恐らく握りつぶされたのだろうと推測しています。

全体的に読みにくい箇所もありましたが、貴重な資料となる本でした。

私が子どもの頃(小学生から高校生にかけて)、よく行った「外人プール」と呼んでいたプールは、東久留米のすぐ隣の埼玉県新座市西堀の米軍施設大和田通信所内にありました。

私はその水深2メートル近い深いプールで、ガブガブ水を飲みながら、水泳を習得し、プールサイドでは、FEN(極東軍事放送)が流れ、ドアーズやクリームやジミ・ヘンドリックスらの曲を覚えました。よく考えれば、ベトナム戦争真っ只中だったんですね。

この大和田通信所は、もともと大日本帝国海軍の傍受施設だったことがこの本で初めて知りました。

実姉のシンデレラ物語?

「渓流斎日乗」は、個人のブログではありますが、あまり身内のことは恥ずかしいので書きたくないというのが正直なところです。

でも、題材に事欠きますとそんなことを言ってられなくなります(笑)。

昨日、私の実姉が突然、長文をラインで送ってきました。内容は、学生時代に付き合っていた人が急に気になって、ネットで検索したところ、某製薬会社の常務か何か偉くなっているらしく、もし、フェイスブックやツイッターなどに載っていたら、情報を教えてほしい。自分は一切、ソーシャルネット(SNS)はやっていないものでよろしく、といった依頼でした。

どうやら、その方とは、当時はいいところまで行っていたらしく、21歳の誕生日は、東京・西麻布の高級レストラン「P」を貸し切って、友人を集めて誕生会を開いてくれたというのです。

まあ、別に知りたくもない情報でしたが(笑)、姉の要望でもあるので、その人をSNSで調べてみました。私自身、気持ち的には(笑)SNSはほとんど利用していませんが、この「渓流斎日乗」を拡散するためだけに、IT実業家の松長社長の至上命令で、仕方なく嫌いなフェイスブックとツイッターをやっております。主に送信として(笑)。

で、調べてみましたら、その方は、フェイスブックもツイッターもやっていないことが分かりました。でも、会社広報の報道資料が出てきて、それによると、当人は、常務どころか、社長どころか、今年4月には会長にまで出世されていたのです。名前を聞けば、日本人なら誰でも知っている有名な製薬会社のです。

浅草・雷門

姉は別の人と結婚しておりますし、その方とは「別に会うつもりはない」というので安心しましたが、「世が世なら、今頃、会長夫人だったんだあぁぁ…」と変な喜びようです。

そう言えば、思い出すと、姉は子どもの時から妙な幸運に恵まれた人でした。クジ運が良いといいますか、雑誌やラジオ(テレビじゃないでーす)番組などの懸賞に出すと、必ずと言っていいくらいよく当たるのです。

もう半世紀ぐらいの昔の話ですが、何かのラジオ番組で、1万円が当たったことがあります。今の1万円は、銀座に行かなくても、一晩飲んだらすぐなくなってしまうような金額ですが、半世紀前の1万円は、今の10万円近い価値がありました。

今、50年前、1968年の大学卒の初任給を調べたら、3万0600円でした。2018年、大卒一部上場企業の初任給の平均が21万1039円ですから、50年前の1万円は、現在の7~8万円てとこでしょうか。

その当選金の1万円で、家族5人で新宿にあった「中国飯店」(今はないと思います。グルメ王の辻下さんなら御存知かもしれませんが)でお腹いっぱい食事してまだ余り、残りで真冬用の毛布を買ったことを覚えております。

姉は、1万円以外にも、数千円ぐらいの商品もボンボン当たっていました。

あ、付け加えておきますと、彼女の人生最高の「当選」は、今の旦那さんじゃないでしょうか。職業は秘密ですが、都内一等地に一戸建てを持ち、毎年、海外旅行するなど庶民の私から見ると実に羨ましい暮らしを送っていますからね(笑)。

世界最小の双方向性メディア「渓流斎日乗」がお役に立つことができた日

この「渓流斎日乗」は2005年3月15日から13年間、ほぼ毎日書き続けてきたブログですが、(ただし、2008年8月から2015年10月までの7年間の記事は消滅してしまいました)、自分勝手に「世界最小の双方向性メディア」を自称しております。えっ?知らなかったんすか?(笑)

もうこの年になりますと、自分のことより、社会のため、地域のため、周囲のため、皆さんのため、何かお役に立つことをしてから、この世を身まかりたいという気持ちが強くなってくるものです。

もちろん、ブログですから、自分の好奇心が赴くまま、新聞や本を読んだり、歴史散歩したり、名所旧跡を歩いたり、好き勝手なことを書いているだけなのですが、たまに、「同好の士」がいるもので、私が書いたことに共感してくださったりするので、大変嬉しくなります。

築地「千里浜」煮魚ランチ 900円

さて、前置きが長くなりましたが、恐らく、皆さんはあまり、このサイトの右端下の「comment」欄はお読みにならないと思いますが、2017年10月1日に書いた「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」の記事について、今年1月4日付で、三浦宣秀さんという方から「私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、恐らく情報部教育隊(471部隊)に所属し、21歳でハルビンで殉職しましたが、もし御存知なら叔母の消息を知りたい」といった趣旨のコメントをお寄せくださいました。

三浦さんは東北地方にお住まいですが、わざわざ上京され、公文書館や国会図書館などで資料漁り、過日、山本武利・一橋・早大名誉教授が理事長を務めるインテリジェンス研究所主催の諜報ツアーなどで直接面識を得ることができました。

その後、山本和英さんという方から、このブログに、今年6月23日付で、「私の父も471部隊に所属していました。93歳ですが、終戦時のこと、鮮明に記憶しています、三浦様、何らかの情報があるかもしれません」とのコメントをお寄せくださったのです。

このことを私が、三浦氏にお伝えして、山本和英氏にコンタクトを取るようお勧めしたら、このほど、うまくメールで繋がり、三浦氏は、その93歳の山本氏のご尊父と来月、彼がお住まいの中部東海地方でお会いすることになったというのです。そんな嬉しいメールが昨晩、飛び込んできました。

こんな嬉しいことはありませんよね?

まさに、世界最小の双方向性メディア、つまり、仲介役を務めることができたのですから。本当に我が事のように嬉しくなりました。

あとは、三浦氏の叔母さんの消息が少しでも確かめることができたら万々歳です。

最近はネット上でのサイバー攻撃やら、おためごかしや詐欺師の横行でろくなことありませんよね?

ですから、自画自賛かもしれませんが、こんなちっぽけなブログでも、今まで知らなかった皆さんでも、少しでもお役に立てたのではないかと思うと嬉しいのです。いや、こんな嬉しいことはありません。

だから、早速、ブログに書き留めておくつもりです(笑)。

【追記】

先日参加したインテリジェンス研究所主催のツアーのブログが、「NPO法人 インテリジェンス研究所」のホームページに転載されました!(クリックしましたら、HPに飛びます)あら!古い記事まで転載されてます。サイトの下の方です(笑)。

Apple ID奮闘記 一難去ってまた一難

今年6月8日付「やられたあ…Apple ID 乗っ取りか?パニック」、同6月19日付「Apple ID にはまた参った! 犯人が実力行使か?」で書きました通り、偽Apple IDメールとの奮闘、私に言わせれば「格闘」はまだ終わっていませんでした。

あれから、

お客様各位、

あなたのApple IDは、異常な場所からアクセスされているため、ロックされています。ログインの詳細 :

日付: 2018年6月30日
ブラウザ:Safari Browser
オペレーティングシステム: iOS
国:Morocco

24時間以内にこのメッセージが確認されるまで、お客様のアカウントは保護されます。

指定した期限内にこのメッセージを確認しないと、アカウントは永久にロックされます。 確認ボタンを押して、アカウントが完全に安全になるまで提供する手順を完了してください。

検証

Apple サポート。

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Copyright © 2018 Apple Inc.
One Apple Park Way, Cupertino, CA 95014, United States.
すべての権利予約。

といったメールが立て続けに来るようになったのです。

最後の「すべての権利予約」という変な日本語でも分かるように、冷静になれば、偽メールだということが分かります。でも、「検証」をクリックすると、偽のApple ID アカウントのホームページに移動します。

全く瓜二つで、本物と区別できませんが、恐らく偽者サイトでしょう。

あれから、Appleのサポートセンターに連絡したのですが、3週間以上経ってもなしのつぶて。無視、黙殺されました。「48時間以内に折り返し連絡します」というのは大嘘つきで、Appleは酷い会社です。前回は、親身になって応えてくれた、と書きましたが、取り消します。本当に無責任な酷い会社です。

言い過ぎだとしたら、無能な会社と言った方が適切でしょう。なぜなら、普通に、顧客の対応ができないからです。

私自身は、どうしても、この中国語で乗っ取られた気持ち悪いApple IDは削除したいので、またまたITとパソコンに詳しい石田先生に相談したところ、新たなアクセスサイトを紹介してくれました。それは、Apple store にログインするサイトでした。

そこから、IDとパスワードを入れて進入したところ、ついに自分の住所氏名、電話番号、それにクレジットカード番号まで出てきたのです。

実は、古い手帳で確認したところ、この中国語で乗っ取られたApple IDは、かつて、音楽のiTuneをダウンロードした際、自分自身で登録していたことが分かりました。随分昔なので、自分で登録していたことさえも忘れていたのです。

そして、やっとのことで、自分のサイトに到達したところ、住所氏名等は正式でしたが、電話番号は既に解約したものでした(笑)。しかも、大変嬉しいことに、クレジットカードの有効期限が「2011年3月」だったのです。

やはり、7年以上昔に登録していたんですね。

有効期限が切れたクレジットカードなら乱用されずに済みます。これで、一安心です。

本当に疲れました。

悔しいので、このApple IDの住所氏名を架空のものに変え、クレジットカードも出鱈目な番号を登録しました(笑)。

そして、いつか、何とか極悪非道で阿漕なサポートセンターに頼らずに、IDを削除してみようかと思ってます。

もう執念です。またいつか、朗報を皆さまにお伝えしたいと切望しております。

日本、惜敗でベスト16止まり

今朝の明け方は、頑張って起床して、もちろん、ワールドカップ(W杯)サッカー・ロシア大会、決勝トーナメント、日本対ベルギー戦を声を枯らして応援しましたよ。モロ、俄か極右国粋主義者ですね(笑)。

惜敗でした。原口、乾の得点で2-0になったとき、いけると思ったですがね。勿論、このまま、零封にできるわけがなく、2-2の同点になって、引き分けに持ち込んで最後はPK戦で勝つという望みに懸けていたんですが、まさか、アディッショナルタイムで、勝ち越し点を奪われるとは思いませんでした。

大健闘した最年少25歳のセンターバックの昌子(鹿島アントラーズ)が立ち上がることができず、ピッチに土下座するように号泣している姿を見て、こちらも思わずウルッとしてしまいました。

こんなドラマは、どんな優れた脚本家も書けないことでしょう。

土佐の濁酒(どぶろく)先生は「フン、何で日本人までもが、あんな球蹴りに夢中になれるんでしょうかねえ。終わって清々した」と、白け切っておりましたので、「サッカー観戦の楽しみを知らないなんて、人生の楽しみの半分を放棄しているようなもんですよ」と言ってやりました。日本だって、蹴鞠以来の長い伝統があるんです(笑)。

何と言っても、相手のベルギーは世界第3位の強豪。「赤い悪魔」ですからね。悪魔相手に、61位の日本は健闘したと思います。このまま、ベルギーが、次の2回戦でブラジルに勝てば、日本の強さもフロックではないことが証明されることでしょう。

ヤブカンゾウ

ベスト16で終わったとはいえ、ここ数週間、日本中、いや、世界中がワールドカップで盛り上がり、時の最高権力者までもがコメントするぐらいですから、ワールドカップ関連のニュースでいっぱいでした。そのお蔭で、報道されなかったか、影に隠れてしまったニュースも多くあったことでしょう。

トランプ米大統領が仕掛けた貿易戦争の行方が気になります。株が下がってますしね。

富山県の交番で警察官から拳銃を奪って、警官と警備員を殺害した若い犯人の動機が気になります。

あと、落語家の桂歌丸(落語芸術協会長)が2日に亡くなりましたね。享年81。何度か彼の寄席を聴いたことがありましたが、円朝の怪談「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」などですから、お笑いじゃないですよね。テレビのイメージは全くなし。まさに、噺家でした。

大変な勉強家で、一人でハンチング帽を深くかぶって歌舞伎を見に来ていた姿を何度かお見かけしたこともありました。とても痩せていて、かなり小柄な人でした。

歌丸師匠のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

国民はなめられている

 東京の調布先生です。
 ワールドカップ・サッカーの観戦で、皆さん、また寝不足のことでしょう。チャップリンが生きていたら、「サッカー狂時代」とかいうタイトルで、面白い風刺映画をつくっことでしょう。
 「渓流斎日乗」の読者の皆さんのようなインテリさんまで、「サッカー汚染」されるのですから、時の為政者安倍首相は「世の中は、チョロい。チョロいもんだよ」と一昨日は、二代目猿翁の稽古場跡の居酒屋「赤坂 うまや」で「忖度部下」と一緒にニンマリと酒を飲んでいるのです。
 そして、昨晩は、東京・赤坂のイタリア料理店「キッチャーノ」で、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員)、石川一郎(BSジャパン社長)、島田敏男(NHK名古屋放送局長)、粕谷賢之(日本テレビ取締役報道解説委員長)、政治ジャーナリスト田崎史郎(元時事通信)と優雅にも食事しているのです。
 まさか、官房機密費から食事代が出ていないでしょうね。納税者として、曽我、山田、小田、石川、島田、粕谷、田崎の名前は覚えておくことです。特に、国営放送の島田局長は、わざわざ、名古屋から飛んできたんですか。。。国民から視聴料を簒奪している公共放送の幹部が、現場をほっぽり出したりしていいんですかねえ?誰も批判しないので、迂生が指摘しておきます。
 もう一回、まさか、と言いますが、「国民はバカだから新聞を読まない。これで、自民党も安泰、万々歳だ」「ごもっとも、ごもっとも」と茶坊主のような会話を交歓しなかったでしょうね?
 マスコミがスクランブルを組んで、時の最高権力者にこびへつらったのか、為政者が下々の生活を知りたくて昵懇のメディア関係者を呼びつけたのか、どちらか分かりませんが、さぞかし、藤原道長も催したことがないほど和気藹々とした懇親会だったことでしょう。いずれにせよ、国民はなめられているということですよ。
 そういえば、赤坂の居酒屋「うまや」には、昔、貴人と御一緒しませんでしたか? 亡くなった藤間紫さんと市川猿之助(猿翁)の稽古場を改造したお店で、迂生は何度も行きました。

でも、総理大臣が行くには、聊か不釣り合いですよ。若いミーちゃん、ハーちゃんが行って喜ぶような雰囲気です。

 

それから、「昭和シェル」との合併問題で「出光一族」が、賛否で内部対立しているようですね。数年前あった「大塚家具」の親と娘の家族対立みたいな構図です。創業者の出光佐三も、泉下で泣いていると思いますよ。それに、「村上ファンド」やインチキ弁護士、コンサルタント屋、周旋屋なども入り込み、内実は漫画みたいな展開になっていると思います。取材するには面白いと思います。

追河探訪記者がワクワクする素材です(笑)。