オートルマンって何のことですか?

 2月16日、北極圏にある刑務所で、プーチン政権によって殺害されたのではないかとされているロシアの反体制指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏(行年47歳)。日本のマスコミでは、「ナワリヌイ」と表記されますが、英字紙では Alexei Navalny と表記されています。このまま日本語に置き換えればアレクセイ・ナヴァルニイとなります。ナワリヌイとは読めません。ロシア語では Алексе́й Анато́льевич Нава́льныйと表記され、アレクセイ・ナヴァリヌイと読むらしいので、これが一番正しいのかもしれませんが。

 国際語になっている英語は、あくまでも独自路線を貫いているということなのでしょう。地名にしても、オーストリアのウィーンは、「ヴィエナ」と言うし、イタリアのヴェネツィアは「ベニス」と発音したりしますからね。

新富町「躍金楼」(明治6年創業)天ぷら膳(五点盛)1320円 本文と全く関係ないやないけ!

 何でこんな話をするのかと言いますと、先日、久しぶりに婿殿に会った時、驚く体験をしたからです。婿殿は米国人です。その彼が急に「オートルマンは知ってますよね」と言うではありませんか。えっ? オートルマン? 聞いたことないなあ~ 「知らないなあ」と応えると、彼は「えっ?日本人なら誰でも知ってますよ。そりゃあ、おかしい」と言いながら、スマホを取り出して、そのオートルマンというものの画像を私に見せたのです。

 なあ~んだ。ウルトラマンじゃないか! 「オートルマンじゃないよ。ウルトラマン。オートルマンじゃ、日本人に通じないよ」と諭しましたが、彼はあくまでも、「いや、違う。絶対にオートルマンだ」と譲らないのです。仕舞いには、「ゴジラ」ではなく、「ガジ~ラ」が正しい、とまで言い出しました。

 これで、私は1970年代に流行ったテレビCMを思い出しました。パナソニックのカラーテレビ「クイントリックス」のCMです。1930年代から「あきれたぼういず」で活躍していた坊屋三郎(1910~2002年)が、相手の外国人タレント、トニー・ダイヤが「クイントリックス」と連呼するのに対して、坊屋が日本語風に発音して、「英語でやってごらんよ。なまってるよ。外人だろ、あんた。発音だめだねえ」と切り返して笑いを誘っていました。坊屋さんは随分お爺さんに見えましたけど、当時まだ61歳だったんですね。

 英語は現地語の発音を超越して自分たちの発音を押し通すように、日本語も同じことをやっています。

 この渓流斎ブログで、以前にも取り上げましたが、第2次世界大戦下の米国の大統領を日本のマスコミは「ルーズベルト」と表記しますが、本来は、つまり、米国では「ローズベルト」Rooseveltと発音します。米下院議長を務めたナンシー・ペロシはペロシではなく、「プロウシイ」Pelosi と発音するので、ペロシと言っても誰のことなのか分かりません。

 もっとも日本では和製英語が氾濫しています。今や事故だけでなく、事件や災害の際に大いに活躍しているドライビング・レコーダーがあります。これはdriving recorder で欧米でも通じるかと思っていましたら、米国では、略してdashcam、もしくは dashboard cameraというんですってね。ドライビング・レコーダーでは通じないのです。

 何か、本日は「ゲーテとは、俺のことかとギョーテ言い」みたいな話になってしまいましたね(笑)。

SNSは環境毒物? それとも諸刃の剣?

 私はどうも正直な性分なもんですから、何でも正直に書いてしまいます(苦笑)。ここ最近、ずーと、「メンタルが不調」だったことも書いてしまっております。その原因は、ブログの設定の問題だったことは既に御承知だと思いますが、もう一つは日々接するニュースにありました。

 今年1月1日の能登半島地震に始まり、もう2年も続いているロシアによるウクライナ侵攻とイスラエルによるガザ市民の虐殺、それに、自民党国会議員の裏金問題や東京・浅草での自分の4歳次女や姉の不可解な殺害事件など、見るにつけ、聞くにつけ、心が押しつぶされて耳を塞ぎたくなるほど落ち込んでしまうニュースが続いているからです。まともな神経な持ち主でしたら、とても耐えられません。

 ですから、ブログぐらい、明るい前向きなことを書きたいと思ってはいても、なかなかそうもいきません。

 このブログは、暗闇の中で孤軍奮闘、暗中模索で書いておりますから、皆さまからコメントを頂きますと本当に嬉しいです。また、自分が恐る恐る書いたことでも、大新聞やテレビ・ラジオなど大手メディアが同じような意見を採り上げてくれたりすると非常に安心したりします。

白梅

 先日も、「SNSは疎外感を増大する」(2月14日付)という記事を恐る恐る書いたのですが、本日(2月20日)付の毎日新聞朝刊のコラム(大治朋子氏の「火論」)で、「SNSは大気汚染やニコチンと同様に『環境毒物』だ」という米ニューヨーク市が14日に発表した提言を取り上げていたのです。同市はSNSが特に若者の健康を損なうとして同日にYouTubeとTikTokなど五つのSNSを運営する企業に対策と損害賠償を求めて訴訟を起こしたといいます。

 米国では2020年までの10年間で、継続的な悲しみや絶望感を訴える未成年は40%増加し、自殺しようとする未成年も36%増え、SNS依存との因果関係が指摘されているといいます。

 やはり、そうでしたか!! ニューヨーク市が「SNSは環境毒物だ」と発表した日と私がブログで「SNSは疎外感を増大する」と書いた日は同じ2月14日だったとは、奇遇を感じてしまいますねえ(笑)。

 勿論、SNSの中には、この《渓流斎日乗》のように役に立つものもあり(爆笑)、一長一短です。使う人によっては利器になったり凶器になったりします。つまり、諸刃の剣です。ですから、未成年の段階ではとてもセーブが効かず、自殺まで考えてしまうことは残念ながら頷けてしまいます。

 でも、SNSはお酒と同じように、これから先、この世からなくなったりしないことでしょう。

 私の提言は、せめて、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んでもらって、いかにSNSは「時間どろぼう」であるか、ということに気づいてもらい、自分自身の実りある人生を取り戻してほしいと願うばかりです。野蛮な口をきけば、「他にやることあるだろう?」てなことですよ。

新生《渓流斎日乗》、タイガーマスクさんのお蔭で復活しました

 本日、ここ1カ月間もの長い、長い間、個人的に苦しめられていましたGoogle アドセンスの申請がやっと出来ました。

 これもこれも、覆面レスラーのタイガーマスクのような篤志家のお蔭です。本当に信じられませんが、最初から最後までボランティアでやって頂きました。覆面レスラーなので、お名前も、どういう方なのかも、このブログでは詳しく書けませんが、仮にお名前はMさんと呼ばせて頂きます。勿論、コンピュータ専門技師で、マイクロソフトなど大手IT企業の大幹部とも顔馴染みのITコンサルタントです。

 私は運が良いのか、天のお導きで、Googleアドセンスのフォーラムで知り合うことが出来ました。大変失礼ながら、ほんの少しだけ変わった方で(本当にごめんなさい)、「私はお助けマンでもレスキュー隊でもありません」と仰ったり、「Googleアドセンスを単なる宣伝目的のお金儲けのためだけの人でしたら、助言するつもりは全くありません」と厳しく仰ったりしました。それでも、私とはこの1カ月近く、フォーラムで90回以上もメールのやり取りをしてくださったのです。

 90通以上もやり取りをした、というのは、細かい専門的な話ですが、プラグインの無効化とか、SiteKitでの申請に際しての、必要なチェックの入れ方とか、レンタルサーバーのセキュリティの問題とか、何度も何度も試行錯誤で試してきたということです。お蔭様で、スクリーンショットの画像の撮影はベテランの域に達しましたが(笑)、それでも、設定がうまくいかなかったということです。

 私もその度に、喜んだり、意気消沈したりし、もうこんな苦しいんだったら、もうブログなんかやめてしまおうと何度思ったか分かりません。

東銀座「ふらいぱん」ハンバーグ定食(珈琲付)1100円

 そしたら、Mさんが、「最後の手段」として、Google MeetというZoomのようなリモートを使って、私のサイトの画面共有して、同時進行で作業を進めて行きましょう、と提案してくださったのです。(Mさんは、Google Meet の方が、Zoomより遥かにセキュリティがしっかりしていると強調されていました!)

 Mさんの御提案に、私は天にも昇る気持ちになりましたが、さすがに、ここまで来たら、ボランティアでやって頂くわけには行きません。そこで、私がそれとなく手数料をお支払いしたい旨を提案したところ、「私のクライアントさんは大企業のビジネスクラスの方が多く、正直申し上げて、コンサルティング料はかなり高額です。個人の方にはその旨をお伝えして、事前に契約書に記入して頂くことになります。」と仰るのです。私は血が凍りつきました。どうやら、このMさんは世界でも5本の指に入る超一流のIT技術者で、世界の大企業から引っ張り凧の有名な方だったようです。当然ながら、超多忙です。

 となると、私のような無名の庶民ではとても払いきれませんので、諦めかけました。ところが、頂いたメールの先をよく読んでみると、「乗り掛かった舟ですから、私の性分で、このまま舟を乗り捨てるわけに行きませんから、続行致します」と仰るではありませんか! 実は、Mさんは私との90回以上のフォーラムとメールでのやり取りの中で、私の個人的事情(私のブログのフォーマットを作成してくれた高校の後輩でIT会社社長の松長哲聖氏が急逝したため、サーバーの引っ越しを余儀なくされ、全く素人の私がイチから、ITの設定に追い込まれているといった事情)を汲んでくださったからだと思われます。

 何よりも、これは自分の勝手な思い込みですが、Mさんがこの《渓流斎日乗》をお読み頂き、もう20年近くも続いているブログがこのまま廃業してしまうのは惜しいと思ってくださったのではないかと想像しております。あくまでも、想像ですが、そうでなければ、ここまで会ったこともない見ず知らずの人間に手を差し伸べたりすること自体があり得ないからです。

 勿論、私は個人的に、Mさんの御厚情と恩義に感謝し、お返ししたいと思っているのですが、Mさんは「それはお気持ちだけ受け取っておきます。」としか述べないのです。こんな奇特な方がこの世に存在し、私のような人間と巡り会うとは奇跡に他ありません。他の人ではこんな幸運に巡り会うことはないと思います。大袈裟な書き方ですが、そうとしか言いようがありません。

 そして、本日、Googleアドセンスの設定をSiteKit ではなく、他の方法で設定して頂いたのですが、何と、わずか数分で終わってしまいました。本当に5分も掛かりませんでした。唖然、呆然ですよ! 今まで苦労したこの1カ月間は一体何だったのか? 僕の青春を返してくれ!といった心境になりました。

 もっとも、私はもう高齢者ですから、青春も何もないのですが、これで、残された人生、ブログを出来る限り、書き続けて行こうという気持ちになりました。これからも、皆様の応援、御支援の程、宜しくお願い申し上げます。

(注=M氏のお言葉は意訳で、本人のお言葉そのものではありません)

斜陽日本は、GDPで世界下位に転落?=いや大したことではありません

銀座「マトリキッチン」日替わり定食1100円

 新聞各紙の昨日(2月15日)の夕刊と本日(16日)の朝刊のトップ記事は「日本GDP 4位に転落」です。内閣府の発表によると、2023年の名目国内生産(GDP)が591兆4820億円で、1967年以来56年ぶりにドイツを下回ったというのです。(私はビートルズ・フリークなので、1967年というと「サージェント・ペッパーズ」の年だと思ってしまいます。)

 私は、クジ運も、商才も、博打運も全くなく(笑)、経済にも疎いのですが、専門家の皆さんは、個人消費の減少が要因で、ドイツも景気低迷しているので円安の影響があるなどと述べていました。でも、識者コメントの中では、16日付毎日新聞朝刊に載っていた小野善康・阪大特任教授の話が素人には、異色で一番分かりやすかったでした。

 小野特任教授によると、いまだに日本は世界でもトップクラスの大金持ちで、GDPが増えなかったのは、日本全体として新しいモノやサービスを必要としておらず、「お金をためておきたい」と考えているからだというのです。ハハ~ン、お金持ちはケチですからねえ(笑)。それに、今やGDPは豊かさを示す指標ではなく、他国と順位を競うことに何ら意味がない。国際順位に一喜一憂するより、国民一人ひとりの生活の質を引き上げることの方が重要だというのです。

 なるほど、実に分かりやすく、ご尤もです。あの「21世紀の資本」の著者トマ・ピケティさんも「GDPはもはや実態にあった経済指標ではない」といった趣旨のことを書いていましたからね。

 2025年にはインドにも抜かれて日本は世界5位に転落するとも言われていますが、小野特任教授が主張する通り、一喜一憂することはないということです。

 そして何よりも、「国民一人ひとりの生活の質を引き上げる」というのは政治家の仕事です。しかし、その今の政治家たちは、裏金づくりに勤しんでいるだけで、国民の生活のことなど一切考えていません。

 そういう政治家を選んだのは国民であり、国民の政治に対する無関心が今の体たらくを生んだといっても過言ではありません。

 今、そのしっぺ返しを喰らっているというのに国会前でデモ運動する市民もなく、哀しいものがあります。

残念!「ブラタモリ」終了

 NHKの人気番組「ブラタモリ」が3月末で終わってしまうんですね。とても、残念です。「目から鱗が落ちる」ような話がふんだんに用意されていて、とてもタメになったからです。

 それでも、番組当初はその存在すら知りませんでした。タモリと女子アナとの掛け合いも見どころですが、初代アシスタントの久保田祐佳さんも2代目の首藤奈知子さんも見たことがありませんでした。番組を見始めたのは、3代目の桑子真帆さんからでした。彼女は頭の回転が速く、最初はとまどっていたのに、どんどん知識を吸収して成長していく様が見ものでした。3~4年間担当していたと思っていましたが、2015年4月からわずか1年しか担当していなかったんですね。ブラタモリといえば、桑子ちゃんというイメージが強かったので意外でした。今では、「クローズアップ現代」を担当するなど看板アナです。

 4代目の近江友里恵さんは16年4月から2年間担当しましたが、一番好感が持てる人でした。天然ボケに見せかけて、裏ではかなり勉強していることが分かりました。でも、そういう人に限ってNHKを退局してしまうんですね。18年4月から担当した5代目の林田理沙さんは東京芸大ピアノ科卒という異色のアナウンサーで博士号まで取得しているところが凄い。門外漢の地学や地球物理学には苦手意識丸出しでしたが、彼女も努力家で凄い成長して惜しまれて降板した感じでした。20年から2年間担当した6代目の浅野里香さんは近江アナより天然ボケで肩肘を張らない物おじしない所が良かった。そして22年から担当している現在の7代目の野口葵衣さんは、場違いな感じがしましたが、気が付かないうちに溶け込んでいったところ凄い。

東銀座

「なあんだ、お前は女子アナしか注目しなかったのか」と言われそうなので、弁解しますが、非常に勉強になりました。岩石のチャートなんて、この番組で初めて知りました。タモリは岩石マニアなので何でも知っていて、講師の案内役を驚かせていましたが、事前にかなり情報を仕入れて彼は台本通りに喋っていたと、性格が悪い私は推測してます(笑)。

それに、道を歩いていて、変に蛇行していたり窪んだりしていると、「ははあん、ここは元々は川が流れていて今は暗渠になってるんだなあ」と推理を働かせるようになりました。

番組は事前の下調べから始まって案内役の選定に至るまで、かなりお金をかけていたことがそのスタッフの多さで分かります。あんな番組、一人しか取材に行かない新聞記者では無理だし、民放でも作れません。スタッフが有り余っている天下のNHKだからこそ作れるのです。

 前回放送された「鎌倉」は、もう、種が尽きたかと思ったら、知らないことばかり。特に、極楽寺は、元寇の頃から作られ、西日本がもし元に占領された時を見込んで、興福寺や那智大社や東大寺の大仏まで模して鎌倉に作っていたとは驚きでした。

また、金沢文庫には、国宝が2万点、世界に一つしかない蔵書も何点もあるということで、歴史を後世に伝えた金沢北条氏と称名寺の影に隠れた貢献には感動しました。

もっと北条氏を再評価していいですよね。

SNSは疎外感を増大する

 ちょっと前にこの渓流斎ブログに書きましたけど、私はFacebookをやめました。Facebookがヒトの個人情報をただで収集して、小賢しく再利用する「広告メディア」だという正体を見破ったことと、性的羞恥心をくすぐるような動画投稿が増えてきたことと、友達の友達のそのまた友達らしき女性からメッセージが送られたりして気持ち悪く感じたりしたのがその主な理由です。

 そう、何よりも「SNSは疎外感を増大する」と確信したからでした。友達が増えて「いいね!」してくれるから万々歳どころの話ではありません。本人は全く意識もなくその気も何もないのですが、高級装飾品を身に付けた写真をアップしたり、京都の豪華・会席料理の写真だったり、高級外国のスポーツ車の写真をアップしたりしていて、そういう写真や動画を見たりすると自分の惨めさが倍増してしまうのです。

 別に、高級車に乗りたいとは思いませんが、大変失礼ながら、今挙げた写真は、「友達」とはいっても特別に緊急に必要とする情報でもありません。私はミヒャエル・エンデの「モモ」が大好きなのですが、SNSとは「時間どろぼう」だと確信したのです。

 今の子どもたちは不幸です。SNSで中傷されて自殺するような子どもたちが世界中に多くいると聞きます。先日(1月31日)FacebookのザッカーバーグCEOも米議会上院の公聴会に呼びつけられて、「SNS上の有害なコンテンツから子どもを守る対策が不十分だ」として謝罪に追い込まれました。

 老人の繰り言に聞こえるかもしれませんけど、「昔は良かった。SNSがなかったからねえ」と低い声でつぶやきたくなります。

 今の世の中で、生きづらさを感じるのはSNSのせいではないでしょうか?

 そしたら、先日、高校時代からの友人のH君(同い年)からメールがあり、「僕はガラケーだし、LINEも旧ツイッターもインスタグラムもフェイスブックもティックトックもやらない。SNSには縁がない。気楽な人生で幸せ者です」と時宜を得たような返信があったのです。別に用件は、SNSの話では全くなかったのに、いつの間にかSNS不要論の話になっていました。

 彼は、今どき、スマホを持たず、ガラケーだとは、アンモナイトの化石のような人生ですけど、彼一流の美学というか、人生観なのでしょう。

 「SNSに縁がないと気楽で幸せ」ーというH君の言葉は、この渓流斎ブログの愛読者の皆さまには是非ともお伝えしたいと思いました。

生きよ、生き延びよ=ブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」を読了しました。

 ブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」(ブルーバックス)をやっと読了しました。素晴らしい名著でした。うーん、でも、どう解釈したらいいのでしょうか?

 人類も宇宙もいずれ消滅、死滅するので絶望的、虚無的になって残りの人生を生きていくしかないのか? それとも、宇宙の死は数十億年後のそのまた数十億年後という先の先の話だから、価値観を反転して、偶然の確率で生まれてきたこの世の生を謳歌して、学問、芸術の創作に励むべきなのか?

 結論を先に言えば、著者のグリーン氏は、後者を薦めていると言って良いでしょう。

 でも、著者はそのままズバリ、平易に語ってくれるわけではありません。「永遠というものはない」と比喩的な言葉を使ったりします。人類の死については、こんな書き方をします。

 恒星であれブラックホールであれ、惑星であれ人間であれ、原子であれ分子であれ、物体はすべて、いずれ必ず崩壊する。…人はみな死ぬということと、人類という種はいずれ絶滅するということ、そして少なくともこの宇宙においては、生命と心はほぼ確実に死に絶えるということは、長い目で見て、物理法則からごく自然に引き出される予測なのである。宇宙の歴史の中で唯一目新しいのは、我々がそれに気づいていることだ。

 うーん、そこまで言われてしまっては、何をしても無駄なことで、虚無的になるしかありませんよね。

 しかし、著者のグリーン氏は、最後の最後に微かながらも光を照らしてくれます。

 冷え切った不毛の宇宙に向かって突き進んでいけば、神の計画(大いなるデザイン)などというものはないのだと認めざるを得なくなる。粒子に目的が与えられているのではない。…ある特定の粒子集団が、考え、感じ、内省する力を獲得し、そうして作り出した主観的な世界の中で、目的を創造できることになったということなのだ。…我々が目を向けるべき唯一の方向は内面に向かう方向である。…それは創造的な表現の核心に向かう旅であり、心に響く物語のふるさとを訪ねる旅でもある。

 うーん、難しい言葉ですが、エントロピーが増大し、宇宙も立ち行かなくなって終焉することは、特定粒子集団が編み出した理論物理学が説くところで変えようもありません。それを知ってしまったということは、人類にとって悲劇なのか、喜劇なのか? まあ、とにかく、「生きろ」「生き延びよ」という励ましの言葉として私は受け止めることにします。

指揮者という才能の凄さ=小澤征爾さん逝去

 昨日は「ブログ廃業を考えています」と書いてしまいましたが、目下、「Googleアドセンス」の設定で大変お世話になっているMさんからの御支援と励ましもあり、もう少し頑張ろうという気になりました。それに、この渓流斎ブログがなくなれば、飛び上がって喜ぶ人間が、約5人この世に存在しておりますから、盗み見してる彼らがいる限り負けられません!(苦笑)。

 さて、世界的指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。行年88歳。夜の7時のニュースで速報が流れ、新聞各紙を全部読んだわけではありませんが、一面と社会面展開の超VIP扱いです。彼の音楽的業績は散々書かれていますから、私は、小澤征爾という人は「近現代史の申し子」だと思っていることを先に書きます。(個人的ながら、私は記者会見ですが、小澤征爾さんにお会いしたことが何度かあります。)

 よく知られていますように、彼の父は、満洲国協和会の設立者の一人、王仁澤こと小澤開策です。小澤開策は、満洲事変の際の関東軍高級参謀で、後に関東軍参謀長、参謀副長等を務めた板垣征四郎と石原莞爾から1字ずつ取って、奉天(現瀋陽)で生まれた子息に「征爾」と命名しました。(松岡將著「松岡二十世とその時代」)

 満洲国協和会というのは、多民族国家だった満洲国における五族協和の実現を目的とした官民一体の団体でした。官というのは主に関東軍のことで、小澤開策は民間人で歯科医でした。

 満洲事変が1931年(昭和6年)、五・一五事件が翌年の32年(昭和7年)、小澤征爾が生まれたのが35年(昭和10年)です(同年、満洲生まれに漫画家の赤塚不二夫らがいます)。二・二六事件が36年(昭和11年)、真珠湾攻撃が41年(昭和16年)、ソ連による満洲侵攻(シベリア抑留)と日本の敗戦が45年(昭和20年)という日本の歴史上最大の激動期でした。

 小澤征爾さんは、敗戦時10歳で、敗戦で何もなくなった日本の復興期に、日本を飛び出して世界に飛躍し、1959年にブザンソン国際指揮者コンクールに第1位に輝いて、世界的指揮者の地位を築き挙げた人でした。当初、「日本人に西洋音楽が分かるわけがない」と観客から冷ややかな目で見られていましたが、次第にその実力が評価され、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場などの音楽監督を歴任しました。

 私のお気に入りは、写真に掲げましたが、ボストン響によるマーラーの「交響曲第4番」と、サイトウ・キネン・オーケストラによるブラームスの「交響曲第1番」です。

◇指揮者の凄さ

 若い頃の私は、指揮者というのが何が凄いのかさっぱり分かっていませんでした。自分で何も楽器を演奏せず、ただ棒を振っていて、指図しているだけで、何がそんなに偉いのか(笑)、分かりませんでした。でも、色んな指揮者による演奏を聴いて、同じ音楽なのに、全く違うことが分かるようになりました。下世話な書き方しか書けませんけど、カール・ベームはゆっくりと大らかな演奏なので、通好み。カラヤンは驚くほど疾走した演奏で、クラシックファン以外にも魅了できる大衆好み、といった感じです。

 指揮者の何が凄いかと言いますと、これは私の管見に過ぎませんが、ソシュールの言語学に、通時的(ディアクロニック)と共時的(サンクロニック)という専門用語が出て来ます。これはどういう意味なのか、御自分で勉強して頂きまして(笑)、ここでは、乱暴に、通時的=横の流れ、共時的=縦の関係としておきます。例えば、クラッシック音楽の楽譜のスコアを思い浮かべてみてください。そこには、上から第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ…コントラバス、…フルートなど縦に楽器ごとに音符が並んでいます。それぞれの演奏者はその音符を横の流れ(通時的)で演奏することによって、音が奏でられていきます。しかし、指揮者は、通時的だけではいけません。各パートの演奏が縦の関係(共時的)に合っているかどうか、瞬時に確認しなければ、作曲家の音楽を再現できないということになります。

 ティンパニーが0.1秒でも遅れては駄目なのです。指揮者という化け物のような(比喩が悪くて済みません)音感の才能を持った一人の人間が、通時的、共時的に一瞬、一瞬の音の整合性を判断しながら、「時間芸術」を組み立てていくという作業を行うということですから、並大抵のことではありません。

 私が指揮者が凄いと初めて思い知ったのは、このような自分自身で勝手に作り上げた観念によるものでした。

 

映像は古びてしまうが、音楽は古びない

 えっ!? 昨日のこの渓流斎ブログのアクセス(閲覧)数が、わずか「167」だったとは驚きました。一時期、一日当たり2000近いアクセスがあったというのにどうしたことでしょうか?

 皆さま、お気づきのこととは存知ますが、この渓流斎ブログの広告がなくなっております。実は、これは一時的なお話で、今、悪戦苦闘しています「Googleアドセンス」の設定問題が解決すれば、そのうちまた広告がくっついてくると思います。というのも、このブログは一応、プロとして記事を配信しておりますので、どうしても広告収入に頼らざるを得ないからです。もし、有料会員制にしたとしても、こんなアクセス数が167ぽっちでは、存続できないことでしょう(苦笑)。

 ビジネスとして成り立たなければ、ブログ廃業するしかないかなあ、とも考えております。

銀座「Hooters」フーターズ・バーガー1200円

 さて、昨日は凄いことを発見しました(笑)。

 1968年にフランソワーズ・アルディの唄で世界的にヒットした「さよならを教えて」”Comment te dire adieu”(歌詞はセルジュ・ゲンズブール)という曲があります。私はこの曲が大好きなので、この曲がタイトルにもなっているCDアルバムをたまに聴きます。

 でも、今の時代は、何でもYouTubeを始めとした「動画」の時代です。先日、この曲を検索して見てみました。白黒のせいかもしれませんが、かなり古色蒼然としてしまっていました。ファッションも1960年~70年代に大流行したラッパのパンタロンですから、尚更です。仕方ないですよね。今から半世紀以上昔なのですから。古びてしまったと感じても本当に仕方ないことでしょう。

 しかしです。昨晩、久しぶりに、このフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」をCDで聴いてみたのです。そしたら、吃驚です。実に新鮮な音楽に聞こえてきたのです。さすが、ラップ全盛の現代ポップスの流行歌には入りませんけど、少なくとも、「古びた」とは全然感じられないのです。斬新に感じたのです。

 そこで発見しました。目から情報が入ってくる映像や舞台芸術やファッションやお化粧や髪型などは、古びてしまいますが、耳から入ってくる音声や音楽は古びないのではないか、ということです。

 何かの本に、「人間が最後に残る記憶は、耳に残った音だ」と書いてあったことを覚えています。その著者もタイトルも忘れてしまいましたが、確かに、私もそう思います。

 私が若かった頃は、インターネットも動画もありませんでしたから、音楽はほとんどラジオか、レコードでした。レコードのジャケット写真などを見てアーティストの名前と担当楽器を知って、唄って演奏する姿は想像するしかありませんでした。

 でも、それだけ音楽にはパワー(力強さ)がありました。今の若い世代は、音楽は動画で楽しむのが当たり前なのでしょうが、旧い世代の私は、「音」だけでも十分です。余計なものがそぎ落とされていますから、音に集中することも出来ます。だからこそ、映像がない「さよならを教えて」を久しぶりにCDで聴いた時、新鮮さを感じたのではないかと思っています。

時間の終わりに考える

 ゲイリー・オールドマン主演(第90回アカデミー賞受賞)の映画「ウィンストン・チャーチル」(2017年公開)をDVDで観ました。あのふてぶてしいチャーチルが普通の人のように癇癪を起こしたり、泣いたり、喚いたり、何よりも、迷いに迷って、くよくよと悩んだりしている姿が描かれていたので大変驚きました。ま、映画ですから、事実とは違うかもしれませんが。

 この映画の最後にチャーチルの言葉が流れていました。その中で、ハッとして目を見開いて読んだ言葉があります。

 「成功も失敗も終わりではない。肝心なことは続ける勇気だ」

 最近、このブログで散々書かさせて頂いておりますが、目下、ブログにGoogleアドセンスを設定するのに、大変な苦労を重ねております。何度も諦めかけましたが、フォーラム(公開投稿)の場に、大変奇特な方がいらっしゃいまして、ボランティアで貴重な助言をくださるのです。もう70通近くやり取りをしているというのに、問題はいまだに解決しません。そりゃあ、途中で諦めたくなります。そんな時に、このチャーチルの言葉が飛び込んできたのです。

 「成功も失敗も終わりではない。肝心なことは続ける勇気だ」

 うーん、もう少し、続けて頑張ってみます。

ラフレシア(国立科学博物館)

 さて、相変わらず、ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」(ブルーバックス)を読んでいます。もう少ししたら、読了しますが、恐らく、また元に戻って再読すると思います。1回読んだだけではとても頭に入って来ません。お経や聖書のように何度も読むようにつくられ、書かれている本だと思います。

 引用したいことは沢山あります。例えば、人間は、映画やドラマ、小説やファンタジーに至るまで、ありもしない虚構の世界の物語に夢中になってしまうものです。それについて、著者のグリーン氏は、古代から人類は神話を含めて、さまざまな物語をつくってきましたが、それは「我々の心が現実世界のリハーサルをするために使っている特殊な方法なのかもしれない」と述べています。

 この本は、理論物理学者が著した宇宙論ではありますが、専門の量子論や物理学、生物学、進化論、脳生理学だけでなく、哲学、文学、心理学、言語学、文化人類学、それに、音楽、美術、芸術論に至るまで、まるで百科事典のような知識が織り込まれています。

 著者の博覧強記ぶりにはただただ圧倒されます。科学者なのに(なのに、なんて言ってはいけませんね!)、ゴッホやオキーフを観ているし、グレン・グールドも知っている。バッハの「ミサ曲ロ短調」もベートーヴェンの「交響曲第9番」も何度も登場します。科学書だけでなく、デカルトやバートランド・ラッセルなどの哲学、ジョージ・バーナード・ショー、それにヒンズー教の聖典「ヴェーダ」まで熟読しています。

 何故、人類はこのように学問や芸術作品を残そうとするのか? 著者のグリーン氏は、米国の文化人類学者アーネスト・ベッカーの著作「死の拒絶」(今防人訳、平凡社)を引用して、「文化が進化したのは、人の気持ちを挫きかねない死の意識を緩和させるためだ」などと主張したりしています。

 人間は死すべきことを知ってしまったから、その死の恐怖から逃れるために、小説や彫刻や音楽や建築物や書籍等を残そうとするという考えは、納得してしまいますね。

 しかし、そんな文化や文明はいつか消滅してしまいます。残念ながら、人類が絶滅することは科学的真実で、人類どころか、地球も、太陽系も、そして宇宙まで真っ暗闇のブラックホールに飲み込まれてしまう、というのが最先端科学が打ち立てた理論です。それは10の102乗年後といいますから、もう悩むに値しませんね。中国の「列士」に「杞憂」(取り越し苦労)の話が出てきますが、杞憂は実は取り越し苦労でも何でもなく、科学的真実になってしまいます。

 この話で終わってしまっては、身もふたもない絶望的になってしまいますので、少し追加します。著者はこんなことを書いています。

 脳は、絶えずエネルギーを必要とするので、そのエネルギーを、飲んだり、食べたり、息をしたりして脳に供給している。脳はさまざまな物理化学的プロセスによって、粒子配置を変化させて環境に熱を排出する。脳が環境に排出する熱は、脳の内部のメカニズムによって生み出したり吸収されたりしたエントロピーを外の世界に運び去る。その後、機能を果たせば着実に増えていくエントロピーを排出できなくなった脳は、いずれ機能を停止する。停止した脳は、もはや思考しない脳だ。

うーん、思考しない脳とはどういうことなんでしょう? 生物ではあっても、思考しないということであれば、人類が滅亡する前に、思考しない脳が出現するということなのでしょうか?

まあ、いずれ、いつか、そんな疑問の思考さえもなくなるということなのでしょう。それは十分に予測できます。結局、救済論にはなりませんでしたが。