銀座、ちょっと気になるスポット(7)=行列店

 「銀座、ちょっと気になるスポット」と題して連載してきましたが、もうネタが尽きた感じになってきてしまいました(笑)。

東銀座・喫茶「YOU」

 これまで、ほとんど名所旧跡ばかり取り上げてきたので、今回は、初めて、飲食店にすることにしました。名店とか、穴場とかいった店ではなく、とにかく、行列が並んでいる人気店ということで、3店だけご紹介しようと思います。

 別に店を選ぶ特段の基準はありません。ただ、「並んでいる店」というだけなので、宣伝ではありません「笑)。

銀座・喫茶「YOU」

 最初に取り上げるのが、歌舞伎座の横と言いますか、南側にある「YOU」という喫茶店です。ふんわりしたオムライスが有名で、恐らく、雑誌やテレビで大きく取り上げられ、評判が評判を呼んだ店だと思われます。

 私は、6,7年前に一度入ったことがありますが、当時は、ここまで人が並ぶようなことはありませんでした。私も雑誌を見て、オムライスに挑戦したのです。

 ふんわりしたオムライスの卵は、雑誌に載っていた写真通りでした。そのまま食べようとしたら、お隣りの大変親切な御姐さんが「いや、卵はまず、ナイフで上から半分に切って、その切れ目を引っ繰り返して食べるんですよ」と「作法」を教えてくれました。

 いやあ、胃袋に入ったら同じですから、別にそのまま齧りついてもよかったんですが、おあ姐さんが、あまりにも熱心に薦めるので、そうして食した記憶があります。

東銀座・ラーメン「八五」

 次の店は、ラーメン店です。「八五」という名前です。「銀座で最高峰のラーメン」ということで、いつも行列です。私の場合、昼休みは午後12時半からにしているのですが、この店の前に到着する12時40分頃ともなると、最低でも15人は並んでいます。(多いと30人の時も)カウンター6席しかないらしいので、しょうがないですね(行列は写真に写っていません)。

 並んでいては昼休みが終わってしまうので、私はこの店では一度も食したことはありません。この店が出来たのは多分5,6年前ぐらいで、10年も経っていないと思います。

 特製醤油スープ、チャーシュー入りの特製中華そば(1400円)が一番人気のようですが、ネットの感想文も「べた褒め」ばかりです。時間的に余裕がある方でしたら、挑戦してみる価値があるかもしれません。

東銀座・炭火焼き干物食堂「越後屋八十吉」

 3軒目は、また歌舞伎座の横の通りを歩いて、晴海通りに出て、晴海方面に少し行ったところにある炭火焼き干物食堂「越後屋八十吉」です。

 ここは、数年前に何度か行ったことがありますが、以前は行列になるほどではありませんでした。焼き魚定食で1000円以内のものもあり、値段が手頃ということで人気になったのか? ーでも、恐らく、雑誌やテレビで取り上げられたからでしょう。

 テレビや雑誌は影響力絶大ですからね。ちなみに、この渓流斎ブログは影響力なしですが、もしかして、このブログを見て、「一度行ってみよう」という奇特な方もいらっしゃるかもしれません。でも、忠告しておきます。少なくとも1時間は並びまっせえ。

 

 

そして誰もいなくなった

  最近の政局を眺めるにつけ、話題は不統一協会のことばかりです。そこで、「双六(すごろく)言葉遊び」をー。

北海道 ファーム富田 Copyright par Tamano Y

 不統一協会 ⇒国政選挙応援、集票マシーン ⇒タレント候補も当選 ⇒地味党圧勝、政権運営 ⇒協会寄りの見返り政策立案 ⇒教育勅語と讒謗律を復活 ⇒集団結婚式と少数派排除 ⇒先祖の祟り ⇒高額印鑑、骨壺販売容認 ⇒洗脳献金 ⇒党費と選挙費用丸抱え ⇒集票選挙参謀 ⇒地味党圧勝、政権運営  ⇒協会寄りの見返り政策立案 ⇒組織名称変更と宗教法人を断然認可 ⇒献金破産と家庭崩壊 ⇒三代に渡る協会功労者の国葬開催へ ⇒「やらなきゃ馬鹿だ」とお二階さん ⇒内閣改造で不統一協会関係者多数入閣 ⇒内閣支持率低下 ⇒首相、コロナ感染もテレワーク ⇒不統一協会、被害者顔 ⇒協会と地味党はズブズブの関係 ⇒表裏一体 ⇒不統一協会機関紙、野党議員にも謝礼取材 ⇒政界全体汚染 ⇒国民の政治離れ ⇒「支持政党なし」が激増 ⇒そして誰もいなくなった

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

銀座、ちょっと気になるスポット(6)=新橋停車場跡と幻の凱旋門

 銀座、と銘打ちながら、またまた銀座からちょっと離れた新橋のスポットです。でも、私の銀座にある会社から歩いていける距離にありますからいいじゃないですか(笑)。

旧新橋停車場 開業150年

 明治5年に開業した新橋停車場跡です。昔はこんな立派な「復元建物」はなかったのですが、2003年に、こんな豪勢な駅舎が「復活」しました。

 明治にこの新橋停車場が開業したお蔭で、銀座への表玄関となり、横浜居留の外国人たちも次々と「文明開化」のシンボル・銀座に繰り出したということですから、ここも「気になる銀座のスポット」として十分通用することでしょう。

 不勉強な私は、40歳ぐらいまで日本最初の鉄道駅である新橋駅は、今のJR新橋駅だとばかり思っていたのですが、明治の新橋駅はそこから東へ650メートル程離れた、地名で言うと汐留にありました。今の汐留は、日本テレビや電通や共同通信などのマスコミの豪奢な高層ビルが林立しています。(電通本社ビルは3000億円で不動産会社に売却されたようですが)

新橋停車場 開業150年

 今年は、ちょうど鉄道開業150年ということで、この駅舎の跡に出来た「旧新橋停車場」内の「鉄道歴史展示室」で企画展が開催されています。主催は東日本鉄道文化財団ですから、JR東日本関連の建造物だったということが分かりました。

新橋停車場 開業150年

 何と言っても、驚くべきことは、日本最初の鉄道である新橋~横浜間(約29キロ)が開通したのは明治5年9月という事実です。明治維新からたった5年しか経っていないじゃありませんか! 欧米列強からの植民地化がよっぽど脅威だったのか、日本は「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」をスローガンに、次々と西洋文明を取り入れます。

 この幕末~維新を経て、明治の時代に生きた人たちは余程バイタリティーがあったのか、「失われた30年」の現代人とは異質にさえ感じてしまいます。

 さて、この旧新橋停車場を今回、気になるスポットに選んだのは、またまたですが、「歴史人」9月号「連合艦隊の真実」特集を読んでいたからです。

 この中で、日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が、ロシアとの日本海海戦で大勝利を収め、帰国した際、恐らく、鉄道で横浜からこの新橋停車場に降り立ちます。

 その新橋停車場広場の前に、間口は58尺(約18メートル)、奥行きは26尺(約8メートル)、軒の高さ42尺(約13メートル)。地面から最頂部までの高さは60尺(約18メートル)の「戦役記念陸海軍歓迎凱旋門」が建てられ、東郷大将以下軍人が戦勝パレードをし、大群衆が詰めかけたというのです。

「歴史人」9月号 「連合艦隊の真実」特集の東郷平八郎司令長官 下写真が新橋の凱旋門

 旧新橋停車場は、実は何度も行っていたので、それほど「気になるスポット」ではなかったのですが(笑)、この新橋停車場広場前にあった凱旋門がどこにあったのか、確かめたくて行ってみたのです。何か「記念碑」でもないかどうか、広場があった辺りを探したのですが、見つかりませんでした。停車場内の「鉄道歴史展示室」の受付にいた50歳ぐらいの男性にも聞きましたが、「凱旋門? 分かりませんねえ。知りません。広場の前は、昔は川が流れていたんじゃないでしょうか」と仰るのです。

 江戸切絵図で確かめてみたら、新橋停車場の前の広場の先は、川ではなく、江戸城のお堀がありました。明治になっても堀にはそのまま水が流れていたのでしょう。

 残念ながら、凱旋門跡の記念碑は見つかりませんでしたが、その代わりに、立派な「芝地区旧町名由来」の案内板がありました。

 それによると、江戸城のお堀は、明治には汐留川と呼ばれていたようです。凱旋門のことが何も書かれていないことが残念です。

 凱旋門は新橋だけではなく、日比谷や上野や浅草や麻布といった東京市内のほか、千葉県木更津などにも建てられたようですが、それぞれ史跡として記念碑があるのかどうか、少なくとも私は知りません。

 そう言えば、秋葉原の万世橋停車場前には、日露戦争で殉死した広瀬武夫中佐(「杉野は何処~♪」のあの旅順口攻防の広瀬中佐)の銅像がありましたが、GHQの命令により撤去されたようです。

 新橋の凱旋門も、もし残っていたとしたら、パリの凱旋門のように日本の「観光資源」になっていたのかもしれません。

 でも、凱旋門を残そうものなら、日本の軍国主義復活を危惧するマッカーサーが許しはしなかった、ということだったのでしょう。そう、勘繰りたくなりました。

4回目のワクチンと1カ月遅れの誕生会

 昨日木曜日は、ちぃっと休みを取って、4回目のワクチンを拙宅近くのクリニックで受けて来ました。

 問診票に「1カ月以内に病気になりましたか?」との御下問があったので、正直に「胃腸炎か食当たりになりました」と書いておいたら、女医先生が「もう治りましたか?治ったら、まあいいでしょう」と言いながら、あっという間に終わってしまいました。痛くも痒くもありませんでした(笑)。

 お蔭様で熱も出ませんでしたが、夜寝る頃にちょっと打ったところが腫れている感じで少し痛く、寝返りをうつのをやめておきました。

 1,2回のワクチンがモデルナ、3,4回目はファイザーでしたが、米ファイザー社の社長さんは、4回接種しながら、コロナになったことが新聞の記事に出ていました。ファイザーの社長ですから、恐らく、ファイザーのワクチンだと思われますが、4回も打って罹ってしまうなんて、いやはや、何をか況やです。ファイザー社は大いに儲け過ぎたので、その副反応だったかもしれません(失礼、言い過ぎでした!)

浦和宿「満寿家」 うな重(特上)きも吸いもの、お新香付き 5100円

 せっかく休みを取ったので、夜は、私の1カ月遅れの誕生会を家族が開いてくれました。ちょうど1カ月前の誕生日の頃は胃腸炎か食当たりで、5日間ものたうち回っていたので、延期せざるを得なかったのでした。

 場所は、中山道浦和宿にある江戸時代から有名な鰻の老舗「満寿家」(明治21年創業)です。ここ数年、すっかり鰻は高騰してしまい高嶺の花です。目の玉が飛び出るほど高かったでした。誕生会は家族が開いてくれましたが、勘定払いは、私の役目です(苦笑)。

 でも、半月前に予約したら、「満寿家」はとてもいい個室を取ってくれました。1階の角部屋で、灯篭のある小さなお庭に囲まれ、どこかの旅館のように雰囲気があります。しかも、トイレまで付いているので、外に出ることなく、まさに家族水入らずで楽しめました。二人の幼い孫も来てくれて、チョロチョロしますから、本当に助かりました。

 ワクチンを打ったばかりなのに、米国人の女婿と一緒にビールや冷酒を呑みながら、先に台湾を訪問して物議を醸したペロシ米下院議長(最初、プロウシと発音するので誰のことかと思ったら、プロウシかプロシが正しいようです。何で日本のマスコミの外信部はペロシと訳したんでしょうかねえ?)の旦那さんの話やシビアな米国政治と、庶民に対する所得税引き上げ(ウクライナ軍事支援金の捻出のためらしく、バイデン大統領の支持率低下の要因になった)の話などで盛り上がりました。

 泊まりのない旅館に来たと思えば、随分安上がりで済んだのではないかと思い直しました。

「レインボーラムネ」、貰っちゃいました

 いやはや、今年は個人的に随分色んな事がありましたが、それでも、何か、ついていますね。「捨てる神あれば、拾う神あり」です。んっ?

 今や、売り切れ店続出中で、とても手に入らないイコマ製菓本舗の幻の「レインボーラムネ」をただで貰っちゃったのです。

 別に不正したわけじゃあ、ありませんよ(笑)。

新橋「奈良まほろば館」 炙り柿の葉寿司ランチ1200円

 昨日のこと、巷ではお盆休みで、閉まっているお店も多く、私もランチをどうしようか、迷っていたのですが、結局、新橋の「奈良まほろば館」に入ることにしました。ここはいわゆる奈良県の物産店で、地元の名産品が買えるほか、食事もできます。

 何度か利用したことがあるのですが、いつもの通り、寿司とそうめんとデザートも付いた「炙り柿の葉寿司セット」(1200円)を頼んだ後、何か物足りなくなり、結局、かき氷も後で注文することにしたのです。いつぞや、夏休みに友人と一緒に奈良を旅行したことがあり、彼の行きつけの柿の葉寿司店に行った後、かき氷も食べたことを思い出したからです。

 今年はロクな夏休みが取れないので、せっかく奈良県物産店に来たなら、「奈良旅行をしたつもり」になりたかったこともありました。

新橋「奈良まほろば館」 かき氷950円

 正直、柿の葉寿司を食した後、大きなかき氷を全部食べ切れるかどうか、それにお腹の方もどうなるか心配でした。そこで、「かき氷のハーフ(半分)」はありますか?と聞いてみたのですが、残念ながら「ありません」ということで、そのまま「プレーン」を頼んでしまいました。

 写真では入道雲のお化けみたいに見えますが、中に小豆のあんこなどが入っております。

 意外にもイケて、結局、全部食べてしまいました(笑)。

 合計2150円です。ランチにしては豪華です。

イコマ製菓本舗さんの幻の「レインボーラムネ」

 そして、会計をしようとすると、「おめでとうございます」ということで、イコマ製菓本舗の「レインボーラムネ」をプレゼントしてくれたのです。

 聴くところによると、1500円以上のお買い物をした方の中で先着順にプレゼントしていたらしいのですが、これが、つまり、私が、最後だというのですよお!

 「レインボーラムネ」のイコマ製菓本舗は奈良県生駒市に本社があるということで、この「奈良まほろば館」も関わりがあるというわけです。

 でも、大人気で、どこもかしこも売り切れ続出。先ほど、ネットで見てみたのですが、やはり、ネット販売も「品切れ中」で、完売しているようです。

 だから、今や「幻」のレインボーラムネと言われているのです。そんな貴重品をただで貰っちゃうなんて、ラッキーですねえ。これもこれも、思い切って、かき氷を注文したお蔭でした。

77回目の終戦記念日に思ふ

 いつも渓流斎ブログを御愛読賜り、誠に有難う御座います。最近、驚くべきことに1日のアクセス数が「3000」台を達成することが多くなっております。普段は1日「300」とか多くても「500」ですので、「どないしたんやあ?」といった心境になります。

 よくよく調べたところ、今年1月17日に配信した「比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=『鎌倉殿の13人』」のアクセスが異様に多いことが分かりました。ということは、NHKの大河ドラマを御覧になっている方が、たまたま暇つぶしに検索したら、私のブログが出てきたということなのでしょう。まあ、「通りすがり」ということで、この異様なアクセス数も一過性だということが分かりました(笑)。

銀座「マトリキッチン」デザート

 昨日は8月15日。77回目の終戦記念日でした。戦後生まれが今や8割を超えるといいますから、ますます戦争体験者が減り、防衛費増強が叫ばれる中、今後の日本はどうなってしまうのか心配です。終戦記念日の昭和20年8月15日から77年経ち待ちましたが、昭和20年から見ると、77年前はちょうど明治維新の年、明治元年(1868年)なんですね。欧米列強に追いつけ追い越せという「富国強兵」策で、日本は、日清、日露、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争と戦争に明け暮れていました。

 この明治から昭和にかけての先人たちについて、後世の安全地帯にいる私が一方的に批判するつもりはありません。むしろ、あの19世紀から20世紀にかけての帝国主義、植民地主義で世界がしのぎを削っている中、日本が植民地化されないための苦肉の策の軍国主義はある程度、致し方なかったと思っています。当時最も尊敬された人物は軍人さんでしたからね。

 ただ、あの時代は「人権」思想がなかったのが問題です。東北の飢饉で娘が身売りされていたのは人身売買であり、いまだに奴隷制度が残存していたことになります。維新で、封建時代を打破できたと思ったら、明治以降は公侯伯子男の爵位のある身分社会が温存され、陸士・海兵を出たエリートだけが優遇される階級社会でしたので、一兵卒などは虫けら同然の扱いです。兵站(ロジスティックス)の概念すらなく、飲食物は「現地調達」にして補給がないので、戦死者の大半は餓死でした。ランチサンドにチョコレートまで付く恵まれた米兵とはえらい違いです。(インパール作戦の司令官牟田口廉也も、それに続くビルマ戦線の司令官木村兵太郎も、「あとは宜しく」と自分たちだけが飛行機に乗って戦場と白骨街道から脱出、いや逃亡しています。併せて16万5000人の戦死者を出したというのに)

 8月15日に終戦にはなりましたが、軍隊は即日解散されたわけではありません。9月2日に米戦艦ミズリー号降伏文書の調印でやっと全面的に武装解除されたと言えます。私の父は大学受験に失敗したため、17歳で志願して帝国陸軍の一兵卒になり、19歳になる2日前の18歳で終戦を迎えましたが、炊事当番だっため、1週間ほど上官の食事を作るために残された、と聞いたことがあります。戦争が終わっても特権階級から奴隷のように使役されたわけです。

新橋「奈良県物産館」 柿の葉寿司ランチ1200円

 大東亜共栄圏の高邁な理念と思想だけは、GHQと東京裁判が断罪するほど酷くはなかったのですが、統治する日本人のエートスが「強い者にはこびへつらい、弱者には虎の威を借りて傲岸不遜に振舞う」では、盟主としての資格は全くありません。迷惑を掛けたアジアの人々に対して反省だけでは足りないと思っています。(現地の人たちは、欧米列強から解放を謳いながら暴力で支配する日本よりもましだと欧米を選んだのです)

 日米開戦からわずか半年で、日本はミッドウェーで大敗し、それからは玉砕に次ぐ玉砕で、挙句の果てには鬼畜と見下していた外国人から歴史上初めて占領・支配される始末です。(開戦時、米国のGNPは日本の12倍もあったという無謀な戦争)日本史上最悪の時代でしたが、日本人は痛い目に遭わなければ分からない民族です。もし、連戦連勝だったら、今でも戦争を続けていたことでしょう。それは、ウクライナに侵攻したロシアを見れば分かります。

◇旅行キャンセルし、夏休み返上

 さて、目下、お盆休みとなり、私も今頃、日蓮宗の総本山身延山にお参りに行っていたところでした。しかし、コロナの第7波の感染が拡大して、感染者数も高止まりし、おまけに、先月7月は個人的に病気をして1週間も会社を休んでしまったことから、旅行はキャンセルしてしまいました。身延山のキャンセルは2年連続2度目です。

 ということで、夏休みは返上して、しっかり、出勤しております。

新橋「奈良県物産館」 かき氷950円

 あ、そう言えば、先日、このブログを読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂いたことを書きました。どうしようか、ずっと考えていたのですが、もう一人の自分は、何も日本人にすることに拘る必要はない。一層のこと、フランス人にしようということで、名前も考えました(笑)。

 François Hautchamp ( フランソワ・オウシャン)です。

 フランソワは、アッシジの聖フランチェスコに由来するらしいですが、フランス人にはよくある名前です。国王や、ラブレー(作家)、ミッテラン、オランド(大統領)もフランソワです。オウシャンは私の造語で、Hautは高い、champ は田んぼという意味です。オウシャンは、マルセル・デュシャンみたいでいいじゃないですか(笑)。

 もう一人の自分、フランソワ・オウシャンはバカロレア試験を控えた1970年代のリセの学生という設定です。これから、サルトル、カミュに加え、ポール・ヴァレリーやレヴィストロース、メルロー・ポンティー、アンリ・ベルクソン、ミシェル・フーコーらを読破しなければ、試験にすら臨めないといった状況です。

 パスカルを例に出さなくとも、人生はどうせ暇つぶしです。好きなことをすれば良いのですが、個人的に、今さら、「呑む、打つ、買う」にのめり込む年齢(とし)ではあるまいし、です。

 1970年代のフランス人の学生フランソワ・オウシャンがもう一人の自分…いいんじゃないでしょうか?!

 

書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」は力作です

 今年6月でもうFacebookのチェックはやめたのですが、大学と会社の先輩でもあった日暮高則氏から出版社を通して、拙宅に本が送られてきました。書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)という本です。

 あれっ? 日暮さんは今年2月25日に「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫)を出版されたばかりで、私も早速購入して、この渓流斎ブログに「感想文」を書いたばかりなのに、もう新刊を発表されたんですか!?

 しかも長編です。相当前から何作か、書き溜めていたのかもしれません。

 文庫本なので2~3日で読めるかと思ったら、結局、読了するのに1週間以上掛かってしまいました。実は、私はこれでも「新選組フリーク」なので、ちゃんと史実に沿っているのかどうか、チェックしながら読んでいたからでした。嫌な性格ですねえ(笑)。

 いくら小説だからといって、あまりにも史実からかけ離れていると荒唐無稽で、興醒めしてしまいます。あの司馬遼太郎は、作品を書くのに、馴染みにしている神保町の高山書店から最低トラック1台分の書籍を購入して、膨大な資料を読み込んで執筆していたと言われていますから、たとえフィクションでも史実にそれほど逸脱しない、あれだけの物語が書けたのだと思います。

 そこで、この「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」はどうでしょう? 永倉新八はあまりにも有名です。物語の主軸になっている京都・遊郭島原の芸妓との間にできた娘探しや、明治24年の大津事件の犯人津田三蔵と永倉新八が出会っていたというのは、作者が長編小説に仕立てるために苦心したフィクションであることは明々白々なので、それらは良しとしましょう。

 永倉新八は松前藩江戸定府取次役の子息として生まれ、神道無念流の剣客に。近藤勇の天然理心流道場「試衛館」の食客になった縁で、新選組では二番組隊長に。あの池田屋事件では近藤勇らとともに正面から斬り込み、すっかり名を上げた剣士…。フムフムその通りです。新選組時代の朋友島田魁は、維新後も生き延びて京都・西本願寺の太鼓楼の寺男になっていた?…うーん、確かに史実はその通りです。藤堂平助は、伊勢藤堂藩主の御落胤だったという異説まできっちりと抑えています。著者は、新選組フリークが驚くほど、かなり細かく調べ尽くしています。

 でも、永倉新八が江戸で近藤勇らと別れた後、芳賀宜道らと幕臣らを集めて組織した隊のことを「靖共隊(せいへいたい)」と80ページに書かれていますが、これは「靖共隊(せいきょうたい」もしくは、「靖兵隊(せいへいたい)」の書き違いでしょう。また、永倉新八ら靖共隊が行軍途中で原田左之助と別行動を取ったのが、「小山付近」(81ページ)となっていますが、これも、「山崎宿(千葉県野田市)」の間違いではないでしょうか。

 あと、二つ、三つ、隊士の死因について、通説とは違うものが散見されましたが、通説を取らなかったということで済むかもしれませんが、194ページに「明治二十九年(一八九六年)は、…この時、日本は日清戦争の真っ最中」と書かれていますが、明らかに勘違いですね。日清戦争は1894~95年で、前年に終わっていますから。

 いやあ、今、校正の仕事もしているので、誤字脱字や事実関係について、つい過敏に反応してしまうのは、「職業病」なのです。意地悪ではないので、2刷になった時に訂正されたら良いと思います。

 というのも、この本は力作なので必ずや増刷されると思うからです。これから読まれる方の楽しみがなくなるので、内容については触れられませんが、元新選組の永倉新八と大津事件の津田三蔵に接点があったなどという発想は、誰にも出来るものではありません。それでいて、もし、老境を迎えた永倉新八が明治24年、その2年前に開通したばかりの鉄道(東海道線)に乗って京都に行き、芸妓小常との間に出来た娘磯を探しに行ったとしたら、その年に起きた大津事件の報道に身近で接していたことになり、もしかして津田三蔵にも会ったかもしれない、と読者に思わせることに成功しています。

 また、大阪堂島の米相場の先物売買についてもかなり調べて描写されています。

 新選組ファンでなくても、複雑な人物関係と物語の構成について、関心すると思います。日暮氏の作家としての力量がこの一冊で証明された、と私は思いました。

 【追記】2022年9月1日

 永倉新八の回想記「新撰組顛末記」(新人物文庫)の181ページに「永倉新八がかねてなじみを重ねていた島原遊郭内亀屋の芸奴小常が、かねて永倉の胤を宿していたがその年の7月6日に一女お磯を産んで…」とあります。また、229ページには「新撰組時代に京都でもうけた娘の磯子にあって親子の対面をする。磯子はそのころ女優となって尾上小亀と名のっていた。」とあります。

 小常も磯も実在人物だったことが分かります。

「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントにまたまた当選してしまいました

 にゃんとまあ、またまた、また、月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 「歴史人」はここ数年、毎月買い続けて、毎月、読者プレゼントに応募しているので、いつだっけ? 何月号のプレゼントが当たったのかなあ、と思ったら、やはり8月号でした。

 しかも、上記写真の通り、「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラスと「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルの二つもです。

 えっ? 何で? 何かの間違いなのでは? いや、確かに間違いなんでしょうけど、開けてしまいましたし…この際、有難く拝受仕り候、ということで、そこんとこ宜しくです。

「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラス

 欲しかった家康公のグラスでは、シーバスリーガルか、ジャック・ダニエルか、奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」を家康公の気分になって、オン・ザ・ロックで飲むつもりです。

 「マイ・ボトル」は世の中に溢れていますが、「マイ・グラス」をお持ちの方はさぞかし少ないでしょう(笑)。

「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトル

 意外にも当選してしまった「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルは、うーん、何にしましょう? こちらなら返品しましょうか? ただし、御社が、返送用段ボールと郵送料を持って頂くという条件付きですよ(笑)。

 もし、こちらも当選品として受け取って良いなら、冷やした麦茶か何かを入れて、会社に持って行くことにしますか。

 そう言えば、私は「歴史人」は毎月購入して、このブログに「感想文」を書き、応募葉書にはいつも、酷い誤字脱字を指摘して、切磋琢磨されるよう叱咤激励しております。もしかしたら、私は「歴史人」の回し者に見られるかもしれませんが、単なる愛読者です。内容が良いので、いつも勉強させて頂いているだけで御座います。

 いずれにせよ、私を選んでいただいたABCアーク社の編集部か広告部か販売部か分かりませんけど、皆様、誠に有難う御座いました!

銀座、ちょっと気になるスポット(3)=木挽町界隈

  「銀座、気になるスポット」と題しながら、前回は有楽町でした。今回も銀座のど真ん中とは言えない、ちょっと外れた東銀座の木挽町界隈を取り上げます。ここは、結構、意外と知られていない史跡があるからです。

 有楽町から南下して晴海方面に向かうと東西を走る大きな幹線道路に当たります。昭和通りです。港区新橋交差点から台東区の三ノ輪駅前までの8キロの道路です。大正12年(1923年)9月の関東大震災で帝都東京は壊滅的な被害を受けたため、当時、内務相兼帝都復興院総裁だった後藤新平の提唱で、幅108メートルの大道路が計画されました。しかし、財界等からの反対もあり、最終的には昭和3年(1928年)(張作霖爆殺事件があった年)に幅44メートルの道路が完成したわけです。

 銀座からこの昭和通りを横切ると、歌舞伎座などがある東銀座になります。そして、この辺りは、江戸時代は木挽町と呼ばれていました。歌舞伎通の方なら御存知でしょうが、木挽町と言えば、芝居小屋の町で、山村座(絵島生島事件で廃座)、河原崎座(後に森田座に吸収合併される)、森田座(休座するも、守田座と改め猿若町から新富町に移転)と三座もありました。

 もっとも、木挽町は、江戸初期に江戸城建設のために多くの木挽き(のこぎり)職人を住まわせたことからその名が由来します。ただ、江戸城の天守は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍がつくりましたが、明暦の大火(1657年)で焼失して以来、天守はつくられませんでした。城の修繕だけになってしまえば、かなりの木挽き職人も失職したのではないかと思われます。

ホテルグランバッハ東京銀座 2021年11月30日開業

 と、ここまでは全部「前触れ」でして、ご紹介したかったスポットは、江戸中後期の老中だった田沼意次邸跡です。今は、「ホテルグランバッハ東京銀座」(2021年11月30日開業)というホテルが聳えだっています。

 このホテルの敷地内に中央区教育委員会による「案内板」がありますが、タイトルは「田沼意次邸跡」ではなく、「狩野画塾跡」となっています。江戸幕府御用絵師である狩野派は四派ありまして、そのうちの木挽町狩野家六代目典信(みちのぶ)が、田沼意次の知遇を得て、ここ田沼邸の西南角に画塾を開いたといいます。つまり、田沼意次は芸術家のパトロンだったということになります。

 田沼意次と言えば、賄賂政治の親玉で悪の権化みたいに歴史の教科書に描かれていますが、幕府の財政改革に踏み切り、株仲間を育成して商工業者から初めて税を徴収するなどの功績もありました。また、前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりした時代でもありました。

 田沼は、後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層によって失脚させられます。老中として改革の先頭に立っていた頃は、神田の上屋敷に住んでおりましたが、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に蟄居したところがこの木挽町の下屋敷でした。

1852年

 田沼意次が晩年を送った下屋敷と狩野画塾があった所から66年後の幕末、今のみゆき通りを挟んだ真向かいに信州松代の真田藩士で兵法学者の佐久間象山の塾がありました。

中央区役所 (新富町)

 中央区教育委員会の案内板によると、塾は20坪程度の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。門下生には、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助、坂本龍馬ら錚々たる顔ぶれです。

土佐藩築地邸跡(現中央区役所)

 ちなみに、龍馬は当時、土佐藩中屋敷を拠点としていました。土佐藩中屋敷は現在、東京都中央区役所になっていますから、距離にして800メートル。佐久間象山塾まで歩いても10分という近い場所にあったわけです。

J-POWER電源開発 

 この佐久間象山塾は現在、何になっているかといいますと、「J-POWER 電源開発」の敷地の一部でした。

 電源開発は知る人ぞ知る会社です。昭和40年(1965年)の九頭竜川ダム汚職事件の舞台になった会社で、石川達三が、この汚職事件や吹原産業事件をモデルにして「金環触」という小説を発表しました。

 この小説は、1975年に山本薩夫監督によって映画化されました。金融王・森脇将光がモデルの石原参吉役が宇野重吉、代議士田中彰治がモデルの神谷直吉役が三國連太郎、藤井崇治・電源開発総裁がモデルの電力開発総裁・財部賢三役が永井智雄、官房長官の黒金泰美がモデルの星野康雄役が仲代達矢、とまさに役者がそろった名作でした。 (お見逃しの方は是非とも御覧ください)

 勿論、あの「金環蝕」の舞台になった電源開発の本社がここにあったとは、つい最近まで気が付きませんでした。佐久間象山先生も吃驚です。