意外に知らなかった史実=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

 「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)を読了しました。

 残念ながら、ちょっと誤植が多い本でしたが、執筆・監修がよくテレビに出演されている著名な河合敦先生ということですから、版を重ねれば修正されると思われます。何しろ、百科事典のような情報量が満載の本ですから、書斎の手近に置いて、時たま参照したいと思うのです。

 昨日も自宅からちょっと離れた紀伊國屋書店に自転車で行ったところ、この本が山積みになって売られていたので、巷では結構、評判を呼んでいることでしょう。是非とも、もう一度、校正・修正してほしいものです。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは三度目です。(2022年11月1日付「維新後、お殿様たちはどうなったの?」、11月4日付「江戸三百藩のはじめとおわり」)。そろそろ、ネタも尽きかけましたが(笑)、最後に感想めいた終わり方にしたいと思います。つまり、意外に知らなかった史実がこの本から読み取ることが出来たのです。

 まず、大名とは何ぞや?ということですが、簡単に言えば、1万石以上の城主のことです。分家筋の支藩には、お城がなく、陣屋だけのところもありますが、それでも、石高は1万石以上が相場です。では、その大名は誰がなれるのか?と言えば、江戸三百藩で一番多いのは、当然のことながら、徳川家の血筋でしょう。江戸と御三家(尾張、紀州、水戸)は徳川家なのですぐ分かりますが、家康が徳川と名乗る前は、松平元康でしたから、松平家の藩もかなりあります。

 一番有名なのが、越前福井藩で、家康の次男結城秀康が松平に改姓して越前に移封されました。幕末には、四賢侯の一人、松平春嶽(慶永)を輩出します。次に有名な藩主は、最後まで新政府軍と戦った会津藩の松平容保でしょう。容保はもともと高須四兄弟の一人で、尾張藩の支藩高須藩(松平尾張家)から養子として入った藩主です。会津藩は、二代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之が、三代将軍家光によって配されたもので、代々松平保科家が継いでいました。

 この他、松平家が藩主になっているのは、山形県の上山藩、福島県の守山藩(水戸藩の支藩)、茨城県の常陸府中藩(水戸支藩)、群馬県の前橋藩(越前支藩)、高崎藩(大河内家)、小幡藩(家康の女婿奥平家)、千葉県の多古藩(久松家)、埼玉県の忍藩(奥平家)、川越藩(松井家)、愛知県の三河吉田家(大河内家)、岐阜県の岩村藩(大給家)、長野県の松本藩(戸田家)、上田藩(藤井家)、三重県の桑名藩(久松家、幕末は高須四兄弟の一人で、会津藩の松平容保の実弟定敬が藩主に)、兵庫県の尼崎藩(桜井家)、愛媛県の伊予松山藩(久松家)と今治藩(同)、西条藩(紀伊支藩)、岡山県の津山藩(越前松平家)、島根県の広瀬藩(越前松平家)、大分県の杵築藩(能見家)など多数あります。

 山形藩、茨城県の結城藩、千葉県の鶴牧藩、和歌山県の新宮藩など水野家の藩主大名が多い。この水野家というのは、家康の生母於大の方の実家で、家康の従兄弟に当たる水野家の武将が大名に封じられていたわけでした。

 こうして、家康の縁戚関係と「徳川四天王」など家臣団の有力者から大名が選ばれていた場合が多かったことが分かります。

 本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が討ち死にしたため、織田家の大名はいないと思っていましたら、おっとどっこい、失礼ながら、しぶとく生き残っていました。山形県の天童藩は、信長の次男信勝の家系、奈良県の芝村藩は、信長の弟有楽斎(長益)の家系、兵庫県の柏原藩は、信長の弟信包の家系が立藩して繋がっています。

 それに比べて、秀吉の豊臣家は、大坂の陣で滅亡させられてしまい、(淀君と秀頼は自害)、江戸になって大名は一人もいません、と思っていたら、秀吉の妻である北政所の兄木下家定が、関ケ原の戦いで東軍で武功を立て、大分県の日出藩を立藩し、幕末まで木下家が藩主として続ていました。木下家の19代当主木下崇俊氏は学習院時代、明仁上皇さまと御学友で、演劇部に所属し、オノ・ヨーコと演劇仲間だったそうです。1934年生まれで、惜しくも今年(2022年)亡くなられたようです。

 長州藩の毛利家は、鎌倉幕府初代政所別当の大江広元を祖とし、薩摩藩の島津家は、鎌倉幕府の御家人島津忠久を祖とすることはよく知られていますが、長崎県の五島藩は、平清盛の異母弟平家盛が祖、宮崎県の高鍋藩は平安時代から筑前国秋月を領した名族秋月氏が祖だということは知る人ぞ知る史実でしょう。

 最後に、私は北海道の帯広に赴任したことがありますので、同じ十勝の池田町というのは大変馴染みがある町です。戦後、葡萄を栽培してワインを町の名産にし、池田町のワイン城は有名になりました。ポップスのドリカムのボーカル吉田美和さんの出身地としても知られています。その池田町は、維新後、北海道開拓に力を入れて「池田農場」を開いた旧鳥取藩の当主・池田仲博や「池田牧場」を開いた鳥取藩の支藩である鹿野藩の池田家から付けられたようです。知らなかったので、へーと思ってしまいました。また、釧路市にも鳥取町がありましたが、これも、明治17~18年に旧鳥取藩士が移住したことから付けられました。これは知っておりました(笑)。

【追記】

 もう知らない方も多いかもしれませんけど、映画「ゴジラ」やドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などに出演された女優の河内桃子(こうち・ももこ、1932~98年、病気のため66歳没)は、三河吉田藩主の大河内松平家の末裔だったんですね。清楚な美人で、やはり、どこか気品と華がある女優さんでした。彼女の御主人のテレビプロデューサー久松定隆氏は、今治藩主の久松松平家の末裔ということで、お似合いの夫婦だったことになります。

見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。

江戸三百藩のはじめとおわり=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

2022年11月1日付渓流斎ブログ「維新後、お殿様たちはどうなったの?=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」」の続きです。

 この本は、百科事典みたいに情報量が非常に多いので読むのに大変時間がかります。それに、お殿様の名前は、岡部長織(ながもと)とか小笠原長行(ながみち)とか、南部利剛(としひさ)とか、難読漢字が多く、振り仮名がないと読めないので、改めて調べ直さなければいけません。

 この本には、残念ながら、かなり誤植が多いのですけど、これまで知らなかったとても参考になる知識がいっぱい詰め込まれております。

 本来、この本は、江戸時代の全国三百藩の大名藩主たちが幕末維新の激動期をくぐり抜けて、その末裔がどうなったのか、というのが趣旨ではありますが、私は勝手ながら、備忘録として、この本で得た知識をテーマごとにまとめてみました。

【歴史上の有名人物を始祖とする藩】

●坂上田村麻呂(平安時代の征夷大将軍)⇒ 一関藩(岩手県)田村家

●那須与一(源平合戦で扇の的を射た)⇒ 大田原藩(栃木県)那須氏ー大田原家

●太田道灌(室町後期、扇谷上杉家家宰、江戸城など築城)⇒ 掛川藩(静岡県)太田家

●足利基氏(足利尊氏四男で関東公方)⇒ 喜連川藩(栃木県)喜連川(足利)家

●酒井忠次(徳川四天王)⇒ 庄内藩16万7000石

●本多忠勝(徳川四天王)⇒ 泉藩2万石(福島県)、大多喜藩2万石(千葉県)、桑名藩11万3000石(三重県)

●榊原康政(徳川四天王)⇒ 舘林藩7万石(群馬県)

●井伊直政(徳川四天王)⇒ 高崎藩8万2000石(群馬県)、彦根藩24万5000石(滋賀県)

●(番外編)三島由紀夫(作家、本名平岡公威)の父方の高祖父が旗本永井尚志⇒ 加納藩(岐阜県)、また、父方の曽祖父が宍戸藩(茨城県)9代藩主松平頼徳(よりのり)で、天狗党鎮圧を失敗し幕府から責任を取らされて切腹。

東上野・もんじゃ・お好み焼き「きんひつかん」

【元々は何藩の江戸屋敷だったの?】

●日本経済新聞社本社(東京・大手町)⇚庄内藩(酒井家)上屋敷

●日刊スポーツ新聞社本社(東京・築地)⇚岡山藩池田家中屋敷、天童藩(山形県)織田家下屋敷

●日本テレビ本社(東京・汐留)⇚仙台伊達藩上屋敷

●小学館(東京・一ツ橋)⇦丹波亀山藩(京都府)松平家上屋敷

●朝日新聞東京本社(東京・築地)⇚国税庁舎⇚館山藩稲葉家上屋敷

●日比谷公会堂(東京・内幸町)⇚盛岡藩南部家上屋敷

●新橋演舞場(東京・東銀座)⇚棚倉藩(福島県)阿部家上屋敷

●東京駅⇚関宿藩(千葉県)久世家上屋敷、吉田藩(愛知県)松平家上屋敷、松本藩松平家上屋

●新宿駅⇦犬山藩(愛知県)成瀬家下屋敷

●椿山荘(東京・目白)⇚山縣有朋邸⇚久留里藩(千葉県)黒田家中屋敷

●東洋大学(東京・白山)⇚大多喜藩松平家中屋敷

●東京大学(東京・本郷)⇚金沢藩前田家上屋敷

●東京ホテルオークラ(東京・虎ノ門)⇚川越藩松平家上屋敷

●アークヒルズ・サントリーホール(東京・赤坂)⇚川越藩松平家中屋敷

●京橋税務署(東京・新富町)⇚歌舞伎新富座⇚膳所藩(滋賀県)本多家上屋敷

銀座

まだあります。

●フランス大使館(東京・南麻布)⇚新庄藩(戸沢家)下屋敷

●韓国大使館(東京・麻布)⇚仙台伊達藩中屋敷

●英国大使館(東京・半蔵門)⇚七戸藩南部家上屋敷、七日市藩(群馬県)前田家上屋敷

●ロシア大使館(東京・飯倉)⇚守山藩(福島県)松平家下屋敷、三春藩(福島県)秋田家下屋敷

●米国大使館(東京・赤坂)⇚牛久藩(茨城県)山口家上屋敷

【変わり種】

●尾張徳川家の19代当主義親(よしちか)は明治19年生まれだが、、マレー半島での虎狩りで見事仕留めて「虎狩りの殿様」を異名を持つ。北海道開拓にも力を入れ、熊の木彫り人形を北海道土産の定番としたのは、この徳川義親だった。

●下館藩(茨城県)最後の9代藩主石川総管の嫡男重之(10代当主)は、昭和24年、東京・池袋の銭湯での置き引き(板場稼ぎ、板の間稼ぎとも言う)で逮捕された。

●御三卿の清水徳川家の8代当主好敏(よしとし)は、日本陸軍最初のパイロットとして活躍した。公式記録上の日本最初の飛行成功は、明治43年(1910年)12月19日、代々木練兵場(現代々木公園)で徳川好敏が操縦する仏製のアンリ・ファルマン機。翌明治44年、日本で最初の飛行場である所沢陸軍飛行場(現所沢航空公園)が開場し、ここでも飛行成功。

●藩主ではないが、明治35年に、紳士靴のREGALを創業したのは佐倉藩士の西村勝三だった(てっきり、REGALは、英国か米国製だと思ってました。)

維新後、お殿様たちはどうなったの?=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

  ネット通販のお蔭で、街中の本屋さんが次々と消えていく現況は、本当に残念で物悲しいものです。「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、書店に行けば、思ってもみなかった「お宝」に書棚で巡り合うことができるからです。

 今回のめっけもんの「お宝」は、「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)という本(ムック)です。誠に大変失礼ながら、全く聞いたことがない出版社で、恐らく、新聞などに広告を打つ余裕があるような会社とは思えません(本当に失礼)。もし、私が書店に足を運ばなければ、この本の存在すら知らなかったことになります。そして、もし売れ残れば、廃棄処分されていたのかもしれません。

 そう思うと、本に巡り合うことも運と縁ですね(大袈裟な!)

 「目次」のような表紙ですが、この表紙を見ただけで、この本の内容が少し分かります。当たり前の話ながら、明治維新と廃藩置県という「革命」によって、かつての大名は、失業します(特に、佐幕派は財産を没収されますが、新政府に協力した藩主は、持参金を貰ったり、領地を払い下げられたりしたので、「文無し」になったわけではありません。それに維新後、知事になったり、爵位を得て貴族院議員になったりしました)。つまり、お家が断絶したわけではなく(勿論、嗣子がなく直系が断絶した家も結構あります)、明治になっても、大正になっても、昭和になっても、そして平成、令和の時代になっても続いているわけです。(徳川宗家も来年1月1日に代替わりし、82歳と高齢の第18代恒孝=つねなり=氏に代わって、57歳の家広氏が第19代当主を継ぎます。)

 幕末史にせよ、歴史の教科書では、誰それが活躍して何をした、はい、それで終わりですが、生身の人間は、そんな書かれた歴史を乗り越えて、今でも続いているわけです。

 この本では大名家の子孫がその後どうなったのか、を扱っていて、江戸時代、全国「三百藩」とも言われた大名の子孫が維新後、どうなったのか、百科事典のようにほぼ全藩、網羅されているので、私なんか即、購入しました。特に、各藩の江戸の上屋敷、中屋敷、下屋敷の推定現在地まで掲載されていたので、お買い得だと思いました。

◇悲喜こもごものお殿様

 さて、彼ら、お殿様の末裔はどうなったのか? ここでは、全ては書き切れないので、かいつまんでほんの少しだけご紹介します。この本ではあまり紙数が費やされていませんでしたが、現在、誰でも知っている一番有名な「お殿様」と言えば、熊本県知事から内閣総理大臣にまで昇り詰めた細川護熙氏ではないでしょうか。戦国大名の細川藤孝・忠興の直系の子孫で肥後熊本藩主細川家の第18代当主に当たります。

 でも、細川氏は最も恵まれたお殿様の末裔かもしれません。加賀百万石の前田藩の末裔当主、前田利為(としなり)は陸軍士官学校(17期生で、東条英機とは同期)に進み、近衛師団大隊長、陸大校長などを歴任し、昭和17年、ボルネオ守備司令官となりますが、惜しいことに飛行機事故で亡くなります。(死後、大将に昇格)

 お殿様の子孫なら、戦争になれば「優遇」されるのかと思っていたら、昭和になるとその威光は届かなくなったようです。最後の将軍徳川慶喜の孫に当たる徳川慶光さんは、東京帝大卒業後、宮内省図書寮に勤務していましたが、昭和15年には「一兵卒」である二等兵として入隊したのを皮切りに、計3度も二等兵として召集されたというのです。中国戦線では赤痢とマラリアに罹り生死を彷徨ったといいます。戦後、華族制度の廃止で財産を失い、高校の漢文講師、東洋製罐研究所など職を転々としたようです(1993年、東京・町田市で80歳で没)。

 また、北海道・松前藩の第16代当主正広も、子爵のまま陸軍二等兵として召集され、ニューギニアで戦死しています。とはいえ、明治になって軍人になったお殿様の末裔は多いですが、大体、陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、幹部になっています。

 この他、徳島14代藩主の蜂須賀茂韶(もちあき)は英オックスフォード大学に留学し、フランス特命全権公使などに、佐賀藩最後の藩主鍋島直大(なおひろ)は、駐イタリア全権公使に、その後任のイタリア公使が広島藩主の浅野長勲(ながこと)、岸和田藩主の岡部長職(ながもと)は、英ケンブリッジ大学などに留学し、英全権公使などを務めるなど外交官になったお殿様もいます。(ちなみに、岸和田藩主・岡部長職の三男長挙=ながたか=は、朝日新聞創業者の村山龍平の娘婿となり、朝日新聞の二代目社主・社長になっています)

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 全く個人的ながら、私の先祖は久留米藩21万石の藩士だったので、藩主有馬家がどうなったか気になっていましたが、4ページの特集を組んでくれております。表紙のタイトルが「情け有馬の『博愛』貴族と『叛逆』文士~父子三代に渡る相克劇」です。

 有馬藩最後の藩主は第13代の有馬頼咸(よりしげ)ですが、その孫の第15代頼寧(よりやす)は、東京帝国大学助教授になったり、水平社運動など社会運動にも身を捧げたりします。第一次近衞文麿内閣で農林大臣や大政翼賛会の事務局長などを務め、競馬の「有馬記念」は、この有馬頼寧から付けられたものです。ただ、伯爵になった第14代の父頼萬(よりつむ)の貴族趣味に反発し、女性スキャンダルも多かったようです。また、昭和初期の軍部勢力を抑え込むことが出来ず、あの笹川良一さんからは「頼寧は『よりやす』ではなく『頼りねえ』と読むんだよ」と陰口を叩かれたらしいです。

 この有馬頼寧の子息が直木賞作家の有馬頼義(よりちか)です。二・二六事件では暗殺された斎藤実内相の隣家に住んでいたことから(頼義の実姉が、斎藤実の養子に嫁いでいた)、この歴史的大事件の現場に遭遇します。二・二六事件関係の本も出版しています。満洲での兵役で下士官からリンチを受けた体験を書いたのが「貴三郎一代記」で、「兵隊やくざ」のタイトルで、勝新太郎、田村高広主演で映画化されました。ただし、晩年は薬物依存症になり自殺未遂を起こし、家族と離れて、入院した病院の看護師と暮らすなど、父親譲りの女性スキャンダルも多く、無頼派作家として名を残しました。

 この頼義の長男が1959年生まれの頼央(よりなか)氏です。父親を反面教師として育ったせいか、有馬家ゆかりの水天宮(東京・日本橋蠣殻町)の宮司になっております。「安産の神様」で知られる水天宮は、久留米の総本宮が、文政元年(1818年)、9代藩主有馬頼徳によって江戸上屋敷(芝赤羽根橋)によって分霊され、江戸庶民にも開放されたことから、「情けありまの水天宮」と言われたそうです。明治になって、現在地に移転します。

 水天宮の宮司の有馬頼央氏は、久留米藩の第17代当主に当たります。私の祖先は久留米藩士だったとはいえ、御船手役の下級武士だったため、そう易々と藩主様にお目見え出来る身分ではなかったと思われます。となると、世が世なら、土下座してお会いしなければならない方です。そう言えば、私の小学校時代の旧い友人の北原さんも御先祖様は久留米藩士でしたが、ウチとは格が違い、小姓の身分(主君の雑務、警備を担当)だったと言いますから、毎日、藩主の側に仕え、俸禄石高も高かったことでしょう。

 世が世なら、北原さんとも気安くお会いすることはできなかったことでしょうね(笑)。

「クレイ賞」受賞を祝福致します=松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」

 (2022年10月27日付「日本のスーパーコンピューターの父」のつづき)

 松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)を読了しました。後半は、「科学少年」だった著者が如何にコンピューターの世界にのめり込んでいったのか、個人的遍歴が書かれ、また、コンピューターは日進月歩の世界ですから、早くも5年後、10年後を見据えた「富岳」の後継機やGAFAなき日本の人材の育成まで考慮しておりました。

 私は前回、著者のことを「日本のスパコンの父」と書いてしまいましたが、もし本人がその箇所を読んだら驚いてしまっていたかもしれません。著者の松岡氏は、本文の中で「『富岳』は何百人、何千人が関わったマシンなので、わたしひとりの成果ではまったくない」と書いているからです。

東京・銀座

 ただし、スパコン富岳をつくるに当たって最高責任者としてチームをリードする際の苦労話なども包み隠さずに書かれておりました。その際、著者は、米国の1960年代のアポロ計画の報告書を精読して、それらを参考にしたそうです。同計画では、何度も失敗しても挑戦し、念には念を入れて何度も何度も試作を試みた上で、ついに人類初の月着陸を成功させました。

 著者も同じように、何度も技術的困難に直面し、失敗もしてきた、と正直に告白しておりました。でも、私のような人間から見れば、大変、「縁」と「運」に恵まれて来た人だと思いました。著者が名門武蔵高校生時代、学校の帰りにパソコン・オタクがたむろしていた池袋の西武で、当時、東工大生で、後に任天堂の社長になったゲームクリエーターの岩田聡氏(惜しくも55歳で早世された)や、あのビル・ゲイツから「プログラミングの天才」と評された鈴木仁志氏らと知り合う機会を得て、著者が研究者の道を選ぶ影響を与えた人だったことも書かれていたからです。

 勿論、御本人の相当な努力の賜物もあったことでしょう。改めて、スパコン賞の世界的な最高の名誉である「シーモア・クレイ賞」と日本のNECの「C&C賞」の受賞、おめでとう御座いました。

「日本のスーパーコンピューターの父」=松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」

 ”Passage”, Jimbo-cho Copyright par Duc de Matsuoqua

 ちょっと御縁が御座いまして、目下、松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書、1210円)を読んでおります。10月20日発売ということで、本屋さんに足を運んだのですが、売り切れてしまったのか、見当たりませんでした。仕方がないので、家に帰ってネットで注文しましたが、なかなか届きません。この後、注文した他の本が先に到着するぐらいで、どうしたものかと思っていたら、やっと25日に到着しました。

 昨日まで、「最高傑作」ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んでいたので、本日からやっと読み始めました。

 私のようなガチガチの文科系人間が、高度な理科系知識が要求されるスーパーコンピューターの本なんか、理解できるのかどうか覚束なく、正直、当初は躊躇しておりました。でも、読んでみたら、著者は私に気を遣って(笑)、なるべく専門用語を使わず、使ったとしても丁寧に語彙説明をしてくれて、とても読みやすいのです。

 スパコン富岳に関する私の知識は、「処理能力(速度)世界一」といった程度でした。たまに新聞で、富岳による新型コロナウイルスの飛沫やエアゾルの広がりのシュミレーションなどが掲載されたりして、「頑張ってるなあ」といった程度の感想です。要するに、最初から内部構造や仕組みなどを知る意欲に欠けているのです。違う言い方をすれば、私にとっては、専門外の雲の上のような話なので、最初から理解することを諦めていたのです。

 しかし、この本を読むと、スパコン富岳の能力だけでなく、その社会的役割や将来の可能性まで理解することが出来ます。何しろ、著者の松岡氏は、2018年から理化学研究所計算科学研究センターのトップのセンター長を務め、スパコン富岳の開発を指揮した人です。この人以外で富岳について多く語れる人は他にはいないことでしょう。

 スパコン富岳で何が出来るのか?ーは素人が一番知りたいところですが、この本には事細かく書かれています。例えば、先ほどの新型コロナの飛沫のシュミレーションは、自動車開発のための空力性能を富岳を使って調査した神戸大学教授で計算科学研究センターの坪倉誠氏のチームでした。自動車のエンジンと感染症とは一見、無関係に見えますが、と著者は説明します。自動車エンジン内ではガソリンなどの燃料が噴霧し、その粒子が気化しながら移動します。同じように新型コロナも、ウイルスが飛沫によって運ばれ、エアゾルとなって拡散していきます。原理はほぼ似たようなものなので、自動車エンジンの調査手法を感染症でも短期間で応用できたというのです。

 このほか、スパコン富岳は、天気予報や地震、洪水、津波の予知や航空機開発、創薬などに応用されています。私が意外に思ったのは、この高価なスパコン富岳が一般でも、適正な審査に合格すれば、利用できることでした。それというのも、スパコンは莫大な費用が掛かり、国家プロジェクトとして開発されるからです。富岳の場合、開発費は1300億円で国費(つまり税金)が1100億円投入されたといいます。それでも、現在、欧米と中国を中心にスパコン研究開発競争が熾烈に繰り広げられており、各国が投資する国家資金は5000億円から1兆円にも上るといいますから、日本は随分、格安で開発できたと言えるかもしれません。

 富岳は、その前のスパコン「京」と比べて計算速度が50倍~100倍向上し、電力効率も50%程度向上したといいます。

 著者の松岡氏は、スパコン富岳を開発する前の東工大教授時代に、スパコンTSUBAME(2006年運用開始)を開発し、当時、国内トップの性能で大きな話題になりました。その実績を引っ提げて、富岳の開発責任者になったわけですが、TSUBAME開発時に掲げていたモットーである「至るところで使える」「みんなのスパコン」という目標が受け継がれていることが素人目からしても素晴らしいと思いました。誰にでも開放している、ということがです。

 富岳の2021年度の稼働率は97%だったらしいですが、コロナの重症化リスクの遺伝子レベルの解析やロックダウンによる経済的損失のシミュレーションなどにも使われたわけです。

◇余談ですが

 最初に「ちょっと御縁が御座いまして」と書きましたが、著者の松岡聡氏は、小生のブログの話題提供などでも長年お世話になっている満洲研究家で美術評論家の松岡將氏の御子息ということで、直接お会いしたことはありませんが、間接的にお噂などを伺っていたのでした。松岡將氏が1970年代に米ワシントン勤務時代、御子息の聡氏も米国で過ごし、教育を受けたので、英語はネイティブ以上です。

 その松岡聡氏は、スーパーコンピュータの最高峰の業績賞で、「スパコンの父」と呼ばれたシーモア・ クレイの名を冠 した「クレイ賞」の 2022年受賞者に選出され、来月11月18日、米テキサス州ダラスで、授賞式と記念講演が行われることを御尊父を通じで知りました。また、併せて、国内ではNECの C&C財団(Computer and Communication)から「C&C賞」まで受賞されました。日本のメディアではほとんど報道されなかったので、松岡聡氏の業績を讃え、このブログにも記載させて頂くことに致しました。

 恐らく、松岡聡氏は、将来、「日本のスパコンの父」と呼ばれることでしょうから。

人間はなぜ歩くのか?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」

 ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋、2022年8月10日初版、2860円)を読了しました。面白かった、実に面白かった。仏文学者の鹿島茂氏が「今年一番の収穫」と書評された通りでした。わたし的には、ここ数年のベストワンかもしれません。何と言っても、「我々は何処から来たのか?」というアポリアの答えをこの本は示唆してくれるからです。

 2022 付の渓流斎ブログ「1100万年の類人猿ダヌビウス・グッゲンモンから始まった?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳『直立二足歩行の人類史』」でも既に取り上げましたが、結局、人間は神がつくったわけではなく、サルから進化したことを認めざるを得ません。

 でも、人間は猿だと思えば、少しは納得できます。戦争が好きな狂暴な人間もいれば、人を騙す変節漢もいる。そして、うまく立ち回る如才ない人間もいますねえ。人間は所詮、猿だと思えば腹も立ちません(笑)。かと思えば、恵まれない人に共感して援助の手を差し伸べる者もいれば、自己犠牲を厭わず他人に尽くす人までいます。

 この本の結びの言説が素晴らしいので、読後感もすっきりします。結局、「直立二足歩行する特別なサルが繁栄できたのは、共感し、許容し、協力する能力のお蔭だ」と著者は結論付けているのです。そこに至るまでの経過を換骨奪胎して要約しますと、こんな感じになるかもしれません。…人類は直立二足歩行によって、手で物を運ぶことができるようになり、そのうち道具や武器まで使えるようになる。(武器を使うために、立ち上がったわけではない)そして、直立二足歩行することによって、気道が開き、さまざまな音声を発することができるようになり、それが言語として発達する。(そう言えば、現代までに生き残る二足動物は、他に鳥類ぐらいですが、オウムは物まねをして言葉らしきものを喋りますね!)骨折したのに、さらに生き延びている類人猿の化石が発見される事実は、他の誰かが手当をし、お互いに助け合って、食べ物を分け合っていたことになる。…こんな具合です。

 霊長類の中で最初に直立二足歩行した類人猿は、約1100万年前のダヌビウス・グッゲンモンにまで遡ることができますが、まだ定説になっていないようです。ほぼ定説になりつつあるのは、約600万年前に、現生人類の祖先に当たる類人猿がチンパンジーと分岐したことです。つまり、人間に最も近い動物がチンパンジーになるわけです。(人間もチンパンジーも、同じ霊長類の類人猿ヒト科に分類されます)

 私のような古い世代は、人類学と言えば、原人(北京原人、ジャワ原人など)―旧人(ネアンデルタール人)ー現生人類(ホモ・サピエンス)のように大雑把なことしか習いませんでした。でも、今は古人類学という新しい分野も出来、その学問的発展も日進月歩と言ってもよく、学校でもしっかり、700万年~600万年前のサヘラントロプス、600万年前のオロリン、400万年前のアウストラロピテクス、200万年前のホモ・ハビリス、180万年前のホモ・エレクトス…50万年前のネアンデルタール人、そして現生人類のホモ・サピエンス(今からわずか30万年~25万年前に出現)などと細かく教えられているようです。

 これらは勿論、化石人類(ホミニン)が次々と発掘されるようになったお蔭です。そのホミニンはいつ頃の時代なのか、発掘された地質の放射性同位元素で年代測定されます。この中で、著者のデシルヴァ・米ダートマス大学准教授が最も注目していたのが、1974年にエチオピアで、米アリゾナ州立大学の古人類学者ドンン・ジョハンソンらによって発掘され、ルーシーと命名された318万年前のアウストラロピテクス属アファレンシスです。ルーシーというのは、発掘チームが祝杯を挙げていた時に、ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のレコードを掛けており、その中の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ」から取られたというのです。ジョン・レノンの曲なので、私も親近感が湧きます(笑)。

 ルーシーは、身長110センチ前後、体重約27キロ、歯のすり減り具合などから死亡時は10代後半とみられるといいます。骨の骨折具合から木から落ちたのではないかと推測する研究者もいますが、死因は不明で、骨盤に歯形が二カ所あることから、動物に食べられた後に湖畔の泥土に埋まっていたようです。著者のデシルヴァ氏は、もしタイムマシンがあれば、318万年前に帰って、ルーシーと会ってみたい、というほどの入れ込みようです。

 ルーシーは発見当時、世界最古の化石人類でしたが、21世紀になっても次々とホミニンが発見されるようになり、進化の歴史がどんどん遡っていったわけです。仮に、直立二足歩行していたダヌビウス・グッゲンモンが人類の最初の祖先だとすると、それは1100万年前になります。気の遠くなるような大昔ですが、6600万年前に滅亡した恐竜が1億6000万年間も繁栄したと思うと、瞬きするような一瞬です。

 もっとも、17世紀の神学者ジェームズ・アッシャーは、天地創造が行われたのは紀元前4004年10月22日(土)午後6時だったと主張したといわれます。当時、人間はサルから進化したなどといった説を唱えれば、殺されたかもしれない時代でしょうが、21世紀に生きる人間は偉そうに、彼に古人類学を語りたくなってしまいます(いまだにダーウィンの進化論を信じないキリスト教原理主義者らが世界各国・各地に存在しますが)。

 著者のデシルヴァ准教授は、ホミニンの足骨が専門なので、この本では、「なぜ、ウオーキングは健康に良いのか」といった歩行に関するエピソードが多く書かれています。この中で、ニューヨーク大学の発達心理学者のカレン・アドルフ教授の調査記録を引用して、歩き始めた平均的な幼児は、1時間に17回は転倒しながらも、2368歩を歩き、1日では1万4000歩も歩いていることを紹介していました。著者は「幼児が少なくとも1日12時間の睡眠時間を必要としていることもうなずける」などと書いていますが、幼児が「1日、1万4000歩」歩くという数字には、私自身、驚いてしまいました。

日本史を書き換える新発見=NHKスペシャル「新・幕末史」

 10月16日(日)と23日(日)に放送されたNHKスペシャル「新・幕末史」はかなり見応えがありました。16日は 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」、23日は 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」というタイトルでした。2年前にも同様のシリーズで、戦国時代を取り上げて、日本史に留まらず、世界史的視野で、その同時代のスペインなどの列強国や宣教師たちがいかにして日本の植民地化を企んだりしていた事実がバチカンなどの資料から発見され、その斬新的な番組制作の手法に圧倒されました。

 今回も、英国国立公文書館のほか、当時のロシアやプロシア(ドイツ)などの列強の極秘文書が初めて公開され、幕末の戊辰戦争などが、単なる日本国内の内戦ではなく、英、仏、蘭、米、露、プロシアの列強諸国による分割植民地統治に発展しかねない事態まであったとは驚くばかりでした。

 私も、市井の幕末史好きですから、ある程度のことは知っておりました。徳川幕府方にはフランス(ロッシュ公使)、反幕の薩長方には英国(パークス公使)がついて、互いに武器と軍事顧問団を派遣して、英仏の代理戦争のようになっていたこと。大量殺戮が可能になった新兵器のガトリング砲などは米国の南北戦争で使用された「余りもの」だったこと…などは知っておりましたが、ロシアとプロシアの動向については盲点でした。

 ロシアは1853年のクリミア戦争で英国などに敗退すると、極東侵略政策に転換し、日本を植民地化しようと図ります。そのいい例が、対馬です。1861年にロシア海軍の拠点のような要塞を対馬につくり、半年間も駐在していたのです。それを外国奉行だった小栗忠順の粘り強い交渉と、英国の進出で辛うじて難を切り抜けたりしていたのです。明治になって、新政府は徳川幕府の弊害や無能論ばかり教育で教え込んできましたが、実際は、小栗上野介ら有能な幕閣がいたわけです。(21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻しましたが、「他国侵略」というロシア人気質は19世紀から全く変わらず、連綿と続いてきたことが分かります。)

◇プロシアは北海道植民地化を計画

 プロシア(ビスマルク首相)は、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の会津藩と庄内藩に食い込み、新潟港に武器を調達する代わりに、北海道を植民地化しようと企てていたことが、残された極秘文書で明らかになりました。そんな史実は、どこの教科書にも載っていなかったことですし、全く知らなかったので驚いてしまいました。

 番組では特に英国の公使パークスの動向に注目していました。1866年の長州征伐の際、幕府がフランスから武器を調達するために、ロンドン銀行から融資を申請したところ、パークスはロンドン銀行に対してその融資を止めさせています。逆に、商社ジャーディン・マセソン(長崎のグラバーが有名)を通して、長州に武器を調達しています。また、戊辰戦争の際には、パークスは、フランス、オランダ、プロシアなど列強6カ国の代表者を徴集して、内乱終結まで武器援助などをしない不関与の「局外中立」を認めさせたりしていました。そのお陰で、フランスは徳川幕府の軍事顧問団を引き上げざるを得なくなり、結果的に幕府方が不利になりました。(でも、箱館戦争では榎本武揚率いる幕府軍にフランスの軍事顧問団が付き添っていたはずで、その辺り、番組では詳しく検証してませんでした)

 こうして見ていくと、特に英仏など列強諸国が干渉していなければ、佐幕派が勝っていたのかもしれませんし、日本の歴史も変わっていたのかもしれません。戊辰戦争を世界史の中で見ていくと様相が変わるぐらいですから、海外の歴史学者が日本の幕末史に注目するのもよく分かりました。

 (番組の再放送やオンデマンド放送などもあるようです)

1100万年の類人猿ダヌビウス・グッゲンモンから始まった?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」

 会社の後輩、と言ってもあまり若くない高齢者ですが、毎日、通勤の際に、上野駅から会社がある銀座まで歩いて来ているという話を聞いて吃驚してしまいました。

 首都圏にお住まいでない方は、感覚的に分からないかもしれませんが、その距離は、約5キロ。時間にして1時間5分か10分掛かるというのです。天候が悪い日は、午前の行きではなく、帰りの夕方にしたりして、無理はせず、1日1回、「遠足」するそうです。お蔭で、毎日1万5000歩は歩くそうです。

 常軌を逸している!

 と、思いましたが、よく話を聞くと、ダイエットが目的だというのです。その努力が実って、わずか半年で、10キロもの減量に成功したそうです。

 これで、驚きから尊敬に変わりました。

 ヒトは、歩くことが大切なんですね。逆に歩けることがヒトをして霊長類、はたまた万物の頂点に至らしめる要因だと言えます。

 そう断言できるのは、今、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋、2022年8月10日初版、2860円)を読んでいるからです。この本の存在を知ったのは、先週購読した「週刊文春」で、仏文学者の鹿島茂氏が「今年一番の収穫」と太鼓判を押していたからです。立花隆さん亡き現在、日本で最も影響力のある天下無敵の鹿島茂氏が薦める本ですから間違いありません。

 その通り、この本はまだ途中ですけど、間違いなく、面白い本です。翻訳家の功績もありますが、文章が抜群にうまいし、恐らく、かなりのメモ魔で、幅広い教養の持ち主だということがよく分かります。先週、週刊誌を買わなければこの本の存在を知らなかったわけで、この本に巡り合って、微かながら奇跡を感じました。

 最近、「誰が誰を殺して天下を取ったのか」とか、「お涙頂戴の復讐劇」などといった人間どもの歴史にうんざりしていたところに、古人類学の本です。古人類学というのは、まさに先史時代の考古学で、「我々は何処から来たのか?」という根本的な命題に答えてくれます。

 発掘されたホミニンと呼ばれる化石人類を分析、研究するのが古人類学者です。最新の研究によると、人類の起源と直立二足歩行の起源は、これまで鮮新世(530万年~260万年前)と考えられてきたものが、中新世後期(1160万年~530万年前)にまで一気に遡ることになったといいます。それは、1100万年以上前の地層から出て来た類人猿ダヌビウス・グッゲンモンの化石から、直立二足歩行をしていたことが分かったというのです。

 地層が何百万年前なのか、どうして分かるのかと言えば、カリウムや炭素などの放射性同位元素で年代測定が分かる仕組みを本書で詳しく説明されていました。

 古人類学者が世界で何人いるのか分かりませんが、欧米中心ですが、意外にも多く(本書では私なんかとても覚えきれない沢山の古人類学者が登場します)、そのため、化石の骨の分析も、ある人は頭骨、ある人は脊髄…などと専門化しているというのです。この本の著者のデシルヴァ氏の専門は足骨ということで、当然のことながら、人類がいつから、なぜ直立二足歩行を始めたのか、最も興味がある学者の一人であるわけです。

 映画ファンなら当然、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)を観たことがあると思いますが、その映画の最初に四つん這いの猿が段々進化して、二本足で立ち上がるようになり、空いた両手で棍棒のような武器を持つ人類が登場する場面が出て来ます。つまり、人類が直立二足歩行になったのは、武器や道具を使うためだったという定説がこれまでありました。しかし、現在ではそれは否定されています。(直立二足歩行になった結果、武器も使えようになった、ということ。また、道具を使うのはヒトの特権ではなく、チンパンジーも道具を使う)。他に、直立二足歩行の起源と理由については、色々な説がこれまで登場しましたが、現在の最新研究でも、その答えは「まだ誰も分からない」というのが正確だというのです。著者のデシルヴァ氏は「ダチョウの物まね」説を唱えているほどです。

 いずれにせよ、類人猿が進化してチンパンジーから分岐してヒトになったのは今からわずか(笑)600万年前(±50万年)のことです。それから、ヒトは、サヘラントロプス、オロリン、アウストラロピテクス(318万年前のルーシーが最も有名)、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人…などと進化し、現生人類であるホモ・サピエンスが出現したのは25万年~30万年前ということになります。

 そのホモ・サピエンスが今から1万年前に農耕定住生活を始め、その後、奴隷都市国家、中世の王国、近世の皇帝国、植民地主義国、そして現在の資本主義国や共産主義国となるわけですが、1100万年に及ぶ類人猿の歴史から見ると、人間(ヒト)の歴史など、まだほんのわずかの瞬間だということが分かります。

 ヒトの祖先を遡ると1100万年も昔になると言っても喜んでばかりはいられません。その前に隆盛を誇った恐竜は、今から2億3000年前の中世代三畳紀に出現し、隕石衝突による気候変動で6600万年前の白亜紀に滅亡するまで約1億6000万年間も繁栄していたわけですからね。

 となると、人間の歴史など、そして人間の個人の悩みなど、小さい、小さい、と思いませんか?

(いつか、つづく

AIが支配するデジタル監視社会となるのか?= 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」を視聴しました

 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」(朝日新聞社主催)が10月16日(日)~19日(水)までオンラインで開催されました。

 4日間の開催で登壇者は約64人という大変大掛かりなプログラムですので、とても全てをカバーできません。そこで、独断と偏見で、米国の経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏とイスラエルの歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏、フランスの人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏の4人が登壇する4日目の19日(水)だけ、会社をズル休みして自宅で拝聴しました。

 これだけ現代を代表する錚々たる「知の巨人」が登場するというのに、視聴するのに無料(ただし、パソコンの電気代や通信費はかかりますが)だったというところが凄い。まさか、知の巨人の皆様にただで登壇してもらうわけにはいかないでしょうから、気になるのはその原資です(笑)。旭硝子やサントリーなどがスポンサーになっているほか、国際交流基金なども特別共催していました。国際交流基金は外務省の外郭団体ですから、予算という名の税金が投入されています。ということは、無料でも一国民として堂々と視聴できる権利があるのかな、と下らないことばかり考えておりました(笑)。

 会議の模様は、そのうち朝日新聞の紙面に掲載されるほか、10月下旬に(YouTubeか何かで)ネット配信されると告知していましたから、見逃した方は是非ともアクセスされたら良いと思います。

◇世界的な監視社会の到来か

 「朝日地球会議」は今年で7回目らしいですが、私自身は初参加です。メインテーマは昨年と同じ「希望と行動が世界を変える」で、新型コロナのパンデミック後の世界や社会の有り様やロシアによるウクライナ侵攻、安全保障や食料、エネルギー問題、それに気候変動の問題が主な具体的なテーマになりました。

 これらの問題について、世界の知の巨人たちは何と答えたのか、茲ではとても書き切れないので、是非とも新聞かネット配信でご確認して頂きたいと存じます。ただ、私自身が一つだけ注目したことは、デジタル技術の進歩とパンデミックによって世界的に監視社会が強化されたことについて、知の巨人たちが何と発言するかということでした。

 経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏は、グローバリズム推進論者で「経済成長を止めれば、世界の人口の20%が絶対的貧困になる」という論者だけあって、「SNSは世界市民となり、プラスに働いている」と実に楽観的でした。その一方で、哲学者のマルクス・ガブリエル氏は最近、自身のツイッターやフェイスブックを閉鎖したらしく、その理由について、「適度で科学的であるべきなのに、極端化した。自由で民主的ではなく反民主的になった。ツイッターやフェイスブックは、ステレオタイプ的な思考を強制する。例えば、プーチンと戦うためには、(ロシアから輸入されるエネルギーを節約するために)暖房を止めよう、などと発言する人がいるが、その前に、ネットの方を止めるべきではないか。矛盾している」などと発言していました。

 私もこのマルクスさんの見解に近い感じです。

 人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏に言わせると、確かに監視社会は強化されたが、一体誰が監視していますか?という話になりました。「監視者にとって、殆どの人は重要ではない。彼らが自己陶酔的なら尚更です。彼らが監視する対象は、権力ゲームの中にいる一部のエリートです。何故、欧州のエリートが米国に従属的になるのか?それは、ネットでの銀行送金が、米国の情報機関に丸見えになっているからです」などと恐ろしいことを暴露していました。

 ◇無神経で無意識過剰で生きたい

 私が一番聴きたかったのは、「サピエンス全史」の歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏でした。ロボット工学者の石黒浩氏との対談形式で発言されていましたが、この中で、テクノロジーは良い面と悪い面があり、悪い面では、今や、人工知能AIを塔載した(感情がない殺戮)兵器のロボットさえできている。今後、原爆投下の核ボタンにしても、人間の権限ではなく、アルゴリズムに任せるようになることもあり得る。そんな事態になる前に、グローバルな合意形成が早急に必要だ、ということを強調しておりました。

 私自身は悲観的過ぎるかもしれませんが、世界の知の巨人たちの話を聞いて、おぞましい将来しか描くことが出来ませんでした。

 だからこそ、メンタル障害になる前に、出来るだけ物事を楽観的に考え、なるべく無神経で無意識過剰で生きたいという願望を持つようになりましたよ。

【追記】

 司会進行役は、朝日新聞の論説委員や編集委員らが務めていましたが、世界の知の巨人と堂々と渡り合い、彼らの英語スキルがネイティブ以上の優秀さでした。さすが、ジャーナリズムを牽引する人たちだなあと納得しました。