🎬「007ノー・タイム・トゥ・ダイ」は★★★

 色々と観たい映画があったのですが、もう半世紀以上観続けてきた「007シリーズ」の最新作(25作目)「ノー・タイム・トゥ・ダイ」を観に行って来ました。15年間、主役を演じてきた6代目ボンド役のダニエル・クレイグの最後の作品(5作目)ということだったので、他の作品を押しのけて最優先したわけです。

 で、感想はと言いますと、「長過ぎ」でした。最初の15分ぐらいはお葬式場のコマーシャルや次回上映作品の宣伝などを見せ付けられますが、3時間も椅子に座っていなければなりませんでした。前の座席の人は、その間、2回もトイレに駆け込んでいました(笑)。3時間では、集中力が途切れます。それに、マシンガンで無暗に敵を殺し過ぎます。そういう無意味な戦闘シーンを好むのは血気盛んなお子ちゃまぐらいで、人生の酸いも甘い知った大人世代にとっては「もう勘弁してくれよ」と叫びたくなりました。

 とはいえ、最初の「ハラハラドキドキ」シーンは、本当に息をもつかせぬ圧巻の迫力で、スタントマンを使っているのか、いないのか分かりませんが、度肝を抜かされました。

 あまり、内容を明かしてしまうと怒られるので触れられませんけど、6代目ボンドのダニエル・クレイグの卒業作品になっておりました。クレイグが6代目に就任した作品「007 カジノ・ロワイヤル」は2006年公開です。当時、38歳。彼は身長178センチで、歴代ボンド役の俳優がいずれも185~190センチだったことから、体格の見栄えが落ち、5代目ボンド役のピアース・ブロスナンのようなハンサムではなく、公開前は、さんざん非難と批判を浴びたようでした。でも、いざ蓋を開けてみたら、歴代ボンドの中で最高の収益を上げたとか。私も、最初はイメージ的にゴリラ顔(失礼!)のクレイグがボンドには相応しくないと思っていたのですが、あんな身のこなし方が素早くで格好いいボンドはピカイチで、歴代ボンド役の中では、ショーン・コネリーに次いで素晴らしかったと言いたいですね。

 ダニエル・クレイグは私生活では、あのレイチェル・ワイズと再婚していたとは知りませんでした。ボンドを引退しても、また新たな新境地を開くことでしょう。

劇場先着何名様かにプレゼントされた「007」のキーホルダーです。中国製でした(笑)。

 この007映画のもう一人の主役はボンド・ガールですが、前回の「007スペクター」(2015年)の続きになっているので、再びマドレーヌ役のレア・セドゥでした。フランスの女優なので、フランス語も出てきます。監督は、日系米国人キャリー・ジョージ・フクナガで、作品の中で、日本の興収を意識したのか、日本の領海付近や能面など、ジャポニズムが登場します(笑)。

 ボンドの敵役サフィンを演じたラミ・マレックは、後で解説を読んで知ったのですが、「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年)でフレディ・マーキュリーを演じていた、あの彼だったんですね。気が付きませんでした。さすが、名役者さん。

  「ノー・タイム・トゥ・ダイ」 は、新型コロナの影響で何度も公開が延期され、そのお蔭で、「新兵器」のはずが流行遅れになってしまい、何度か撮り直しを行っていたことが、業界紙に出ていました。想像するに、その一つは、高級腕時計「オメガ」じゃないかと思われます。映画公開日前日には、新聞で全面広告が打たれていたからです。

 映画は製作費が高いので、ビールとかウイスキーとか、ある特定の商品を映画の中でわざわざ登場させて製作費を賄う手法です。

 

政友会と民政党の覇権争いの怨念は今でも

  自民党の岸田文雄総裁(64)が第100代の総理大臣にもうすぐ就任されるということで、まずはおめでとうございます。最近メディアがよく使う「3A」(安倍、麻生、甘利)采配によって担ぎ上げられたということで、またまた彼らの操り人形になるということを意味するわけで、「あまり政策には期待していません」と、釘を刺しておきますが。

 政策よりも、64歳の岸田さんという「人となり」の方に興味があります。各紙を読むと、「こんなこと書いて大丈夫?」と思われるようなことまで、書いちゃってます。まず、「東大合格全国一位」の名門開成高校から3回も東大受験に挑みましたが失敗、とか、御子息が3人いて、そのうち2人は同居だとか…これ以上書きませんが、想像力が逞しくなります。

西日本K市 Copyright par Anonymous

 さて、岸田さんは第100代総理大臣ということですが、初代総理大臣は勿論、御存知ですよね?ー伊藤博文です。それでは、彼がつくった政党は? はい、政友会です。自由民権運動華やかりし頃ですから、板垣退助がつくった自由党や、「明治14年の政変」で参議を追放された大隈重信がつくった立憲改進党など、明治は政党がたくさんつくられました。

 同時に、全国で「大新聞」と呼ばれた政党系の新聞も多く創刊されたわけです。改進党は、進歩党、憲政党などと幾度か名前を改称しますが、昭和初期までには民政党の名称で落ち着き、政友会との「二大政党制」になり、代わる代わる首相を輩出します。このブログの2019年7月6日に「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」という記事を書きましたが、この中で、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)から、以下のくだりを引用しています。

 (昭和初期の)大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 このように、政友会と民政党は「水と油」なのですが、1941年12月の新聞事業令の制定によって、「1県1紙」の統合が行われました。

 その熾烈な合併の代表が愛知県です。政友会系の新愛知新聞(1888年創刊)と憲政本党(後の民政党)系紙として創刊された名古屋新聞(1906年創刊)が強制的に合併させられて中部日本新聞となるのです。

 新愛知の創刊者は、自由党の闘士だった大島宇吉で、政友会の衆院議員を務めたことがあり、1933年には東京紙の国民新聞を東武財閥の根津嘉一郎から買い受けて傘下に置くなど有力紙として存在感を示していました。

 一方の名古屋新聞は、大阪朝日新聞の名古屋支局長だった小山松寿が、中京新報を譲り受けて同紙を改題して創刊したもので、小山も民政党の衆院議員となり、1937年7月から1941年12月まで衆院議長を務めた人でした。

 中部日本新聞は今の中日新聞であり、都新聞と国民新聞が統合した東京新聞を戦後になって買収し、大手ブロック紙というより、系列新聞を合計すれば、読売、朝日に次ぐ全国3位の販売部数を誇る大新聞です。

 中日新聞は、戦前の新愛知と名古屋が合併したという経緯から、現在も、大島家と小山家が交代で2オーナー制を取っていることは知る人ぞ知る話です。オーナーが代わる度に、プロ野球の中日ドラゴンズの監督やスタッフまで変わるというのは、熱烈なファンの間では周知の事実のようです。何となく、今でも、名古屋は、政友会と民政党の怨念を引きずっている感じがしますねえ(笑)。

 以上「1県1紙」統合などについては、里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書)からの一部引用です。もう一つ、この本から、特筆すべき点として引用させてもらいますと、戦時中、新聞業界は、軍部など政府からの圧力によって、仕方なく言論統制した被害者のように振舞っていますが、事実は、部数拡大のために、積極的に新聞は軍部に協力し、「社史」からその事実さえ消している、という著者の指摘です。

 例えば、陸軍は1942年9月、「南方占領地域ニ於ケル通信社及ビ新聞社工作処理要領」という軍令によって、同盟通信社は、南方軍総司令部が置かれたシンガポール、マレー、北ボルネオ、スマトラ、朝日新聞はジャワ、毎日新聞はフィリピン、読売新聞はビルマと担当地域が割り当てられ、続いて、海軍も同じように、朝日は南ボルネオ、毎日はセレベス、読売にはセラムの担当を命じたといいます。命令を受けた同盟通信と全国三紙は、ぞれぞれ現地で新聞発刊作業を展開し、同盟には北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞など有力地方紙13紙が参加して、邦字、英語、中国語、マレー語など16もの新聞を発行したといいます。

 このブログでは書きませんでしたが、9月11日の第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)で、講師を務めた毎日新聞の伊藤絵理子氏が書いた「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)の主人公で彼女の曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六は、大陸で従記者を務めた後、フィリピンで「マニラ新聞」の編集発行に従事しました。何故、マニラ新聞なのか?と思っていたら、陸軍が決めたこと(毎日新聞はフィリピン)だったですね。この本を読んで初めて知りました。

【追記】

 新聞社だけではなく、通信社も「政友会」系と「民政党」系があったことを書き忘れました。

 1936年に聯合通信社が、電報通信社の通信部を吸収合併する形で、国策通信社の同盟通信(戦後は解散し、共同通信、時事通信、電通として独立創業)が設立されます。

 この電報通信社を1907年に創業した光永星郎は、自由民権運動の自由党の闘士だった人で、保安条例の処分対象となる経歴の持ち主で、政友会系の地方紙を顧客としました。陸軍にも食い込み、1931年の満州事変は、電通によるスクープでした。

 一方の聯合通信社ですが、まず、1897年に立憲改進党の機関通信社として設立され、改進党(後の民政党)系の地方紙を基盤とした帝国通信社と1914年に渋沢栄一らが創立した国際通信社、それに外務省情報部が経営していた中国関係専門の東方通信社などを吸収合併して、1926年に岩永裕吉が創立したものでした。ということは、聯合は、民政党系で、外務省のソースが強かったといいます。

 

今からでも遅くないから地球環境保全を=小林武彦著「生物はなぜ死ぬのか」

  今、ベストセラーになっている小林武彦(1963年~)東大定量生命科学研究所教授の「生物はなぜ死ぬのか」(講談社現代新書、2021年4月20日初版)を読了しましたが、話題になっているだけあって読み応えがありました。そして、本の帯広告に「死生観が一変する」とあるように、確かに、一読して、私の死生観も変わりました。

 でも、正直に言って、私自身は、内容の半分も理解できなかったと思います。またまた帯広告ですが、「現代人のための生物学入門!」と銘打っていますが、入門書にしてはかなり難解です。

 例えば、194ページに、いきなり

 体内ではNAD+(エヌエーディープラス)に変化する前の NAD+ 前駆体(NMN=エヌエムエヌ)をマウスに投与すると、寿命延長効果が見られるばかりか、体力や腎臓機能の亢進、育毛などの若返り効果が見られます。

 と書かれていますが、この文章を理解できるのは、専門家はともかく、生物分子工学等を専攻している理系の学生さんか、日頃、研鑽を積んでいる人ぐらいでしょうね。

 私の場合は、今年1月に、デビッド・A・シンクレア著「ライフスパン 老いなき世界」(東洋経済新報社)を読んでいたので、ここだけは、かろうじて理解できました。この単行本には巻末に図解入りで語彙解説が掲載されているので、NADは、「ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド」、NMNは、エヌエムエヌではなく、「ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド(核酸)」と無理して覚えていたので、抵抗なく受け入れることが出来ました。

 でも、本書は新書なので、情報収納量が限られているので、一つ一つ、専門用語を説明できないので仕方ないかもしれません。

 さて、本書は、生物の死を扱っていますが、「死」の前に「生」を知らなければなりません。最新科学が教えるところによると、まず、138億年前にビッグバンにより宇宙が誕生し、46億年前に地球を含む太陽系が生まれます。太陽との距離など絶妙な「度重なる偶然」と奇跡により、地球では38億年前に生物が誕生します。勿論、アミーバのような単細胞です。

 多細胞生物が誕生したのは、10億年前です。この後からが、著者の小林教授の説と私の勝手な解釈を取り入れたものですが、またまた「度重なる偶然」で、生物は、生まれ変わり(「ターンオーバー」という言葉を教授は使ってます)を繰り返し、遺伝子の変化で生物の多様性が生まれ、進化することで生物をつくっていったというのです。(生物が進化したのではなく、逆に、進化することで生き延びる生物が生まれていった、ということです)その進化する際には、生物は絶滅(死)という形態を選択するために、いわば、死は、生物が生態系や環境変化に適応して生き残っていけるように、進化のプログラムとして繰り込まれているということなのでしょう。(つまり、生物は死なないと進化しない。進化しないと生き延びることができない)

 当たり前の話ながら、生物にとって死は必然であり、ヒトも例外ではないということです。そもそも、自然界で、動物のほとんどは捕食(食べられてしまう)されるか、餓死するかで、天寿を全うできる生物はヒトか、大型の象さんぐらいです。魚のサケは産卵すると死んでしまいますし、昆虫のほとんども生殖活動の後は直ぐに死んで世代交代してしまいます。(地球上に名前が付いている生物種は180万種存在し、その半分以上の97万種が昆虫!)

「銀座スイス」元祖カツカレー1430円 名物ですが、ちょっと高価だなあ、と思いながら食しました

 38億年前に地球上に生物が誕生して以来、過去5回、大量の絶滅の危機があったといいます。その一番の「最近」が6650万年前のことです。中世代白亜紀で、恐らく、ユカタン半島への隕石の衝突により、気候が激変して恐竜など生物種の70%が絶滅したというのです。

 しかし、逆に、そのお蔭で、つまり、恐竜が絶滅したお蔭で、哺乳類が生き延びて霊長類が生まれ、今のような「ヒトの時代」が誕生したことになります。

 とはいえ、46億年の地球の歴史、38億年の生物の歴史から見れば、「ヒトの時代」などほんの瞬きするほど「一瞬の時間」です。恐竜の時代は1億6000万年間も繁栄しましたが、現生人類はせいぜい20万年前に誕生し、農耕生活を始めたのはわずか、たった1万年ですからねえ。

◇100万種が絶滅の危機

 この本には、恐ろしいことが書かれています。生態系を評価する国際機関IPBES(Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)によると、地球に存在する推定800万種の動植物のうち、少なくとも100万種は数十年以内に絶滅の可能性があるというのです。小林教授は「そのペースは、これまでの地球史上最高レベルです」とまで書いています。

 それ以上は書かれていませんが、ここまで書かれると、私なんか、別に皆さんに恐怖を煽るつもりは全くありませんが、人類滅亡の危機すら感じてしまいます。

 恐竜絶滅と同じですが、恐竜の場合は、不可抗力というか、自然災害によるものですが、人類の場合は、自らの手で地球環境を破壊し尽して、生態系を壊した故意の結果ですから自業自得です。

 今からでも遅くはありませんから、国連の提唱するSDGsを含め、環境保全運動を広め、生態系を元に戻して、少しでも絶滅種を少なくしていくしか人類が生き延びていく道はないことでしょう。宗教や覇権主義などで、国際間で人類がいがみ合っている暇などないはずです。

 この本に巡り合ってよかったです。色々と考えさせられました。

【追記】

《日本人の平均寿命》

・旧石器〜縄文時代(2500年前以前)13〜15歳(人口10万〜30万人)

・弥生時代 20歳(人口60万人)

・平安時代 31歳(人口700万人)

・室町時代 16歳(天災と戦乱等による)

・江戸時代 38歳

・明治・大正 女性44歳、男性43歳

・戦時中 31歳

・2019年 女性87.45歳、男性81.41歳

ヒトの最大寿命は115歳か

【再追記】

 またまたcoincidence(偶然の一致)です。朝日新聞10月3日付日曜版「Globe」で、英ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ名誉教授(78)が、国内総生産(GDP)の成長至上経済主義を重視するのではなく、持続可能な自然資本を重視するべきだと主張しています。

 人類は、温室効果ガスの排出や熱帯雨林の伐採など自然資本である環境を破壊して経済発展をしてきたお蔭で、生物圏を劣化させ、生物多様性を減少させてきました。川の上流の森林を伐採したお蔭で、下流での洪水や土砂崩れを増やし、土壌劣化で農家の収穫物の減少につながりました。

 また、環境劣化によって、より頻繁に新型コロナのような病原体が人間の経済活動の中に出現するようになった、とダスグプタ氏は分析しています。私は、自然科学者だけでなく、経済学者までも問題意識を共有していることを知り、安堵しました。地球人78億人が手を合わせて、地球環境保全に全力を尽くすしかありません。

 

新企画「築地ランチ」で「わだ家」訪問=「豚丼」の帯広に行きたくなった

 大型企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の5回連載は、流石に疲れました。何が疲れたかといいますと、「眼」ですよ。通勤電車の中で、スマホの小さな画面で一生懸命に校正をしていたりしたので、今でも眼痛が止まりません。しかも、本もパソコンも活字もボケるようになり、こりゃ、やばい。

 最近、老人力もついてきて、先日ZOOMセミナーに参加しましたが、講師の山室信一京大名誉教授の話し方があまりにもの速いので、メモを取るのが追い付かず、深い挫折感を味わわせてもらいました。記憶力も落ちたのでしょう。

 しばらく、ブログは休ませてもらおうかなあ、と思いましたが、本日行った「銀座ランチ」ならぬ「築地ランチ」のことを書きたくなり、短く書かせて頂きます(苦笑)。

 場所は、築地の場外市場の突き当りにある波除(なみよけ)神社の近くです。

 お店の名前は「わだ家」。名前から分かるかもしれませんけど、何と、オーナーは歌手の和田アキ子さんなんだそうです。

 この店を教えてくれたのは会社の同僚のO氏。彼は、メディアやネット情報は信用していませんから、孤独のグルメの井之頭五郎さんのように、自分で足で稼いで偶然見つけた店に入ることが多いといいます。

 「わだ家」が和田アキ子さんの店だということは後で分かったことでした。

 芸能人の店だから、そして、築地という場所柄、「高い」というイメージでしたが、上の写真のランチメニューでお分かりのように、滅法安いのです。

 コーヒー付きでこの値段は、他になかなかありませんよ。ですから、皆様にも御紹介したのです。(宣伝費はもらっていません!=笑)

 小生が選んだのは、「牛焼肉と関西風おうどん」です。お味は、正直、浅草の「今半」には負けるかもしれませんけど、この値段でこれだけ食べられるのですから、最高です。関西風うどんはコシがあって、量もあって、旨い。

 次回は、懐かしい帯広時代を思い出して「豚丼」でも注文しようかなあと思っています。「豚丼」の発祥地は帯広です。もう15年以上昔ですが、帯広時代は、20軒ぐらいは回ったと思います。

 一番のお薦めは、豚丼の発祥店を自任するJR帯広駅前にある「元祖 ぱんちょう」ですかねえ。あれっ?最近、東1条の仮店舗に移転したみたいですね。何と、私の職場があった十勝毎日新聞社の近くじゃありませんか。懐かしいなあ。また、温泉にも恵まれた帯広に行きたくなりましたよ。

33社全部回ったけどまだ足りない!=明治の銀座「新聞街」めぐり(5)完

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」は、今回、第5回で、めでたく完結にしたいと存じます。江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていた「東京で刊行された主な新聞」のパネルに掲載されていた明治に創刊された新聞社、33社を全て回りました。

 歩きましたねえ。実は、タネを明かしますと、昼休みの1時間の範囲内で取材をしたので、ランチ時間以外の実質30分間で取材を強行致しました。となると、当然、パネルに掲載されていた地図とにらめっこしながらの駆け足取材です。恐らく、妙な怪しい人間に見られたことでしょう。

銀座・資生堂パーラー

 最終回は、銀座7丁目と8丁目の間を南北に走る「花椿通り」近辺にあった残された新聞社を回りました。

 花椿は化粧品会社の「資生堂」のマークですから、この会社にちなんで付けられた通り名だと思われますが、諸説あるようです。資生堂は化粧品だけでなく、高級レストラン「資生堂パーラー」も有名です。あたしも、「銀座ランチ」企画で一度、ここで2860円のオムライスを体験致しました。

 その資生堂パーラーは、もともと「資生堂薬局店」と言ったらしく、ここで明治35年に日本で初めてソーダ水やアイスクリーム等を製造販売したと記録に残っています。

銀座7丁目 ヤマハ=㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降)

 まず、出発点は、銀座7丁目の信楽通りにあるヤマハ・ビルの裏側です。パネル地図によると、ここに、㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降) があったようです。

 実は、この新聞、3カ月しか続かなかったようですし、実体についてはよく分かりませんでした。

銀座7丁目 ヤマハ、日新堂=⑮いろは新聞(1879年12月あづま新聞~1884年11月勉強新聞)

 花椿通りを北に銀座通りに出て、ほんの少し、京橋方面を歩くと、銀座7丁目のヤマハ・ビル(正面)と高級時計販売の「日新堂」があります。この辺りに、明治には、⑮いろは新聞(1879年12月~1884年11月)がありました。

 この新聞は、前回の「今日新聞」(都新聞~東京新聞)の中で取り上げた仮名垣魯文が1879年12月に創刊したもので、前身は「安都満(あづま)新聞」。花柳界のゴシップ記事を中心とした庶民向けの娯楽新聞と言われました。1884年、「勉強新聞」に改題されますが、ほどなく終刊しました。

銀座8丁目の新築ビル(7丁目のモンブラン銀座ビルの向かい)=⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月)

 銀座通りを新橋方面に向かって、花椿通りを横断すると、銀座7丁目のモンブラン(万年筆)銀座ビルの向かいの銀座8丁目に、現在、新築ビルが建設中です。あれっ?以前、何のビルだったか、思い出せません。日本人はすぐ古いビルを壊してしまうので、明治の人が見たら吃驚することでしょう。欧州では200年、300年も昔の建造物を今でも現役として使っているのですから、それとはえらい違いです。とにかく、ここには、⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月) 社がありました。

 この新聞も仮名垣魯文が1875年11月に創刊したもので、この後に、先程のいろは新聞を創刊しますから、順番が逆でしたね(苦笑)。ニュースよりも、戯文、読物や劇評などが中心だったようです。

 仮名読新聞からいろは新聞まで歩いて数十秒。仮名垣魯文は、目と鼻の先で引っ越したわけですか。

銀座8丁目 ア・テストーニ銀座ブティック=⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)、㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月)

 銀座通りの歩道をもう少し、新橋方面に向かって歩くと、 銀座8丁目にイタリアの高級ブランド「ア・テストーニ」銀座ブティックが入居したビルがありますが、ここには⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)と㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月) がありました。

 問答新聞は、私も初めて聞く名前で、よく分かりませんが、江戸東京博物館のパネルの説明とは違って、国立国会図書館所蔵では、同紙は、明治9年(1876年)6月に四通社から創刊され、明治12年(1879年)9月に、376号で廃刊したようです。

  国会図書館デジタルコレクションを見ると、内外政党事情は、明治15年7月、中村義三編著で自由出版から発行され、日本と海外の政党について詳述した雑誌で、どう見ても新聞には見えませんね。

銀座8丁目 河北ビル、第3一越ビル=⑫真砂新聞(1878年7月~9月)

 再び、銀座7丁目交差点に戻って、花椿通りを北上することにします。残りはわずか3社です。

  東西を走る並木通りに近い銀座8丁目にある河北ビルと第3一越ビル辺りにあったのが、⑫真砂新聞(1878年7月~9月)です。 写真の喫茶店「プロント」には昔よく入ったものでしたが、明治時代、ここが新聞社だったとは!

  真砂新聞は、前回取り上げた我が国初の夕刊紙⑩「東京毎夕新聞」(高畠藍泉主宰)の創刊半年後に経営者が代わって改題し、朝刊となった新聞でしたね。この後、東京真砂新聞と再び改題して、まもなく廃刊した、と前回書きましたが、この後、さらに、「みやこ新聞」(都新聞とは別会社)と改題し、読売新聞創刊時の初代編集長だった鈴木田正雄(1845~1905年)も入社しました。この人に関しては、第1回の「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」の⑯「鈴木田新聞」で取り上げました。

銀座8丁目プラーザ銀座ビル=㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降)

 花椿通りをさらに北上して、東西を走る広い西銀座(外堀)通りに差し掛かったところに、銀座8丁目のプラーザ銀座ビルがあります。なあんだ。柳宗悦らが中心になって起こした民藝運動の作品を販売している「たくみ」の隣りだったんですね。ここには、㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降) があったといいます。

 同盟改進新聞は、よく分かりませんが、名前から言って改進党系の新聞だったのではないかと思われます。後に「万朝報」を創刊する黒岩涙香が1883年に主筆となってジャーナリストとしてスタートした新聞のようです。

銀座8丁目 ニッタビル=⑱明治日報(1881年4月~1885年11月)

 おお、やっと最後の新聞社に辿り着きました。

 花椿通りを北に行くとコリドー街に突き当たりますが、その銀座8丁目のニッタビル辺りに、⑱明治日報(1881年4月~1885年11月) がありました。パネルの地図が少しアバウトなので、これは推測ですが。

 明治日報は、明治14年に忠愛社から発行され、西田長寿著「明治時代の新聞と雑誌」(至文堂、1961年)によると、政府から資金援助を受け、「頑固な保守主義的立場をとった新聞」だったようです。

 以上、やったー、終わったー!と言いたいところですが、気になったのは、 江戸東京博物館(東京・両国)のパネル「東京で刊行された主な新聞」に載っていなかった明治に銀座で発行された新聞社です。

 例えば、先ほどの黒岩涙香が明治25年に創刊した「万朝報」です。確か、銀座・並木通りにあった映画館「並木座」(1953~1998年)があったところに、社屋があったという話を聞いたことがありますが、ウラは取れず仕舞いです。

 あと、徳富蘇峰が明治23年に創刊した「国民新聞」がパネルに掲載されていないのはどうしてなんでしょうかねえ?文明開化の明治初期に創刊されたわけではないから、という理由でしょうか?とにかく、日露戦争の講和条約に不平不満を抱いた群衆による日比谷焼き討ち事件がありましたが、その際に、国民新聞社も襲撃された歴史的跡地なのですが。

 恐らく、リクルート銀座8丁目ビル辺りにあったものと思われますが、どなたか詳しい方からコメントで御教授頂くと嬉しいです。

◇忘れちゃいけない報知新聞

 おっと、忘れるところでした。郵便報知新聞は何でパネルに載っていないんでしょうか?明治5年(1872年)、1円切手にも採用された前島密(ひそか)が、秘書の小西義敬を社主として創刊させた政論新聞です。明治5年ですから、文明開化の初期のはずです。1881年に矢野龍渓が小西から譲渡されて社主となり、改進党系の新聞となりますが、それを前後として、私の好きな栗本鋤雲や、犬養毅、尾崎行雄らも在社した明治の新聞には欠かせない重要新聞なのですが。

 郵便報知新聞は1895年、三木善八が買収して「報知新聞」と改題し、政論紙から大衆紙に転身。明治末には東京で第1位の発行部数を誇りますが、昭和に入り経営不振となります。1930年には講談社の野間清治が買収しますが、状況は好転せず、1942年には、読売新聞が、当時社長だったあの三木武吉から買収合併します。報知新聞のブランドは、東京では名高かったので、当初は3年ほど「読売報知新聞」の題字で発行していました。(戦後は、読売系のスポーツ紙として報知新聞は復活)

 そう言えば、報知新聞の本社は、有楽町のビックカメラ(その前はそごうデパート)にありました。そこには今でも「よみうりホール」があり、土地建物は読売不動産の所有となっています。ということは、郵便報知新聞は、明治5年に創業した時の本社もここにあったのかもしれません。有楽町は、正確に言うと銀座ではないので、それで、江戸東京博物館のパネルに郵便報知新聞が登場しなかったのかもしれません。これもまた、皆様の御教授をお待ちしています。

読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転=明治の銀座「新聞街」めぐり(4)

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第4弾です。ほんの一部ですが、斯界から大好評を得ておりますので、皆様からの情報提供や、間違いの御指摘等頂けましたら幸いです。

 えっ? それとも、そろそろ飽きてきましたか? 勘弁してください。あと、2,3回ほどで、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていたパネルの「東京で刊行された主な新聞」33社を全て廻ることができるのですから。

銀座4丁目弥生ビル=㉚今日新聞

  明治に㉒「日の出新聞」があった銀座4丁目の衣料品店「GAP」が入居しているビルの前の並木通りを京橋方面に進むと、同じ 銀座4丁目の角に弥生ビルがあり、ここに㉚「今日(こんにち)新聞」 (1884年9月~1888年11月) があったことがパネルの地図で分かります。

 この今日新聞、実は継承する新聞が現在でも残っているのです。まずはこの新聞は、1884年9月、小西義敬が創刊した夕刊紙で、「安愚楽鍋」などの戯作で知られ、もともと「横浜毎日新聞」や自ら創刊した「仮名読み新聞」「いろは新聞」などで活躍した仮名垣魯文主筆に迎えた新聞でした。これが、1888年に「みやこ新聞」に改題されて朝刊紙となり、その翌年、「都新聞」と再改題されます。

 都新聞は、黒岩涙香を主筆に迎え、その後、1919年には、商店の小僧から身を起こした福田英助が買収し、芝居や演劇、そして証券、商況欄などに紙面を割き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で部数を伸ばし、東京の有力紙になりました。(東京帝大生だった津島修治=太宰治が、都新聞の入社試験に落ちたほどです)

 しかし、先の大戦中の1942年10月1日の新聞統合で、徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」と合併させられ、「東京新聞」となるのです。この新聞は戦後まで続きましたが、経営が悪化し、1960年代、名古屋の中日新聞に経営権が譲渡されます。戦前、国民新聞が中日新聞の前身である新愛知新聞にテコ入れを受けていたという縁がありました。というわけで、現在、東京新聞は中日新聞東京本社発行として続いているのです。

 東京新聞が今でも文楽や歌舞伎など古典芸能の報道に力を入れているのは、都新聞からの伝統の継承だと思われます。

銀座4丁目 銀座三和ビル=⑩東京毎夕新聞(1877年11月~1878年11月)真砂新聞へ

 ㉚今日新聞社跡から松屋通りを南下し、銀座通りを渡ったところにある銀座4丁目の三菱UFJ銀行(銀座三和ビル)には、⑩「東京毎夕新聞」(1877年11月~1878年11月)社がありました。

  この新聞は1877年11月に、高畠藍泉が創刊した日本最初の夕刊紙でしたが、経営不振のため,翌年6月、譲渡されて朝刊紙となり、「真砂新聞」、さらに「東京真砂新聞」と改題されましたが、ほどなくして廃刊したようです。

銀座3丁目 銀座オーミビル=㉓自由新聞(1882年6月~1885年3月)

 松屋通りを2ブロック南下して、銀座三原通りを左折したところにあるのが、銀座3丁目 銀座オーミビルで、ここにはかつて、㉓「自由新聞」(1882年6月~1885年3月)社がありました。

 自由新聞は、1882年6月に創刊された自由党の日刊機関紙で、板垣退助を総理とし,馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉らを社説担当して、改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』などに対抗して論争した、これまた明治期の重要新聞です。紆余曲折の末、1895年まで存続したようです。末期は、自由党とは無関係になり、幸徳秋水も在籍したといいます。

銀座1丁目 奥野ビル=⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月)

 銀座三原通りをさらに京橋方面に向かって歩くと、銀座1丁目にとりわけ目立つ古いビルがあります。珍しく戦災の被害を免れた奥野ビルです。1932年に竣工された時、「銀座アパートメント」と呼ばれ、さぞかし当時は近代的なビルだったことでしょう。今ではもう築90年近く建ちますが、現役で、ギャラリーやアンティークショップなどが入居しています。明治時代、この辺りに、⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月) があったようです。

 これは、都新聞の流れを汲む東京新聞とは違うようですが、この新聞に関しては、まだ調べ尽くしておらず、よく分かりません。江戸東京博物館のパネルでは、「東京さきがけ新聞」として創刊されたようですが、これもまだ調査中です。(東京魁新聞社なら大正時代も続いていたようですが、この新聞と同じか?)

銀座2丁目メルサGINZA=⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)

 気を取り直して、北上して銀座通りに戻ると、 銀座2丁目にメルサGINZAがあります。「銀座ランチ」めぐりで、メルサに入居している台湾料理の「金魚」に入ったことをこのブログに書いたことがあります。明治時代、ここには⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)がありました。

 この新聞は、熊本県天草市出身の改進的平民民権主義者・宇良田玄彰(1841~1903年)が明治11年に創刊した政治新聞です。

 と書きながら、不勉強で初めて知りました。ネット上に詳細なサイト「自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑」がありましたので、御興味のある方は、そちらを拝読されたし。

銀座1丁目 千歳興産京橋三菱ビル=③読売新聞(1874年11月~健在)

 さあ、今回最後に登場するトリは、やはり、天下の③読売新聞(1874年11月~健在)です。 銀座通りを京橋方面に向かい、銀座1丁目の千歳興産京橋三菱ビル がその跡地です。いつぞや、このブログでも取り上げたことがありますので、今回はさらっと。

 読売新聞社の社史によると、読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門で創刊され、ここ銀座1丁目に社屋が移転されたのは、1877年(明治10年)5月のようです。1923年(大正12年)8月に東京・京橋区西紺屋町(現銀座3丁目、かつて銀座プランタン、今はユニクロが入っているビルと隣りのマロニエゲート銀座ビル。それらの屋上近辺の壁に「読売新聞」のロゴがあるので、土地と建物はいまだに所有しているようです)に移転するまでここに本社を構えていたことになります。

 明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉ら文豪が入社して健筆を振るい、特に、尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載で部数を伸ばしたと言われますが、読売の若い記者は知らないかもしれませんね(笑)。

 その後、読売は、関東大震災で壊滅的な被害を受けて経営難に陥りますが、「虎の門事件」の責任を取って警視庁警務部長を退職した正力松太郎が、後藤新平の援助で読売を買収し、急成長していく話は、このブログで何度も書いたことと思います。

偶然の一致に驚く毎日=非科学的不可知論的考察

 本日のタイトルは厳めしいのですが、単なるエッセイです(笑)。

 我々は現在、科学の世界で生きています。法曹界でも、マスコミ業界でも、何でもエビデンスなるものが求められます。今のようなコロナ禍では当然の話で、何度も何度も科学的治験を経て、やっとワクチンが開発されます。

 その一方で、私自身は、非科学的なものに惹かれることがあります。それは、私だけでないでしょう。特に、本日は秋分の日、お彼岸の中日です。この時期は、御先祖さまの魂と通じやすいということで我々はお墓参りするわけですが、科学的に証明されているわけではありません。

 やはり、堅くなってきたので、話を変えましょう(笑)。

中秋の名月イヴ(9月20日)

 私は、いまだに科学的に証明されていない霊魂や透視や背後霊なるものの存在を信じてしまいます。

 今から30年近い昔の1995年のことですが、「ヒーリング・ハイ オーラ体験と精神世界」(早川書房)を書かれた作家の山川健一氏にお会いしてインタビューしたことがあります。山川氏は、人の背後霊のようなオーラの色が見える、というのです。同じ人でも、体調によって色が変わるというのです。この時、最も印象に残ったのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーの話でした。山川氏が見たミックは、ステージの上では彼のオーラは紫色に燦然と輝いていたのに、ステージを降りて、群衆に紛れ込んだりすると、白っぽくなって輝きがなくなってしまったというのです。「つまり、街の中では、普通の人になって、自分の存在を消そうとしてるんじゃないでしょうか」と山川氏が話したことは今でも忘れません。

 確かに、非科学的話ではありますが、こういう話は嫌いじゃありませんね(笑)。透視や背後霊の話については、他にも沢山あるのですが、別の機会に譲ることにして(笑)、本日は自分のことを書きます。私には「予知能力」があるのではないかと思うことがあるのです。

 失礼! 予知能力は大袈裟でした。いつ地震が起きるのか、とか、いつ火山が爆発するのかといった予知能力は私には全くありません。ただ、何となく、といった感じの「予感」がよく当たったりするのです。それも、本人の自覚なしで。

 この《渓流斎日乗》ブログを長年、ご愛読されてくださる皆様なら御存知だと思いますが、私のブログにはちょくちょく、「シンクロニシティ」が登場します。シンクロニシティとは、自分の考えていたことが実際に起こったりして、その「偶然の一致」に驚くといった程度の話です。もしくは、以前、どこかで何となく見たことがあるといったデジャヴュ(既視感)の話です。英語で言えば、ユングの心理学用語であるシンクロニシティというより、コインシデンスcoincidence(偶然の一致)の方かもしれません。

東京・銀座

 私は毎日、このブログを中心に生活しておりますが(笑)、先日、夜中にふと目覚め、このブログの記事の中で一番アクセスとコメントが多い「駅前食堂」(2008年5月28日)のことを思い浮かべました。これは、小学校の教科書に載っていた随筆で、とても印象に残りながら、作者もタイトルも分からない、どなたか、御存知の方いらっしゃいますか?と投げかけたところ、10件以上もコメントを頂いたのです。今、読み返したところ、デジャヴ(既視感)からこの作品のことを思い出した、と書いています。

 一昨日の夜中に、ふと、「沢山コメントをもらった『駅前食堂』の記事があったなあ」と、軽く思ったところ、何と、昨日の9月22日に羽藤さんという方から、この記事に対してコメントをお寄せくださったのです。もうすっかり忘れ去られているはずなのに、「えっ!」ですよ。これでは、「予感が当たったぞ!」と、私自身の予知能力を皆様に自慢したくなったわけです(笑)。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)DVD 1980円

 実は、これだけではありません。9月19日付のブログに「価格破壊と技術革新でDVDが安く買えるように」という記事を書き、ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のDVDをCDよりも安い1980円で購入したことを書きました。

 そしたら吃驚です。

 昨日、有楽町の三省堂書店でNHKラジオの「まいにちフランス語」10月号のテキストを購入したところ、10月(正確には9月30日)から来年3月までの半年間、このドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の台本全体を48回に分けて読み通す講座が始まることが分かったのです(講師は、川竹英克・明大名誉教授)。

  魂消ましたねえ。まさに、またまた偶然の一致、コインシデンスです。

尾張町交差点は情報発信の拠点だった=明治の銀座「新聞街」めぐり(3)

 明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。

 例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。

銀座5丁目 「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル=㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月)

 銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。

  まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。

 ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。

銀座5丁目 日産ショールーム ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月)

  「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。

 その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。

 ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。

銀座4丁目 三越 ④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月)

 「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。

 と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。

 いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。

銀座4丁目 服部時計店 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月)

 やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。

 幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)

 曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。

 いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。

銀座4丁目 浜一・和光ビル=⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)、㉙自由燈(1884年5月~1886年1月)

 この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。

  新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。

銀座4丁目 GAP ㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月)

 晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。

 明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。

 皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。

東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり(2)

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。

価格破壊と技術革新でDVDが安く買えるように

 大学ではフランス語を専攻したこともあり、若い頃は、明治の人みたく「西洋かぶれ」でした。見るものも、聴くものも、つまり、美術も音楽も、泰西絵画やロック、クラッシック音楽一辺倒でした。年を取ると、雪舟や光琳、若冲、北斎などの方が遥かに好きになってしまったのとはえらい違いです。

 やはり、日本人は、「侘び寂び」に落ち着くものなのでしょう(笑)。

 それでも、若い頃、実現できなかったものは、いまだに尾を引いています。例えば、ズバリ、オペラ鑑賞です。泰西絵画は色んな国に旅行して、美術館で直接、見ることができましたが、オペラとなると、そう簡単にチケットも手に入らず別です。クラシック音楽なら、何とかCDを買い揃えて、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでもブラームスでも、かなり聴くことができましたが、やはり、オペラの場合、CD音源だけ聴いていてもピンときません。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(フィリップス)CD 6000円

 何と言っても、日本人にとってオペラの敷居が高く、手が届かなかったのは、その価格です。今でこそ、新国立劇場が出来て、以前より安くはなりましたが、世界最高峰のウィーン・フィルの「引っ越し公演」ともなると10万円以上は覚悟しなければなりませんからね。

 オペラは、舞台は諦めて映像を見ることにすると、かつてはビデオかレーザーディスクでした。それが、当時でもかなり高い。安くても8000円とか1万円とかでした。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)DVD 1980円

 そしたら、本当に吃驚大仰天です。今では、オペラのDVDがCDよりも安く買えるんですね。上の写真の ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)、ピエール・ブーレーズ(1925~2016年)指揮、ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団のDVD(1992年録画)が何と、たったの1980円 だったのです。

 このDVDは、銀座の山野楽器で購入したのですが、そのきっかけは、映画の「METライブビューング」の新聞広告でした。METとは、勿論、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のことです。演目に「カルメン」「椿姫」「セヴィリアの理髪師」などが並び、「いっちょ、全部、観てみるか」と思ったのです。鑑賞料金は3200円、「ワルキューレ」は4200円となっていました。私は歌舞伎も映像版で見ても抵抗はないので、早速、観に行こうと思いました。

 それと並行して、NHKラジオの「まいにちフランス語」応用編で「たずねてみよう、オペラ座の世界」を今年1~3月に放送、7~9月に再放送されて聴いておりましたが、他にも今まで鑑賞したことがない「くるみ割り人形」や「ジゼル」「ホフマン物語」なども取り上げられていて、是非とも一度観たくなり、色々と、ネットで検索していたのです。

 そしたら、このドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のDVDがわずか1980円で販売していることを知ったのです。 私がかつて購入していた「ペレアスとメリザンド」の「音しかない」CDが、1993年頃、初めてCD化されたフルネ指揮、コンセール・ラムール管弦楽団による名盤(1953年録音)とはいえ6000円もしましたからね。

 実は、ドビュッシーは私の学生時代の卒論のテーマの一つでしたが、「ペレアスとメリザンド」のオペラを一度も観ることができなくて、それでも偉そうに論文を書いていましたからね(苦笑)。

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(グラモフォン)2DVD 2970円

 結局、コロナ禍で映画館に足を運ぶのも面倒臭くなり、通販でオペラのDVDが、昔のCDよりも安く買えることを知って、今、少しずつ、購入し始めています(笑)。先日、今度はモーツァルトの「フィガロの結婚」を買ってしまいました。カール・ベーム(1894~1981年)指揮のウイーン・フィルで、フィガロがヘルマン・プライ(1929~98年)、スザンナがミレッラ・フレーニ(1935~2020年)、伯爵がフィッシャー・デイスカウ(1925~2012年)、伯爵夫人がキリ・テ・カナワ(1944~)という私の学生時代は雲の上の人のような存在だった歌手が演じています。(気が付いたら、今では殆ど亡くなってしまい残念です。もう映像でしか見られません)

 とにかく、デフレか何か知りませんが、価格破壊と技術革新に驚きながら、私はその恩恵を受けています。若い頃は、オペラがこんなに安く、簡単に観られるとは思ってもみませんでした。長生きはするものです。