菅新首相の背後に「ぐるなび」と京浜急行電鉄があり

 コロナ禍になる前は、誰一人も予想すらしなかった菅義偉さんが第99代の内閣総理大臣に昨日就任されました。まずは、おめでとうございます。秋田県出身の首相は初めてで、法政大学出身も初めてということで、「たたきあげの苦労人」というイメージも板につきました。

 菅氏の地元秋田県湯沢市はお祭り騒ぎで、何と「提灯行列」まで繰り出されたようです。提灯行列なんて、昭和12年12月の「南京陥落」を私は思い出しましたよ。生まれていませんでしたが…。

 閣僚人事も発表されましたが、マスコミ、特に週刊誌は、大臣の「身体検査」に余念がありません。17日発売の文春砲では、菅義偉首相本人のスキャンダルを追っていたので、早速買い求めました。出勤途中の電車の中で読んだのですが、私以外、私の目に入る範囲で、一人も週刊誌を読んでいる人はいませんでした。勿論、新聞を読んでいる人も皆無です。新聞を読まなければ、週刊誌の広告を目にしないので週刊誌の売り上げも落ちていることでしょう。私なんか数少ない上客です(笑)。

 そう言えば、電車内でも週刊誌の吊り広告も減った気がします。東洋経済によると、関西の阪急電車は、週刊誌の広告の扱いをやめたようですね。メディアの衰退は、国力の衰退に等しいのです。健全じゃありませんね。そのうち反動がくることでしょう。

 さて、菅首相の話ですが、「政商による献金とそれの見返りの政策」という明治以来の利権の構造という伝統です。

 例えば、菅氏が先頭に立って推進している最大469億円の予算がついた「Go toイート」というキャンペーン。その背後にはグルメ情報サイト「ぐるなび」の滝久雄会長が控えているようです。1996年から2012年にかけて、滝会長の広告代理店「NKB」から菅氏の政治団体「自由民主党神奈川県第2選挙区支部」と「横浜政経懇話会」に対して、計280万円献金し、ポスター制作費58万8000円請け負ったことが収支報告書に書かれているといいます。

 NKBは、滝久雄会長の御尊父の滝冨士太郎氏が創業した交通文化事業社が母体になった会社で、最初は地下鉄のベンチの広告から始めたといいます。まさに「たたきあげの苦労人」という共通点があるんでしょうか?

 「Go toイート」は、コロナ禍で大きなダメージを受けた飲食店の救済が表向きの名目ですが、結局は、菅氏の政治団体に何かと気を遣う「ぐるなび」にも還元される仕組みになっているようです。

 もう一つ、菅首相が、官房長官時代から異様な意欲を示しているIR(カジノを含む統合型リゾート)事業です。その菅氏のIR事業を推進する「横浜カジノ計画」に名を連ねているのが京浜急行電鉄です。またまた文春砲によると、京急は2014年8月にIR事業参入発表し、カジノ建設地として想定される山下埠頭へのアクセスを整備したといいます。

 その間、京急の副社長から社長、会長に昇りつめた小谷昌氏は、1998年から2013年にかけて、菅氏の政治団体「自由民主党神奈川県第2選挙区支部」に対して、確認できるだけで700万円の献金をし、京急の関連会社「京急開発」の斎藤行正社長は900万円を寄付していたといいます。

 一方の菅氏は、その見返りなのか、京急の屋台骨の一つである京急百貨店で毎年開催される「京急将棋まつり」の名誉会長を務めているそうです。

 それにしても、随分、分かりやすい政商と政策の意味深な関係ですね。こういう裏ではなく、本筋の話は、テレビや新聞ではどういうわけか、あまり報じないので、週刊誌はなくなってほしくないものです。

茶番劇にはうんざり=鴎外と漱石の違い

  自民党総裁選は、「秋田県の貧農育ちで集団就職で上京した苦労人」、実は「父親は元満鉄エリート社員でカリスマ豪農。2人の姉は大卒の高校教師。本人は法大空手部副将出身の武闘派」という菅義偉官房長官(71)が昨日、総裁に選出されましたが、もうすでに8月31日に二階派、細田派、麻生派と主要派閥が雪崩を打って推薦したことで決まっていたようなものです。国家の最高権力者を選ぶというのに、投票できない国民は、黙って茶番劇を見ているしかありませんでした。いみじくも、14日付の朝日新聞社説は「苦労人?パンケーキ好き?だからなんだというんだろう。」と菅氏のことを思いっ切り批判していました。他の大新聞が「たたきあげの仕事人」とおべっかを使っているのとはえらい違いです。

 それにしても、勝馬に乗って美味い汁を吸いたいという権力志向の人間の性(さが)を見せつけられました。裏でどれくらいの金銭が動いたのか、動かなかったのか、知る由もありませんが、それにしても得票数を見る限り「石破つぶし」は凄まじかったですね。もう石破総裁の目はないことでしょう。菅氏は16日の臨時国会で第99代首相に指名されます。

 さて、今、竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読んでいますが、色んなエピソードが満載されています。特に、明治・大正時代の首相というのは、その地位と権力は今とはケタ違いで、愛妾を何人も囲い、広大な敷地の本宅と多くの別荘を持ち、その優雅さは現代人から見ると想像を絶します。

 ただし、「諸行無常、奢れるものも久しからず」で、広大な本宅や別荘は本人の手元から離れ、今では学校になっていたり、財閥の会社寮になってたりしているのがほとんどですが…。でも、この本を読むと、これまで知らなかった意外な事実が出てきて、読みだすと止まらなくなります。

 例えば、自民党総裁選で話題になった東京・永田町の一等地にある「自由民主党本部」。ここは明治になって「文部大臣官邸」があった所だったんですね。初代文部相森有礼が住み、後に首相になる西園寺公望も文部相時代にこの官邸に住んでいました。

 西園寺公望は、いわゆる京都のお公家さんです。実家の徳大寺家から西園寺家の養子になりますが、その家柄の良さは歴代首相の中でも皇族の東久邇宮稔彦王は別格として五摂家筆頭の近衛秀麿に次ぎます。西園寺の末弟徳大寺隆麿が住友本家の婿養子となって住友吉左衛門友純(ともいと)になったため、住友財閥から援助を受けた西園寺は生涯お金に困ることはありませんでした。大正8年(1919年)、首席全権として出席したパリ講和会議には愛妾(西園寺は生涯、正式に結婚をしなかった)と大阪の高級料亭「灘萬」(東京「なだ万」)の料理長まで同行させていたといいます。

 西園寺公望は、京都から新首都東京に来てから、本所、築地、銀座などさまざまな所に住みますが、その中に内幸町があります。「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣」の著者竹内氏は、それは明治29年、内幸町1丁目(現在、東京都千代田区内幸町の2丁目)で島津久光邸の跡地だったと書いております。しかし、その後で、「ここは最初の東京府庁があった所」と書いてあったので、どうも矛盾します。

 まず、島津薩摩藩の上屋敷があった所は現在の内幸町1丁目です(2丁目ではありません)。今は、みずほ銀行東京本部やNTT日比谷ビル(その隣に、あの「鹿鳴館」もありました)などがあります。

 現在の内幸町2丁目は、今は富国生命ビルやプレスセンタービルなどがある「日比谷シティ」です。確かに、ここは東京府庁がありました。ということは、著者は混同したようです。内幸町2丁目は、江戸時代は大和郡山藩の上屋敷があった所でした。明治になって東京府庁になり、1894年(明治27年)に東京府庁が有楽町の陸軍練兵場(今は国際フォーラム、江戸時代は土佐藩上屋敷)に移転した後、その跡地の詳細は分かりませんが、プレスセンタービルは戦前、満洲映画の東京支局でした。また、日比谷シティには昭和13年から昭和48年まで、渋谷に移転する前のNHKの東京放送会館があり、私もよく覚えています。

 ◇「文士の会」は今の「桜を見る会」?

 ところで、西園寺公望は首相在任中の明治40年6月17~19日に、東京・駿河台南甲賀町の本邸に文士を招いて宴を主宰しています。参加したのは、森鴎外、泉鏡花、大町桂月、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、国木田独歩(明治34年11月から翌年2月まで駿河邸内の長屋に寄宿していた)らです。その一方で、首相の招待を辞退した人もいました。それは、夏目漱石、坪内逍遥、二葉亭四迷です。漱石も二葉亭も、恐らく、権力に阿るようなことはしたくなかったのでしょう。

 文士の会は、現代版の「桜を見る会」といったところでしょうか?

 人はいつの時代でも、勝馬に乗って甘い汁を吸いたいという権力志向の持ち主です。そんな中でも反骨精神を持って、権力からなるべく遠ざかる人もいるわけです。作家というより、勲一等陸軍軍医総監にまで昇り詰めた森鴎外は前者に近く、帝大の文学博士号まで辞退した夏目漱石は後者だったのでしょう。文士ならそうこなくちゃ。この史実を知って嬉しくなってしまいました。

 

【緊急告知】Facebookの Messengerを開けないで

 数少ないのですが、facebookで私と繋がっている皆さまに警告です。どうも乗ったられたようで、Messenger に変なメールが来たら開けないで無視してください。

 昨日のことですが、親友のT君から急に「このビデオいつでしたか?」というメールがMessenger で届き、そのビデオを見ようとしたら、見られず、見たければアプリをダウンロードするよう指示されました。そこで、そのアプリをダウンロードしたところ、私のスマホはiPhoneなのですが、「マルウエア感染が検出されました」と表示された上、「有料サブスクリプションです」とまで言ってくるので、面倒臭くなり削除しました。

 そしたら、facebook にログインできなくなり、パスワードを変えて、どうにかログインできるようになりました。でも、今度はMessenger にその新しいパスワードを入れてもログインできなくなりました。何だか、よく分かりません。

 犯人はFacebook を乗っ取って、何を企んでいるんでしょうか? 個人情報を盗むに決まってますが、思った以上にFacebook のセキュリティは脆弱だったんですね。恐らく、このマルウエアのメールは皆さんのMessenger にも拡散されていると思います。

 そしたら、加藤哲郎一橋大学名誉教授が、自身のサイト「ネチズン・カレッジ」の8月4日付記述で、「緊急アラート」として、Messeger を開かないように既に警告されていたのでした。もう1カ月以上前です!!私も読んでいたはずですが、何処か他人事として読んでいたんですね。ほとんど警戒していませんでした。

 そういう私ですから、心優しいIさんから「渓流斎さん、Facebook 乗っ取られていますよ!」とお知らせ頂くまで、全く気が付きませんでした。

 皆さんも今からでも遅くありませんから、絶対にMessenger は開けないでください。

 もし開けてしまった場合、Iさんがお勧めする以下のサイトをご参照ください。

いやあ、Facebookは本当に面倒臭い。御迷惑お掛けした皆様にはお詫び申し上げます。

 映画「ミッドウェイ」は★★☆

 「インデペンデンス・デイ」などのスペクタクル映画で知られるローランド・エメリッヒ監督の「ミッドウェイ 日本の運命を変えた3日間」を観て来ました。

 エメリッヒ監督は1955年生まれのドイツ人ということですが、何でこの時期に、太平洋戦争の「勝負の分かれ目」となった「ミッドウェイ海戦」を作品化しようとしたのか、よく分かりませんでしたが、パンフレットによると、20年間もリサーチの時間をかけて、この戦争を映像化したかったようでした。「多くの命が失われる戦争には勝者はなく敗者しかいない。だからこそ二度と起きてはならない戦いを描いたこの映画を日米の海兵たちに捧げる内容にしたかった」

 とはいえ、米ハリウッド映画という勝者側から描いた作品にしか観えないのは、私が敗者側の日本人だからかもしれません。ウェス・トゥークの脚本、つまり、ストーリーが、お涙頂戴の「家族愛に基づくアメリカ人の愛国心」対傲慢な「領土拡張の野心に燃える日本の軍人」という構図になっているからです。

製作プロダクションとフィルム・プロダクションに米国だけでなく、中国、香港、カナダが入っているのも何となく違和感がありました。これらの国側から、脚本について何らかの「意見」を具申したと思われるからです。

 しかしながら、エメリッヒ監督が歴史を捻じ曲げたわけではなく、監督得意のスペクタクルは、まさに戦争に打ってつけ(?)で、戦闘シーンは非常にリアリティがあり、まさに戦場にいるような感覚にさせられました。

 真珠湾を奇襲攻撃した卑怯で悪いジャップをやっつけるのですから、若い米国人が観れば感動ものでしょう。よくぞ「再現」したものです。

 山本五十六・連合艦隊司令長官(戦艦大和)に豊川悦司、南雲忠一・第一航空艦隊司令官(空母赤城)に國村隼、山口多聞・第二航空戦隊司令官(空母飛龍)に浅野忠信を配し、それぞれ立派な演技でしたが、海兵隊員役の若い日系人か日本人のエキストラ俳優に全く緊張感が見られなかったのは残念でした。

 映画の最後の方では、この戦場で功績を挙げた戦士たちが、何とか十字章をもらったとか、山本五十六大将の乗った飛行機が撃墜されたとかいった、よくある「説明調」の場面が続きました。もちろん、命を懸けて大前線で戦った兵士の功績の賜物でしょうが、やはり、ミッドウェイ海戦の影の主役は、太平洋艦隊情報主任参謀のレイトン大佐(パトリック・ウイルソン)だったことがこの映画でよく分かりました。レイトンは駐在武官として日本に滞在し、日本語もできる日本通であり、この映画では、日中戦争が始まった1937年に、レイトンと山本五十六が会って話をする場面から始まることも印象的でした。

 山本五十六はハーバード大学留学、米駐在武官経験もある米国通で、アメリカの国力については知り過ぎていたはずだったのに…。

 結局、勝負の分かれ目は、日本の暗号を解析して読み取った米軍の情報収集能力にあったとも言えます。恐らく、大日本帝国軍は、ここまで敵に暗号情報が漏れていたことを知らなかったと思われます。いや、恐らくではありませんね。全く知らなかったのですね。そうでなければ、山本五十六大将の搭乗機が撃墜されるわけがありませんから。

 日本は国力や物資だけでなく、情報戦争で負けていたことが否が応でも見せつけられました。

50代の若さで逝った勘三郎丈と三津五郎丈

 皆さま御案内の通り、私こと、ポルトガル、ニュージーランド、インド…とせめてランチぐらいで世界旅行したいと、東京・銀座の専門料理店を彷徨い歩いてまいりました。

 でも、今日は、日本浪漫派のように日本に回帰したくなり、ランチは異国料理ではなく、和食にすることにしました。

 向かったのは、東銀座・木挽町にある「割烹 きむら」です。いつぞやも、この店のことをこの渓流斎ブログに書いたことがありましたが、例の私の「シュトルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)の時期に当たり、今ではその記事は消えてしまったようです。

 ということで、同じような記事書くことになりますが、この店の敷地には、もともと、「六代目」の住まいがありました。六代目というのは歌舞伎役者として初めて文化勲章を受章した六代目尾上菊五郎(1885~1949年)のことです。六代目というだけで梨園の世界では通用し、歌舞伎の神さまのような伝説の持ち主です。国立劇場のロビーにある平櫛田中作の「鏡獅子」像のモデルが六代目菊五郎だといえば、お分かりになるかもしれません。

 私も勿論、昭和24年に亡くなった六代目の舞台を見たことはないのですが、親しくさせて頂いた演劇評論家で舞踊作家の萩原雪夫先生(1915~2006年)から何回も六代目の話を伺い、近しく感じてしまっていたのでした。萩原先生はよく言ってました。「僕は六代目を見てしまったから、演劇記者になったんですよ」「終戦直後、新橋~鎌倉の東海道線でよく御一緒したことがあります」「掛け声の『音羽屋』は『おとわや』じゃなくて、『お、たーわー』と言うのが通ですよ」等々。(六代目の雄姿は、今では小津安二郎監督作品「鏡獅子」などユーチューブで見られます)

 その六代目が、下谷二長町(台東区台東)の市村座から昭和2年に松竹に移籍して歌舞伎座に出演するようになった経緯などを書いた自伝的芸本「藝」(改造社)がありますが、私はその本を読んで、六代目が住んでいた木挽町の場所をやっと探り当てたのでした。1階が和食店のビルになっていました。そのビルの何階かに「中村勘三郎後援会事務所」のようなものがあったので、十八世勘三郎(1955~2012年)は、六代目の孫に当たることから間違いないと思ったのでした。

 その日は、店に入って食事して、旦那さんに確かめたら、裏が取れました(笑)。

 さて、本日のランチは、和食のはずが、特別に「牛ヒレステーキ」を注文しました。1700円。我ながら気張りました(笑)。

 勘定を済ませた後、女将さんに六代目の話をしたところ、「まあ、随分、よく御存知なんですねえ」と驚いておりました。ま、そりゃ、そうでしょう。私は、怪しいもんですから(笑)。

 でも、女将さんは打ち解けて、すっかり内輪話をしてくれました。

 「(お店は、十八世)勘三郎さんが亡くなって、(姉で新劇女優の)波乃久里子さんが(ビルの)オーナーでしたけど、手放されて、今のオーナーさんはファンドなんですよ」とまで教えてくれました。

 そして、「昔は良かったですねえ。(十世)三津五郎さんが(歌舞伎座の幕間に)ちょくちょく顔を出して、遊びに来てくれましたよ。本当に良い人でしたねえ」とまで女将さんは言うのです。嗚呼…、私がよく知るのは、三津五郎丈が(五世)坂東八十助(1956~2015年)を名乗っていた時代ですが、腰が低く、何かのパーティーで会うと、遠くからでも私を見つけて挨拶してくださるような人でした。三津五郎丈のお名前を聞いただけで、懐かしくて涙が出そうになりました。

 勘三郎丈は57歳で、三津五郎丈も59歳の若さで亡くなってしまいましたからね。歌舞伎の世界では、「五〇、六〇(歳)は洟垂れ小僧」と言われるぐらいですから、まだまだこれからでした。志半ばでさぞかし無念だったろうなあ、と思うと胸が詰まってしまったわけです。

伊藤博文は女性、山縣有朋は邸宅

 昨日のこのブログで、日産と初代総理大臣伊藤博文とのほんのちょっとした関係に触れましたが、これには種本がありました。それは竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社、2017年6月1日初版)という本でした。

 昨年たまたま購入しておりましたが、読むことはなく、積読状態でしたが、昨日から読み始めたのでした。そして、そこに伊藤博文と日産とのほんの少しの関係が出てきてまたまたシンクロニシティを感じたわけです。

 この本は、文字通り、歴代総理大臣の家系と本宅・別荘などを探った異色の研究本です。

 伊藤博文は、かなりの漁色家として知られ、婚外子も多くいました。黒岩涙香が明治31年7月から9月にかけて「万朝報」紙上で、500人以上の顕官や資産家の「畜妾」を実名住所入りで赤裸々に暴露した「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を連載しますが、その中で、伊藤博文については「大勲位侯爵伊藤博文の漁色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多し」と書かれています。妾を囲うことが半ば当然と思われていた明治の世であってさえも、伊藤博文の漁色は飛び抜けていたというわけです。(伊藤博文が寵愛した一人に日本橋芳町(現人形町)の「小奴」という半玉がいたが、彼女は、後にオッペケペーの川上音二郎と一緒になり川上貞奴として知られる)

 かなりの女好きの伊藤博文と並び、明治国家を建設するのに奮闘した人物として山縣有朋が挙げられます。彼は、「黒幕」「悪漢」「軍閥の巨魁」などと、戦後は悪いイメージが拡散されましたが、山縣は意外にも伊藤とは違って女性関係は地味だったというのです。山縣が妻にしたのは、山口県湯玉の庄屋の娘友子で、三男四女をもうけますが、次女の松子を除いて全て夭折し家庭的には不幸でした。

 山縣のいわゆる妾として名前が挙がるのは、新橋の芸妓吉田貞子(実家の日本橋の商家が没落して芸者に)ただ一人だったと言われています。(吉田貞子の実姉たきも新橋の芸妓で、こちらは三井財閥の大番頭益田孝に見初められた)

 山縣有朋が女性の代わり(?)に情熱を注いだのが邸宅、別荘、庭園でした。庭師七代目小川治兵衛の作庭による京都の「無鄰菴」や小田原の「古希庵」といった別荘や東京・目白の本邸「椿山荘」のほか、栃木県の那須野ケ原に農場まで経営していました。

 椿山荘は、山縣有朋が傘寿(80歳)を機に藤田平太郎男爵に譲渡されます。藤田平太郎の父は、長州奇兵隊出身で維新後「政商」となった藤田伝三郎で、建設・土木から電力開発、金融、新聞(大阪毎日新聞)まで経営した「藤田財閥」の創業者でした。藤田財閥の一角だった藤田観光は現在も優良企業で、ワシントンホテル、箱根小涌園、ホテル椿山荘東京などを展開していることで知られています。

 ま、有体に言えば、山縣と藤田の長州閥つながりで椿山荘はホテルとして残ったことになります。

 

フォーが食べたい、そして日産の正体

 9月も半ばになろうとしているのに、まだ気温が30度を超え、猛暑のように暑い。地球温暖化は進む。去年もこんなに暑かったっけ? 残念ながら、もう忘れています。

 こう暑いと、急にヴェトナム料理が食べたくなってしまいました。ヴェトナムは、ハノイ、ハイフォン、ホーチミン、ビンズオン省など、仕事と遊びで何度か訪れています。私の世代は、どうもベトナム戦争のイメージだけが濃厚で、行く前は、大変な国だという印象ばかりでした。

 でも、着いてみると、そんなイメージは全くなく、戦争の爪痕が残っているのはホーチミンの「戦争証跡博物館」ぐらいで、私が訪れた5、6年前は、ベトナム人の平均年齢が27歳という若々しさ(年長者は戦争で亡くなっていたということか)でした。フランスの植民地だったのに、フランス語で話しかけても全く通じませんでした。

 ハノイもホーチミンも、都市は驚くほど近代的なビルが建ち並び、ゴミも少なく清潔でした。ただし、やたらとモータバイクだらけで道路を渡るのに苦労しました。また、取材で訪れた日系企業の工業団地なども衛生管理が行き届いていて、日本の工場よりきれいじゃないかと思ったぐらいでした。

 そこで、初めて触れたヴェトナム料理は、日本人にも合って、病みつきなりました。特に「フォー」という米粉のラーメンみたいな麺料理は、ラーメンと同じような色んな味付けがあり、上に載せる具までも、鳥から豚から牛肉など本当に千差万別で、毎日食べても飽きませんでした。

鶏肉入りフォー

 ということで、ランチは、フォーがまた食べたくなって、銀座のヴェトナム料理店に向かいました。今の愉しみといったら、食べることぐらいですからね。金に糸目は付けません(大袈裟な)。お互い、いつ死ぬか分かりませんから、子孫に美田を残さず、です。

 入った店は、マロニエビルの11階にあり、結構、高級店で、フォーのランチセット(春巻きとベトナムコーヒー付き)が1650円もしました。普段の私のランチの1.5日分です(笑)。

 さすがに高級店らしく、お客さんも裕福そうでした。私の隣に座った40歳前後の女性は、文字盤を見れば一目で分かる50万円ぐらいのフランク・ミュラーの高級腕時計をさり気なくしておりました。女性客の大半は、着ているものも、ジョン・スメドレーとかストロベリーフィールズとかいかにも高級そうでした。

 肝心の料理ですが、お値段なりに、とても美味しかった、とブログには書いておきます。

◇日産の正体

 さて、昨日のこのブログで、日産自動車へ1300億円もの政府保証融資がなされ、「何で日産だけが特別待遇になるのか?」といったような趣旨のことを書きました。

 そこで、調べてみたら、確かに日産は特別な会社だということが分かりました。日産は、皆さん御存知のように、戦前は日本産業株式会社と呼ばれていました。設立者は、満洲の「二キ三スケ」の一人、鮎川義介です。鮎川は、義弟の久原房之助が1905年に設立した久原鉱業や日立製作所など久原コンツェルンが、第一次世界大戦後の慢性不況により経営不振に陥ったため、1928年にその経営再建を託されたのでした。鮎川は手腕を発揮して多角経営に乗り出し、日産自動車もダットサンなどを吸収合併して手に入れたものでした。ダットサンのダットは国産第一号車「脱兎号」の出資者DAT(田、青山、竹内)の頭文字から取ったという話は、皆さんも御案内の通りです。

 こうして、日立製作所、日産自動車、日本水産、損害ジャパン、ENEOSなどの日産グループは現在、「春光懇話会」と呼ばれています。

 そして、この春光というのは、初代総理大臣伊藤博文の子息(婚外子)の伊藤文吉(元日本鉱業社長)の雅号でした。芝公園にあった文吉の私邸(現春光会館)にグループ企業の幹部が集まり、「春光会」を開いたのがその始まりでした。文吉の長男俊夫(伊藤博文の孫)も東大法学部を卒業後、日産自動車に勤務していたといいます。

 日産は、初代総理大臣伊藤博文と縁のあった会社だったんですね。ビスマルクは「鉄は国家なり」という名言を残しましたが、その伝でいけば、「日産は国家なり」というわけだったんですか? 日本政府の皆さん。

カルロス・ゴーンさんにも聞いてみたい日産問題

 7日付朝日新聞のスクープだったようですが、5月に政府系の日本政策投資銀行が実施した日産自動車への融資1800億円のうち、1300億円が政府保証だったようですね。過去最大です。「ようです」としか書けないのは、両者とも「個別の案件には答えられない」と取材拒否しているので、真相が断定できないからです。

 でも、これは何を意味するかと言えば、もし、日産の返済が滞れば1300億円を国が補償するということで、これは国民の税金ということになります。一私企業にそんなことできるのでしょうか?

 人気ドラマ「半沢直樹」では、破綻寸前に陥った帝国航空に融資していた政府系銀行が、最後の最後になって債権放棄を拒否するという話になってましたが、あれはあくまでもフィクションの世界です。現実は、帝国航空のモデルとされる日本航空が2010年に経営破綻した際、約470億円の国民負担が生じています。

銀座ソニービル公園

 ということは、日産でも「日本経済全体に与える影響が大きい」という理由で、国民負担オッケーということになるんでしょうか。国民の理解を得られますかねえ? いっそ、ベイルートに逃亡して高級ブルゴーニュワインを飲みながら奥さんの肩を抱いているカルロス・ゴーンさんが「保証」すれば一番すっきりすると、多くの日本国民は思っているんじゃありませんか?

 コロナ禍で失業者が増大していますし、今後、日産だけの問題で済まないでしょう。それに「何であんな日産だけ優遇するんだ」という反発も出てくるかもしれません。結局、政治問題になることでしょう。

 まあ、こんなことを書いても、単なる「犬の遠吠え」で状況は変わらないでしょうが、「個人的な感想」を共有して頂けるだけでも有難いことです。

をはり

(成瀬巳喜男監督1939年作品「まごころ」のエンドロール)

成瀬巳喜男監督の手腕に脱帽=1930年代の「まごころ」と「鶴八鶴次郎」

 私生活で色々と心配事が続いて悩みが尽きません。こういう状況だと何をやってもつまらないものですね。物欲がなく、悪所に行かず、賭け事はせず、宝くじも買わず、煙草も吸わず、最近、あまり酒も呑まず、好きな音楽も聴かず、只管、四角四面、謹厳実直に振舞っているので、ますます生きているのが苦しいのです(笑)。本を読んだり、映画を観たりしてますが、実は心底から楽しめません。-まあ、こんな繰り言を書いてしまいましたが、こうして、つまらないブログを書いても旧知の人や見知らぬ人からコメント等を頂いたりすると嬉しくなり、「ま、書き続けていきますか…」という気持ちにさせてくれます。

 今日も書くことは、またまた成瀬巳喜男監督の戦前の1930年代の作品です。前回、成瀬巳喜男監督のファンクラブの方々が立ち上げた精巧なサイトをご紹介しましたが、その中で、1930年代作品のベストワンに挙げていた「まごころ」を初めて観てみました。1939年(昭和14年)、東宝東京の作品です。1939年はノモンハン事件が起きた年です。ゾルゲ事件の国際諜報団の一人、ブーケリッチがアヴァス通信(現AFP通信)記者としてこのノモンハンを取材しています。また、1939年は第2次世界大戦が始まった年でもあり、世界中で軍部が台頭し、きな臭い時代です。撮影当時は、そんな時代背景がありました。

 原作は、「青い山脈」で知られる石坂洋次郎で、同名の小説は同じ1939年に発表されていますから、凄い速さです。石坂は当時からベストセラー作家だったのでしょう。それにしても同じ年に映画化するなんて、映画監督も原作に飢えていたんですね(笑)。成瀬作品の中で、「まごころ」はあまり知られていませんが、1930年代のベストワンになるぐらいですから、確かに本当に良い作品でした。

 日本では既に、1937年から支那事変(日中戦争)が始まっており、映画は、何処か地方の駅舎の前の広場で(甲府駅らしい)、「大日本愛国婦人会」の白いタスキを掛けた主婦たちが大勢集まって、何か打ち合わせをしている場面から始まります。「大日本愛国婦人会」といっても、今では誰一人も関心を持つ人はいませんが、かつて、この団体に異様に興味を持っていた方がおり、色々と教えてもらったことがあったので、私なんか注視してしまいました。

 「銃後の守り」とも言うべき婦人会は、ざっくり言って3団体あり、第1がこの「愛国婦人会」(1901年設立)で内務省・厚生省系で、最盛期は約312万人。華族の参加も多かったようです。第2が「大日本連合婦人会」(1931年設立)で文部省の音頭取り。第3の「大日本国防婦人会」(1932年発足)は、陸軍省、海軍省の肝いりで、最盛期は905万人以上も参加しました。この3団体は1942年に国家総力戦体制ということで、「大日本婦人会」の一つに統合され、終戦まで続きます。

 映画の話から少し外れた感じですが、とにかく、この大日本愛国婦人会のリーダーが浅田夫人(村瀬幸子)で、その娘の小学校高学年らしき信子(悦ちゃん)が学期が終わり、成績が10番に落ち、代わって、信子の親友の長谷山富子(加藤照子)が1番になったという話から物語は展開します。

 子どもが主役なので、子供映画のようですが、なかなか奥が深い(二人とも演技がうまい)。浅田夫人の夫は銀行役員の敬吉(高田稔)ですが、どうやら、将来、婿養子になる条件で、学生時代に学費を払ってもらっていたらしい。夫婦関係は醒めています。

 ところが、敬吉には若い頃に好きな相手がいて、それが今は富子の母親の蔦子(入江たか子)。二人は当然、結婚できず、蔦子はある男に嫁ぎましたが、飲んだくれの甲斐性なしで、早くに亡くなり、蔦子は針仕事で家計を支え、富子を育てています。

 富子と信子は親友なので、夏休みに、川で遊んでいるうちに、信子が足を怪我してしまいます。そんな偶然の機会に蔦子と敬吉が久しぶりに再会し、噂を聞いた浅田夫人は嫉妬で怒り狂います。しかし、すぐ誤解は解け、ちょうど召集令状が敬吉のもとにも来ていて、最後は、敬吉の出征場面で終わります(恐らく中国大陸へ)…と大体の荒筋を書いてしまいましたが、80年以上昔の映画だからいいでしょう、と勝手な解釈で、悪びれた様子は見せません(笑)。ご興味のある方は御覧になってください。

 蔦子役の入江たか子(1911~95)は、前回も書きましたが華族出身の美人女優で当時の大スター。敬吉役の高田稔(1899~1977)も、当時の二枚目スターだったらしく、確かに凛々しくて、惚れ惚れするぐらい格好良い俳優です。この人、戦後になっても長らく俳優生活を続けていて、テレビの「ウルトラQ」や「ウルトラマン」まで出ていたんですね。全く知りませんでした。

 もう一つ、第3位の「鶴八鶴次郎」(東宝東京、1938年)も観ましたが、これも大傑作。長谷川一夫と山田五十鈴の二大スターの共演ですが、二人とも実に若いこと。長谷川一夫は、勝新太郎にそっくりですし、山田五十鈴は年配になってしか知らなかったので、こんな品のある美人さんだったとは…(失敬)。原作は川口松太郎の同名小説(1934年)で、第1回直木賞受賞作品なので、私も原作は読んでいましたが、こんな話だったけ?と自分の記憶力のなさにがっかりしてしまいました(笑)。

 番頭の佐平役の藤原釜足もいい味出してましたが、やはり、二大スターの魅力を存分に引き出した成瀬監督の手腕には感服しました。

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」は★★★★★

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 ロン・ハワード監督作品「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観て来ました。「ダ・ヴィンチコード」や「インフェルノ」などでメガホンを取ったロン・ハワード監督には「外れ」がないですからね。音楽映画は、4年前にビートルズのツアー・ドキュメンタリーも編集してますし、何と言っても、彼が監督になる前、俳優として「アメリカン・グラフィティ」(1973年、ジョージ・ルーカス監督)に出演している時から私は観てるので親しみを感じます。この作品は、タイトルを聞いただけで、予告編も観ないでいきなり観て来ました。

 「世界三大テナー」の一人、ルチアーノ・パヴァロッティ(1935~2007)ほど世界中に知られたオペラ歌手はいないでしょう。「パスタを3人前ペロリと平らげた」といったような舞台外の日々の行動まで報道され、私生活もパパラッチに追い掛け回されていましたが、意外と彼の生い立ちやどういう教育を受けて歌手になったのか、家庭生活はどうだったのか、知られていませんでした。

 熱狂的なファンなら知っていたでしょうが、それほど興味がない私は、この映画を観るまで、彼は少し体格の良いイタリア人(笑)だということだけは知っていましたが、それ以外はこの映画で初めて知りました。彼の父親はパン焼き職人ながらアマチュアのテノール歌手で、ルチアーノは、小学校の教師になりながら、夢を諦めず、プロのテノール歌手(1961年)になった人でした。「キング・オブ・ハイC」と呼ばれる類まれなる天性の才能がありましたが、それらも人知れぬ隠れた努力の賜物だったようです。映画の中で、あるテノール歌手も言ってましたが、テノールの音域は普通に話す声とは違った不自然な声で、それを如何に自然に聴こえるようにするかが、プロの手腕で、彼の天才も相当な努力の上に花開いたものに違いないというのです。

 映画は彼の舞台映像とインタビューのドキュメンタリー形式で、最初の妻アドゥア・ベローニと3人の娘、36歳も離れた二番目の妻ニコレッタ・マントヴァーニらも登場し、プライベートな家庭生活を語っていましたが、やはり、色々と大変だったんだなあと同情するばかり。

 「悪名高い」評判の悪いプロモーターが彼を取り巻き、「異業種」のU2のボノらロックスターとの共演や、何十万人も集める野外コンサート、そして、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとともに「三大テノール」としての世界的「売り込み」が、悉く成功していきます。失礼ながら、プロモーターたちはあまりにも貪欲そうで、人相が悪いので笑ってしまいました。それに、「ジョニー・カールソン・ショー」などの米人気テレビ番組や「TIME」誌の表紙を飾るなど、彼の人気も商業主義の権化であるマスコミの後押しが大きかったことでしょう。

 この映画では出てきませんでしたが、パヴァロッティは、完璧を求めるばかりに、何度も公演をキャンセルして、「キャンセルの王様」とまで言われ、シカゴのあるオペラ座では支配人から終身出入り禁止になったこともあったそうです。外見とは違い、かなり神経質で、傷つきやすい性格だったようです。

 悲しい時でもいつも笑顔を絶やさなかったパヴァロッティでしたが、それはエンタテインナーとして表向きにつくられたプロ魂に過ぎなかったこともこの映画で観て取れました。英ダイアナ妃らとともに慈善活動に精力を費やしたりしたのは、子どもの頃の戦争体験が大きかったから、というナレーションには少し納得しましたが、彼自身、大成功を遂げたとはいえ、幸福だったのか、不幸だったのか、観ていて分からなくなってしまいました。

 映像を通してでしたが、確かに鳥肌が立つほど、彼の歌声は心と腹の底に響き、素晴らし過ぎて、また、DVDを取り寄せてでも彼が出演したオペラが観たくなりました。私自身、1999年1月9日、東京ドームで行われたズービン・メーター指揮「三大テノール  ニューイヤー・コンサート」を観ているはずなのですが、その時、人の多さばかりが印象に残り、主役たちは豆粒にしか見えず、案外すぐ終わってしまい、その内容はほとんど覚えていないのです。

 1999年は特に忙しい年で、音楽担当記者として数多くの公演を観ていたのですが、変わり者の私ですから、「三大テノール」のあまりにもつくられた商業主義にうんざりしていたのかもしれません。(それほど凄かったのです)

 でも、こうして、13年前に71歳で亡くなったパヴァロッティという歴史的人物を映像を通して観ると、類まれな天才と同時代を生き、同じ空気を吸っていたんだという実感を味わうことができ、生きる勇気をもらった気がしました。