女優岡江久美子さんも新型コロナで=【動画】緊急事態宣言下の銀座はゴーストタウン

 女優の岡江久美子さんが23日早朝、新型コロナウイルスで亡くなったというニュースが同日午後に飛び込んできました。

 行年63歳。まだお若いですが、乳がんの手術をされた後で免疫力が弱まっていたようです。

 岡江さんは長年、TBSテレビの朝の生番組の司会役として出演されていたので、第一報はTBSでした。ご主人の俳優大和田獏さんとおしどり夫婦としても知られていました。御冥福をお祈り申し上げます。

若い人の中には、まだ危機感がなく、今度のゴールデンウィークには海や山に、そして何よりも他府県のパチンコ店へ繰り出そうと計画しているようですが、やはり、この期に及んで、ですから、自粛すべきですね。そうでなければ、為政者は、要請ではなく、もっときつい強制に変更しかねませんよ。

東京・銀座・東映映画館周辺 Copyright par keiryusai

 東京・銀座の盛り場は夕方からの書き入れ時も、ご覧のように、まるでゴーストタウンです。

 映画館も休業で、人通りも殆どなし。現実なのに、まるで映画を見るようです。皮肉ですね。この動画も、恐らく、【アーカイブ映像】として、歴史に残るかもしれません。

銀座「離亭 三ぶん」の「りゅうきゅう丼御膳」を食す

 新型コロナの感染者がいまだ判明していない岩手県にお住まいの石川先生から昨晩、電話がありまして、急に「ではメモをしてください。銀座〇丁目の〇〇、電話番号〇〇…」えっ?何ですかあ? ですよね。

 後期高齢者の石川先生は、若い頃の大半は東京暮らしで、定年退職後に郷里の盛岡市に戻ってきたのですが、東京生活が懐かしく、テレビで東京の名所や展覧会やグルメ情報等が流れると食い入るように見つめ、自分では行かれないので、このように、小生に身代わりに行くように勧めるのでした。

 昔、テレビでやっていた米国ドラマの「スパイ大作戦」みたいですね。違うかあ(笑)。

 今回、石川先生のお薦めは、どうもテレビの「酒場放浪記」みたいな番組で見たようで、昼は名物ランチをやっているらしいのです。「大分料理の『離亭 三ぶん』て店ですがね。銀座ですから、一応、高級居酒屋って感じでしょうか。昼は『りゅうきゅう丼』をやってます。ああたも暇ですから、一度食べに行ったら如何ですか?歌舞伎座の裏です。会社から近いでしょう」と仰るのです。

 いやあ、暇じゃありませんよ。りゅうきゅう丼なら沖縄料理じゃないんですか?石川先生も人使いが荒いですね。

 「ああたは、いつもつまらないブログばかり書いているから駄目なのです。だから話題を提供したまでですよ(笑)ああたみたいに、いつも安い、貧困層が食べるものばかり取り上げていては、腹の足しにもなりませんよ」

 石川先生、そこまで言いますかね。わ、わ、分かりました。行きますから、行きますよ。

 てなわけで、昼休みに早速行ってまいりました。

「りゅうきゅう丼御膳」。な、な、何と1200円。

店を出て分かったのですが、「魚の刺身を『ヅケ』に薬味とともにご飯に載せた丼。最後は出汁をかけてお茶漬けに」なる文面がお店の外の看板にありました。

 3人ほど先客がおりましたが、ほどなく入れ替わりとなり私一人に。6人掛けのカウンターとテーブル2脚というこじんまりとして、小料理屋といった雰囲気でした。

 年格好40歳前後の物静かなメガネをかけた御主人が「マグロとカツオの2種類がありますが、半分ずつにしますか?」と聞いてきたので、「じゃあ、それで」。

 普通のランチだと、事前に用意していてすぐ出てくるものですが、この店は、高級店らしく、注文を聞いてから、刺身作り。結構、時間がかかりました。手持無沙汰なので、今の状況を聞くと、「ええ、夜もやってますよ。夜8時までのおっ達しですが、流れで9時半ぐらいまでやることもあります」とのお答え。

 そうそう肝心の話を聞くのを忘れるところでした。最近、この店、テレビの取材が入ったんですか?

 「去年か一昨年の話ですよ。その方、再放送でも見たんじゃないですか?」

 銀行員にしてもおかしくない律儀そうな料理人でしたが、私も思わず、吹き出しそうになりました。ただ、その後、「どんぶりは3分の1ほど残しておいてください。お茶漬けにしますから」と言われて、何となく、中学校の生徒になった気分。

 いわゆる一つの「鯛茶漬け」のような感じになりました。そして肝心のお味は?

 美味いに決まってるじゃありませんか。上の写真で御想像あれ。

「ハルビン学院の人びと 百年目の回顧」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

通勤のバス・電車は結構空いてますが、少しでも咳をしようものなら、周囲から刺すような白い目で睨まれます。

 もちろん、マスクをしています。マスクをしないと非国民扱いです。そのうち、マスクをしない輩を見つけると棍棒で殴りつける「自警団」が跋扈することでしょう。

さて、飯島一孝著「ハルビン学院の人びと 百年目の回顧」(ユーラシア文庫)を読了しました。4月13日に初版が出たばかりの本です。

 例によって、宮さんがわざわざ自宅にまで送ってくださいました。緊急事態宣言とやらで、本屋さんまで自粛閉店してしまいました。都心の大型店舗は休業ですし、私の住む田舎の書店のほとんどは潰れてしまいました。昨日は、NHKラジオの語学テキストを買いに都心の書店に行ったら、「当面休業」の張り紙。多分、緊急事態宣言が発令されている5月6日までは閉店されることでしょう。5月号のテキストですから、間に合いませんね。どうせよ、っちゅうねん?

 「ハルビン学院」の本の著者飯島氏は、東京外国大学ロシア語科を卒業後、毎日新聞社の記者となり、モスクワ特派員を6年間も務めた人ですから、文章が読みやすい。早い人なら2時間ぐらいで読破できます。

 ハルビン学院は1920年、ロシア語とソ連事情に精通した人材を育てる目的で日露協会により中国東北地方の哈爾濱市に日露協会学校として設立されました。ということは、今年でちょうど開校100周年です。もっとも、1945年の敗戦とともに、廃校になったため、わずか25年間の存在でした。全寮制で授業料免除ということで全国の俊才が選ばれた超エリート校で学年で60~100人程度でしたから、卒業生全体で1514人です。閉校になって今年で75年になりますから、同窓会の生存会員はわずか64人で、著者の飯島氏も、執筆前は「十分な取材ができるか不安だった」とあとがきで打ち明けています。

 同書では、満鉄初代総裁や東京市長などを歴任した後藤新平が中心になって政財官界の協力で設立された日露協会のこと、1932年の満洲国建国後に日露協会学校から哈爾濱学院に改称され、関東軍の主導下になったこと、1940年には満洲国立大学に格上げされ、中国人やモンゴル人らの入学も増えたことなどハルビン学院の沿革が詳細に記述されています。

 また、卒業生にも直接インタビューして生の声を拾っています。この中で、25期の神代喜雄さんという方が登場します。奉天(現瀋陽)で育ち、ハルビン学院で学んだので、中国語とロシア語の二か国語ができたそうです。終戦後、ソ連軍の捕虜となり、2年間収容所に抑留されて帰国。共同通信(88ページに同盟通信〈現共同通信〉と書いてますが、神代氏が入社した戦後は、同盟通信は消滅しているので、明らかに間違いですね。共同通信だけでいいです)の記者を8年勤めた後、日ソ東欧貿易会に入り、日ソ経済の橋渡し役を務めた人です。

ハルビン学院 copyright par 恵雅堂出版

 個人的ながら、私の小中学校の同級生に神代京子さんという人がいますが、もしかしたら、この神代氏は、神代京子さんの父親かもしれません。7、8年前に会った時に御尊父はハルビン学院出身だと聞いたことがあるからです。その後、彼女とは急に音信不通になってしまい、確かめることができないのがとても残念です。確か、同じ小中学校の同級生に原一郎君がいましたが、彼の御尊父もハルビン学院出身だということを彼女から聞きました。

 このように、ハルビン学院出身の同窓生は異様に絆が深く、毎年4月に東京・高尾霊園での記念碑祭を行うなど結束が固いことでも有名です(今年は残念ながら中止)。卒業生にはロシア文学者の工藤精一郎や内村剛介(本名・内藤操)ら著名人がおりますが、私自身がハルビン学院と何らかの関わりを持つことになったのは、陶山幾朗編「内村剛介ロングインタビュー」(恵雅堂出版、2008年5月)を読み、このブログに掲載したことがきっかけでした。これが御縁で、編集者の宮さんと知り合い、色んな資料を提供していただき、恵雅堂出版が私の卒業した中学校の卒業アルバムの編集出版社だったことが分かり、写真は私が勤めていたマスコミの写真を使用していたことも分かり、妙な御縁を感じてしまったわけです。(このほか、恵雅堂出版の創業者の故・麻田平蔵氏らが始めたロシア料理店「チャイカ」にも何度もお邪魔しました)

現在のハルビン学院 Copyright par Duc de Matsuoqua

 実際、私も2014年に満洲旅行を決行し、哈爾濱にも行き、ハルビン学院の跡も見てきました。エリート大学が幼稚園になってしまっていました。上の写真の通り「藍天幼稚園」とありましたが、2015年頃に火災のため移転し、現在、中国空軍の管理下になっているそうです。

 このことについては、2017年10月2日に「哈爾濱学院 余話」のタイトルで書いております。藍天幼稚園は、単なるそんじょそこらの幼稚園ではなく、空軍将校の子弟が通うエリート幼稚園だったようです。

 飯島氏の本では、そこまで触れていないので、おっせかいにも付け加えさせて頂きました。また、増刷されるとき、巻末に簡単な年譜を付ければ、読者としても有難いと思いました。

東京渡辺銀行のルーツはお江戸日本橋の鮮魚商「明石屋」だったとは

 本日は1週間ぶりに都心の会社に出勤。例の「ギックリ脚」で、歩くと右太ももと右膝の後ろ辺りが痛く、ヤバイと思いましたが、何とか会社に辿り着きました。

 脚をいたわりつつ、軽く足を引きずって歩いていると、どんどん追い越されます。小さな子どもより遅いかもしれません。気が付きませんでしたが、世の中には杖をついてゆっくり歩いている人がこんなにいたとは! 彼らのスピードで歩いてみて、初めて存在が分かりました。駄目ですね、ヒトは。

 先週は外出禁止令で自宅に引きこもっていたら、パソコンのやり過ぎで、相当ギガを食ってしまいました。私の場合は、N社のモバイルWi-Fiを契約しているのですが、毎月3GB程度(何と月額968円)で済んでいたのですが、1週間で既に5GBも使用してしまいました。仕方ないので、1GBを追加(550円)し、来月は、10GBに変更(月額2508円)しました。容量は毎月変更することができ、使わなかったGBはそのまま翌月に持ち越されますので、まあまあの値段かな、と思っています。

明治元年(1868年)創業。152年の歴史を本日20日で閉じた東京・東銀座の歌舞伎座前にある弁当・仕出し屋「木挽町 弁松」。雨の中、マスコミが押しかけてました

 ところで、このブログの「コメント」欄まで御覧になっている方はいらっしゃらないと思いますが、最近、大論争になっています(笑)。いや、大袈裟でした。この《渓流斎日乗》は、相当、悔しいけど、私より遥かに頭脳明晰な方々が読者でいらしゃるので、コメントも非常に丁寧で、ハイブローなのです。

 当該ブログ記事は、小生が2017年5月31日に書いた「東京渡辺銀行が破綻しました」です。タイトルは、記事を引用しますと「東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、『渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です』などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。」から取ったものでした。

 そして、この渡辺財閥の御曹司が著名な歌舞伎評論家の渡辺保氏で、「歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。」と私は結論づけていたのです。

 これに対して、本人が書いたことも忘れてしまっている3年も経った今年4月16日に旗森さんという恐らく小生とは面識がないと思われる方から「歌舞伎見物が財閥御曹司でなければ見られなかった、というのは過大評価です。渡辺氏自身、自分が歌舞伎を見始めたころは家も小市民生活だったと書いていますし、事実、私事にわたって恐縮ですが同年の私もサラリーマン家庭で育った芝居好きです。歌舞伎座でも下町の人々は旦那から若者まで幅広く、『今でも』見ることができます。かぶきは市民が育てた舞台芸術です。玉稿は楽しませていただいていますが折角のことですので投稿しました」とのコメントが御座いました。いやあ、こんなに熟読して頂き、誠に有難いことです。

 これに対して、私は「江戸時代の歌舞伎も決して庶民の娯楽ではなく、最上席は、今の金額に換算しても2~3万円で、今とほとんど変わらなかったいいます。大奥が忍びで繰り出した江島生島事件があったように、これでお取りつぶしなる山村座を含む江戸四座は、かなり敷居が高かったと思います。つまり、お上が許した櫓座の大歌舞伎以外に小芝居があっちこっちにあり、庶民はそちらに行ったことでしょう。」などと反論しています。生意気ですね。

 これを書いた時点では出典を明記しませんでしたが、本箱を探したら片隅にありました!山本博文監修「江戸の銭勘定」(洋泉社、2017年)という本でした。それによると、歌舞伎の一枡席は銀12匁5分(3万7500円)から35匁(10万5000円)。庶民の大衆席は100文(3000円)。「大向こう」と呼ばれる2階の立見席なら10文(300円)程度で見られたそうです。むふふふ、小生も旗森氏も正しかったわけで、「痛み分け」といった感じでしょうか。小生も、学生時代歌舞伎座の3階の「一幕見席」で2000円ぐらいで見た記憶がありますが、もう少し安かったかもしれません。(現在の歌舞伎座の1等席は1万8000円)

 話はこれで終わりではなく、京洛先生の門下生を自称するAsウーノさんという方から、実に濃厚な情報が寄せられました。「歌舞伎と東京渡邊銀行・破綻では、『ぼつちやんと紙手巾』という拙稿短編(未完^_^)を書く際、暖簾分け横浜渡邊銀行の末裔渡邊俊郎氏より、初代頭取富太郎の長男和太郎についてご教示あり。和太郎は不遇とされるロンドン時代の夏目金之助に可愛がられた若者で、下宿を世話し酒を呑み雑煮を喰らい、帰国後も和太郎が早世するまで漱石と愉快な親交を結んだ由。
 東京渡邊銀行ルーツはお江戸日本橋の鮮魚商明石屋にあり、吉原花魁の如く永らく歌舞伎座は高嶺の花、大衆化した今とは大分赴きを異にしてたようですね。」などと大変ディープな情報を御教授して頂きました。

 いやはや、東京渡辺銀行のルーツが日本橋の鮮魚商だったとか、暖簾分けに横浜渡辺銀行があったことなど知りませんでした。勉強になりますね。(既に、コメントをお読みの方はダブってます。これでは木戸銭返せ!と怒鳴られそうですね=苦笑)

文学とは実学である

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

新型コロナウイルス感染拡大の経済対策として、日本の国家政府は、国民1人に10万円と1世帯にマスク2枚を支給してくれるそうです。まだ届いてませんが、有難いことです。

 でも、素直に喜んでいいものやら。マスク2枚で466億円、国民1人10万円で12兆6000億円もかかるそうです。誰が立て替えてくれるのかと思ったら、新聞には「国費」と書いてましたから、結局、税金なんですね。まさか、大黒様の打ち出の小槌で、パッと現金が魔法のように現れてくれるものでもなし。

 何か、お腹の空いたタコが自分の脚を食べて、どうにか生き延びようとしているように見えます。

 うまい! これが文学です。何か、言葉に表せないモヤモヤしている感情を何とか、文字化するのが文学だとしたら、ここ数十年、厄介ものにされている大学の文学部とやらも、こういった緊急事態に何かと役に立つというものです。

 というのも、昨晩聴いたラジオで、作家の高橋源一郎さんが、現代詩作家の荒川洋治の随筆を朗読し、その中で、「文学とは実学だ。文学は、法律や医学や経済学と同じように、実社会に役立つものだ」といった趣旨のことを、孫引きの曾孫引きではありますが、強調していたからでした。(「ながら」でラジオを聴いていたので、荒川氏の本のタイトルを失念。荒川氏は何と、芸術院会員だったんですね!どうも失礼致しました)

 確かに、ここ数年、私自身も、文学の中でも小説やフィクションは、別に読まなくても良い、世の中に直接役立たないものだという思考に偏っておりました。そのため、ここ数年は、ノンフィクションか歴史書か経済書関係の本ばかり読んで来ました。

 しかし、疫病が世界中に蔓延し、アルベール・カミュの「ペスト」などの小説(結局、カミュが創作したフィクションですよ!)が改めて注目されている昨今を冷静に見つめてみると、文学の効用を見直したくなります。

Camus “La Peste”

 今、世界中で感染拡大を防止するために、経済封鎖するか、人の生命を優先するか、の究極的な二者択一を迫られています。変な言い方ですが、今、緊急事態の世の中で、実学として役に立っているのは経済学と医学ということになります。

 とはいえ、医学も経済学も万能ではありません。医学には医療過誤や副作用や、今騒がれている医療崩壊もあります。経済学も、ソ連型計画経済は歴史的にみても失敗に終わり、資本主義は、1%の富裕層に富が集中するシステム化に陥っています。

 その点、文学の弊害や副作用は、それほど劇薬ではないので、大したものではない一方、個人の生き方を変えたり、見直したりする力があります。下世話な言い方をすれば、小説を読んでもお金にはなりませんが、ヒトとしての生きる素養と指針を学ぶことができる、ということではないでしょうか。ボディーブローのようにジワジワと効いて、読んだ人の血や肉になるということです。

 昨晩はそんなことを考えていました。

ウクレレ・トリオ「まかまか」と加藤力之輔画伯の個展

WST Nationak Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

 外出自粛で、皆さんもストレスが溜まっていることと、拝察致します。ということで、本日は、趣向を変えまして、このブログなどで大変お世話になっている先輩・芸術家の皆様の「作品」をアップすることにしました。

 まずは、満洲関連でお世話になっている宮さんが参加しているウクレレ・トリオ「まかまか」。その演奏セッションを音声ファイルで送ってくださいました。

 小生、ズブのIT音痴であるため、ブログに画像と動画を貼っつけることは、どうにかこうにかできるようになりましたが、「音声」となると初めてです。(そうでないかもしれませんが=笑)

 さんざん苦労して一日がかりで、やっとアップできたようですので、皆さまもお聴きください。

「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」

 ウクレレ・トリオ「まかまか」は、がまちゃん(リーダー 編曲)と、かずえさんのリードにバックコード演奏の宮さんの3人。極秘情報ですが、平均年齢は後期高齢者年齢をはるかに超えていると噂されています。
 お聴きになればお分かり通りの、曲はイーグルスの 「ホテルカリフォルニア」。「なかなかやるじゃん」と私は、称賛の返信を送っておきました。

 宮さんは、PDFでこの編曲の楽譜も送ってくださいましたが、残念ながら、何度挑戦してもうまくアップできず。画像でも音声でもないPDFは、どうブログに貼っつけたらいいのか…うまくいきませんでした。宮さん、悪しからず。

 もう一人は、京都の泉涌寺にお住まいの加藤力之輔画伯です。一昨年のスペイン旅行の際には画伯の奥方様には、ピカソの「ゲルニカ」を鑑賞する時など、お世話になりました。スペインでは予想外にも感染者と死者が拡大して大変心配していたのですが、奥方様も、昨夏お会いした画伯と同業者である御子息とスペイン人の奥さんとお子さんたちもお元気なようで安心しました。

 加藤画伯は、最近、京都市の同時代ギャラリーで個展を開催されたということで、その「展示風景」を送ってくださいました。

YouTubeのブログへのアップの仕方は、最近覚えたので、今回も大丈夫のようです(と、思われます)。

 音楽コンサートや歌舞伎を始めとした演劇公演もほとんど全てが中止に追い込まれ、芸術家の皆様も厳しい生活に追い込まれていると思います。

 アーティストだけでなく、何ともお困りなのは、裏方さんと言われる大道具、小道具、音声、照明さんらのスタッフだと思います。

 政府の対応の遅さには、虚脱感を味わいますが、何とかこの難局を乗り切ってもらいたいものです。明けない夜はない、ということで。

【追記】

 ウクレレ・トリオ「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」の楽譜がPDFなので、ブログに貼れない、と書いたところ、宮さんが、わざわざPDFをJPGファイルに変換して送ってくださいました。これなら画像と同じですので、ブログにアップできました。

「倭の五王」は確定できず=1600年経っても全く変わらない東アジア情勢

 このブログで4月14日(火)に書いた「1970年の『レット・イット・ビー』から半世紀も経つとは…」では、全く個人的な音楽遍歴を遠慮しながら書いたのに、コメントとメールで意外にも多くの皆様から反響を頂きましたので、吃驚です。

 音楽の話はいいですね。またマニアックな話を書きたいと思っていますが、今日は一つだけ追加しておきます。10代の頃から洋楽ばかり聴いてきた、と書きましたが、邦楽も、レコードは買いませんでしたが、結構聴きました。私が中高生の頃は、フォークソングが大ブームだったからです。吉田拓郎や井上陽水といったメジャーだけでなく、深夜放送などで、頭脳警察やNSPなど聴いている変わり者でした。当時、大人気で「フォーク界の貴公子」と呼ばれたケメこと佐藤公彦さん(1952~2017)は今どうしているのか調べたら、65歳で亡くなっていたんですね。もう若い人は誰も知らないでしょうが…。

 ニューミュージックにしろJ-POPSにしろ邦楽が厄介なのは、死んでもいいくらいという熱烈なファンがいることです。いつぞや、何かの拍子に、会社の先輩に「僕は、ユーミンとか中島みゆきとか、あまり好きじゃないんですよね」と言った途端、彼は烈火の如く怒りだし、「ファンに失礼じゃないか!」と常軌を逸した怒り方で、私も殺されるかと思いましたよ。

 前置きが長くなりましたが、今日は、昨日読破した河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公新書、2018年1月25日)を取り上げます。古代史に興味を持っていることを知った会社の同僚の矢元君が貸してくれたのでした。2年前の本ですが、凄い本でした。小林秀雄の真似をすれば「頭をガツーンと殴られたような衝撃」でした。古代史は不明なことが多く、最後は推測するしかないので、この本もミステリー小説のように、「この先どうなるのだろう」とハラハラ、ドキドキしながら読めました。

 ただ、読後感がすっきりしないのは、結局、真相がまだ分からないせいかもしれません。倭の五王とは誰のことか、決定付けられないのです。しかし、逆にそれが古代史の醍醐味なのかもしれません。

 「倭の五王」とは、西暦421年から478年にかけて、中国南朝の「宋」に使者を派遣した讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の大和朝廷の大王のことです。当時はいまだに「天皇」の称号は使われていませんでしたが、讃は、第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代履中天皇、珍は、第18代反正天皇、済は、第19代允恭天皇、興は第20代安康天皇、武は第21代雄略天皇という説が有力です。5世紀の「宋書」夷蛮伝倭国条(そうじょ いばんでんわこくじょう)に書かれ、本書では頻繁に引用されます。

 「説が有力」と書いたのは、日本の唯一の原資料である「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)と照合すると、当該天皇と在位年代が合わず、矛盾を生じるからです。しかし、倭の五王から約300年後に書かれた記紀に登場する天皇についても、実在が不確かな天皇(欠史八代など)がいたり、「万世一系」となっていながらも、疑問の余地があると主張する学説(崇神天皇と応神天皇と継体天皇の三王朝交代説)もあり、話が一筋縄ではいかないのです。

 倭の五王が使者を送ったのは、宋から爵位を得るためでした。雄略天皇と見られる五王最後の武は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられますが、その代わりに宋の皇帝に朝貢して冊封を受けるという形です。つまりは、宋の臣下になり、支配下に入ることで、宋皇帝の威信によってお墨付きを得ることです。(武=雄略天皇=ワカタケルとなると、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣にワカタケルと刻まれていることから、雄略天皇のことを記述しているとされていましたが、著者は、武とワカタケルを同一人とするのは慎重に考えるべきだと主張してます)

 倭の五王は中国の臣下だったということで、天皇神聖絶対主義の国家主義体制を敷いていた戦前では、タブーであり、倭の五王研究は戦後になって本格化するのです。(中国の史料を使って日本で最初に研究したのは室町時代の禅僧・瑞渓周鳳=ずいけい・しゅうほう=1391~1473年で、その後、江戸時代の松下見林、新井白石、本居宣長らに引き継がれます)

 3世紀の邪馬台国から150年もの長い間、中国との交信が途絶えていたのに、5世紀になって急に倭の五王が中国に使者を送ることになったのは、当時の東アジアの国際情勢が背景にあります。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権を争いが日本にも波及していたからです。大和朝廷は、朝鮮半島南部に鉄資源を確保するため任那や伽耶などを支配下に置き、百済と濃厚に結びつき、高句麗の南下攻撃で、百済の王子は日本に亡命したりしていました。中国南朝の宋は、北朝の北魏(鮮卑族)などと一触即発で対峙しており、朝鮮半島を味方につける戦略があったのでした。

 結局、宋は、高句麗を開府儀同三司(府を開く際にその儀を宰相の地位と同じくする)という最高の待遇を任じます。一方の倭は、この開府儀同三司に任じられることなく格下に甘んじることになりますが、479年の宋滅亡後は、倭は遣使を送らなくなります。

 ところで、倭の五王の名前は、何で一文字なのか気になっていたのですが、同書によると、百済の影響のようです。高句麗の長寿王は、宋に対して、高璉と名乗りましたが、姓の「高」は高句麗から取ったといわれます。百済の腆支王は餘映で、姓の「餘」は「扶余(餘)族」を標榜したことからと言われます。名の「映」は中国側の腆の書き誤りとも言われています。本当は、扶餘族は高句麗の出自で、百済とは関係ないとも言われていますが、対抗措置としてそう標榜したと言われています。

 これにより、日本の5世紀の五王の姓は「倭」ですが、名前を讃・珍・済・興・武と一文字に名乗ったわけです。本書で初めて知りました。しかも、いずれも「好字」と呼ばれる良い意味を持つ漢字を使ってます。3世紀の「邪馬台国」とか「卑弥呼」の「邪」と「卑」は、好字ではなかったことと比べると違いが分かる、という著者の指摘には目を見開かされました。

 本書では、もっともっと複雑なことが書かれています。ここまで分かりやすく書くのに大変苦労しました、と書き添えておきます(笑)。本の帯には「1600年前の『日本』の国家とは」と書かれています。宋は今の中華人民共和国、高句麗は今の北朝鮮、百済、新羅は今の韓国ですから、東アジアの国際情勢は、1600年経っても全く変わらないことが、これでよく分かるのです。

 

コデマリ、モッコウバラ、ツルニチニチソウ=新型コロナより花の名前を覚えたい

コデマリ

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令されて、テレワークや自宅待機などで家での閉じこもりを余儀なくされている人が多くなったせいなのか、この《渓流斎日乗》ブログのアクセスも増えているようです。しかも、少しご無沙汰してしまった友人とか、多分、面識のない方からもコメントが届くようになり、望外の喜びを感じます。

 本当に有難う御座います。

モッコウバラ

 このブログをお読み続けてくださっている方にはご案内の通り、小生も、この1週間は自宅待機の状態になっています。そして、もう一つ、皆さまご案内の通り、先週の8日(水)にギックリ腰といいますか、ギックリ脚をやってしまい、歩行困難になってしまったので、休養を取る良い機会になりました。

 ギックリ脚といっても、やはり、腰骨と股関節が摩耗してしまったらしく、膝から太ももにかけて痛みが走り、びっこになります。しかも、今の新型コロナウイルスのように、治ったと思ってバカにすると第2派が襲ってきます。

 スマホの万歩計によると、先週の9日(木)と10日(金)は都心まで通勤しましたから、9000歩近く歩いています。その無理がたたったのか、11日(土)は少し歩いただけで急に脚が痛くなり、1219歩。それから12日(日)から14日(火)までいずれも2000歩も歩けず。今日の15日(水)は、恐る恐る歩いてやっと6224歩を記録しました。

ツルニチニチソウ

 その間、腰痛運動をやったり、腰に効く光線を浴びたり、リハビリに専念しました。

 ギックリ脚も馬鹿にできませんね。本当に「健康なれたら、死んでも構わない」と思いましたよ(笑)。

 さて、今日アップした写真は、散歩がてらに目を楽しませてくれた花々です。キャプションにも書きましたが、表紙写真は「コデマリ」。白い小さな小さな可憐な花を咲かせてくれます。本文最初の黄色い花は「モッコウバラ」。よく豪邸の庭先に見かけていたのですが、名前は、今回初めて知りました(苦笑)。

 そして、二番目の紫の花が「ツルニチニチソウ」。ちょっと写真の写し方が、我ながら下手ですね。まあ、他人様の庭先に咲いているのを、散歩の途中に盗み撮りしたので、プロ写真家のように照明をかけたり、アングルを工夫したりする暇はありませんでした。

 植物たちは、新型コロナウイルスに感染しないからいいですね(笑)。何よりも、孤独の散策者の目を和ませてくれます。

 毎日、ニュースを見ていると、感染者や死者の数や、休業補償や失業保険や政治家の悪口や医療崩壊の話ばかりやっているので、暗い気持ちになります。

 「現実逃避」かもしれませんが、いいじゃないですか。この際、せめて身近に咲いている花の名前を覚えたいと思っています。

1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

人類は100年前の「スペイン風邪」の教訓から何も学ばなかったのか?

 今日は日曜日なのにほとんど外出せず、自宅で自粛しておりました。

 午前中に家のお掃除とトイレ風呂掃除をやったぐらいでしょうか。気分的に爽快とまではなかなかいきません。午後は疲れて、久しぶりに昼寝しました。

 こうして毎日が無為に過ぎていきます。

 新型コロナウイルスの世界的な蔓延は相変わらずです。そんな中、今、アルフレッド・クロスビー著「史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック」(みすず書房、2009年1月8日)が再注目されているようです。

第一次大戦末期の1918〜19年に世界的に大流行した「スペイン風邪」のことを扱った本で、小生は未読ですが、結局、人類は100年前の世界的インフルエンザの蔓延を忘れ、歴史的教訓を何を学ばなかった、という内容のようです。

 確かに、現代人でスペイン風邪のことを知っている人は多くはないでしょう。小生はこのブログで取り上げたことがありますが、このインフルエンザの死亡者は2500万人とも1億人とも言われ、日本人の死者も36万人とも45万人とも言われています。犠牲者の中には、フランスの詩人アポリネールやオーストリアの画家クリムト、それに日本では劇作家の島村抱月や、東京駅舎などを設計した著名な建築家辰野金吾らが含まれていたことを書きました。

 このインフルエンザは、スペイン風邪と言われましたが、感染源は米国でした。最初に発生したのがデトロイトともシカゴとも言われ色んな説があります。第1次世界大戦に参戦した米国人兵士が欧州にもたらしたといいます。世界各国が感染の実態を隠す中、スペインが率先して情報公開したため、そう命名されたと言われています。欧州から帰国した米兵が再び米国内で感染の輪を広げたといいます。第2波ですね。

 トランプ米大統領は、今回の新型コロナウイルスのことを「中国ウイルス」「武漢ウイルス」と呼ぶべだと主張しましたが、正論ではあります。ただし、その前に100年前の「スペイン風邪」のことを「アメリカ風邪」と修正しなければならなくなりますね。

 どういうわけか、当時を代表する人気作家だったヘミングウェイもフィッツジェラルドも「スペイン風邪」のことを書いていないそうです。特に、ヘミングウェイは、この疫病で恋人をなくしたというのにです。不思議というか、不可解ですね。

 アメリカ風邪なのに、スペイン風邪としたのは、アングロサクソンや米国が日頃からスペイン人を貶めるために画策したからという陰謀説があります。米国人がインディアンを虐殺したことよりも、スペイン人がインカ帝国、アステカ帝国を征服して地元民を大量虐殺した方が酷いといった類の主張です。英米人よりスペイン人の方が残酷かどうか分かりませんが、私は、とにかく、このような陰謀説には与しません。

2020年4月9日(木)午後5時半ごろ。銀座ソニービル跡公園は人影があまりにも少ない

 でも、今は100年ぶりにパンデミックが襲ってきたことは事実です。

 最近、米FRBは、1918年のスペイン風邪について、論文を発表しています。それによると、この影響により、全米で製造業の生産活動が18%押し下げたものの、収束後の19年は、都市によって経済復旧度合いが違ったといいます。流行より10日早く衛生介入(学校や教会などの閉鎖)の策を講じた都市では、収束後に雇用者数が5%増加。平均より50日間長く策を続けた都市は6.5%増といずれも急回復。製造業生産も5~7%増加したといいます。(日経新聞より)

 これに対して、「銃・病原菌・鉄」などで知られる人類生態学者ジャレド・ダイアモンドUCLA教授は、読売新聞(10日付)のインタビューに「私の住むロサンゼルス市は3月初めに非常事態宣言し、学校、飲食店の閉鎖、外出自粛要請などの対策を講じました。それでも感染が広がっています」と応えています。

 うーん、実に悩ましい話です。「封鎖」は即効薬ではないかもしれませんが、結果的には有効策だと信じるしかないようです。そして、100年前の「スペイン風邪」の教訓を学び直すべきです。