狂信的な極右国粋主義者の信条と心情はその時代の空気を吸わないと分からない気がしました=立花隆著「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」から

※アブチロン(「草花図鑑」に載っていなかったので、このブログで公開質問させて頂いたら、御親切な読者の方から御教授頂きました。有難う御座いました)

 さて、いまだに、我が家には「アベノマスク」も「10万円給付」も届いていません。マスクは、既に、御宅に届いていらっしゃる方もいて、SNSにその写真をアップしている方もかなりおられました。でも、最初に配っているのは、東京の世田谷区とか港区とか、高級住宅街にお住まいの皆様方だったんですね。私の住む所は、全国でもベスト5に入るぐらい感染者が多い地域なんですけど…。仕方がないので、道端で売っていた怪しげな中国製のマスクを買ってしまいましたよ。50枚入り3300円。昨年は、60枚入りで500円ぐらいで売っていましたからえらい違いです。都心に出勤するので、仕方ないかあ、てな感じです。

 ところで、いまだに、立花隆著「天皇と東大」を読んでいます。第3巻の「特攻と玉砕」に入り3日目ですが、まだ半分近く残っています。533ページの本ですが、昔なら2~3日あれば軽く読めたのですが、さすがに衰えました。読む速度が遅くなったのは、昭和初期の話になり、関連本が自宅書斎に結構あるので、引っ張り出して参照しながら読んでいるせいかもしません。

 この本(全4巻)は、このブログに以前も書きましたが、国際金融ジャーナリストの矢元君から借りて読んでいます。「えっ? 君は蓑田胸喜も知らないのか?」という私の諫言にいきり立った彼が、ネットで定価の2倍ぐらいのお金を奮発して買った古本で、それを私に貸してくれたのです。(この本は今では手に入りにくくなっていることは以前書いた通り。文春社長、増刷してくれたら定価で買いますよ!)

 矢元君は、経済関係にはやたらと詳しいのですが、近現代史関係の知識には疎かったのです。昭和史関連の書籍を少しでも齧った人間なら、蓑田胸喜を知らない人はあり得ないのですが、彼は知らなかったのです。

 この第3巻の「特攻と玉砕」の前半は、ほとんどこの蓑田胸喜(1894~1946)を軸として当時の世相と社会事件が描かれています。「みのだ・むねき」と読みますが、文字って、「蓑田狂気」と呼ばれたほど、狂信的な右翼の思想家でした。東京帝大時代から上杉慎吉に私淑して上杉のつくった「木曜会」「興国同志会」「七生会」に全て参加し、卒業後は雑誌「原理日本」を発行し、慶應義塾予科の教授も務めながら、国粋主義を信奉し、国体に反するあらゆる学者らを糾弾する煽動活動を行った人でした。何しろ、民本主義の吉野作造攻撃から、京大の滝川事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、津田左右吉事件、大内兵衛、有沢広巳らの人民戦線事件、河合栄治郎事件など昭和思想史上全ての思想事件の黒幕になった人でした。(実際、内務省に働きかけて、アカ学者の著書を発禁処分にするよう圧力をかけました)

 蓑田は戦後まもなく郷里熊本で自死します。主宰した「原理日本」の大袈裟な強調点の多い活字組や、目の敵にする無政府共産主義者に対しては「不徹底無原理無信念無気力思想」などいう魔術師的造語でレッテルを貼ったりするのを見ると、かなり常軌を逸した人のように見えます。著者の立花氏はそのことをもっとストレートに書いたため、雑誌に連載時に蓑田胸喜の遺族から抗議を受けます。文庫に所収された文章でも「この人は〇〇〇〇〇なのではあるまいか」とし、なぜ、伏字のままにしているのか、266ページの「一部訂正と釈明」で説明しています。

 確かに、立花氏は、当時の時代の空気を吸っていない後世の安全地帯にいる人間が、高見から蓑田胸喜らをコテンパンにやっつけ過ぎている嫌いもありますが、戦後民主主義を受けた者の大半はその痛快さに拍手喝采することでしょう。(ただし、立花氏は、89ページで、「電通社(立花注・日本電報通信社。後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社)」とだけ書いてますが、明らかに間違い。「後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社、時事通信社、電通」が正しいのです。光永星郎や長谷川才次らが怒りますよ。これで、初めて立花氏の限界を感じ、彼が書いた全てを盲目的に信じるのではなく、もっと冷静に客観的に読まなければいけないことを悟りました)

 難癖つけましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、日本人の必読書で、私自身が生涯に読んだベスト10に入ると確信しています。

 明治以来の日本の右翼の潮流として、玄洋社を率いた頭山満や黒龍会の内田良平らの九州閥の流れと、上杉慎吉と蓑田胸喜の東京帝大の流れがあり、これだけ知っていたら十分かと思っていましたら、この本ではまだまだ沢山、重要人物が登場します。その代表が「神(かん)ながらの道」を唱えた東京帝大行政法の筧(かけい)克彦と、東大帝大国史科の平泉澄(きよし)の両教授です。

 「神ながらの道」は何なのか、具体的には説明できないといいます。何故なら、「神ながら」の対極にある概念が「言あげ」で、本質的に言語による説明を拒むからだといいます。これは、あまりにも日本語的で、英語や仏語、独語などではあり得ないことですね。だからこそ、神ながらの道は、あまりにも日本的な実践学で、天皇を現人神とした神格化の権威付けと先導する役目を果たしました。


もう一人の平泉澄は、いわゆる「皇国史観」をつくり、広めた人でした。「大日本は神国なり」と書き出す北畠親房の「神皇正統記」を日本最高の史書と崇め、全国に忠君・楠木正成の像を造らしめた国史学者でした。彼に一番心酔したのが、陸軍士官学校の幹事だった東条英機少将で、「平泉史観」は軍部に熱狂的に受け入れられて浸透し、ついには現人神である天皇陛下のためには自己犠牲を厭わない人間魚雷などの特攻の精神的裏付けや理論付けとしてもてはやされるのです。(多くの若者たちが特攻で亡くなった戦後も、平泉は生き抜き、何と昭和48年になっても、またしても少しも懲りることもなく、「楠公 その忠烈と余香」を出版します。外交官から経済企画庁長官などを歴任した平泉の三男渉=わたる=が鹿島守之助の三女を妻とした人だったため、鹿島出版社から刊行されました) 

この本の前半で、多く記述されている「天皇機関説事件」とは、右翼が主張する「絶対君主制」(天皇親政)を採るか、美濃部達吉、そして明治憲法をつくった伊藤博文らが主張する「立憲君主制」を採るか、の違いでした。天皇親政となると、軍隊の統帥権から外国との条約締結、財政政策に至るまで、すべて天皇の思うがままにできますが、その代わり、全ての責任を持つことになります。一方の立憲君主制となると、重臣たちが輔弼し、天皇が裁可する形になるので、天皇の思い通りにならないことが多くありますが、責任は、重臣たちに及ぶことになります。昭和天皇はその立憲君主制である「天皇機関説で良い」と認めていました。そして、何と、スパイのゾルゲまでが、その情報を、当時の人はほとんど誰も知らなかったのに、政権中枢にいた西園寺公一や犬養健らの情報を尾崎秀実を通して入手し、見事な分析記事「日本の軍部」(1935年「地政学雑誌」8号)の中で書いているのです。一部の重臣しか知らない超機密情報を入手したゾルゲ博士の手腕には驚くほかありませんが、それなのに、2・26事件を起こした陸軍の青年将校らは、天皇の真意を全く知らず、そして理論的支柱の北一輝までもが「天皇機関説」支持者だったことも理解せず、天皇親政のクーデタを起こして重臣を殺戮し、昭和天皇の怒りを買い、「逆賊」として処刑されます。この辺りの複雑な構造を、かなり詳しく、そして易しくかみ砕いて描いてくれるので、感謝したいほど分かりやすかったです。

 ということで、今日はこの辺で。

 実は、あまりブログを書くのも考えものだな、と最近思うようになりました。正直、「露悪趣味」に思えてきたからです。この辺りの心境の変化はそのうち、おいおい書いていきます(笑)。

「不経済波及効果」(私の造語)

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新型コロナの感染は収束せず、5月末まで緊急事態宣言が延長されました。

 一番困っているのは、小さな商店主でしょう。中でも飲食店、遊戯店、居酒屋、バー、クラブ…。いや、百貨店も、街の惣菜屋さんも、玩具店も、本屋さんも、大っぴろげに営業できるスーパー以外はどこもかしこも営業自粛で困っています。

 何処かの国のように確実に休業補償でもしてくれれば、何の心配もないのですが。

上の写真は、東京・銀座の歌舞伎座の横にある小さな商店街にあるイタリア料理店の看板です。

今日、昼休みにランチをしに行く途中で見つけました。

2020年の春は、東京五輪を控え、世界中からの観光客で溢れ、店はてんやわんやで、予約で順番待ちになるはずだった…。しかし、現実はあまりにも過酷。雇用を失った彼らは何処に行って、これから何をしていくのでしょうか?

 ランチは、いつも行く昼はランチ定食をやっている馴染みの居酒屋のW。若い、とは言っても40歳前後のご主人は「今月いっぱいなら、ギリギリ何とかって感じですかねえ。家賃や電気ガス水道代もありますが、精神的な疲れの方が大きいですね。我々だけでなく、銀座の酒屋さんは、バー、クラブなどの業務用相手に商売してるので、今は売上が激減して危ないところもあるみたいですよ」と、そっと教えてくれました。

「不経済波及効果」といったところでしょうか。

「政府は財閥の出張所たる商事会社」とは血盟団事件の池袋被告もよく言ったものでした=立花隆著「天皇と東大」

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 相変わらず、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第2巻「激突する右翼と左翼」を読んでいます。

 後半の大部分は、血盟団事件に記述が割かれています。私自身は、これまで昭和史に関する書籍だけは読み込んできたので、特に驚くような、自分自身が知らなかった新事実はなかったのですが、色々な繋がりが分かり、点と点がつながって線になった感じです。

 例えば、戦前に「右翼」と呼ばれた国家主義者たちは、玄洋社の頭山満と東京帝大教授の上杉慎吉を軸につながりがあった、つまり、面識があったり、話し合う機会があったり、結社をつくったりしていたということです。当たり前と言えば、当たり前の話なのですが。

 血盟団事件の首魁井上日召は、前橋中学時代に、あの高畠素之と同級生だったことから、中学時代(とは言っても旧制中学ですよ)にマルクスやエンゲルを読んでいたといいます。高畠素之は、前回も書きましたが、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳した人で、後に「右翼」の国家社会主義者に転向して上杉慎吉と経綸学盟を結成しています。

 井上日召自身も大正15年に、上杉慎吉、赤尾敏、頭山満らがつくった国家主義団体「建国会」(建国祭を提唱し、共産党撲滅、天皇政治の確立を叫ぶ)に参加しています。この運動には、井上は、建国祭のお祭り騒ぎに嫌気がさして、ほどなくして離れ、仏道の修行を深めるために沼津の松陰寺に入り、禅宗の高僧山本玄峰に師事したというのです。これはすっかり忘れていたことで、聊か興味深かったです。

  山本玄峰といえば、東大新人会から日本共産党再建書記長になった田中清玄(1906〜93年)を、逮捕されて11年間の入獄後に「保証人」のように引き受けた臨済宗の怪僧です。大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」によると、山本玄峰は、共産主義から天皇主義に転向して下獄した田中清玄をつかって、昭和天皇と極秘に面会させたり、鈴木貫太郎首相に無条件降伏を進言させたりしたといいます。

 昭和初期には、浜口雄幸首相狙撃事件、三月事件、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、二.二六事件など右翼や軍部によるテロやクーデタ未遂事件が相次ぎます。その社会的背景には、ロシア革命に影響を受けた左翼による政府転覆の恐れ、それに反発する「国体護持」が大命題の右翼の台頭がありますが、金融恐慌による不景気や東北冷害などによる娘の身売り、そして何よりも地主や資本家ら特権階級による搾取に対する反感反発がありました。右翼も左翼も、華族や高級軍人や財閥や政党政治を批判していました。(立花氏は「当時の極右と極左は、天皇をかつぐかどうかの一点を除くと、心情的にはかなり近いところにいたのである」(416ページ)と断言しています)

 私は不勉強ですから、地主や資本家批判なら分かりますが、つい数年前まで、何で昭和初期の右翼も左翼もこぞって政党政治を糾弾するのかよく分かっていませんでした。でも、当時のインテリにとっては、全く自明の理だったんですね。

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 血盟団事件の学生リーダー池袋正釟郎(東京帝大文学部東洋史科)は公判で次のようなことを供述しています。

 厳密に言へば、(元老の)西園寺公望が首相を任命するに非ず、実は政党の消長の鍵を握る三井三菱の財閥が任命するやうなものであります。されば現代の政治家は三井三菱の番頭であり、政府は財閥の出張所たる商事会社であり、国策は商策であり、政治は商売であります、…西園寺はじめ、牧野(伸顕)や鈴木(貫太郎)侍従長の元老重臣は財閥政党に結託して一身の利害のみを顧慮して、右の措置を敢えて取らず、常に腐敗堕落したる政党政治家のみを推薦して、上聖明を覆い奉り、下人民を失望せしめて居るのであります、ここに於いて此れ等元老重臣を除き、君側を清める必要があります。

 このように、当時のインテリ学生にとっては、憲政会が三菱と政友会が三井と結託していることは公然の秘密ではなく、自明の理だったんですね。それにしても、「政府は商事会社」とはうまいこと言ったものです。

 そして、明治時代から、政界での汚職や疑獄事件は絶えることなく、血盟団は、昭和初期に起きたさまざまな疑獄事件を糾弾しています。室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫)にもあまり出てこなかったので、ここに再録しますが、小川平吉・前鉄道相による五私鉄疑獄、小橋一太・文部相による越後鉄道疑獄、山梨半造・朝鮮総督による朝鮮総督府疑獄、天岡直嘉・前賞勲局総裁による売勲疑獄。そして何よりも、池袋らが糾弾したのは、田中義一・陸軍大将(後の首相)が政界進出する当たり、神戸の億万長者・乾(いぬい)新兵衛から300万円の政治資金を受けた疑獄事件です。田中は、自分が政権を握ったら乾を男爵にするとともに、満洲に利権を与え、仲介者に300万円の1割を報酬として与える約束をします。ところが、田中は政権獲得後も仲介者に一銭も払わなかったので、怒った仲介者が訴訟を起こしたことからコトが明るみに出たといいます。漫才みたいな話ですが、当時はそれほど政界は腐敗していたのですね。

 とはいえ、現代日本人の中で、政党政治を批判する人は皆無でしょう。誰一人、自民党と大財閥との結託を糾弾する人はおりません。その代わり、血気盛んな青年将校も、テロに走る若者もいなくなりましたが…。何と言っても、海の向こうの大国では、「政府が商事会社」どころか、不動産王を大統領に選出するぐらいですからね。昭和初期の事件に関与した人たちが今の社会を見たら驚いて腰を抜かすことでしょう。

【追記】

・昭和7年(1932年)2月〜3月に起きた血盟団事件とそれに続く5月の五・一五事件で、日本の政党内閣の時代は終わり、これ以後、軍人内閣ないし軍部と妥協した内閣が続く。

・五・一五事件で無期懲役の判決を受けた農本主義者の橘孝三郎・愛郷塾塾長は、立花隆氏(本名橘隆志)の父の従兄に当たり、立花氏が子どもの頃会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかないという。

・血盟団グループと五・一五事件の海軍青年将校らに最も影響を与えた精神的支柱ともいうべき理論家は権藤成卿だった。権藤は、日本ファシズムの急進的指導者というより、農本主義の反国家・反資本主義、反都会中心主義、郷土主義者だった。黒竜会にも参加し、日本の政財官界だけでなく、中国革命の孫文ら中国人や朝鮮独立運動家らとも親しく幅広い人脈もあった。主著「自治民範」「南淵書」。

権藤家は、代々久留米藩の藩医を務めた家系。権藤成卿の実弟震二は、東京日日新聞、二六新報記者を務め、日本電報通信社を設立した。

以上 第2巻を読了。

日本の右翼思想は左翼的ではないか?=立花隆著「天皇と東大」第2巻「激突する右翼と左翼」

長い連休の自宅自粛の中、相変わらず立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)を読んでいます。著者が「文庫版のためのはしがき」にも書いていますが、著者が考える昭和初期の最大の問題点として、どのようにして右翼超国家主義者たちが、日本全体を乗っ取ってしまようようなところまで一挙に行けたか、ということでした。それなのに、これまで日本の多くの左翼歴史家たちは、右翼をただの悪者として描き、その心情まで描かなかったので、あの時代になぜあそこまで天皇中心主義に支配されることになったかよく分からなかったといいます。

 それなら、ということで、著者が7年間かけて調べ上げて書いたのがこの本で、確かに、歴史に埋もれていた右翼の系譜が事細かく描かれ、私も初めて知ることが多かったです。

 私が今読んでいるのは、第2巻の「激突する右翼と左翼」ですが、語弊を怖れず簡単な図式にすれば、「左翼」大正デモクラシーの旗手、吉野作造教授(東大新人会)対「右翼」天皇中心の国家主義者上杉慎吉教授(東大・興国同志会)との激突です。

 吉野作造の有名な民本主義は、天皇制に手を付けず、できる限り議会中心の政治制度に近づけていこうというもので、憲政護憲運動や普選獲得運動に結び付きます。吉野の指導の下で生まれた東京帝大の「新人会」は、過激な社会主義や武闘派田中清玄のような暴力的な共産主義のイメージが強かったのですが、実は、設立当初は、何ら激烈ではない穏健な運動だったことがこの本で知りました。

 新人会が生まれた社会的背景には、労働争議や小作争議が激化し、クロポトキン(無政府共産主義)を紹介した森戸事件があり、米騒動があり、その全国規模の騒動に関連して寺内内閣の責任を追及した関西記者大会での朝日新聞による「白虹事件」があり、それに怒った右翼団体浪人会による村山龍平・朝日新聞社長への暴行襲撃事件があり、そして、この襲撃した浪人会と吉野作造との公開対決討論会があり…と全部つながっていたことには驚かされました。民本主義も米騒動も白虹事件も個別にはそれぞれ熟知しているつもりでしたが、こんな繋がりがあったことまでは知りませんでしたね。

 一方の興国同志会(1919年)は、この新人会に対抗する形で、危機意識を持った国家主義者上杉慎吉によって結成されたものでした。(その前に「木曜会」=1916年があり、同志会解体分裂後は、七生会などに発展)。この上杉慎吉は伝説的な大秀才で、福井県生まれで、金沢の四高を経て、東京帝大法科大学では成績抜群で首席特待生。明治36年に卒業するとすぐ助教授任命という前代未聞の大抜擢で、独ハイデルベルク大学に3年間留学帰国後は、憲法講座の担当教授を昭和4年に52歳で死去するまで20年間務めた人でした。(上杉教授は、象牙の塔にとじ込まらない「行動する学者」で、明治天皇崩御後、日本最大の天下無敵の最高権力者となった山縣有朋に接近し、森戸事件の処分を進言した可能性が高いことが、「原敬日記」などを通して明らかになります)

 上杉博士の指導を受けた興国同志会の主要メンバーには、後に神兵隊事件(昭和8年のクーデタ未遂事件)の総帥・天野辰夫や滝川事件や天皇機関説問題の火付け役の急先鋒となった蓑田胸喜がいたことは有名ですが、私も知りませんでしたが、安倍首相の祖父に当たる岸信介元首相(学生時代は成績優秀で、後の民法学者我妻栄といつもトップを争い、上杉教授から後継者として大学に残るよう言われたが、政官界に出るつもりだったので断った。岸は上杉を離れて北一輝に接近)もメンバーだったことがあり、陽明学者で年号「平成」の名付け親として知られる安岡正篤も上杉の教え子だったといいます。

緊急事態宣言下の有楽町駅近

 私は、左翼とか右翼とかいう、フランス革命後の議会で占めた席に過ぎないイデオロギー区別は適切ではない、と常々思っていたのですが、この本を読むとその思いを強くしました。

 例えば、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳(1924年)した高畠素之は、もともと堺利彦の売文社によっていた「左翼」の社会主義者でしたが、堺と袂を分かち、「右翼」の上杉慎吉と手を組み、国家社会主義の指導者になるのです。

 立花氏はこう書きます。

 天皇中心の国粋的国家主義者である上杉慎吉と高畠素之が組んだことによって、日本の国家社会主義は天皇中心主義になり、日本の国家主義は社会主義の色彩を帯びたものが主流になっていくのである。…北一輝の「日本改造法案大綱」も、改造内容は独特の社会主義なのである。つまり、日本の国家革新運動は「二つの源流」ともども天皇中心主義で、しかも同時に社会主義的内容を持っているという世界でも独特な右翼思想だったのである。それは、当時の国民的欲求不満の対象であった特権階級的権力者全体(元老、顕官、政党政治家、財閥、華族)を打倒して、万民平等の公平公正な社会を実現したいという革命思想だった。天皇中心主義者のいう「一視同仁」とは、天皇の目からすれば全ての国民(華族も軍人も含めて)がひとしなみに見えるということで、究極の平等思想(天皇以外は全て平等。天皇は神だから別格)なのである。(120ページ)

 これでは、フランス人から見れば、日本の右翼は、左翼思想になってしまいますね。

 「右翼」の興国同志会の分裂後の流れに「国本社」があります。これは、森戸事件で森戸を激しく非難した弁護士の竹内賀久治(後に法政大学学長)と興国同志会の太田耕造(後に弁護士、平沼内閣書記官長などを歴任し、戦後は亜細亜大学初代学長)が1921年1月に発行した機関誌「国本」が発展し、1924年に平沼騏一郎(検事総長、司法大臣などを歴任。その後首相も)を会長として設立した財団法人です。最盛期は全国に数十カ所の支部と11万人の会員を擁し、「日本のファッショの総本山」とも言われました。

 国本社の副会長は、日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎と元東京帝大総長の山川健次郎、理事には、宇垣一成、荒木貞夫、小磯国昭といった軍人から、「思想検察のドン」として恐れられた塩野季彦や当時の日本の検察界を代表する小原直(後に内務相や法相など歴任)、三井の「総帥」で、後に日銀総裁、大蔵相なども歴任した池田成彬まで名前を連ねていたということですから、政財官界から支持され、かなりの影響力を持っていたことが分かります。

 まだ、書きたいことがあるのですが、今日は茲まで。

 ただ、一つ、我ながら「嫌な性格」ですが、133ページで間違いを発見してしまいました。上の写真の左下の和服の男性が「上杉慎吉」となっていますが、明らかに、血盟団事件を起こした東京帝大生だった「四元義隆」です。この本は、2012年12月10日の初版ですから、その後の増刷で、恐らく、差し替え訂正されていることでしょうが、あの偉大な立花隆先生でもこんな間違いをされるとは驚きです。この本は、鋳造に失敗した貨幣や印刷ミスした紙幣のように高価で売買されるかもしれません。(四元義隆氏は戦後、中曽根首相、細川首相らのブレーンとなり、政界のフィクサーとしても知られます)

 いや、自分のブログの古い記事のミスを指摘されれば、色をなすというのに、この違いは何なんでしょうかねえ。我ながら…。

ものの判断は時によって移り変わる

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昨年の今頃の に、この渓流斎ブログに書いた「村上春樹が初めて語る自身の父親」記事に対して、1年経った昨日になって、sohzohさんという方から以下のコメントを頂きました。

「安養寺」違いもそうですが、父親の名前も15ページに記載されています。正しい記載をお願いします。

 上のコメントは何を意味するのか、昨年の記事をリンクしていますので、そちらをご参照して頂くとしまして、正直、「何で今ごろになって?」という感慨に襲われました。でも、その理由はすぐ推測できました。先月4月末に村上春樹氏の「猫を棄てる」が単行本として発行され、ベストセラーの1位になっていることを新聞の書評欄で読んだからです。さすが「国民的作家」です。私のブログの「人気記事」の上位にも、この関連記事が急に多く読まれるようになりました。恐らく、検索して引っ掛かって、たまたま目にしたのでしょう。

 コメントして頂いたsohzohさんにしても、「父親の名前も15ページに記載されています」と書かれているように、単行本を読んで、そのページを書かれたのでしょう。なぜなら、月刊文藝春秋」に連載時は240~267ページに掲載されていたからです。何を言いたいのかと言いますと、雑誌連載を単行本化するに当たって、著者は、必ず、加筆修正するということです。私はまだ単行本の方を読んでいないので、断定できませんが、単行本化するに当たって、名前を入れた可能性があるかもしれないということです。(勿論、小生が見落としていた可能性の方が大きいでしょうが)

 そして、さらに、何を言いたいのかと言いますと、ブログは、その日の感情で書いているだけで、しばしば筆が走り過ぎて、友達をなくすこともあり(Oh! No)、年月が経てば、時代も価値観も変わるだろうし、自分自身の思想信条も変化するということです。

緊急事態宣言下の金曜日夜の東京・有楽町駅前

 何でこんなことを書いたかと言いますと、(そして、私のような無名の「無用の人間」の言動など何の頭の足しにならないと自覚した上で言いますと)、ある有名になった作家が、20年前に作家デビューする前に「若気の至り」で書いたことが、20年も経って非難され、ついに謝罪に追い込まれたという新聞記事を読んだからでした。

 デジタル記事は恐ろしいですね。活字は劣化しませんし、他人のミスは、自己の欲求不満の吐け口として拡散されます。この渓流斎ブログも、2005年に始めましたが、15年前に書いた記事を批判されても、…というか、ボロボロに叩かれても、「はあ?」と思うしかないし、もっと謙虚になれ、と言われれば、「そういう貴方は?お互いさまでしょ」と言いたくもなります。こんなことを書いては炎上しますね(苦笑)。勿論、明らかな間違いは、安倍首相のように躊躇なく速やかに訂正致しますが。

 でも、フェイスブックにしろ、ツイッターにしろ、SNSは、個人情報を収集して、選挙キャンペーンに利用したり、製品の売り込み手段に使ったりしている実態の新聞記事を読んだりすると、正直、嫌になりますね。Facebookなんぞやめたくなります。ある個人が、あるニュースを何分間かけて読んだか、とか、いやらしい画像や動画を何分見たかまで収集して、その人の趣味趣向、性癖を分析しているようです。監視社会丸出しですね。

さて、話は変わって、今読んでいる立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)は、やっと第2巻「激突と右翼と左翼」に入りました。第1巻が幕末から明治、大正初期の話だとすると、第2巻は大正から昭和初期の話です。やはり、立花氏は凄いですね。この本を書くために生まれてきたんじゃないかと思えるぐらい、精魂を傾けています。

 第2巻のことを書く前に、第1巻で興味深かったことを追記しておきます。

・日本の大学の歴史を語る上で最も欠かせない人物である山川健次郎は、会津白虎隊の生き残りだった。日露戦争を煽った戸水寛人教授事件で明治38年に東京帝大総長を辞任すると、5年半は官職につかなかった。明治44年に九州帝国大学が設立されると、その総長になり、その2年後の大正2年(1913年)に東京帝大総長としてカムバック。さらに翌年には京都帝大総長を併任することとなり、一人で三帝大の総長を歴任するという空前絶後のキャリアを積む。その間に、京大沢柳事件、東大森戸事件などが起きる。

・大正8年、大学令の施行で、東京帝大は、それまでの法科大学、理科大学などの分科制から学部制となり、この年になって初めて経済学部が創設された。そのため、当初は、先行する慶應義塾や東京高商(一橋大学)にはとてもかなわなかった。官吏養成学校だった東大もこの頃からようやく民間企業に卒業生が入るようになった。…実は、明治10年にできた東大では、経済学は、当初は、文学部で教えられていた。明治12年に、文学部第1科が「哲学政治学及理財学科」となり、ここで初めて経済学の授業が行われた。文学部第2科は「和漢文学科」で、政治学や経済学は文学部の片隅に仮住まいしていたかのように見えるが、実態はその逆で、文学部の本流が政治学、経済学の側にあった。最初に経済学を教えたのは「日本美術の父」と言われる米人フェノロサだった。

・東大経済学部の蔵書は、関東大震災でほとんど焼失してしまったが、その中で、最も重要な蔵書である「アダム・スミス文庫」を外に持ち出して救ったのが、永峰という60歳ぐらいの名物小使いさんだった。この文庫は「経済学の父」アダム・スミスの蔵書で、国際連盟事務局の副総裁になって東大を休職していた新渡戸稲造がロンドンの古書店で買い付けて、東大に寄贈していたもので、これを受け取った高野岩三郎教授が「貴重本」として保管し、イザというとき最初に持ち出せと命じていたものだった。

・東大の森戸辰男助教授が、経済学部機関誌「経済学研究」に「クロポトキンの社会思想研究」を書いて森戸事件(1920年)を引き起こすに至ったそもそもの発端は、大逆事件(1910年)だった。当時、第一高等学校生だった森戸は、徳富蘆花による講演「謀叛論」を聴講して多大な影響を受ける。その要旨は「ものの判断というものは、時によって移り変わる。現在、例えば『逆徒』と呼ばれようとも、新しい時代になれば、別の判断が下されるということがあり得る。従って、幸徳秋水氏らの(大逆)事件についても、私たちは冷静に考えなければならない。思想は時代と深い関係がある。若い人々は常に新しいものを求めて、たえず『謀叛』しなければならない。…吉田松陰は、徳川幕府により逆賊として死刑に処せられたが、現代では神として祀られているではないか。そのように世の中は変わるものである。そして、それにつれて正義とか忠誠とかも、その基準とか内容が変わっていくものである」

ムフフ、今日初めに書いたことに戻りましたね。私が今日言いたいことを、全て徳富蘆花氏が代弁してくれました。

新型コロナの真相が分からないのに煽動している人たち

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新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言は、1カ月ほど延長されるようです。仕方ないですね。経済活動より人の命の方が大切ですから。

 でも、「コロナ以前」と「コロナ以後」では、世界は激変することでしょうね。一番激変するのは雇用形態です。大手企業の大半は、自宅待機でテレワークなんぞをやってますが、出社する人間は、コロナ以前と比べ、半分以下でも済んでしまったことが分かってしまったのです。余剰人員であることがバレてしまったんですね。

 旅行は、所詮、メーテルリンクの「青い鳥」探しですが、国内の鄙びた温泉に行こうが、海外の秘境に行こうが、「ここでない何処か」も「どこでもない此処」も何処に行っても同じで変わらないことがバレてしまったのです。

 世界中の人間が、グローバリズムという世界経済システムに組み込まれていて、都市封鎖をして経済活動を止めたら、どうなってしまうのかバレてしまったのです。そして、その阿漕な搾取構造もバレてしまったのです。

 飲んで浮かれて騒がなくても、生き延びることができることがバレてしまったのです。

健康重視のためフィンランドのスポーツシューズ「カルフ」買っちゃいました(笑)

 全ての話題とニュースが「コロナ漬け」になり、それが3カ月以上も続くと、さすがに、人々の苛立ちが募るようです。中には「武漢ウイルスは人工的につくられた」とか、「ワクチンの独占販売権を握った製薬会社の陰謀だ」とか、「陰謀論」が噴出し出しました。でも、私自身は、正直、あまり与したくありませんね。恐らく、真相は10年後か、20年後か、かなり年月が経たないと分からないと思っているからです。

 今、「日本人の必読書」として立花隆著「天皇と東大」第1巻(文春文庫)を私が一生懸命に読んでいることは、世間の皆様にバレていることでしょうが、この中で、「戸水寛人教授の『日露戦争継続論』」という章があります。戸水教授というのは、東京帝国大学法科大学教授のことで、当時の日本の知性を代表する頭脳明晰な人物と言えます。そんな人が、取り付かれたように狂信的な超国家主義者となり、戦争前は、盛んに「ロシアと戦争すべきだ」と新聞や雑誌に投稿し、帝大の七博士と連名で、元老の山縣有朋らに建白書を送り付け、戦争になれば、満洲はおろか、バイカル湖まで占領しろ、と煽り、戦争が終結し、講和条約締結(ポーツマス)の際には、「もっと戦争を継続しろ。何で勝ったのに賠償金が取れないんだ。樺太の半分なんてとんでもない。戦病死した10万人に何と言えばいいのか」と煽動し、何も知らない一般市民を日比谷焼き討ち事件を起こすように煽動し尽くした人でした。

 後世の人間から見たら、日本最高の知性が、何とも誇大妄想是に極まり、ピエロのような間抜け(失礼!)に思えますが、実は、当時は、日露戦争の実態を軍事機密として政府が公表しなかったので、日本はほとんど兵力も武器弾薬も尽き、負け戦寸前で、続行すれば、ナポレオンのモスクワ攻防の二の舞になるところだったことを臣民(東京帝大の教授陣も含めて)は誰も知らなかったのが真相だったのです。(このことは、講和条約を仲介した米国のセオドア・ルーズベルト大統領は情報機関を通じて、先に熟知していました!)

 そして、さらに驚くべきことに、この真相が初めて日本国民に明らかにされたのが、「機密日露戦史」(原書房)の形で公刊された戦後の1966年以降だったというのです。日露戦争は、1904(明治37)年から翌年にかけてのことですから、何と、60年以上も経って初めて真相が明るみに出たということになります。

 ということは、現在、テレビやメディアで、侃侃諤諤と医療専門家もコメンテーターと称する人間も、あることないことしゃべったりしていますが、これまた失礼ですが、真相が分からないのに主張している可能性があります。もしかして、60年も経てば、今回の新型コロナウイルスは、大手製薬会社の陰謀だったという証拠が出てくるかもしれませんが、少なくとも、渦中の今は、真相も分からない人間が、推測で物を言ったり、書いたりしているのではないのでしょうか。

◇偽情報には振り回されないこと

 100年前のスペイン風邪流行時とは違い、現在は、情報量は膨大です。しかし、その情報も玉石混交で、フェイクニュースがかなり混じっています。今の段階は、冷静になって、あまり情報に振り回されることなく、歴史的教訓にも学ぶべきではないでしょうか。

 少なくとも、私自身はそう確信しています。

新型コロナでなければニュースではない

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 右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、「新型コロナ」一色で、新型コロナに関連しないものはニュースではない、という勢いです。

 美談がたくさんある一方、「パチンコ店に押し寄せる県外ナンバーの車」「人が来ないように伐採されてしまった満開のチューリップや藤の花」「看護師の子どもの通園を拒否する保育園」「『感染者が出た』とデマを流して飲食店を閉店させた輩」…ちょっと耳を塞ぎたくなるような心無いニュースも聞かされます。日本人ってこんな民族じゃなかったのになあ…。

 経済関連は良い事一つもなし、といった感じで、ソフトバンクグループは30日に、2020年3月期の連結純損失(赤字)が9000億円に拡大するとの見通しを発表しました。9000億円ですよ。今年度の一般会計予算で鹿児島県が約8400億円、長野県が約9400億円などと言われますが、どれくらいの規模なのか分かります。(もっとも、ソフトバンクの有利子負債は桁違いにも15兆円もあります)

 当然ながら、1929年以来の世界大恐慌が予想されています。それなのに、本日(4月30日)なんか、世界主要国の株式は値上がりしてるんですよね。NYダウは532ドル高、東京の日経平均の終値は、3月6日以来約1カ月半ぶりに2万円台を回復しました。どうやら、エボラ出血熱用に使われている抗ウイルス薬「レムデシビル」が新型コロナにも効くんじゃないかと、治験で好成績が確認されたことが原因らしいですね。

 こんなチグハグな状況だから、危機意識の全くない命知らずの人間が暴走したり、公共心もない行動を平気でやる輩が出てくるのです。

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 その一方で、どうも、新型コロナに関しては、世界中の人々が「見えない恐怖」に怯えていると思います。もし、新型コロナウイルスの色が肉眼で見えたり、臭いがしたりしたら、そして、何よりも「死に至る病」ではなかったら、これほど大騒動にならなかったことでしょう。「感染経路が分からない」というのが一番厄介です。

 識者によれば、日本では最初の武漢ウイルスは3月半ばに収束したものの、変異したウイルスが欧州に蔓延し、その変異ウイルスが日本に入ってきて、3月末からの拡散につながったようです。

 となると、また色々と変異して強くなれば、夏場に収束しても、また今冬、来年もと第2波、第3波が来ることを覚悟しなければなりません。来年の東京五輪開催も怪しくなってきました。日本だけの問題じゃないですからね。

 これは、100年前のスペイン風邪流行(1918~1920年)の教訓が教えてくれます。3年かかったわけです。全世界で患者数約6億人で、2,000万から4,000万人が死亡したとされています。100年前も都市封鎖や学校休校、商店閉鎖などの措置が取られたようですが、犠牲者の多さには茫然とします。

 100年前も「自宅待機」が半ば強制されたでしょうが、今と比べれば本当に大変で、今の100倍以上の忍耐を強いられてことでしょう。今のようにテレビもなければ、インターネットもなく、ネットフリックで映画を見たり、SNSで顔を合わせて通話したり、zoomで社内会議したりもできませんからね。

 昔の人は偉かった。

「老活の愉しみ」で健康寿命を伸ばしましょう

  読んでいた本(「天皇と東大」)を後回しにして、帚木蓬生著「老活の愉しみ」(朝日新書)を一気に読んでしまいました。奥付の初版発行日が、2020年4月30日です。今日は、母親の誕生日でもある4月28日なので、書店に並んでいたものを素早く見つけて「事前に」に読んでしまったわけです(笑)。

 何で、そんなに急いでいたのかは理由があります。このブログにも書いてしまいましたが、忘れもしません。今月7日に、「ギッキリ脚」をやってしまい、歩行困難になってしまったからです。3週間経った今は、何とか歩けますが、「走るのが怖い」状態です。

 もう一つ。この渓流斎ブログは、「ほぼ毎日」書くことを勝手に自己に課していますが、体調不調のため、そうは言ってられなくなったからです。特に酷いのは眼精疲労で、目も開けていられないぐらいです。原因はスマホとパソコンのやり過ぎなのでしょうが、普通の人より、若い時から「液晶画面」は苦手で、すぐ眼痛が起きやすい体質でした。この眼痛が首痛に来て、それが腕が上がらないほどの肩凝りとなって、頭痛も激しくなり、ブログを書く気が起きなくなります。(そのお蔭で、筆が滑って、大切な友人をなくしてしまう機会も減って助かってますが=苦笑)

 そういう状況ですから、新聞広告でこの本を見つけて、幸いなことに、緊急事態宣言下でも会社の近くの築地の書店が開いていたので、買い求めることができたわけです。

 いやあ、素晴らしい本でした。著者の帚木氏は、御存知のように、東大文学部と九州大学医学部を卒業された方で、作家と医者(精神科医)の二足の草鞋を履いて、貫いている方です。しかも、両方とも超一流で、山本周五郎賞など文学賞の受賞は数多。私も30年ぐらい昔、出版社の記念パーティーでお会いして、名刺交換した程度ですが、「凄い人だなあ」と陰ながら尊敬していた人でした。

 ですから、「精神的不調は身を忙しくして治す」「脳が鍛えないと退化する」「食が全ての土台」「酒は百薬の長にあらず」といったこの本に書かれていることは、ほとんど納得しました。自分はかろうじて、まだ、政府国家が主張する高齢者ではありませんが、老人予備軍として実践していこうと思いました。

 例えば、「靴は健康の必需品」という章の中で、帚木氏は「靴こそは毎日世話になる必需品で、健康が大いに左右されます」として、「スポーツシューズは、何と言ってもフィンランドのカルフが気に入っています。軽くて、どれだけ長く歩いても疲れません。旅行のときはこのカルフに限ります」とまで書いていました。私も一瞬、資本主義の原理で、宣伝臭ささを感じましたが、著者を信頼しているので、早速、ネットで、このカルフとかいうスポーツシューズを注文してしまいました(笑)。足腰が弱ってきましたし、これからも趣味の「お城歩き」を続けたいですからね。

 このほか、人間、年を取ると誰でもサルコペニアと呼ばれる筋肉量が減少する傾向となりますが、同書では、これを予防するための運動(スクワットや下肢挙上運動など)も伝授してくれるので大変参考になります。

 精神科医としての帚木氏は、「森田療法」の権威で、その関連書籍も出版されていますが、森田療法では「症状は人に言わない。見せない。悟られない」というのが鉄則なんだそうです。というのに、渓流斎ブロブの主宰者は、浅はかにも、「あっちが痛い」「こっちが痛い」なぞと散々書きまくっていますね。

 駄目じゃん!

英語は普遍的、中国語は宇宙的、日本語は言霊的

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、中部北陸地方にお住まいのT氏と久しぶりに長電話しました。T氏は、学生時代の畏友ですが、十数年か、数十年か、音信不通になった時期があり、小生があらゆる手段を講じて捜索して数年前にやっとメールでの交際が再開した人です。

 彼は、突然、一方的に電話番号もアドレスも変えてしまったので、連絡の取りようがありませんでした。そのような仕打ちに対しての失望感と、自分が悪事を働いたのではないかという加害妄想と自己嫌悪と人間不信などについて、今日は書くつもりはありません。今日は、「空白期間」に彼がどんな生活を送って何を考えていたのか、長電話でほんの少し垣間見ることができたことを綴ってみたいと思います。

 T氏は、数年前まで、何年間か、恐らく10年近く、中国大陸に渡って、大学の日本語講師(教授待遇)をやっていたようです。日本で知り合った中国人の教授からスカウトされたといいます。彼は、私と同じ大学でフランス語を勉強していて、中国語はズブの素人でしたが、私生活で色々とあり、心機一転、ゼロからのやり直しのスタートということで決意したそうです。

 彼の中国語は、今でこそ中国人から「貴方は中国人かと思っていた」と言われるほど、完璧にマスターしましたが、最初は全くチンプンカンプンで、意味が分かってもさっぱり真意がつかめなかったといいます。それが、中国に渡って1年ぐらいして、街の商店街を一人で歩いていると、店の人から、日本語に直訳すると「おまえは何が欲しいんだ」と声を掛けられたそうです。その時、彼は「サービス業に従事する人間が客に対して、何という物の言い方をするんだ」とムッとしたそうです。「日本なら、いらっしゃいませ、が普通だろう」。

 しかし、中国語という言語そのものがそういう特質を持っていることに、後で、ハッと気が付き、それがきっかけで中国語の表現や語用が霧が晴れるようにすっかり分かったというのです。もちろん、中国語にも「いらっしゃいませ」に相当する表現法はありますが、客に対して「お前さんには何が必要だ」などと店員が普通に言うのは、日本では考えられません。しかし、そういう表現の仕方は、中国ではぶっきらぼうでも尊大でもなく、普通の言い回しで、「お前は何が欲しいんだ」という中国語が、日本語の「いらっしゃいませ」と同じ意味だということに彼は気づいたわけです。

 考えてみれば、日本語ほど、上下関係に厳しく、丁寧語、敬語などは外国人には習得が最も困難でしょう。しかも、ストレートな表現が少なく、言外の象徴的なニュアンスが含まれたりします。外国人には「惻隠の情」とか「情状酌量」とか「忖度」などという言葉はさっぱり分からないでしょう。

 例えば、彼は先生ですが、学生から「先生の授業には実に感心した」といった文面を送って来る者がいたそうです。それに対して、彼は「日本語では、先生に対して、『感心した』という表現は使わないし、使ってはいけない」と丁寧に説明するそうです。また、食事の席で、学生から、直訳すると「先生、この食事はうまいだろ」などとストレートに聞いてくるそうです。日本なら、先生に対して、そんな即物的なものの言い方はしない、せめて「いかがですか?」と遠回しに表現する、と彼は言います。

 そこで、彼が悟ったのは、中国語とはコスミック、つまり「宇宙的な言語」だということでした。これには多少説明がいりますが、とにかく、人間を超えた、寛容性すら超えた言語、何でも飲み込んでしまう蟒蛇(うわばみ)のような言語なのだ、という程度でご理解して頂き、次に進みます。

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 一方、英語にしろフランス語やドイツ語にしろ、欧米の言語はユニバーサル(普遍)だと彼は言います。英語は記号に過ぎないというのです。もっと言えば、方便に過ぎないのです。これに対して、日本語は「言霊」であり、言語に生命が込められているといいます。軽く説明しましょう。

 福沢諭吉が幕末に文久遣欧使節の一員として英国の議会を視察した時、昼間は取っ組み合いの喧嘩をしかねいほどの勢いで議論をしていた議員たちが、夜になって使節団との懇親会に参加すると、昼間の敵同士が、まるで旧友のように心の底から和気藹々となって会話を楽しんでいる様子を見て衝撃を受けたことが、「福翁自伝」に書かれています。

 それで、T氏が悟ったのが、英語は記号に過ぎないということでした。英語圏ではディベートが盛んですが、とにかく、相手を言い負かすことが言語の本質となります。となると、ディベートでは、AとBの相手が代わってもいいのです。英語という言語が方便に過ぎないのなら、いつでも I love you.などと軽く、簡単に言えるのです。日本語では、そういつも簡単に「愛しています」などと軽く言えませんよね。日本語ではそれを言ってしまったら、命をかけてでもあなたを守り、財産の全てを引き渡す覚悟でもなければ言えないわけです(笑)。

 欧州語が「記号」に過ぎず、相手を言い負かす言語なのは何故かというと、T氏の考えでは、古代ギリシャに遡り、ギリシャでは土地が少なかったので、土地に関する訴訟が異様に多かったからだそうです。そのお蔭で、訴訟相手に勝つために色んなレトリックなども使って、表現法や語用が発達したため、そのようになったのではないか、というのです。

 なるほど、一理ありますね。フランスには「明晰ではないものはフランス語ではない」という有名な格言があります。つまり、相手に付け入るスキを与えてはいけない、ということになりますね。だから接続法半過去のような日本人には到底理解できない文法を生み出すのです。日本語のような曖昧性がないのです。言語が相手をやり込める手段だとしたら。

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 一方、日本語で曖昧な、遠回しな表現が多いということは、もし、直接的な言辞を使うと、「それを言っちゃあ、おしめえよ」と寅さんのようになってしまうことになるからです。

 ところで、幕末には、尊王攘夷派と開国派と分かれて、激しい殺し合いがありました。その中でも、西洋の文化を逸早く学んだ開明的な洋学者だった佐久間象山や大村益次郎らは次々と暗殺されます。洋学者の直接的な言葉が攘夷派を刺激したのでしょう。適塾などで学び欧米文明を吸収していた福沢諭吉も、自分の生命が狙われていることを察知して、騒動が収まるまで地元の中津藩に密かに隠れ住んだりします。

 それだけ、日本語は、実存的で、肉体的な言語で、魂が込められており、「武士に二言はなし」ではありませんが、それだけ言葉には命を懸けた重みがあるというわけです。そのため、中国語や欧米語のように軽く言えない言葉が日本語には実に多い、とT氏は言うのです。

 繰り返しますと、英語は、何でも軽く言える記号のような言語で普遍的、中国語は、寛容性を超えあらゆるものを飲み込む宇宙的、そして、日本語は命を張った言語で言霊的、ということになります。その流れで、現在の言語学は、文法論より、語用論の方が盛んなんだそうです。

 以上、T氏の説ですが、それを聞いて私も非常に感銘し、昨晩は久しぶりに味わった知的興奮であまり眠れませんでした。

「天皇と東大」第1巻「大日本帝国の誕生」で近代国家の成立と仕組みを知る

  立花隆著「天皇と東大」1~4巻(文春文庫、2012年初版)は、日本人の必読書ではないかという思いで、今頃になって、第1巻「大日本帝国の誕生」を読んでいます。この20年間近く、近現代史関係の書籍を中心に読み込んできましたが、本書で初めて得る知識が多くあり、本当に勉強になります。

 立花氏といえば、若い頃は、「田中角栄研究」「日本共産党の研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」等々、ほとんど彼の著作を読破し、「雲の上の存在」のジャーナリストとして影響を受けて来ました。しかし、どうも「臨死体験」辺りから、「んっ?」と自分の興味範囲からズレている感じがし、しかも、「知の巨人」とか「大天才」とか称賛の声ばかり聞かれ、本人も恥じることなく、そのようなタイトルの本を出すようになると、私もひねくれ者ですから、(彼の天才を否定しませんが)しばらく彼の著作から離れておりました。ですから、まず2005年に単行本として発行された同書は未読でした。もちろん、1998年から2005年にかけて月刊文芸春秋に連載された記事も未読でした。

 文庫版が出て8年経ちましたが、恐らく絶版とみられ、ネット通販でもこの本は手に入らなくなりました。中には、古本でも定価の3倍から5倍も付けて販売しているサイトもあり、馬鹿らしくて買う気がしなかったのですが、例によって会社の同僚の矢元君が「こんな面白い本はないぞなもし」と貸してくれました。図書館が閉鎖されている中、もう、自宅に本を飾ったり、収集癖がなくなったので有難いことです。(立花氏は、本は買うべきもので、図書館などで借りるのはけしからん、と主張していて、私もその影響で必ず買っていましたが、彼の魔術がとけ、可処分所得が激減してからは、本はどんどん図書館で借りるようになりました=笑)

 いつもながら前書きが長い!(笑)

 久しぶりに立花氏のの著作を読んでみると、「クセが強い!」と初めて感じました。若い頃は気が付かなかったのですが、ちょっと上から目線が鼻につくようになりました。

 例えば、「今の若い人は、例外なしに『国体』のことは国民体育大会のことだと思っている。国体にそれ以外の意味があるとは夢にも思っていないのである」…といった書き方。私はもう若くはありませんが、国体を知っている若い人は「ムっ」とくることでしょう。というか、近現代史関係の本を少しでも齧った人なら、国体とは自明の理であるはずです。

 それが、冗談でも誇張でもなかったんですね。立花氏にはこの本の関連本として「東大生はバカになったか」があるように、今の東大生でさえ、ほとんどの学生が国体とは何たるかを知らないようです。ジョン・レノンと同じ1940年生まれで戦後民主主義教育を受けた立花氏も、30歳半ば過ぎまで正確な意味は知らなかったと告白しています。

 あ、また、話が飛んだようです(笑)。

 とにかく、この本は、日本人とは何か、明治維新を起こして、「文明開化」「富国強兵」をスローガンに近代国家を建設した元勲らとその官僚が、どのような思想信条を持って実践したのか、事細かく描かれ、「なるほど、そういうことだったのか」と何度も膝を打ちたくなります。

 彼らが、古代律令制を復古するような天皇中心の「大日本帝国」を建設するに当たり、最初に、そして最も力を注いだのが「教育」でした。帝国大学(東京帝国大学と、頭に東京さえ付かない唯一無二の大学)を頂点にして、全国津々浦々、隅々まで小中高等学校を張り巡らし、国家の有能な人材を養成していくのです(帝大法学部は、一時期、無試験で官吏になれる官僚養成機関になっていました)。同書では、帝大(東京大学)ができるまで、江戸時代の寺子屋や昌平黌や天文方や蘭学塾などの歴史まで遡り、欧米列強に追い付くために、最初は、江戸の種痘所の流れを汲む医学部とエンジニア養成の工学部に注力した話など逸話がいっぱいです。何よりも、東大を創ったのは、あの勝海舟だったというのは意外でした。勝海舟は、ペリー来航の混乱の中、幕府に対して、西洋風に兵制を改革して、天文学から地理学、物理学等を教える学校を江戸近郊に作るよう意見書を提出し、それが川路聖謨(としあきら)や岩瀬忠震(ただなり)ら幕閣に採用され、洋学所改め蕃書調書の設立の大役に任命されたのでした。

 まだ、第1巻の前半しか読んでいませんが、明治10年に東京大学(まだ帝国大学になる前)の初代総長を務め、福沢諭吉と並ぶ明治の代表的な啓蒙思想家である加藤弘之が、最初は、立憲君主制を標榜する「国体新論」などを発表しながら、明治14年になって、絶版を宣言する新聞広告を出します。しかも、その後は、この立憲君主制や天賦人権説まで自ら否定してしまい、学者としての生命は終わってしまいます。その代わり、政府に阿ったお蔭で、勲二等や宮中顧問官など多くの栄誉を国家から授与され、胸には勲章だらけの姿で生涯を終えます。

 なぜ、加藤弘之が急に変節したかについては、元老院(明治8年から国会が開設される明治23年まで過渡的に設けられた立法機関)議官の海江田信義によって、「刺殺しかねまじき勢いで談判」されたからだといいます。この人物は、元薩摩藩士で幕末の生麦事件の際に英国人商人を一刀両断で斬殺した人で、海江田の実弟は桜田門外の変に薩摩藩から加わり、井伊直弼大老の首級をあげたといいます。立花氏は「加藤ならずとも、ビビっても不思議ではない」と半ば同情的に書いています。

緊急事態宣言下の東京・有楽町の金曜日の夜

 まだまだ書きたいのですが、今日はもう一つだけ。

 私は皆さんご案内の通り、城好きで、昨年4月に、千葉県野田市にある関宿城を訪れたことをこのブログにも書きました。その際、関宿藩が生んだ偉人で、終戦最後の首相を務めた鈴木貫太郎の記念館にも立ち寄ったことを書きました。でも、2・26事件で、侍従長だった鈴木貫太郎がなぜ襲撃されたのか知りませんでした。それは、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約を締結する問題で、帷幄上奏よって、条約反対を訴えようとした加藤寛治軍令部長に対して、日程の都合で鈴木侍従長が翌日に回したおかげで、浜口雄幸首相による条約調印を可とすることが裁可され、鈴木侍従長による統帥権干犯問題に発展したからでした。2・26事件はその6年後の昭和11年ですから、軍部の間では、鈴木侍従長は「国賊」としてずっとブラックリストに載っていたのでしょう。この本では、明治の近代国家がどうして昭和になってこんなファナティックな軍部独裁国家になってしまったのか、分析してくれるようです。

 東大に行った人も、東大に行けなかった人も、色んな意味で日本の近代国家の成り立ちや仕組みがこの本でよく分かります。この本を読んだか読んでいないかで、世の中を見る視点や考え方が激変すると思います。これから4巻まで、本当に読むのが楽しみです。