九里洋二さんはすごい!

ヴェニス

アニメーション作家、イラストレーターの草分け的存在である画家の九里洋二さんから賀状が届きました。もう15年以上やりとりしてます。何か、個展があるといつも葉書でお知らせしてくれ、たまに銀座の画廊でお会いしたこともあります。

今年の賀状を見てびっくりしました。昨年あたりから一気に5つのブログを開設していたのです。

5つですよ!私なんか、この1つのブログでひいひい言っているのに、そのヴァイタリティーには感心してしまいました。

九里さんは今年79歳です。一体どこから、そんな活力が出てくるのでしょうか?

本当にすごい人です。これだけ大きな仕事をしてきたのに、自分を甘やかさず、絶えず努力を怠らず、新しいことに挑戦してきています。

九里さんには、事後承諾で勝手にリンクを張らさせてもらいます。

ホームページ http://www16.ocn.ne.jp/~yojikuri/index_2.htm

ヤフーブログ(絵と詩) http://blogs.yahoo.co.jp/maron20222001/MYBLOG/yblog.html

楽天ブログ(小説) http://plaza.rakuten.co.jp/kurikuriman/

エキサイトブログ(空想昆虫採集) http://ykuron.exblog.jp/

ウェブリブログ(童話) http://horafuki-kuri.at.webry.info/

グーグルブログ(絵と詩・英文版) http://yojikuri.blogspot.com/

「クリムト」

ミラノ

渋谷のbunkamuraル・シネマで映画「クリムト」を見てきました。

19世紀末の巨匠グスタフ・クリムトの、何と言うのか、筋はよく分かりませんでした。

1900年のパリ万国博覧会で、彼の絵が金賞か何かを受賞して一気に世界的な名声を得たり、ウイーンのカフェで芸術論争したり、モデルのレアの幻影を追いかけて、夢とも現実ともつかない女性を追いかけたり、彼につきまとう大使館の書記官が実際に存在しないクリムトの頭の中にだけいる人物だったりして…ああ、この映画はただ単に映像を楽しめばいいのかなあ、と思いました。

確かに、クリムトを演じたジョン・マルコヴィッチもエゴン・シーレを演じたニコライ・キンスキーも「そっくりさん」のように演じていました。でも、オーストリア人なのに、全編英語で通されていたのは、国際政治の力学が働いたのかなあ、と思いました。オーストリア、フランス、ドイツ、イギリス合作映画だったのですが…。

部屋の中で雪が舞い散ったり、花びらや金箔が花吹雪のように舞ったり、まさしく現実ではありえなような退廃的な幻想世界が映像の中で展開され、思わず見とれてしまいます。何と言っても、当時としては相当スキャンダラスな画家として糾弾されていたようですが、若い女性モデルの裸体が頻繁に登場しても、究極の美として説得力がありました。

映画がはねて、自由が丘に行きました。

4半世紀昔にフラフラした街ですが、すっかり変わってしまい、その面影すらなくなってしまいました。若者の街ではありましたが、昔はもう少し落ち着いていた気がしましたが、今は何か、せわしない、歩く人たちにも余裕を感じられない雰囲気でした。

5時に、作家のYさんとカフェ「アンセーニュダングル」で待ち合わせをして、その後、居酒屋「金田」で痛飲。文壇の裏話を伺いましたが、「書いちゃ駄目よ」と釘をさされてしまいました。

L’ automne deja

L’automne deja!- Mais pourquoi regretter un eternel soleil, si nous sommes engages a la decouverte de la clarte divine,- loin des gens qui meurent sur les saison.  – Arthur Rimbaud

素朴な疑問です。

ルネッサンスの三大巨匠といえば、ダ・ヴィンチとミケランジェロとラファエロです。そう、世界史に名前を残しています。でも、ミケランジェロとラファエロは苗字でなくて名前なんですよね。正確には、

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

ミケランジェロ・ブオナローテ(1475-1564)

ラファエロ・サンツィオ(1483-1520)

です。ブオナローテやサンツィオでは誰のことか分かりませんよね。ボッティチェリでさえ苗字で、名前はサンドロ・ボッティチェリ(1444-1510)です。

(パブロ)ピカソでも、(クロード)モネでも、(ポール)セザンヌでも、(オーギュスト)ルノワールでも、苗字ですよね。

そういえば、「夜警」で知られるレンブラントがいました。確か名前だったはずです。

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606-1669)がその正確な名前です。ファン・レインでは誰のことか分かりません。

本人がそういい残したのでしょうか?よく分かりません。

一生に一度の展覧会

国宝「風神雷神図屏風」(俵屋宗達)

 

日比谷の出光美術館で開かれている「国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術継承と創造」展に行ってきました。

 

俵屋宗達(国宝=京都・建仁寺蔵)、尾形光琳(重要文化財=東京国立博物館蔵)、酒井抱一(出光美術館蔵)の三者による同じテーマの「風神雷神図屏風」がそろって展示されるのは、昭和15年(1940年)以来、実に66年ぶりということですから、この機会を逃しては、もう一生無理でしょう。前回、幸運にも見ることが出来た方も、若くても、もう80歳近いでしょうし、また、この三者が66年後にしか一堂に会することがないとしたら、まさしく一生に一度の展覧会ということになります。「これは万難を排して、無理をしてでも行くしかない」ということで、皆さんを代表して行って参りました。

 

混むのが嫌だったので、平日の昼間を狙ったのですが、すごい混雑でした。特に宗達の国宝の前は、三重の人だかりです。幸運にも私は普通の人より頭一つ背が高いので、後ろからでも良く見えたのですが、やっぱり、人にぶつかっても謝りもしないし、日本人はエチケット知らずで嫌ですね。

 

宗達の作品は想像していたより、意外と小さかったです。(154.5×169.8cm)宗達は生没年不詳なので、いつごろ描かれたのか分かりませんが、恐らく江戸の初期(落款もないのです)。光琳(1658-1716年)は、およそその百年後、抱一(1761-1828年)は、またその百年後に模写したとされています。百年ごとに現れた天才絵師が琳派の伝統を継承してきたわけです。

 

今回の驚くべき発見は、「宗達狂い」の光琳が、原本の上に薄紙を載せてなぞった、ということが判明しています。まさしく模写というより複写そのものです。もちろん、その上に、光琳自身のオリジナリティーを加えています。姫路藩主の弟であった抱一は、宗達の存在を知らなかったらしく、光琳が宗達に思い入れした以上に光琳にのめり込んで、模写しています。面白いことに、雷神の指が5本ではなくて、わざと4本に描いているのです。

 

この展覧会では、この三者三様の違いを、「顔」「目」「手」「足」「角」などのアップの写真で並べて比較しているので、大変面白いです。私は一度見てから戻って、もう一度見てきました。1000円の入場料は、200円の割引券があったので安かったです。

 

もちろん図版(1500円)と絵葉書(1枚100円)も買ってきました。展示と同じ解説が載っていました。また、宗達の上に光琳の、光琳の作品の上に抱一の作品のセロファンが重なっているので違いが分かります。21世紀だからこそ、こんな図版が製作できたのでしょう。宝物になりそうです。

 

皇居前の出光美術館の休憩所の窓から皇居外苑が見え、急に、二重橋が見たくなって、その帰りに行ってきました。私と同じようなお上りさんと外人観光客が大勢いました。

 

今日も充実した一日を過すことができました。もう一日生き延びてみようと思います。

 

有難うございました。

シュス・トムセンさんの死

アメリカに住む今村哲郎君が久しぶりに帰国し、渋谷で会いました。6年ほど前にキューバ旅行した際、テキサス州の彼の家に厄介になったことがあるので、彼に会うのはそれ以来です。

彼は結婚してもう16年も経つのに、日本の親戚に結婚の報告と挨拶をするのが、これが初めてで、ご先祖さまの墓参りと親戚の挨拶廻りの忙しい中、私のためにわざわざ時間を取ってくれました。

日本人の奥さんと15歳になる娘さんも一緒です。

彼は叔父さんに言われたそうです。

「不義理もここまでくると、時効だな」

ま、彼はそこまで達観しているいい奴です。

ところで、彼の口からシュス・トムセンさんの死を聞きました。もう6年前の2000年7月だったそうです。

彼女はデンマークの人ですが、コペンハーゲン建築大学を卒業後、ロータリークラブの支援で1970年代に日本に留学し、これが縁で、今村君の出身地である福岡県の星野村の「源太窯」で焼き物を修行するようになった陶芸家です。文部省の給費留学生としても滞在しています。星野村の農村風景を写真にとって解説した本を出版したりもしています。

つまり、日本とデンマークの架け橋となる仕事をたくさんした人です。

私も今村君と知り合って、デンマークの彼女の住む工房兼自宅を彼と一緒に訪れたことがあります。彼女はコペンハーゲンの南のムーン島というところに一人で住んでいました。コペンハーゲンから電車で2時間、その駅から歩いて2時間くらい掛かる所でした。途中でヒッチハイクした記憶があります。もう三十年近く昔の話なので、あまり詳しく覚えていないのですが、真夜中なのに白夜だったので、あたり一面が明るく広大な麦畑が広がっていました。

彼女の寝床は屋根裏部屋で、そこに辿り着くには梯子を登っていきますが、彼女が寝るときは、その梯子をはずして屋根裏部屋にしまってしまうので、誰もその屋根裏部屋に近づけない家の作りになっていました。僕たち二人は1階で寝ました。

翌朝、コーンフレークのようなものと、ヤギの乳を出してくれたことを思い出します。

日本語に堪能で、残された写真を見ると「広辞苑」なども机の上にのっていました。

彼女は本当に日本を愛した人でした。徳利なども製作し、デンマークに日本の文化を伝えました。

彼女の祖父はデンマークの駅舎を設計した建築家で、親兄弟も建築家や芸術家だったようです。

今村君から最初はシュスさんは病気で亡くなった、と聞きました。

しかし、九州の地域誌に載った彼女の追悼号を読むと「コペンハーゲンのアパートで自殺」と書いてあったのです。

これには非常に驚き、つい落涙してしまいました。

晩年の彼女はムーン島の田舎の自宅を引き払って、コペンハーゲンに出てきましたが、芸術的創作に行き詰ってしまったようです。

もっと複雑な原因があったでしょうが、想像を絶する理由だったのでしょう。しかし、彼女の死がとても残念でなりません。

シュス・トムセンさん(1939・4-2000・7)は、現在、コペンハーゲンの共同墓地で眠っているそうです。

シュスさんの魂よ、安らかに…

アジア美術最新事情

長年の友人である美術雑誌「月刊ギャラリー」の編集長である本多隆彦氏と久しぶりに会い、新宿の「北海道」という居酒屋で痛飲しました。金曜の夜ということで、立錐の余地もないほど満員で、テーブルの隣は、フィリピン系の30代初めの女性と60歳くらいの中小企業の社長さんタイプの男性のカップル。ここに辿り着くまでに街ですれ違った若い女の子で、胸の谷間を露にしたビキニで闊歩していたのには驚きましたね。新宿は相変わらずカオス状態です。

本多編集長から面白い話を聞きました。彼は、東京、ソウル、北京、上海、台北を結んだ東アジアの美術市場を結んだ美術情報誌を発行し、中国、韓国を飛び回っていますが、それぞれの「お国柄」が表れていて面白いというのです。

やはり、パワーがあるのが中国だそうです。オークションが盛んで、日本では、代表的なシンワ・オークションが年間売り上げ70億円規模なのに、北京のあるオークションは既に300億円を超えているそうです。

美術市場は、当然、その国の経済事情を反映しています。日本ではあのバブル期が最盛期でした。大昭和製紙名誉会長の斉藤了英氏がゴッホの「ガシェ博士の肖像」を125億円で落札して、世界中をアッと言わせました。この記録は、1枚の絵に対する価格としてはいまだに破られていないのではないでしょう。

要するに日本の場合、バブル紳士は、既に評価の定まった印象派などの名画に金をつぎこんで、日本の若い芸術家に目もくれなかったのです。

これに対して、現在の中国人のお金持ちたちはどんな絵に投資するかというと、ファン・リジュンといった自国の若い芸術家なのです。リジュンは数年前までは1枚数十万円だったのが、今では1億円近いというのです。韓国でも事情は同じです。経済新興国と注目されているインドでも、自国の若い芸術家の作品を買い集めています。

中国の場合、美術の教科書はロシアのものを使っているので、日本人なら誰でも知っている「印象派」などの作品を知らないというというのも背景にあるそうですが、それにしても、「西欧追随型」の日本とはえらい違いです。

日本の場合、20世紀末のバブル期に、19世紀のパリ、20世紀前半のニューヨークに続いて、芸術の都、美術市場の中心地になるチャンスだったのですが、逃してしまいました。パトロンたちが自国の芸術家を育てなかったからです。125億円もあれば、一体何人の若い日本人の芸術家をデビューさせることが出来たことでしょう。今頃、その日本人の画家は「世界の巨匠」として君臨していたはずです。

つまり、美術と経済的繁栄は密接に結びついています。19世紀から20世紀初頭にかけてのパリのパトロンたちは「印象派」を育て、世界的マーケットして買い支えました。第二次大戦で戦勝国となり、世界一の大国となったアメリカは、ジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォホールのような漫画のようなつまらない軽いものに芸術的価値を与えて、世界に通用するマーケットを作りました。

日本は駄目でしたが、中国、韓国、インドは違います。自国の芸術家を育てたおかげで、サザビーズやクリスティーズもマーケットに参加せざるを得なくなりました。

はっきり言って、日本画は世界では全く通用しません。これは、芸術的価値がないという意味ではありません。もっと下衆い話です。世界中の金持ちたちの食指が動かないということです。

それに、日本人の金持ちたちには、絵を買うようなセンスも慣習もないようです。第一、いい絵を買ったりしたら、世間の僻みややっかみに遭うことを怖れて、作品を隠してしまいますからね。それに、歴史的、美術的に評価の定まった有名な絵画しか買おうとしません。若い芸術家を育てようという勇気も気概もありません。

それが、中国や韓国との大きな違いかもしれませんね。

金持ちと文化遺産 NHK日曜美術館

5日にNHK教育で放送された日曜美術館はとても面白かったです。タイトルは「名品流転・コレクターの興亡と美術商」。美術の名作の持ち主がどうのように変遷していったか、その時代の景気や社会背景が美術市場と連動しているのでとても興味深かったです。

 

テレビなので、ボケーと見てしまったのが、残念です。大学の講義ならちゃんとメモを取っていたことでしょうが…。そこで思い出すことができたことをここに書きます。

 

例えば、野々村仁清の国宝「色絵藤花図茶壷」。旧丸亀藩の家宝でしたが、維新後、没落し、明治半ばになって、手放さなければならず、今で言うオークションにかけます。

 

見事、入札したのが、九州で鉄道業など幅広く実業を営んでいた松尾公蔵。(この人に詳しい人はコメントください)しかし、栄華も長くは続きません。

 

続いて、現れたのが、胃腸薬の「わかもと」の創業者、長尾欽也。長尾美術館を建設し、奥さんのよねさんが、夫の死後、最後までこの国宝を守ったようですが、詳しくはわかりません。(コメント募集)

 

戦後になって、この国宝を手に入れたのが、岡田茂吉(1882-1955)。世界救世教の始祖です。静岡県の熱海市にMOA美術館を建て、今でもそこに展示されています。私もそこで見たことを記憶しています。MOAって何の略かわからなかったのですが、Mokichi Okada Asociationの略だったのですね。世界救世教に詳しい方も是非コメントください。

 

続いて「源氏物語絵巻」。

 

詳しくは、酔っ払っていて覚えていないのですが、当初は尾張徳川家などに伝わっていたのが、明治33年に、三井物産の設立に参加して社長を務めた益田孝男爵(1848-1938、雅号鈍翁)が8万円(今の1億円)で手に入れたようです。その後、コカコーラの日本代理店の代表を務めた高梨仁三郎が入手し、程なく東急財閥の創業者の五島慶太が豪腕を発揮し、現在も五島美術館に展示されています。

 

乗っ取り屋として「強盗慶太」の異名で知られた、いくら評判の悪い実業家でも、文化人でもあったのです。美術品に関して値切らずに、言い値で買っていたようです。

 

そして、彼らは文化人としては見上げたものです。日本の文化遺産が海外に流出することを防いだわけですから。

 

ライブドアのホリエモンも文化人として何か社会に貢献していたのでしょうか?東大文学部出身だというのに、文化的素養も教養もなかったようにみえます。もし仮に、有り余った金で、家賃220万円の豪華マンションに住まず、プライベートジェット機も買わず、私産を文化事業に投入していれば、少しは名を残すことができたでしょうに。

クールベ展 

今日は、帯広美術館に「クールベ展」を見に行きました。

そう、印象派の先駆者、美術史でいえば「写実派」のギュスターヴ・クールベです。

オルナンのクールベの生家を改造した「クールベ美術館」所蔵作品が中心で、代表作の「オルナンの埋葬」や「まどろみ」「こんにちは、クールベさん」などはなかったのですが、いくつか発見がありました。

クールベは、1819年にスイス国境に近いフランス東部の小村オルナンの地主の家に生まれ、父親の法曹界に進んで活躍してほしいという願いに反発してパリに出て、独学で絵画を習得します。

彼の業績の特筆すべきことは、これまで、絵画といえば、歴史や神話や聖書に題材をとり、室内のアトリエに閉じこもって描くものだった芸術を、一般庶民を写実的に描き、キャンバスと絵の具を背中にしょって、戸外に写生に出かけていったという今からみれば当たり前のことを彼が始めたということです。

印象派の先駆者というのも、若き無名のモネを経済的に援助しただけではなく、その画風も、芸術家としての心構えも、まさしく印象派につながっていったのです。

今回の展覧会で初めて知ったのは、まだ、この時代でも、レンブラントやルーベンスのような「工房」があったということです。「巨匠」となったクールベを慕って、全国からクールベに弟子入りする画家が増え、クールベ自身は、最後の「点睛」を描いてサインを書くぐらいで、晩年は仕事を弟子たちに任せていたのです。

ケルビノ・パタ、フランソワ・ルイ=フランセ、アレクサンドル・ラパンらの弟子たちは、今ではすっかり忘れ去られてしまいましたが、今回、彼らの作品も目にすることが出来ました。

クールベは1877年に58歳で亡くなっていますが、スイスで亡命生活を送っていた時でした。1871年のあのパリ・コミューンにクールベも参加して、6ヶ月間も牢獄に入っていたのですね。芸術活動をしながらの政治運動は当時としてはかなりの勇気が必要としたことでしょう。

今回、1874年作の「シヨン城」がとっても気に入りました。
後で分かったのですが、この絵はクールベ展のパンフレットの表紙を飾っていました。要するに「目玉」だったのです。自分の鑑識眼に自信を持ってしまいました。

カミーユ・クロデール

彫刻家ロダンの弟子、カミーユ・クロデールについて、最近、興味を持っています。

映画「カミーユ」に、私の大好きなイザベル・アジャーニが主演しているので、早速、蔦屋でビデオを借りてきて見てみました。

恐らく、美術史をひっくり返すほどの発見かもしれませんが、ロダンより、カミーユの方が才能があったかもしれません。

私自身、30年以上昔に、フランス文学をかじったことがあり、ポール・クロデールについては、戦前日本のフランス大使として、6代目菊五郎や15代目市村羽佐衛門にも会って、日本の伝統芸術に関して理解と認識を持っている詩人だと、理解していましたが、彼がそのカミーユの実弟だということをすっかり忘れていました。

しかも、私の卒論のテーマに登場する作曲家ドビュッシーまで、映画に出てくるので、これはさすがに、「作り物」というわざとらしさを感じて白けてしまいましたが、20世紀初頭のパリの風俗が如実に再現されていて、また、パリに行きたいと思ってしまいました。

もしかしたら、私は、パリジャンの生まれ変わりじゃないか錯覚してしまった次第です。

松井守男画伯

最近、気になっている画家がいます。
日本人でありながら、フランスに定住し、ついにレジョンヌ・ド・ヌール勲章までも受章した松井守男画伯です。

たまたま、テレビで彼の活躍を知りました。(今年5月に放送されたNHK教育「課外授業 ようこそ先輩」と11月に放送されたNTV系「金のA様×銀のB様」)

現在、フランスのコルシカ島に住み、最も有名な日本人らしいのです。アラブの大富豪がわざわざ自家用のジェット旅客機で、彼の絵を買いにコルシカ島までやってくるというから只者ではありません。

レジョンヌ・ド・ヌール章とはナポレオン・ボナパルトによって1802年に創設されたもので、軍人や文化・科学・産業・商業・クリエーション等の分野における民間人の「卓越した功績」を表彰する事を目的とした勲章です。

日本人画家では、1932年の鹿子木孟郎、1956年の荻須高徳、1957年の藤田嗣治、1996年の平山郁夫に続き、松井守男画伯(2003年)は5人目です。

それほどすごい画家なのに、今年5月まで、全く知りませんでした。

松井画伯は、類稀な才能ゆえに、周囲の妬み、反感をかって、12年間も引き篭もって、新境地を開いた経験があります。

彼の作品を見たい人は、検索エンジンで彼のホームページを探してください。
非常に立派なHPがあります。
あまり立派すぎて、何も付け足すことはありません。
ちょっと白けちゃいますが…。