京都周遊

 

京都を全部見て回るには数ヶ月かかるかなあ、と思っていたところ、地元の人から「十年かかる」と言われてしまいました。

 

 

  大丸ヴィラ(下村一族の別邸?)

 

それだけ、京都は見るところがいっぱいです。

何しろ、都として、千年近く栄えたところですからね。

 

 

 

道元禅師示寂の地

 

 

小野小町が使ったと言われる化粧水

 

 

祇園祭の鉾

 

 

ブログは暴力装置なのか?

いやあ、いつもながらのことでですが、個人的なことです。

最近、急に忙しくなってしまいました。ネット関係の仕事のお手伝いを頼まれてしまったのです。在宅でできる仕事で、メッセンジャーのチャットを使って、ほぼ同時進行で進めていきます。

私は、インターネットのへヴィーユーザーではないので、こういった「メッセンジャー」や「グループ」ネットを使うのは初めてです。まだ、よく分かっていましぇん。

さて、ブログのことですが、ある人のことをこのブログに載せたら「イニシャルでも載せないでください」と怒られてしまいました。

このことをある人にメールしたら、「最近、個人情報に皆さん神経質になっています。特にインターネットについては路上で立ち○○するようなもので、関係を持ちたくないという人がいるのも確かです。取り扱いについては慎重にも慎重に対応されるのが肝要と存じます」というお返事を頂きました。

ということで、少しは自重するつもりですが、私のブログは、無辜の人を誹謗中傷することが目的ではないので、訂正削除すべきことは、訂正致しますのでご安心を。

ある人は「ジャーナリズムにブラックもホワイトもない。みんなブラックなんだ」と名言を吐かれましたが、その通りかもしれません。ブログも一種の暴力装置になりえてしまう世の中なのですから。

その前に、ある人には、このブログに載せることを断っていません。ある人も怒るでしょうね。でも、ある人、ある人って、読者にはどの人か分からないじゃないか、という声が聞こえてきそうです。

新潟中越沖地震

新潟地震の被害状況がだんだん明らかになってきました。震度6強。マグニチュード6・8.想像を絶する程、甚大だったので、今更ながら驚いています。私の柏崎入りが一日早かったら、災害に巻き込まれていたでしょう。

 

報道によると、今のところ9人が亡くなり、千人以上が怪我をされました。柏崎駅構内で、電車が脱線していました。柏崎刈羽原発では放射能を含んだ水が海に流出しました。三百棟以上の家屋が全壊し、1万人以上が避難し、まだ余震が続いています。大惨事と言っていいでしょう。

 

「天災は忘れた頃にやってくる」と、寺田寅彦の有名な言葉がありますが、新潟では2004年10月に中越地震があったばかりです。1964年6月の新潟地震を覚えている人も多くいたはずです。私も、団地が倒壊した当時の写真を今でも思い出すことができます。

 

北海道でも地震が多かったのですが、不謹慎な言い方ですが、人口が密集していないため、人的被害がそれほど多くなかったでした。これが、過密な大都会に起きたら、どんなに被害が大きいか、想像するだに恐ろしい感じです。

 

関東大震災から84年。もうそろそろ、「忘れた頃」に入るでしょう。

柏崎地震

 京都・建仁寺

 

全くの偶然に驚くとともに、恐れ慄いております。

 

今日、新潟の柏崎に一泊で行く予定でした。丁度、30年前に亡くなった親友の加納弘規君のお墓参りのためです。そろそろ、出かけようかと思った7月16日午前10時13分、私の自宅でも大きな揺れを感じました。「地震だ」と察知しましたが、それが、これから向かう柏崎が震源地だということなど、想像だにできませんでした。

 

結局、上越新幹線は運休し、駅に行っても「復旧するのに、5,6時間かかる」と言われて、自宅に戻ったところ、予約したホテルからも電話があり、「断水と停電で、収容が難しい」ということで、全てキャンセルせざるを得なくなりました。

 

それでも、加納君のお母さんとはなかなか連絡が取れませんでした。地震があった直後に電話しましたが、話し中で、その後、何回電話しても「現在込み合っております」というメッセージが流れて、なかなか通じませんでした。20回以上挑戦したでしょう。

 

すっかり、諦めて、NHKの7時のニュースを見たところ、驚いたことに、避難所に避難した被災者の一人として、何と!加納君のお母さんがインタビューされているのではありませんか!

 

全くの偶然!これで安否が確認ができましたが、本当に心配していた私なんか、嬉しいやら、ホッとしたやら、信じられないやら、泣き笑いの状態でした。

 

こういうことが世の中にあるものなんですねえ!

 

本当に驚きました!

京都巡行 

 

これが有名な竹田黙雷・建仁寺第四代管長の達磨「心外無法」

 

 

 

俵屋宗達「風神雷神」(国宝)

そう言えば、昨年九月に、東京・有楽町の出光美術館で本物を見ました。俵屋宗達ー尾形光琳(重要文化財)ー酒井抱一と三者三様の「風神雷神」図の継承を比較した画期的な展覧会でした。三者が一堂に会する展覧会は、もう私が生きている間、実現することはないでしょうね。

 

 

ここはどこでしょうか?

 

 

そうです。祇園にある高級料亭「一力茶屋」です。歌舞伎でも有名ですね。

 

大石蔵之助さま御一行が遊興されたあの一力茶屋が今も営業していたとは…

 

祇園にある蕎麦屋「権兵衛」。小泉純一郎首相(当時)が、御贔屓にされたとかで、有名になった店です。

 

残念ながら、時間帯が合わず、挑戦できず。

 

祇園祭の山鉾の模型。本物の巡行は7月17日。模型と、待機していた鉾を見ただけでしたが、巡行まで見た気になりました。

建仁寺

 

建仁寺は、京都五山の中で最も古い名刹です。開祖は、臨済宗を起こした栄西。日本にお茶を伝えた備中吉備の人です。ここに、調布先生の奥方さまが眠っておられます。今回の旅の主目的が、 二年前にわずか49歳で亡くられた奥方さまのお参りでした。生憎、雨が降ったり、止んだりの天気で、お坊さんがお経をあげている時に、滂沱の雨が降り注ぎました。

調布先生が、墓前でお線香をあげながら「朋之介さんが、遠路はるばるお出でになってくださいましたよ」と声を掛けてくださり、私も思わず、色々と思い出すこともあり、目頭が熱くなってしまいました。

 

 

この建仁寺は本当に、素晴らしいお寺でした。京都でたった一箇所しかお寺に行けないのなら、ここがお奨めです。西芳寺のような苔庭がありますし、竜安寺のような石庭もあります。何しろ、俵屋宗達の「風神雷神図」はこの寺所蔵なのです。(寺には複製のみで、本物の国宝は京都国立博物館に委託されている由)

 

 

建仁寺には、安国寺恵瓊の首塚まであるのですね。恵瓊は、加藤廣さんの「秀吉の枷」にも出てきますが、毛利の交渉人というか全権委任大使として、羽柴秀吉と毛利軍の和睦の仲介をした歴史上の重要人物です。もし彼がいなければ、本能寺の変を逸早く察知した秀吉の「中国大返し」ができず、秀吉が天下国家を取ることはできなかったでしょう。関ケ原の合戦では、石田三成の西軍に味方しましたが、小早川秀秋の裏切り(この人の名前はよーく覚えておいてください)に遭い、敗退して、京都六条河原で斬首の刑を受けます。この首を密かに建仁寺に持ち帰って塚が建てられたいたとは知りませんでしたね。

 

 

 

ね、竜安寺みたいでしょう?なかなか手入れが行き届いた寺です。ここの四代目管長が竹田黙雷さんという高僧で、明治から昭和にかけて活躍された方です。明治の元勲伊藤博文をはじめ、鈴木大拙、東武鉄道の創始者根津嘉一郎ら多くの信奉者がおり、書画をよくし、彼の作品は今でも骨董店で高価な額で売買されています。建仁寺では法堂を再建するなど荒れかけた寺を再興した中興の祖です。寺内には、もちろん彼の水墨画がありましたが、本物かどうか不明。

 

 

 

そして、これが私が見たかった念願の小泉淳作さんの「双龍図」です。建仁寺開創八百年を記念して法堂の天井画として描かれたものです。やはり、本物の迫力は違いましたね。

大きさは畳108枚分もあるそうです。説明文に「中札内村の小学校の体育館で描かれた」ことも明記されていましたよ、北海道の皆さん!是非、京都に行かれるのなら、建仁寺に立ち寄るといいですよ。

京都慕情


京都~奈良とまさに駆け足で非常に中身の濃い旅行に行って参りました。
ちょっと、暴飲暴食してしまい、歩くのもしんどかったのですが、同行の調布先生は私と全く同じものを飲食しても、全くけろっとして、ご老人(?)とは思えない異様な健脚ぶりでした。京都は調布先生の生まれ故郷なので、勝手知った街。観光客が行かない裏道でも脇目振らず、まさに猪突猛進といった感じでした。

京都は、お墓参りの建仁寺を含め、主に四条通りを行ったり、来たりしておりました。17日の祇園祭のメーンイベントの巡行に備えて、山鉾が待機していました。生憎の雨続きでしたが、外国人観光客の多さには驚きました。
何と言っても、一番驚いたのが、店番の接客係の殆んどが外国人だったことです。アジア系なので、顔では分かりませんが、話し方で、すぐ中国人か韓国人であることが分かります。

居酒屋もそうでしたが、奈良の二月堂の茶店の若い男女二人とも中国人で、かなり日本語は上手いのですが、イントネーションが少し違い、二人だけの間では中国語で話していました。
「もう、日本人の若者は、こういう仕事はやりたがらないんだなあ」と、ニートの意味を実感した次第です。

古の町、雅の京都


わぁお~!
遂に京都にやって来ました。まさか毎日このブログを読まれている方は、地球上に一人もいないと思いますが、一日お休みいただいたのは、そういう事情によります。これから関西の素晴らしい写真を添えてリポートしていきます。
今、京都は祇園祭の真っ最中です。外国人観光客もわんさかと詰めかけています。
まだ、宵々々山の段階ですが、もうすでに山鉾が四条通りにスタンバイの状態で待機していました。ちょうど、曳き初(ぞ)めの日だったようです。
何か、血が騒ぐようで、久しぶりに興奮してしまいました。

厭離穢土

 帯広動物園

 

人の心は移ろいやすく、愛は不滅ではなく、何はともあれ己の都合が最優先。すべて自己保存本能があるのみ。
人は簡単に人を裏切り、その手段を選ばず。
前世も後世もなく、ただあるのは地獄の苦しみの現世のみ。
生きることとは、苦しきことのみ、多かりき。
生きる目的はなく、生き甲斐もなく、人生に意味も意義もなし。辛抱と我慢と忍耐があるのみ。
恩知らずの人間が巷に溢れ、いとも容易く友情も愛情も反古にし、その行為すら忘却す。そこにあるのは、己の出世欲と権力欲と名誉欲があるのみ。
人前で平気で化粧し、ヤンキーの如く、歩きながら物を喰うようになった日本人。
恥も外聞もなく、まさしく恥知らずで、恩知らずで、破廉恥に成り下がった日本人。
己の自尊心と体面を守ることのみ汲々とし、まさに犬畜生以下の無益な存在なり。
人の金で採算を度外視して保養施設を造り、天下り先で多額の退職金をむしり取って、田園調布に豪邸を建てる高級官僚。雨水で消毒した賞味期限の切れた肉で偽装ミンチを作っても、買う方が悪い、と開き直る社長。自己保存本能を満たすために手段を選ばず。
エネルギー資源獲得のために、自衛と称して戦争をばらまくアメリカ人。自分たちが口にしないからと言って農薬漬けの農産物と有毒物質の入った薬物を世界に輸出する中国人。天然ガスと漁業資源を死守するために無理難題を押し付け、占領地を返還しないロシア人。他国の人民を拉致し、自国の人民を迫害し、麻薬を密売し、偽札を流通させて私腹を肥やす北朝鮮幹部。
世の中、不正と悪と不条理がはびこっている。
人の世は弱肉強食、勝てば官軍。負ければ賊軍。歴史は勝者の側から書かれ、敗者は末代まで汚名を着せられる。
勝つために、手段を選ばず。世に汚職と賄賂と追従と諌言と謀略がはびこり、人を出し抜き、裏切ることなど朝飯前。
人間かくも醜悪で汚辱に満ちた世の中。
そこに救いはあるのか? 新興宗教家は、人の不安につけこみ、多額の献金を詐取して、大学を作り、政治家を作り、医者弁護士を作り、マスコミを作り、芸能人を作り、美術館を作り、領地を作り、時の権力までも手にする。人呼んで、これが衆生救済。
しかし、朋之介さん、それでは身も蓋もない。それを言っちゃあ、おしめいじゃござせんか?
あ、私ですか?
どんなに、もがこうが苦しもうが、純粋さを忘れないようにしているのです。ドビュッシーの言葉ですけどね。
そしたら、信じられないくらい幸運に恵まれ、生きているだけで楽しいのです。本当についているのです。悪いことが起きないのです。うまくできているのです。すべて順調で、いい方向に向かっているのです。離れていく友人もいますが、それは彼が必要なくなったからなので、お互いのためにもよかったのです。良い事だから起きたのです。万事塞翁が馬。私には良い事しか起きないのです。。。そう思えば気が楽ですよ。
序でながら、あなたも好い人をやめると気が楽になりますよ!

長嶋さんのオーラ

 帯広動物園

日経新聞の「私の履歴書」で、読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏が7月から連載されています。私も面白く拝読しています。長嶋ファンにとっては、もう方々で読んだことがある「自明の理」なのかもしれませんが、私としては初めて知ることばかりで、「なるほど」と毎回、感心してしまいます。

 

長嶋の現役時代を知っている人は、今ではもう40歳を過ぎていることでしょう。私も、子供時代、長嶋はヒーローであり、スーパースターでした。しかし、この連載を読むと、当たり前なのですが、長嶋とて偶然の天才ではなく、彼なりに相当努力して、チャンスをつかんだ人だということが分かりました。プロとして、華があったのも、わざと華になるようにパフォーマンスしていたということも明かしています。二男二女の末っ子として生まれ、父親が千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)の収入役を務めた真面目で律儀な人で、長嶋が立教大学在学中に急死してしまう。つまり、彼の巨人での活躍を知らないまま亡くなってしまうことなど、知りませんでしたね。

 

私は、仕事の関係で、たくさんの有名人に会う機会がありますが、これまで会った人でオーラを見た(感じたではなく)人は三人います。そのうちの一人が長嶋さんでした。もう20年くらい昔の話ですが、その後光のまぶしさに目を細めてしまったくらいです。