WRC取材裏話

やっと、世界ラリー選手権(WRC)ラリー・ジャパンの取材が終わりました。
この一週間、下調べから始まって、このWRCに掛かりっきりだったので、心地よい疲労感を感じています。

一つ、この取材の裏話を。この大会には90台が参加しましたが、ほとんどが2軍、3軍クラスで、実際のWRCとして戦われていたのは、6大ワークスと言われる15台だけでした。

今回の6大ワークスとは、日本のスバルと三菱、フランスのプジョー、シトロエン、米国のフォード、そしてチェコのスコダです。これらのチームのスタッフは拠点ごとに配置され、ドライバーから話を聞いています。その情報収集力はマスコミ以上です。マスコミといっても、強制捜査権はないので、現場で話を聞くことはできず、単なる「イタコ」みたいな存在なのです。ドライバーの話が欲しければ、唯一、記者会見で聞くか、どこかで捕まえるしかありません。

今回、ノルウェーのペテル・ソルベルク(スバル)が初日から首位を独走し、大会2連覇は確実だと思われていました。しかし、好事魔多し。あと1歩のところで、岩に接触して、サスペンションなどを損傷し、リタイアしてしまったのです。それは、全26競技区間の中で、最後から2番目の第25競技区間だったので、泣くに泣けないでしょう。

私は、彼のコメントが欲しいと思いましたが、記者会見に出てくるわけではないし、普段、区間ごとに出されるプレスリリースにも彼の名前は消えてしまいました。どうしたものか、と思い、プレス担当の若い人に聞いたら、「スバルがホームページ(http://www.swrt.com/807537.html)でソルベルクのコメントを発表する」と教えてくれました。

こうして、私は記事を書いたのです。

WRCに出場する車は、市販車を大幅に改造しますが、改造費だけで1億6千万円も掛けているそうです。スタッフも、技術者やミシュランなどのタイヤメーカーも入れれば、百人近いでしょう。

情報収集の面でいえば、もうすでにマスコミの独占ではなく、一般市民が簡単に生の情報にアクセスできる時代になりました。某サイトのように、匿名で誹謗中傷ばかりしているものには全く興味がありませんが、インターネットは確かにその傾向に拍車を掛けました。

ブログもそうかもしれませんね。

取材余話

実に15年6ヶ月ぶりにスポーツの取材をしています。

もう大昔のことなので、現場に来ているスポーツ記者で知っている人はほとんどいませんでした。そういえば、辞めてフリーになった人もいれば、地方のテレビ局の社長になった人もいます。

プレスセンターに来て驚いたのは、各座席に光ケーブルが配備していたことです。皆、黙々とパソコンに向かって、原稿や写真を送っています。ラリーの世界選手権なので外人記者が多く、当然、自国に送稿しているのでしょう。

本当に世界は狭くなりました。

昔は、FAXでしたから、皆、せっせと「手書き」で書いて、FAXで原稿を送っていました。そのまた昔は「電話送り」といって、電話でそのまま、原稿を読んで、部内にいる者に書き取らせていたのです。私も新人の頃、ほとんど「電話取り」が仕事で、先輩記者の原稿をよく取らされました。
それが、最初はよく分からないのです。急に「ワンマン吉田…」「加える下がり藤」「よみするの嘉」などと言われても分かるわけがありません。
戸惑っていると、「馬鹿野郎、代われ!」と怒鳴られたものです。

懐かしい思い出です。

アメリカのCM

日本に居ながらにして、いとも容易くアメリカのテレビのCMが見られるとは思いませんでした。ニューヨーク在住のSさんのブログで教えられました。
インターネットで、アメリカのCMのランキングのサイトがあったのです。
Sさんは、自動車保険会社「ガイコ」に日本のアニメ「マッハゴーゴー」(米国ではスピード・レーサー)が使われていたので、思わずはまってしまったそうです。

Sさんは、「子供の頃、よく見ていた」と書いていましたが、「あれ?」と思いました。あのアニメは、私が子供の頃に流行ったもので、その当時住んでいた東京都下のK町で、「マッハゴーゴー」の原画制作の「竜の子プロダクション」があり、小学校の帰り道によく窓越しに覗いて、スタッフが失敗したあまったセル(アニメ用の色付けした下絵)をくれないかなあ、と口からよだれをたらして眺めていたことをよく覚えています。
ちなみに、Sさんは私より10歳近く若いので、「見た」としても再放送だったのでしょう。

あの頃、-1960年代半ばですが、子供たちの間でレーシングカーのブームでした。ちょうど、富士スピードウェーができた頃で、「トヨタ7」や「ニッサンR-301」などが憧れの的でした。今でいうゲームセンターでは、レーシングカーを走らせるコースがあって、友達同士で競走させたものです。

無邪気な時代でした。本当に懐かしいです。過ぎ去りし日々…

ちなみに、アメリカのCMのネットのサイトは以下の通りです。
http://www.advertisementave.com/tv/ad.asp?adid=609

WRC世界ラリー選手権

帯広市を拠点に自動車の世界ラリー選手権(WRC)第13戦、「ラリー・ジャパン2005」が明日から10月2日まで行われます。

WRCは、F1と並ぶモータースポーツ最高峰に位置しており、今季は年間16試合、世界中を転戦し、日本では北海道の十勝で2年連続2度目の開催となりました。昨年は世界中から約21万人の熱狂的なファンが押し寄せましたが、今年も同様の観客が見込まれています。

帯広市の人口が17万人ですから、それはそれはすごい大イベントです。街のあちらこちらで外人さんを見かけました。
今晩は、帯広市の中心街に設置された特設会場でセレモニアルスタートが行われました。参加車は、ポディアムと呼ばれる「お立ち台」から轟音(ごうおん)をとどろかせて勢い良く飛び出し、約5万人のファンの喝采を浴びていました。

ここに写真を載せられないのが残念です。国際自動車連盟(FIA)からクレームが付いたら困るからです。
このWRCを取材するためには、「誓約書」を書かされます。英語ですが、よく読むと、事故に巻き込まれて、怪我をしたり死んだりしても、当局は「制限された責任」(limited liability)しか負いません。と書かれていました。

カメラマンはタバートと呼ばれるチョッキのようなものを着ます。逆に言えば、これさえあれば、特等席に入れるのです。セレモニーには5万人も押し寄せるので、「一般人」は人垣に遮られてあまりよく見えません。しかし、驚きました。私がこのタバートを着て「特等席」で写真を撮ろうとしたら、半分くらいの人がカメラさえ持っていなかったのです。要するに、ズルをしているのです。世の中にはいつでも何処でもこういうズルをする輩がいますが、目の当たりにすると、何かいやーな感じがしてしまいました。

森の哲人Ⅲ

結局、おじじと会談したのは1時間足らずでした。

最後に名刺を交換したら、おじじの本名が徳村彰さんということが分かりました。

「これ(名刺)も、私は作ったわけでなく、皆が作ってくれたのです。ここには、色んな人が来ます。1日だけの人もいるし、2ヶ月も泊まっている人もいます。自由です。文庫から学校に通っている人もいます。この間は、ドイツのミュンヘンから家族も来ていたなあ。そしてシカゴからも…」

「またお会いしましょう」と握手してお別れしました。

この後、「おばば」のいる文庫に顔を出しました。「森」から車で10分くらいの距離でした。本当に山奥なのに、文庫の近くには小学校と中学校がありました。

文庫に着くと、おばばが「よく来ました」と出迎えてくれました。「文庫」は合宿所みたいなところで、何人かの中学生くらいの子供たちが住んでいました。

彼らは、都会で不登校になって、ここに来たのか、よく分かりませんでした。

8畳くらいある「居間」では、今、まさに昼食の準備が始まっていました。

私は、何をするのではなく、ボーとそこに佇んでいました。
そこには、祭壇らしきものがあり、遺影のような写真と花とグレープフルーツが飾られていました。

おばばが「せっかく来てくれたのですから」と、一緒に昼食を奨められましたが、丁重に辞して、お別れを告げました。

文庫の近くに「ラ・ムータ」という喫茶店のようなペンション風の軽食屋さんがあり、そこに入ることにしました。

玄米のさんま定食800円を頼んで、部屋の中を見回すと、本棚があり、そこに『森に生きる』(雲母書房)という本がありました。本当は「森」という字は、「木」の下に左が「水」、右が「土」という、著者の造語で「もり」と読ませる「漢字」でした。

著者の名前を見て、驚いてしまいました。

徳村彰。

先程会ったばかりの「おじじ」の書いた本だったのです。何という偶然でしょう。

私は早速、この本と、もう1冊「森に学ぶ」(雲母書房)を手に取って買い求めることにしました。

やはり「森の哲人」という私の第一印象は間違っていませんでした。

徳村氏は、東京大学を中退した大変なインテリでした。

前回、「おじじは心に傷を負った人」と書きましたが、これらの本によると、1985年に子供たちと網走まで4日間の徒歩旅行に行く途中、交通事故に遭い、2人の子供が死亡、3人が大怪我をする大惨事に見舞われたそうです。先程、祭壇に飾られていた少年たちの写真が事故死した人だったのでしょう。その時は、何も分かりませんでしたが…・

彼の思想に学ぶべきことが沢山ありました。
いずれまた、紹介したいと思います。

森の哲人Ⅱ

おじじは、心に深い傷を負った人でした。

もっとも、それは、後から分かったことで、会っている時は、その片鱗さえ見せることがなく、要するに謎の人物でした。

私「いつ、この森に来たのですか?」

おじじ「1983年に初めて来て、1991年に本格的に移住しました。それまで、横浜に住んでいました。私は、おばばの父親で、美学者の中井正一の思想に影響を受けました。彼は広島の尾道に図書館を作って、文化運動を繰り広げました。私も同じようなことがしたいと思い、1971年に横浜の日吉にひまわり文庫というものを作り、たくさんの子供たちを受け入れていました。当時は、石井桃子氏の『子供の図書館』が岩波新書から出版され、全国的に子供文庫が盛んに生まれていたのです。そのうち、私は子供を本の世界だけにとどめたくないと思うようになり、『本はなくても子は育つ』『子供が主人公』などと提唱しました。周りから猛反発を受けましたけど…。最初60人ほどで始まったひまわり文庫も数年後には3000人もの子供たちでふくれあがり、もっと広い自然にあふれたところを探し求めたのです」

私「それで、この北海道に来たのですか?」

おじじ「最初は、山梨県のある町に子供文庫を作ることが決まっていたのです。町長さんの了解も得て、95%くらいそこへ移住することが決まっていたのです。しかし、土壇場で地元民から『余所者はいれたくない』という反対運動に遭って、挫折してしまいました。そしたら、知り合いの知り合いのまたその知り合いにここの土地を紹介されたのです。冬はマイナス30度にもなるので、最初は正気の沙汰ではない、と反対されましたが、住めば都です。おかげで私の病気も治ってしまいました」

私「医者から見離されたと聞きましたが」

おじじ「そうなんです。名医から『あなたの命はあと2年』と宣告されたのです。最初は肝硬変で、腎臓も肺もいろんな内臓がやられていました。若い頃、ロシアや中国に行って無理していましたからね」

私「どんなお仕事をなさっていたのですか?」

おじじ「…それはいいじゃないですか。それより、この森に来て、森の精気に当たったおかげかしれませんが、病気が治ってしまったのです。視力も右が0・1、左が0・09ぐらいでしたが、この通り、眼鏡なしで見えるようになったのです。不思議ですよね。例えば、ここは雪が深いですが、皆、雪かきを嫌がりますよね。それが、楽しくて楽しくてしょうがないのです。私は自然に生かされていることを実感するのです。だから、私は木の枝一本折るのも心がためらいます。雑草だって、人間が勝手にそう呼んでいるだけで、草だって一生懸命生きているのです。どんなものにも精気が宿っているのです」

おじじは、話をしながら、一瞬たりとも手を休めることなく、薪を燃やしていました。(つづく)

森の哲人 

今回の小旅行の目的の1つが、森の哲人に会うことでした。
私の予備知識は、

・その人は皆から「おじじ」と呼ばれ、奥さんの「おばば」と家族一緒に森の中で暮らしている。
・子供たちにその森を開放して「自主性」を重んじて、子供たちの創意工夫と責任で、遊ぶなり、勉強するなり、やってもらう。
・子供だけでなく、都会の生活に疲れた大人たちもやってくる。
・そこは電気もガスも水道もない所で、燃料は薪。いわば自給自足に近い生活を強いられる。
・「おじじ」は昔、大病して、「あと、2年の生命」と宣告されたが、森で生活しているうちに、病気がすっかり治ってしまった。
・今年77歳になるというのに頗る元気。

ざっと、そんなところでした。

そこは、上川支庁の紋別郡滝上(たきのうえ)町という所で、旭川から車で2時間半くらいかかりました。国道273号線を北上し、滝西という所を左折すると、砂利道で、もう人など住んでいるはずがないと思われるほど閑散としたところを、奥へ奥へと突き進むと「おじじ」の「森の子供の村」がありました。

木造の掘っ立て小屋が数件建ち、1つは住居、1つは五右衛門風呂、1つはトイレといった感じでした。白い雑種犬のエンジェルが出迎えてくれました。

「おじじ」はこれから、東北地方のブナ林を見に、約1ヶ月間の旅行に出る準備をしていました。

突然の訪問にもかかわらず、「おじじ」は温かく迎えてくれました。
体感温度3度か4度です。「おじじ」は貴重な薪を焚いて暖をとってくれました。

「おじじ」は、ボツボツと話し始めました。

「言葉で、『自他一体』ということがあるけど、こうして、森の中でじーと暮らしていると、自分と森と木との境界線がなくなり、自然に溶けこむ感覚になるんです。この時、自分は自然に生かされているんだなあと強く感じます。これは、一言でいえば、愛なのでしょう。本当にそう感じました。区別とか、分別とかいう物差しがある限り、この感覚は分からないと思います。病気が治ったのは、森の気に触れたせいなのかもしれないけど、よく分からない。自然は何1つ、他のものを犠牲にして生きていない。命の尊さをしみじみと感じます」

大変失礼ながら、「おじじ」は77歳とは到底思えないほど、声が若く、頭脳明晰でした。
私は、思わず「この人は一体何者なのだろう」と、彼の目の奥を覗き込んでしまいました。(つづく)

十勝岳 

一泊二日の小旅行に行ってきました。
初日は、十勝岳登山に挑戦しました。
ちょっと、雲との区別がつきにくいかもしれませんが、現在も煙がモクモクとあがっている活火山です。

標高2,077㍍。大正15年(1926年)5月に大噴火があり、死者・行方不明者を144人も出しました。麓付近に、この惨事に巻き込まれた遺族が、噴火50周年に当たる昭和50年に碑を建てていました。まだ、22人が行方不明のままだそうです。碑には、「山津波」という表現がされていました。

北海道は、急に秋になりました。体感温度ですが、麓付近は気温12度。しかし、登るにつれて、気温がどんどん下がってくるのです。

途中で、下山してきたおじさんをつかまえて、話をきいたところ、頂上付近は、風が強く、異例な寒さで、私の軽装を見て「それでは、(登頂するのは)むずかしいでしょう」とアドバイスしてくれました。

それで結局、この「十勝岳避難小屋」までで、登山は諦めました。ここでも、体感温度は3度くらい。とても寒くて、寒くて、大変でした。標高1,350㍍。まあ、7合目という感じでしょうか。
勇気ある撤退をしました。

下山途中で、中高年のパーティーをみかけました。
一糸乱れぬ統制ぶりは、まるで、巡礼者を見る思いでした。

なかなかいい写真でしょう?

リタ

ハリケーン「リタ」が、米大陸に接近し、ルイジアナ州、テキサス州などに甚大な被害を催すことが予想されています。「カトリーナ」の惨事の全体の被害状況がまだ把握されていないというのに、またまた、ハリケーンがやってくるなんて、本当に弱り目に祟り目です。

「リタ」と聞いて、すぐ、ビートルズの名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録されている「ラブリー・リタ」を思い出しました。今回は、とても、ラブリーではないでしょうね。テレビなら、ニュースのBGMにこの曲をかける放送局があるのかしら、と思いましたが、そんな不謹慎なテレビ局はないようでした。

何しろ人命がかかっています。ブッシュ政権も、さすがに非難を浴びました。まあ、当然でしょう。被害の遭った三日後にやっと対策本部が動き始めたのですから。今回の最大の被害層は、黒人の貧民層でした。テレビで援助を求めていた人々も、スーパードームに駆け込んだ人々のほとんどが黒人でした。まるで、棄民扱いでした。老人ホームでも何十人もの人が亡くなりましたが、恐らく、職員はわれ先に逃げたのでしょう。

それにしても、ここ数年と比べても、台風やハリケーンによる被害は甚大です。ある説によれば、日本近海の太平洋とメキシコ湾の海温が、地球温暖化の影響で29度と異様に上昇して台風やハリケーンが発生しやすくなっているようです。

結局、人間が蒔いた種ということでしょうか。それなのに、米ブッシュ政権は、京都議定書に署名することを拒否しています。この議定書の要旨は、温室効果ガス(二酸化炭素)の排出量を、1990年比、日本は6%、アメリカ7%、EU8%削減するというものです。

地球という自然が人類に警告を与えているとしたら、素直に、その警告に耳を傾けるべきではないでしょうか。世界の超大国アメリカが、意外にも脆弱で、被害を受けていることに関して「自業自得」という人もいますが、冗談ではなく、このままではアメリカ大国は、自然の報復によって崩壊しかねません。

せめて、効率優先、自由資本主義経済優先、といった意識を少しだけ変えれば、生き残る道があるはずです。具体的にいえば、地球温暖化に直結する二酸化炭素の排出を減らすー自動車などの使用を控える。私はそう思いますが、「車社会」のアメリカではそれは不可能なのでしょうか。

リタのことを書いていたら、アメリカのテキサス州の某都市に住む親友から、メールが来ました。まさに、現地でしか分からない生の最新情報なので、ここに載せたいと思います。なお、彼には許可を得ておりません。少しだけ、変えております。無断拝借、怒らないでね!

ハリケーン「リタ」は、昨日「カテゴリー5」から「4」に格下げとなり一時程の脅威は減ったが、現在でも風速135マイル(瞬間強風は161マイル)と強大で強力な状態でテキサスとルイジアナ州境近くに上陸する見込みだ。
新宿の朝と同じ臭いがしたジャズの街ニューオリンズではまたもや低地部分への浸水が起こっている。テキサス州の最大都市ヒューストン東部の湾側住民に退去命令が出され、ダラスやサンアントニオを目指して百数十万人もの人々が避難している。

ニュースによれば、避難途中の介護の必要な老人ホームのバスで火災と爆発が発生して20人程度の死者が出たとか。通常ならヒューストンからダラスまで車で4時間強なのに、24時間以上ドライブしても未着という渋滞。車中泊で食事もままならずガソリンの浪費ばかりが嵩み、人々は疲労困憊の状況だ。

当地への「リタ」の来襲は明日か明後日になり、威力も「カテゴリー1」に弱まるだろうと予測されているので、強風によるダメージと停電を心配する程度かなと思っている。今から氷と 水を買いに行くつもりだ。

初めてのパークゴルフ

  •  今日は、幕別町字依田で、生まれて初めてパークゴルフなるものに挑戦しました。
    あんまりにも面白かったので、俳句村コースと牧水コースの2ラウンド半(45ホール)もやってしまいました。

    これで、わずか、500円。もっとも、クラブとボールを自前で持っていれば、タダでできるのです、北海道は。
    しかも、特別なウエアもシューズもいりませんし、予約も必要ありません。何と恵まれていることでしょう。

    そもそも、パークゴルフは、この北海道十勝の幕別町という所で考案されました。十勝は、結構、スポーツが盛んで、あのゲートボールも、芽室町で「発明」されたのです。あと、9人制のバレーボールも大樹町という所で生まれました。

    パークゴルフは、まあ、ミニゴルフといったところでしょうか。距離も25メートルから、せいぜい70メートルくらいです。ボールは直径8㌢くらいの大きさ。クラブは1本で済みます。ドライバーもパターもすべて兼ね備えます。グリーンもないので、芝というか雑草の「目」を見るのが大変でした。

    スコアは?まあ、聞かないでください。ヘタッピーですから。ハーフで31が最高でした。

    北海道の十勝に来る機会がありましたら、皆さんも是非、パークゴルフに挑戦してみてください。