2千億×1千億個 

北海道陸別町は、真冬はマイナス25度にもなる日本でも有数の極寒の地で、毎年2月には「しばれフェスティバル」を開催して、冬の寒さを逆に楽しんでしまう逞しさがある所です。

この町には、知る人ぞ知る「銀河の森天文台」があります。空気が綺麗で、空は澄み切り、天体観測にもってこいの土地なのでしょう。その天文台が発行している「りくべつ 天文台だより」2005年秋号に面白いコラムが載っていました。

「星の数ほど」とはよく言いますが、実際、どれくらい星の数はあるのでしょうか、という話です。そのコラムによりますと、星(恒星)は、我々が住む銀河系の中だけで2千億個も存在するそうです。そして、宇宙全体では、この銀河系がさらにまた1千億個以上も存在すると言われています。ということは、星の数は、2千億個×1千億個という莫大な数になります。これに惑星や衛星の数を合わせると単位も分からない途方もない数になるというのです。

これだけの星があると、地球だけが唯一、生物が存在するということは信じられませんね。それ以上に、毎日のちっぽけな悩みがほんの些細なものに感じられます。これから北海道でしか見られない冬の満天の空を見るのが楽しみです。

美瑛再訪

俳優の榎木孝明は、画家としても知られていますが、このほど北海道美瑛町の廃校舎を利用して自分の美術館をオープンした記事を読みました。

彼が描いた何点か美瑛のスケッチも展示されているそうです。


ご覧の通り、美瑛は本当にいい所ですよ。
美的感覚に優れた人には共通する何かが彼を引き寄せたのでしょう。

実に素晴らしい夕暮れでした。

パキスタン地震 

8日のパキスタン北東部地震の被害状況がようやく伝わってきました。当初発表されたマグニチュード(M)7.6ではなくて、M7.7。死者も3万人を超えるという情報もあります。

長男輝(ひかる)ちゃん(2歳)とともに、邦人の被害者となった国際協力機構(JICA)派遣専門家の楢原覚(さとる)さん(36)は、10年前の阪神・淡路大震災(1995年1月17日、M7.3。死者約6400人)にも遭遇し、人生観が変わって、勤務先の神戸製鋼を辞めて、「国際貢献」の仕事に転職した人だったという話を読んで、思わず、もらい泣きしてしまいました。

昨年12月26日のインドネシア・スマトラ島沖地震はM9.0で、津波被害とあわせ、死者・行方不明者約30万人。最近、米国を襲ったハリケーン「カトリーナ」「リタ」の死者・行方不明者は約2000人。「天災は忘れた頃にやって来る」(寺田寅彦)どころか、天災は忘れた頃ではなくても、やってきます。

1923年の関東大震災からもう82年も経ち、誰もが「もうそろそろ」と感じているのに、皆「自分だけは死なないで、助かる」とでも思っているのかしら。大都会の消費者は、夜間も煌煌とライトを付けて、欲望を満たすために、エネルギーを無駄遣いしています。私なんか、そんな東京にはもう住みたくないなあ、と考えてしまいます。

こう災害が度重なると「地球が怒っている」と思わざるをえません。楢原さんの訃報に接して、「この世に神も仏もないのではないか」と疑ってしまいました。それとも、地球は怒っているのではなく、無知で傲慢な人間に対して、悲しんでいるのかもしれません。

霧吹の滝

まさに決死の覚悟で行って来ました。

十勝は新得町トムラウシにある霧吹の滝。

写真で見ると、大したことはないと思うでしょうが、それは素人の赤坂の夜は更けて、という昔の都都逸になります。

帯広から車で2時間半。新得町のトムラウシという所に着きます。
途中からラリーのようなグラベル、つまり、未舗装道路でした。

「霧吹の滝」入り口から、歩いて更に1時間。
山越え、谷越え、漸く辿りつきます。

「霧吹の滝」というので、猥褻なことを想像してしまいました。
しかし、実際に、目の当たりにすると、

猥褻を超えて、実に神聖なものでした。

まさに、日本の秘境です。

恐らく日本人でも、ほんのわずかの人しか目にすることが出来ないでしょう。

そういう方はとくとご覧ください。

北海道はもう秋です。
トムラウシの森の精気をいっぱい浴びてきました。
ついでに、滝壺にはまって、全身、水浸しになってしまいました。
決死の覚悟は無駄ではありませんでした。

生きて帰ってきたのもお地蔵さんのおかげでした。

中村哲氏と火野葦平

アフガニスタンで献身的な医療活動を続けている中村哲氏と、芥川賞作家の火野葦平が甥と伯父との関係であることを初めて知りました。(8日付朝日新聞土曜版)

火野葦平は、言わずと知れず「麦と兵隊」で知られる芥川賞作家。本名、玉井勝則。自伝的長編「花と龍」では、北九州の若松で、荒くれ者の沖仲士を束ねた両親(玉井金五郎とマン)を主人公に「切った、はった」の世界を生き抜く姿を活写しています。1962年の石原裕次郎と浅岡ルリ子、69年の高倉健と星由里子など過去5度も映画化された名作です。

中村哲氏は、数年前、本屋で偶然「医は国境を越えて」を見つけて、彼の生き方に共鳴して、「アフガニスタンの診療所から」「ペシャワールにて」など何冊か愛読したものです。医師が本職なのに随分、文章がうまいと思ったら、火野葦平の甥っ子だったのですね。中村氏の母親が玉井夫妻の次女秀子です。その母親の肩口に「勉命」と彫り物があったそうです。勉はもちろん、ご主人の名前。両親に結婚を反対されて駆け落ちしたそうです。「ウチの家系は一途な人が多い」という中村医師も「一途」の塊みたいな人です。

それに比べ、世界はもうすっかりアフガニスタンのことを忘れてしまっています。アメリカによって、「9・11の報復」という大義名分で戦乱を引き起こされたというのに、オサマ・ビンラディンもタリバンのオマル師も行方が知れていません。あの時、殺されたアフガニスタンの無辜の民に対して、我々はどう弁解したらいいのでしょうか。

大統領の値段

あまり人様の懐具合を詮索することは品のないことですが、時の権力者となると話は別です。

ロシアのプーチン大統領の年収が約700万円だというニュース(共同通信がインタファクス通信の記事を転電)を読んで、「意外と安いんだなあ」と思ってしまいました。月給15万ルーブル、約60万円です。最も、ロシア人の平均月収が1万ルーブル(約4万円)ということですから、破格な年収なのでしょう。ロシア大統領府で儀典長を務めたシェフチェンコ大統領顧問がこのほど出版した『クレムリンの日常生活』に書いてあるそうです。

ちなみに、ブッシュ米大統領の年収は40万ドル(約4、500万円)。これも想像していたものと比べ、意外に少ない。我が国の小泉首相は、4、165万円だそうです。

世界のトップスポーツ選手となると、まるで別格。本当に別世界です。
「スポーツ・イラストレイテッド」誌の調べによりますと、ゴルフのタイガー・ウッズの昨年の年収は約98億円で「世界一」。次はF1ドライバーのミハエル・シューマッハーで約92億円。3位はテニスのアンドレ・アガシで約52億円。サッカーのデヴィッド・ベッカムが約34億円で7位に入っています。

ここまでくると、「もう好きにして」という感じになります。
帯広では残念ながら上映していない映画「マザー・テレサ」(オリビア・ハッセー主演)が無性に見たくなってしまいました。マザー・テレサは私有財産を一銭も持たずに、無償の愛で、貧しい弱者に生涯を捧げた人です。
品格については、常に考えさせられます。

奇跡の人 

大病して奇跡的に一命を取り留めた友人と久しぶりに電話で話をしました。現在、リハビリを兼ねて、中部地方の片田舎で平日はほとんど一人で暮らしているので、30分ほど、彼一人がしゃべっていました。

困難を実体験し、自力で切り抜けた者でしか語れない話だったので、ここに再録したいと思います。

●これまで、「世の中が悪い」だの「誰それが悪い」だの、何かのせいばかりにして生きてきたような気がする。また、「こうしなければいけない」とか「安逸な生活はしてはいけない」といったような考え方で生きてきた気がする。しかし、「こうしなければならない」ということはないんだよね。本当にないんだね。

●同様に「人生はこうあるべきだ」というモデルも、もうどうでもいいことなんだよ。自分は自分だし、何も拘る必要はないんだよ。僕はもう何も拘らなくなったよ。例えば、今まで、料理や味付けに非常に拘っていたけど、今ではニンジンなんか、生で、何も付けないで齧って食べているぐらいだからね。

●確かにここは山奥だけど、何処に住んでも一緒だと思っている。ニューヨークでもサンパウロでも何処に行っても同じなんだよ。今ここで何かをやらない限り、どこに住んでも同じなんだよ。山奥だからといって、世の中の動きが分からないとか、時代に取り残されているという感覚は全くないんだ。週末にまとめて新聞に目を通すくらいで、テレビは見ないけど、ラジオで2、3分、ニュースを聞けば、それで十分、世の中のことは分かるよ。

●もう、考え方の問題じゃないんだ。人は「家族がいるから」とか「仕事があるから」とか、色々と理由を作って、やらないけど、皆、口実に過ぎないんだよ。「やる」か「やらない」かのどちらかなんだよ。すべて御破産になっても、ゼロからでも、何でも始められるんだよ。今の僕のように。誰でも何歳になってもできるんだよ。やらないのは、ただ、やりたくないから、口実を作っているだけなんだよ。

彼は、最近、小説を書いて、ある文学賞の最終選考会まで残ったそうです。彼の文壇デビューする日は近いかもしれません。その時、思いっきり、彼の本名を明かしてみたいと思います。

阪神と村上ファンド

これから、少しはタイトルに注意しなければなりません。「責任者、出て来い!」なんて、衒っているだけで、非常に品がありませんでした。自分でも吃驚してしまいました。失礼致しました。

今日は、「村上ファンド」が、阪神電鉄の株を買占め、筆頭株主に躍り出たニュースに目を惹かれました。目下約38%の株を保有し、今後同社株の過半数取得を狙っている村上ファンドは、阪神電鉄の「子会社」であるプロ野球阪神タイガースの株式上場を提案したそうです。

「子会社」とカギ括弧を付けたのには理由があります。経済に疎いので、細かい数字はあげられませんが、タイガースは確かに電鉄の子会社とはいえ、実際の稼ぎ頭は、電鉄ではなく、このタイガースだったのです。(18年ぶりにリーグ優勝した2003年の12月期の売上高は、179億円だったそうです)

親会社の電鉄は、マラソンの距離(42.195キロ)にも満たない営業距離しかありません。しかも、海岸線を走るので、線路を拡張する術もありません。「下町」の工業地帯を走り、乗客からの収入が飛躍的に伸びることは考えられません。「山の手」を走る阪急電鉄とは大違いなのです。20年近く昔に、スポーツ記者として阪神球団を担当していたので、その当たりは肌身に染みて実感しております。

つまり、阪神の球団と電鉄の関係は、ホリエモン騒動で一躍有名になったニッポン放送の「子会社」のフジテレビみたいなものなのです。

村上氏は、やはり、目の付け所が違うようです。大阪・梅田の一等地に商業施設、阪神百貨店などを持つので、「村上ファンドは、阪神のことを電鉄というより不動産会社とみている」という関係者の談話が載っていましたが、まさにその通りなのです。

阪神は、今日、買収防衛の対抗策として、大和證券SMBCとアドバイザリー契約を締結したそうですが、今後の動向に目が離せません。

それにしても、まだ46歳の若さというのに、元通産官僚の村上世彰氏の風貌というか、たたずまいは、どうも…。いや、これ以上書くと、品性に触れるので書きません。

責任者、出て来い!

大学の会報に「懐かしい方はメールください」と書いたところ、ただ一人、同期のF君からメールが来ました。
大学を卒業して四半世紀も経ってしまったのですが、彼とはそれ以来、全く音信不通でした。

それでも、学生時代のように気軽にメールで「会話」できることは、夢のようであり、本当に嬉しいことでもあります。

私は、学生時代はいつも他の友人たちとふざけてばかりいたので、真面目なF君からはいつも「君たち、一体何やってんの?」と真顔で言われておりました。まるで、その顔は「もう少し大人になったら」といった表情で、彼に関して覚えているのは、漫画「こまわり君」のような顔をしたF君の、鼻の穴を広げたその表情だけでした。

そのF君は、20個を超える職業を経験し、今では本も出しており、それは、自分のロンドン体験記から翻訳物までバラエティーで、D大学の非常勤講師なども勤めています。作家兼翻訳家兼通訳といったところでしょうか。自由業のようで、私のあこがれの職業ですが、F君は「収入は少ないよ。東京で下宿している大学生の授業料を含めた支出分くらいだから」と言うのです。(あ、ばらしてしまいました)

通訳案内業試験には、25歳で合格している秀才のF君ですが、ホリエモンの年収の何十分の、いや何十万分の一なのか見当もつきませんが、あまりにも、報酬が少な過ぎますよね。

F君に代わって、私が怒りたいと思います。
「おい、こら!責任者、出て来い!」

邪馬台国

 「畿内説」と「九州説」などで長年、論争が続いていた邪馬台国の所在地が、この一冊で決着がつきそうだ、という記事を読みました。(道新10月2日付朝刊)

 この本は、元産能大教授の安本美典(やすもと・びてん)氏の『大和朝廷の起源 邪馬台国の東遷と神武天皇東征伝承』(勉誠出版)。何しろ統計数学とパソコンを使った新しい文献学を導入して、『古事記』『日本書紀』『魏志倭人伝』などの史料を分析して、「邪馬台国は北九州で起こり畿内に移動して大和朝廷となったとみるのが自然」と結論付けています。7月に発売され、3360円という高価な本なのに「売切れ続出」ということですから、興味を惹かれないわけにはいきません。

 安本氏のインタビューの中で最も面白かったのは、神武天皇の在位の話。

―『記紀』には、神武天皇らの寿命や在位が長いといっても、旧約聖書のアダムの930歳のような極端な話ではない。古い時代には春と秋に2度年を取る「1年2歳」の習慣があり、筆者が操作した数字だということが分かる。文献の検討の結果、初代から二十代までの天皇の在位は、平均約十年とみることができ、これに当てはめると、神武天皇は270-80年頃の人。その五代前の天照大臣は230年頃の人となり、『魏志倭人伝』の卑弥呼とぴったり重なるー

 安本氏は、天照大臣=卑弥呼とは言ってませんが、私のような古代史門外漢な人間にとっては、もしそうなら、これまで、『記紀』に対して持っていた偏見が一気に吹き飛んでしまいそうです。話が長くなるので、これで止めますが、我々、戦後生まれは、結局「戦後民主主義教育」にどっぷりつかっていていることにハタと気がつきました。