森の哲人Ⅱ

おじじは、心に深い傷を負った人でした。

もっとも、それは、後から分かったことで、会っている時は、その片鱗さえ見せることがなく、要するに謎の人物でした。

私「いつ、この森に来たのですか?」

おじじ「1983年に初めて来て、1991年に本格的に移住しました。それまで、横浜に住んでいました。私は、おばばの父親で、美学者の中井正一の思想に影響を受けました。彼は広島の尾道に図書館を作って、文化運動を繰り広げました。私も同じようなことがしたいと思い、1971年に横浜の日吉にひまわり文庫というものを作り、たくさんの子供たちを受け入れていました。当時は、石井桃子氏の『子供の図書館』が岩波新書から出版され、全国的に子供文庫が盛んに生まれていたのです。そのうち、私は子供を本の世界だけにとどめたくないと思うようになり、『本はなくても子は育つ』『子供が主人公』などと提唱しました。周りから猛反発を受けましたけど…。最初60人ほどで始まったひまわり文庫も数年後には3000人もの子供たちでふくれあがり、もっと広い自然にあふれたところを探し求めたのです」

私「それで、この北海道に来たのですか?」

おじじ「最初は、山梨県のある町に子供文庫を作ることが決まっていたのです。町長さんの了解も得て、95%くらいそこへ移住することが決まっていたのです。しかし、土壇場で地元民から『余所者はいれたくない』という反対運動に遭って、挫折してしまいました。そしたら、知り合いの知り合いのまたその知り合いにここの土地を紹介されたのです。冬はマイナス30度にもなるので、最初は正気の沙汰ではない、と反対されましたが、住めば都です。おかげで私の病気も治ってしまいました」

私「医者から見離されたと聞きましたが」

おじじ「そうなんです。名医から『あなたの命はあと2年』と宣告されたのです。最初は肝硬変で、腎臓も肺もいろんな内臓がやられていました。若い頃、ロシアや中国に行って無理していましたからね」

私「どんなお仕事をなさっていたのですか?」

おじじ「…それはいいじゃないですか。それより、この森に来て、森の精気に当たったおかげかしれませんが、病気が治ってしまったのです。視力も右が0・1、左が0・09ぐらいでしたが、この通り、眼鏡なしで見えるようになったのです。不思議ですよね。例えば、ここは雪が深いですが、皆、雪かきを嫌がりますよね。それが、楽しくて楽しくてしょうがないのです。私は自然に生かされていることを実感するのです。だから、私は木の枝一本折るのも心がためらいます。雑草だって、人間が勝手にそう呼んでいるだけで、草だって一生懸命生きているのです。どんなものにも精気が宿っているのです」

おじじは、話をしながら、一瞬たりとも手を休めることなく、薪を燃やしていました。(つづく)