結局、おじじと会談したのは1時間足らずでした。
最後に名刺を交換したら、おじじの本名が徳村彰さんということが分かりました。
「これ(名刺)も、私は作ったわけでなく、皆が作ってくれたのです。ここには、色んな人が来ます。1日だけの人もいるし、2ヶ月も泊まっている人もいます。自由です。文庫から学校に通っている人もいます。この間は、ドイツのミュンヘンから家族も来ていたなあ。そしてシカゴからも…」
「またお会いしましょう」と握手してお別れしました。
この後、「おばば」のいる文庫に顔を出しました。「森」から車で10分くらいの距離でした。本当に山奥なのに、文庫の近くには小学校と中学校がありました。
文庫に着くと、おばばが「よく来ました」と出迎えてくれました。「文庫」は合宿所みたいなところで、何人かの中学生くらいの子供たちが住んでいました。
彼らは、都会で不登校になって、ここに来たのか、よく分かりませんでした。
8畳くらいある「居間」では、今、まさに昼食の準備が始まっていました。
私は、何をするのではなく、ボーとそこに佇んでいました。
そこには、祭壇らしきものがあり、遺影のような写真と花とグレープフルーツが飾られていました。
おばばが「せっかく来てくれたのですから」と、一緒に昼食を奨められましたが、丁重に辞して、お別れを告げました。
文庫の近くに「ラ・ムータ」という喫茶店のようなペンション風の軽食屋さんがあり、そこに入ることにしました。
玄米のさんま定食800円を頼んで、部屋の中を見回すと、本棚があり、そこに『森に生きる』(雲母書房)という本がありました。本当は「森」という字は、「木」の下に左が「水」、右が「土」という、著者の造語で「もり」と読ませる「漢字」でした。
著者の名前を見て、驚いてしまいました。
徳村彰。
先程会ったばかりの「おじじ」の書いた本だったのです。何という偶然でしょう。
私は早速、この本と、もう1冊「森に学ぶ」(雲母書房)を手に取って買い求めることにしました。
やはり「森の哲人」という私の第一印象は間違っていませんでした。
徳村氏は、東京大学を中退した大変なインテリでした。
前回、「おじじは心に傷を負った人」と書きましたが、これらの本によると、1985年に子供たちと網走まで4日間の徒歩旅行に行く途中、交通事故に遭い、2人の子供が死亡、3人が大怪我をする大惨事に見舞われたそうです。先程、祭壇に飾られていた少年たちの写真が事故死した人だったのでしょう。その時は、何も分かりませんでしたが…・
彼の思想に学ぶべきことが沢山ありました。
いずれまた、紹介したいと思います。