戦後マスメディア史 

ヴァチカン美術館


昨晩は、半蔵門の寿司店「門」で、後藤氏と会食。目の前で板さんが握ってくれて、味も雰囲気も申し分なし。「久兵衛」の五分の一ほどの値段で楽しむことができました。


終戦後になって、同盟通信出身の岡村二一が「東京タイムズ」を、松本重治が「民報」を、読売争議で退社した竹井博文が「日東新聞」を創刊する話などを伺う。東京タイムズは、その後、首都圏のクオリティーペイパーに発展しますが、経営難から徳間書店の徳間康快が買収し、その後、休刊します。そういえば、この辺りの「戦後マスメディア史」はまだ誰も手を付けていない領域で、まとまった書籍も出ていない。ちょっと調べてみようかと思いました。まずは、「隗より始めよ」なのかもしれませんね。


しかし、「西安事件」を世界的にスクープした松本重治氏一人をとっても、一筋縄ではいかない人物で、第一高等学校ー東京帝大法学部を出てから、イエール大学などに留学し、33歳でやっと新聞聯合社に入社してジャーナリストになった人でした。同盟通信編集局長で終戦を迎えて、退職し、戦後は国際文化会館の設立に尽力を尽くした人です。


今ではすっかり忘れ去れてしまった福沢諭吉の創刊した「時事新報」の存在も面白いです。銀座6丁目にある社交クラブ「交詢社」に時事新報の編集局があったようです。昭和初期の帝人事件の余波で、武藤山治社長が暴漢に射殺され、経営にも暗雲が立ちこめ、最終的には産経新聞に吸収されていきます。この吸収に一躍買って出たのが、戦前から「日本工業新聞」などを創刊して、産経新聞の社長になった新聞界の立志伝中の人物である前田久吉です。前田氏は「東京タワーを建てた男」としても名を残しています。


うろ覚えの記憶では、この東京タワーの建設地は、芝増上寺の敷地の一部でしたが、明治時代に、名うての料亭「紅葉館」があり、この名前をペンネームにしたのが「金色夜叉」の尾崎紅葉だったと思います。


経営難となった時事新報は、戦前の一時期に東京日日新聞(現毎日新聞)が梃入れしています。その関係で、時事新報が設立した「日本音楽コンクール」と、「大相撲優勝力士額掲示」は、毎日新聞が継承しているという史実も分かりました。


色々調べていくと面白いものです。


最近、体調が思わしくなく、公私ともに物事がうまくいかず、塞ぎこむ毎日でした。


後藤先生からは「『1に辛抱、2に我慢、3,4がなくて忍耐』だよ。最近の若い人は我慢が足りないんだよ」と諭されてしまいました。