「戦争について」

明治21年創業「満寿家」

批評の神様と崇拝された小林秀雄は、南京入城のあった昭和12年、当時かなりの読者を得ていた「改造」誌に「戦争について」と題した檄文を発表します。

小林の文章は、大学入試問題の現代国語にも頻繁に採用されていますが、多くの日本人が思っているほど名文家ではないので、旧字を新字に改める程度ですが、少しだけ現代語訳します。

「観念的な頭が、戦争という激しい事実に衝突して感じるいたずらな混乱のことを、戦争の批判と間違えない方がいい。
気を取り直す方法は、一つしかない。日頃、何かと言えば人類の運命を予言したがる悪い癖はやめて、現在の自分一人の生命に関して反省してみることだ。
そうすれば、戦争が始まっている現在(支那事変のこと)、自分のかけがえのない命が、既に自分のものではなくなっていることに気がつくはずだ。
日本の国に生を受けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取り扱うことはできない。
たとえ人類の名においても、これは激しい事実だ」

この文章は、親友中原中也が亡くなった前後に書かれましたが、35歳の若き小林の唾きが目の前に飛んできそうな勢いです。その後、大正生まれの後輩たちに檄文を与えただけで、明治生まれの小林が、文藝講演と称して、満洲などに出掛けても、自ら銃を取って最前線に行った話は聞きません。

戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直ったおかげで、戦犯容疑者にさえならず、無傷のまんま、神様として崇められて、最高の栄誉である文化勲章まで授与されて80歳の天寿を全うします。

青春時代のど真ん中で、「小林秀雄全集」を食事代を削って買い求めた辺見庸氏が「何で、当時は小林の真意を読み取ることができなかったのか」と地団駄を踏んだことを告白する場面が一番おもしろかったので、引用しました。

辺見氏の父親は、東京外国語学校支那語科を出て(永井荷風の後輩ですなぁ)、同盟通信社の記者になった人で、支那事変で戦い、ポツダム少尉になった戦後、辺見氏には一切、戦争のことについて語らなかったそうです。

辺見庸著「1★9★3★7」には、堀田善衛の「時間」と石川達三の「生きている兵隊」が、重要な参考文献として、度々、引用されています。