最後のパトロン藤浦家

明治21年創業の「満寿家」

この前、タニマチやらパトロンやらについて、渓流斎ブログで色々と書いたことがありましたが、書いた本人は忘れてしまいました(笑)。

今回は、ちょっと半端じゃない人が見つかりました。

藤浦周吉という人物です。

藤浦家は、もともと徳川家康の直々の家臣で、小田原征伐後の天正18年に、豊臣秀吉の命で家康が三河から江戸に移封された時に、お供として付き添い、代々旗本として禄を食んでいたそうです。

それが、維新になって、藤浦家は没落します。幕末生まれの周吉が始めた商売が蘆頭(ろうず)になった野菜売り。そのうち、京橋をシマにしていた?客である会津の小鉄と新場の小安との間の抗争を身体をはって収めて、土地の有力者となります。しがない蘆頭の野菜売りから、胴元のような野菜卸売業の東京中央青果のドンにまで上り詰めるのです。

藤浦周吉は、寄席ができるほど広大な屋敷まで建てます。屋号は、三河の周吉から取って「三周」。当時、東京では知らない人はいないほどでした。

実際、周吉は、三遊亭円朝のパトロンとなり、三遊亭の名跡は、「三周」のお預かりとなります。?客と顔役を兼ねたような大店ですから、色んな人が出入りします。維新元勲だった伊藤博文、井上馨、西郷従道、桐野利秋…。そして、六代目菊五郎や後の大文豪となる谷崎潤一郎らもしょっちゅう顔を出します。

周吉の息子の富太郎は明治18年生まれです。同じようにパトロン業に勤し、政商、黒幕として、松本清張の「けものみち」のモデルになった人物です。有り余るお金でセザンヌやゴッホの絵画を収集していたそうです。この二代目の全盛期は、昭和初期です。五・一五事件の青年将校や血盟団事件の三浦義一、二・二六事件の青年将校や北一輝らに莫大な資金を提供しますが、表に名前を出るのを嫌がったため、藤浦富太郎の名が一般世間に知られることはありませんでした。

三代目が昭和5年(1930年)生まれの藤浦敦です。早大を出て、「三周」に出入りしていた正力松太郎の口ききですが、超難関試験を突破して読売新聞の記者になります。しかし、静岡総局に赴任した新人は、すぐ嫌気がさして辞めてしまい、日活に入社します。

読売時代の同期には、後に作家となる三好徹、佐野洋、日野啓三ら錚々たる人物がいます。

日活の同期には、「キューポラのある街」の浦山桐郎がいます。日活の入社試験も、競争倍率が高くてかなり難しく、今や大御所で寅さんシリーズの山田洋次監督は、落ちたそうです。桐山は、日活と松竹の両方に合格し、日活の方に入ったため、山田洋次は松竹に「補欠合格」したそうです。若い頃の浦山は、山田に「俺が日活に行かなかったら、お前は松竹に補欠で入れなかったんだぞ」と、よく苛めていたそうです。

今や誰も意見もできない山田監督としては、誰にも知られたくない消したい過去でしょうが、やはり、こうして残ってしまうんですね。

この三代目の藤浦敦氏がとてつもない人なのです。何しろ、撮影所で本物のだんびら(刀)を振り回す無頼不良監督、いや、金ならふんだんにある怖いもの知らずだったのですから。

(藤浦敦著「だんびら一代」による)