奈良国博の「正倉院展」と興福寺は大賑わい

お久しぶりです、大和先生です。

先月10月27日から始まった奈良国立博物館の第70回「正倉院展」は、例年通り大変な賑わいです。

会期は今月12日までですが、おそらく今週末は、紅葉見物も重なりえらい混雑をすると思い、今日(7日)午後、会場を覗いてきましたが、10分程度並んでスイスイ入場できました。

それでもやはり館内はえらい混雑でしたね。

いつもながら、館内の写真撮影は出来ませんので、肝心の展示物は、NHKテレビの美術番組や「読売新聞」(特別協力)紙上でご覧になるとよいでしょう。いつもながら、陳列品で人気のあるのは色艶やかな宝物です。色のついた宝物の前は人だかりで、案内人が「後の方もご覧になるので、スムースに前に進んでください!」といくら言っても、じっと動かず、どうにもなりませんね。

逆に、地味な、文書類の展示品の前は人だかりは少なく、空いていて割とゆっくり見られました。大衆は「色物」に弱いことがよく分かります(笑)。

いくつか、注目されている宝物の中で、緑色に白い斑点、黄色の十字の文様の陶製の「磁鼓(じこ)」の前は、やはり人だかりが多かったですね。奈良時代に奈良で作られた「奈良三彩」と呼ばれる「鼓(つつみ)」です。当時、両側に革を張って使っていたと言われていますが、どんな音なのか聞きたくなりました。

また、朝鮮半島の民族楽器「新羅琴(しらぎこと)」も出ていました。こちらは、伽耶の国で作られた琴ですが、弦は12本、これまた、当時の貴族で、歌舞音曲の腕達者が優雅に奏でていたのだと思います。

平成最後の「正倉院展」ですが、今年は南倉(東大寺の儀式関係品)、中倉(役所の書類、武器など)、北倉(聖武天皇、光明皇后皇后の遺品)の三倉から、宝物56件が出展されています。

同じ奈良公園のそばの「興福寺」は10月7日から11日まで「中金堂落慶法要」が終わったところですが、こちらも特別公開されていて、平日ながら、拝観者で賑わっています。

藤原不比等が710年(和銅3年)に建立、その後7回も焼失、再建を繰り返してきましたが、江戸時代の文政2年(1819年)からは仮堂でしのいできて、今年10月、301年ぶりに再建されたわけです。

以上 大和先生でした。

トリテキって何?

スペイン・コルドバ メスキータ

全くお恥ずかしい話ではありますが、もう40年も新聞・通信社のマスコミ業界に身を置いておきながら、いわゆる一つの業界専門用語の中で、つい最近まで知らない用語がありました。

トリテキという言葉です。「鳥の照り焼き」ではありません(笑)。どういう意味なのかは、出し惜しみして(笑)、後からお話することにして、もう時効になっている40年ぐらい昔のマスコミ体験談からご披露することにしましょう。

私がマスコミ業界に入ったのは1980年ですが、最初に配属されたところは、運動部でした。私が高校生の頃まで「王・長嶋」の全盛期でしたし、オリンピックぐらいは見ていたのですが、むしろ熱烈な音楽少年だったため、スポーツにあまり関心がありませんでした。配属先が運動部と聞かされて、会社を辞めようかと思いましたが、「何でも見てやろう」の精神で3年は我慢する覚悟を決めました。それが40年も続くのですから人生分からないものです。

最初の1年近くは、「電話取り」といって先輩記者が現場から電話で送ってくる原稿を、会社のデスクで筆記する仕事でした。今のネット社会では想像もつかない苦行でした。何しろアナログ時代です。FAXでさえ行き届いていない時代でした。

記事の中に漢字があると、「字解」といって、説明します。例えば、選手に吉田という人がいれば、「ワンマン吉田」(吉田茂首相から連想)、田中なら「デンチュウ田中」と「字解」するのです。それが、新人記者には最初はさっぱり分からないのです。「何?殿中? 忠臣蔵?殿中でござる?」と余計な頭が回転して、マゴマゴしてしまうと、先輩は「お前、誰だ?他の奴に変われ!」と大声で怒鳴られてしまうのです。

短い原稿ならいいのですが、長い原稿になると、受話器を付けた耳が痛くなってしまいます。

昔は、牧歌的な時代で、そんな汚い字で取った原稿を出稿部デスクが青ペンといって筆入れ(校正)して、それを整理部デスクが赤入れといって再校正して、手書きで加盟社に配信して、それを受け取った新聞社がまた、色々、長い記事を短くしたりして校正して、活字の職工さんがいちいち鉛の活字を拾って並べて印刷していたんですからね。今では考えられません。

さっきの字解の話に戻りますと、例えば「肇」という字を電話では「ハナ肇の肇」と字解しますと、当時の人なら、クレージーキャッツのハナ肇だということですぐ分かりました。しかし、今の若い人には通用しないでしょうね。これだけ流行や時流の変化が激変する毎日ですから、かつての常識は非常識になってしまうという典型例です。

トリテキについてはもう少しお待ちを(笑)。

スペイン・コルドバ メスキータ

昔のことを思い出したので、少しそのお話をー。私が最初に配属された記者クラブは、東京・原宿にある岸記念体育会館内にあった体協記者クラブでした。体協とは日本体育協会の略称で、当時の日本のアマチュアスポーツ団体の総本山で、その傘下に日本オリンピック委員会(JOC)や陸上や水泳など各競技団体の連盟や協会の事務所がありました。そこの2階に記者クラブがあり、一般紙からスポーツ紙、海外を含む通信社などの担当記者が詰めていたのです。

この記者クラブで多くの先輩猛者記者と遭遇しました。嫌な奴も多かったのですが、わざわざダーティーヒーローを取り上げる必要もないので、特に印象的だった人を挙げるとすると日刊スポーツの中出水勲さんという記者でした。

記者クラブには別室にマージャン台やソファがあり、時間をつぶしたり、記者同士が団欒する場所があったのですが、中出水さんは大抵、二日酔いの様子でいつもソファに寝そべってました。クラブ内には、選手や監督、事務局の人が記者会見するテーブルと椅子のスペースもあり、ちょくちょく会見があったのに、中出水さんが会見に参加する姿を見たことがありませんでした。

それなのに、翌日の日刊スポーツを読むと、ちゃんと彼の署名入りで、記事が出ているのです。しかも、他のライバル紙より格調高い文章で簡潔です。これには手品を見ているようで、吃驚してしまいました。

中出水さんは明大山岳部出身で、あの冒険家植村直巳さんと同期で一緒に下宿していた仲だったことは後で知りました。植村さんが行方不明となり結局捜索も打ち切られたときは、さすがの中出水さんもうっすらと男泣きされておりました。

スペイン・コルドバ メスキータ

もう一人忘れられない人は、毎日新聞の森記者でした。この人、抜群の記憶力の持ち主で、試合後のインタビューで一切メモも取らないのです。これには魂消ました。しかも、例の電話による原稿送りも「勧進帳」といって原稿を書かずに頭の中で組み立てたものを、そらんじて送稿していたのです。

翌日の紙面を見ると、立派な記事でライバル紙よりもむしろ良い出来なので、新人記者だった私は、もう腰が抜けるほど驚いたものです。

このほか、力道山が暴力団組員に刺されたときに現場の赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で、力道山と同席していたスポーツニッポン新聞の寺田記者らもおりましたが、これ以上続けると、キリがないので、最初のトリテキに戻ります。やっと!

スペイン・コルドバ メスキータ

トリテキとは、どうやら「テキストを取る」から来た新聞業界の隠語でした。今、テレビで記者会見の様子を見ると記者たちの前にはパソコンがあって、記者たちは発言者の顔を見ずに、一斉に、一言ももらさないように発言の一言一句をキーボードに叩いている姿を見かけることがあるでしょう。

これがトリテキです。昔は、全て手でメモ書きしておりました。トリテキはどうやら、新聞社の中でも主に政治部で使われた用語のようです。何故なら、政治家の発言は政策やら外交やら株式・為替市場やらなどに多大な影響力を持つので、後から「言った」「言わない」と揉め事が起きないように、発言を正確にメモしなければならないからです。

そして、政治部記事の場合は、一人の記者が書くことが少なく、出先の記者から様々なニュースソースを集めて、社内にいるデスクらがリライトすることが多いこともあります。

これがスポーツ選手なんかの場合、口が重い選手もいたりするわけですから、後で記者が忖度して談話としてまとめてしまうケースが往々にして見られたのでした(笑)。

私はその後、政治部の経験がなかったから、トリテキを知らなかったのでした。

話題を全く変えます(笑)。

《渓流斎日乗》11月4日付「加藤画伯と鎌倉でスペイン談義」で書いた通り、江ノ電の「鎌倉高校前駅」に行ったのですが、見たこともない多くの中国系と見られる若者が駅周辺と踏み切り付近でカメラを構えて騒然としておりました。

「何があったのか?」と不思議でしたが、言葉が分からないので、話が通じません。お決まりの観光客で、江ノ電と湘南海岸がブームになっているのか、と勝手に自分で忖度しておりました。

それが、さっき理由が分かったのです。ここは、人気漫画「スラムダンク」の「聖地」で、この漫画は台湾でも大人気で、多くの熱狂的な台湾人が巡礼に訪れているというのです。私は、この漫画はバスケットを扱ったものという程度しか知らず、読んだこともないのですが、どうやら、踏み切りが特に聖地になっているというのです。

興味のない部外者にとっては、何の変哲も魅力もない(笑)ただの踏み切りでしたので、ただただ驚くばかりでした。

「カタロニア讃歌」はノンフィクション文学の金字塔

近未来小説「1984年」やスターリン批判を暗喩した「動物農場」などで知られる英作家ジョージ・オーウェル(1903~50、本名エリック・アーサー・ブレア、享年46)がスペイン内戦(1936~39)に参加してその内幕を描いた「カタロニア讃歌」(1938年初版、鈴木隆、山内明訳、現代思潮社)を大変遅ればせながら、今頃読んでおります。

「何で今さら?」と訝しがる皆様も多数おられることでしょうが、たまたま私はオーウェルの熱心な読者ではなかったため、この歳になるまで読んでいなかった、と正直に告白しておきます(でも、これから彼の代表作は読んでいくつもりです)。

何で、読もうかと思い立ったのは、以前にもこのブログに書きましたが、今年9月に初めてスペイン旅行を体験したからでした。スペイン旅行に行く前に読むべきだったかなあ、と思いましたが、やはり、帰国して読んだ方がよかったという結論に達しました。何故なら、この本に出てくるバルセロナもサラゴサもマドリードも、実際に行って、その土地の大地を踏み、その土地の空気を吸ったため、地理感覚ができたので、ビルバオやバレンシアや色々と他に出てくる地名も読んだだけで身近に見当がつくからです。

市街戦になったバルセロナ中心部のカタルーニャ広場やランブラス通りは、一人で1時間半ほどぶらついたので懐かしくなりました。もっとも、もしこの本を先に読んでいたら、同書に出てくるコンティネンタル・ホテルやファルコン・ホテル、それに治安部隊が占拠したカフェ・モカ(跡)を探す「歴史散歩」をしていたのではないかと思います。

それはともかく、スペイン内戦では、ジョージ・オーウェルのように、多くの外国人が「外人部隊」として参戦しました。米作家アーネスト・ヘミングウエイ、仏作家アンドレ・マルローらもそうです。また、人民戦線側で戦ったスペインの詩人ガルシア・ロルカは戦死しております。

「カタロニア讃歌」は、オーウェルの従軍記であり、ノンフィクション文学の金字塔でしょう。歴史資料としても価値があり、後世まで読み継がれることでしょう。何しろ、非常に文学的水準が高い文章です。これが、34歳前後で執筆されたかと思うと、やはり彼は天才だったんですね。(世界的にも1930年代のジャーナリストの書く文章は大変水準が高い。スパイ・ゾルゲの「本職」だった独紙特派員として書いた「二・二六事件」を分析した記事などはとても日本人には書けない硬質な分析。同じ諜報団だった仏通信社特派員のブーケリッチの記事を読んでも内容の深さに圧倒されます)

スペイン・コルドバ

オーウェルは1936年12月末、「新聞記事でも書くつもり」で英国からスペインに渡り、POUM(マルクス主義統一労働者党)の反ファシスト市民軍の兵士として、アラゴン前線に参戦します。最前線で3カ月半。37年4月末に休暇でバルセロナに戻り、同年5月の市街戦に巻き込まれます。この後、再びアラゴン前線に戻りますが、そこで負傷し、6月にバルセロナに戻ると、POUMの弾圧事件が起こり、オーウェルらは命からがらスペインから脱出します。

と書きますと、わずか半年程度の内戦体験に過ぎないと思う方が多いかもしれませんが、その微に入り細に入る戦場と市街戦の描写は、臨場感と緊迫感と弛緩にも溢れ、まるで同じような体験をしているような感覚に陥ります。

アラゴン戦線に投入されながら、驚くことに、オーウェルら兵士には最初は武器や弾薬さえ支給されないのです。3日目になってやっと支給されます。それが、1896年の日付の入ったドイツ製のモーゼル銃だったのです。オーウェルは「40年以上も前のものだ」と嘆くのです。

しかし、笑ってはいけません。日本だって、第2次世界大戦中に兵士に配給された武器は「三八式歩兵銃」だったのですから。三八式は改良版とはいえ、日露戦争の頃のものですから、40年前の武器を使っていたことになります。

歴史的結果として、反乱軍だったフランコ将軍率いるファシスト派が、ドイツとイタリアの支援を受けて、外国人有志やソ連などの支援を受けた人民戦線政府を打倒して、フランコ独裁体制が1975年まで続きます。

スペイン・コルドバ

人民戦線側が敗北した最大の理由は、共和国政府内での対立と内部分裂、いやそれ以上に内部での権力抗争が大きかったからでしょう。この本では、オーウエルが所属したPOUMのほか、PSUC(カタロニア統一社会党)、FAI(イベリア・アナーキスト連盟)、CNT(労働国民連合)、UGT(労働者総同盟)などの思想や運動方針の違いなどがかなり詳しく説明されております。

21世紀の人間が冷静に観ると考えられませんが、コミュニズムもアナーキズムもイデオロギーが万能の力を持っており、当時は共産主義が輝かしい平等社会を築いてくれるものという幻想があったのかもしれません。でも内部闘争により、POUMはトロツキストして迫害追放されます。市民らも戦いにうんざりして、革命運動から心が離れていきます。

この本では、「カタロニア人は常々、アンダルシア人のことを未開人種として見下していた」などどオーウェルの観察眼の鋭い描写が、ここかしこに出てきます。この本を読んでいると、まるで1930年代のスペインにいるようです。

映画「華氏119」は★★

一昨日11月3日(祝日)に鎌倉に行ったら、川崎駅の工事で東海道線の東京~横浜間が不通でしたが、今度は4日(日)に自宅近くの映画館に自転車で行ったら、私に何ら断りもなく(笑)、国際的なロードレース開催とやらで、道が塞がれ、迂回せざるを得なくなり、普段なら20分ぐらいのところが40分も掛かり、危うく上演時間に遅れるところでした。

マイケル・ムーア監督作品「華氏119」をどうしても見たかったのです。事前にただで見た新聞社の論説委員や編集委員さんらが書く文章を読んでも評判が良く、何しろ、11月6日の米中間選挙の投票前に影響を与えようという野心がいっぱいの映画らしかったのです。でも、観終わって、いや、途中から、何か、気持ちが荒むような、いやあな印象を受けてしまいました。

気になった一つは、ムーア監督が描く、そして最後まで強調するヒラリー候補の民主党=リベラル、自由主義、善で、トランプ大統領の共和党=保守、銃規制反対、大企業優先による多額の寄付、悪、という単純な図式です。

そんなに、共和党のトランプ氏がとんでもない独裁者の悪党で(ヒトラーになぞらえて、そういう描き方をしてましたが)、ムーア監督が応援する民主党が善でバラ色の社会を築いてくれる政党だというのでしょうか。

確かに、トランプ氏にはスキャンダルが多く、自分の実の娘同伴でテレビに出演して性的な話題をしたりして、不快を超えた嘔吐感しか残らないような唾棄すべき人物かもしれませんが、民主党のヒラリー候補だって、講演会で65万ドルもの超大金を提示されたりする特権階級で、貧困層の痛みも悩みも分からないのです。

民主党大統領候補として「社会主義者」のサンダース氏が、投票数ではヒラリー候補を上回ったというのに、最終的にはどういうわけか、民主党はヒラリー氏を候補に選ぶような不可解な政党でした。

第一、民主党というのは、リベラルでも善でも、平和主義者でも何でもなく、日本人としては、市民を無差別大虐殺したカーティス・ルメイ将軍による東京など日本の各都市大空襲にゴーサインをしたのは民主党のルーズベルト大統領であり、何と言っても、広島と長崎への原爆投下を最終承認したのも民主党のトルーマン大統領だったことをよく覚えているのです。

このドキュメンタリー映画で、かなりの時間を割いて「報道」しているのは、ムーア監督の出身地元であるミシガン州フリントで起きた水質汚染問題でした。

ここで、2010年にミシガン州知事に当選した、トランプ氏とは古くからの友人であるスナイダー氏を槍玉に挙げています。ムーア監督の描き方によると、スナイダー知事は、自己の金儲けのために、民営の水道水を開設したところ、その水に鉛が含まれており、多くの子どもや住民に被害が及んだというのです。被害者の多くは、黒人が多くすむ貧困層の住宅街です。日本の水俣病かイタイイタイ病みたいなものです。それなのに、スナイダー知事は大企業のGMに対しては、汚染されていない綺麗な水を配給したりするのです。

大問題となり、当時の民主党のオバマ大統領が「慰問」にフリントまでやって来ますが、水道水の安全宣言をするために、コップの水を飲むふりをして、ただ口を付けただけのパフォーマンスをしただけだったので、逆に地元民の反感と失望をかってしまいます。

途中で観ていて嫌になってしまったのは、このようなレベルの米国の政治システムが、世界中に、特に日本にも多大な影響を与えながら、投票権のない部外者は、黙って見ているしかないという歯がゆさだったかもしれません。

加藤画伯と鎌倉でスペイン談義

3日(土)は文化の日。前夜、東銀座の大伽藍での懇親会に参加しました。

全部で22人も参加し、本当に久し振り、10年ぶりぐらいの方とも再会したため、しこたま呑んでしまい、翌日は大誤算の二日酔い。もう1週間は、酒の顔を見たくないほどです(笑)。

何を話したのか、細かいことはすっかり忘れましたが(笑)、スマホのアプリの「スマートニュース」は必携だとか、テレビの番組を見逃したら、「TVer」(民放公式テレビポータル)とかいうアプリがいい、といった話を聞いたと思います。

湘南海岸

大手新聞記者から大学教授に華麗なる転身を遂げたK氏は、髪の毛がすっかり白くなり、「もうアルツハイマーになっても、若年性と言われなくなってしまった」と、嬉しそうに話してました。

それだけ長生きできた、というわけで、マスコミ業界人は、ストレスと激務のため早死にする人が多く、おめでたい話なわけです。

二次会にも参加したら、全く前後不覚と相成り、どうやって帰ったか、覚えてません。

江ノ電

以上が11月2日(金)夜の話で、翌3日は、二日酔いながら、鎌倉に行って来ました。

運悪く、その日は、川崎駅の拡張工事とかで東海道線の東京〜横浜間が一日中不通だというのです。どうしたもんか、小田急線で行こうか迷っていたら、湘南ライナーなるものがあり、それで藤沢まで行き、そこから江ノ電で、鎌倉高校前に行きました。

加藤力之輔展

目指すは画廊ジタン。加藤力之輔画伯の個展を訪問するのが目的でした。加藤画伯の御令室朝子様には、9月のスペイン旅行の際、マドリードで、ピカソの「ゲルニカ」に連れて行ってもらうなど、大変お世話になってしまったのです。

画廊ジタンは、入り組んだ所にあり、結局、分からなくて電話して、近くまで、画廊の女性オーナーに迎えに来てもらいました。

何か、非常に変わった洋館で、昭和初期に建てられたような古い感じ。鈴木清順監督の映画「チゴイネルワイゼン」に出てきそうな、ロケをしても大丈夫なような立派な建物でした。

スペイン・コルドバ メスキータ

すぐお暇する予定でしたが、加藤画伯とはスペイン談義に花が咲いてしまいました。

スペイン・バスク地方は、今では、三ツ星レストランの宝庫としてサンセバスチャンが世界中で有名になりましたが、かつてはフランス王室の避暑地で、フランコ将軍の別荘もあったこと、1960〜70年代に一世を風靡したマカロニ・ウエスタン(ジュリアーノ・ジェンマらが主演)の荒野はスペインで撮影されていたことなど薀蓄あるお話を伺いました。

パリ・ジャポニスム2018で、伊藤若冲展、明治展、風呂敷アート…

《渓流斎日乗》がフランスに特別派遣している農林水産IT通信員から、今、パリで開催中の「ジャポニスム Japonismes2018」の写真とリポートを送ってくださいました。
 「そんなもん、やってたの?」という日本人が多いでしょうが(笑)、今、日本文化はパリっ子の度肝を抜いておりますぜよ。
◇◇◇
 こちらパリです。
  日仏修好通商条約調印160周年を記念した「Japonismes2018」は、確かに盛り上がっています。
 私も日本人なので、寿司講師なんてものに借り出されました。
 あちこちで行われる様々なイベントを全て見ることができませんが、せっかくの機会ですから見逃すわけにはいきません。
 「伊藤若冲展」は、何と3時間もの行列に耐え、「動植綵絵30幅」を間近で見ることができました。
 鶏のリアルな赤い鶏冠が迫力でした。
 今年は明治150年。ギメ東洋美術館の創設者であるエミール・ギメの没後100周年を記念して、明治時代をテーマとした「明治展」は、講演会を聴きに行きましたが、ここでも大変な行列がありました。
また、公式企画として、パレ・デ・コングレ・デ・パリ大劇場で、「美少女戦士セーラームーン」のパフォーマンスショーもあります(11月3、4日)
   先日、パリ市庁舎の前を通ったら、風呂敷プロジェクトなるものの準備中でした。

 そうです。ちょうど今、11月1日から6日まで、パリ市庁舎前で開催している【特別企画】パリ東京文化タンデム2018 FUROSHIKI PARISの準備だったのです。

 これは、「東京からパリへの贈り物」と題して、建築家田根剛氏によって、風呂敷包みをイメージしたパビリオンをパリ市庁舎前に設置したものです。

パビリオンの内部では、前衛芸術家の草間彌生さんや映画監督の北野武さんら日仏のアーティスト、デザイナーらの協力による「風呂敷のアート」作品が展示されているほか、風呂敷の様々な使い方を映したビデオなどが公開されています。

また、風呂敷は「世界初のエコバッグ」とされており、パリ日本文化会館で、11月2日、10日、17日、24日に風呂敷を使ったワークショップが開かれます。

◇◇◇

有難う御座いました。

知らぬは日本人なりけり、ですかね?

銀座の500円ランチにライバル「ウマズイいめんく食い村通信」も吃驚

「最近の《渓流斎日乗》は堅くて難しいですねえ」とお嘆きの読者諸兄姉の皆々様方には朗報です。皆様の御要望にお応えしまして、久しぶりにグルメ譚です。

最近、「500円ランチ」にはまっています。皆様のご自宅のお近くにあるかもしれませんが、な、な、な、何と、場所は銀座ですからね(笑)。

この通りです。「橙(だいだい)」というビルの地下にあるお店です。

夜の居酒屋がメインなのでしょうが、最近、この半年ぐらい前から、こんな看板を目にするようになり、入ったことがなかったのですが、同僚に誘われて、3週間ぐらい前から入り浸るようになりました(笑)。

週に2回は行ってます。

「安かろう、不味かろう」では困りますが、これだけの料理なら750円、いや800円以上は取られても十分に通用します。それが500円ですからね。ウマズイめんくい村の赤羽村長も大した魂消た、吃驚ころりんです。

お店の人に直接聞いたわけではありませんが、夜の居酒屋に来てほしいために、ランチは半ば「宣伝」かサービスでやっているのではという噂がのさばっています。

納豆やヒジキなど小鉢2個は、自分で好きなものを選べるようになっています。これがまたいい。日替わり定食で、毎日メニューが変わるところもいいです。(営業は、火曜日~金曜日)

それにしても、われわれ貧民層にとって、500円ランチは本当に有難い。

ただし、当然のことながら混みますから、結構並びます。ずらっと行列ができていて、まあ、15分ぐらいは並びます。でも、いつまで「500円ランチ」をやっているか分かりませんので、もし、皆さんが私のような階級に属しているとしたら、お勧めですよ。

お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)