牧久著「暴君」=マスコミ最大のタブーを暴く

 この10連休は、何処に出かけるにせよ、ずっと、牧久氏の「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」(小学館・2019年4月28日初版)を携えて、電車の中でも読んでおりました。

 巻末年表などを入れて476ページという分厚い重い書物です。敬愛する大先輩ジャーナリストである牧氏から版元を通じで同書が送られて来た時、最初は、そのタイトルの「暴君」には度肝を抜かれてしまいました。

 怒られてしまうと思いますが、正直、おどろおどろしくて、最初は手に取ってみることすら憚れました。でも、いざ、読んでみると、著者の筆力のせいなのか、グイグイと引き込まれ、「へえー、そういうことだったのか…」と何度も膝を叩きながら読み進めたほどでした。

 この本のサブタイトルと、本の帯に書かれている通り、同書は、機関士に憧れた少年から「革マル派最高幹部」となり、JR東日本の「影の社長」となった松崎明(1936~2010年、享年74)の一代記です。マスメディア最大のタブー、「平成JRの裏面史」とあるように、これまで大手の新聞やテレビには書かれなかった「秘史」です。大手マスコミ記者はずるいですね。知っていながら書かなかったわけですから。

 その実体は、国鉄からJRに移行する中、労組という権力をかさにして、「いじめ、脅迫、左遷、暴行、監禁、盗聴」が大手を振るって白昼堂々と行われ、公共交通機関という巨大企業を恣にした「暴力と抗争」の歴史だったことを著者は時系列に沿って暴いているのです。

 個人的な話ではありますが、私自身は、旧国鉄時代での順法闘争による甚だ迷惑千万なストライキを体験し、革マルと中核による血と血で争う凄惨な内ゲバ殺人事件を見聞し、国鉄解体と同時に起きた社会党や民社党の急降下の落ち目と崩壊、そして、JR労組の内幕を暴いた週刊文春の販売を拒否したJRのキヨスクによる「言論弾圧事件」などを同時代人として、つぶさに目の当たりにしながら、この本を読むまでは一つも、奥深くに隠されていた真相を理解していなかったことが分かりました。

 それはどういうことかと言いますと、これらの事件を「点」とすると、これら点と点が結ばれて線となり、線と線が重なって面になって全体像がやっと分かったということです。

 ◇生命を懸けた仕事

 それにしても、著者の牧氏としては、命懸けの仕事だったのではないかと推測しています。何しろ、警察庁によると、革マル派は「平和で自由な民主主義社会を暴力で破壊、転覆しようと企てる反社会的集団で、治安を脅かす要因」になっており、鳩山内閣の「政府答弁書」でも、革マル派を「共産主義革命を起こすことを究極の目的としている極左暴力集団」としており、殺人を含み、目的のためには手段を選ばない蛮行を同書で暴いておりますから、著者の身に危険が及ばないか心配してしまいました。

 著者の勇気には頭が下がりますが、恐らく、牧氏は後世の人のために、どうしても書き残したかったのではないかと思います。今の若い人は、ネトウヨになるかもしれませんが、内ゲバも、順法闘争も知らないと思います。組合運動も低迷しています。こういう時代があったことを、特に若い人たちには知ってもらいたいのではないかと思いました。

 この本を読んで、私自身が一番感じたことは、人類というか、人間が持つ、人を支配して自分だけが特権階級になって、良い思いをしたいという性(さが)というか、業(ごう)をまざまざと見せつけられたということでした。

 「不当な経営者による劣悪な労働環境を改善するために、労働者は団結して闘え」「悪徳経営者を擁護する国家権力を打倒せよ」といった大義名分(イデオロギー)は大変素晴らしいかもしれませんが、結局、将棋の「歩」が引っ繰り返ると「と」金になるように、労組幹部は「労働貴族」となるのです。JR東労組のドンとなった松崎明氏は、関連会社をつくって、裏金工作し、その資金で都内の高級マンションだけでなく、ハワイの別荘まで所有していたことが週刊誌でも暴かれ、業務上横領事件として東京地検に書類送検されます。これには本当に呆れ返り、唖然としてしまいました。

 まさに、公私混同、会社の私物化で、松崎氏は、JRとは全く関係のない自分の息子を、JR関連会社の社長に据えたりしていたのです。(しかし、2000年12月、嫌疑不十分で不起訴)

 ここまでくると、松崎氏にとっては、労働組合もイデオロギーも単なる方便であって、権力を握るための道具に過ぎず、結局は、ビジネスモデルというか集金マシーンに過ぎなかったように思えます。まさに、人間の業ですね。モデルの母体が、松崎氏の場合は労働組合だったということです。日本の歴史を振り返れば、過去には、その母体が頼母子講だったり、結社だったり、新興宗教だったりしたわけです。結社には政治結社だけでなく、俳句や茶道や華道など芸道や、日大アメフト部や山根会長のボクシング連盟などのスポーツも含まれるわけです。勿論、就中(なかんずく)、ビジネスも。(カルロス・ゴーンさんの事件も典型的な人間の持つ業が起こしたものですね)

 今後、労組を舞台にして権力を恣にする松崎氏のような人間が出てくるかどうか分かりませんが、手を替え、品を替え、そして舞台を替えて、また雨後の筍のように、人間の業を実践する輩がこれからも必ず現れることでしょう。

 この本を読んで、「暴君」松崎明氏らと同時代人として生きながら、何も出来ずに傍観者に過ぎなかった自分自身に対して、切歯扼腕といった気持ちがないわけではなく、正直、気分爽快にはなりえませんでした。

 とはいえ、この本は、読み継がれなければならない傑作です。人間の持つ性(さが)を知る上でも。

鷲宮神社〜騎西城〜玉敷神社の藤の花=埼玉県久喜市~加須市

 先日、この渓流斎ブログで予告させて頂きましたように、5月4日(土)は、「城歩き同好会」のメンバーの皆さんと一緒に、埼玉県加須市にある騎西城とその周辺の神社仏閣を散策して参りました。

鷲宮神社

 最初に訪れたのは埼玉県久喜市にある「鷲宮神社」です。

 ゴールデンウイーク(GW)前半の先月4月29日に、古河城址を散策した話を、この渓流斎ブログで書きましたが、この時はJR宇都宮線で古河まで行きました。GWのせいで、行きも帰りも混んで座れなかったのですが、途中の久喜駅でかなり乗降客が多くて不思議に思っていたのです。今回、このJR宇都宮線久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて鷲宮に行きましたから、久喜駅は東武線と連結していたことを今回初めて知りました。

鷲宮神社

 鷲宮神社は、「出雲族の草創にかかわる関東最古の大社」なのだそうです。創建は「神代の昔」で、主な御祭神は、天穂日命(あめのほ ひのみこと)、武夷鳥命(たけひな とりのみこと)、大己貴命(おおなむぢ の みこと)。中世以降も源頼朝、古河公方、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら名立たる武将が、奉納や神領の寄進、社殿の造営などを行うなど由緒ある神社です。

 鳥居をくぐると、急に、大変、荘厳な雰囲気に包まれます。

 ここの神楽殿では、関東神楽の源流と称される「土師一流催馬楽神楽(はじ いちりゅう さいばら かぐら)」が奉演され、上皇后両陛下と来日されたスウェーデン国王御夫妻が鑑賞されているパネル写真も展示されておりました。

粟原城か?

この鷲宮神社の裏手(?)にはかつて、「粟原城」があったらしいのですが、今は影も形もないどころか、面影すら残っていません。

一説には粟原城主は、鷲宮神社の社司も兼ねていたそうですが、何しろ、歴史的資料が乏しく、詳細は不明なんだそうです。

土塁に建つ私市城(きさいじょう)碑

鷲宮駅に戻って、東武伊勢崎線二つ目の加須駅に向かいます。

その途中の花崎駅(2017年の夏の甲子園でここの花崎徳栄高校が埼玉県勢として初の全国制覇しましたね)を少し越えると、右に花崎城跡公園と自動車教習所、左に花崎城山公園があります。

そうなんです。ここはかつて、「花崎城」があった所なのですが、線路で分断されてしまっているのです。公園内には堀や土橋が残っているらしいのですが、電車内で目視での確認に留めました(苦笑)。

加須駅に着き、迷った末に駅から遠く離れた、とは言っても、300メートルらしいのですが、「観光案内所」に辿りつき、そこで地図などパンフレットも頂き、幸運にも目の前のバス停から騎西城跡まで行ってくれるというので、バスを利用することにしました。案内所のおじさんは大変親切で、バスが来るまでヤキモキして一緒に待ってくれました。

そこから、バスで約12分。ちょっと楽して到着したのが、騎西城跡。かつては私市と書いて、「きさい」と読んだらしいのですが、これは、武蔵七党の一つ、私市(きさい)党から来ているようです。

騎西城土塁跡

この辺りは、昭和57年ごろから本格的に発掘・整備されて、看板も充実していました。

武州騎西の絵図

江戸初期の騎西城の城下町の絵図をご覧になれば、その広さが分かります。

騎西城のレプリカ(本丸は天守がなく平城だったらしい)

お、ついに出ました。騎西城の天守です。城内は、資料館になっており、入場無料。(ただし、春と秋のほんの少しの期間しか開いていないようです)騎西城は、康正元年(1455年)に古河公方足利成氏が攻略したことで、文献に初登場し、江戸初期の寛永9年(1632年)に廃城なったということです。

ということで、これは平成の時代になって観光資源のために建てた天守で、実際の騎西城には天守がなく、平城だったそうです。この「天守」が建っている所は、かつての外堀(または沼地)だったようで、現在の生涯学習センターがある所はかつての「天神曲輪」、その北に「二の丸」と「馬屋曲輪」があり、その北に「本丸」がありました。

騎西城跡

はい、これが、騎西城跡の説明文ですから、こちらをお読み頂ければ、お分かりになるかと存じまする。

玉敷神社(久伊豆神社)

騎西城跡から町人町を通って、歩いて25分。玉敷神社に向かいました。これは、かつて本丸の東にあった久伊豆神社を移築したもので、今でも、玉敷神社の別名は久伊豆神社です。

加須市の郷土の偉人として、河野省三(1882~1963)がおりますが、彼はこの玉敷神社の社司を務め、国学院大学の学長も務めた人でした。社内にある彼のかつての邸宅は、公開されています。

玉敷神社

久伊豆神社は、武蔵国の東葛飾郡に多く見られる神社で、久伊豆を逆にして伊豆久として、同音異義語の「出ず」「く」→「出ずくも」→「出雲」となり、久伊豆神社も出雲族系なのだそうです。

 埼玉県大宮には「武蔵国一之宮」である氷川神社があり、こちらも出雲斐川を勧進した出雲族系と言われていますが、同じ出雲でも違いがあるんですね。

 大宮を含む旧武蔵国埼玉郡には、今の東京都内も含めて、氷川神社だらけですが、武蔵国東葛飾郡には氷川神社はなく、久伊豆神社だらけです。

玉敷神社の見事な藤の花が

玉敷神社では、このように、ちょうど藤の花が満開で、「藤まつり」が開催されていました。福島からのハワイバンドの演奏と、40歳ぐらいのプロ男性歌手によるワンマンショーも開催されておりました。が、真面目に聴いている人が少なくて、彼は一生懸命に、手振り足振りして頑張って唄っているのに、かわいそうで涙が出てきてしまいました。

藤の花は日本一かも

樹齢400年以上の大藤が、県指定天然記念物になっていますが、これは見応えがありました。

浮世絵にも描かれた江戸の亀戸天神より凄い。圧巻でしたよ。

京都の不思議=ボトルの相続

  その後、如何お過ごしですか、京洛先生です。 

ブログを拝見すると、渓流斎先生は、「歴史研究」から「スパイ研究」、さらには「映画鑑賞」と、あれこれお忙しいようですね(笑)。 世間は「天皇の譲位」、「平成」から「令和」への改元で大騒ぎですが、渓流斎ブログには、ほとんど、それが触れられていませんね(笑)。やはり、何か書いてもよいのではないですか?

 いつもながら、マスコミは鉦や太鼓をたたいて、さんざん、世間、大衆を煽っています。何も考えない大衆は、”改元音頭”を踊り、踊らされて、憂さを晴らす、というパターンです。

 新聞各社は「天皇陛下おめでとう!」「慶祝!」と、大きな名刺広告を集めて紙面に載せていますが、あの広告費はチャンと「禁裏」に納めているのですかね?(笑)。自社の財布に入り、収入、収益になるのなら、”あやかり商法”というか、詐欺”みたいな話ですよ(笑)。 

大手新聞各社は「こちらが献上しようと思っても、禁裏は固辞される」ということでしょうが、「日本ナントか協会」とかいう、国際慈善団体の名称を使って、「アフリカの子供を救おう!」と浄財を集め、豪華な自社ビルを建てる費用に充てる手合いとこれでは同じですよ。

 誰も文句を言わないのも可笑しな話です。そのうち、広告収入が、下降線のテレビ業界も、映像版あやかり「名刺広告」を始めるのじゃないしょうか(笑)。「人の褌で相撲をとる」とは、こういうことをいうのです。

京都「ヘルメス」

 ところで、”10日間連休”のさなか、「奇遇」、「奇縁」のお話を一つご披露しましょう。

 貴人もご存知の三軒茶屋のガルーダ博士が連休中、洛中の別荘にお見えになり、当方にも御報がありました。いつもは、ご友人らと夜の巷を徘徊されるのですが、今回は、女婿の御尊父が亡くなられ、その葬儀、御弔いのために見えました。それら大事な役目を一通り済まされた後、「時間があるので、ご一緒しませんか」と当方に有難い、お誘いがありました。

 そこで、先夜、ガルーダ博士ご夫妻のマンション傍の千本中立売周辺で食事を済ませ、さらに「もう一軒」となり、ぶらぶら三人で歩き出しました。 

「千中(せんなか)」と略称されるこの界隈は、水上勉の「五番町夕霧楼」の舞台で、「売春禁止法」以前は「五番町」という遊郭がありました。今はマンション、住居が立ち並び、そのころの賑やかさは、ほとんど消え去り、薄暗い、人出がない、狭い道筋を歩いていると、ガルーダ夫人が小さな声で「あれ!、ここヘルメスじゃないの?」と、暗がりに燈るバーの街灯を見つけ指さされました。「え!ヘルメス、どれどれ」とガルーダ博士。「そうだ、ヘルメスだ、亡くなったOさんが、よく飲みに行くといっていた、お店だ」と言うなり、「入ってみるか」となりました。

 0さんというのは、ガルーダ博士が、今回、お葬式に行かれた女婿の実父で、建築家と大学教授を兼任されていた方です。「土に還る」自然素材を用いた、独特の建築工法で、家を建てることを実践し、「藁の家」などユニークな建物も手掛けられ、その世界では有名な方だったそうです。「自由人」らしく、京都の飲み屋街にも出没し、談論風発、友人知人も多く、学生にも、大変人気があったそうです。 

「ヘルメス」は、70歳を過ぎたと思しきママさんが一人だけで、お客さんは誰もいません。時代は「平成」から「令和」に移りましたが、店内の雰囲気は、「平成」など無視して「昭和」が今も健在です。貴人が一緒なら「いやあ、懐かしいですね!こんな店がまだあるのですね、京都には」と痺れますね(笑)。店の壁際には、古いレコードが大量に整理整頓され、お客さんの好みに合わせて、それを聴かせてくれます。

 見慣れぬ客に、多少、不審げな表情で「何をしはりますか?」とママさん。そこで小生が「こちらのご夫妻の親戚で、Oさんという方が、よくここへ見えていたそうですが、ご存知ですか?」と、出しゃばって話を向けると、「え、よく存じていますよ。Oさんは。ご病気やと聞いて、心配していましたが…」と、Oさんの近況、動静もよく知っているので、話は簡単でした。

 ガルーダ博士が「いやあ、実は、先日亡くなりました、ワタシも、東京から葬儀に来て、偶然、ちょうどお店の前を通ったので、思い切って店に入ったわけです」と話されると、「え!Oさんは亡くなられはったのどすか?!いつも、一緒に来はるNさんご夫妻が、だいぶ、よおないと、言うたはったから心配してましたが、そうどすか…」。

Oさんのボトル

ママさんは「ええ先生どうしたわ。学生さんも飲みに連れて来はってね」とOさんの懐旧譚とともに、Oさんが店にキープしていたボトルを棚から出して「ご親戚やし、飲んで、センセイを偲んでおくれやす。Oさんも喜ばはるわ」と水割りを勧めてくれました。

 これには、ガルーダ博士も言葉に詰まり、しばししんみり。Oさんの好きだったという、フランク永井の「公園の手品師」などアナログのレコードプレイヤで聴き惚れました。

 ガルーダ夫人は「きっと、Oさんが導いてくれたのよ、パパ」と言われましたが、本当に奇縁、ハプニングでした。

 翌日、ガルーダ博士は、Oさんの息子さんの女婿を、「ヘルメス」に連れて行き、ボトルの引継ぎを済ませ、帰京されました。行きつけのバーにキープされたボトルの相続、形見分けというのも、珍しいと思いますね。

以上おしまい。 

再びOさんのボトル

古河公方こぼれ話=久留米藩主有馬氏

 いまだに「古河公方~古河城址」歴史散歩の興奮が冷めやらず、前回書き切れなかったことを書いてみます。

◇古河公方は生き延びた 

康正元年(1455年)、鎌倉府から古河に移った第5代鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は、古河公方と称し、この地に館を構えたため、古河は関東の政治文化の中心地となります。

 この古河公方は、第5代の足利義氏(よしうじ)が1582年に没するまで、100余年続きます。義氏には女子1人おり、名前を氏女(うじひめ)と言いました。小田原北条氏を平定して関東を制圧した豊臣秀吉は、古河公方の名跡が途絶えることを惜しみ、腹心の小弓義明の孫國朝に氏女を娶らせて、喜連川(きつれがわ)の地5000石を与えます。

 國朝は病死したため、その弟の頼氏が喜連川家に入り、氏女は義親を生み、その後、江戸時代になっても、喜連川家は小藩ながら幕末まで生き延びるのです。

 最初、喜連川藩の名前の読み方も分からず、ましてや、古河公方の血筋をひく由緒ある藩だとは知りませんでした。

史跡 古河公方館址

◇熊沢蕃山 

熊沢蕃山(1619~91)といえば、江戸初期に活躍した備前国(岡山県)出身の陽明学者ですが、古河藩で亡くなっていたとは、今回の歴史散歩の下調べで初めて知りました。

 山川出版社の「日本史小辞典」を引用しますと、熊沢蕃山は、農本主義を唱えて、岡山藩主池田光政に仕えて、治水・治山による米の増産を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与します。しかし、晩年の著書「大学或問」で、参勤交代や兵農分離策などを批判したため、幕府の命により古河藩お預かり処分となったというのです。

 彼は、古河城内に幽閉され、72歳で没し、城外大堤にある鮭延寺に葬られました。

◇古河藩の飛び地

 先月4月7日に現在の千葉県野田市にある関宿(せきやど)城址に行ったことは、このブログにも書きました。後に第2次世界大戦終戦のポツダム宣言を受諾した際の首相を務めた鈴木貫太郎が、この関宿藩出身だったことも書きました。でも、鈴木貫太郎は、関宿生まれではなく、今の大阪府堺市生まれなのです。関宿藩が、堺に領地(飛び地)を持っていたからでした。

 このように、幕府は、雄藩に対して、飛び地を所有することを、むしろ推奨する形で認めていたんですね。幕府も天領という領地を全国各地に所有していましたし、特に、大坂城代や京都所司代などを務める譜代藩に対しては、財政支援上、飛び地を所有することを認可していました。これには、外様大名を牽制する目論見もあったそうです。

 で、古河藩ですが、同藩家老の鷹見泉石の資料の中に、この飛び地からあがる石高などを記した貴重な文書も展示されていました。大坂城代や京都所司代を輩出した古河藩は、大坂、兵庫だけでなく、遠く離れた岡山県津山にまで領地(飛び地)を持っていたことを知り、少し驚きました。江戸時代は、現代人が想像する以上に人の行き来があったんですね。

◇有馬氏は転勤族?

 先程の喜連川藩などを調べている時、下級武士だった我が祖先の九州の久留米藩のことが気になって調べてみましたら、意外なことを「発見」しました。

 豊臣秀吉の九州平定後、小早川(毛利)秀包が筑後7万5000石を与えられ、久留米城を近代城郭に大改築して居城とします。しかし、関ケ原の戦いで西軍についた秀包は改易となり、代わって石田三成を捕縛する戦功を挙げた三河岡崎10万石の田中吉政が筑後32万石を与えられ、入城します。しかし、その後、田中氏は無嗣改易となり、筑後の北の久留米藩21万石は、丹波福知山から有馬豊氏が入ります。(筑後南の柳河藩10万9000石には、立花氏が20年ぶりに帰還します)

 久留米藩主の有馬氏は、幕末までずっと続きますが、第15代当主に当たる有馬頼寧は、農林大臣(第一次近衛内閣)などを歴任し、戦後は、競馬の「有馬記念」に名前を残しています。そうそう、作家の有馬頼義も、臨済宗相国寺の有馬頼底管主も、藩主有馬氏の末裔でした。(殿様には決して頭が上がりません)

 初代久留米藩主(二代という説も)有馬豊氏は、丹波福知山から移封されてきたということですから、有馬温泉と関係があるのかなあ、と思っておりましたが、丹波福知山(もともと明智光秀の領地)の前は、何と、豊氏は、遠江の横須賀を居城としていたというのです。遠江横須賀とは、現在の静岡県掛川市です。えっ?どういうこと?

 これまた調べてみますと、有馬氏のルーツは14世紀に有馬義佑が摂津国有馬郡の地頭に補せられた時にまで遡ることができます。その後、豊臣秀吉に従った有馬則頼とその子である豊氏が、「秀次事件」で改易された秀次の家老渡瀬繁詮の領地だった遠江横須賀3万石を与えられたんですね。関ケ原の戦いでは、有馬父子は東軍として活躍したため、豊氏は丹波福知山藩6万石に封されます。そして、大坂の陣でも大いに戦功を挙げたことから、豊氏は久留米藩21万石の初代藩主になったということです。(豊氏の父則頼が初代久留米藩主という説も)

 戦国時代も江戸時代も、現代人が不勉強なだけであって、このように、かなりの大名が改易されたり、移封されたりしておりますから、今と変わらない転勤族だらけだったんですね。