いざ古河へ=古河公方と古河城

古河と書いて、「こが」と読みます。「ふるかわ」ではありません。古代から中世、近世にかけて、一時、関東の中心として繁栄した城下町であり、宿場町でもありました。

 古代では「許我」と書いて「こが」と読み、何と今最も注目されている「万葉集」に二首も詠まれています。ご興味のある方はご自分で調べてみてください(笑)。

 奈良時代から渡良瀬川を利用した水運交通の中継地としても発展し、中世は第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉氏に追われて、ここ古河の地に邸を移して、「古河公方」となりました。(下総古河は鎌倉府の領地=飛び地だったという説が有力です)

 古河はその後、小田原北条氏の支配下になりますが、江戸時代になると、古河城は最重要拠点の一つとなり、将軍の日光参社の際の宿泊地となったり、藩は老中首座を輩出したりします。

 当然、明治になると、憎っき徳川方の最大の敵地となりますから、廃城となり、打ち壊されて跡形もなくなりますが、かろうじて城下町の雰囲気だけはかすかに残っています。


古河駅西口から北西10分ほどにある杉並通りにはこうして武家屋敷跡が並んでいます。今は個人の住宅になっているようでしたが、詳細は分かりません。この辺りは面影が残っているせいか、観光用ポスターにも使われるそうです。

この武家屋敷跡の近くにあるのが、正定寺です。江戸時代に代々古河藩主を務め、江戸詰めでは老中職も歴任した土井家の墓所です。

 看板にある通り、東京・本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門をこちらに移築してきました。

境内には、初代古河藩主土井利勝公の像がこうして祀ってありました。


ここは、江戸町通りにある歴史作家永井路子の旧宅です。


 永井路子の旧宅は、お茶と茶器を扱う豪商だったそうです。実は、彼女は永井家の実子ではなく、実父は歴史学者だった来島清徳。生まれる前から母方の永井家の養子になる約束だったというのです。

 旧宅は、現在、彼女のちょっとした文学館となっており、入場無料。私はよほど怪しい人間と見られたのか、タダで入場させてもらった上、お茶まで御馳走になってしまいました(笑)。永井路子は、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾ら直木賞作家を輩出した「近代説話」の同人だったことは知ってましたが(本人も直木賞受賞)、小学館の編集者だったんですね。歴史学者の黒板伸夫と結婚し、出版社時代は黒板という本名で仕事をしていて、当時、一緒に仕事をしていた後輩さんが先日、この旧宅を訪れ、「黒板さんは、黒板さんは…」といった話をこの旧宅の留守を預かっている人に話していたそうです。

 永井さんは現在94歳になられたそうです。

この永井路子旧宅の近くに、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」河鍋暁斎の生誕地の碑があり、吃驚しました。知りませんでした。

河鍋暁斎、あの緻密な筆致が好きですね。彼は天才です。確か、埼玉県蕨市に彼の美術館があったと思います。いつか行ってみようと思っていながらまだ行ってません(苦笑)

 たまたま、この近くの江戸前通り沿いにあった「お好み焼き屋」さんに入って、ランチ(蕎麦入り特製お好み焼き750円とノンアルビール380円)を取りましたが、そこの女将さんが大の話好きで、この江戸前通りは、かつては一番の繁華街で、左右両通りはぎっしり商店が並んでいたのに、今や、御覧の通り、少ししか残っておらず、寂しい限りです、と溜息をついておりました。

 しかも、ここ古河市は、茨城県の西端の外れの外れ。県庁の水戸に行くのに3時間もかかり、遠くて困るとまた溜息です。ここからなら、栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和(の県庁の所在地)に行く方が全然近いというのです。

 実は、古河に水戸直通の水戸線が通る話が大正の終わりか、昭和の初めにあったそうですが、古河市民は断ったんだそうです。女将さんによると、古河の人間はよそ者嫌いだとか。お蔭で、水戸に行くまで、栃木県の小山まで行って乗り換えなければならないといいます。

この話好きの女将さんは私の目の前で、お好み焼きを焼いてくれて、70歳ぐらいに見えましたが、何と7人姉妹で、6番目だというから思わず笑ってしまいました。代々の商家で、商いはしょっちゅう替えているらしく、男の子が生まれるまで頑張った御尊父は、青果業を営み、古河市の青果市場をつくった偉い人だったとか。

日光街道沿いにあるお茶屋口跡。宿場町だった証ですね。

こちらは、かの有名な鷹見泉石の記念館、つまり旧宅です。入場無料には驚きました。

 渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、絵画の国宝第一号になった人でした。

渡辺崋山筆「鷹見泉石像」(国立博物館のHPより)

 以前、このブログで書きましたが、古河藩家老で、大坂城代詰めの頃に、大塩平八郎の乱が起き、その鎮圧の陣頭指揮を執った人でしたね。

 鷹見泉石は、隠居名で、家督後の名前は十郎左衛門。諱は忠常。本職は家老で、蘭学者とも言われますが、仕事が海外の最新情勢の情報収集と情報分析でしたから、蔵書の多さや、知り合った人間関係は、超弩級です。

それら鷹見泉石の膨大な資料を収蔵しているのが、旧宅の真向かいにある古河歴史博物館です。(入場料は、文学館などとの共通券で600円。ここは絶対に一見の価値があります。)

 鷹見泉石が知遇を得た人がずらりとパネルで紹介されていましたが、島津斉彬ら諸国の大名を始め、ジョン万次郎ら漂流から帰国した人、農学者の二宮尊徳、江戸琳派の酒井抱一、鈴木其一まで親睦を深めているのですから、まさに超人です。例のシーボルトとも交友していたようなので、鷹見泉石もよくぞシーボルト事件や蛮社の獄などに連座しなかったと思いました。

 渡辺崋山が捕縛されたのは、あの悪名高い鳥居耀蔵による讒言だったと言われています。渡辺崋山は、尾張田原藩という小藩の家老。一方の鷹見泉石は老中だった土井利位(としつら)の譜代大名の家老ということで、別格扱いだったのかもしれません。

きゃあ~、ヒトが写っている…

古河歴史博物館の入り口には、古河城の出城諏訪郭だったという記念碑がありました。

 実は、ウマズイめんくい村の赤羽村長さんからの情報で、古河歴史博物館の隣にある古河文学館の2階にレストランがあるということで、お腹が空いてきたので、そこでランチしようかと思ったら、残念、満席で断られてしまいました。

 仕方がないので、フラフラ彷徨った挙句、永井路子旧宅近くのお好み焼き屋さんを見つけて入り、先程書いた通り、そこで色んな地元の情報を得たので、怪我の功名(笑)だったかもしれません。

赤羽村長が指摘されたように、この文学館~歴史博物館~鷹見泉石旧宅辺りの石畳と城下町の雰囲気は最高ですね。とても落ち着いた静かな雰囲気で、何度でも来てみたいと思いました。

 文学館では、永井路子をはじめ、小林久三、佐江衆一ら古河市ゆかりの作家の作品などが展示されていました。

 鷹見泉石の曾孫に当たる鷹見久太郎が大正11年に創刊した童話雑誌「コドモノクニ」(野口雨情や北原白秋らが寄稿)のバックナンバーなども展示されてました。

さて、いよいよ、今回の「古河の旅」のもう一つの目的、古河公方様に会いにいくことでした。

 現在は、「古河公方公園」になっていますが、第5代鎌倉公方の足利成氏が康正元年(1455年)、鎌倉からここ古河の地に移り、舘を構えたところです。

ここには2年間ほど住んだ後、渡良瀬川流域の古河城に移ったとあります。

永井路子旧宅からここまで歩いて30分くらいかかりましたかね。でも、この上の碑を見つけた時は感激しました。

それ以上に感動したのは、古河公方公園から少し離れた川沿いに、この「古河城本丸跡」の碑を探し当てた時です。

道路には道案内の看板がなく、探索するには、古河駅の観光案内所でもらった地図だけが頼りでした。

 今や、渡良瀬川の堤防になってしまいましたが、ここに、あの古河城の本丸があったのかと思うと、打ち震える思いでシャッターを切りました。城好きの私にとって、この日のハイライトでした。

 持参したスマホの万歩計によると、この日は、2万2000歩、15.5キロ歩きました。

?「幸福なラザロ」は★★★★

 何か予定調和のように、ゴールデンウイークのどこかいつかに観に行きたいと、このブログで予告していた映画「幸福なラザロ」を渋谷の文化村ル・シネマにまで観に行って参りました。渋谷の人混みが大嫌いなので、朝一番の回を観て来ました。

 物語の終わり方がちょっと腑に落ちなくて、しばらく、「どゆこと…?」と目が宙に浮いてしまいましたが(笑)、「この物語は、ファンタジーか寓話なのかな?」と考えているうちに、段々、感動が胃の腑の下にまでゆっくりと降りてきました。

 新鋭のイタリア人女性監督アリーチェ・ロルヴァケルは、実際にあった詐欺事件と、聖書の「ルカによる福音書」などに出てくる死者から復活したラザロの逸話などから着想して脚色したようです。

 【注】以下に書くことは少し内容に触れますので、これから御覧になる方はお読みにならないでください。絶対に!


 映画ポスターに「その人は疑わない、怒らない、欲しがらない」と書かれているように、正直者のラザロの物語です。舞台は、急な渓谷によって外の文明世界から遮断されたイタリアの片田舎の村。今から20年ほど前の話です。54人もの小作人たちが、領主であるデ・ルーナ侯爵夫人によって賃金も支払われずにタバコ農園で働かされ、搾取されいます。

 その中でも青年ラザロは、人一倍の働き者で、人に指図されても怒らないし、何でも人の言うことを聞き、食べ物も飲み物も欲しがらない。そもそも搾取されていることについてすら何ら疑いもしない。純真無垢なラザロには、血筋が通っているのかどうかもよく分からない祖母らしき老婆がいるだけで、天涯孤独です。

 そんな中、侯爵夫人の我儘息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎがきっかけで、警察の捜査が入り、村人たちは都会へ「解放」されます。しかし、ラザロだけは、タンクレディを探し求めている時に足を滑らして崖から転落して気を失ってしまいます。

 正気を戻して村の中心に戻ると、他の村人たちはもう何処にもいません。ラザロは、再びタンクレディを探し求めて、雪が降る中、夏服のまま歩いて都会に行くことにします。

 すると、いつの間にか、とんでもない年月が経っていて、かつての村人だったアントニアと偶然再会します。ラザロの姿を見たアントニアは、彼が聖人だったことが分かり、彼の前で跪(ひざまず)きます。

 ここが最大のポイントで、私も、あっと驚く為五郎で、思わず感涙してしまいました。(何故か、については映画をご覧になれば分かります)

 あ、かなりのことを書いてしまいましたね(笑)。これから御覧になるつもりの方は読んでいないと思われますので、このまま続けますが、アントニアがラザロの前で跪いた時がハイライトで、この後の物語展開がちょっと不満でした。ラザロは奇跡を起こすわけでもなく、最後の最後まで、純真無垢の普通の青年で、他人のためになることしか考えず、あっけないエンディングを迎えてしまいます。

 ファンタジーや寓話なら、もう少し、どうにかならないものかと思い、不可思議感が尾を引きました。でも、この映画は不可解だっただけに、今年私が見た映画のベスト5、いやベスト3に入るかもしれません。

「これが特殊詐欺師からのはがきだ!」

 昨日も書きましたが、今、このブログはツイッターやフェイスブックといったSNSとはつながっていません。おかげで1日のアクセス数が50人ぐらい減っております(笑)。復旧まで2週間ぐらい掛かることでしょう。

 同様に「広告宣伝」ともつながっていません。ということは、何を書いても貴重な時間を無駄にしているだけ、みたいなもんで、聊か、書く気力も萎えてしまいました(笑)。

 ところが、今週発売の週刊誌(宣伝になるので誌名は省略=笑)に、新井紀子・国立情報学研究所社会共有知研究センター長が「SNSというのはタダ働きなんですよ」と、見事に的確な表現をしてくれてました。彼女は、「小中高生が算数や数学の問題を解けないのは、計算ができないのではなく、問題の内容が理解できていない。つまり、文章読解能力、国語の問題なのだ」と喝破した人でしたね。

 新井氏は、SNSは、感情を搾取される「感情資本主義」とまで仰っておりました。フェイスブックの「いいね!」が欲しいばかりに、せっせと個人情報を貢いで、広告宣伝に利用され、アマゾンの商品評価を書いて、自己満足を満たしたと思ったら、ちゃっかり、利用どころか、搾取されていたというわけです。

 搾取する代表的なものは勿論、今問題になっているGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と言われているプラットフォーマーです。ブログも、Yahoo やgooや FC2などで、簡単に無料で利用できると思ったら大間違い。ちゃっかり、ブログの内容は宣伝や広告として利用されているだけで、実は搾取されていたのでした。的確に言えば、プラットフォーマーは自分たちで生産せず、「他人のふんどしで相撲を取っている」ようなものなのです。

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 そういう真相を知ってしまったので、今日は書く気がしなかったのですが、皆さん御存知、関東地方にお住まいの宮さんから「これが特殊詐欺師からのはがきだ!」との 凄いニュースが飛び込んで来ました。一昨日の4月24日に書いた「ついに特殊詐欺師からの電話」をお読みになって連絡をくださったのでしょう。(宮さんは、普段は、SNSのプラットフォームでこのブログを御覧になっていたのに、わざわざホームページに直接アクセスして頂き、有難い限りです)

 宮さんの場合、電話ではなく葉書による詐欺師でした。「今週火曜日、我が家にまた特殊詐欺師からのはがきが郵送されてきました。これで2回目です。前回とほとんど同文ですが、締切期日が絶妙なタイミングになっています。
…先方の電話番号が 03 ですが、もしかしたらタイのアジトにでも繋がってしまうのかもしれません。はがきの画像を添付しておきます。皆さん、どうぞ気をつけて下さい」とのことでした。

 ということで、その葉書の文面を公開することに致しました。皆さん、このような葉書が来ても、絶対に騙されてはいけませんよ。

孫正義氏がビットコインで145億円も損失とは…

 昨日から、いや一昨日からかなあ、このブログと、ツイッター・フェイスブックのSNSとの同期が切れてしまいました。ツイッターやフェイスブックでこのブログを御覧になっている皆様にはご迷惑をお掛けしますが、諸般の事情で連休明けにも復旧するかもしれません。私自身、もともとSNS好きではないので、一方通行の送り放しだけで、ほとんど利用していなかったのですが、同期が切れている間は、ますます利用しないことでしょう(笑)。

ドン・キホーテ像(マドリード)

 さて、最近のニュースで一番驚いたのは、孫正義さん(61)が、仮想通貨ビットコインの取引で約145億円損失していたという「事件」です。孫氏は、個人的にビットコインを2017年後半に購入し、2018年前半に急落した後に売却したとされていますが、この事実を報じたのが、日本のメディアではなくて、米ウォール・ストリート・ジャーナル(4月23日付)ですからね。

 145億円の損失なんて気が遠くなる数字で、普通の人なら自殺したくなることでしょうが、ある経済評論家は「蚊に刺された程度ではないでしょうか」と言うのです。

 そこで調べてみると、フォーブス・ジャパン 「日本長者番付2019」によると、 孫氏の総資産は2兆6670億円(第2位)もあるというのです。となると、損失額145億円はその0.54%に当たります。年収1000万円あるエリートサラリーマンだったら、5万4000円の損失。まあ、痛いことは確かですが、 注射針でチクっと刺された程度の損失かもしれません。

 それにしても、孫氏が会長兼社長を務めるソフトバンク・グループには16兆円近い有利子負債があると聞きますし、孫氏の金銭感覚は、とても庶民にはついていけません。いや、最初から、全くお呼びじゃありませんね。

ついに特殊詐欺師からの電話

 ついに、というか、とうとう、東京の片田舎に住む老母のところに、特殊詐欺師から電話が掛かってきました。

 母はもう齢、卒寿を超えていますから、誰を名乗った男か「覚えていない」ということでしたが、内容については、「医療保険の還付金が3万5000円も出たのにまだ取りに来ていません。キャッシュカードは持っていますか」といった丁寧な口調だったそうです。

 幸い金銭的なことは子どもたちに任せていて、本当にキャッシュカードが手元になかったので、「今はない」と答えたところ、「そんなことはないはず。それでは明日朝9時にもう一回電話します」と言って、電話が切れたそうです。

 そこで、子どもたちが、翌朝は、絶対電話に出ないように母親に伝え、それを聞いた母親は、電話が掛かってきても、約束を守って出なかったため、事なきを得ました。しかし、「リスト」に入っていたわけですから、また、手を変え品を変え、犯人たちは電話を掛けてくることでしょう。

 嫌な世の中ですね。でも、どうして詐欺師から母親に電話が掛かってきたのでしょうか?

Eapagne

 昨晩は、高校の後輩のM君と久しぶりに湯島の純酒肴「吟」で飲んだので、彼にこの話をして、「何で母親の電話番号が分かったのだろうか」と聞いてみたところ、彼は、名簿が闇取引されて個人情報が漏れているのではないかと推測していました。

 中でも、かつての携帯電話ブームで、街中あちこちで「携帯ショップ」が乱立しましたが、次第に淘汰されて次々と潰れてしまいました。倒産する際、社員に給料を払わなければならない社長が、名簿を闇で転売する事案が多くあったというのです。そこには、生年月日、性別、住所氏名、電話番号など個人情報が網羅されてますから、詐欺師にとってはバイブルになるのでしょう。 

 ほかにも、商店街の買い物、カード、懸賞応募など、どこでどういった形で情報が漏れるのか分かったもんじゃありません。

 今の時代、覇権大国同士の「戦争」は、爆撃機やミサイルなどが飛ぶ「実弾戦」ではなく、サイバー攻撃や諜報活動などの「情報戦」になったような気がします。

 詐欺師の世界も「情報を制する者は世界を制する」といった、手段を選ばない阿漕な手口を使っているということでしょう。

 許せない。いつまでたっても特殊詐欺がなくならないのは、ウマミがあり過ぎるわりには、罪が軽すぎるからじゃないでしょうか。刑法では、懲役10年以下で、初犯の場合、執行猶予が付くということですからねえ。

 本当に許せない。

騎西城と古河城に行くのが楽しみ

 4月27日(土)からの10連休はどう過ごそうか、楽しみながら予定を練っております。人混みが嫌いなので、あまり出掛けたくないのですが、色んな事情がありますから、そうもいきませんね(笑)。

 まず、大型連休を「ゴールデンウイーク(GW )」と命名した映画業界に敬意を表して映画は1本ぐらいは観るつもりです。有力候補は、先週金曜日の日経夕刊の映画評で、五つ星に輝いていたイタリア映画「幸福なラザロ」です。

 次は、自分の部屋の片付け。生前整理のつもりで、断捨離をやってみようかと思ってます。

 あとは、「城歩き」を予定しています。「城歩き同好会」の皆さんと一緒に5月4日、赤羽村長に関係が深い埼玉県加須市にある騎西城跡に行くことは決定しています。騎西城は、康正元年(1455年)、古河公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の上杉勢を攻略した地として最初に文献に登場し、江戸初期の寛永9年(1632年)に廃城され、姿を消します。

関宿城

 4月7日に千葉県野田市にある関宿(せきやど)城跡を訪れ、このブログにも書きましたが、関宿城を開城したのは梁田氏で、古河公方からの命令でしたね。

 そこで、どうしても、古河公方~古河城は外せないということで、10連休の中のどこかで、一人で古河に行ってみようかと思っています。

 古河市は茨城県です。40年近く前、運動部記者だった頃に、取材で古河サッカー場を訪れたことがあります。当時は古河第一高校が、全国制覇するなど強豪校として名を馳せていたのです。でも、当時は今のようにお城にそれほど興味がなかったので、古河城跡は訪れませんでした。

 この古河市の歴史を調べてみると驚くほど面白いですね。まず、古河公方とは何かと言いますと、京都に室町幕府を開いた足利尊氏が、関東勢力の「目付け」として「鎌倉府」を置きます。そのトップの鎌倉公方に任命 (1349年) されたのが尊氏の四男基氏(もとうじ)でした。しかし、足利基氏はまだこの時、9歳でしたので、政務の補佐役として関東管領が実務を行いました。当初は、斯波氏、上杉氏、畠山氏、宇都宮氏が関東管領でしたが、次第に上杉氏の勢力が強大となり、他氏を排除して独占します。

 やがて、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏は対立し、1439年に永享の乱が起こり、関東管領の上杉憲実(のりざね)が第4代鎌倉公方の足利持氏(あしかが・もちうじ)を自害に追い込み、鎌倉府を滅ぼします。(この上杉憲実は、「日本最古の総合大学」と言われる足利学校を再興した人物として歴史に名を残しています)

 その後、30年に及ぶ享徳の乱の末、持氏の遺児足利成氏(しげうじ=第5代鎌倉公方)が、鎌倉府を逃れて、古河御所に本拠を置いたため、初代の古河公方と呼ばれるようになったわけです。


渡辺崋山筆 「鷹見泉石像」(国宝) 所蔵する東京国立博物館のHPから

  話は飛んで江戸時代。渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、国宝ですし、美術の教科書にも掲載されているので、御存知のことでしょう。でも、この鷹見泉石なる人物が何者なのか、案外知られていない。

 控えい。この方は、蘭学者ですが、古河藩の家老を務めた人でした。また、藩主土井利位(どい・としつら)が大坂城代を務めていた時に、大塩平八郎の乱が起き、鷹見自身も乱の鎮圧に当たったというのです。(土井家は代々、幕府の要である老中も務める名門大名)えーー、知らなかったですね。どうも、日本史の教科書では、乱を起こした人は取り上げますが、鎮圧した人は教えてくれません。例えば、島原の乱天草四郎時貞は誰でも知っていても、鎮圧した松平伊豆守信綱(老中、川越藩主、埼玉県新座市の平林寺に墓所あり)となると、知らないでしょうねえ。

 古河城は、日光街道の要所にあり、将軍が日光東照宮に参社する際、滞在する重要な拠点でもありました。江戸城を出たお殿様は、岩槻城、古河城、宇都宮城の順で宿泊しました。

複雑多難な国スリランカ

 4月21日に突然に、スリランカの最大都市コロンボなどで起きた爆発テロ事件。キリスト教会や五つ星の高級ホテルが襲撃され、200人以上が死亡し、この中で日本人も1人が死亡、4人が負傷したようです。

 何で起きたのか、専門家もまだ詳細に分析できないようですね。私の拙い知識では、スリランカというより、以前に名乗っていたセイロンの方が私の世代では馴染みが深く、それとともに、セイロン紅茶がすぐ思い浮かびます。また、コロンボは、「2001年宇宙の旅」などで知られるSF作家アーサー・C・クラークが永住していた街だったことが意外だったので記憶があります。スリランカは多民族国家で、1948年に英国から独立しましたが、仏教徒を優遇した政策から、仏教徒とヒンズー教徒との間で長い間紛争が続き、その紛争は10年ほど前に収まり、平和な国になったと聞いていました。

 日本の外務省の資料によると、スリランカ国内の宗教分布は、仏教徒70.1%,ヒンズー教徒12.6%,イスラム教徒9.7%,キリスト教徒7.6%。 民族は、シンハラ人(主に仏教)74.9%,タミル人(主にヒンズー教)15.3%,スリランカ・ムーア人9.3%となっています。

 今回襲撃されたのはキリスト教会と高級ホテルであることから、イスラム過激派が主犯で外国人観光客を狙ったものと言われてますが、その目的も狙いもさっぱり分かりませんね。観光産業を振興する政府に対する反政府運動なのかもしれませんが、観光の打撃になることは確かでしょう。爆発テロが遭った時、教会では復活祭のミサの最中だったという報道もありました。

 私自身、スリランカとは紅茶以外に個人的な接点はなかったのですが、驚いたことに、先日の大学の同窓会で謦咳に接した建築ジャーナリストの淵上氏からスリランカの建築家ジェフリー・バワ(1919~2003)の「生誕100年記念 現地建築ツアー」の案内が届いていたので、つい、大丈夫かなあ、と思ってしまいました。スリランカに世界的に著名な建築家がいたことも知りませんでした。でも、建築ツアーは9月開催ので、その頃までには落ち着いていることでしょう。

 そう言えば、日本人の多くに知られていないのが、スリランカ南部にあるハンバントタ港です。2017年7月にスリランカ側が中国国営企業に港の管理会社の株式の70%を99年間譲渡する11億2千万ドルの取引の合意文書に調印し、高金利債務の返済に困ったスリランカ側は、同年12月に中国側に港湾を引き渡したことです。これでは、まるで、アヘン戦争を起こした大英帝国が、戦勝後に香港を借款した手口を真似したような印象です。

 中国は、「一帯一路」戦略の一環として、借款した同港を軍港として整備しているとも言われています。日本の防衛省も、マレーシアのマハティール首相も、中国に依存することが「債務のわな」につながる可能性が高いと批判していました。

 こうしてみると、スリランカという国は、南国の穏やかな天国に近い島ではなく、国家財政が厳しく、多くの複雑な「内憂外患」を抱えていることが分かります。

ノートルダム大聖堂、火災前の雄姿

 今日は、萩生田・自民党幹事長代行の「消費増税延期」発言について書こうかと思いましたが、何か、馬鹿らしくなってきました。

 萩生田さんと言えば、安倍晋三首相の側近中の側近。モリカケ問題華やかりし時に、加計学園の加計孝太郎理事長と安倍総理と3人一緒に缶ビール片手にバーベキューを楽しんでいるお姿の写真が出回り、その親密度が、日本中に強烈な印象を残しました。

 そんな最高権力者の懐刀とも言うべき政権中枢の御方が、勝手に、しかも、公に、個人的意見をわざわざ発言するわけないじゃありませんか。

 こういうのを業界では、「アドバルーン」と呼びます。つまり、観測記事です。重大な政策などを決定する際、世間の反応を様子見するために、事前に反応を確かめ、衝撃を和らげるために、周辺に語らせる手口です。与党幹部も「予定通り、増税します」と、萩生田発言を打ち消すことは、事前の打ち合わせ通り。まるで舞台劇ですよ。舞台裏が透けて見えるので、嫌になります。

 で、先ほどから御覧頂いている写真は、火災に遭う前のノートルダム大聖堂です。

 皆様御存知の松岡將氏が、小生が4月17日に書いた「嗚呼、ノートルダム大聖堂の大火災」をお読みになって、心配してたくさんの写真を送ってくださったのです。それらの写真のうち、厳選して公開させて頂くことにしました。

 ブログには「大聖堂のステンドグラスは大丈夫だったでしょうか」と書いたのですが、そしたら、松岡氏は「 大聖堂のステンドグラス。。。そう言えば、小生、確か写真を撮っていたはず、と、あちこち探したら、2007年に撮った写真が出てきました。小生一人で見るのは勿体ないので、先日のお礼を兼ねて、お裾分けします。往年の大聖堂の気分に浸って貰えば、幸甚です」と、こうして、見事なステンドグラスの写真も添付してくださったのです。

 現地からの報道によると、ステンドグラスはどうやら無事だったようですね。ただ、荘厳なパイプオルガンは、消火の際の水が被り、駄目になってしまったようです。修復には最低でも1年以上はかかることでしょう。

 マリアさまのピエタ像もかなり被害を受けました。

 ということで、大火災に遭う前の貴重な写真を送って頂きましたが、小生に送るということは、ブログで全世界に公開されるということを意味しておりました(笑)。悪しからず。。。

 今回の火災で、一番衝撃的だったのは、96メートルの尖塔が燃えて崩落してしまった場面でした。また、現地からの報道によると、この尖塔は「木製」で、19世紀にできたものだというのです。てっきり、中世からあるものと思っていました。19世紀ということは、恐らく、1830年の七月革命か、1848年の二月革命の際に、ノートルダム大聖堂が襲撃されて一部破壊された後に修復された時に造られたのでしょう。(細かい報道がなかったので、勝手な忖度ですが)

 今回は、ルイ・ヴィトンさんを始め、フランスの大金持ちさんが超多額の寄付をされ、マクロン仏大統領も5年以内での修復・復活を宣言されておりました。

 いずれにせよ、修復前の2007年の時点の貴重なノートルダム大聖堂内部の写真を送ってくださった松岡氏には感謝申し上げます。

  Tous les photos Copyright par Duc de Sousoumou Matsuoqua

 

 

オリンピックは五輪貴族のため?

 不労所得がガッポリ入る五輪貴族のための祭典、東京オリンピック・パラリンピックが来年に迫り、競技日程やら、チケット販売やらの細目が発表され出しました。 

 大手マスコミはスポンサーになってインサイダーなっているので、全く批判せず、「よかった」「おめでたい」「素晴らしい」の称賛一色ですから、一人ぐらい屁理屈を言うつむじ曲がりがいてもいいことでしょう。

 まあ、大方予想はついておりましたが、「オリンピック大会の華」と言えば、何と言っても、陸上競技です。それは、古代オリムピック大会からそう決まってます。その陸上競技の中の花形中の花形が、男子100メートル決勝です。それが、国際陸連の発表によると、8月2日午後9時50分にスタートだとは、驚きですねえ。勝負は10秒以内に終わってしまいますが、何でこんな遅い時間なんでしょうか。お爺さんはもう寝る時間です。

 2016年リオデジャネイロ五輪で日本が銀メダルを獲得した男子400メートルリレー決勝は、8月7日午後10時50分に開始。男子200メートル決勝は8月5日午後9時55分。女子100メートル決勝は1日午後9時50分スタート。じぇーんぶ、寝る時間じゃないすか。恐らく、高額の放送権料を支払っている欧米のテレビ局のゴールデンアワーに合わせたのでしょう。

 ちなみに、日本の午後9時50分は、米東海岸では午前8時50分です。うーん、ちょうど良い時間帯です。でも、逆でしょう?

 陸上のもう一つの花形、男子マラソンは、8月9日(日)午前6時に号砲。早(はや)!でも、これは分かります。日本の夏は、40度と殺人的な暑さで、しかも、卒倒するほど湿度たっぷりです。早朝の号砲は、日本が初参加した1912年のストックホルム五輪大会で、金栗四三が出場したマラソン大会のように死者が出かねないからでした。でも、何か変。

メダルが期待される柔道の決勝(7月25日~8月1日)は、男女とも午後5時から7時40分です。
 夜に試合をするんですか? 何で、こんな変な時間帯に決勝をやらされるんでしょうか。 このように、もし、欧米列強の時間帯に合わせているとしたら、日本開催なんか意味ないし、これじゃあ、まるで植民地ですよ。

 そもそも、真夏の一番ピークの殺人的猛暑が続く期間に何で選んで開催するんでしょうか。前回の1964年東京五輪の開会式は10月10日。まだ良心的でした。「スポーツの秋」で、身体を動かすのに1年でも最も適した季節です。

 2020年東京五輪大会を秋の絶好のシーズンに開催できないのは、単に、米大リーグ野球やらプロバスケット、欧州のプロサッカー、ゴルフなどがシーズン真っ盛りだからなんでしょう。

 こんなこと、誰でも分かりきっているのに、誰も批判しない。マスコミも批判しない。やはり、オリンピックは、五輪貴族と関連業者のための祭典と言わざるを得ませんね。

嗚呼、ノートルダム大聖堂の大火災

4月15日夜から16日未明にかけて起きたパリのノートルダム大聖堂の大火災。まだ、原因が分かっておりませんが、唖然、呆然としてしまいました。

ノートルダム大聖堂は、1163年に着工され、182年間かけて建設が続けられて1354年に完成。ゴシック建築を代表するもので、世界遺産に登録されていることは皆さま御案内の通りです。

2014年3月に訪れた時のノートルダム大聖堂。この時、長蛇の列だったので、内部に入らず、惜しいことをしてしまった。ステンドグラスは無事だったのかしら?

 訪れる観光客は、何と年間1200万人だとか。私も以前に2~3回、足を運んだことがありますが、まさか、燃えちゃうなんて思いも寄りませんでしたね。正面のファサードは石造りですが、内部や屋根は複雑な木造構造だったようで、96メートルの尖塔が燃えて崩落してしまう様子をテレビで見ましたが、呆然としてしまいました。

 私がフランスに派遣している秘密特派員からの情報によると、ノートルダム大聖堂には、聖ルイ(ルイ9世)が十字軍で持ち帰った聖遺物「キリストの茨の冠」 La couronne d’épines やイエスを磔にする際使われた釘(といわれるもの)などが安置されていましたが、無事保護されたといいます。屋上の12の像も修復工事のため運良く取り外されていたようです。これらは、一時的にパリ市庁舎に避難しているようで、いずれ詳細は明らかになるでしょう。

 ただ驚くことに、フランスでは歴史建造物の修復工事中の火事は、実は多いそうです。フランス人は、日本人ほど作業が慎重でないこともあり、今回の場合も、テロや事件ではなく、作業員のミスの可能性が高いようです。(その場合は、原因究明と再発防止に努め、個人的な犯人探しはやめた方がいいと思います)

 ノートルダム大聖堂は、今年856歳ですが、よくぞ第1次、第2次の両世界大戦でも破壊されず、戦災を逃れてきたものです。しかし、実は、1789年のフランス革命や、1830年の七月革命などではかなり破壊され、荒廃してしまったといいます。

 フランス革命では、ノートルダム大聖堂だけでなく、フランス全土に及び、教会や修道院が破壊尽くされた事実は、案外知られていません。教会や司祭はアンシャンレジームの支配階級の一角だったため、革命勢力の格好の標的になったのです。日本でも明治維新で、「廃仏毀釈」というとんでもないことが起きましたが、単なる維新ではなく、薩長土肥の若者による暴力革命だったことが分かります。

 七月革命で荒廃した大聖堂を嘆いたヴィクトル・ユーゴが、不朽の名作「ノートルダム・ド・パリ」(1831年)を書くきっかけになったことは、知る人ぞ知る逸話ですね。

 ノートルダム大聖堂火災は、日本で言えば、法隆寺や東大寺、または伊勢神宮が火災に遭うようなものです。フランスだけでなく人類の世界遺産ですから、心から御見舞い申し上げます。