真言宗の沿革、空海~観賢~叡尊~覚鑁上人のこと

「出版不況」が囁かれている中、今、一番元気を出しているのが京都市山科区に本社を構えるミネルヴァ書房かもしれません。

 その出版社が本日の朝日新聞朝刊に「ミネルヴァ日本評伝選」通巻200冊の全面広告を2面ぶち抜いて出しておりました。相当な広告費をかけてますね。卑弥呼から力道山まであります。フムフムと眺めていたら、あれっ?空海さんがない!ということが分かりました。宗教家として道元や親鸞、日蓮らは入ってましたが、法然さえ取り上げていません。あまり知られていない金沢庄三郎らは取り上げていますから、解せないなあ、と思いました。

 私は、いかなる特定の宗教団体にもカルト集団にも(笑)、入っておりませんが、日本の文学や絵画、彫刻、文化、思想には仏教は欠かせないと思っています。となると、宗派の開祖と言われる最澄、空海をはじめ、法然から隠元に至るまでは最小限必要ではないでしょうか。これから出るかもしれませんが。

高野山

何度も書くようですが、この夏に初めて高野山を参拝して真言宗や空海(774~835年)についてはさらに興味を持ちました。専門書を読めばいいのでしょうが、私は俗人ですから、経典そのものよりも、もっとジャーナリスティックな人間関係や逸話の方に興味があるので困ったものです。

 そういった種類の情報は、今では専門書よりもネット上に多く溢れているので大変助かります。ただし、気を付けないと、とんでもないフェイクニュースめいたものがあるので面食らってしまいます。例えば、「空海は男色の開祖だった」とか、「最澄と空海は弟子を奪い合って三角関係になっていた」といった類です。まあ、1200年以上も昔なので、真相は不明ですが、出典も不明なので、「ネットは何でもありの世界」だということを肝に銘じなければなりません。

 ジャーナリスティックな話ですが、真言宗を調べていて分かったことは、空海入定後、弟子たちがさまざまな分派を起こしたため、今では50以上もの宗派があることでした。その中でも「主要16派18本山」は主流になっていました。この18本山の中で、個人的に驚いたのが奈良県の西大寺です。もともと、称徳天皇が、父君の聖武天皇が創建した東大寺にあやかって創建した律宗の寺院でしたが、奈良から京都に遷都されてから荒廃して無住となってしまったというのです。その西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが叡尊上人(1201~1290)です。若き頃、醍醐寺で密教を修行したことから、西大寺も律宗と真言宗が混合したような独特の宗派となり、今では真言律宗といわれているそうですね。奥が深いです。

 とにかく、真言宗には50以上の分派があるそうですから、開祖の空海も驚くことでしょう。

高野山 根本伽藍

 このように、ネット上にある真言宗関係を印刷してバインダーに閉じてみたら、とうとう1冊の本になってしまいました。これで、少し分かったことは、(相変わらずジャーナリスティックな話ですが)作家高村薫氏が著書「空海」で書いてあった通り、空海入定後、70年ほどで高野山は、伽藍が落雷や火災などで消失し、国司が土地からの収益を横領するなどして荒廃し、無住になってしまったようです。

 その荒廃の無住状態から復興させたのが、空海の十大弟子の一人真雅のそのまた弟子の観賢(854~925年)です。東寺長者と金剛峰寺座主を兼ねた観賢は醍醐天皇に空海に大師号をおくって頂けるよう上表します。その願いが叶ったのが921年(延喜21年)で、空海が入定されて86年後のことでした。弘法大師です。今では大師と言えば、弘法大師のことだと思われていますが、浄土宗の開祖法然ともなると、大師号は、1697年(元禄10年)の円光大師に始まり、800回忌に当たる2011年の法爾(ほうに)大師まで8回もおくられています。ちなみに、天台宗の開祖最澄が、伝教大師の諡号を清和天皇よりおくられたのは、866年(貞観8年)、最澄入滅から44年後でした。

 弘法大師ほどの万能の天才でも跡を引き継ぐ弟子が優秀でなければ教義も寺院も絶えてしまうことが真言宗の歴史を読み込むと分かります。その断絶寸前と分裂の危機の中に現れたのが覚鑁(かくばん)上人(1095~1144年) 興教大師です。この人は宗派によって色んな書き方をされていますが、真言宗の中興の祖といって間違いないようです。(高野山では現地ガイドさんから「覚鑁上人は、高野豆腐を発明した僧侶」と説明されましたが、どうも違うようです)

 覚鑁上人は、空海が入定して約300年後に高野山の金剛峰寺の座主となり、弘法大師の遺志を復興しようとしますが、高野山の守旧派からの反発と妬みなどを買い、紛争を解決するには自分の身を引くしかないと考え、1141年頃、弟子たちとともに根来山に移ります。その2年後の1143年に49年の短い生涯を終えますが、興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れを古義真言宗というのに対して、興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗(智山派、豊山派なども)といいます。

 真言宗では「南無大師遍照金剛」(遍照金剛とは、空海が恵果和尚から頂いた灌頂名)と唱えますが、新義真言宗では「南無大師遍照金剛 南無興教大師」と唱えるそうです。

 このような話は専門家から見れば当たり前過ぎて表層的ですが、自分自身、ちょっと頭の整理をしてみたかったのです。また、茲では書き込めませんでしたが、力を持った高野山や根来山は信長、秀吉らの格好の標的となったり、真言宗にはこのほか多くの名僧、智僧、怪僧がいたりしたことを付け加えておきます。