この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」

(8月4日のつづき)

 エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を先日読了しましたが、仕事が忙しくてなかなか書く時間が取れませんでした。本当です(笑)。

 前回も書きましたが、この本は、著者が米ハーバード大学に提出した博士号論文を基に書籍化したものです。となると、執筆したのは年齢を逆算すると著者28歳ぐらいのときです。読了して、第一の感想は「よくぞ、20代の若さでこれほどの内容をまとめ上げたものだ」と、世界的にも歴史的にも、著者の筆力というか力量というか、非凡なる才能に感服したことです。著者は日系米国人と思われますが、異国の政治状況の歴史をこれほどまで適格に分析し、「政治と暴力」をテーマを最後まで諦めることなく追跡して、読者の蒙を啓かせてくれたことに関しては、日本人の一人として感謝したいぐらいです。是非、多くの心ある人には読んで頂きたいです。

 色々と書きたいのですが、戦後のフィクサーとして活躍した笹川良一(1899~1995)と児玉誉士夫(1911~1984)の両巨頭と、安倍晋三現首相の祖父に当たる岸信介首相(当時)や大野伴睦衆院議長(同)らとの濃密関係等について、CIAの個人ファイルを参照しながら、著者はかなりの紙数を費やしていますが、ほとんど知られていることで、私も何度かこのブログに書いたことがあるので省略します。そこで、主に、私の知らなかったことを茲では敢て書いておきます。

院外団の登場

 明治末になると、帝国議会も開設され政党も力を付けてきたので、演説を暴力で妨害する壮士に代わって「院外団」なるものが形成されます。議員ではなく、暴力団組員や右翼が多かったのですが、若い野心家の学生たちも群がって来ました。その一人が、戦後、自民党副総裁も務めた大野伴睦です。当時、彼は明治大学の学生で、政友会の院外団で政治活動を始めます。これに対抗する憲政会は、院外団の中に早稲田大学の学生が付きます。東京専門学校=早稲田大学を創設した大隈重信は改進党を設立し、その流れで憲政会になるわけですからね。大学ラグビーの伝統戦、早明戦より、政治の世界でいち早く戦いの火ぶたが切られていたとは…(笑)。明治大学出身の政治家には、三木武夫、村山富市の両元首相を始め、松岡洋右、佐藤孝行、山口敏夫、萩生田光一、早稲田出身の政治家は、竹下登、森喜朗両元首相をはじめ、朝日新聞出身の河野一郎と橋本登美三郎や、三木武吉、岸田文雄ら数多。東京大学は例外ですが、極めて政治に近い大学だったんですね。

大日本国粋会と大日本正義団

 次に、大正末から二つの主要国家主義団体が活動を活発化していきます。大日本国粋会と大日本正義団です。この両者は「明らかにヤクザ集団だった」と著者は結論付けています。

 国粋会は1919年10月、政友会の内相床次竹二郎(とこなみ・たけじろう=薩摩藩士出身)とヤクザの親分との協働で結成した組織(と著者は書いています)。1930年代の初めは、全国90の支部に増え、会員総数は20万人に達したと言われます。八幡製鉄所争議、野田醤油争議など多くの労働争議の鎮圧で威力を発揮します。

 正義団は1922年1月、酒井栄蔵というヤクザの親分によって設立。32年には、全国106カ所に支部があり、東京本部が7万人、大阪本部が3万5000人いたとされます。酒井は「東洋のムッソリーニ」と呼ばれ、実際、25年にはムッソリーニと会談しています。正義団も、大阪市電や東洋モスリンなどの争議を暴力で鎮圧する役割を果たします。

 正直、私自身は、国粋会も正義団もよく知りませんでした。明治以来の右翼組織を詳細に分析した立花隆の名著「天皇と東大」にさえもあまり取り上げられていなかったからです(うろ覚えの記憶ですが)。両組織とも国家主義的イデオロギーに根付いており、労働者と左翼に対して攻撃的であるという意味でイタリア・ファシストの黒シャツ隊やドイツ・ナチスの突撃隊とよく似ていた、と著者はいいます。ただし、シチリア発祥のマフィアは、反ファシストで、ムッソリーニはシチリアでの実権を握るため、マフィアを「犯罪集団」として徹底的に弾圧したことから、マフィアと国粋会・正義団とは異質なものだという見方を著者はしています。冷酷残忍な殺人集団と言われたマフィアは実は、反体制派の反ファシストだったというのなら今までのイメージが少し変わります。

 国粋会・正義団の主力メンバーは政治家、軍人、右翼活動家のほかに建設業経営者が多かったことから、ストライキを鎮圧しますが、被差別部落解放を目的とする社会主義的傾向を持った「水平社」までも標的にします(水国事件)。組織幹部の建設業経営者が彼らを労働者として雇う立場にあり、敵対する水平社の活動家が力を持つことを恐れたからだろうという著者の分析には納得しました。

 国粋会・正義団は、今から見れば眉をひそめたくなるほどの異様な暴力集団なのですが、ロシア革命後の世相の中、共産主義革命を恐れる当時は、広く国民に受け入れられたようです。驚いたことに、台湾総督府民政長官や満鉄総裁、東京市長などを歴任し、後世からも偉人として尊崇の念で語られるあの後藤新平が、国粋会の二代目総裁になることを希望していたといいますからね。信じられません。また、国粋会は「大アジア主義」で満洲事変が起きた翌月の1931年10月には「満洲国粋会」が創設されたという記録が残っているようです。

戦後、右翼団体の復活

 話は飛んで、1945年8月の日本の敗戦により、これらの右翼団体は解散させられますが、米軍の占領が終わった1954年、関東国粋会の梅津勘兵衛と木村篤太郎元法相は協働して博徒とテキ屋をまとめて「護国団」を結成します。1959年には、この護国団と国粋会を含む10を超える右翼団体が集まって「全日本愛国者団体協議会」を結成します。その幹部の顔ぶれは、1930年に浜口雄幸首相暗殺を企て、死刑宣告されるも1940年に釈放された佐郷屋留雄、1932年の血盟団事件の首謀者井上日召、1939年に政友会の中島知久平総裁狙撃を企てた三浦義一(あの室町将軍です)、1932年の五.一五事件で重要な役割を果たした橘孝三郎(評論家立花隆=本名橘隆志の親戚)らがいたといいます。これでは、まさに戦前の復活ですね。政治風土は「時間続き」で全く変わっていないと見るべきかもしれませんが。

 1959年6月には、護国団と松葉会(戦前は博徒らを含む土建業で出発し、戦後は浅草などの闇市を仕切っていた「関根組」が起こした政治団体、現指定暴力団)を含む右翼16団体からもう一つの右翼組織である「愛国者懇談会」が結成されます。いずれの右翼組織も、翌1960年の三池炭鉱労働争議や安保闘争などで、警察と一緒になって暴力鎮圧の要として活躍するわけです。

 かなり念入りに調べ上げた著書だと思います。繰り返しになりますが、こういう歴史的事実があったのだ、と多くの心ある人には読んでもらいたいと思います。

(一部敬称略)

アベノマスクは失政のシンボルではないか

 アベノマスクは結局、失敗だったんじゃないでしょうか。電車の中でも街中でも、アベノマスクをしている人は一人も見たことはありません。

 小さくてダサいので、私も付ける気がしません。

 安倍政権はそれでも懲りずに8000万枚ものアベノマスクを追加配布しようとしましたが、さすがに世論の猛反対に遭い、今のところ、提案を引っ込めているようです。

 アベノマスクの原資は国民の税金ですからね。どれくらいお金を無駄に使ったことか。総額260億円(マスク調達184億円、配送費など76億円)と菅官房長官は6月に明かしてましたが、となると、マスク代は、184億円÷1.3億人≒141円ですか。あんなマスクで結構しますね。失敗、失策というより、はっきり言って、失政ですね。アベノマスクなんかより、医療従事者の手当や休業補償に回すべきでした。

 何と言っても、張本人の安倍首相が「もうアベノマスクやーめた」とかなぐり捨てて、大型の見栄えが良いマスクに鞍替えしたことです。「そして誰もいなくなった」現象です。これで、「真摯に反省し、責任を痛感している」と言うのは単なる口先だけのことだったことが分かります。

 個人的には、このブログにも書きましたが、5月に50枚入りマスクを3300円で買いました。計算すると、1枚66円ですか。

 先日は、暑くなったので、欲しいと思っていた、涼しいと評判のユニクロのエアリズムマスクがようやく買えて、昨日着用してみました。Lサイズでしたが、ちっちゃーい。だから、息苦しくて死にそうになりました(笑)。耳んとこも痛くなるほどキツキツです。3枚で1089円でしたから、1枚363円。恐らく、洗って何回か使えば、味が出てくるのかもしれませんが…。

 ユニクロが駄目なら、また紙(?)の使い捨てマスクに逆戻りです。「第2波」が既に来ているのか、もうすぐやって来るのか分かりませんが、マスクは確実に必需品となるであろうから、です。そこで、昨晩、ネットで買い求めてみたら、何と100枚で1375円の代物が見つかりました。で、買いました。1枚当たり13.75円ですか。5月は1枚66円でしたから、あれから、およそ5分の1の値段に下がってます。

 「えー、何でやねん!?」と突っ込みたくなりましたが、経済の縮図を垣間見た感じでした。ここ3カ月、電気屋さんもメガネ屋さんもファストファッション業界もマスクの量産に参入したおかげで、品揃えも増え、価格が下落したのです。「世の中、こんな風にして動いているのかあ…」。

 あ、感激している場合じゃありませんよね。アベノマスクは失政です。安倍首相はじめ、政治家には責任を取ってもらいたいです。と、書いても、所詮、犬の遠吠えですね。モリカケ、桜を見る会であれだけ批判されても、彼は馬耳東風で、他人事ですから、痛くも痒くもないでしょう。

 マスクのことばかりに気を取られていたら、昨日、大阪の吉村府知事が「ポピドンヨードのうがい薬がコロナに効く」と喧伝したおかげで、早速、昨夕からうがい薬の売り切れ店が続出したそうです。これをワイドショーが取り上げて増幅させるものですから、市民はもうパニック状態です。

 嗚呼、日本人よ。我らの愛しき国民よ…。

エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

【追記】

 続編は2020年8月8日付「この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』」です。

 

 

新発見の松永弾正久永像から悪逆非道説は否定?

He who hath many friends hath none. – Aristotle 

感染拡大が止まりませんね。

 週末はいつもだと、映画館か博物館に行くか、城巡り、寺社仏閣巡りに勤(いそ)しんでおりましたが、一気に自粛ムードが広がり二の足を踏んでいます。

 もう一つの大きな要因は週末になると朝寝坊してしまうことです(笑)。1日9時間ぐらい寝てもまだ足りず、さらにまたお昼寝をしたりするので、一日の半分は寝て過ごすことになります。週日は労働に励んでいますからね。人生の半分を損している感じですが、「一日5時間睡眠で十分」と豪語している人が信じられません。羨ましい限りです。ま、この長い睡眠のお蔭で免疫力が付いていると考えるようにしております。

 家に閉じこもってばかりいられないので、自宅近くを散歩します。門構えも立派で、かなりの超豪邸も散見します。表札を見ると、「星野」「石田」「山崎」…。古くからの庄屋か大地主だったことでしょう。

 小学校のような広大な庭があり、でも、学校には見えない建物の正面に回って確かめてみたら、それが児童相談所だということが分かったこともあります。いわゆる、よくニュースで話題になる「児相」です。こんな所にあったのか、と新発見した気分でした。

 かと思えば、周囲が鉄条網に物々しく囲まれた広大な敷地に、今は廃墟になっている建物があります。門には、看板も表札もありません。「何の建物だろう?」と前々から気になっていたのですが、周囲の人に聞くこともできません。もしかしたら、秘密組織かもしれません。

 それがやっと分かったのです。警察の科学捜査研究所だったのです。いわゆる「科捜研」です。テレビドラマにもなってますね。私はその番組は一度も見たことはありませんけど。科捜研は現在、他に場所に移転しているようです。それでも、依然として警察の敷地らしく、奥の方に機動隊の装甲車みたいな車が十数台駐車していました。

 外部から侵入されないよう高い塀に囲まれた三階建ての瀟洒な集合住宅が3棟ありますが、門には何も名称が書いていません。大抵は「〇〇団地」とか「〇〇マンション」とか書いてあるものです。何か怪しい…。これも前から気になっていたのですが、暇に任せて調べてみたら分かりました。国税庁の職員官舎だったのです。これで、国家公務員の宿舎は周囲を憚って看板を付けず、分からないようにしているということが分かりました。

 そう言えば、江戸時代の武家屋敷も「尾張藩上屋敷」などと門に書くわけがありません。屋敷の所在地は超機密事項の一つですからね。それにしても、徳川幕府は地方の大名を改易したり、移封したり、減封したりしていますから、屋敷も色々と替えたりしていたことでしょう。秘密の文書(もんじょ)に書き留めておいたことでしょうが、幕府官僚も整理するのが大変だったことでしょう。

 と、まあ、今日はつまらないことを書きましたが、ブログを書く話題がこれぐらいなのでご勘弁下さい。

話は変わって、ついでと言っては何なんですが、最近、松永弾正久秀(1510~77)が歴史的に見直されているんですね。テレビの再放送で見ました。(とは言っても、最近のテレビは再放送ばかりですが)書物も多く出版されています。

 私が学校で習った松永久秀と言えば、東大寺を焼き討ちにするは、主君に歯向かうは、で悪の権化、下剋上、極悪非道のイメージの塊でした。風貌も鬼のような髪の毛ボサボサで歯を剥き出しにした姿が描かれていました。

 しかし、それは江戸時代につくられたイメージで、実際は、主君三好長慶に忠実な家老格で、長慶病死後は、17歳の長慶の甥の義継の後見役となって、三好家のために戦い、大和の多聞城を根城にします。最後は三好家のために織田信長に反旗を翻して、信貴山城で自害した忠君の戦国武将と見直され始めました。

 しかも、松永弾正の肖像画も最近、新発見されました。今年3月5日付の産経新聞によると、東京都内の古美術商が所有していた肖像画を大阪府高槻市が昨年1月に購入し、鑑定を続け、絵の上部には松永弾正の命日と戒名が記されていたことから本物と断定されました。新発見の肖像画では、松永は唇が厚く、しかも前歯が出たどこか愛嬌のある顔立ちです。とても、悪逆非道の武将には見えません。膝元には茶道具をしまう袋が描かれ、久秀が所有し、織田信長に献上したということで有名な茶入「付藻茄子(つくもなす)」(静嘉堂文庫美術館蔵)か「平蜘蛛(ひらぐも)」の釜を収めていると推定されるといいいます。(著作権の関係で茲に肖像画の写真を掲載できないのが残念です)

 こうして見ると、歴史的評価というのは時代、時代によって変わっていくものかもしれませんね。