ツイッター創業者と無名の若者が起業したネット企業

銀座「ローマイヤー」 豚バラ肉と野菜のコンソメ煮 スープ、珈琲付き1100円

ツイッターの4人の創業者

 エヴァン・”エブ”・ウイリアムズEvan Williams、クリストファー・”ビズ”・ストーンChristopher Stone、ジャック・ドーシ―Jack Dorsey、ノア・グラスーNoah Glass。この4人の米国人の名前を知っている日本人は、ネットsavvyですね。IT関連の関係者なら知らない人はいない常識なんでしょうけど、少なくとも、門外漢の私は知りませんでした。彼ら4人は、今でも何かと話題になっているツイッターの創業者なんだそうです。

 特に、天才プログラマーの”エブ”は、世界で初めてブログを作成して管理するアプリ「ブロガー」を開発して、世界中にブログを広めた功績者だといいます。私も毎日、こうしてブログを書いているのに、フェイスブック創業者のザッカ―バーグCEOは知っていましたが、エブさんのことを全く知らず、大変失礼致しました。

 エブは、前述の3人ととともに、ツイッターを開発し、CEOに就きますが、ジャック・ドーシ―との確執からお互いに追放したり、追放されたりして、現在はジャックがツイッター社のCEOです。エブの方は、Medium という双方向性メディアサイトを運営しているようです。

「ネット興亡記」読了

杉本貴司著「ネット興亡記」(日本経済新聞出版社)をやっと読了しました。1週間近くかかったかもしれません。757ページの大作だったとはいえ、視力も落ち、読書力(速度、吸収度、記憶)も劣化しましたね。

 私が30歳代の頃は、月に30冊以上読んでいました。1日1冊のペースです。大半は、文藝記者として仕事として読んでいましたが、500ページぐらいの大作でも1日で読み切ってしまうのです。締切に間に合わないからです。その代わり、電車内は勿論、信号待ちでも、食事中でも、トイレの中でも、睡眠中とお風呂以外は、四六時中、本を読んでいました。当時はネットも発達しておらず、テレビは一切見ません。さすがに、半年ぐらいで心身ともにダウンしてしまいました。

 ある有名作家が、還暦を過ぎてもいまだに、「月に50冊読んでいる」と豪語しておりましたが、凄いなあと感心してしまいます。経験者だから分かります。恐らく、睡眠時間は3時間ぐらいじゃないでしょうか。

 私は、metallic years(gold in the tooth, silver in the hair and lead in the pants)になり、読んだことをすぐ忘れてしまう境地に達したので、この本の備忘録としてメモ書き致します。

「iモード」開発戦略チームに小山薫堂ら

・1997年、NTTドコモの「iモード」開発戦略チームに、NTTの「無線屋」栃木支店長・榎啓一がスカウトしたリクルート「とらばーゆ」の編集長などを務めた松永真理と、彼女が推薦したハイパーネット副社長の夏野剛のほかに、後にDeNAを創業する経営コンサル会社マッキンゼーの南場智子と、後に映画「おくりびと」の脚本でアカデミー賞を受賞する放送作家の小山薫堂らもいた。

楽天市場の開店時の出店はわずか13店

・興銀を辞めてクリムゾングループを起業した三木谷浩史が、慶大大学院生だった本城慎之介とともに創業したのが後の楽天で、創業メンバーには、京大大学院を出て「大学への数学」の東京出版にいた「すご腕のプログラマー」増田和悦(社員番号3)と、慶應SFC(湘南藤沢キャンパス)大学院出身の1期生、杉原章郎(同4)と小林正忠(同5.大日本印刷を退社)と、それに三木谷の妻・晴子(同6)がいた。(増田を三木谷に紹介した早大大学院生でいったんはNTTに入社した安武弘晃を7人目に入れる時も)1997年5月1日に楽天市場が開店した時に出店したのはわずか13店(そのうちの8店舗が三木谷の個人的コネで出店)だった。

起業家の梁山泊だった渋谷の「ネットエイジ」

・1998年2月、AOL日本法人にいた西川潔が渋谷に立ち上げた「ネットエイジ」は、渋谷の「ビットバレー」の拠点となり、無名の若者が集まる梁山泊になった。ここから、ミクシィを創業した笠原健治、コンプラを創業した千葉功太郎、グリー創業者の田中良和、メルカリを起業する山田進太郎、ヤフーのeコマースを手掛けた小澤隆生らが巣立った。小澤は、ネットエイジが主催する飲み会で、青学大生で電脳隊を創業していた川邉健太郎と知り合い、後に川邉がヤフーのCEOに、小澤はヤフーのCOOとなる。また、ネットエイジの共同創業者の一人になったNTTの社員だった西野伸一郎は、後に、農水省官僚からリクルートなどに転身した岡村勝弘と一緒に渡米し、アマゾンのジェフ・ベゾフに直談判し、2000年11月に、ソフトバンクの孫正義に先んじてアマゾン日本法人の設立に成功した。

 以上、敬称略で、未完ながら、長くなるとまた釈正道師に怒られるので、この辺でやめておきます。

【追記】

 この記事は、いったん書いてアップしたのに、どういうわけか後半が消えていて、もう一度、書き直しました。5~6時間掛かったのではないでしょうか? 面倒臭い厄介な引用があると、消滅する傾向があります。もうネットもブログも嫌いだぁー。時間を返してほしい。

残念「京町しずく」は閉店、期間限定の「鮨処 写楽」=辻惟雄氏の「私の履歴書」は面白い

 コロナ禍がなくても、飲食店業界は浮き沈みが激しく、経営も厳しいと言われています。国が正式に調査したデータはありませんが、業界団体が調査したあるデータによると、飲食店の廃業率は1年後に30%、2年後に50%、10年後ともなると95%にもなるというのです。10年後に生き残っている店舗はわずか5%ということになります。

 このブログでも、ネタに行き詰まると、すぐグルメ情報を載せますが、先日、「これは良い!」と皆さんにもお薦めした東京・銀座の和食店「京町しずく」が昨年12月31日をもって閉店していたのです。完全個室の落ち着ける店で、値段も手頃だったので、先週、「折り入って話があります」という会社の後輩がいて、私自身は「終わった人」で何の力にもなれませんが、話を聞くことぐらいはできるので、2人でこの店に行ったら、閉店していました。「ガビ~ン」です。思わず、「聞いてないよ~」と叫んでしまいました。

 ということで、私が書くグルメ情報は、行く前に事前に確かめてからお出かけください。既に、閉店してしまっていることがあるからです。

 本日行ったランチは、銀座の「鮨処 写楽」です。期間限定ですが、今、えっ?こんなに安くていいの?というぐらい低価格で美味しいお寿司を提供してくれるのです。

 上の写真のランチの「牡丹」は、あとお椀付きで、1100円(税込)なのです。まあ、安くても銀座ですから1300~1500円はしますね。ですから、期間限定なので、期限が過ぎれば、それぐらいの価格になるかと思われます。(お店の人に聞いたら、キャンペーンは、最低でも、緊急事態宣言が出されている2月7日までは続けるそうです)

 話はこれで終わってしまうのも何なんで、話を変えますが、今、日経朝刊で連載中の美術史家・辻惟雄(つじ・のぶお)氏の「私の履歴書」は面白いですね。

 辻氏と言えば、近年新たな脚光を浴びている異能の絵師伊藤若冲の素晴らしさを早いうちから見抜いた先駆者としても知られています。その伊藤若冲らを取り上げた辻氏の出世作が、もう半世紀も昔の「奇想の系譜」(1970年初版)という本です。

 本日13日は、その「奇想の系譜」のことが取り上げられていて、その最初に登場するのが岩佐又兵衛というこれまた知る人ぞ知る異能の絵師です。私も5年ほど前の展覧会で彼の代表作「洛中洛外図屏風」(国宝、東博蔵)の実物を初めて目にして圧倒されたことを覚えています。「何で、こんな凄い絵師を知らなかったんだろう」と反省したぐらいです。

 この岩佐又兵衛は、摂津国伊丹の有岡城主、荒木村重の子息でした。荒木村重は織田信長に謀反を起こしたため、一族郎党皆殺しになったはずですが、岩佐又兵衛だけは当時まだ乳飲み子で、乳母に助けられて城を脱出し、石山本願寺に保護されたといいます。成人して紆余曲折の末、京都で絵師として活動しますが、師匠は村重の家臣の子息だった狩野内膳ら諸説あり、よく分かっていないようです。とにかく、最近、戦国時代にハマって、戦国武将を身近に感じていたので、岩佐又兵衛まで身近に感じてしまったわけです。

 ともあれ、辻惟雄氏のことでした。彼は1950年、岐阜高校から都立日比谷高校(旧制府立一中)に難関の編入試験を突破して入学しますが、同級生に江頭敦夫(後の評論家江藤淳)や大宅壮一の長男歩(あゆむ)氏(東大卒後、銀行員に。ラグビーで頭を怪我した後遺症に悩み、30代前半で亡くなったといいます)もいたというので、「へー、同級生だったのかあ」と驚いてしまいました。

 猛勉強の末、大学は、東大の医学部に進める学部に合格しますが、途中で、父親と同じ医者になる学業を諦め、以前から画家になりたかったこともあり、文学部美術史学科に「転向」するまでの話が今日の回まで書かれています。今後の展開が楽しみです。

IT起業家の人物相関図が分かる「ネット興亡記」

 極東日本列島では、毎日、Covid-19感染者が「過去最多」を更新しています。そこで、私は、このところ、書斎に引き籠って、古代や戦国時代や江戸時代にタイムスリップして、「現実逃避」しておりましたが、それだけではマズイので、たまには現代に返ることにしております。

 まさに、今読んでいる杉本貴司著「ネット興亡記」(日経BP、2020年8月25日初版)が現代そのものです。著者の杉本氏は1975年生まれ。京都大学修士号を持つ日本経済新聞社編集委員で、文章は読み易いのですが、多少、自己の文才に溺れた奇をてらった、勿体ぶった書き方をするので、数行読まないと意味が分からない箇所が散見されます。でも、100人以上にインタビューして書き上げたといいますから、登場人物の「告白」は熾烈で鮮烈です。本書に従って敬称を略しますが、楽天の三木谷浩史、動画配信U-NEXTの宇野康秀、「パチンコの釘師から這い上がった」ネットインフラGMOの熊谷正寿、ライブドアの堀江貴文、サイバーエージェントの藤田晋ら錚々たる名士が登場します。今では綺羅星の如く輝くネット業界の起業家とも風雲児とも言われたりする一方、「IT長者」とか「IT成り金」とか「ヒルズ族」とか揶揄された人物の一代記でもあります。

  彼らは1960年代~70年代生まれで、「ウインドウズ95」日本版が発売され、「インターネット時代」到来という大ブームを巻き起こした1995年以降に起業しています。(私もこの年に生まれて初めてパソコンMac bookを買い、ネットも始めました。当時は電話回線の呼び出しみたいなネットで、画像を出すだけで時間が掛かり、パソコン通信に毛が生えたようなものでした。IT業界は日進月歩の世界ですから、四半世紀=25年も経つと全くパラダイムが変わっていて、既に歴史になってしまっています。)彼らの全く無名時代から筆を起こしているので、「人物相関図」がよーく分かり、意外にも、というか、私だけが知らなかったのでしょうが、ほぼ全員お互いに面識があり、盟友だったり、師弟関係だったり、憎きライバルだったりします。そして、一見華やかな世界に見られながら、裏切りあり、抜け駆け、出し抜きあり、破産倒産、再起あり、中には自殺未遂やホリエモンのように塀の中に収監されたりで、一様に若くしてとてつもない波乱万丈の戦国時代みたいな生涯を送っています。

 そうなのです。コンピューターは「0」と「1」の世界で、勝ち負けがはっきりしている世界なので、その覇権争いは、刀剣や弓矢は使わなくてとも生死を賭けた戦国時代とそう変わりません。名を残した一人の勝者の陰に何百万人もの敗れて業界を立ち去った無名の人々がいるわけです。運があったのか、才覚があったのか、分かりませんが、成功者は、どん底に突き落とされた時も「最後まで諦めなかった」というのが共通しています。ネット業界のキーパースンの群像に焦点を当てたこれ以上の書物はないと思われるので、もはやこの本は「ネット興亡記」というより、「ネット興亡史」と言っても良いかもしれません。

 何故なら、ネット業界人だけでなく、あの「物言う株主」”村上ファンド”の村上世彰や元弁護士で経営コンサルタントの井上智治(楽天によるDLJ証券買収、タカラとトミーの合併、USENのエイベックスへの出資など手掛ける)ら、知る人ぞ知る多士済々の人物も登場し、物語に彩りを添えているからです。

 何しろ757ページの百科事典のような大著ですから、この本の内容を一言ではとても言えません。現代日本人は、生活の上でグーグルやアマゾンやLINEやヤフーなどを日頃、当たり前のように使っていますが、その陰にどんな「物語」があったのか、私を含めてほとんど知りません。それがこの本にはバッチリ書いてあるんですよ。

本文とは関係ない現代の風物詩

 一橋大学を卒業し、日本興業銀行時代に米ハーバード大でMBAを取得してエリート街道を進みながら、興銀を退職してネット通販「楽天」を起業した三木谷氏の動機の一つが、1995年の阪神・淡路大震災で叔母夫婦を亡くしたことがあったことも初めて知りました。

 もう一つ、LINEは、韓国の検索エンジン最大手のNAVERが、米グーグルに対抗するために、ネット検索しても出て来ない人間関係をつなぐメディアをつくったという話です。つまり逆転の発想で「検索会社が検索を棄てて」初めて、とても太刀打ちできない巨大ガリバー企業グーグルに打ち勝つことができたというのです。その立役者の中には、1990年から来日してゲーム会社の日本法人代表になって人脈を広げた千良鉉(チョン・ヤンヒョン)や開発の総責任者・慎重扈(シン・ジュンホ)のほかに、ソニーから転職した森川亮、中国最大手検索会社、百度の日本法人元幹部で、「LINEの軍師」と呼ばれた舛田淳、ライブドア事件で壊滅状態だった会社を復興して社長になった出澤剛らライブドア残党組も「合流」してLINE開発を担当していたことまでは知りませんでした。

 とにかく、IT業界、ネット社会といっても、無機的ではなく、とても人間臭い凄まじい世界です。最初にちょっと嫌味を書いてしまいましたが、そんな魑魅魍魎の世界を活写したこの本が面白くないわけがありません。この本の主人公を一人挙げるとしたら、リクルートを退社して人材紹介・派遣会社インテリジェンスを仲間と創立し、父親が創業した大阪有線を再起させた(その後買収され、再び買い戻した)動画配信U-NEXTの会長・宇野康秀氏かもしれませんが、これ以上書くと長くなるので、ブーイングが聞こえてきそうです(笑)。

 ということで、宣伝ではありませんが、この本の一読をお薦め致します。今のネット社会の原点が分かり、視野が広がると思います。

 

「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

大王の外戚、葛城氏と和邇氏は意外と知られていない

群馬県高崎市の保渡田古墳群 Copyright par O,T

 週刊朝日ムック「歴史道」の「古代史の謎を解き明かす!」を読了しました。この本については、既に色々書きましたが、最後に一つだけ備忘録のため、付け加えておきたいと存じます。

 倭王権(大和朝廷)の大王が、たった一人で強大な権力を獲得して独裁的な政治を行っていたと考えるのは誤りで、地方豪族と協同の連合王国みたいなものだったことがよく分かりました。何と言っても、後の江戸時代の参勤交代のような上番制度(地方豪族が上京して当番勤務に就くこと)があったことを知ったのは大収穫でした。以前にも書きましたが、地方豪族の人身管理と、彼らの勢力を削ぐことが目的だったのでしょう。

 日本史を見ると、どうも一人の独裁者が莫大な権力を振るっていたというのは、藤原道長や平清盛や織田信長や豊臣秀吉らを除けば例外で、天皇は、独裁者とは言い難いのです。何しろ、大王から初めて天皇の呼称を使うようになった天武天皇から大臣、大連ら数人の有力豪族らによる「合議制」になったので、天皇一人だけで物事を決められなかったようです。(勿論、巨大な古墳を作るほど大王に権力が集中していたことは確かですが)

 平安時代になると、天皇以上に権力を振るうようになったのは摂関家の藤原家で、段々、天皇はお飾りのような存在になっていくことは皆様もご案内の通りですが、それ以前にもっと古代から外戚関係の有力豪族が権力を振るっていたんですね。

 藤原氏の前は、蘇我氏であることは教科書にも出てくるのでよく知られていますが、その前に葛城(かずらき)氏がいて、5世紀に葛城襲津彦(おつひこ)が大王家の外戚として大きな力を持ち、その娘の磐之媛(いわのひめ)は、大王仁徳の正妻となり、履中、反正、允恭の3人の大王を生みます。しかし、5世紀後半の大王雄略の御世に、葛城円(つぶら)が大王安康を暗殺した眉輪王(まゆわのおおきみ)を匿ったかどで焼き殺されて、これを機に葛城氏は没落します。とはいえ、その後に大王以上の権力を振るった蘇我氏は、実は葛城氏から分立した氏族だったいう説が近年注目されているというのです。

 蘇我氏本家は乙巳の変で滅亡しますが、分家の蘇我石川麻呂の子孫は石川氏と改名して後代にも残ります。また、藤原氏の祖である中臣鎌足の嫡男藤原不比等の正妻娼子(しょうし)は蘇我馬子の曾孫に当たり、2人の子息房前の子孫から摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が出ています。

 となると、何らかの形で、葛城氏の血統は、蘇我氏、藤原氏を経て、少なからず、ずーと続いてきたことになりませんか?

 私も知らなかったのですが、葛城氏と並んで大王と外戚関係を結んでいた豪族に和珥(和邇、丸邇=わに)氏がいます。5世紀から6世紀後半にかけて、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達の7大王に対して、9人の后妃を入れたといいます。和邇氏は後に北方の春日に拠点を移して、姓を春日と改めたといいます。

 大王家が続くためには子孫が必要で、そのためには女性の外戚が必要なのは当然な話ですが、古代の研究には、大王家だけでなく、葛城氏や和邇氏などの豪族の知識も必要なことがよく分かりました。

築地「魚河岸三代目 千秋」の「おすすめ丼」のお薦め

 昨日は、行きつけのランチの店、築地の「魚河岸三代目 千秋」に行き、いつもの「おすすめ丼」を食して、帰ろうとしたら、上の写真の「お年賀」を頂いてしまいました。

 手ぬぐいか何かかなあ、と思ったら、中身は焼きのりでした。でも、こんな気が利くお店は初めてです。夜の馴染み客なら分かりますが、私はランチしか行ったことがありませんからね。

 この店は知る人ぞ知る店で、わずか11席しかない狭い店なので、いつも超満員です。いや、知る人ぞ知る店ではなく、漫画「魚河岸三代目」か何かのモデルになった人気店らしいのです。私は漫画は読まないので、よく分かりませんが、店内にそれらしき漫画が置いてありました。

 ここは、恐らく、築地で、いや、東京で、いや、関東で、いや東日本で、いや日本で一番美味しくて安い海鮮丼を出す店だと思います。3~4年前に会社の同僚から教えてもらい、月に数回行くほど気に入っています。

 でも、この店の角刈りの大将(主人や店長というより、大将が一番相応しい)が、いつもテンパっている感じで、威勢が良いというべきでしょうが、ちょっと怖いところがあり、店が満員だと、「ちょっと外で待っててください」と怒られるし、コロナ禍の前は、席の間隔を空けて座ると、「順番に詰めてお座りください」と怒られたりしました。そこで、我々は、この店に行くとき、「今日は『緊張丼』に行くか」といった符丁を使ったりするのでした。(本人は怒っていない、と思いますが、この店に行くには覚悟がいります)

 繰り返しますが、大将の腕は確かで、お味はピカイチです。ここの海鮮丼を食べたら、他の店では食べられないくらいです。お吸い物も、大将は出すときに、いつも「熱いのでお気をつけてください」と同じセリフを使いますが、これも抜群に旨い。それに、何と言っても日替わりの「おすすめ丼」なんか1000円ですからね。

 あまり教えたくない店だったのですが、立派な「千秋」のホームページがあったので、皆さんも御自分で場所を見つけて行ってみれば、絶対に後悔しないと思いますよ。

 えっ?肝心の「おすすめ丼」の写真がない?

 まさか、撮れるわけないでしょう。「緊張丼」というぐらいですから、大将の目の前で写真なんか撮ったりしたら、どんなにどやされることやら…。できるわけないでしょう(笑)。

古代史の魅力を再発見=古墳巡りもライフワークになるかもしれません

 近年、戦国時代と江戸幕藩体制にハマっておりましたが、最近ではまた古代史への興味が復活してきました。”罪作り”なのが、週刊朝日ムック12号「古代史の謎を解き明かす!」です。考古学の最新の研究成果が反映されていて、私が中学高校時代に習った古代史とは「飛躍的」に違うので、「ああ おまえはなにをして来たのだ」と中原中也のように呟きたくなります。

 一番大きな成果は、断定してはいけませんが、奈良県桜井市で1971年から本格的な発掘調査が始まり、大宮殿の遺構などが発見された纏向(まきむく)遺跡でしょう。3世紀の弥生時代末期から6世紀の古墳時代前期にかけての遺跡で、ここを邪馬台国の拠点で、同遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墳墓だったとする学説もありますが、私自身は形勢不利の「邪馬台国=九州説」派なので、そうは取りません。でも、考古学者の間ではほぼ一致している、天皇家につながる大王(おおきみ)の都だったのではないかという説には与します。

 もし、大王の都だとしたら、第15代応神天皇(在位270~310年)か、その前の実在が実証されていない神功皇后(同201~269年)辺りから、第28代宣化天皇(535~539年)辺りが想定されますが、これはあくまでも素人の私の想定です。倭は古代から地方豪族の群雄割拠の時代だったので、纏向遺跡はこれら全国の首都のような王都だったという説もありますが、確かにその可能性の方が高いでしょう。同遺跡では、出雲や吉備で生産された土器なども多数見つかっているそうです。そもそも古墳の前方後円墳も、もともとは吉備から始まったという説があり、言ってみれば、この王宮も奈良県人だけではなかったということなのでしょう。考古学の権威・武光誠氏は「私は吉備から来た移住者が奈良盆地の纏向に王権を開いたと考えている」と書いているほどです。現代人が想像する以上に古代では、今の九州や関東甲信越、東北から大和に集まって来ていたのでしょうし、大陸や半島からの渡来人がかなり多かったとも言われてます。

 この大和の王権は、私の学生時代は「大和朝廷」と習っていましたが、今の教科書では「ヤマト王権」というのが大半だそうですね。奈良県桜井市に大王の都があったということはほぼ確実でしょう。他の本で読んだのですが、その大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになったのは、第40代天武天皇(在位673~686年)が初めてだと言われています。(他に諸説あり)それでも、天皇を漢字二文字の漢風謚号(かんぷうしごう)の呼称となったのは、それから100年後の8世紀後半で、淡海三船(おおみのみふね)という学者が一括して付けるまでなかったといいます。つまり、例えば第16代仁徳天皇は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、第21代雄略天皇は、大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていたわけです。8世紀後半といえば、奈良時代後半か平安遷都の頃です。そんな最近の(笑)時代まで天皇の漢風二文字の呼称がなかったとは全く知りませんでした。

 言わずもがなですが、縄文時代、弥生時代は、日本語があったかもしれませんが、文字はありませんでした。日本で文字が広まったのは、古墳時代の第15代応神天皇(在位270~310年)が百済王に対して、中国の学問に通じた漢文が使いこなせる学者の招聘を要請し、これに応じて王仁が来日して以来だと言われています。となると、文字がなかった縄文、弥生時代は、遺跡から発掘された土器や装飾品や祭祀品や武器などからその生活や精神性や風習を想像するしかありません。が、縄文土器や土偶などを見ても、彼らはかなり知的水準が高く、巧みな職人技を持ち、現代人と全く遜色ない精神性を持っていたことが伺われます。知識はなくても知能は高かったということです。(縄文人の脳の容量は現代人より多かったそうです。威張っている現代人は、ろくでもない下らない知識しか脳に詰め込んでいないのかもしれませんよ)

 先日、NHKテレビの「英雄たちの選択」という番組で、「古代人のこころを発掘せよ!」を特集しておりましたが、縄文人、弥生人、古墳の魅力を十分に伝えてくれました。特に、北九州にある古墳の玄室が実物大で復元している博物館があり、天井には星座が散りばめられ、壁面には三角や渦巻の抽象的な幾何学模様がぎっしり描かれていました。こうした煌びやかな不可思議な模様は近畿地方の古墳には見られず、九州だけだと番組では言っていましたが、天皇陵は学術調査さえ禁止されているので、もしかしたら、あのような模様が描かれた玄室が近畿でも発掘されるんじゃないかと私なんか思ってしまいました。

保渡田古墳群 Copyright par O,T

 私は関東地方に住んでいるので、番組に出てきた群馬県高崎市にある保渡田古墳群(5世紀後半から6世紀にかけて築造)に行ってみたくなりました。実に見事な前方後円墳です。UFOに乗った宇宙人が空から全景を見たら腰を抜かすかもしれません。そんなこんなで色々調べていたら、「古墳マップ」という素晴らしいサイトが見つかりました。どなたがお作りになったサイトか分かりませんが、精緻、詳細を極めて、全国の古墳をカバーしています。これで関東地方を検索してみたら、意外にも私の自宅近くと言えば近い距離に古代の古墳があるというので吃驚してしまいました。古墳といえば、九州と近畿が中心かと思ったら、関東にもかなり多くの古墳が点在しています。地方豪族社会だったという証明なのかもしれません。

 何しろ、全国には大小合わせて15万基もの古代古墳があると言われてますから、その多さに、これまた驚きです。お城(跡)やコンビニよりもあるんじゃないでしょうか?こうなったら、ライフワークの「全国城巡り」に、「全国古墳巡り」も趣味として加えようかなあ、と思った次第です。

【参照】

サイト:「歴代天皇データ

【追記】

 倉本一宏国際日本文化研究センター教授によると、ヤマト王権(継体天皇)に対抗し、新羅と結びついて磐井の乱を起こした筑紫磐井(今の福岡県八女市、久留米市などを支配し、岩戸山古墳が磐井の墓だと言われてます)は、若年期に上番(じょうばん)に就いた可能性が高いといいます。上番というのは、上京して当番勤務に就くことで、九州の八女市から奈良県にまで上京して、警護勤務か文書管理勤務か分かりませんが、何かの当番勤務に就いていたことになります。まるで江戸時代の参勤交代みたいじゃありませんか(笑)。古代のヤマト王権も、地方豪族を上京させて人身を管理したり、その勢力を削いだりしていたということなのでしょうね。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。

令和三年 明けましておめでとう御座います

令和三年 正月 初富士 Copyright par Duc de Matsuoqua

2021年、明けましておめでとう御座います。

この渓流斎ブログ、旧年中、皆さまにおかれましては御愛読賜りまして、洵に有難う御座いました。

 お正月は、下賀茂茶寮と姉上殿の御節料理の御相伴に預かりました。

 お酒は、九州の叔母からの差し入れの唐津の地酒「聚楽太閤 原酒生酒初しぼり」と、ナポレオンも愛したブルゴーニュ・ワインですが、10万円もするシャンベルタンではなく、ゼロが少ない市販のブルゴーニュ・ワイン。そして辛口の「久保田」の純米大吟醸です。

 寄る年波か、すっかり弱くなってしまい、全部は呑めませんでしたが…(笑)。

都心から見る初日の出 Copyright par Duc de Matsuoqua

本年も、恐らく、ブログを書き続けると思いますので、皆さまからの投稿、御意見、叱咤激励等宜しくお願い申し上げます。

 一刻も早い新型コロナの終息を願っています。

 今年こそは、東京五輪・パラリンピックは開催されるのでしょうか? 総選挙の年、政局はどうなるのか? コロナ禍で甚大な影響受けた世界経済、景気はどうなるのか?-ま、そんな辺りが今年の注目株でしょうが、私は相変わらず、お城巡りや寺社仏閣巡り(寺院は全国に7万5000カ寺、御住職は6万人いらっしゃるそうです)に勤しむことでしょう。無理強いながら、お付き合いの程を、隅から隅まで、ずずいっと、宜しくお願い申し上げます。

恐惶謹言

 令和三年 一月二日

 高田渓流斎